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2009年5月の2件の記事

2009年5月30日 (土)

金沢城石川門の鉛瓦とシダ植物ヘビノネゴザ(蛇の寝御座)、土壌とヘビノネゴザ組織内の鉛の分布状態、自然環境の鉛汚染と浄化、とは(2009.5.30)

 金沢城址は、明治時代に入り、兵営が設置され、第二次世界大戦後は進駐軍の管轄を経て、1949年(昭和24年)以来、新制金沢大学のキャンパスとして利用され、石川門大学の正門となっていました。大学は1994年(平成6年)9月に城内から約4kmの卯辰山丘陵、角間の地に移転しました。

 その後は、2001年(平成13年)9月に、二の丸の菱櫓および五十間長屋(ここの真向かいの二の丸御殿が歴代藩主の住まいであった)、橋爪門などが3年を経て復元されるなど、都市公園として整備され、金沢城公園として一般市民に開放されています。

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石川門の鉛瓦(金沢城、金沢、石川、2014年4月28日撮影) 

金沢城公園(築城の知恵、石川門の鉛瓦、石川県): http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/wisdom/page10.html.

 金沢城の石川門の屋根は美しい白色の鉛瓦葺きとなっていますが、特に大気汚染が進んだ1965年(昭和40年)の初めの頃から、大気汚染物質を含む酸性の雨水および降雪が、これらの屋根の鉛瓦を溶かし、その周辺の土壌が鉛で汚染されるようになってきました。今でも、石川門の裏側の櫓の周辺では、雨だれが落ちる赤戸室石の石垣や石段の表面は、溶けた鉛がへばりつき、黒ずんでいるのが見られます。

(解説) 鉛瓦から流れ落ちた雨水(pH4.65~5.80)のpHが低いほど多くの鉛が検出(5.90~14.83 ppm)され、鉛瓦が溶解していることが分かりました。また、石段上の表面では、一平方センチメートルあたり2.2~5mgの鉛量が検出されています。石川門の建造物の鉛瓦は、表面を樹脂加工するとか、鉛瓦の白色を生かした陶瓦に代えるとか、何らかの対策を施さない限り、今後も鉛瓦による環境汚染は続いてゆくものと思われる。

 そこでは、普通の植物は生育せず、鉛に耐性のある金山草の異名をもつシダ植物、ヘビノネゴザ(蛇の寝御座)の散生と群生が目につきます。この種は、その昔生野銀山などで山師が経験的に金属鉱床を探す指標植物としていました。

 石川県内では、小松の尾小屋、金平、遊泉寺、鶴来の中島、鳥越の阿手、羽咋の宝達などの旧鉱山とその周辺の河川流域、また白山登山道や野田山の加賀藩主前田家墓地参道周辺にもヘビノネゴザの散生と群生が見られます。この種はまた、金沢城内の鉛汚染土壌の指標植物として利用できることが確かめられています。

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ヘビノネゴザ(石川門、金沢城、2014年4月28日撮影)

(解説) 日本の800種のシダ植物のなかで、山師によって金山草と呼ばれていたのがヘビノネゴザで、山師の間では金属鉱床を探す指標植物として、古くから経験的に利用されていました和名は「蛇の寝御座」と書き、時に束になった葉の間でヘビがとぐろを巻いていることに由来しています。特徴は、山野の日陰や日当たりの良いところに生える夏緑性の多年草で、地上部分のの全てが4月ころに芽を出し、11月頃には枯れてしまいます。特徴として、葉の裏側にある葉脈の筋が大変美しいのが目印となります。

 また、金山草の名は、銅、鉛、亜鉛やカドミウムなどの重金属を含む鉱山地帯や、金屑捨て場に繁茂していることによるものです。学名はAthyrium yokoscense(Fr. et Sav)Christといい、本邦特産のオシダ科のシダ植物で、北海道より琉球(沖縄)まで、日本各地、特に昔から有名な佐渡、生野、石見、別子、足尾、日立、神岡などを含む旧金属鉱山地域や金属精錬所付近、外国では、ソ連東部、朝鮮、中国などにも分布しています。このとき、ヘビノネゴザは、それらの重金属を体内に好んで集積するのではなく、受動的に取り込み、外見上は正常に生育している場合が多いようです。

