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2009年6月 9日 (火)

加賀(金沢)の名菓の長生殿と主な原料の阿波(徳島)の和三盆にまつわる歴史伝承、砂糖、日本三大銘菓、和三盆の歴史、とは(2009.6.9)

 古来、人は、長生殿(ちょうせいでん)(石川、金沢、森八)、越乃雪(こしのゆき)(新潟、長岡、大和屋)、山川(やまかわ)(島根、松江、風流堂)を日本三名菓と呼んでいます。

 日本三名菓として、山川の代わりに鶏卵素麺(けいらんそうめん)(福岡、博多、松屋菓子舗、ポルトガル伝来の南蛮菓子、氷砂糖含む)、また越乃雪の代わりに木守(きもり)(香川、高松、三友堂、讃岐特産の和三盆含む)を挙げる人もいます。

 いずれの和菓子もサトウキビから得られた、無機質を豊富に富み、口にふくむと舌にとろけるような甘味、風味と香気を持つ阿波の和三盆(わさんぼん)(阿波和三盆糖、徳島)を主な原料とし、もち米や飴(あめ)などを混ぜて作った落雁(らくがん)と呼ばれ、渋みのある抹茶(まっちゃ)とよくあう高級な和菓子です。

 和三盆は、阿波の玄関口、撫養港(むやこう)(真向かいは土佐泊港、岡崎、鳴門)から北前船(弁財船、帆船)により、大阪経由の西回りで、各地のお菓子の産地に運ばれていました。人的交流も盛んとなり、撫養(鳴門)から嫁をもらった橋立(加賀)の北前船主の家では、阿波さまは黒砂糖を料理に多く使うので、村人が驚いたとのことです。

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長生殿森八、商品のご案内より、金沢) 森八(ホームページ、金沢): http://www.morihachi.co.jp/

(解説) 森八(もりはち)(金沢市尾張町、1625年(寛永2年)創業、江戸初期!)の長生殿は、阿波三盆糖(1790年(寛政2年)ころ、江戸中期製法確立! 初めは唐三盆使用か?)を主な原料とし、加賀もち米(一部に小麦粉、飴?)などを混ぜ、型に入れ干して作るもので、茶道では高級な落雁と呼ばれる和菓子です。

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前田利常第3代加賀藩主、肖像画、那谷寺 所蔵、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E5%B8%B8

 加賀百万石三代藩主 前田利常(1593~1658)の創意により、唐墨に似た長方形に作り上げ、茶道遠州流の始祖、小堀遠州(1579~1647)の長生殿の三字の書が現在の型になっています。 

小堀遠州(大名、茶人、造園家)にまつわる歴史秘話、加賀3代藩主前田利常にあてた書状の発見、長生殿(日本3名菓、加賀)の命名と3字の筆跡、頼久寺(高梁市、岡山)の庭園、砂糖の道、とは(2011.3.14): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/166.html

長生殿(金沢和菓子の素材製法、いいね金沢、金沢市ホームページ): http://www4.city.kanazawa.lg.jp/17003/dentou/bunka/wagashi/index7.html

 また、長生殿は、山形から取り寄せた本紅で彩りを添え、伝統的な味と気品をかたくなに守っています。本紅は、エジプト原産のキク科の越年草である紅花(べにばな)から取り出します。その色素はカルタミンと呼ばれる天然の有機化合物(配糖体)です。

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阿波和三盆糖 岡田製糖所(引野、上板、徳島): http://www.wasanbon.co.jp/wasanbon

(解説) 和三盆は、サトウキビを絞り(汁液中の糖度は15~20%)、煮詰めて得られた褐色の糖(あくぬき、石灰で中和、不純物抜き、結晶化、白下糖)を麻布でくるみ、重しをかけ(酒屋の糟絞りの流用、押し槽)、さらにお盆の上で少量の水をかけながら手で押し、十分に練り回し、麻布にくるんで絞る(水による糖蜜と色素の抽出除去、研ぎ槽)と得られます。かってはこの作業が3回だったことから三盆糖の名が生まれました。

 和三盆の有機質には、フラクトオリゴ糖含量が多く、また無機質として、鉄、カルシウム、マグネシウム、ナトリウム、カリウム、リンなど12成分が確認されています。

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サトウキビ畑(引野、上板町、徳島) 上板町(ホームページ、徳島):http://www.townkamiita.jp/bunya/kanko-bunka/上板町(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%BF%E7%94%BA

(解説) 私の郷里、阿讃山麓の上板町(旧松島村)引野(ひきの、徳島)の丸山徳弥(まるやまとくや、山伏(玉泉)、修験者、熊野庄、俗称和田徳弥)が1776年(安永5年)に日向(宮崎県)の延岡からサトウキビをこっそり持ち帰り試植したのが和三盆の始まりで、製糖については、江戸中期、1793年(寛政5年)頃に粗糖(白下糖)、1798年(寛政10年)頃に三盆糖の製法を確立したと言われています。

 近年、阿波三盆糖は、黒糖系(糖蜜多く無定形)の日向産の砂糖とは異なるので、阿讃山脈を越えた讃岐(香川)のサトウキビの品種と讃岐三盆糖の製法が伝わったと考える方が史実に近いことが指摘されています。

和三盆(わさんぼん、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E4%B8%89%E7%9B%86.

