碁の名手(本因坊算砂)と三天下人(信長、秀吉、家康)にまつわる歴史秘話、とは(2009.6.20)
囲碁は、古来、黒白(こくびゃく)、烏鷺(うろ)、方円(ほうえん)、手段(しゅだん)、坐隠(ざいん)、忘憂(ぼうゆう)、爛柯(らんか)、腐斧(ふふ)、橘中(きっちゅう)、清遊(楽)、聖(仏)技、小宇宙(異称)など、多くの呼び名があります。
また、囲碁は、盤上の真ん中を天元(てんげん)、四隅を星(ほし、布石)、空間を地(じ、確定陣地)と呼び、二人が361路の碁盤の上で、黒白の石の生死をかけ、知力を尽くして戦う、千変万化の宇宙(天、地、人)の真理の探求、知の創造ゲームとも言われています。
また、囲碁界の哲人、呉清源(ごせいげん、昭和囲碁界の最強棋士、95才、中国)9段によると、囲碁の由来は、易経から来ていて、陰(黒)と陽(白)の調和(共存共栄)が大切であり、勝ち負けは、調和が破れたときに自然に決まるもので、その場で最善を尽くせば、自然に結果もよくなる、とのことです。
本因坊算砂には、確実な史料が少ないため、多くの伝説があります。
初代本因坊 算砂像(さんさぞう、寂光寺蔵、京都、google画像)
本因坊算砂(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9B%A0%E5%9D%8A%E7%AE%97%E7%A0%82.
本因坊算砂(ほんいんぼうさんさ)は、1559年(永禄2年)京都で生まれ、囲碁と将棋の現在の体系を確立した高僧であり、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、京都から駿府、江戸、金沢へと活躍の舞台を移しています。
算砂は加納与助を父(舞楽宗家)とし、京都(長者町)に生まれました。父の弟(叔父)の学僧、日淵(にちえん)のもと、8才で出家し、本行院日海を名乗りました。師の日淵は、1578年(天正6年)に空中山寂光寺(法華宗、上京、出水室町)の開祖となっています。このとき、算砂は20才、本因坊の名は、算砂が寝起きしていた寂光寺の塔頭(たっちゅう、本寺の境内にある小さなわき寺)の名から取ったものです。算砂の碁の師匠は、堺(大阪)の仙也という老人で、京の都に出張したとき薫陶を受けたと言われています。
寂光寺(じゃっこうじ、東山仁王門、左京区、京都)
織田信長(ウィキペディア) :http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7.
(解説) 天下統一を目指す織田信長(1534~1582)は、上洛のとき、妙覚寺(三条棚衣)や本能寺(西洞院)など、法華の寺院で寝泊まりしていました。碁の名手、算砂の噂を耳にし、寂光寺が創立した頃、算砂(19才)を召し出して対局させ、その神技に驚嘆し、名人と呼んだことが伝えられています。
また、1582年(天正10年)6月、本能寺の変の前夜に、本因坊算砂と鹿島利玄は、信長の面前で対局、三劫(さんこう、三つの劫が永続、無勝負、後世の作り話とも)となり、以来、三劫の局は不吉の印(しるし)と伝えられています。
劫(こう)は、梵語(Kalpa)を和訳した仏教語で、碁では交互に相手の石1個を取り返すことができる形(劫を取られ方は、次の手で他の場所に打ってから、劫の石を取り返せます)です。算砂は、本能寺の変で無念の死を遂げた信長、信忠の親子の霊を弔い、法要を営みました。
1582年(天正10年)、山崎の合戦で明智光秀を滅ぼした羽柴秀吉は、1583年(天正11年)に柴田勝家を滅ぼし、その年の8月、算砂を召し出させ、今昔を語り合い、信長の非業の死を慨嘆しました。その翌日、算砂は、碁の技を秀吉に披露したと伝えられています。
1591年(天正19年)2月、秀吉により都の町割りが進められ、算砂は寺格が認められた寂光寺を再建しましたが、八つある塔頭(たっちゅう)の一つが本因坊(ほんいんぼう)と呼ばれていました。
算砂は師の日淵(本因坊日雄)の跡を継ぎ、寂光寺2世、本因坊算砂を名乗りました。その120年後、寂光寺は、京の都の大火で類焼、1708年(宝永5年)、東山に再建(3度目、左京、東山仁王門)され、現在に至っています。