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ヘビノネゴザ(石川門、金沢城)

(解説)上図は、ヘビノネゴザの葉柄と葉身の鉛分布を詳細に調べた実物図(原子吸光法で定量)ですが、組織全体に多量の鉛(590~5100ppm)を集積していることが分かります。また、下図のヘビノネゴザの組織中の鉛(ロジゾン酸ナトリウムで赤色に染色)の含量は、一般に乾燥重量で、胞子(~81ppm)<胞子嚢(~740ppm)<葉身(~2080ppm)>葉柄(~1530ppm)<根茎(~2800ppm)<<根(~22400ppm)の順に増大し、特に根に多量の鉛が蓄積されていることが分かりました。この時、酸性雨による鉛瓦の熔解による雨だれからの葉身の表面汚染も確かめました。これらの結果から、このシダ組織中での無期栄養分の流れは、根→根茎→葉柄→葉身→胞子嚢→胞子と考えられるので、鉛は胞子嚢でかなりこし取られていると思われます。

 ヘビノネゴザは、葉身、葉柄ばかりでなく、特に栄養器官である地下部分の根茎と根に多量の鉛を集積していますが、好んで鉛を集積するのではなく、その生育土壌中に根に吸収可能な鉛の化学形(可給体鉛)として、塩基性炭酸鉛の鉛イオンを受動的に取り込んでいることが、確かめられています。

 土壌中の鉛の有毒な化学形としては、主に塩基性炭酸鉛(鉛白)と思われます。ヘビノネゴザは、この有毒な鉛を身体の中に取り込んだときには、その細胞壁に硫酸鉛、ヘミセルロース錯体などを生成して固定して無毒化し、自分の身を守っていると思われます。

 このシダ植物は、4月頃に芽を出し生長するのですが、冬場は枯れて葉を落とします。これらの枯れた葉の鉛は無毒な腐食酸(フミン酸、フルボ酸など)化合物となり、最後には無毒な酸化鉛となって土の成分なるものと思われます。このことは、ヘビノネコザが鉛を集積することで、周囲に鉛汚染が広がるのを防いでいる自然環境の浄化とも考えられます。

私は野田山の麓(ふもと)の近く、平和町(1丁目、3丁目)の公務員宿舎で、1972年(昭和47年)から2003年(平成15年)まで住んでいましたが、野田山墓地は徒歩5分ほどの所にあり、よく散策しました。そこには加賀藩前田家の歴代藩主の墓地があり、土饅頭(どまんじゅう)の墳墓の上に実生(みしょう)の松の大木が何本も生えていて、伐採されているものもありましたが、藩主が松の姿に変わったと思われる、異様な感じがしました。

 また、野田の町の入り口から前田墓地に至る参道の排水路の両脇には、シダ植物ヘビノネゴザ(蛇の寝御座) が群生あるいは散生しているのを見つけ驚きました。ここの墓地では、塩素系の除草剤を使って墓地の除草をしていましたが、ヘビノネゴザはすぐに芽を出し生育するので、一般の雑草とは異なり、除草剤に対する耐性があると思いました。

(参考文献) 植物第155図版: Pl. 155. へびのねこざ 異名 こいぬわらび、かなやましだ、Bull.Boiss III.668(1896); 三宅 驥一: へびのねござト鉱質トノ関係、植物学雑誌、129号、p.404-406(1897);  阪上正信、棚原朗: 可塑型LEPSによるIn-Situケイ光X線分析、低レベル放射能実験施設研究概要年次報告,p.7(1978.4-1979.3); 本浄高治、菅沼広美、里見信生: 金沢城内鉛瓦による汚染地域の植生、、植物地理・分類研究、27巻.p.70-73(1980); 中池敏之: 新日本植物誌シダ篇、至文堂(1982); 本浄高治、八田昭夫、谷口陽: 指標植物中の重金属の状態分ー金沢城鉛瓦による汚染地域に群落をなすシダ植物ヘビノネゴザの鉛の集積と耐性-、植物地理・分類研究、32巻.p.68-80(1984); 本浄高治: 重金属と植物ー汚染地の土壌改良者たち、週刊朝日百科、植物の世界(朝日新聞社)、119号、p.13-316ー13-318(1996).