 阿讃山麓の阿波(上板、土成など)、讃岐(三本松、白鳥、津田など)が甘蔗の適地として、またその適種についても薩摩(鹿児島)からのお遍路さんで、阿波の丸山徳弥はある修行僧、讃岐の向山周慶は関良介という薩摩人で四国遍路の途中急病になり助けてあげた人らより教えられ、入手したとも言われています。

 阿波と讃岐の三盆糖、その原料の白下糖(糖蜜少なく結晶化)の作り方も、非常によく似ています。讃岐和三盆創案(糖蜜と色素の除去操作で、押し船は酒の糟絞りの工夫、研ぎ船は手水で米を研ぐ要領)は、第5代高松藩主松平頼恭(まつだいらよりたか、1711~1771)の命による、池田玄丈、平賀源内、向山周慶(さきやましゅうけい)の調査、研究の継承により、第8代藩主松平頼儀(1775~1829)の時、1790年(寛政2年)頃、1803年(享和3年)?、阿波和三盆より早く製法を完成と言われています。松平頼恭(1711~1771、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E6%81%AD. 

その頃、阿波の徳島藩は、第11代藩主 蜂須賀治昭(1758~1814)の時代となっています。

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蜂須賀治昭(1758~1814、第11代徳島藩主、阿波、徳島)

  江戸の中期(1800年代)の頃は、阿波と讃岐は、四国遍路や借耕牛(かりこうし、讃岐の呼び名)、米取り牛(こめとりうし、阿波の呼び名)、砂糖締牛(さとうしめうし、讃岐、阿波の呼び名)の利用など、また婚姻関係(讃岐男に阿波女! とか)も多く、阿讃山脈の近くの街道、峠を通じての交流、往来が盛んに行われていました。  阿波街道詳説(三水会、琴平、香川):http://space.geocities.jp/mt9882axel/awakaidou.html

 現在も、徳島、香川では、和三盆の原料として、1600年(慶長5年)頃に中国から初めて琉球(奄美大島、沖縄)に導入されたシネンセ種(中国細茎種)、竹糖が用いられています。

  この間、1869年(明治2年)に沖縄でシネンセ種の中から読谷山(よみたんざん)品種が選抜され、琉球弧の栽培地域に普及を広げました。茎はやや細いが分けつが比較的に多く、株の再生も中庸です。黒糖原料としての美味しさと栄養性、機能性を兼ね備え、フラクトオリゴ糖含量が多いなどの長所を持っています。今も、香川、徳島では和三盆の原料として用いられています。

 また、幕末の頃の全国の砂糖(糖蜜多い黒砂糖、粗糖の白下糖、再製糖の三盆糖など含む)の生産量は、讃岐は6割、次いで阿波は2割ほど占め、量の讃岐、質の阿波! と言われました。

 阿波の砂糖は主に城下市中の問屋を通じて、撫養から大阪の砂糖問屋へ送り出されています。明治以後は、外国産砂糖の輸入に押されて衰退しましたが、今も和三盆だけは昔ながらの製法の伝統が頑なに守られ、高級和菓子の原料として用いられています。

 (参考文献) 伊藤恭子編: 「金沢の旅」、和菓子、日本交通公社出版事業局(1984); 児島光一: 和三盆糖・藍ー歴史と製法の概要-、教育出版センター(1989); 湯浅良幸(徳島史学会)編: 徳島の歴史散歩、山川出版会(1995); 香川県の歴史散歩編集委員会: 香川の歴史散歩、山川出版社(1996); 牧野隆信: 日本海の商船 北前船とそのふる里、北前船の里資料館、加賀市地域振興事業団(1999); (財)とくしま地域政策研究所編: 四国のいのちー吉野川辞典ー自然/歴史/文化ー、三好昭一郎、阿波和三盆糖、農文協(.1999); 伊藤汎(監修): 砂糖の文化誌ー日本人と砂糖-、八坂書房(2008).

(参考資料) ○ 和三盆(google画像検索): https://www.google.co.jp/search?q=%E5%92%8C%E4%B8%89%E7%9B%86&hl=ja&rlz=1T4GGNI_jaJP523JP523&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=aqZPUs-SN8uXkwWPtYDoBg&ved=0CDwQsAQ&biw=1366&bih=588&dpr=1

 全国菓子大博覧会(日本の地方博覧会の一つ、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E5%9B%BD%E8%8F%93%E5%AD%90%E5%A4%A7%E5%8D%9A%E8%A6%A7%E4%BC%9A. 

