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2009年7月の9件の記事

2009年7月29日 (水)

兼六園の曲水中の玉石、尾小屋鉱山下の梯川(小松、石川)水中の礫石に付着した藻による水質浄化、うまい鮎(アユ)は日本のどこの川にいるのか、とは(2009.7.29)

   兼六園の中を流れる曲水の水は、犀川の源水と同じ名水です。ところが、犀川源流下の辰巳用水の取水口水がかなり汚れています。これらの水は、ここから少し下った末(すえ)浄水場の横の水路あたりから専用の地下導水管を通って兼六園の山崎山の裏まで送られ、ゴミを取り除き沈砂池に入れられた後、園内に流れ込んでいます。

 兼六園の曲水は、沈砂池から霞ヶ池までが約570m、幅3~4mのせせらぎであり、花見橋付近と千歳橋下流から板橋付近までの約130mほどの曲水の河床直径5~10cmほどの玉石(ぎょくせき、たまいし)が約12万個ほど敷き詰められてさざ波をたてて美しい流れとなっていますが、下流に行くほど河床の玉石に汚れが目立っています。

 見た目は汚く見えますが、これは(も、緑藻、りょくそう藍藻、らんそう、珪藻、けいそう、など)が光合成により水の中の生物が生きていくために必要な酸素を供給し、また水中の細かい泥を自分のからだに付けて曲水の浄化を行っている姿にも見えます。

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曲水中の玉石の藻(兼六園、金沢、石川)

(解説) 自然の河川では、玉石のような礫石(れきせき)に付着した藻は、降水による水量と流速などの変化により、自然に剥離(はくり)し、また新たに付着し、水中の細かい泥の微粒子もその表面にくっつけて泥まみれになり、水質浄化を繰り返し行っています。

 兼六園の曲水では、さざ波がたつ程度の流域は藻の自然の剥離が行われずに汚れが目立っています。そこで、曲水の美観が損なわれないよう、2~3日に1回、竹ぼうきで水底をはき、玉石に付着した汚泥だけは除去しているそうです。

 ところで、1971年(昭和46年)末閉山の尾小屋鉱山(小松、石川)では、主に黄銅鉱が採掘され、採鉱と選鉱に伴う鉱山廃水の汚染により、梯川(かけはしがわ)水系の郷谷川(ごうたにがわ)と梯川の一部を含む約16kmの水域には、生物はほとんど生存しなくなっていました。

 1997年(平成9年)頃、旧尾小屋(おごや)鉱山(小松、石川)下の梯川(かけはしがわ)の鉱毒汚染と水質浄化を河底の礫石に付着した藻類、特にケイソウ(珪藻)の分布状態を調べたことがあります。この時、尾小屋鉱山近くの梯川の岸辺には、重金属耐性のコケ植物(ホンモンジゴケ、キヘチマゴケ)、シダ植物(ヘビノネゴザ)が群生しているのが見られました。

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河川の岸辺のシダ植物ヘビノネゴザ河床の礫石の藻梯川流域、小松、石川)

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ケイソウの顕微鏡写真(1~6 マガリケイソウ、 7~8 コバンケイソウ

(解説) 尾小屋鉱山に近づくほど藻類中の重金属濃度が高く、特に銅が多く検出され、また、銅、亜鉛、鉛、カドミウムなど鉱山から排出される重金属に耐性が強いとされるマガリケイソウ、コバンケイソウが上流ほど多く、ここでは魚は認められず、下流に行くに従って、この種が減少、他の種類が増える傾向が見られました。 一方、ごく普通の河川に見られるヒゲモが見られる下流方面では、アユやウグイなどの魚が生息するようになっていました。

 また、1999年(平成11年)9月4日(土)、かっては(1955年(昭和30年)頃)、三井神岡鉱山によるカドミウム汚染によるイタイイタイ病(国が認めたのは1969年(昭和44年)頃)で問題となっていた、富山県の神通川流域の水質を河底の礫石に付着している藻類、特にケイソウの分布状態により調査したことがあります。その結果、神岡鉱山の近くの神通川の上流では、尾小屋鉱山下の梯川の上流のような重金属汚染は認められませんでした。

 その日の朝日新聞の朝刊に、河川環境の指標となるアユを食べ比べて自然保護を考えよう(清流を復活させたい)と、高知県友釣連盟(内山顕一、代表理事長)が、3日、初の利きアユ全国大会を高知市内で開いたこと、四万十川はじめ、新潟や愛知、和歌山など10県の27河川からとれた約2500匹を、橋本大二郎知事ら約200人が食べ比べたこと、姿、香り、身など5項目で吟味、さらにアユの塩焼きなども食べた市民による人気投票もあり、最優秀に富山県の神通川のアユが選ばれた新聞を目にして驚き、その記事をスクラップして地元の方にお見せしたことがあります。

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アユの味比べ(高知、1999年(平成11年)9月4日(土)、朝日新聞朝刊、きれいな川にはうまいアユ、高知で味比べ) 

神岡鉱山(岐阜)にまつわる歴史実話、イタイイタイ病(カドミウム汚染、神通川流域)、アユの味日本一(神通川、第1回全国利きアユ大会)、神岡鉱山(近年の周辺の景色)、とは(本浄高治編): http://kanazawa.typepad.jp/weblog/2010/10/kagakufudoki136.html.

(解説) その後、2008年(平成20年)11回までにグランプリをとったのは、高知県内の4河川(安田川は2回、野根川、松葉川、新庄川)、和良川(岐阜県)、宇佐川(山口県)、雫石川(岩手県)、寒河江川(山形県)、損保川(兵庫県)、長良川(岐阜県)で、気象条件なども含め、その年に最もアユに適した環境が保たれていた川のアユが一番おいしかったそうです。

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日本の川で普通に見られるケイソウの顕微鏡写真  ケイソウ(珪藻、ウィキペディア):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%AA%E8%97%BB

(解説) 日本の川で普通に見られるケイソウ(珪藻)は約350種ほど、そのうちアユが生息できる程度のきれいな水域では、約280種ほどのケイソウがあるそうです。アユは、河底の礫石の表面に付着する藻類(藍藻、緑藻、珪藻など)を食(は)むなど、いわゆる、石垢(イシアカ)、コケを食むのですが、なわばりでその回数が多くなるほど、そこのコケは栄養価の高い藍藻(糸状藍藻)が増えていき、それを食べたアユはよく育つとのことです。

 日本各地の河川に放流されている琵琶湖のコアユは、陸封されたために成長が止まったもので、一般の河川に放流すれば大きく育つことを、石川千代松氏、1860年(安政7年)~1935年(昭和10年)、(東京帝国大学教授)は、1913年(大正2年)の春、琵琶湖のコアユを東京の多摩川釜ガヶ淵に放流し、そこで夏に大きく育ったコアユを確かめ証明されました。この学術研究により、日本各地で釣り用の稚魚のアユの放流事業が盛んとなり、今日に至っています。

 私は、琵琶湖の近くの高島(新旭、滋賀)の親戚に、1960年(昭和35年)頃、おじゃましたことがあるのですが、琵琶湖に注ぐ近くの小さな川(水路)の河底が真っ黒になるほど、コアユが遡上しているのを見たことがあります。

(参考文献) 株式会社橋本確文堂企画出版室編: 特別名勝兼六園ーその歴史と文化ー、本浄高治、兼六園と文化・水の文化ー兼六園の中の名水ー、橋本確文堂(1997); 中西、墨田、弓田、山田、本浄: 石川県尾小屋鉱山下の梯川及び鄕谷川における重金属汚染とその藻における状態(英文)、Anal.Sci.20巻、p.73~78(2004); 山田隆史、墨田迪彰、中西良明、本浄高治: 石川県旧銅山下の河川における付着珪藻群集の分布と化学種分析からみた重金属汚染状態、分析化学、53巻、p.883~889(2004). 