(参考資料) ○ ヘビノネゴザ(金沢城、石川門、鉛瓦、北陸の植物、本多郁夫): http://w2222.nsk.ne.jp/~mizuaoi/65hebinonegoza.htm

○ 指標植物(しひょうしょくぶつ)

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(追加説明) ○ 酸性雨(acid rain)という言葉は、1872年(明治5年)イギリスにおいて、産業革命による工業化のエネエルギーとして石炭の使用により大気汚染を生じ、雨水が酸性になったことを説明するのに初めて用いられました。通常、酸性雨は、pH5.6以下の雨水のことで、その原因物質は、工場排煙や自動車排ガス中の硫黄や窒素酸化物が大気中で化学変化した硫酸や硝酸が主成分です。 本浄高治: 自然界レーダーⅠ 酸性雨、自然人、1号、p.30(1987).

 一方、毎年春になると、中国大陸(ゴビ砂漠、タクラマカン砂漠、黄土地域)から黄砂(こうさ)や酸性雨が季節風(寒冷な低気圧により発生した強い西風)に乗って運ばれてきます。特に春雨の後では、車や建物の表面が黄砂粒子で覆われ汚れが目立つようになります。この黄砂エアゾル(固体粒子や小粒の液滴が大気中に分散している状態)には炭酸カルシウムや酸化カルシウムが含まれていて、酸性雨を中和するので、雨水は比較的大きなpH(5.6~6.5)を示すことが確かめられています。平井英二: 自然界レーダーⅡ 黄砂、自然人、19号、p.36(1992).

○ シダと探鉱(指標生物 メモ②、大野正男、日本自然保護協会編、指標生物、自然をみるものさし、平凡社、1994)  今では新しい鉱山の発見などごくまれになってしまったが、 かっては、一獲千金を夢見た山師たちが、山野を跋渉して探鉱に余念がなかった。探鉱は地質学、地層学、鉱物学などの知識によるのがオーソドックスな方法であろうが、ここには、風変わりな生物学的方法を紹介することにしよう。

 シダ植物の1種にヘビノネゴザという種類がある。何の変てつもないシダであるが、この種類、その生育途上、地中から水といっしょに吸収した重金属を細胞内にやたらため込む性質をもっている。そこで、山野を歩きまわりながらこのヘビノネゴザを採集して帰る。帰ってからこの植物を分析にかける。特定金属の異常な数値が出たとしよう。それを採集した場所は有望な鉱山となる可能性があるというわけである。このようにうまくいけば、このヘビノネゴザ、まさに探鉱の際の指標生物として利用価値が高いということになろう。

 しかし一方では、このヘビノネゴザの重金属集積性を利用して鉛などによる環境汚染を調べた例もある。石川県金沢城の鉛瓦から溶出する鉛汚染の実態をヘビノネゴザによって調べた例などがそれである。探鉱だけでなく、重金属汚染調査の指標植物としても、このヘビノネゴザ、おおいに利用できそうである。詳しくは、本浄高治ほか「指標植物中の重金属の状態分析ー金沢城鉛瓦による汚染地域に群落をなすシダ植物ヘビノネゴザの鉛の集積と耐性について」、植物地理・分類研究、32(1)、68~80(1984); 石沢正一ほか「ヘビノネゴザの重金属含有量について」、米子医学会誌、31、349(1980)を参照。

○ 金沢城の鉛汚染地域(14ヶ所)、乾燥重量にして土壌中の鉛の総濃度は3000~57000ppm(通常レベルは~20ppm程度)で生育しているヘビノネゴザは、その生育土壌中の鉛汚染程度(特に鉛の可給態濃度590~29000ppm)に比例して、それらの葉身、葉柄、根茎と根、特に地下部分の根茎と根に多量の鉛(乾燥重量にして124~14667ppm)を蓄積していることを確認しました。

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ロジゾン酸ナトリウムによりヘビノネゴザの組織中の鉛を赤色に染色(ヘビノネゴザの根(上)と茎(葉柄、下)の横断面(左)と縦断面(右)の顕微鏡写真、約400倍)

