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2009年6月の10件の記事

2009年6月26日 (金)

尾小屋銅山など金属鉱山の周辺に群生する低木、リョウブ(令部)、土壌とリョウブ組織内の重金属の分布状態、自然環境の重金属汚染と浄化(植物群落の遷移)、とは(2009.6.26)

  リョウブは、初夏(7~8月)の頃、木の枝先に集まった葉の中心から放射状に突き出た真っ白い数条の総状の花が咲いているのがよく見られます。また、葉は倒卵状の長楕円形で、縁に鋭い鋸葉があり、主脈は太くて表面は凹んでいます。

 その昔、リョウブは、若葉を湯がいて乾燥させ、米に混ぜて炊き、令法飯(りょうぶめし)として、またその新芽を穀物の粉と一緒に団子にして食べるなど、飢餓の救荒食料として重要なものでした。

 平安時代の初期から中期(律令国家の末期)にかけて、農民に対し、田畑の面積を基準として、一定量のリョウブの植栽及び葉の採取と貯蔵を命ずる官令が発しられ、こうした官令、すなわち令部(りょうぶ)が、そのままこの木の名前となったと言われています。

 ところで、リョウブは、旧金属鉱山など貧栄養の地域にも群生しているのがよく見られます。尾小屋銅山の周辺では、リョウブが生育している近くに、ウツギ、クズ、イタドリ、ヘビノネゴザ、ホンモンジゴケなどの共生、群落(群生)あるいは散生が見られました。

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尾小屋鉱山(鉱山の入り口、小松、石川) 尾小屋鉱山資料館(おごやこうざんしりょうかん、尾小屋、コマツ、石川): http://www.city.komatsu.lg.jp/shomu/s_ogoya.html.

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リョウブ(尾小屋鉱山、小松、石川、 リョウブの成木、 リョウブの幼木)

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尾小屋鉱山のリョウブの幼木と成木の組織(葉、幹、根、樹皮)中の重金属(銅、鉛、亜鉛)含量

(解説) リョウブの異名は、サルナメシですが、それは樹皮がサルスベリに似ていることに由来し、各地でスルスベリとも呼ばれ、その樹皮が薄片となって剥がれ落ちる性質があります。

 尾小屋鉱山のリョウブの幼木では、銅は根からのみ、鉛は根と幹からその大部分が検出され、葉からはほとんど検出されませんでした。一方、亜鉛は根、幹ばかりでなく葉からも多く検出されました。

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1-(2-ピリジルアゾ)2ナフトールでリョウブの組織(幼木の根の横断面)中の亜鉛を赤色に染色(尾小屋鉱山のリョウブの幼木の根の亜鉛分布)

(解説) リョウブの幼木の根をミクロトームで横断した切片を1-(2-ピリジルアゾ)2ナフトールで染色したところ、表皮が赤色に染色されることから、亜鉛が主に表皮に分布していることが確認できました。

 また、リョウブの成木では、樹皮と葉に銅、亜鉛、鉛が検出されましたが、特に多量の亜鉛が樹皮ばかりでなく葉にも多く分布し、樹皮や葉を落とすことによって組織中に蓄積された重金属を体外に除去している姿が見られました。

 足尾鉱山の周辺の山は麓からヘビノネゴザの大群落で覆われ、山奥に行くにつれてススキ、イタドリ、クズやササ、そしてウツギやリョウブの林へと続いていました。四国の銅山、別子鉱山(愛媛)、白滝鉱山(高知)においても、よく似た植生が観察されています。

 また、足尾銅山で生育していた、ヘビノネゴザ、イタドリ、バッコウヤナギ、ヨモギ、ノガリヤス、リョウブなどの植物は、いずれも体内(組織中)でメタロチオネイン(細胞質に取り込まれた重金属と結合、無毒化)を作る種類ばかりでした。このことは、重金属で汚染された土壌で生育可能な植物種は、このような特殊な蛋白質を合成できる種類(この特性は、遺伝子配列の変化で獲得、後天的)に限られると考えられます。 

 この重金属耐性の獲得の謎の解明は今後の課題です。というのも、重金属で汚染されていない地域で生育した同じ種の植物を汚染地に移植しても、全てが生育するわけでもなく、枯死するものも多く、また重金属の取り込みも必ずしも多くないからです。

 リョウブの特性として、1958年(昭和33年)、山形登氏らは、日野上鉱山(鳥取、日南)において、リョウブの葉にコバルトが特異的に集積していることを確認しています。また、1991年(平成3年)、岡本研作氏(国立公害研究所、のち国立環境研究所)は、足尾銅山(栃木、足尾)に群生していたリョウブの葉を採取して、重金属(銅、鉛、亜鉛、カドミウム、コバルト、マンガン、ニッケル、鉄など)を含む植物(重金属蓄積植物)の環境標準試料としての利用を紹介しています。

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一般的な植物群落の遷移(自然環境の回復、図表、浜島書店)

(解説) 一般的な植物群落の遷移においては、例えば、金属鉱山での鉱石の採掘と製錬、山火事や伐採などで樹木を失った土地には、先駆植物として地衣類やコケ植物(ホンモンジゴケ、キヘチマゴケなど)が一面に繁茂し、枯死により土地が肥えると、シダ植物(ヘビノネゴザ、スギナ)などの時代に移ります。さらに土地が肥えると、草本類(一年生の草のイタドリ、ススキ、クズや多年生の草であるササなど)のソデ群落に移ります。さらに土地が肥えると、灌木(低木類の陽樹であるリョウブ、ウツギ、アカマツなど)のマント群落に移ります。その日陰に高木の陰樹であるアラカシ、モミ、ブナなどが生え、陰樹が生長して陽樹を追いやり、それぞれの段階で数十年から数百年を経て遷移が進み、最後に植物相が安定した極相林(きょくそうりん、クライマックス)、いわゆる鎮守の森となります。

 特に先駆植物(地衣類やコケ植物)から低木類(リョウブ、ウツギなど)までの植物種の遷移(移り変わり)期間が、自然環境における土壌重金属の汚染と回復につながりが深いと考えられます

(参考資料) 日本三大銅山(足尾、小阪、別子、新聞記事文庫、神戸大附属図書館): http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00064252&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA; 別子銅山のあゆみ(愛媛): http://www.city.niihama.lg.jp/unyu/kankou/besshidouzan/ayumi.htm.

白滝鉱山歴史(銅山、高知): http://www.yamajikaze.net/akaishi/history/shirataki.htm; 日鉱白滝鉱山: http://www10.tok2.com/home2/kurodaiya/No.3/sirataki/sirtaki.html; 白滝鉱山見学http://yosuzume2.web.infoseek.co.jp/kouzan/shirataki/shirataki_01.html

(参考文献) 山中二男: 銅山(別子鉱山、白滝鉱山)地帯の植生(予報)、植物分類地理、15巻、p.199-200(1954); 山形登、村田貞雄、公衆衛生院研究報告(英文)、13巻3号、p.170-175(1964); 岡本研作: 国立環境研究所ニュース、10巻1号(1991); 浜島書店編集部: 増補最新図表生物、浜島書店(1995): 本浄高治: 重金属と植物ー汚染地の土壌改良者たち、週刊朝日百科、植物の世界(朝日新聞社)、119号、p.13-316ー13-318(1996); 鈴木静夫: 水の環境科学、大気の環境科学、内田老鶴圃(1993); 本浄高治: 重金属と指標植物ー自然環境の回復-、日本海域研究所報告(金沢大学)、30号、p.171-193(1999).

(追加説明) 尾小屋(おごや)における銅鉱脈は、1678年(延宝6年)、加賀5代藩主前田綱紀(まえだつなのり)の頃発見されたと言われています。産銅価格の低迷と鉱害(梯川流域のカドミウム汚染)がもとで、1971年(昭和46年)12月閉山やむなきに至り、約300年の歴史に幕を閉じています。近くの石川県立尾小屋鉱山資料館(小松)では、尾小屋鉱山に関する鉱石類、鉱山用具、採掘から精練に至る工程などの展示と坑内採掘の歴史が見られます。また、この鉱山の坑内巡りで当時の仕事の様子も見学できます。

2009年6月25日 (木)

生野銀山など金属鉱山の周辺に群生するシダ植物、ヘビノネゴザ(蛇の寝御座)、土壌とヘビノネゴザ組織内の重金属の分布状態、自然環境の重金属汚染と浄化、とは(2009.6.25)

  日本には、約800種のシダ植物が生育していると言われていますが、その中に、生野銀山(いくのぎんざん)などで、古くから山師連中により、金山草(かなやまそう、かなやましだ、かなけぐさ、コイヌワラビ)と呼ばれていたシダ植物、ヘビノネゴザ(学名は、Athyrium yokoscense(Fr. et Sav.)Christ 、和名は蛇の寝御座)があり、経験的に金属鉱床を探す指標植物(しひょうしょくぶつ)として利用されていました。

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生野銀山ヘビノネゴザの群落、生野、兵庫) 

(解説) 1897年(明治30年)、三宅驥一(みやけきいち)氏は、生野銀山の「へびのねござト鑛質トノ關係」の報文の中で、

「余本年夏期休業ニ際シ帰国セントスルヤ牧野氏余ニ託シテ曰ク、君ガ國ハ但馬ナレバ帰郷ノ途次必ズ生野銀山過クベシ彼ノ地ニ一種の羊歯Pteris in cisa, Thunb. かなやましだ(一名ゆのみねしだ)ナルモノアリ銀山ノ鉱石ノ出ル個所ニハ必ズ生ズレバ坑夫ハ此草ノ生ズル所ニハ鉱石在リト信シイルト聞ク君乞フ此ヲ採取シテ持帰レト」と、

植物学者、牧野富太郎(まきのとみたろう)氏から、かなやましだ採取の依頼を受けています。

三宅驥一(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AE%85%E9%A9%A5%E4%B8%80

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牧野富太郎(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E5%AF%8C%E5%A4%AA%E9%83%8E高知県立牧野植物園(ホームページ): http://www.makino.or.jp/.

 三宅氏は、旅宿の主人、畑を耕す農夫、坑夫にも、かなやましだが生育している場所を聞き、生野銀山の周辺を調べたところ、かなやましだは、残念ながら、特別なシダではなく、自分が先年この地で採取していた、へびのねござ( Asplenium yokoscense Fr. et Sav.)であることを確認し、「へびのねござト鉱質ト密ノ関係アルコト」と、簡単に報告しています。 

 ヘビノネゴザ金山草(かなやまそう)という異名は、金、銀、銅、鉛、亜鉛やカドミウムなどの重金属を含む鉱山地帯、金属精錬所周辺、金くず捨て場によく繁茂していることによるものです。和名蛇の寝御座は、地面から四方八方に葉を出し、目の細かさが何となく茣蓙(ござ)のように見え、蛇が敷いて寝るのに丁度よいという連想から名付けられたと言われています。

 また、ヘビノネゴザには、奇妙な伝説があり、ヘビノネゴザの生えている地下には、金の鉱脈があると言われています。昔から蛇はお金に御縁があると思われて生まれた黄金伝説です。私は、山のヘビノネゴザの葉の上に、蛇の抜けがらがあるのを見かけたことがあります。蛇の抜けがらに水を入れても漏れず、水が貯まることから、いつのまにか水がお金に換わって、お金が貯まるとの伝説になったようです。

 ヘビノネゴザは、その生育土壌中の重金属(可吸態、取り込み可能な化学形)の量の程度に比例して、体内(組織中)の根に多量の鉛、銅、亜鉛を蓄積し、特に生野、神岡鉱山では鉛、亜鉛、銅、佐渡金山では鉛、銅、亜鉛、別子、足尾銅山では銅、亜鉛、尾小屋、日立鉱山では亜鉛、銅の蓄積が著しいことが分かりました。これらのヘビノネゴザは、銅と鉛は主として根に、亜鉛は根から葉まで全身に、カドミウムは主として葉に取り込まれていることが分かりました

 最近、北川隆康氏は、多田銀山(兵庫)におけるヘビノネゴザの重金属分析をされ、ヘビノネゴザが、鉛、銅、亜鉛などの重金属のほか(乾燥重量、百万分率、10ppm程度)を取り込んでいることを、はじめて確認されました。また、このシダ植物は、銀を根から葉まで全身に取り込んでいることを明らかにしています多田銀銅山(猪名川町、川辺、兵庫): http://www.town.inagawa.hyogo.jp/dept/06200/d000622.html.