 1994年(平成6年)、第22回全国菓子大博覧会が金沢市の主催で、石川県西部緑地公園・石川県産業展示館で開催されるということで、さっそく足を運び日本全国の和菓子三昧にひたったことを覚えています。私の郷里(鍛冶屋原、上板、徳島)の瀬部製菓も、和三盆を使った和菓子を創作して参加された(?)ような気がします。

○ 阿波和三盆糖の里(引野、上板、徳島)、糖源公園(丸山徳弥碑)、高野池(溜池)、吉野川北岸用水、川瀨惣次郎(養蚕、農学博士)、旧制学校、父の囲碁、父母、ふるさとの家、砂糖の歴史(2010.4.22): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-c430.html

(追加説明) ○ 砂糖、日本三大銘菓、和三盆の歴史 

 古道の長崎街道は、長崎から佐賀、小倉へと続き、シュガーロードとも呼ばれている砂糖の道です。安土・桃山、江戸時代の頃、スペイン、ポルトガル、中国などから渡ってきた砂糖や南蛮菓子(コンペイトウなど)が、この街道を通して全国に広まりました。

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徳川吉宗像(徳川記念財団蔵、Google画像) 徳川吉宗(とくがわよしむね、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%90%89%E5%AE%97

 日本においてサトウキビの栽培がよりひろく広がったのは、18世紀のはじめ、将軍(8代)徳川吉宗(1684~1751)が強く奨励してからという。吉宗は各藩にサトウキビの苗を渡し、栽培の実験をさせました。その結果、今の四国、中国、近畿など各地方で、サトウキビが盛んに栽培されたという。

 これは、外国産(オランダの金平糖(コンペイトウ)、中国の唐三盆など)の長崎での輸入の砂糖が高価だったので、徳川吉宗の奨励策により、この種を日本各地に普及させたという。

 琉球の砂糖はほとんど黒糖でしたが、19世紀前半になると、今の香川県徳島県にあたる讃岐(さぬき)、阿波(あわ)などで、精白糖がつくられました。このような日本特有の精白糖を和白糖という。

 明治になって、外国産の砂糖が大量に流入すると、琉球を除いて、日本のサトウキビ栽培はほとんど対抗できず消滅していきました。が、和白糖のなかでも、とくに高級品であった讃岐阿波和三盆は、その後も珍重され、生き残ってきたという。(川北稔: 砂糖の世界史、p.151~153、日本の砂糖業、岩波書店(1999).より) 

○ 日本三大銘菓は高級落雁、干菓子という茶菓子ですが、越乃雪は長岡藩(越後)の第9代藩主・牧野忠精(まきのただきよ、1760~1831)のころ、山川は松江藩(出雲)の第7代藩主・松平治鄕(まつだいらはるさと、1751~1816)のころ、長生殿は加賀藩(金沢)の第3代藩主・前田利常(まえだとしつね、1594~1658)のころ特製の和三盆糖の菓子として藩主に贈られたと伝えられています。

 が、阿波あるいは讃岐の和三盆糖は、江戸中期、1790年(寛政2年)ころにサトウキビからつくられ、北前船により和菓子の産地に届けられていることから、長生殿については、加賀藩(金沢)の第11代藩主・前田治侑(まえだはるなが、1771~1802)のころから和三盆糖が用いられた(それ以前は、長崎を通して中国から輸入した白糖、唐三盆が用いられた?)と推測されます。

 また、銘菓の鶏卵索麺は、1673年(延宝元年)創業の松屋菓子舗、初代松屋利右衛門がポルトガル伝来の南蛮菓子を氷砂糖、卵黄から作り福岡(筑前)第3代藩主、黒田光之(1628~1707)に献上したものです。銘菓の木守は、1872年(明治5年)創業の三友堂、2代目大内松次が讃岐特産の和三盆を使って作った和菓子です。

○ 三盆(さんぼん、三盆白、さんぼんじろ、とも)は、広辞苑によれば、上等の砂糖。白砂糖をさらに精製脱色して純白の結晶形としたもの。和菓子に珍重される。初めは中国から輸入し(唐三盆)、江戸時代、享保(きょうほう、1716~1736)頃からわが国でもつくられました(和三盆)。

 また、小百科事典によれば、三盆白は、白砂糖をさらに精製して作った高級砂糖。江戸中期ごろから四国、讃岐、高松で藩営で、また、阿波、徳島でも作られ、中国からの輸入品を唐三盆というのに対し和三盆と呼ばれた。おもに高級和菓子に使用された。今日では遠心分離機などを使用して精製する。

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