(解説)上図は、ヘビノネゴザの根と茎(葉柄)の部分をハンドミクロトームで横断し、ロジゾン酸ナトリウムで組織中の鉛を赤色に染色した後、光学顕微鏡(約400倍)の写真に撮ったものです。この写真から、ヘビノネゴザの根の内部に皮層と中心柱(導管、師管)があり、皮層の細胞壁が赤く染まることから、ヘビノネゴザは根の皮層の細胞壁に多量の鉛を蓄積していることが分かります。また、根茎、葉柄、葉身の部分の横断切片、根の縦断切片では、中心柱(導管、師管)の細胞壁の部分が赤く染まることから、根茎、葉柄、葉身では中心柱の細胞壁に鉛の大部分が蓄積されていることが分かりました。

(追加参考資料) ヘビノネゴザ(google画像検索):http://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%98%E3%83%93%E3%83%8E%E3%83%8D%E3%82%B4%E3%82%B6&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&prmd=imvns&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=P7bpTsrbLcOKmQWIxbnrCQ&ved=0CEUQsAQ&biw=1024&bih=584

○ 質問

本浄先生

お忙しい所申し訳ありませんが教えて下さい。
私は石見銀山でガイドをしています。
銀山にはヘビノネゴザが間歩の前に生えていて、
お客様にその性質と山師などの話をしています。

インターネットで調べたところ、ヘビノネゴザは
本浄先生のHPでは、
日本は各地、外国ではソ連東部、朝鮮、中国などに
分布しているとあります。

「いるまのまるい3(メモ・記録)」というHPでは、
「カナダで焼いた灰1トンあたり4gの金が含まれていた
という報告があるという」と、記されています。
カナダでもヘビノネゴザは生育しているのでしょうか。

ボリビア、メキシコ、ヨーロッパではどうでしょうか。
お客様から聞かれて分からず、先生のHPにたどり着きました。
お忙しいとは存じますが、ご指導いただきますよう
どうぞよろしくお願い致します。

和上豊子
〒699-2301
 島根県大田市仁摩町仁万594-1
TEL/FAX  0854-88-4474
携帯電話 090-1688-0429
E-mail  wakami@ginzan-tv.ne.jp

 回答

和上豊子 様

石見銀山のガイドご苦労さまです。ご依頼の間歩の前に生えている
ヘビノネゴザの生育分布については、中池敏之:新日本植物誌シダ篇、
至文堂(1982)によると、分布は「北海道、本州、四国、九州。
-ソ連東部、朝鮮。中国。」となっています。

また、植物第155図版: Pl. 155. へびのねこざ 異名 
こいぬわらび、かなやましだ、Bull.Boiss III.668(1896)
によると「本邦特産にして、北海道より琉球(沖縄)に分布」と
説明されています。

このようなことから、カナダ、ボリビア、メキシコ、ヨーロッパなど
には、本邦特産のヘビノネゴザは生育していないと推測されます。

また、日本各地の金属鉱山で群生しているヘビノネゴザには、多量
の銅、亜鉛、鉛などの重金属、少量の銀などが取り込まれている
ことが確認されています。が、金については、そのような取り
込みの事実は全く認められませんでした。

ということで、カナダで焼いた灰1トンあたり4gの金が含まれてい
たという報告があるという、「いるまのまるい3(メモ・記録)」
というHPの報告は、文献が不明なので問題がありそうです。
                         本浄高治

(追伸)石見銀山と佐渡金山については、次のようなブログを紹介
させていただいています。

石見銀山(島根)と佐渡金銀山(新潟)にまつわる歴史伝承、ジパング
(黄金の国、東方見聞録)、銀の国(石見銀山、世界遺産)、道遊の割戸
(佐渡金山、相川、佐渡島)、とは(2010.10.14):http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/133.html
                            ご参考まで
 

金沢城の石川門と屋根の鉛瓦にまつわる歴史伝承、金沢城の歴史、逸話(利常と幕府、綱紀と幕府)の関係、とは(2009.5.30)

 兼六園の真向かいに見える金沢城の石川門は、城下町金沢のシンボルです。この石川門の白い薄い雪化粧を思わせる鉛瓦の屋根は、1665年(寛文5年)6月24日、金沢城の屋根の鉛瓦が文献(最も古い記録、国事雑抄、鉛瓦鋳造用の鉛を保管の町人より奉行に引き渡さしむ)に現れていることから、3代藩主前田利常(1594~1658)の頃から使用されていたと思われます。

Photo   

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石川門の鉛瓦(金沢城、金沢、石川、2014年4月28日撮影)

金沢城公園(築城の知恵、石川門の鉛瓦、石川県): http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/wisdom/page10.html.