 足尾銅山ヘビノネゴザには、根の細胞壁に90%(2899ppm)の銅(ペクチン酸錯体)を、また、細胞質に10%(325ppm)の銅(メタロチオネイン錯体)が取り込まれていることが報告されています。 すなわち、ヘビノネゴザは、細胞壁の中に有毒な銅を閉じ込め、その毒性を軽減していると考えられます。また、生命の根源である細胞質に入っている銅は、ヘビノネゴザがメタロチオネインと呼ばれる蛋白質を作り、これが銅と結合して複核錯体の形で存在し、細胞液中に溶け出さないので、これが細胞液中の銅を無害にしてくれていると考えられています。 

 鉱山地帯では、ヘビノネゴザの群落状態は、金属鉱脈がどの方向に走っているかの目印にもなります。また、このシダは、4月頃に芽を出し11月頃には地上部の全てが枯れてしまう夏緑性のシダ植物ですが、土壌中の重金属は、その量(可吸態、根に取り込み得る化学形)に応じて、すき好むものではなく、受動的に体内に取り込みながら、繁茂と枯死を繰り返し、枯死してできた腐植酸は有毒な重金属を包み、無毒化し、重金属の周辺への拡散を防ぎながら、自然を回復させている姿にも見えます。 

(参考文献) 三宅 驥一: へびのねござト鉱質トノ関係、植物学雑誌、129号、p.404-406(1897); 雪国の植物誌、八坂書房、p.198(1990); 本浄高治: ぶんせき(日本分析化学会)、指標植物中の重金属のキャラクタリゼーションー重金属の集積に耐性のある植物についてー、p.213(1990); 鈴木静夫: 水の環境科学、大気の環境科学、内田老鶴圃(1993); 本浄高治: 重金属と指標植物ー自然環境の回復-、日本海域研究所報告(金沢大学)、30巻、p.171(1999); 北川隆康: 兵庫県多田銀山におけるヘビノネゴザの重金属分析、植物地理・分類研究、第53巻、p.161(2005). 

(参考資料) 生野銀山(いくのぎんざん、シルバー生野、生野、兵庫):http://www.ikuno-ginzan.co.jp/about/about01.html.

(追加説明) 

〇 シダと探鉱(指標生物 メモ②、大野正男、日本自然保護協会編、指標生物、自然をみるものさし、平凡社、1994)  

 今では新しい鉱山の発見などごくまれになってしまったが、 かっては、一獲千金を夢見た山師たちが、山野を跋渉して探鉱に余念がなかった。探鉱は地質学、地層学、鉱物学などの知識によるのがオーソドックスな方法であろうが、ここには、風変わりな生物学的方法を紹介することにしよう。

 シダ植物の1種にヘビノネゴザという種類がある。何の変てつもないシダであるが、この種類、その生育途上、地中から水といっしょに吸収した重金属を細胞内にやたらため込む性質をもっている。そこで、山野を歩きまわりながらこのヘビノネゴザを採集して帰る。帰ってからこの植物を分析にかける。特定金属の異常な数値が出たとしよう。それを採集した場所は有望な鉱山となる可能性があるというわけである。このようにうまくいけば、このヘビノネゴザ、まさに探鉱の際の指標生物として利用価値が高いということになろう。

 しかし一方では、このヘビノネゴザの重金属集積性を利用して鉛などによる環境汚染を調べた例もある。石川県金沢城の鉛瓦から溶出する鉛汚染の実態をヘビノネゴザによって調べた例などがそれである。探鉱だけでなく、重金属汚染調査の指標植物としても、このヘビノネゴザ、おおいに利用できそうである。詳しくは、本浄高治ほか「指標植物中の重金属の状態分析ー金沢城鉛瓦による汚染地域に群落をなすシダ植物ヘビノネゴザの鉛の集積と耐性について」、植物地理・分類研究、32(1)、68~80(1984); 石沢正一ほか「ヘビノネゴザの重金属含有量について」、米子医学会誌、31、349(1980)を参照。

〇 明治政府の「お雇い外国人第1号」

 生野鉱山(兵庫県朝来(あさご)市生野町)の近代化の礎を築いたフランス鉱山技師、Coignet(1837~1903)が来日して、2017年(平成29年)で150年。

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フランス鉱山技師、Coignet(コワニェ、1837~1903)

 明治政府の「お雇い外国人第一号」として地元では有名だが、実は名前の読み方が定まっていない。朝来市では「コワニェ」に統一するよう呼び掛けている。(2017年8月2日(水)北陸中日新聞より)

2009年6月24日 (水)

神社仏閣の銅葺き屋根や銅像の周辺に群生するコケ植物、ホンモンジゴケ(本門寺苔)、自然環境の銅汚染と浄化、とは(2009.6.24)

 欧米では、銅像の近くや大聖堂の銅葺き屋根の下に、特異的に群生することから、銅ゴケ(Copper Moss、センボンゴケ科、学名はScopelophila cataractae(Mitt.)Bross)と呼ばれるコケ植物がよく知られています。

 日本には、約1500種のコケ植物が生育していると言われていますが、その中に銅像や銅葺き屋根の神社や仏閣付近の土壌の銅汚染地域、別子、足尾のほか各地の銅鉱山などに、濃緑色の群落をなして特異的に生育しているホンモンジゴケがよく見られます。これらは、野口彰氏(熊本大学)の世界的な比較研究より、欧米の銅ゴケと同じ種であることが確認されています。

 日本における銅ゴケについては、1910年(明治43年)、桜井久一氏が、東京都大田(台東)区の日蓮宗大本山の一つである池上本門寺(いけがみほんもんじ)の境内で初めて発見し、1934年(昭和9年)に新種として、ホンモンジゴケの和名(センボンゴケ科、学名はMerceyopsis tokioensis  Reim.et Sak)を与え、東京植物学雑誌に発表しました。

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池上本門寺五重塔、東京、ホンモンジゴケ、濃緑色、五重塔下の石段の壁) 本門寺(ホームページ、池上、大田区、東京): http://honmonji.jp/01what/01yurai/yurai.html. 五重塔心柱の不思議);http://pagoda.sakuraweb.com/pago11.htm

(解説) 神社、仏閣の銅葺き屋根や銅像(赤銅色の金属銅が錆びて、緑青、塩基性炭酸銅を生じたもの)は、酸性雨(pH<5.6の雨)により溶解し、周辺の土壌が銅で汚染されています。そこの土の中には多量の銅があり、有毒なので、普通のコケは全く生えませんが、ホンモンジゴケは、どうゆうわけか群落をなし、異常な植生を示します。

 このコケは、特別に銅をすき好むとか、必要とするのではなく、多量の銅があっても順応し、生育できる耐性を持っていると考えられています。ある場合には、組織中に乾燥重量にして1~2%にも達する銅を集積しており、普通の植物に含まれてる銅の量が10ppm(百万分率)程度なので、その1000~2000倍もの高い値です。

 このコケの体内(組織中)では、銅は主として細胞壁周辺に表皮側に行くほど多く分布していました。また、佐竹研一氏より、細胞壁内の銅の化学形として、銅が無機化合物(硫化物など)として存在するよりも、有機物として結合(メタロチオネイン錯体、ペクチン錯体など)して分布している可能性が高いことが、示唆されています。

 ところで、兼六園の近くの石浦神社の社務所の銅葺き屋根を、酸性の雨水や降雪が溶かし、銅による土壌汚染が起きています。銅葺き屋根(緑青)から落ちてくる雨水を調べたところ、pH4.7~pH4.9で、検出された銅は、雨水の酸性が強いと多く、0.3~55.3ppmでした。

 土壌の中の銅の量が少なくなると、ホンモンジゴケのすぐ隣に、キヘチマゴケ(カサゴケ科、学名はPohlia bulbifera)の群生が見られ、銅の汚染の程度に応じた生育分布をしていることが分かりました。

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石浦神社社務所、金沢、 ホンモンジゴケ、濃緑色)、 キヘチマゴケ、黄緑色) 石浦神社(きまっし金沢、本多町、金沢): http://kimassi.net/ishiura/ishiurajinja.html.

(解説) 銅ゴケホンモンジゴケ、キヘチマゴケなど)は、土の中の有毒な銅(緑青、イオン形、可溶)を組織中に取り込み、無毒な銅(メタロチオネイン錯体、ペクチン錯体、硫化物など、不溶)として蓄積して、枯れて土に帰り(無毒な腐食酸化合物、酸化銅、硫化銅などに変化、不溶)、また、胞子が飛んで芽を出し、生育することを繰り返し、周辺に銅の汚染が拡がるのを防いでいる、自然界における銅汚染の浄化の姿にも見えます。

(参考文献) 野口彰: 日本蘚類学略史、博物学会誌、2巻、p.13(1934); 桜井久一: 日本の蘚類、247,岩波書店(1954); 佐竹研一: 重金属に強い不思議なコケー環境汚染の指標植物として注目ー、科学朝日、49巻、p.55(1989); 織田樹郎、本浄高治: 重金属汚染地域の金属耐性コケ植物ータチゴケ、ホンモンジゴケ及びキヘチマゴケにおける銅、鉛及び亜鉛のキャラクタリゼーション-(英文)、植物地理・分類研究、43巻、p.91(1995); 本浄高治: 重金属と指標植物ー自然環境の回復-、日本海域研究所報告、30号、p.171(1999).

2009年6月22日 (月)

碁の名手(本因坊丈和)と阿波の賭碁師(四宮米藏)にまつわる歴史対局、本因坊家の菩提寺、寂光寺(京都)、本妙寺(東京)、本因坊戦(日本棋院)のはじまり、とは(2009.6.22)

 囲碁には、経験に基づく直感と論理的な思考力が必要、と言われてます。また、石の配置と変化には、幾何(図形)を応用して代数(計算)で割り出すとか、右脳(感性)の働きと左脳の働き(理性)のバランス、、特にプロ(玄人)はアマ(素人)に比べて、右脳の働きが強い、とも言われています。

 江戸時代、幕末も近い、200年を経た文化、文政(第11代将軍徳川家斉、とくがわいえなり)の頃になると、爛柯(らんか)とも呼ばれた囲碁も、庶民の間で自由に楽しまれるようになってきました。爛柯(らんか)は、樵(きこり)が、柯(おの)が朽ちて爛(ただれる)まで、時の経つのも忘れて仙人の碁を見ていた、という中国の伝説によるものです。

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爛柯らんか、囲碁絵はがき、日本棋院、市ヶ谷、千代田区、東京)

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本因坊丈和(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9B%A0%E5%9D%8A%E4%B8%88%E5%92%8C

 本因坊丈和(ほんいんぼうじょうわ)は、1787年(天明7年)、葛野(かどの)七右衛門の次男、生家は伊豆、長福寺(日蓮宗)近く、そこの住職に囲碁を教えられたと考えられています(不明な点多い)。1807年(文化4年)、20才のとき、諸州を遊歴し、1828年(文政11年)、41才のとき、12世本因坊の家督を継ぎ、1832年(天保3年)、45才のとき、名人碁所となっています。

 この頃、囲碁の歴史に名を残す、素人碁打ち、賭碁師(かけごし)、四宮米蔵(しのみやよねぞう)が、阿波(淡路島、上畑、蜂須賀領地)に登場しています。爛柯堂棋話(らんかどうきわ)には、「阿波の国に(四宮)米蔵と云う碁打ちあり。享和・文政のころ、諸国を遊歴して、賭碁(かけご)を渡世として下手どもを驚かしけり。江戸に出て、本因坊に入門し、二段の手相(てあい)を許される」とのこと、囲碁は、独学でしたが、生涯3000両稼いだと言われています。