(参考資料) 石垢の話: http://www5e.biglobe.ne.jp/~tomozuri/isiaka.html; 富山県鮎釣りWorld: http://turiworld.net/toyama.html; 彦根観光協会、観光情報: 石川千代松像http://www.hikoneshi.com/sightseeing/?itemid=337; 小鮎塚と石川千代松博士http://www012.upp.so-net.ne.jp/sawayaka/newpage093.html 

(追加説明) (あゆ)は、川魚の王として、万葉の昔から賞味(塩焼き、鮎ずしなど)されてきました。鮎には、独特の香味がある香魚とも言われ、また、その腸、子の塩漬け(うるか)は、珍味とされています。

 川魚で、より上流に山女(やまめ)、さらに上流に岩魚(いわな)が棲息しています。岩魚は、冷寒な水を好み、一生淡水に留まる、あめ鱒(ます)の陸封された肉食種で、昆虫などを飛びついて食べ、時には蛇を捕らえて食うという。本州、四国、北海道の高さ1000mほどの山間渓流にも棲息し、黒部峡谷の岩魚釣りは有名です。独特の風味ある美味しい魚です。

アユという名は「落ちる」という意味の古語「あゆる」からという説があります。

加賀100万石藩祖前田利家が眠る野田山墓地、菩提寺の宝円寺、神として祀る尾山神社、とは(2009.7.29)

  古代、加賀と能登は、越前の国の北方地域の扱いでしたが、 奈良時代の中頃、757年(天平宝字元年)に能登の国が分離し、平安時代の初め、823年(弘仁14年)に、律令国家の最後の国として、加賀ができました。

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前田利家(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E5%AE%B6

 加賀100万石初代藩主、前田利家(まえだとしいえ)、1537年(天文6年)~1599年(慶長4年)は、尾張荒子城主の父前田利昌(利春)、母竹野氏(長齢院)の四男として生まれました。天下統一をめざす織田信長に15才の時仕え、長槍(ながやり)の名手で、生涯40数回の戦いに参加、数々の武勲をあげました。

  織田信長(49才)が、1582年(天正10年)2月、本能寺の変で倒れた後、1583年(天正11年)4月、羽柴(豊臣)秀吉(46才)と越前の柴田勝家(63才)との賤ヶ岳(しずがだけ)の戦いに、前田利家(46才)は、最終的には秀吉に仕える形(戦場で中立、のち勝家が与力の関係の解消を告げて北庄に退却、秀吉には和議の誘いに応じて降伏、北庄攻めの先鋒となる)で参加しました。1583年(天正11年)4月24日夕刻、勝家とお市の方(37才)は、北庄城の天守の中で自刃しました。織田信長、柴田勝家に仕えていた佐久間盛政(30才)は、1580年(天正8年)4月、金沢御堂(加賀一向宗の100年にわたる本拠地、大阪本願寺の別院、金沢坊舎)を攻略し、そこを尾山城にしていましたが、賤ヶ岳の戦いで撤退中、越前で捕らわれ、命を落としました。 

 前田利家は、1583年(天正11年)4月27日(新暦6月14日)、佐久間盛政の家臣から尾山城(のち金沢城)を接収(秀吉は28日金沢城に入城)、秀吉の勧めで居城を七尾から金沢に移し、加賀・能登・越中3ヶ国を治める100万石の大名への道を歩み始めました。金沢市では、その入城を祝う金沢百万石まつりが、1952年(昭和27年)以来、毎年6月に盛大に行われています。

 ところで、前田利家ふるさと、尾張荒子(あらこ)城主については、前田利久(嫡男、長兄)が1560年(永禄3年)、父の跡を継ぎましたが、1589年(永禄12年)、織田信長の命によって利家(弟)に家督を譲ったそうです。利家は、1583年(天正11年)に金沢城に入城後、兄の恩を思い、利久を金沢に迎えました。1587年(天正15年)に兄が亡くなると、金沢城の南約4㎞に位置する標高175mの野田山墓所とし、その最も高いところに埋葬しました。また、自分が亡くなると、兄の墓のすぐ下の位置に埋葬するよう遺言しました。

 前田利家は、1599年(慶長4年)閏(うるう)3月3日(63才)、豊臣秀吉の死から8ヶ月足らずで、大阪で病没しましたが、遺骸は長持ちに入れられて、3月4日に大阪を出て、約1ヶ月後の4月6日に金沢に着きました。4月8日には、宝円寺(ほうえんじ曹洞宗、金沢城石川門真向の地)で葬儀が盛大に執り行われました。導師は宝円寺2代和尚、象山除芸(しょうざんじょうん)が勤めました。

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野田山墓碑マップ(野田山、金沢)

  前田利家遺骸は、遺言通り、野田山の兄の利久のすぐ下の地に葬られ、その右隣に利家夫人(おまつ、芳春院)の墓、その右隣に加賀2代藩主前田利長の墓、その一段上、利久の右隣に利長夫人(織田信長の娘、永姫、玉泉院)の墓、また、利家の墓の一段下の左には、加賀3代藩主前田利常夫人(2代将軍徳川秀忠の娘、玉姫、天徳院)の墓、さらに一段下の左端に加賀3代藩主前田利常の墓が配置されていて、死去後も生前の身分に応じた丁重な扱いの配慮が感じられます。また、野田山墓地の入口近くに、1600年(慶長5年)加賀初代藩主前田利家の墓守寺(菩提寺)として、桃雲寺(野田宝円寺)が建立されています。

 藩主前田家墓地(6万6000平方メートル)の下側には、家臣、町人、百姓、また、明治以降は一般市民の墓地ともなり、墓石の数5万余りの一大霊園地(約41万平方メートル)となっています。また、今もおやお彼岸になると、野田山墓地には多くの人々のお参り、また、キリコと呼ばれる灯籠(とうろう、南無阿弥陀仏名号)の飾りつけなど、信仰心の厚い先祖供養の姿が見られます。

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前田利家の墓(加賀初代藩主、野田山、金沢)

 江戸時代、前田利家はじめ一族は、土饅頭(どまんじゅう)の墳墓として埋葬されていました。前田家の祭祀が神式に改められたのは1874年明治7年)です。1877年(明治10年)5月には、「野田山ノ廟所ナル廟堂ヲ取除け、更ニ碑石及ビ鳥居ヲ建ラレ」となり、藩主の墓の入口には鳥居、その奥にはを築き、その前に石柱墓標が立てられました。

 これは、明治新政府が、1868年(慶応4年、明治元年)に出した神仏分離令(しんぶつぶんりれい)の影響を受けたと思われます。王政復古(おうせいふっこ、天皇親政)、祭政一致(さいせいいっち、神祇祭祀と政治一体化、近代天皇制国家)の理念に基づき、奈良時代以来の神仏習合(しんぶつしゅうごう)、神仏混淆(しんぶつこんこう)を禁止し、神社から仏教の排除を法令で定めました。このため、寺院の破壊、神社の合祀などが起こりました。

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加賀藩主の墳墓(松の木が乱立、野田山、金沢)

 私は野田山の麓(ふもと)の近く、平和町(1丁目、3丁目)の公務員宿舎で、1972年(昭和47年)から2003年(平成15年)まで住んでいましたが、野田山墓地は徒歩5分ほどの所にあり、よく散策しました。歴代藩主の土饅頭(どまんじゅう)の墳墓の上に実生(みしょう)の松の大木が何本も生えていて、伐採されているものもありましたが、藩主が松の姿に変わったと思われる、異様な感じがしました。

 また、野田の町の入り口から前田墓地に至る参道の排水路の両脇には、シダ植物ヘビノネゴザ(蛇の寝御座)が群生あるいは散生しているのを見つけ驚きました。ここの墓地では、塩素系の除草剤を使って墓地の除草をしていましたが、ヘビノネゴザはすぐに芽を出し生育するので、一般の雑草とは異なり、除草剤に対する耐性があると思いました。

 加賀2代藩主前田利長は、金沢城の鬼門(きもん、北東)にあたる卯辰山(うたつやま)八幡宮に父、利家を合祀(ごうし)しました(鬼門封じ)。明治維新、1871年(明治4年)7月の廃藩の後、1873年(明治6年)、旧藩の重臣達がこの社を金沢城の西側の金谷御殿(かなやごてん、金沢城の金谷出丸)に新社殿を造営して遷宮、社名を藩祖前田利家を祀る尾山神社(おやまじんじゃ)とし、1875年(明治8年)に3層の神門和中洋折衷方式)を完成させました。また、本殿の右手には、金谷神社(摂社)を造り、歴代藩主を祀っています。

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尾山神社(おやまじんじゃ、 本殿、金沢)

(解説) 尾山神社神門造営の発起人は長谷川準也(金沢製糸会社設立)、設計、造営工長津田吉之助、金沢医学館(のち金沢大学医学部)の教師をしていたオランダ人のホルトルマン、その前任のスロイスが指導したと言われています。初層の3連アーチの骨組みは完全に木造で、3層目ステンドグラス(5色のギヤマン)に灯された明かりが、ここから北西7kmの金石(かないわ)に出入りする船の燈台の代わりにもなりました。 市民には、文明開化の西洋かぶれと言われたそうですが、今では金沢市総鎮守(そうちんじゅ)的な役割を担っています。

(参考文献) 石川県の歴史散歩研究会: 石川県の歴史散歩、山川出版(1993); 下郷稔: 兼六園の今昔 加賀百万石の庭、中日新聞社(1999); 図説前田利家編集委員会: 図説前田利家、尾山神社、北国新聞社、橋本確文堂(1999).