秀吉もまた、碁を奨励し、算砂を厚くもてなしました。まだ、ろくに碁の打ち方も知らない秀吉が、本因坊が打っているのを見て。「わしだって碁は打てる。先をもてば恐らく本因坊に負けないだろう」と言ったので、対局したところ、秀吉は第一着手を天元に打ち、その後は真似碁(本因坊が打つ手の対象点に打つ)を続けたので、本因坊も打つ手がなくなり、投了したとの言い伝え(俗説とも)があります。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの後、1603年(慶長8年)2月、算砂は伏見城に参上し、家康に祝賀を述べ、囲碁の手ほどきをしました。そして、同年4月19日、家康から御所での、かの有名な天覧碁(上覧碁)を命じられています。
その後、碁所(ごどころ)に任じられた算砂は、54才、後年、家康より300石を与えられています。徳川幕府の録を受けた碁家として、本因坊、安井、井上、林の四家がありますが、なかでも、幕末までに8名の名人を輩出するなど、本因坊家は碁家の総本家となっていました。
1614年(慶長19年)大阪冬の陣、1615年(元和元年)大阪夏の陣による豊臣家滅亡の後、算砂は加賀藩、前田家の求めに応じて金沢に出向き、2年間過ごしています。加賀藩3代藩主、前田利常(まえだとしつね)の碁の指南役を務め、1617年(元和3年)、藩の寄進で本行寺(ほんぎょうじ、日蓮宗、金沢、本多)を創建した後、帰洛しています。
本因坊算砂は、激動する戦国の世を生き抜き、後世の碁界に多くの遺産を残して、1623年(元和9年)、65才の生涯を閉じました(示寂、法名日海上人)。初代本因坊の辞世の句は、「碁なりせば劫を打ちても活くべきに 死ぬるばかりは手もなかりけり」でした。
日本棋院(東京、千代田)は、2004年(平成16年)、創立80周年を記念して、囲碁殿堂資料館を開設しました。そのとき、徳川家康(囲碁を国技に高めた天下人、名古屋)、本因坊算砂(天下に仕えた近世囲碁史の開祖、京都)、本因坊道策(革新的碁法と制度改革を進めた碁聖、島根)、本因坊秀策(御城碁19連勝の偉業の達成、広島)の四名が殿堂入りし、かれらの囲碁文化の普及と発展の功績が称えられました。
(参考文献) 安藤如意(改補社者渡辺英夫): 坐隠談叢(新編増補、囲碁全史、新樹社(1955); 青木新平: 序 碁清源、碁石の微笑、六月社(1956); 堀田五番士: プロ棋士第一号、本因坊算砂物語、棋道12号(1986): 囲碁殿資料館ニュースレター「深奥幽玄」: 巻頭言 加藤正夫、囲碁殿堂資料館、日本棋院(2004).
(参考資料) 信長廟(google画像): http://www.oumi-castle.net/oda_yukari/nobunagabyou.html ;
阿弥陀寺(信長菩提寺、ウィキペディア): https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E5%AF%BA_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82%E4%B8%8A%E4%BA%AC%E5%8C%BA)
総見院(信長菩提寺、大徳寺):http://kyotoshunju.com/?temple=daitokuji-sokenin
1582年(天正10年)6月27日、織田信長の後継者問題、領地再配分を決める清洲会議(きよすかいぎ)がありました。また、この年の10月11日、秀吉は、京都の大徳寺において、17日間にわたる大がかりな信長の葬式を行いました。さらに、大徳寺の中に、総見院という寺を建て、信長と信忠の墓を設けました。柴田勝家はこの葬式には現れませんでした。
(追加説明) 〇 本因坊算砂の人物像、囲碁将棋界への技術的功績の再検証(古作登): http://ouc.daishodai.ac.jp/ams_labo/files/%5BPDF%EF%BC%9A562KB%5D.PDF
〇 太田牛一(1527~1623、信長公記、織田信長の一代記、ウィキペディア):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E9%95%B7%E5%85%AC%E8%A8%98.
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