 1820年(文政3年)11月、四宮の姓を賜り、第12代藩主蜂須賀斉昌(はちすかなりまさ)の供に加えられて江戸に出向き、本因坊(11世元丈)の道場を訪ね、跡目の丈和(後の12世本因坊)との二子局十番碁が実現しています。このとき、米蔵52才ですが、丈和は34才の打ち盛りでした。その結果、米蔵は三段を許され、のちもう一局打ち、四勝六敗一ジゴ(引き分け)で終わっています。その後、一生軒無案と号し、晩年は四段に進み、大阪に定住しています。

 1821年(文政4年)2月の第7局の対局について、米蔵いわく、「丈和は実に名人の器か。予かって二子置く時は天下に敵なしと信ぜしに、その七番目の碁、百十の手に二十一石を打ち抜き、すでに勝ちを占めたりと思いきや、丈和が百二十五を下すに及びて主格たちまち転倒し、遂に持碁(引き分け)に帰せり」、と伝えられています。

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囲碁名勝負物語(いごめいしょうぶものがたり、第7局 二子 四宮米蔵 ー 本因坊丈和)

(解説) 米蔵が「七番目の碁、百十の手に二十一石を打ち抜き、すでに勝ちを占めたりと思いきや」と言っているのは、右上隅で劫を解消、上図の黒石10の手で白の21石を取り切ったことを指しており、また、「丈和が百二十五を下すに及びて主格たちまち転倒し」と言っているのは、その後の丈和の着手、白11~25までの経過で、下辺の黒石10子が攻略されようとしています。

 関山仙太夫、1784年(天明4年)~1859年(安政6年)、信濃(長野)生まれ、五段格(七段格、素人日本一とも、晩年の本因坊秀策との二十番碁は有名)は、「米蔵は手の見えはなはだすぐれたり。一向に法を用いず、我流を打つ強五段の珍物なり」、とその実力を認めています。

 ところで、本因坊家の菩提寺の墓地、京都の寂光寺(じゃっこうじ、法華宗、左京、東山仁王門)には、初代算砂(さんさ)から第3世道悦(どうえつ)まで、また、東京の本妙寺(ほんみょうじ、法華宗、豊島、巣鴨再建、明暦の大火で本郷丸山は焼失)には、第4世道策(どうさく)から第21世秀哉(しゅうさい)までの本因坊が永遠の眠りについています。

 なお、東京の本妙寺(ほんみょうじ、法華宗、明暦の大火で本郷丸山は焼失、6年後に本堂を復興、のち豊島、巣鴨へ移転)には、第4世道策(どうさく)から第15世秀悦(しゅうえつ)までは本郷丸山本妙寺の墓地、第16世秀元(しゅうげん)から第21世秀哉(しゅうさい)まで巣鴨本妙寺の墓地において歴代本因坊が永遠の眠りについています。なお1910年(明治43年)本郷丸山本妙寺は豊島、巣鴨に移転しています。その頃、本郷丸山本妙寺の本因坊家の墓地も2,3年かけて巣鴨本妙寺に移されたと言われています。

 日本棋院は、1924年(大正13年)4月に創立され、秀哉名人は、300年伝承の本因坊の名称を日本棋院に提供することによって引退しました。その後、新たな実力棋戦、本因坊戦(毎日新聞社支援)が出来上がり、そのタイトル獲得者に本因坊名が与えられ、現在に至っています。

(参考文献) 安藤如意(改補社者渡辺英夫): 坐隠談叢(新編増補、囲碁全史、新樹社(1955); 安永一: 囲碁名勝負物語、時事通信社(1972); 林元美(林裕校注): 爛柯堂棋話 Ⅱー昔の碁打ちの物語-、平凡社(1978); 高木祥一(九段)-: 豪腕丈和、日本棋院(1991); 井口昭夫: 本因坊名勝負物語、三書房(1995). 

(参考資料) 本因坊家(google画像、丈和含む): http://www.hudong.com/wiki/%E6%9C%AC%E5%9B%A0%E5%9D%8A%E5%AE%B6.

本妙寺(ホームページ、ほんみょうじ、法華宗、巣鴨、豊島区、東京): http://www6.ocn.ne.jp/~honmyoji/index.html.

日本棋院(ホ-ムページ、市ヶ谷、千代田区、東京): http://www.nihonkiin.or.jp/.

(追加説明) 明暦の大火(めいれきのたいか、振袖火事、丸山火事、丁酉火事とも)は、第4代将軍、徳川家綱(1641~1680)の時代、1657年(明暦3年)1月18日、江戸の本郷丸山本妙寺の失火から発し、翌日まで続いた大火。大名屋敷160、旗本屋敷770余、町屋は両町で400町が焼失し、10万人以上が死亡したという。この火災については、放火説もあるが、真偽は不明。(岩波日本史事典より)  

2009年6月20日 (土)

碁の名手(本因坊算砂)と三天下人(信長、秀吉、家康)にまつわる歴史秘話、とは(2009.6.20)

  囲碁は、古来、黒白(こくびゃく)、烏鷺(うろ)、方円(ほうえん)、手段(しゅだん)、坐隠(ざいん)、忘憂(ぼうゆう)、爛柯(らんか)、腐斧(ふふ)、橘中(きっちゅう)、清遊(楽)、聖(仏)技、小宇宙(異称)など、多くの呼び名があります。

 また、囲碁は、盤上の真ん中を天元(てんげん)、四隅を星(ほし、布石)、空間を地(じ、確定陣地)と呼び、二人が361路の碁盤の上で、黒白の石の生死をかけ、知力を尽くして戦う、千変万化の宇宙(天、地、人)の真理の探求、知の創造ゲームとも言われています。

 また、囲碁界の哲人、呉清源(ごせいげん、昭和囲碁界の最強棋士、95才、中国)9段によると、囲碁の由来は、易経から来ていて、陰(黒)と陽(白)の調和(共存共栄)が大切であり、勝ち負けは、調和が破れたときに自然に決まるもので、その場で最善を尽くせば、自然に結果もよくなる、とのことです。

移しています。しかし、算砂には、確実な史料が少ないため、多くの伝説があります。

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初代本因坊 算砂像(さんさぞう、寂光寺蔵、京都、google画像)

本因坊算砂(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9B%A0%E5%9D%8A%E7%AE%97%E7%A0%82

 本因坊算砂(ほんいんぼうさんさ)は、1559年(永禄2年)京都で生まれ、囲碁と将棋の現在の体系を確立した高僧であり、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、京都から駿府、江戸、金沢へと活躍の舞台を移しています。

 算砂は加納与助を父(舞楽宗家)とし、京都(長者町)に生まれました。父の弟(叔父)の学僧、日淵(にちえん)のもと、8才で出家し、本行院日海を名乗りました。師の日淵は、1578年(天正6年)に空中山寂光寺(法華宗、上京、出水室町)の開祖となっています。このとき、算砂は20才、本因坊の名は、算砂が寝起きしていた寂光寺の塔頭(たっちゅう、本寺の境内にある小さなわき寺)の名から取ったものです。算砂の碁の師匠は、堺(大阪)の仙也という老人で、京の都に出張したとき薫陶を受けたと言われています。

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寂光寺(じゃっこうじ、東山仁王門、左京区、京都)

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織田信長(ウィキペディア) :http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7

(解説) 天下統一を目指す織田信長(1534~1582)は、上洛のとき、妙覚寺(三条棚衣)や本能寺(西洞院)など、法華の寺院で寝泊まりしていました。碁の名手、算砂の噂を耳にし、寂光寺が創立した頃、算砂(19才)を召し出して対局させ、その神技に驚嘆し、名人と呼んだことが伝えられています。

 また、1582年(天正10年)6月、本能寺の変の前夜に、本因坊算砂と鹿島利玄は、信長の面前で対局、三劫(さんこう、三つの劫が永続、無勝負、後世の作り話とも)となり、以来、三劫の局は不吉の印(しるし)と伝えられています。

 劫(こう)は、梵語(Kalpa)を和訳した仏教語で、碁では交互に相手の石1個を取り返すことができる形(劫を取られ方は、次の手で他の場所に打ってから、劫の石を取り返せます)です。算砂は、本能寺の変で無念の死を遂げた信長、信忠の親子の霊を弔い、法要を営みました。

 1582年(天正10年)、山崎の合戦で明智光秀を滅ぼした羽柴秀吉は、1583年(天正11年)に柴田勝家を滅ぼし、その年の8月、算砂を召し出させ、今昔を語り合い、信長の非業の死を慨嘆しました。その翌日、算砂は、碁の技を秀吉に披露したと伝えられています。

 1591年(天正19年)2月、秀吉により都の町割りが進められ、算砂は寺格が認められた寂光寺を再建しましたが、八つある塔頭(たっちゅう)の一つが本因坊(ほんいんぼう)と呼ばれていました。

 算砂は師の日淵(本因坊日雄)の跡を継ぎ、寂光寺2世、本因坊算砂を名乗りました。その120年後、寂光寺は、京の都の大火で類焼、1708年(宝永5年)、東山に再建(3度目、左京、東山仁王門)され、現在に至っています。

 秀吉もまた、碁を奨励し、算砂を厚くもてなしました。まだ、ろくに碁の打ち方も知らない秀吉が、本因坊が打っているのを見て。「わしだって碁は打てる。先をもてば恐らく本因坊に負けないだろう」と言ったので、対局したところ、秀吉は第一着手を天元に打ち、その後は真似碁(本因坊が打つ手の対象点に打つ)を続けたので、本因坊も打つ手がなくなり、投了したとの言い伝え(俗説とも)があります。

 1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの後、1603年(慶長8年)2月、算砂は伏見城に参上し、家康に祝賀を述べ、囲碁の手ほどきをしました。そして、同年4月19日、家康から御所での、かの有名な天覧碁(上覧碁)を命じられています。

 その後、碁所(ごどころ)に任じられた算砂は、54才、後年、家康より300石を与えられています。徳川幕府の録を受けた碁家として、本因坊、安井、井上、林の四家がありますが、なかでも、幕末までに8名の名人を輩出するなど、本因坊家は碁家の総本家となっていました。

 1614年(慶長19年)大阪冬の陣、1615年(元和元年)大阪夏の陣による豊臣家滅亡の後、算砂は加賀藩、前田家の求めに応じて金沢に出向き、2年間過ごしています。加賀藩3代藩主、前田利常(まえだとしつね)の碁の指南役を務め、1617年(元和3年)、藩の寄進で本行寺(ほんぎょうじ、日蓮宗、金沢、本多)を創建した後、帰洛しています。

 本因坊算砂は、激動する戦国の世を生き抜き、後世の碁界に多くの遺産を残して、1623年(元和9年)、65才の生涯を閉じました(示寂、法名日海上人)。初代本因坊の辞世の句は、「碁なりせば劫を打ちても活くべきに 死ぬるばかりは手もなかりけり」でした。 

 日本棋院(東京、千代田)は、2004年(平成16年)、創立80周年を記念して、囲碁殿堂資料館を開設しました。そのとき、徳川家康(囲碁を国技に高めた天下人、名古屋)、本因坊算砂(天下に仕えた近世囲碁史の開祖、京都)、本因坊道策(革新的碁法と制度改革を進めた碁聖、島根)、本因坊秀策(御城碁19連勝の偉業の達成、広島)の四名が殿堂入りし、かれらの囲碁文化の普及と発展の功績が称えられました。

(参考文献) 安藤如意(改補社者渡辺英夫): 坐隠談叢(新編増補、囲碁全史、新樹社(1955); 青木新平: 序 碁清源、碁石の微笑、六月社(1956); 堀田五番士: プロ棋士第一号、本因坊算砂物語、棋道12号(1986): 囲碁殿資料館ニュースレター「深奥幽玄」: 巻頭言 加藤正夫、囲碁殿堂資料館、日本棋院(2004).