(参考資料) 前田利家(google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E5%AE%B6&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

温故収録: 金沢市立玉川図書館近世史料館; 野田山墓地金沢市編: 金沢市文化財紀要200,金沢埋蔵文化財センター(2003); 野田山の墓碑をたずねて: http://www17.ocn.ne.jp/~hrc/dentou/nodayama.htm ; 野田山墓地(前田家墓地)(金沢の総合情報、きまっし金沢): http://kimassi.net/nodaboti/nodaboti.html ; 尾山神社(金沢の総合情報、きまっし金沢: http://kimassi.net/oyamajinja/oyamajinja.html

(追加説明)○ 1575年(天正3年)、織田信長の北国軍団長、柴田勝家の配下、その一員として越前(府中、武生)の3万3000石の大名となっていた前田利家(41才)は、1581年(天正9年)に能登一国の23万3000石を与えられ、小丸山(標高30m、所口、ところぐち、七尾)に城を築き、1582年(天正10年)、越中の魚津城(うおづじょう)の越後の上杉勢を攻略中、1582年(天正10年)、本能寺の変で主君信長を失いました。

 前田利家は、1581年(天正9年)、越前から能登に移り、小丸山七尾)に城を構え、また、1582年(天正10年)、城の近くに越前の寺と同じ名の宝円寺を建立し、大透和尚を招き開祖としています。それから2年後、1583年(天正11年)に金沢城に入った利家は、七尾の寺は長齢寺(ちょうれいじ)と改名し、再び金沢城の東南に、石川門と相対する山門を持つ寺を建立し、大透和尚が住職を勤める、前田家の菩提寺宝円寺としました。

 この宝円寺という名のお寺は、利家が信長から3万3000石を賜り、越前(府中、武生)に城を構えていた頃、城の近くの高瀬村にに宝円寺曹洞宗、そうどうしゅう)というお寺があり、その寺に父母の位牌(いはい)を移し、命日には必ずお参りしたそうです。寺の和尚は大透圭除(だいとうけいじょ)でした。

 前田利家が1583年(天正11年)に金沢城に入城後まもなく、金沢城の真向かいの平坦な土地(のち千歳台、ちとせだい、兼六園)に、菩提寺宝円寺(ほうえんじ)など二つのお寺が建立されています。 この宝円寺は、建立されてから30年後の1620年(元和6年)、その地を奥村伊豫、横山右近など7人の老臣の屋敷とするため、現在の宝町移転されています。1万1千坪の宏大な敷地で建立された宝円寺は、1868年(明治元年)1月28日に全焼し、現在の寺院は假堂として建立されたものです。

 菩提寺については、2代藩主前田利長(としなが)は、瑞龍寺(高岡、富山)ですが、3代藩主前田利常(としつね)、6代藩主前田吉徳(よしのり)、8代藩主前田重熙(しげひろ)、10代藩主前田重教(しげみち)、11代藩主前田治脩(はるなが)は、初代藩主前田利家と同じ宝円寺(金沢、石川)となっています。

 一方、天徳院(小立野、金沢)を菩提寺として、そこの墓地に 葬られていた4代藩主前田光高(みつたか)、5代藩主前田綱紀(つなのり)、7代藩主前田宗辰(むねとき)、9代藩主前田重靖(しげのぶ)、12代藩主前田斉泰(なりなが)はじめ一族の12基の墓は、1952年昭和27年)、野田山墓地改葬されています。

 尾山神社神門設計を指導したホルトルマンは、兼六園の金沢神社の手水舎の水も分析し、その水は少し鉄分を含むが名水であると、神社の水のいわれの立て札に出ています。また、卯辰山の通称、フタワレ地内に行くと、一隅に一つのお墓があります。これは、ホルトルマンが、在任中の1879年(明治12年)に、猖獗(しょうけつ)を極めたコレラで3人の愛児を失い、この地に葬ったという悲しいお話が伝えられています。 

○ 前田利長

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前田利長(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E9%95%B7

 加賀の2代藩主前田利長(1562~1614)は、1599年(慶長4年)閏(うるう)3月3日、初代藩主前田利家(63才)死去後、即日、豊臣政権の五大老に列しました。利家は遺言の中で、利長は3年間は大坂に留まり、加賀には下ってはならぬと言い残していたのですが、徳川家康の勧めで、8月末に、金沢に帰りました。

 利長ら四大老が帰国すると、9月7日、伏見の家康は大坂に赴きました。その夜、増田長盛が家康を訪ね、浅野長政、土方雄久らが利長と共謀して、家康暗殺を企てていると密告しました。そこで、家康は、小松城の丹羽長重らに利長追討(加賀征伐)を密命しました。

 利長は、越中で放鷹中に、宇喜多秀家(義弟)の使者から、自分が讒言(ざんげん)されたことを聞き、早速、横山長知を大坂に派遣して家康に弁明し、母親の芳春院(まつ)を人質として江戸に送ることを約しました。この年、利長は権中納言を辞して恭順の意を示し、一方、高山右近の力を借りて、金沢城に惣構(そうがまえ)の掘を造り、万一に備えました。

 翌1600年(慶長5年)5月、前田家のため母を捨てよ、と伝言して、芳春院は大名妻子の最初の人質として、伏見から江戸に向かいました。その後、利長は、家康の命に従い、会津の上杉景勝討伐、7月、石田三成挙兵の関ヶ原の戦に向け、弟利政(能登領主)と共に軍を西に向けました。利長は、8月3日、石田方の大聖寺城の山口宗永を討ち、越前に進み金沢に引き返す時、小松城の丹羽長重に急襲される、浅井畷の合戦がありました。金沢に戻った利長は、家康に美濃への出兵を命じられましたが、利政は動きませんでした。利長が、人質として利常(弟)を小松城に送り、長重と和し、西上の途についたときには、既に関ヶ原の戦は終っていました。

 利政は、家康の命に従わなかったので、10月17日、能登(22万5000石)を没収され、山口宗永、丹羽長重の旧領と共に、利長に与えられました。かくして、利長は、加越能三ヶ国(120万石余り)の大大名となり、利常(9才)を跡継ぎとし、徳川秀忠の次女、珠姫(3才)と婚約させ、その4年後、百万石の家督を譲り、高岡(越中)で隠居しました。大坂の役では、利常が徳川軍として参戦、冬の陣の真田丸の攻防戦で大敗しましたが、夏の陣の河内口、天王寺・岡山の戦では、大きな軍功をあげました。その後、前田家は、明治維新までの約270年、加賀藩主(14代まで)として、加越能三ヶ国に君臨しました。

○ 前田家家紋梅鉢(うめばち)なのは、菅原道真の後裔(こうえい)とのことです。

○ 江戸時代に金沢城に水を引いた辰巳用水石管が富山県砺波市庄川町で産出した金屋石緑色凝灰岩)であることを紹介する立て札が、2013年4月18日(木)、金沢市兼六町の金沢神社内板屋神社遥拝所に立てられました。

 加賀3代藩主前田利常のとき、辰巳用水がつくられ、兼六園から金沢城への導水に木管が使われていました。のち、江戸時代後期に木管の腐食のため石管に取り替えられ、戸室山(金沢市)の戸室石が使われていたのですが、1843年(天保14年)以降の金沢城修復の際に、辰巳用水を引く水路に金屋石が使われたという。(北陸中日新聞:辰巳用水の石管は金屋石、金沢神社に紹介立て札、2013年4月19日(金)、朝刊)

2009年7月17日 (金)

加賀・能登(石川)の和紙、金箔打ちの雁皮紙(川北)、奉書紙(二俣)、行灯張りや壁掛けの仁行紙(輪島)、とは(2009.7.17)

  古来、日本和紙は、(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)の樹皮などを原料とし、伝統的紙漉き(かみすき)手法で作られた紙のことです。中国で発明され、飛鳥時代高句麗(こうくり、朝鮮)の曇徴(どんちょう)によって日本に伝えられた紙漉の手法は、江戸時代には、土佐(とさ、高知)、美濃(みの、岐阜)、越前(えちぜん、福井)、若狭(わかさ、福井)、駿河(するが、静岡)をはじめ全国に普及しました。

 各地特色ある多くの製品として、檀紙(だんし、楮、福井)、奉書(ほうしょ、楮、福井、石川)、土佐和紙・美濃紙(とさわし・みのし、楮、三椏、雁皮)、典具帖紙(てんぐじょうし、楮、岐阜)、杉原紙(すいばらし、楮、兵庫)、鳥の子紙(とりのこし、雁皮、福井)、札紙(さつし、楮、全国各地)、宿紙(しゅくし、漉き直しの中古和紙)などが作られています。

