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2009年6月22日 (月)

碁の名手(本因坊丈和)と阿波の賭碁師(四宮米藏)にまつわる歴史対局、本因坊家の菩提寺、寂光寺(京都)、本妙寺(東京)、本因坊戦(日本棋院)のはじまり、とは(2009.6.22)

 囲碁には、経験に基づく直感と論理的な思考力が必要、と言われてます。また、石の配置と変化には、幾何(図形)を応用して代数(計算)で割り出すとか、右脳(感性)の働きと左脳の働き(理性)のバランス、、特にプロ(玄人)はアマ(素人)に比べて、右脳の働きが強い、とも言われています。

 江戸時代、幕末も近い、200年を経た文化、文政(第11代将軍徳川家斉、とくがわいえなり)の頃になると、爛柯(らんか)とも呼ばれた囲碁も、庶民の間で自由に楽しまれるようになってきました。爛柯(らんか)は、樵(きこり)が、柯(おの)が朽ちて爛(ただれる)まで、時の経つのも忘れて仙人の碁を見ていた、という中国の伝説によるものです。

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爛柯らんか、囲碁絵はがき、日本棋院、市ヶ谷、千代田区、東京)

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本因坊丈和(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9B%A0%E5%9D%8A%E4%B8%88%E5%92%8C

 本因坊丈和(ほんいんぼうじょうわ)は、1787年(天明7年)、葛野(かどの)七右衛門の次男、生家は伊豆、長福寺(日蓮宗)近く、そこの住職に囲碁を教えられたと考えられています(不明な点多い)。1807年(文化4年)、20才のとき、諸州を遊歴し、1828年(文政11年)、41才のとき、12世本因坊の家督を継ぎ、1832年(天保3年)、45才のとき、名人碁所となっています。

 この頃、囲碁の歴史に名を残す、素人碁打ち、賭碁師(かけごし)、四宮米蔵(しのみやよねぞう)が、阿波(淡路島、上畑、蜂須賀領地)に登場しています。爛柯堂棋話(らんかどうきわ)には、「阿波の国に(四宮)米蔵と云う碁打ちあり。享和・文政のころ、諸国を遊歴して、賭碁(かけご)を渡世として下手どもを驚かしけり。江戸に出て、本因坊に入門し、二段の手相(てあい)を許される」とのこと、囲碁は、独学でしたが、生涯3000両稼いだと言われています。

 1820年(文政3年)11月、四宮の姓を賜り、第12代藩主蜂須賀斉昌(はちすかなりまさ)の供に加えられて江戸に出向き、本因坊(11世元丈)の道場を訪ね、跡目の丈和(後の12世本因坊)との二子局十番碁が実現しています。このとき、米蔵52才ですが、丈和は34才の打ち盛りでした。その結果、米蔵は三段を許され、のちもう一局打ち、四勝六敗一ジゴ(引き分け)で終わっています。その後、一生軒無案と号し、晩年は四段に進み、大阪に定住しています。

 1821年(文政4年)2月の第7局の対局について、米蔵いわく、「丈和は実に名人の器か。予かって二子置く時は天下に敵なしと信ぜしに、その七番目の碁、百十の手に二十一石を打ち抜き、すでに勝ちを占めたりと思いきや、丈和が百二十五を下すに及びて主格たちまち転倒し、遂に持碁(引き分け)に帰せり」、と伝えられています。

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囲碁名勝負物語(いごめいしょうぶものがたり、第7局 二子 四宮米蔵 ー 本因坊丈和)

(解説) 米蔵が「七番目の碁、百十の手に二十一石を打ち抜き、すでに勝ちを占めたりと思いきや」と言っているのは、右上隅で劫を解消、上図の黒石10の手で白の21石を取り切ったことを指しており、また、「丈和が百二十五を下すに及びて主格たちまち転倒し」と言っているのは、その後の丈和の着手、白11~25までの経過で、下辺の黒石10子が攻略されようとしています。