(参考資料) 信長廟(google画像): http://www.oumi-castle.net/oda_yukari/nobunagabyou.html ; 

阿弥陀寺(信長菩提寺): http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/amida-ji-teramati.htm

総見院(信長菩提寺):http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/soken-in.htm

 1582年(天正10年)6月27日、織田信長の後継者問題、領地再配分を決める清洲会議(きよすかいぎ)がありました。また、この年の10月11日、秀吉は、京都の大徳寺において、17日間にわたる大がかりな信長の葬式を行いました。さらに、大徳寺の中に、総見院という寺を建て、信長と信忠の墓を設けました。柴田勝家はこの葬式には現れませんでした。

本因坊算砂(google画像):http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%9C%AC%E5%9B%A0%E5%9D%8A%E7%AE%97%E7%A0%82&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wihttp://www1.ocn.ne.jp/~igoshi/ken004.html

(追加説明) 〇 本因坊算砂伝説の研究大庭信行、囲碁史研究): http://www1.ocn.ne.jp/~igoshi/ken004.html

〇 太田牛一(1527~1623、信長公記、織田信長の一代記、ウィキペディア):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E9%95%B7%E5%85%AC%E8%A8%98

2009年6月18日 (木)

日本三名園、サイエンス(科学)のふるさと、兼六園内の藩校と遺跡、兼六園の歴史、東京大学の赤門のルーツ、とは(2009.6.18)

 兼六園(けんろくえん、六勝を兼備、金沢)は、偕楽園(かいらくえん、人皆楽しむ、水戸)、後楽園(こうらくえん、先憂後楽、岡山)と共に日本三名園と呼ばれています。別格の名園として、栗林公園(りつりんこうえん、もと栗林、香川)を挙げる人もいます。

 兼六園は、江戸時代の代表的な回遊林泉式の庭園で、1676年(延宝4年)、加賀藩5代藩主前田綱紀(まえだつなのり、1643~1724)が、蓮池御殿(れんちごてん)を建てた頃から本格的な作庭をはじめ、金沢城の外庭として発展してきました。

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前田斉広(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E6%96%89%E5%BA%83

 1822年(文政5年)、江戸において、加賀藩12代藩主前田斉広(まえだなりなが、1782~1824)からこの園の命名を頼まれた白川楽翁(しらかわらくおう)、こと松平定信(1759~1829)は、金沢に足を運ぶことなく、宏大(こうだい)、幽邃(ゆうすい、静かで奥深い)、人力(じんりょく)、蒼古(そうこ、古びた趣)、水泉(すいせん)、眺望(ちょうぼう)の六勝が兼ね備わっているという、中国の名園、湖園(こえん)に与えられた評価(宋の李格非、落陽名園記)に因んで、加賀百万石150年ほど歴史ある大庭園を、兼六園命名し、誉めたたえました。

松平定信(ウィキペディア、陸奥白川藩、福島):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E4%BF%A1

洛陽市(らくようし、ウィキペディア、中国)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9B%E9%99%BD%E5%B8%82

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金沢城と兼六園(園内の地図、金沢、石川) 

兼六園(ホームページ、丸の内、金沢、石川): http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kenrokuen/.

 ところで、江戸幕府は、1853年(嘉永6年)ペリーの来航によって鎖国の眠りから覚まされ、幕末から明治維新にかけて、各藩は西洋の進んだ文明を取り入れました。加賀藩の最後の14代藩主、前田慶寧(まえだよしやす)は、兼六園内に洋学と近代科学の学校として、1870年(明治3年)、鉱山学所(巽御殿、成巽閣内)と中学東校(成巽閣と金沢神社の中間地点)、1871年(明治4年)、理科学校(高之亭、時雨亭跡)を設立しましたが、これらは郷土の近代医学、科学、教育、産業の発展の源となりました。

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兼六園内の藩校と遺跡の位置([    ]は現存(移築含む)、(  )は現存しない、金沢、石川)

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旧金沢医学館(兼六園管理事務所の裏側、津田玄蕃邸 ; 医学館、1923年(大正12年)、仙石町より移築、兼六園、金沢、石川); 金沢大学医学部の歴史(旧医学館含む、金沢、石川): http://www.kikin.kanazawa-u.ac.jp/kikin_med150/other/history.html.

(解説) 旧金沢医学館の前庭には、1844年(天保15年)の頃より、犀川(8km上流)から辰巳用水(たつみようすい)を流れ、兼六園の霞が池を経て、逆サイホンの原理で、水を金沢城内に引き入れ(防火、水堀)たときに使った石菅(直径約30cm、長さ約1m、角柱状、松ヤニで接着、木管取り替え)が展示されています。また、水圧を測るために造られたと思われる、日本最古と呼ばれる噴水が、今も時雨亭跡の前で水を勢いよく、噴き上げています。その高さは、霞が池の水面と同じで、金沢城の二の丸の高さに相当するものです。 辰巳用水と兼六園石菅含む、石川新情報書府、金沢): http://shofu.pref.ishikawa.jp/shofu/meienki/rokusho/suisen/d01.html.

 1869年(明治2年)にイギリスで創刊されたNature(ネイチャー、自然)の1872年(明治5年)9月19日号に、日本には大阪、加賀、静岡、福井に四つの化学実験所があり、やがて5番目のものが江戸にできると書かれています。

 兼六園内の学校では、お雇い外国人のドイツ人、デッケン(鉱山学、地質学、鉱山学所)、オランダ人、スロイス(物理、化学、薬学、医学館附属理科学校)が、生徒たちにサイエンス(科学)を教えていました。学校は1年ほどの命でしたが、藩の歴史における近代科学教育のルーツとして、重要なものでした。

 兼六園は、当初は藩主の散策場であったため、一般人は言うに及ばず、藩士でも容易に立ち入ることが出来ませんでした。しかし、1792年(寛政4年)に明倫堂、経武館の文武二つの藩校が建てられ、明治初期には洋学校もでき、その教師や生徒が出入りすることになりました。そして、加賀藩、金沢藩、1871年(明治4年)の廃藩置県、金沢県、石川県と県域が目まぐるしく変わった後、1872年(明治5年)3月3日から約40日間、一般人に縦覧を許したのが園内開放の始まりで、同年5月から期限も撤廃されました。その後は無料開放されていましたが、1976年(昭和51年)以来、保存整備のため有料化され、1985年(昭和60年)に、特別名勝の庭園として指定され、現在に至っています。 

(参考文献) 石川県公園事務所編: 兼六園全史、兼六園観光協会(1976); 本浄高治、中西孝、兼六園とサイエンスー名園のもう一つの顔-、化学、40巻7号(1985); 下郷稔、兼六園の今昔ー加賀百万石の庭-、中日新聞社(1999).

(追加説明) ○ 藩校 江戸時代、藩数は約300、藩校は約270とされています。藩校とは、江戸時代から明治初期にかけ、各地の藩が藩士やその子弟、領民、他藩の武士のために設立した文武両道の教育機関で、国元の城内、城下や江戸藩邸などにつくられました。特に江戸時代中期以降、各藩は藩政改革の一環として、藩政を担う人材の育成のために教育に力を入れ、後期には下級武士や庶民にも広がりました。

 藩校教育の中心は、社会における人々の役割を説いた中国古来の政治・道徳の学問である儒学(じゅがく)でした。藩校では儒学の基本書「四書五経(ししょぎょこう)」が使われ、校名の多くもここからとられました。儒学の中にも朱子学(しゅしがく、上下の秩序を重んじたため江戸幕府や多数の藩校が採用)、徂徠学(そらいがく、儒者、荻生徂徠(おぎゅうそらい)が提唱、儒家の祖である孔子(こうし)の教えを古い文章などで直接研究)、折衷学派(せっちゅうがくは、先行各派の諸説を折衷)などがあり、各藩は教育方針や時代に応じて採用しました。

 藩校では、社会秩序や主従関係を重んじる儒学(漢学)が当初から教科のの中心でしたが、江戸時代中期以降国学(和学、皇学)をとり入れる藩校も増加、また後期には算学や洋学、医学、兵学、天文学など実用的な教科が増え、時代で教科も変化しました。

 1792年(寛政4年)に設立された加賀藩・明倫堂(めいりんどう、金沢市、石川県)では、設立時から庶民の入学を許可、学科目が多種多彩で幕末維新期には西洋科学技術の研究も盛んに行われました。(北陸中日新聞(世界と日本 大図解シリーズ): 故きを温ねてー藩校マップ、2009年(平成21年)9月20日(日)、朝刊より) 藩校(社会実情データ図録、本川裕): http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/3998a.html.

○ 金沢神社由緒(もと藩校、明倫堂の鎮守社) 

 加賀藩第11代藩主前田治脩(まえだはるなが、1745~1810)が、1794年(寛政6年)、兼六園の現在梅林の地に藩校明倫堂を建てられ、その鎮守社として金城霊沢のほとりに、学問の神であり、前田家の先祖でもある菅原道真(すがわらみちざね、845~903)の御舎利を奉斉する金沢神社を創建しました。

 その後、兼六園が整備されるにあたり、藩校、明倫堂は、1822年(文政5年)、仙石町に移されましたが、金沢神社第12代藩主前田斉広(まえだなりなが、1782~1824)のときに建てられた竹沢御殿の鎮守社として、災難除けの神、家業繁栄の神、交通安全の神をあわせ祭り、朝夕兼六園を散策された藩公が領内の平和と繁栄を祈願されたという。一般の人々が自由に神社へ参拝できるようになったのは、1874年(明治7年)5月7日、兼六園が一般に公開されてからです。(金沢神社発行、金沢神社由緒、より) 竹沢御殿(石川新情報書府、兼六園、金沢): http://shofu.pref.ishikawa.jp/inpaku/castle/yomoya/kenrokuen_03.htm. 竹沢御殿の規模(石川新情報書府、兼六園、金沢): http://shofu.pref.ishikawa.jp/shofu/meienki/rekishi/period_d/d01.html.

○ 東京大学の俗称となっている赤門は、旧加賀藩主前田家上屋敷御守殿門で、1827年(文政10年)、第13代藩主前田斉泰(まえだなりやす、1811~1884)が第11代将軍徳川家斉(とくがわいえなり、1773~1841)の娘溶姫を迎えるときに造られました。 東大赤門(東京大学赤門のページ): http://www.aalab.com/cg/cgamt01j.htm

 加賀藩邸跡の東大本郷キャンパス(東京都文京区)の発掘調査で、加賀藩主前田斉泰の夫と十一代徳川家斉将軍の娘・溶姫(1813~68年)の妻は、27年に結婚した際、本宅とは別に、溶姫のための独立した御殿が造営され、別々の御殿に暮らし、食文化も出入り業者も異なっていたことが具体的に分かってきました。

 中山道(現在の本郷通り)に面した約一万七千㎡のこの御殿に、溶姫と将軍家の女中約60人らが暮らしていました。御殿の正門が国指定重要文化財の赤門で、現在の位置より約15m東にありました。住居の周辺には、約二千人の家臣団などが暮らす長屋がありました。

 ごみ穴から見つかった魚の骨の種類は、本宅は日本海のタラやブリがあったが、御殿は江戸前の魚が中心だった。とくりにくぎで書かれた酒屋の屋号も、本宅と御殿では異なっていた。本宅と御殿で共用する台所はあったが、御殿のごみ穴から見つかった食器類には、御殿の詰め所の名が記されており、詰め所ごとに食器類が管理されていたとみられる。御殿は徳川将軍家の生活様式が反映された、溶姫のための住空間であったと考えられています。(2017年(平成29年)5月3日(水)北陸中日新聞朝刊より)

〇 幕末に加賀藩が設置した洋学校壮猶館

 壮猶館(そうゆうかん)は、幕末の日本に欧米列強の脅威が迫っていた1854年(安政元年)、加賀藩13代藩主の前田斉泰の下で海岸防衛のために創設された。ここでは、整列行進など当時の日本人になじまなかった西洋式の軍事訓練のほか、洋書の翻訳、講読、火薬、砲術といった科学の研究がされていました。