 加賀と能登(石川)に現存する和紙の産地は3ヶ所です。そこでは、雁皮から作られ、金沢の金箔(きんぱく)打ちに使われている雁皮紙(がんぴし、能美郡川北町中島)、楮から作られる奉書紙(ほうしょがみ、金沢市二股町)、杉皮や若竹などから作られる行灯(あんどん)張や壁掛用の仁行紙(にんぎょうし、輪島市三井町仁行)など、特色ある伝統的な和紙が見られます。

 本来の和紙作りは、楮、三椏、雁皮などの樹皮を木灰で煮て繊維を取りだし(蒸煮、漂白、除塵)、その繊維を叩いて細かくほぐし(叩解、こうかい)、トロロアオイ(アオイ科)の根の粘液(ねり)を加え、簡単な漉き具による手漉き、流し漉き(ながしすき)が有名です。また、古来、ねりを使わない溜漉き(ためすき)の手法もあります。

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二俣の紙漉き和紙(奉書紙、金沢) 加賀二股和紙(かがふたまたわし、全国手すき和紙連合会、石川県): http://www.tesukiwashi.jp/p/kagafutamata1.htm

(解説) 和紙主成分は、セルロース(ブドウ糖を単量体とする線状の縮合重合体)と呼ばれる天然の高分子化合物です。昔はカセイソーダを使わず、木灰で植物繊維を煮て取りだしていました。トロロアオイの根の粘液(ラムノースとガラクチュロン酸を主成分とする長い鎖状の複合多糖類)を利用した流漉きが我が国の独自の紙すき手法です。

 加賀雁皮紙は、江戸時代から能美郡那谷寺付近の丘陵地に自生する雁皮を原料として作られていました。金箔打ち紙は、まず雁皮紙を機械で打ち、わら灰の灰汁や渋柿(主成分はシブオール、フェノール性化合物)、卵白などの混合液に浸けて乾燥させます。さらに機械で打つ工程を繰り返し、表面を滑らかにして仕上げます。一万分の1mmと非常に薄く延びる金箔を扱うため、その表面を滑らかにする必要があります。

 二股の和紙作りは、奈良時代の719年(養老3年)の頃からで、医王山の周辺で自生する楮を原料とし、繊維が水中で均一になる冬の寒い時に行われていました。最初は写経や布教用に使われていたようです。1593年(文禄元年)、前田利家から加賀藩御料紙漉きの指定を受け、加賀奉書紙を作るようになりました。 

 能登の仁行紙は、能登半島で生まれた野趣溢れる紙で、山野の草花、クマザサ、杉皮、海草などを原料として漉き込んだ和紙です。 能登仁行和紙(You Tube): http://www.youtube.com/watch?v=MqyQOdMi5_Q

 明治になり、洋紙(原料、木材パルプ)の製造が導入されると、和紙は次第に衰退して行きました。今日の和紙の多くは、洋紙の影響を受け、その製法が近代化され、その特色が失われがちなので、昔の手法の良さが見直されてきています。

(参考文献) 平凡社小百科事典編集部編: 小百科事典、平凡社(1973); 町田誠之: 紙の科学、講談社(1981); 石川県高等学校野外調査研究会編: 加賀・能登の伝統産業、能登印刷出版部(1994); 石川化学教育研究会編: 科学風土記、加賀・能登のサイエンス、板垣英治、柿のしぶと金箔、雁皮紙、裳華房(1997).  

(参考資料) 全国手すき和紙連合会ホームページ: http://www.tesukiwashi.jp/index.htm

(追加説明) ○ 2014年(平成26年)11月26日、ユネスコ(国連教育科学文化機関)は、日本政府が無形文化遺産に提案していた「和紙 日本の手漉(てすき)和紙技術」について、登録決定しました。

 今回は「細川(ほそかわ)」{埼玉県小川町、東秩父村)と「本美濃紙(ほんみのし)」(岐阜県美濃市)を、既に登録済みの「石州半紙(せきしゅうはんし)」(島根県浜田市)と一括登録し直し「和紙」としました。

 これらは、いずれも原料にクワ科の落葉低木の(こうぞ)を用いるなど、8世紀以来の伝統工芸技術です。(北陸中日新聞: 和紙 無形文化遺産に ユネスコが登録決定、2014年(平成26年)11月27日(木)夕刊)

2009年7月16日 (木)

冬の雪を氷室に納め夏に江戸の徳川将軍に献上、金沢城(玉泉院丸の穴蔵)と兼六園(山崎山裏の凹地)の氷室、日本最古の噴水、とは(2009.7.16)

  奈良時代、冬に氷を納め夏まで貯蔵する施設があり、氷室(ひむろ)と呼ばれていました。日本書紀の闘鶏(つげ)氷室の氷貢納起源説話、長屋王家の都祁氷室(つげひむろ、氷室の管理職)関係の木簡(もっかん)によれば、氷室は径と深さは約3mのすり鉢状の坑(あな)で、茅(かや)等を敷き氷を積み草で覆ったもので、製氷池を伴ったものです。

 奈良時代に朝廷御用達の氷は御蓋山の山麓で作られた氷室から献上されたとあります。仰られている『日本書紀』の氷室起源説話などに基づく神社は奈良県天理市福住町浄土184に鎮座している都祁氷室神社ではないかと推測されます。コメントありがとうございました。(Yahoo! ブログ、氷室神社、my norityさんより、2016.3.23)

 平安時代、延喜式によれば、元日節会で氷室の氷の厚さを計って奏上し、新年の作柄を報告(氷様奏、ひのためしのそう)、4~9月には、山城、大和、河内、近江、丹波の10ヶ所21室の天皇に献上しました。氷室は、一般的に近代初期まで各地で利用され、遺跡も発掘されています。

 兼六園の山崎山の裏にある凹地(おうち)が、氷室跡(ひむろあと)です。冬に降り積もった雪を凹地に投げ込み、藁(わら)で覆い、雪を固く締まった雪氷として貯えたそうです。この氷室跡は、兼六園が一般市民に開放された、明治以降から昭和の半ばにかけて、庶民の氷室として使われていました。藩政時代、1839年(天保10年)の氷室の位置は、絵図では谷とだけ説明されています。

 一方、金沢城内には、加賀5代藩主前田綱紀(つなのり)が造らせた、玉泉院丸(ぎょくせんいんまる、2代藩主、利長夫人が居住)氷室がありました。この氷室は、穴蔵を掘り、その周囲を戸室石で囲い、その中に冬に雪を詰めた木箱を入れ、その外回りにも雪を詰めて夏まで貯えていました。この管理は、城中露地(茶庭)の管理人、手木足軽(てこあしがる)に守らせていたそうです。というわけで、下郷稔氏は、江戸の徳川将軍に献上した氷室の氷は、兼六園のものではなく、玉泉院丸の氷ではないかとのご意見です。

 江戸時代、加賀藩では、旧暦6月1日(今の暦では7月1日)に氷室から凍った雪を切り出し(氷室開き)、桐の二重造りの長持ちに納め、八人の飛脚(八枚肩)により、遠く江戸の加賀邸に昼夜をついで急送されました。その氷は、徳川将軍に献上すると共に家臣にも分け与え、夏に雪を食べて風流を楽しんだと言われています。また、江戸に送られてきた氷雪の保存のためと思われる氷室が加賀藩江戸上屋敷にもあったそうです。

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日本最古の噴水と氷室跡(兼六園、金沢)

(解説) 1631年(寛永8年)、加賀の城下町で火災が起こり、金沢城の本丸も焼けてしまいました。そのため、加賀3代藩主、前田利常は、防火用水、農業用水として、また城周辺の空堀に水を満たすため(金沢城防衛)、犀川の水を兼六園経由で金沢城内まで運ぶ辰巳用水を板屋兵四郎にに造らせたと言われています。その時に逆サイホンの原理(伏越の理、ふしこしのり)を利用して、霞が池の水面と同じ高さの金沢城の二の丸まで水を木樋(のち石管)で引き入れました。これは、江戸の神田上水の技術を導入したものと考えられています。 辰巳用水板屋兵四郎、逆サイホンの原理含む): http://suido-ishizue.jp/nihon/03/01.html. 金沢の用水(金沢市キッズページ): http://www4.city.kanazawa.lg.jp/kids/01/keikan/yousui.html

 ところで、水圧を計るために造られたと思われる日本最古の噴水(高さ約3.5m)が、今も時雨亭跡の前で勢いよく噴き上げています。しかしながら、この噴水の築造の確かな史料はなく、1860年(万延元年)頃の作成と推定される兼六園図にも、噴水は見られないので、金沢城二の丸御居間に造られた噴水と同じ、加賀13代藩主前田斉泰の頃の、1861年(文久元年)に築造されたと考えられています。