(解説) 鉛瓦最初は灰黒色ですが、年を経るにつれて表面に鉛白(塩基性炭酸鉛)を生じて白くなり、見た目に美しい、まさにうっすらと雪をかぶった姿に見えます。これは、鉛の金属と空中の二酸化炭素と雨水の反応で生じるものです。石川門の屋根の軒下の鉛瓦の色をよく気をつけて見ますと、雨水の当たらないところは灰黒色の金属鉛のままであることが分かります。                                                               

 江戸城の天守閣も鉛瓦葺きであったことが、慶長見聞集に記録されています。それによりますと、「然者(しかれば)家康公興ぜられる江戸城の殿守(でんしゅ)は五重、鉛瓦(えんが)でふき給ふ、富士山にならび雲の嶺にそびえ、夏も雪かと見えて面白し」、と、「雪をかぶった富士山とならんで、もう一つ富士山が現れたような美しい景色」を伝えています。江戸城の5層の天守閣は、1657年(明暦3年)の大火で焼け落ちています。 

 現在の石川門は、もと三の丸の搦手門(からめてもん、裏門)、1788年(天明8年)に再建されたもので、1950年(昭和25年)国の重要文化財に指定されています。また、その鉛瓦は、1953年(昭和28年)から1959年(昭和34年)にかけて、解体修理の際に鋳直されたものです。なお、鉛瓦には少量の銅(0.06~0.08%)を添加し、強さや硬さ、耐酸性を高めてあるそうです。                  

 一説によれば、その昔加賀藩が、いざというときに備え、銃弾資材をこのような形で備蓄していたとか、鉛瓦の中に蓄財用の金銀が鋳込んであったとの言い伝えがありました

(解説) 加賀藩では1630年代(寛永年間)後半に越中(富山)から大量の鉛が貨幣鋳造のために加賀(金沢)に運び込まれています。とりわけ、飛騨の神岡鉱山の北、松倉、亀谷、長棟などの鉱山で鉛が多く産出されていました。                                                                                                                                                     金沢城は数多くの火災に見舞われています。1602年(慶長7年)から1859年(安政6年)までの凡そ255年間に、1602年(慶長7年)、1631年(寛永8年)、1759年(宝暦8年)、1808年(文化5年)の四大火災を含め56件の火災が記録されています。これらは、冬における落雷(雪おこし)、春先から初夏にかけてのフェーン現象火の不始末などに起因しています。

 近年の災害では、1881年(明治14年)1月金沢城内に駐屯していた陸軍歩兵第七連隊の失火で、石川門と三十間長屋を残して場内の建物すべてが焼失し、そのとき屋根の鉛が溶けて屋根から滝のように流れ落ち、建物内の品物を取り出すことが出来なかったといわれています。以上のことから、金沢城内の土壌と石垣の周辺は相当鉛で汚染されたと思います。

 金沢城の鉛瓦は、木材を瓦の形に作り(1枚の大きさは凡そ44~45cm×19~20cm)、その上に厚さ4.5~7.6mmの鉛板を銅釘で打ち付け、木の型に鉛板を押し当てて、木槌で叩いて作った加賀藩の梅鉢(うめばち)の家紋で飾った屋根瓦です。江戸時代に、建造物の全ての屋根に鉛をかぶせたのは加賀藩だけで、金沢城関係の諸建物と、かっては加賀藩が支配していた越中高岡の瑞龍寺(ずいりゅうじ、2代藩主前田利長(1562~1614)の菩提寺)にある仏殿ぐらいでした。 記録では、仏殿のために、鉛の御用があった最初は、1671年(寛文11年)5月の屋根葺き替え工事という。 瑞龍寺(ホームページ、高岡、富山): http://www.zuiryuji.jp/.                                                            