○ 兼六園の銅像日本武尊の像):http://www.kenrokuen.com/kenrokuen/area-chitosedai/yamatozo.html

○ 兼六園の中の湧水、金沢の名の由来となった金城霊沢、曲水の玉石に付着した藻類による水質浄化、兼六園周辺の湧き水と鉄バクテリアによる環境浄化について

兼六園の中の名水、金城霊沢と金沢神社の手水舎の水、金沢市内の湧水の水質(ヘキサダイヤグラム)、とは(2009.6.7): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-b450.html

兼六園の曲水中の玉石、尾小屋鉱山下の梯川(小松、石川)水中の礫石に付着した藻による水質浄化、うまい鮎(アユ)は日本のどこの川にいるのか、とは(2009.7.29): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/ken-2.html

兼六園の周辺の湧き水と鉄バクテリア(赤褐色代謝分泌物)による水質浄化、とは(2009.7.15): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/ken.html

2009年6月15日 (月)

空海(弘法大師)の仏道修行と霊場の謎、大龍嶽(21番札所、大龍寺、德島)、御厨人窟(24番札所、最御崎寺、高知)、高野山(奥の院、金剛峯寺、和歌山)、四国遍路の歴史、とは(2009.6.15)

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空海弘法大師、774~835、真言宗、密教修験道 ): http://www.cnet-ga.ne.jp/kenta/mitsu/shingon.html

(解説) 空海(弘法大師)、774~835年(宝亀5~承和2年)は、讃岐国多度郡屏風ヶ浦(善通寺、香川)の豪族、佐伯(さえき)氏、直田公の父、安刀(あと)氏、玉依の母の三男として生れ、幼名は真魚(まお)と呼ばれていました。788年(延暦7年)、15才のとき都に出て、791年(延暦10年)、18才のとき大学に入学していますが、その頃は、桓武天皇が奈良の平城京を長岡京に遷都した7年後で、3年後の794年(延暦13年)に京都の平安京に2度目の遷都を行うなど、政情が非常に不安定な時期でした。

 貴族の子弟の教育機関である旧都、奈良の大学寮に18才で入学したものの中途退学し、一沙門から虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を受け、20才で山岳修行僧の群れの中に身を投じたのですが、修行の道場は奈良や和歌山の山林(吉野の金峰山、紀州の高野山)から故郷の四国の山や海(阿波の大龍嶽の頂上と近くの洞窟、土佐の室戸御崎の洞窟、伊予の石槌山)に及んでいます。

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の写真: 大龍嶽の空海像大龍嶽、21番札所、大龍寺、徳島)                                  の写真: 室戸御崎の洞窟御厨人窟、24番札所、最御崎寺、高知)

舎心ヶ嶽(第21番札所、大龍寺奥の院、徳島): http://tadashimatunaga.web.fc2.com/88okunoin/okunoin_tokusima/18.htm#top.

御厨人窟(第24番札所、最御崎寺奥の院、高知): http://www.geocities.jp/hi_hotaka/life/shugyo/temple241.htm.

(解説) 空海は、797年(延暦16年)、24才のとき、儒教と道教と仏教を比較して、仏教の優位性を示した戯曲、「聾瞽指帰(ろうこしいき)」(官吏になるための難解な試験対策への解答、すなわち、大学入学での学習成果を披瀝した報告書、とも考えられています)、後に序文と後書きを加え、本文の誤謬を修正した「三教指帰(さんごうしいき)、上、中、下の3巻」(唐への留学の資格試験の審査参考資料として朝廷に提出したものとも考えられています。また、出家宣言とも考えられ、この下巻の中で、老いた両親への親孝行ができず、先だった二人の兄への思いに涙が止まらず、仕官も進退極まり、来る日も来る日も、嘆き悲しく、うろたえるばかりです、が、自分は仏道の道に進む、という強い出家の覚悟を仮名乞児(かめいこつじ、空海の化身)に代弁させたものとも考えられています)を著しています。空海の唐(中国)への留学に至る20~30才の頃の10年間の修行の様子は、これらの著書以外にはなく、今も多くの謎につつまれています。

 その後、804年(延暦23年)、31才のとき、第16次遣唐使船により入唐し(このとき、留学した最澄は正式な官僧なので問題はないのですが、一方空海は一介の私度僧の立場であり、朝廷への留学の推薦、留学僧資格試験、膨大な留学資金の支援などについて、謎が多い)、当時の世界都市であった長安に行き、青龍寺(せいりゅうじ)に住む恵果(けいか)と出会い、805年(延暦24年)、師からインドから伝わった本流の密教のすべての法を伝授されています。

 空海が日本に帰ったのは、806年(大同元年)、33才のときですが、当初20年間の留学期間をわずか2年に縮めての勅許による謎めく帰国でした。その後の空海の活躍は目覚ましいものがあり、宗教の世界ばかりでなく、文学、思想、また、社会事業家(満濃池の築堤、綜芸種智院の創設など)として花開いています。

 空海の巨大な謎を秘めた活躍のなかで忘れられないのは、紀伊国(和歌山)における高野山金剛峯寺創設(嵯峨天皇による高野山下賜)です。空海はこの山岳霊場を密教(大日如来を中心に、あらゆるものが共存共栄する、心を形に表した曼荼羅の世界)の修行道場として開いたのですが、ここはまた古代から水銀の採掘地でもあり、高野山の奥の院をはじめとするこの山の聖地一帯には、現在も水銀や金、銀、銅などの鉱石が埋蔵されていると言われています。高野山は、以前は丹生明神(にうみょうじん)が祀られ、丹生氏が支配していましたが、空海は、はじめ奥の院の洞窟、のちに近くに建てたお堂、お寺の中でも修行し、人生の最後は、もとの奥の院入定(にゅうじょう)したものとも考えられます。

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高野山奥の院高野山、金剛峯寺、空海の廟所、和歌山)  高野山奥の院(高野山内を巡る、YouTube、高野、和歌山): http://www.youtube.com/watch?v=gWoQGqI9V1U.

(解説) 日本各地に水銀を意味するの名のつく地名(丹生、丹波など)が残っていますが、これはその地域で水銀鉱石(朱色の硫化第二水銀、辰砂)や、赤色顔料(丹朱)を産出していた証拠です。来世での再生を願って遺体を保存するミイラ作りにも水銀は必須で、日本でも縄文の古墳でも朱の水銀鉱石は重用され、古代から戦国時代に至るまで、そうした鉱物資源の採掘、製錬の秘密を握り、鉱業に従事する山の民を指導したのは山岳宗教者でした。水銀の神をまつる丹生神社の分布高野山伊勢周辺の中央構造線上に多く分布): http://www.geocities.jp/tyuou59/nibujnnjyabunnpu.html

 空海は、その山岳宗教者の間で若き日を過ごしたものと思われます。このことは、四国八十八ヶ所の約半数の霊場が、著名な銅及び水銀を産出する鉱山が存在する地質の中央構造線の外側に分布することとも深いつながりがあると考えられ、空海の密教山相ラインと呼ばれています。

 空海は、835年(承和2年)、62才のとき、高野山奥の院の裏側の洞窟の中で入定し、永遠の命の本源に帰って行きました。その86年後、921年(延喜21年)、第59代醍醐天皇は、夢枕に立つ空海の徳を称え、弘法大師の称号を下賜されました。

  私は、2001年(平成13年)8月頃、四国霊場、21番札所、大龍寺(大龍嶽、阿波、德島)を訪れたことがあります。マイカー(ファミリア1500CC)、ロープウエイにより、弟(悟)と二人で大龍寺を参拝した後、さらに大龍嶽の頂近くまで歩いて登ったところ、渓谷に向かって修行している空海の坐像が目につき、強く印象に残っています。

 また、それまでに、室戸御崎の洞窟(御厨人窟)と24番札所、最御崎寺(高知)には、弟(悟)と一度、高野山奥の院(高野山、空海の廟所、和歌山)には、家内(尊子)と数回訪れ参拝したことがあります。

(参考文献) 高木訷元、岡村圭真編: 日本の名僧、空海、密教の聖者、吉川弘文館(2003).; 佐藤任、堀井順次、本城清一、柚木伸一、若尾五雄: 真言密教と古代金属文化、東方出版(1991).; 大森崇編: 密教の本、驚くべき秘儀・修法の世界、大日本印刷株式会社(1992). ; 増田秀光編: 空海の本、密教最大の聖者の実像と伝説を探る、大日本印刷株式会社(2006).

(参考資料) ○ 弘法大師と高野山(高野山真言宗、総本山金剛峰寺): http://www.koyasan.or.jp/shingonshu/about/kobodaishi_koya/index.html

○ 四国遍路の歴史

空海(弘法大師)(google 画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E7%A9%BA%E6%B5%B7%EF%BC%88%E5%BC%98%E6%B3%95%E5%A4%A7%E5%B8%AB%EF%BC%89&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi.

四国遍路の歴史(德島県立博物館): http://www.museum.tokushima-ec.ed.jp/hasegawa/manyu/henro2.htm

四国遍路の展示物(香川県立博物館): http://www.geocities.jp/miyukiso7/minitenhon.htm

人生は遍路なり畠田秀峰、四国六番安楽寺貫主): http://sekiho.ddo.jp/jinsei1.html 

(追加説明) ○ 空海(弘法大師)と二人づれの四国遍路、同行二人(どうぎょうにん)の信仰は、捨身の行(しゃしんのぎょう)の一つ、土中入定(どちゅうにゅうじょう)にあると考えられています。空海(弘法大師)は、835年(承和2年)1月に五穀を断ち始め、3月10には水も断ち、それから7日後には、高野山の奥の院の岩窟に入られました。

 お弟子達は、空海の指示に従い、その岩窟の入口に自然石を積み、その口を塞(ふさ)ぎました。これは、石小詰(いしこづめ)という葬法です。自然石の隙間(すきま)から空気が通り、空海の御真言の読教が聞こえていましたが、3月21日には、いくらその岩窟に耳を近づけても聞こえなくなりました。空海(弘法大師、62才)は、生死を越えた修行によって、永遠の生命と一つになって行きました。その後、どこからともなく、お四国でお大師さまに出会ったとの噂(うわさ)を耳にするようになりました

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(参考文献) 畠田秀峰(住職): 四国へんろ春秋 Ⅱ、四国八十八ヶ所霊場六番、温泉山安楽寺(2008)、

○ 世界遺産 高野山空海の聖地 紀伊山地の霊場と参詣道、2007年(平成19年)9月20日(木)、NHK放送によれば、

 弘法大師、空海は、24才の時、出家の宣言書(三教指帰)を書き、その後、修行の場を紀伊の山に開きました。

 町石道(ちょういしみち)には、町石と呼ばれる道標(みちしるべ)が1丁ごとに立っています。高野山に詣でる人々が迷わないためです。巡礼者は町石を仏と見なし、参拝しながら歩きます。町石道を歩いて20km、標高800mの山頂に空海の開いた真言密教の霊場が現れます。平安時代の初めに建てられた大伽藍(だいがらん)、鮮やかな朱色(しゅいろ)の塔は、真言密教の根本大塔で、空海の開いた真言密教の教義を表した空間です。大日如来(だいにちにょらい)は宇宙の根本原理を示す最も重要な仏です。

 奥の院の空海廟、空海はここに眠っています。この世が続き、人々が救いを求める限り、私は仏の教えを伝え続ける。そう誓(ちか)った空海は、坐禅を組んだまま息を引き取りました。835年のことです。

 空海の死後、高野山は200年以上にわたって荒廃します。平安中期に立ち上がったのは、空海の徳を慕った他宗派の僧たちでした。国宝、仏涅槃像(ぶつねはんぞう)、復興にあたった僧たちが絵師に描かせたのは、真言密教の大日如来ではなく、全ての仏教徒に受け入れられる釈迦如来(しゃかにょらい)でした。

 釈迦の臨終に接して慟哭(どうこく)、嗚咽(おえつ)する弟子たち、復興にあたって僧たちは、この仏画を中心に法会を開き、資金を集めたと言われています。

 幅広い信仰を集めるようになった高野山には、さまざまな宝物(ほうぶつ)が納められました。八大童子立像(はちだいどうじりゅうぞう)、鎌倉時代に活躍した仏師(ぶっし)、運慶(うんけい)とその弟子たちの作とされています。豊かな肉体表現と凛々(りり)しい表情、生き生きとした目には水晶が入っています。