 一方、その取水口山崎山に設けられており、すぐ裏に氷室がありその地域は、金沢城から巽(たつみ、東南)の方角にあり、外惣構(そとそうがまえ)掘、土累(どるい、土居)とケヤキの植樹などがあり、金沢城の防御の目的もあったと考えられています。そして、氷室の位置が、図面では谷との記録は、城の隠れた守りの一つとも考えられ、ここの氷を江戸に運んだとは考えにくそうです。

 兼六園の東隅にある山崎山(周約160m、高さ9m、長さ60m)は、野生のケヤキ(24mほど)が生えたかなりの自然林ですが、昔はケヤキの巨木を等間隔で植えてあったそうです。いわば、金沢城を大木で覆い隠して守っていることになります。

 今では、崖の東南側に氷室遺跡があり、水をたたえています。その西側斜面はなだらかで多数のカエデの植栽があり、紅葉の美しさから紅葉山(もみじやま)とも呼ばれています。

 湯涌温泉(ゆわくおんせん、金沢)の地域では、氷室小屋に大寒の雪が詰め込まれ(氷室の仕込み)、6月に雪が取り出される(氷室開き)など、歴史的伝統行事として復古保存されています。また、金沢市とその周辺では、7月1日に氷を模したと言われる氷室饅頭(紅白、あん入り饅頭)を食べて無病息災を祈る習慣が続いています。

(参考文献) 永原慶二監修、石上英一ほか8名編: 岩波日本史事典、岩波書店(1999);下郷稔: 兼六園歳時記、p、38-39,藩政時代にあったのか、兼六園の氷室、能登印刷出版部(1993); 株式会社橋本確文堂企画出版室編: 特別名勝兼六園ーその歴史と文化ー、橋本確文堂(1997); 竹井巌: 金沢の氷室と雪氷利用、北陸大学紀要、28号、p.49~62(2004); 宮元健次: 名城の由来、そこで何が起きたのか、光文社新書(2006).

(参考資料) 金沢城惣構跡かなざわじょうそうがまえあといいねっと金沢、金沢市ホームページ): http://www4.city.kanazawa.lg.jp/11104/bunkazaimain/shiteibunkazai/kinenbutsu/sougameato.html.

(追加説明) ○ 氷室の行事

 江戸時代に、加賀の氷雪を江戸に運んだこと、またこれを徳川将軍に献上したことについては、加賀藩前田家の公式文書には記載がないそうです。江戸の前田家に仕えていた古老からの聞き書きによるものです。

 一方、江戸時代には、六月朔日(新暦7月1日)は、徳川幕府が幕藩体制の中で、氷室の日(氷室の節句)とし、庶民を含めた年中行事が行われて いました。1838年(天保9年)の「東都歳時記」には、六月朔日して「氷室御祝儀(賜氷の節)加州候御藩邸に氷室ありて今日氷献上あり。」と記載されています。(朝倉治彦校注: 東洋文庫177、東都歳時記2、p.74、平凡社(1987)より)

○ 日本最古の噴水の根拠

 下郷稔: 兼六園の今昔 加賀百万石の庭、p.139~141 最古説を競う噴水 日本庭園では珍しい修景施設、中日新聞社(1999)には、噴水の築造年は確かな資料がなく特定できないが、偕楽園の噴水は水戸9代藩主・徳川斉昭が、天保13年(1842)に完成させたことになっているが、兼六園の噴水は年代のない絵巻に載っているので、看板の文久元年(1861)ではなくてほぼ偕楽園と同時期だろうと推測し、日本最古の噴水とのことです。

偕楽園の噴水(護国神社、玉龍泉、郷土いいとこ再発見、水戸商工会議所、茨城県):http://mito.inetcci.or.jp/110iitoko/shiseki/03gokoku.html

 

2009年7月15日 (水)

兼六園の周辺の湧き水と鉄バクテリア(赤褐色代謝分泌物)による水質浄化、とは(2009.7.15)

 兼六園の中の名水金城霊沢とその水源が同じ金沢神社の手水舎の湧き水については、1878年(明治11年)、加賀藩の医学校教師、オランダ人のホルトルマンの分析により、これらの湧き水には少し鉄分を含むことが、水のいわれの立て札に説明されています。

 ところで、兼六園の周辺で、湧き水が見られる石垣のところどころが赤茶けています。なかでも寄観亭(きかんてい)横の道路側の石垣や排水溝の周辺一帯は、鉄管の赤さびを思わせる赤茶けた色で覆われています。これは湧き水の中に鉄分が多く、それをエネルギーとして生育する鉄バクテリアが異常に繁殖していることを示しています。

兼六園の湧き水と鉄バクテリア 現場の状態、下左 鉄バクテリアが繁殖している水中の赤茶けた物質の顕微鏡写真(1000倍)、 下右 鉄バクテリアが繁殖している湧き水を蒸発させた時に残留した物質のケイ光X線スペクトル、寄観亭下、金沢、石川)

(解説) 湧き水の中に鉄分が多いと、それをエネルギーとして生育する鉄バクテリアが繁殖します。鉄バクテリアは二価の鉄を三価の鉄に酸化する時に発生するわずかなエネルギーを使って生育し、井戸の中や地下の帯水層(たいすいそう)中でも繁殖し、水道管の中にもたまり、赤水となって出てくることもあると言われています。そこで、1994年(平成6年)11月に寄観亭の井戸と鉄バクテリアが異常に繁殖している石垣周辺の湧き水を採取し、それらの水の成分を調べたところ、それぞれ蒸発残留物(mg/l、ppm)100、135、鉄(mg/l、ppm)0~3、10~25、pH6.3、6.4、水温(℃)15.5、14.0でした。 ppmは百万分率で100万の中の1の割合にあたる非常に少ない量です。

 また、水酸化鉄と有機物が沈殿した鉄バクテリアの代謝分泌物(老廃物)の蓄積体と言われる赤茶けた物質には、ナトリウム、ケイ素、イオウ、カリウム、カルシウム、チタン、マンガン、鉄、銅、亜鉛、ストロンチウムなどの元素が検出されました。特に鉄バクテリアが繁殖している水中には鉄分が著しく多く、水中に共存する微量成分が水酸化鉄に取り込まれて共沈(きょうちん)している可能性があります。鉄バクテリアは、生成した水酸化鉄の沈殿を細胞内や細胞表面に沈殿するので、このバクテリアが繁殖している水は赤褐色となります。また、鉄の二価が存在する水中(pH1~7)には、5種ほどの鉄バクテリアが見出されています。

 このことから、鉄バクテリアは、湧き水中の多量の鉄分と共存する成分が周辺に流れて環境汚染を引き起こすのを防いで自然の水質浄化を行っている姿にも見えます。赤茶けた物質は、見た目に汚く見えるために掃除して取り除いても、兼六園の地質の砂岩中には鉄銹(てっしゅう)が多く見受けられ、兼六園周辺の湧き水には鉄分が多く含まれる原因となっているので、これからも鉄バクテリアによる自然界での水質浄化は続くものと思われます。 

(参考文献) 絈野義夫編著: 北陸の地質をめぐって(日曜の地学6)、菊地書館(1979); 須藤隆一編: 環境浄化のための微生物学、講談社サイエンティフィック(1983); 本浄高治: 兼六園の湧水と鉄バクテリア、金沢大学大学教育開放センター紀要、第7号、p.63-66(1987); 「兼六園」、北国出版社(1987); 株式会社橋本確文堂企画出版室編: 特別名勝兼六園ーその歴史と文化ー、本浄高治、兼六園と文化・水の文化ー兼六園の中の名水ー、橋本確文堂(1997). 