 関山仙太夫、1784年(天明4年)~1859年(安政6年)、信濃(長野)生まれ、五段格(七段格、素人日本一とも、晩年の本因坊秀策との二十番碁は有名)は、「米蔵は手の見えはなはだすぐれたり。一向に法を用いず、我流を打つ強五段の珍物なり」、とその実力を認めています。

 ところで、本因坊家の菩提寺の墓地、京都の寂光寺(じゃっこうじ、法華宗、左京、東山仁王門)には、初代算砂(さんさ)から第3世道悦(どうえつ)まで、また、東京の本妙寺(ほんみょうじ、法華宗、豊島、巣鴨再建、明暦の大火で本郷丸山は焼失)には、第4世道策(どうさく)から第21世秀哉(しゅうさい)までの本因坊が永遠の眠りについています。

 なお、東京の本妙寺(ほんみょうじ、法華宗、明暦の大火で本郷丸山は焼失、6年後に本堂を復興、のち豊島、巣鴨へ移転)には、第4世道策(どうさく)から第15世秀悦(しゅうえつ)までは本郷丸山本妙寺の墓地、第16世秀元(しゅうげん)から第21世秀哉(しゅうさい)まで巣鴨本妙寺の墓地において歴代本因坊が永遠の眠りについています。なお1910年(明治43年)本郷丸山本妙寺は豊島、巣鴨に移転しています。その頃、本郷丸山本妙寺の本因坊家の墓地も2,3年かけて巣鴨本妙寺に移されたと言われています。

 日本棋院は、1924年(大正13年)4月に創立され、秀哉名人は、300年伝承の本因坊の名称を日本棋院に提供することによって引退しました。その後、新たな実力棋戦、本因坊戦(毎日新聞社支援)が出来上がり、そのタイトル獲得者に本因坊名が与えられ、現在に至っています。

(参考文献) 安藤如意(改補社者渡辺英夫): 坐隠談叢(新編増補、囲碁全史、新樹社(1955); 安永一: 囲碁名勝負物語、時事通信社(1972); 林元美(林裕校注): 爛柯堂棋話 Ⅱー昔の碁打ちの物語-、平凡社(1978); 高木祥一(九段)-: 豪腕丈和、日本棋院(1991); 井口昭夫: 本因坊名勝負物語、三書房(1995). 

(参考資料) 本因坊家(google画像、丈和含む): http://www.hudong.com/wiki/%E6%9C%AC%E5%9B%A0%E5%9D%8A%E5%AE%B6.

本妙寺(ホームページ、ほんみょうじ、法華宗、巣鴨、豊島区、東京):http://www.honmyoji.org/

日本棋院(ホ-ムページ、市ヶ谷、千代田区、東京): http://www.nihonkiin.or.jp/.

(追加説明)

 明暦の大火

 明暦の大火(めいれきのたいか、振袖火事、丸山火事、丁酉火事とも)は、第4代将軍、徳川家綱(1641~1680)の時代、1657年(明暦3年)1月18日、江戸の本郷丸山本妙寺の失火から発し、翌日まで続いた大火。大名屋敷160、旗本屋敷770余、町屋は両町で400町が焼失し、10万人以上が死亡したという。この火災については、放火説もあるが、真偽は不明。(岩波日本史事典より) 

〇 本因坊丈和 出生地に碑 静岡・沼津  

「本因坊丈和 出生地に碑 静岡・沼津」の画像検索結果

朝日新聞デジタル(2018.1.25): https://www.asahi.com/articles/photo/AS20180125002714.html

 江戸時代後期、傑出した棋力で「碁聖」とうたわれた囲碁の12世本因坊丈和(じょうわ)の出生地が静岡県沼津市であることがわかり、地元の囲碁ファンらが現地に「出生の地」の碑を建てた。丈和の出生地は江戸説、武蔵説、信濃説など様々だったが、寺の過去帳などから沼津市西浦木負(きしょう)と判明。碑文「十二世本因坊丈和出生の地」を趙治勲名誉名人が揮毫(きごう)し、昨年12月10日に除幕式が行われた。(朝日新聞、2018.1.26)

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