 国宝、阿弥陀衆生来迎図(あみだしゅじょうらいこうず)、人が死ぬ時には阿弥陀如来が迎えに来てくれるという、浄土信仰(じょうどしんこう)に基づいて描かれた傑作です。もとは比叡山の秘宝でしたが、織田信長の焼き討ちの時に持ち出され、それを入手した豊臣秀吉が高野山に奉納したと言われています。

 空海の眠る奥の院への参道には、無数の墓石が立ち並び、中には公家や大名の墓もあります。無縁仏となった墓碑や地蔵が積まれた巨大な塚、聖地高野山の空海の膝元(ひざもと)で永遠の眠りにつきたい、そう願った無数の人々の思いの結晶です。

○ 1157年(保元2年)、梁塵秘抄(りょうじんひしょう、今様歌謡集、後白河法皇編著)の中に、「はかなきこの世を過ぐすとて 海山稼ぐとせしほどに よろずの仏に 疎(うと)まれて 後生(ごしょう) わが身をいかにせん」と、全ての仏たちに見放された人々の切ない歌があります。法然上人は、そのような人々も念仏により阿弥陀如来によって救われる(浄土信仰!)という(五木寛之、親鸞(激動編、229~231)、2011年(平成23年)8月23日~25日、北陸中日新聞、朝刊より)。 

 梁塵秘抄(法文歌、はかなきこの世を過ぐすとて ---、名句に学ぶ死生観): http://www.geocities.jp/yccfh851/newpage24.html. はかなきこの世を過ぐすとて 海山稼ぐとせしほどに 万(よろづ)の仏に疎まれて 後生わが身をいかにせん(はかないこの世を生きていこうとして、海や山で生き物を捕らえているうちに、多くの仏に遠ざけられてしまった。来世の自分の身をどうしたらよいのだろうか。 この歌では、救いとなるべき阿弥柁の誓いにふれていないため、より深い悲しみがあふれ、切実な嘆きが伝わってこよう。植木朝子、梁塵秘抄、角川ソフィア文庫、2009)

○ 四国霊場八十八ヶ所の奥の院(もと洞窟、のち、小屋、お堂、お寺へ)にお参りすると、本当の四国遍路の意味が分かると言われています。

四国霊場、奥の院物語(四十八ヶ所を紹、川東和夫): http://www.fmkagawa.co.jp/staff/ohenro/okunoin0.htm

 四国遍路の始まりは、四国の辺路修行で、空海(弘法大師)もその道を辿り、後に空海の跡を慕った修行者が辺路修行を行い、さらに一般の人もお参りするようになり、辺路(地の果て、海と陸との境)が遍路になったと言われています。(参考文献) 五来重: 四国遍路の寺、上、下、角川学芸出版(2009). 

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 我等が修行せし様は、忍恥袈裟(にんにくけさ)をば肩に掛け、又笈(おい)を負ひ、衣は何時となく潮垂(た)れて、四国の邊路(へじ)をぞ常に踏む。(1157年(保元2年)、梁塵秘抄、後白河法皇編著、四国八十八ヶ所霊場六番、安楽寺住職、畠田秀峰、四国へんろ春秋(2000)、より)

お遍路のススメ(友の講、梁塵秘抄の解説含む):http://maenaem.com/henro/sp.htm

○ 江戸時代四国遍路(八十八ヶ所)の1番の霊山寺から始まる札所の番号付けの根拠として、1687年(貞享4年)、真念(しんねん、生没不明、頭陀聖、ずだひじり、遍路門付)が四国遍路道指南(しこくへんろみちしるべ)を執筆し、はじめて札所に番号を打ち、、四国遍路の霊験や功徳にまつわる伝承をまとめて出版、また遍路の便を図るために、遍礼屋、善根宿の開設と普及、標石の設置などを行いました。

 八十八ヶ寺の中には、真言宗系以外のお寺が八ヶ寺(11、15、33、43、76、78、82、87番など)ほどあり、そこにも大師堂があり、不思議な感じがしますが、お寺の改宗もあったと伝えられています。1番霊山寺の開祖は行基(ぎょうき、法相宗)、668年(天智天皇7年)~749年(天平21年)ですが、本尊は釈迦如来、宗派は高野山真言宗となっています。

 この霊山寺は大麻山(おおあさやま、海抜536m)から下りてきたと推定されています。というのは、その山の中腹に大麻比古神社(阿波一宮)があって、ここを奥の院とすることは、江戸時代の初期は神仏習合が残っており、もと霊山寺が大麻比古神社の境内にあった寺であり、そこから1km下って現在地に移ったのだろうということです。また、ここが第1番となったのは、信仰上の問題より、本土より四国に渡るには、鳴門市の撫養(むや)が最も便利だったからです。また、御詠歌は、霊山の釈迦の御前に巡り来て、万の罪も消え失せにけりと、四国遍路は、罪を消すため、減罪のための遍路であることを、歌っています。(五来重、四国遍路の寺、下、角川ソフィア文庫(2009)より)

○ 最澄と空海の生き方について、次のような解説があります。最澄と空海は同時代の人である。最澄が神護景雲元年(767)生れ、空海は7年後の宝亀5年(774)の生れである。二人の生きた時代は、平城京から長岡京、さらに平安京へと三度も遷都するような、律令体制の動揺期であった。

 延暦23年(804)、桓武天皇の命を受けて、最澄・空海ともに遣唐使の一行に参加することとなり、空海は第一船で、最澄は第二船でそれぞれ入唐した。最澄は明州に着き、天台山に入った。最澄の天台山入りの目的は、入唐前からいだいていた天台の信仰を天台山で確かめることにあった。空海は長安京に入って西明寺に留まり、のち青竜寺において真言密教の権威・恵果の指導を受けた。空海の持ち帰った経論は、216部451巻という。

国清寺(最澄、留学、天台山、中国): http://www.kosaiji.org/pilgrim/china/kokusei.htm

青龍寺(空海、留学、西安、中国): http://www.arachina.com/attrations/xian/qingls/index.html

 最澄は翌年帰国し、天台宗を開き、勅願を得て、叡山の草堂を延暦寺とし、経王護国寺を与えられ真言道場とした。空海は2年後に帰朝し、弘仁2年(816)、高野山に金剛峰寺を建てた。この年、弟子の去就をめぐる争いから最澄と空海は親交を絶った。

 両者は、平安仏教の開創者として、また双璧として、しばしば生き方が比較される。最澄は死ぬまで、仏教の旧勢力である南都仏教と争った。逆に空海は思想的に弾力性に富み、ことをあらだてずに生きた人であった。(樋口清之監修、生活歳時記、三宝出版、p.117、1994、より)

○ 空海は、815年(弘仁6年)3月、42才、勧縁疏を著し、東国の弟子に遣わし、新請来の密教経論の書写流布と如法の修行を依頼し、また、秋には西国(筑紫)にも密教経論の書写を依頼しています。816年(弘仁7年)6月19日、43才、高野山を修禅の道場の地として乞い、7月8日、高野山開創が勅許されました。821年(弘仁12年)5月27日、48才、讃岐国、満濃池の築池別当に補せられました。

 822年(弘仁13年)、49才、東大寺潅頂道場が創設され、空海に修法が命じられました。この年に最澄(56才)が比叡山寺中道院にて入寂。823年(弘仁14年)1月19日、50才、東寺(京都)が永く空海に給頂され、東寺に真言宗僧50人を住せしめました。

 828年(天長5年)、55才、綜芸種智院(庶民のための私立学校)を創設。830年(天長7年)、57才、十住心論、10巻を撰述。832年(天長9年)8月23日、59才、高野山にて万燈万華の法会を修す。835年(承和年)2月30日、62才、金剛峯寺定額寺となし、同年、3月21日、高野山にて入定しました。

2009年6月11日 (木)

空海(弘法大師)ゆかりの満濃池(溜池、満濃、香川)、弘法の水、とは(2009.6.11)  

 古来、讃岐には、多くの溜池(ためいけ)があり、大宝年間(701~704年)に国守道守朝臣(みちもりあそん)により築造された満濃池(まんのういけ)もその一つですが、その規模において、池というよりは湖に近い。しかし、雨が多量に降ると水圧が高くなり、しばしば決壊してこの地方が泥海となりました。そこで朝廷は、820年(弘仁11年)に築池使の路浜継を派遣させましたが、3年かけても修築が完成できないので、国司は、改めて朝廷に対し、空海による溜池の修理(築池別当)を願い出ました。

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空海弘法大師、774~835、真言宗、密教修験道 ): http://www.cnet-ga.ne.jp/kenta/mitsu/shingon.html

(解説) 空海(弘法大師)は、奈良時代末期の774年(宝亀5年)、讃岐(香川)の豪族、佐伯氏の家の生まれですが、31才で留学僧として入唐のとき、越州で土木技術、薬学はじめ多くの分野も学んでいました。満濃池の修築の要請があった頃の空海は、48才、高野山と嵯峨天皇から下賜された京都の東寺を往復しながら、密教の体系化(真言宗の開祖)と布教、朝廷や貴族への修法で忙しかったようです。が、821年(弘仁12年)、故郷の人々のために、沙弥1人と童子4人を従えて讃岐に向かい、農民の奉仕もあり、難工事(アーチ型の堤防、洪水吐、取水栓ゆるの修築など)をわずか3ヶ月足らずで完成させました。

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満濃池(満濃、香川) 満濃池(まんのういけ、まんのう町、香川): http://www.town.manno.lg.jp/manno_pond/pond_top.html.

(解説) その後も満濃池は、堤防の決壊と修築を繰り返していますが、この満濃池の修築工事の成功話、また水脈、鉱脈、温泉などを卜相する秘伝(占術)を知る高野聖(こうやひじり)が、諸国を遊行勧進(ゆぎょうかんじん)したとき、これらを空海の功徳として民衆に伝え、空海がのちに全国を回って橋を架けたり、道路を造ったり、清水の湧く井戸を掘ったり、あるいは温泉を発見し、無数の仏像を残し、多くの人々の病を救ったなど、北は北海道から南は鹿児島まで3000以上あると言われる伝説を生み出したものと思われます。

 その代表的な伝説の一つに、井戸掘り職人としての空海ゆかりの弘法の水があります。

 日本各地には、弘法大師が杖をついたら湧き出た泉とか、弘法大師が掘った井戸とか言い伝えられている数多くの有名な湧き水があり、今でも多くの人々の人気を集めています。1985年(昭和60年)に、環境庁が選んだ日本の「名水百選」の中の弘法大師ゆかりの湧き水として、熊野(ゆや)の清水(弘法の霊水、千葉県)、弘法池の水(石川県)、杖の淵(じょうのふち)(愛媛県)が選ばれています。

  このほかに、各都道府県が独自に選定した湧き水の中にも、赤井嶽弘法水(福島県)、弘法清水(新潟県、長野県)、弘法水(山梨県、石川県、京都府)、弘法の湧水・弘法の井戸(埼玉県)、弘法大師の芋井戸(千葉県)、弘法大師の清水(富山県)、弘法の井・押しのいずみ(石川県)、弘法大師の水(福井県)、お大師さんの井戸・花野弘法井戸(和歌山県)、お水の大師(香川県)、弘法大師御加持水・大師泉・弘法の泉(愛媛県)など弘法大師ゆかりの多くの湧き水が、古くから、病にかかった人々の身体を奇跡的に回復させたと言われる命の水として、また生活のための大事な水として親しまれ、大切に守られています。

 私は、これまでに、郷里(上板、德島)に帰省したとき、マイカー(ファミリア1500CC)で、満濃池(満濃、香川)を一人で、また弟(悟)とも訪れたことがあります。その規模は、池というより大きな湖のような感じがしたのを覚えています。

(参考文献) 香川県の歴史散歩編集委員会: 香川の歴史散歩、山川出版社(1996); 五来重: 高野聖、角川書店(1975); 絈野義夫編著: 北陸の地質をめぐって(日曜の地学6)、菊地書館(1979); 本浄高治: 名水をたずねて、自然人(1992); 石川化学教育研究会編: 科学風土記ー加賀・能登のサイエンス-、裳華房(1997): 本浄高治: 科学風土記ー加賀・能登のサイエンス-、金沢大学大学教育開放サンター紀要、p.73(1998).