2009年7月14日 (火)

白山の麓の岩間の谷底から噴き上がる熱水(岩間噴泉塔)、噴泉塔の表面を色どる藍藻の温泉水浄化、とは(2009.7.14)

  古来、人は、富士山(ふじさん、3776m、静岡、山梨)、立山(たてやま、3015m、富山)、白山(はくさん、2684m、石川、福井、岐阜)を日本三名山と呼んでいます。いずれの山も休火山であり、富士山の近くには温泉も多く、立山の頂上近く、地獄谷には硫黄塔(いおうとう)が噴気を吐き出しており、また、白山の岩間(いわま)の谷底には、噴泉塔(ふんせんとう)の熱水が、勢いよく噴き上っています。

 この岩間噴泉塔が発見されたのは、1829年(文政12年)で、世界的にも珍しい現象として、1957年(昭和32年)、国の特別天然記念物に指定されています。

 白山の北の麓の標高800mの山間に、昔から登山者に親しまれた湯治湯の一つの岩間温泉があります。ここは白山への登山口、楽々新道の起点で、白山室堂へは約14km、10時間の健脚コースとなっています。元湯は岩間温泉から約3.5km登ったところにあり、ここからさらに1.6kmほど山を下った中ノ川谷間噴泉塔があります。この岩間の噴泉塔は最大4mほどの高さを持つ石灰華(せっかいか)の塔で、その先端から高温の温泉水を噴出しています。

 この噴泉塔表面には藍藻類(らんそうるい、高温で生育する単細胞の藍藻)が繁茂して色どりをそえており、かってはその数30本以上で、高さ70~80cm、温度80~100℃のものが多く、高温の湯が噴き上がり、湯煙につつまれている光景はまさに壮観です。

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岩間噴泉塔(1988年(昭和63年)、尾口、石川)

(解説) 岩間噴泉塔群は、新岩間温泉から中の川に沿って約3.5km上流にあります。噴泉塔は、温泉水が噴出してできた釣り鐘状の石灰華(炭酸カルシウム)ですが、比較的低温において結晶したものは方解石(ほうかいせき)であり、一方、高温において結晶したものは方解石とアラゴナイト(霰石、あられいし)の混合物であることが確かめられています。

 岩間噴泉塔(泉温87℃、pH8.30、含重曹・弱食塩泉)の温泉水中の常量および微量成分(ppm、百万分率)として、カルシウム(47.78)、マグネシウム(1.4~5.9)、ストロンチウム(1.92)、ナトリウム、カリウム(24.64)、ルビジウム(0.02)、マンガン(0.11)、鉄(0.19)、アルミニウム、ケイ素、塩化物イオン(310.6)、臭化物イオン(4.23)、硫酸イオン(146.5)などが検出されました。

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岩間噴泉塔の藍藻の顕微鏡写真(左 100倍、 右 400倍、丸い形をした単細胞の藻類が藍藻

(解説) 温泉産の藻類には、藍藻類、緑藻類、接合藻類、鞭毛藻類など13種の藻類が確認されています。噴泉塔の表面で群落を形成している藍藻(風乾試料)には、鉄(84ppm)、マンガン(201ppm)など、温泉水中の成分を取り込み濃縮していることも分かりました。このことは、藍藻が温泉水中の微量重金属の環境汚染が拡がるのを抑えている姿にも見えます

 噴泉塔は、1年間で10~60cmほども生長し、その一生は20数年で、意外に短いようです。噴泉塔の頂上で噴き出している温泉水の噴出が限界に近づくと、頂上部が細く尖(とが)りはじめて塞(ふさ)がり、温泉水も出なくなり、藻類も死滅し、降雨で洗い流されて白い石灰の塔になってしまいます。この噴泉塔も軟らかいため、雪崩(ゆきなだれ)などによって消滅していきます。しかし、川底や川岸の壁の近くで、新しい小さな噴泉塔の誕生が見られます。

(参考文献) 米田勇一: 植物分類地理、第11巻、p.211(1942); 大橋茂: 総合研報化学編、p.90(1955): 石川県温泉開発研究会編: 温泉の開発、14巻、p.22(1972); 絈野義夫編著: 北陸の地質をめぐって(日曜の地学6)、菊地書館(1979); 本浄高治、畠重康、八田昭夫: 岩間噴泉塔の化学的研究、温泉工学会誌、18巻、1号、p.1-10(1983); 神谷威: 岩間噴泉塔群の調査書(金沢大学教育学部)、p.1-38(1987)、日本海域研究所報告(金沢大学)、19、p.51-71(1987); 本浄高治: 白山山麓の噴泉塔と温泉成分・温泉植物、温泉科学、44巻、33号、p.104-111(1994). 

2009年7月 9日 (木)

泉鏡花(金沢出身の作家)にまつわる歴史物語、高野聖、四国の辺地を通る僧(今昔物語)、とは(2009.7.9)

   高野山には、平安時代以来、江戸まで、 高野三方(こうやさんかた)と呼ばれる僧、学侶方(がくりょがた)、行人方(ぎょうにんがた)、聖方(ひじりかた)の三階派(明治以降は廃止、統合)がありました。聖方は、高野聖(こうやひじり)とも呼ばれ、初め高野山の念仏修行者を言いましたが、平安中期以降、諸国に勧進(かんじん)を行い、高野山に対する信仰(高野浄土)を広めました。この勧進がもと、弘法大師の伝説が日本各地に生まれました。

泉鏡花記念館(ホ-ムページ、下新町、金沢、石川): http://www.kanazawa-museum.jp/kyoka/index2.html..

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泉鏡花(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%89%E9%8F%A1%E8%8A%B1

 泉鏡花(いずみきょうか、1873年(明治6年)~1939年(昭和14年)、作家、下新町、金沢)は、父(彫金師)清次と母(能太鼓家系)鈴の長男として生まれました。1882年(明治15年)、9才の時に母が死去し、その後は亡き母親の面影を追い求め、理想とする女性像を作品の中に次々と作り出しました。1891年(明治24年)、18才の時、東京の尾崎紅葉の内弟子として認められ、玄関番として住みこみ作家としての道を歩み始めています。その後多くの優れた作品(400編以上)を発表、有名な高野聖では、独自の幻想的な世界を確立しています。1939年(昭和14年)9月、65才で死去、雑司ケ谷墓地(東京)に埋葬されています。

 高野聖の作品は、1900年(明治33年)、27才のとき、新小説に発表しています。 高野山に籍を置く45,6才の旅僧が、越前敦賀(つるが)の旅籠屋(はたごや)に同宿した私に、寝床で話してくれた、世にも不思議な話です。その僧は、あとで聞くと宗門名誉の説教師で、六明寺(りくみんじ)の宗朝(しゅうちょう)という大和尚(だいおしょう)でした。

 その話は、飛騨から信州へ越える深山の間道、天生峠(あもうとうげ)で、僧は旅の道連れになった富山の薬(反魂丹、はんごんたん)売りの後を追ったところ、大蛇(だいじゃ)に道をふさがれ、山蛭(ひる)が降ってくる森があり、その奥の宿泊を頼む一軒家には、神通自在(じんつうじざい)の嬢様(じょうさま)と呼ばれる妖艶(ようえん)な美女(亭主は白痴殿、小児)がいて、俗人の旅の男を性的な魅力で誘惑したあげく、谷川の水を浴びせて、また息を吹きかけて、兎(うさぎ)、蛇、馬、猿、蟇蛙(ひきがえる)、大蝙蝠(おおこうもり)などの畜生の姿に変えてしまう。富山の薬売りも馬に変えられていたが、旅の僧だけは、嬢様の誘惑にも負けず、御坊様としての行儀(ぎょうぎ)を守ったので、途中邪心も起こったが、百姓(親仁)の助言にも助けられ、人間の姿で里に下りて来ることができたという話です。ここでは、高野聖のあくまでも仏の道を修める人間道の姿、一方、薬売りはじめ旅の男達の愛欲に溺れる畜生道の姿を、幻想的な美しい浪漫主義文学として描き出しています。

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高野聖(鏑木清方、挿画) 

 ところで、鏡花の高野聖では、高野の旅の僧ではなく、道連れの男(富山の薬売り)が、妖艶な美女によって馬に変えられますが、一方、鏡花も愛読したと思われる、平安の後期に出た、今昔物語では、京の仏道修行の僧が、四国の深山で、妖怪の僧によって馬に変えられる話となっています。

(解説) 京の三人の仏道修行の僧が、四国の僻地(へきち)、それは伊予(いよ)、讃岐(さぬき)、阿波(あわ)、土佐(とさ)の海辺に沿ったところですが、思いがけず深い山中、人跡絶えた深い谷(異郷)に迷い込み、そこの宿泊を頼む一軒家には、60才余りの妖怪のような僧がいて、怪しげな法師に、二人の僧の肌を鞭(むち)で百回叩かせ、次々と馬に変えさせたが、一人の僧(日頃頼みにしていた本尊に、どうかお助け下さい、と心の中で祈念し続けた)だけが、途中二人の女(鬼の妻と妹)にも助けられながら、這々(ほうほう)の体(てい)で、逃げ帰ることが出来たという話です。 

 かの修行者は、そこから国々を回って京に帰って、馬になった二人の同学の僧のため、特に念入りに供養を営みました。実際に人をたたいて馬に変えるなど、信じられない。そこは畜生道(仏教の六道の一つ、牛馬など畜生の世界で、ほとんど本能ばかりで生きており、自力で仏の教えを得ることの出来ない)などであっただろうか、と僧は考え込みます。

 人間の心の発達段階を表した、空海(57才)の十住心論(じゅうじゅうしんろん、830年(天長7年)、秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)、要約版)中の第一住心、異生羝羊心(いしょうていようしん、愛欲、衣食住のことしか頭に無く、何も考えず本能のままに生きている)に相当するものです。