 どうして屋根に鉛を使うことを考えついたのでしょうか?古来多くの説があり、その理由として次の①~⑤のようなことが考えられています。①美観装飾、②凍害防止、③銃弾防御と銃弾資材の備蓄、④蓄財、⑤貨幣鋳造の過剰鉛の転用などです(金銀は鉛と容易に合金をつくりますが、鉛は昔から灰吹法による金銀の精練にも使われています)が、①と②はもっともな理由ですが、③、④となると、徳川幕府による加賀藩のお取りつぶしに備えたことが考えられます。

 ということで、①の説とか、1665年(寛文5年)3月13日、徳川幕府による金銀売買禁止に、また1667年(寛文7年)各藩の貨幣鋳造禁止により、鉛による金と銀の地金造り(灰吹法)が出来なくなったこと、丁度その頃の1665年(寛文5年)6月24日、金沢城の屋根の鉛瓦が文献(最も古い記録、国事雑抄、鉛瓦鋳造用の鉛を保管の町人より奉行に引き渡さしむの記事)に現れていることから、過剰の鉛を鉛瓦に転用した⑤の説最も可能性が大きいのではないかと思います。

(参考文献) 三浦浄心: 慶長見聞集 10巻 写本(1614、慶長19年); 鶴田久作: 雑史集、「慶長見聞集、10巻之1、江戸町瓦ぶきの事」、国民文庫刊行会(1912); 金沢大学金沢城学術調査委員会内「金沢城」編集委員編: 金沢城ーその自然と歴史-、山越(1967); 森栄松: 金沢城、北国出版社(1970); 平井聖: 屋根の歴史、p.154~159、鉛瓦葺、東洋経済新聞社(1973); 喜内敏編: 日本城郭史研究叢書 第五巻、「金沢城と前田氏領内の諸城」、p.145~222、金沢城の鉛瓦、名著出版(1985). 

(参考資料) ○ 金沢城と兼六園の歴史(石川県): http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/japanese/history.html

○ 金沢城(google画像検索):  http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E9%87%91%E6%B2%A2%E5%9F%8E&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

(追加説明) ○ 利常と幕府 

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前田利常(1594~1658、肖像画、那谷寺 所蔵、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E5%B8%B8

 前田家伝統の保身策として、利常は長子光高の夫人に3代将軍家光の養女(徳川頼房の娘大姫)を迎え入れています。その後も、利常は帰国せずにずっと江戸におり、鼻毛をのばしてアホ殿様のまねをしていたという話が伝えられています。なお、利常は、2代将軍秀忠の娘球姫を夫人として迎えています(政略結婚!)。

 3代藩主利常は、幕府対策のせいか、47歳の若さで1639年(寛永16年)、病気を理由に、長子光高に封を譲り、小松城隠居しました。そして、その機会に、次子利次、末子利治をそれぞれ富山藩・大聖寺藩に分封し、東西の支藩としました。(若林喜三郎監修: 石川県の歴史(2版)、p.127~128、利常と幕府、北国出版社(1972).)

○ 綱紀と幕府 

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前田綱紀(1643~1724、国史肖像大成、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E7%B6%B1%E7%B4%80

 第5代藩主前田綱紀(まえだつなのり、松雲公、1643~1724)は、3歳のとき父を亡くし、祖父利常の後見のもと藩主になりました。のち、祖父利常の保身幕府対策の手ほどきを受けたのか、第5代将軍綱吉の頃、江戸在府中は、一年中、鼻水をたらし、いつも袖口は鼻水で、てかてかと光っていたとか、鼻毛も長く伸ばし、口もポカンと開けたままであったとか、また、登城のとき玄関から大広敷まで抜身の刀を600m引きずり畳表を切ったなどアホ殿様のまねをしていたという話が伝えられています。(樋口清之: 逆・日本史(第8刷)、武士の時代編、江戸→戦国→鎌倉、p.161~164、なぜ、名君。前田綱紀は鼻水をたらしていたのか、祥伝社黄金文庫(2007).

(参考資料)

○ 金沢城石川門の鉛瓦とシダ植物ヘビノネゴザ(蛇の寝御座)、土壌とヘビノネゴザ組織内の鉛の分布状態、自然環境の鉛汚染と浄化、とは(2009.5.30): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-03f2.html

○ 石川(加賀、能登、金沢)県名の由来、県庁が一年足らず石川 郡の美川に移されたことによる、初代知事・県令は内田政風、とは(2012.11.8): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/294.html

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