2009年6月 9日 (火)

加賀(金沢)の名菓の長生殿と主な原料の阿波(徳島)の和三盆にまつわる歴史伝承、砂糖、日本三大銘菓、和三盆の歴史、とは(2009.6.9)

 古来、人は、長生殿(ちょうせいでん)(石川、金沢、森八)、越乃雪(こしのゆき)(新潟、長岡、大和屋)、山川(やまかわ)(島根、松江、風流堂)を日本三名菓と呼んでいます。

 日本三名菓として、山川の代わりに鶏卵素麺(けいらんそうめん)(福岡、博多、松屋菓子舗、ポルトガル伝来の南蛮菓子、氷砂糖含む)、また越乃雪の代わりに木守(きもり)(香川、高松、三友堂、讃岐特産の和三盆含む)を挙げる人もいます。

 いずれの和菓子もサトウキビから得られた、無機質を豊富に富み、口にふくむと舌にとろけるような甘味、風味と香気を持つ阿波の和三盆(わさんぼん)(阿波和三盆糖、徳島)を主な原料とし、もち米や飴(あめ)などを混ぜて作った落雁(らくがん)と呼ばれ、渋みのある抹茶(まっちゃ)とよくあう高級な和菓子です。

 和三盆は、阿波の玄関口、撫養港(むやこう)(真向かいは土佐泊港、岡崎、鳴門)から北前船(弁財船、帆船)により、大阪経由の西回りで、各地のお菓子の産地に運ばれていました。人的交流も盛んとなり、撫養(鳴門)から嫁をもらった橋立(加賀)の北前船主の家では、阿波さまは黒砂糖を料理に多く使うので、村人が驚いたとのことです。

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長生殿森八、商品のご案内より、金沢) 森八(ホームページ、金沢): http://www.morihachi.co.jp/

(解説) 森八(もりはち)(金沢市尾張町、1625年(寛永2年)創業、江戸初期!)の長生殿は、阿波三盆糖(1790年(寛政2年)ころ、江戸中期製法確立! 初めは唐三盆使用か?)を主な原料とし、加賀もち米(一部に小麦粉、飴?)などを混ぜ、型に入れ干して作るもので、茶道では高級な落雁と呼ばれる和菓子です。

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前田利常第3代加賀藩主、肖像画、那谷寺 所蔵、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E5%B8%B8

 加賀百万石三代藩主 前田利常(1593~1658)の創意により、唐墨に似た長方形に作り上げ、茶道遠州流の始祖、小堀遠州(1579~1647)の長生殿の三字の書が現在の型になっています。 

小堀遠州(大名、茶人、造園家)にまつわる歴史秘話、加賀3代藩主前田利常にあてた書状の発見、長生殿(日本3名菓、加賀)の命名と3字の筆跡、頼久寺(高梁市、岡山)の庭園、砂糖の道、とは(2011.3.14): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/166.html

長生殿(金沢和菓子の素材製法、いいね金沢、金沢市ホームページ): http://www4.city.kanazawa.lg.jp/17003/dentou/bunka/wagashi/index7.html

 また、長生殿は、山形から取り寄せた本紅で彩りを添え、伝統的な味と気品をかたくなに守っています。本紅は、エジプト原産のキク科の越年草である紅花(べにばな)から取り出します。その色素はカルタミンと呼ばれる天然の有機化合物(配糖体)です。

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阿波和三盆糖 岡田製糖所(引野、上板、徳島): http://www.wasanbon.co.jp/wasanbon

(解説) 和三盆は、サトウキビを絞り(汁液中の糖度は15~20%)、煮詰めて得られた褐色の糖(あくぬき、石灰で中和、不純物抜き、結晶化、白下糖)を麻布でくるみ、重しをかけ(酒屋の糟絞りの流用、押し槽)、さらにお盆の上で少量の水をかけながら手で押し、十分に練り回し、麻布にくるんで絞る(水による糖蜜と色素の抽出除去、研ぎ槽)と得られます。かってはこの作業が3回だったことから三盆糖の名が生まれました。

 和三盆の有機質には、フラクトオリゴ糖含量が多く、また無機質として、鉄、カルシウム、マグネシウム、ナトリウム、カリウム、リンなど12成分が確認されています。

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サトウキビ畑(引野、上板町、徳島) 上板町(ホームページ、徳島):http://www.townkamiita.jp/bunya/kanko-bunka/上板町(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%BF%E7%94%BA

(解説) 私の郷里、阿讃山麓の上板町(旧松島村)引野(ひきの、徳島)の丸山徳弥(まるやまとくや、山伏(玉泉)、修験者、熊野庄、俗称和田徳弥)が1776年(安永5年)に日向(宮崎県)の延岡からサトウキビをこっそり持ち帰り試植したのが和三盆の始まりで、製糖については、江戸中期、1793年(寛政5年)頃に粗糖(白下糖)、1798年(寛政10年)頃に三盆糖の製法を確立したと言われています。

 近年、阿波三盆糖は、黒糖系(糖蜜多く無定形)の日向産の砂糖とは異なるので、阿讃山脈を越えた讃岐(香川)のサトウキビの品種と讃岐三盆糖の製法が伝わったと考える方が史実に近いことが指摘されています。

和三盆(わさんぼん、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E4%B8%89%E7%9B%86.

 阿讃山麓の阿波(上板、土成など)、讃岐(三本松、白鳥、津田など)が甘蔗の適地として、またその適種についても薩摩(鹿児島)からのお遍路さんで、阿波の丸山徳弥はある修行僧、讃岐の向山周慶は関良介という薩摩人で四国遍路の途中急病になり助けてあげた人らより教えられ、入手したとも言われています。

 阿波と讃岐の三盆糖、その原料の白下糖(糖蜜少なく結晶化)の作り方も、非常によく似ています。讃岐和三盆創案(糖蜜と色素の除去操作で、押し船は酒の糟絞りの工夫、研ぎ船は手水で米を研ぐ要領)は、第5代高松藩主松平頼恭(まつだいらよりたか、1711~1771)の命による、池田玄丈、平賀源内、向山周慶(さきやましゅうけい)の調査、研究の継承により、第8代藩主松平頼儀(1775~1829)の時、1790年(寛政2年)頃、1803年(享和3年)?、阿波和三盆より早く製法を完成と言われています。松平頼恭(1711~1771、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E6%81%AD. 

その頃、阿波の徳島藩は、第11代藩主 蜂須賀治昭(1758~1814)の時代となっています。

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蜂須賀治昭(1758~1814、第11代徳島藩主、阿波、徳島)

  江戸の中期(1800年代)の頃は、阿波と讃岐は、四国遍路や借耕牛(かりこうし、讃岐の呼び名)、米取り牛(こめとりうし、阿波の呼び名)、砂糖締牛(さとうしめうし、讃岐、阿波の呼び名)の利用など、また婚姻関係(讃岐男に阿波女! とか)も多く、阿讃山脈の近くの街道、峠を通じての交流、往来が盛んに行われていました。  阿波街道詳説(三水会、琴平、香川):http://space.geocities.jp/mt9882axel/awakaidou.html

 現在も、徳島、香川では、和三盆の原料として、1600年(慶長5年)頃に中国から初めて琉球(奄美大島、沖縄)に導入されたシネンセ種(中国細茎種)、竹糖が用いられています。

  この間、1869年(明治2年)に沖縄でシネンセ種の中から読谷山(よみたんざん)品種が選抜され、琉球弧の栽培地域に普及を広げました。茎はやや細いが分けつが比較的に多く、株の再生も中庸です。黒糖原料としての美味しさと栄養性、機能性を兼ね備え、フラクトオリゴ糖含量が多いなどの長所を持っています。今も、香川、徳島では和三盆の原料として用いられています。

 また、幕末の頃の全国の砂糖(糖蜜多い黒砂糖、粗糖の白下糖、再製糖の三盆糖など含む)の生産量は、讃岐は6割、次いで阿波は2割ほど占め、量の讃岐、質の阿波! と言われました。

 阿波の砂糖は主に城下市中の問屋を通じて、撫養から大阪の砂糖問屋へ送り出されています。明治以後は、外国産砂糖の輸入に押されて衰退しましたが、今も和三盆だけは昔ながらの製法の伝統が頑なに守られ、高級和菓子の原料として用いられています。

 (参考文献) 伊藤恭子編: 「金沢の旅」、和菓子、日本交通公社出版事業局(1984); 児島光一: 和三盆糖・藍ー歴史と製法の概要-、教育出版センター(1989); 湯浅良幸(徳島史学会)編: 徳島の歴史散歩、山川出版会(1995); 香川県の歴史散歩編集委員会: 香川の歴史散歩、山川出版社(1996); 牧野隆信: 日本海の商船 北前船とそのふる里、北前船の里資料館、加賀市地域振興事業団(1999); (財)とくしま地域政策研究所編: 四国のいのちー吉野川辞典ー自然/歴史/文化ー、三好昭一郎、阿波和三盆糖、農文協(.1999); 伊藤汎(監修): 砂糖の文化誌ー日本人と砂糖-、八坂書房(2008).

(参考資料) ○ 和三盆(google画像検索): https://www.google.co.jp/search?q=%E5%92%8C%E4%B8%89%E7%9B%86&hl=ja&rlz=1T4GGNI_jaJP523JP523&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=aqZPUs-SN8uXkwWPtYDoBg&ved=0CDwQsAQ&biw=1366&bih=588&dpr=1

 全国菓子大博覧会(日本の地方博覧会の一つ、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E5%9B%BD%E8%8F%93%E5%AD%90%E5%A4%A7%E5%8D%9A%E8%A6%A7%E4%BC%9A. 

 1994年(平成6年)、第22回全国菓子大博覧会が金沢市の主催で、石川県西部緑地公園・石川県産業展示館で開催されるということで、さっそく足を運び日本全国の和菓子三昧にひたったことを覚えています。私の郷里(鍛冶屋原、上板、徳島)の瀬部製菓も、和三盆を使った和菓子を創作して参加された(?)ような気がします。

○ 阿波和三盆糖の里(引野、上板、徳島)、糖源公園(丸山徳弥碑)、高野池(溜池)、吉野川北岸用水、川瀨惣次郎(養蚕、農学博士)、旧制学校、父の囲碁、父母、ふるさとの家、砂糖の歴史(2010.4.22): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-c430.html

(追加説明) ○ 砂糖、日本三大銘菓、和三盆の歴史 

 古道の長崎街道は、長崎から佐賀、小倉へと続き、シュガーロードとも呼ばれている砂糖の道です。安土・桃山、江戸時代の頃、スペイン、ポルトガル、中国などから渡ってきた砂糖や南蛮菓子(コンペイトウなど)が、この街道を通して全国に広まりました。

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徳川吉宗像(徳川記念財団蔵、Google画像) 徳川吉宗(とくがわよしむね、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%90%89%E5%AE%97

 日本においてサトウキビの栽培がよりひろく広がったのは、18世紀のはじめ、将軍(8代)徳川吉宗(1684~1751)が強く奨励してからという。吉宗は各藩にサトウキビの苗を渡し、栽培の実験をさせました。その結果、今の四国、中国、近畿など各地方で、サトウキビが盛んに栽培されたという。

 これは、外国産(オランダの金平糖(コンペイトウ)、中国の唐三盆など)の長崎での輸入の砂糖が高価だったので、徳川吉宗の奨励策により、この種を日本各地に普及させたという。

 琉球の砂糖はほとんど黒糖でしたが、19世紀前半になると、今の香川県徳島県にあたる讃岐(さぬき)、阿波(あわ)などで、精白糖がつくられました。このような日本特有の精白糖を和白糖という。