 この種の伝承は、「人馬」(狂言)、「旅人馬」(日本昔話大成250)にも取り入れられています。また、古くは、「利養品下」(出曜経、15)、「唐代の板橋三娘子」(太平広記、286)、「人の子、親の為に宝とみゆるためし」(宝物集、一)の条項にも出ています。

 人間道 は、人間が住む世界で、四苦八苦に悩まされる苦しみの大きい世界ですが、苦しみが続くばかりではなく楽しみもあり、仏になりうる救いもあるという。仏教では、人間の迷いの輪廻の世界として、この他、修羅道 (しゅらどう)、餓鬼道(がきどう)、地獄道(じごくどう)があります。

 思うに、いかに身を捨てて修行するとは言っても、やたら不案内な土地(異界)に行てはならぬものだとの、かの修行者が実際に体験した話の教訓です。

(参考文献) 五来重: 増補 高野聖、角川選書(1975); 新日本古典文学大系、今昔物語5、巻第31、本朝付雑事、p.470、岩波書店(1996)、原本、1108年(嘉承3年); 日本古典文学全集38: 今昔物語集(全四冊)、巻第27~31,小学館(2002); 高木訷元、岡村圭真編: 日本の名僧、空海、密教の聖者、吉川弘文館(2003).; 泉鏡花: 高野聖、集英社(2007); 穴吹史士(文)、白谷達也(写真): 泉鏡花、「高野聖」、「婦系図」、恩師に背いた恋の行方、be on Saturday、2007年(平成19年)10月6日(土).

(参考資料) 泉鏡花(google画像); http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%B3%89%E9%8F%A1%E8%8A%B1&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

○ 1108年(嘉承3年)「今昔物語(こんじゃくものがたり、古説話集)」では、「京の僧、四国の遍地を廻る」、1157年(保元2年)「梁塵秘抄(りょうじんひしょう、後白河法皇編著、今様歌謡集)では、「四国の辺道をぞ常に踏む」など、四国遍路のことが記述されています。(四国へんろ春秋、2000年(平成12年)5月1日、四国八十八ヶ所霊場六番、安楽寺住職、畠田秀峰著、より)

お遍路のススメ(友の講): http://maenaem.com/henro/sp.htm

2009年7月 6日 (月)

室生犀星(金沢出身の作家)にまつわる歴史実話、ふるさとは(小景異情)、山のあなたの(カール・ブッセ、上田敏訳、海潮音)、桃源郷(陶淵明、宏村、中国)、とは(2009.7.6)

  人の頭脳は、右脳(感性、知恵)と左脳(理性、知識)の働きの役割が異なり、特に、俳句、詩、小説、絵画、囲碁、将棋、音楽、スポーツなどは、主に幼児の頃からの右脳の発達に深い関係があると言われています。

 また、過度の知識の詰め込みは、左脳を発達させるものの、感受性の欠如した人間が育つ傾向があり、右脳を適切に発達させる環境が大切であると言われています。

 どのような分野であれ、苦悩の中から生まれた作品は、どこか美しく、時を越えて、人の心を打つものがあるようです。

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室生犀星(野町尋常小学校卒、金沢): http://cms.kanazawa-city.ed.jp/izumi-e/view.php?pageId=1106 

 室生犀星(むろうさいせい、1889年(明治22年)~1962年(昭和37年)、詩人、作家、千日町、金沢)は、加賀藩士の父(小畠弥左衛門吉種)とハルと呼ばれていた女性の子として生まれ、生後ほどなく、近くの寺、雨宝院(真言宗)、室生真乗、内縁の赤井ハツに貰われて育ちました。

 小学校にも満足に通えず、裁判所の給仕から登記所に勤めた時、職場の先輩と俳句、詩などを親しむようになり、句作、詩作、小品文も書き、1919年(大正8年)、30才の時、中央公論に、私小説、幼年時代、性に眼覚める頃、或る少女の死までなど発表し、作家の道を歩み始めています。

 有名な、ふるさとは遠きにありて思ふもので始まる詩は、1918年(大正7年)、犀星29才の頃の詩集、抒情(じょじょう)小曲集の一編その二の中に小景異情として出ています。

 私は、1969年(昭和44年)4月、金沢大学に赴任した頃、犀星の詩については、ふるさとは遠きにありて思ふもの、一行だけしか知らず、ふるさと(故郷)を離れて生活し、何か苦しくて辛いとき、ふと、ふるさとはいいなあ、ありがたいなあ、と懐かしむ心(望郷の念、郷愁の思い)を詩に託しているものと思っていました。

 その後、そしてに続く文章を知るにつれ、犀星が、東京での作家生活に夢破れて、ふるさとの金沢に帰ってきたものの、どうにもならなくて、再びみやこ(東京)に帰って、作家として再起しようとする思いを、この詩に託しているようような感じがして、ホロッとしました。事実、その後、作家としての犀星の創作活動は目覚ましく、著書も150冊を超え、文豪と呼ばれるようになりました。 

 ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの よしや うらぶれて異土(いど)の乞食(かたい)となるとても 帰るところにあるまじや ひとり都のゆふぐれに ふるさとおもひ涙ぐむ そのこころもて 遠きみやこにかへらばや 遠きみやこにかへらばや

(解説) 犀星がふるさとの詩を書いたのは、1912年(明治45年)、23才の頃で、金沢から東京に出て打ちのめされて帰郷した、失意の底でこの詩が生まれたものと言われています。 また、幼少の頃、寂しい思いをした逆境の雨宝院での生活、そのそばを流れる犀川を、うつくしき川は流れたり そのほとりに我は住みぬ、と詩(うた)っています。

 犀星、1918年(大正7年)、29才の頃に刊行された、これらの詩を含む抒情小曲集の序文には、素直な心で読み味わってもらえばうれしい。人間にはきっと、この美しい抒情詩を愛する時代があるように、だれしも通る道であるように、と述べています。

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犀川(望郷アルバム、大正期、室生犀星記念館資料より)  室生犀星記念館(ホームページ、千日町、金沢、石川): http://www.kanazawa-museum.jp/saisei/.

 また、犀星は、金沢の学校(中村町小、金石町小、野町小、菊川町小、金沢大附属小、小将町中、金沢大附属高、金沢大、金沢美術工芸大)の求めに応じて、ふるさとの思いを込め、多くの校歌の作詞をしています。 

 犀星は、1941年(昭和16年)、52才の頃 菊池寛賞を取り、同年3月に帰郷し、尾山娯楽部で、文学者と郷土、と題して講演しています。それ以後は、金沢の土を踏むことなく、1962年(昭和37年)3月、73才、東京で死去しました。翌年10月には、ふるさと、金沢の野田山墓地に、家族と共に、永遠の眠りについています。

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室生犀星の墓地

 私は、1969年(昭和44年)4月、金沢大学(理学部、城内キャンパス)に勤務し始めてから10月まで、犀星が貰われ育った宝雨院の近く、犀川対岸の犀川神社から歩いて数分、中央通り町で下宿(米沢様方、木羽教授に依頼、事務の山田氏の紹介による)したことがあります。

 そこから歩いて、金沢の中心街(長町、片町、香林坊)を横切り、金沢大学城内キャンパス(金沢城址)に通ずる宮守坂をのぼり、さらに城内を横切り、理学部化学教室(鉄筋4階建ての3階、黒門のすぐ前)に通いました。金沢は戦災にあわなかったので、街中は迷路(袋小路、七曲がり、甲州兵法!)となっており、時々道に迷いました。 

(参考文献) 乃村工藝社、博文堂、スピーク編: 犀星-室生犀星記念館ー、金沢市室生犀星記念館(2002); 中坊公平: 山のあなたー「幸せはこんなもん」って、何や、朝日新聞、朝刊、2000年(平成12年)10月9日(月); 川村二郎、企画報道部: 室生犀星「抒情小曲集 小景異情」、ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたうもの、be on Saturday、2003年(平成15年)11月8日(土); NHK編: 世界遺産、中国、2009年(平成21年)5月11日(月).

(参考資料) ○ 室生犀星(google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%AE%A4%E7%94%9F%E7%8A%80%E6%98%9F&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi. 