 明治になって、外国産の砂糖が大量に流入すると、琉球を除いて、日本のサトウキビ栽培はほとんど対抗できず消滅していきました。が、和白糖のなかでも、とくに高級品であった讃岐阿波和三盆は、その後も珍重され、生き残ってきたという。(川北稔: 砂糖の世界史、p.151~153、日本の砂糖業、岩波書店(1999).より) 

○ 日本三大銘菓は高級落雁、干菓子という茶菓子ですが、越乃雪は長岡藩(越後)の第9代藩主・牧野忠精(まきのただきよ、1760~1831)のころ、山川は松江藩(出雲)の第7代藩主・松平治鄕(まつだいらはるさと、1751~1816)のころ、長生殿は加賀藩(金沢)の第3代藩主・前田利常(まえだとしつね、1594~1658)のころ特製の和三盆糖の菓子として藩主に贈られたと伝えられています。

 が、阿波あるいは讃岐の和三盆糖は、江戸中期、1790年(寛政2年)ころにサトウキビからつくられ、北前船により和菓子の産地に届けられていることから、長生殿については、加賀藩(金沢)の第11代藩主・前田治侑(まえだはるなが、1771~1802)のころから和三盆糖が用いられた(それ以前は、長崎を通して中国から輸入した白糖、唐三盆が用いられた?)と推測されます。

 また、銘菓の鶏卵索麺は、1673年(延宝元年)創業の松屋菓子舗、初代松屋利右衛門がポルトガル伝来の南蛮菓子を氷砂糖、卵黄から作り福岡(筑前)第3代藩主、黒田光之(1628~1707)に献上したものです。銘菓の木守は、1872年(明治5年)創業の三友堂、2代目大内松次が讃岐特産の和三盆を使って作った和菓子です。

○ 三盆(さんぼん、三盆白、さんぼんじろ、とも)は、広辞苑によれば、上等の砂糖。白砂糖をさらに精製脱色して純白の結晶形としたもの。和菓子に珍重される。初めは中国から輸入し(唐三盆)、江戸時代、享保(きょうほう、1716~1736)頃からわが国でもつくられました(和三盆)。

 また、小百科事典によれば、三盆白は、白砂糖をさらに精製して作った高級砂糖。江戸中期ごろから四国、讃岐、高松で藩営で、また、阿波、徳島でも作られ、中国からの輸入品を唐三盆というのに対し和三盆と呼ばれた。おもに高級和菓子に使用された。今日では遠心分離機などを使用して精製する。

2009年6月 7日 (日)

兼六園の中の名水、金城霊沢と金沢神社の手水舎の水、金沢市内の湧水の水質(ヘキサダイヤグラム)、とは(2009.6.7)

 金沢城はもと真宗(一向宗)の本拠地、金沢御坊の跡地といわれ、ことに兼六園から金沢城址にかけての小立野台地は砂金層を大量に含み、戦国時代には流浪の金屋(かなや)たちが砂金を採掘し、金沢御坊成立の起因となりました。

 このとき沢水を利用して採金したので、「金堀沢」、「金洗沢」などと呼ばれ、金沢の名の起源となっています。そこの立て札には、その昔、芋掘藤五郎(いもほりとうごろう)がこの泉で掘ってきた山芋(やまいも)の自然薯(じねんじょ)の根毛(こんもう)に付着していた砂金を洗い、金洗(かなあらい)沢と呼ばれ、金沢の地名の起こりとなったわき水の伝説が見られます。現在も兼六園の南端には金沢の名称発祥の地「金城霊沢(きんじょうれいたく)」があり、今も絶えることなく水鉢の底から清水が湧き出しています。山芋(やまいも)の自然薯(じねんじょ)(食材事典):http://www2.odn.ne.jp/shokuzai/A2003/Yamaimo.htm.

兼六園(ホームページ、景観地図、金城霊沢含む、丸の内、金沢、石川): http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kenrokuen/point.html.

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金城霊沢(兼六園、金沢)

 金城霊沢ほとりには、学問の神、菅原道真を祭る金沢神社があります。手水鉢(ちょうずばち)に流れ出る水の源は霊沢のすぐ裏にあり、水脈は全く同じものです。その手水舎(ちょうずや)の横に「水のいわれ」の立て札が立っています。

 いわくー「この水は明治11年医学校教師オランダ人ホルトルマン氏の分析にによれば良質の甘水で殆ど混合物がなく少しく硫化シャンカリウムの応検あり軽量の鉄を含むという。効用は貧血及び心臓の衰弱せる人に効あり。以上」。ホルトルマンは、明治初期に兼六園の中にあった医学館附属理化学校(時雨(しぐれ)亭跡、日本最初の噴水前)においてサイエンス(化学、物理、鉱山学、地質学、薬学など)を教えていたお雇い外国人スロイスの後任として、金沢医学校に来任しています。

金沢神社(金澤神社とも、お水取り、手水舎、兼六、金沢、石川): http://www.kanazawa-jj.or.jp/08.html.

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金沢神社の手水舎(てみずや、兼六園、金沢)

(解説) 百年ほど前、すでにこの水が名水であること、水にチオシアン酸カリウムを加えると、少しばかり血赤色を呈するほどの鉄分(第二鉄イオン)を含むということが確かめられています。血の成分ともなる鉄分は薬効があり、また胃に穴のあいた手遅れの患者が、この水を飲用して数ヶ年生きながらえたといわれています。

 なお、毎年6月の金沢百万石まつりの頃に、兼六園茶会の「お水とり」の行事が行われています。まず霊沢の水が金沢神社の宮司によりくみ上げられ、お祓いし、茶筅(ちゃせん)供養をした後、茶会が催されます。

 手水舎(てみずや)で手を洗い、口を漱(すす)ぐ作法は、略式の禊払い(みそぎはらい)で、水の浄化力によって罪や穢(けが)れ、災いを祓(はら)うという宗教儀礼です。何よりも穢(けが)れを嫌(きら)う神を拝するにあたって、先ずは身を清めることが必要でした。

(参考文献) 田中喜男編: 写真図説 金沢の500年、砂金台地、図書刊行会(1982); 石川県兼六園管理事務所、「兼六園」編集委員会編: 「兼六園」、北国出版社(1987); 株式会社橋本確文堂企画出版室編: 特別名勝兼六園ーその歴史と文化ー、本浄高治、兼六園と文化・水の文化ー兼六園の中の名水ー、橋本確文堂(1997); 岩浅真利子: 兼六園にある金城霊沢の水質と水源について(年末報告)、金沢大学理学部化学科分析化学研究室(2005).

(参考資料) 芋掘藤五郎(いもほりとうごろう、ふるさと紹介コーナー、鶴来信用金庫、白山市、石川):http://www.shinkin.co.jp/tsurugi/huru010/hu1110/hu1110.html. ところで、芋掘藤五郎の伝説は、日本全国に分布する炭焼き長者の話と一致しています。 全国炭焼き長者伝説(民俗学伝承ひろいあげ辞典): http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/53070559.html.

金城霊沢の秘密(美多幸夫ブログ、金沢): http://reitaku.web-kanazawa.com/.

(追加説明) ○ 金沢金洗い沢、その昔、砂金を洗って取ったことが名前の由来となっています。金沢にまつわる民話、芋掘り藤五郎は、掘った芋の根に砂金がたくさんからまっており、それを取って藤五郎夫妻は幸せに暮らしたというものです。実は民話だけでなく、金沢を流れる犀川からは砂金が取れ、昔からたくさんの人が川に入って砂金を取ってきました。江戸時代、1608年(慶長13年)、犀川上流にあった倉谷鉱山は、鉛、亜鉛を主に産出した鉱山でしたが、産出していました。その周辺の金を含んだ鉱脈から、砂金が川に流れ込んだと考えられています。砂金は激しい流れにのって上流から流されてくるのですが、岩の割れ目や、ポットボール(甌穴、おうけつ)のような穴があると、そこにもぐり込んでたまります。その場所に草など生えていると、根っこにからまることが多いので、そこを探しワンカケ法により今でも砂金採取することができます。(石川化学教育研究会編: 科学風土記、加賀・能登のサイエンス、四ヶ浦弘、砂金、裳華房(1997).より) 

○ 金沢城はもと真宗(一向宗)の本拠地、金沢御坊跡地といわれ、ことに兼六園から金沢城址にかけての小立野台地砂金層を大量に含み、戦国期には流浪の金屋たちが砂金を採掘し、金沢御坊成立の起因となりました。このとき沢水を利用して採金(ワンカケ法)したので、金掘沢、金洗い沢などと呼ばれ、金沢の名の起源となっています。現在も兼六園の南端には、金沢の名称発生の地、金城霊沢があり、今も絶えることなく水鉢の底から清水が湧き出しています。(石川化学教育研究会編: 科学風土記、加賀・能登のサイエンス、本浄高治、金城霊沢、金沢の名の由来、裳華房(1997).より)

○ 金城霊沢水質(2005年11月、成分イオン量)は、、水温14.5℃、pH6.1、カルシウムイオン6.6ppm、マグネシウムイオン5.4ppm、ナトリウムイオン20.4ppm、カリウムイオン6.6ppm、重炭酸イオン55ppm、塩化物イオン11ppm、硫酸イオン20ppmなどの成分を含む名水でした。ppmは百万分率(100万の中の1の割合)にあたる量です。

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金沢市内の湧水、犀川、浅野川の水質のヘキサダイアグラム

(解説) 金城霊沢水質(2005年11月、ヘキサダイヤグラム解析図)は、各種イオンの溶存量の少ない犀川や浅野川と異なるもので、淡水性の滞留時間の長い被圧地下水に分類されるナトリウムイオンー重炭酸イオン型とよく似ていました。(用語解説、各種イオン、ヘキサダイアグラム解析含む): http://unit.aist.go.jp/georesenv/gwrg/glossary.html.)

○ 金沢神社手水舎水質(2005年11月、成分イオン量)は、、水温15.2℃、pH5. 7、カルシウムイオン5.4ppm、マグネシウムイオン3.5ppm、ナトリウムイオン20.8ppm、カリウムイオン8.3ppm、重炭酸イオン40ppm、塩化物イオン14ppm、硫酸イオン25ppmなどの成分を含む名水でした。ppmは百万分率(100万の中の1の割合)にあたる量です。

 金沢神社手水舎水質(2005年11月、ヘキサダイヤグラム解析図)は、金城霊沢と非常によく似ていて、水源が同じであることが確認できました。

○ 卯辰山花菖蒲園の湧き水水質(2005年9月、成分イオン量)は、、水温16.0℃、pH6. 7、カルシウムイオン6.6ppm、マグネシウムイオン2.4ppm、ナトリウムイオン18.2ppm、カリウムイオン3.6ppm、重炭酸イオン59ppm、塩化物イオン21ppm、硫酸イオン20ppmなどの成分を含む名水でした。ppmは百万分率(100万の中の1の割合)にあたる量です。

 卯辰山花菖蒲園の湧き水水質(2005年9月、ヘキサダイヤグラム解析図)は、金城霊沢と金沢神社の手水舎の水と非常によく似ていることから、これらの湧き水は、医王山(いおうぜん)のふもとの小立野台地(こだつのだいち)の下を流れる医王山系の伏流水であると考えられました。 

○ その後、兼六園が整備されるにあたり、藩校、明倫堂は、1822年(文政5年)、仙石町に移されましたが、金沢神社は第12代藩主、前田斉広(まえだなりなが、1782~1824)のときに建てられた竹沢御殿の鎮守社として、災難除けの神、家業繁栄の神、交通安全の神をあわせ祭り、朝夕兼六園を散策された藩公が領内の平和と繁栄を祈願されたという。一般の人々が自由に神社へ参拝できるようになったのは、1874年(明治7年)5月7日、兼六園が一般に公開されてからです。(金沢神社発行、金沢神社由緒、より)  竹沢御殿(石川新情報書府、兼六園、金沢): http://shofu.pref.ishikawa.jp/inpaku/castle/yomoya/kenrokuen_03.htm. 竹沢御殿の規模(石川新情報書府、兼六園、金沢): http://shofu.pref.ishikawa.jp/shofu/meienki/rekishi/period_d/d01.html.

 

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