○ 室生犀星(金沢出身の詩人、作家)にまつわる歴史実話、犀川神社(御影大橋の近く)、雨宝院(犀川大橋の近く、幼少期を過ごした真言宗の古刹)、性に目覚める頃(自叙伝風の私小説)、とは(2010.9.23): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/128.html

(追加説明) ○ 室生犀星もよく口ずさみ、ふるさとの詩に影響を与えたと思われる、カール・プッセ作(Carl Busse、1872~1918)、上田敏訳(うえだびん、1874年(明治7年)~ 1916年(大正5年)、1905年(明治38年)、海潮音)の有名な詩、山のあなた、を思い出します。

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上田敏(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%94%B0%E6%95%8F

 山のあなたの空遠く 幸(さいわい)住むと人のいふ 噫(ああ)、われひとと尋(と)めゆきて 涙さしぐみ かへりきぬ 山のあなたになほ遠く 幸住むと人のいふ

(解説) 幸せは彼方に(かなた)にあると聞き、求めて行ったが、むなしく泣いて帰ってきた。それでもなお遠くに幸せはある、と人は言う。そういう嘆きですが、この詩が人の胸に呼び起こすものは、それだけなのか。

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中坊公平氏(1929年(昭和4年)~2013年(平成25年)、弁護士)は、敗戦後の3年目、1948年(昭和23年)頃、農作業を終えて家路につくある家族連れの姿を見て、何気なく父が、公平、幸せっていうものは、こんなもんかもしれんな、とつぶやき、どうゆうことやと考え、ハッと思いついたのが、自分が幼い頃から母がつぶやいていた詩、山のあなたが胸に浮かび上がり、自分の目を開かせてくれたとのことです。

 幸せは、彼方にあるのではなく、人が気づこうが気づくまいが、実は日々の暮らしに、何げなく添うておるのやないか。幸せは身近なところに、それを感じられる人の胸の中に、と中坊公平氏は述懐しています。 中坊公平(2013.5.5. 逝去、日本経済新聞): http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0502X_V00C13A5CC1000/

 ○ 山のあなたの詩で思い出すのは、2009年(平成21年)5月、NHK放送、中国安徽省(あんきしょう)南部、2000年(平成12年)世界遺産の中で、桃源郷(とうげんきょう)の伝説の村、宏村(こうそん)、人々が自然と共存した生活を営んでいる、ふるさとの映像を思い出します。

 NHKの取材班が、宏村を離れる朝、旅の終わりに、王道根(おうどうこん)さん(76才)に聞いておきたいことがありました。おじいちゃんにとっての理想ふるさとはどんなとこですか、と尋ねたところ、お茶畑にいた、おじいちゃんの答えは、そんなこと考えたことないね、毎日畑に出て家族と暮らす。ただそれだけ。でも充分満足している、と天地人をからだに感じて生活している姿でした。

 中国桃源郷(理想郷)と呼ばれる宏村について、中国の詩人、陶淵明(とうえんめい、365年(興寧3年) ~427年(元嘉3年)、の有名な詩、心遠地自偏心遠ければ地おのずからなり)があります。

 その意味は、どこで暮らしていようと、心の持ち様で、そこは自分にとっての理想のすみかとなる。それに気づいた時、理想のふるさと、桃源郷への入り口は、もう見つかっているかもしれないとのことです。この詩は、山のあなたの詩に通ずるものがある、と思いました。

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陶淵明(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E6%B7%B5%E6%98%8E

○ 五木寛之氏(作家)が、姜尚中氏(政治学者)との対談、「鬱(うつ)の時代(日本は経済面でも心の面でも、すっぽりと(不安)という厚い雲に覆われている!)を生き抜く 文学の可能性の中で、室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思ふもの」のことばの中味について次のように述べています。

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五木寛之(コトバンク、Kotobank):http://kotobank.jp/word/%E4%BA%94%E6%9C%A8%E5%AF%9B%E4%B9%8B

 五木 人間に一生つきまとうのは、幼年期の記憶ではないかと思います。戦後、僕は何度も平壌(ピョンヤン)に来ないかと誘われましたが、ずっと断ってきたのです。いまの平壌の姿が、自分のなかのイメージとぜんぜん違うんじゃないかと。室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思ふもの」ということばは、しがらみがあるというだけでなく、自分の記憶のなかの幻像を壊したくないという気持ちが強かったでしょう。 

 姜 そうですね。 僕はなまじっか熊本に帰れるもんだから、生まれた場所がすっかり変わってしまったのを見たわけですから。(週刊朝日、2011. 1.7ー14、p.162、より)

2009年7月 3日 (金)

加賀の千代女(加賀國松任の俳人)にまつわる歴史逸話、朝顔に(朝かほに、句屏風、俳画)、鬼瓦、蚊帳のなか、とは(2009.7.3)

  加賀の千代女(かがのちよじょ、加賀千代とも)、1703年(元禄16年)~1775年(安永4年、松任(まつとう、金沢の西南約12キロ、のち白山市)の出身で、江戸中期に活躍した女流俳人です。

 加賀國松任の表具師(ひょうぐし)で俳諧をたしなむ父福増屋六兵衛と、その向かいの家、村井屋の母つるの長女として生まれました。

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千代女像

加賀の千代女(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%B3%80%E5%8D%83%E4%BB%A3%E5%A5%B3. 

 千代女は、1714年(正徳4年)、12才の頃、岸屋弥左衛門(きしやざえもん、本吉の肝煎、19才年上)に弟子入りし、俳諧の手ほどきを受けたと言われています。

 1719年(享保4年)、千代女、17才の時、松尾芭蕉の門下の一人、各務支考(かがみしこう)の訪問を受け、、支考の面前で「行春(ゆくはる)の 尾やそのままに かきつばた」、「稲妻の 裾(すそ)をぬらすや 水の上」の2句を詠(よ)み上げ、「あたまからふしぎの名人」と讃えられて、日本全国に名が知れ渡りました。

 一生涯に詠んだ約1700の句は、どれも自然に対する畏敬の念(恐れ敬う心)、優しさ(思いやり)、感謝(ありがたい思い)に満ち溢れています。

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  朝かほに 釣瓶(つるべ)とられて もらひ水 (左の句屏風)

  百生(ひゃくなり)や つるひとすじの 心より (右の句屏風)

  千代尼(署名の号)

  句屏風俳画、松任市立博物館資料より)

(解説) 「朝かほ(顔)に 釣瓶(つるべ)とられて もらひ水」の有名な句屏風(句そのものは若いときの作!)は、名古屋の内藤東甫(東圃、とうほ、1728年(享保13年)~1788年(天明8年)、尾張藩士、画人)の画に一句書き入れたものです。

 これは、東甫が朝顔の絵を屏風に描き、これに句をつけること(俳画)を望んで、千代女に送ったものに、千代女が賛を書いて(屏風の絵画を誉め、一句書き入れる、画賛)東甫に送り返したもので、1761年(宝暦11年)、千代女59才の頃の作品、と言われています。朝顔に、ではなく、朝顔や、となった真蹟もあります。

  また、もう一つの俳画の句、「百生(ひゃくなり)や つるひとじの 心より」(天台宗の観法の一つ、一念の心に三千の諸法を具すを詠み込む、25才のころ永平寺へ参拝したとき、禅師からの「三界唯心」句作の頼みによる)は、千代女が最も好きな作品と言われています。

 なお、署名(ごう)が千代尼となっているのは、1754年(宝暦4年)、52才で剃髪して尼になっていたからです。その時から、素園(そえん)とも名乗っています。

 加賀の千代女歴史的逸話として、1970年(昭和45年)の頃、金沢の市内観光ツアーの時、女性のバスガイドさんから聞いたお話ですが、今なお心に残る、加賀のお殿様と千代女にまつわる、次のような面白い逸話があり、なつかしく思い出されます。

 ある日のこと、加賀のお殿様((第10代藩主前田重教?)が、女流俳人として名高い千代女の噂を耳にして、金沢城に召し出させたときのことですが、お殿様のお出ましがあり、御殿の大広間で平伏していた千代女が、「お面(も)てを上げてもよい」とのことで、お面てを上げたところ、「加賀の千代とやら 何にたとえよう  鬼瓦(おにがわら)」とおっしゃったので、千代女はすかさず「鬼瓦 天守閣をも 下に見る」、(江戸しぐさの中にも出ている)、とやり返したそうです(千代女、71才のときの自画像は、しとやかな品のある尼の姿です)。

 そこで、お殿様は千代女の俳人としての才能をためそうと、「一句のなかに四角と三角と丸を詠(よ)み込んで見よ」、と難問をお出しになったところ、千代女は一呼吸おいて「蚊帳のなか(□) ひと角はずして(△) 月をみる(○)」、(蚊帳の環一つはずして月見かな、禅林世語集(ぜんりんせごしゅう)に出ている)、と詠み上げ、お殿様は千代女の当意即妙な受け答えに感嘆の声を上げたそうです。

 1763年(宝暦13年)、第10代加賀藩主前田重教の命を受け、千代女61才のときの第11次朝鮮通信史来日の時の献上句(扇子や軸に21句)は、加賀の千代女の名を全国に轟かせ、その後の逸話、俗説、口伝などが生まれる基になりました。これは、日本の俳句が海外に伝えられた初めての例とされています。

 千代尼、73才、辞世(じせい)の句は、「月も見て 我はこの世を かしく哉(かな)」でした。

 千代女の約1700種の俳句集の中には見られないが、古くから広く世人に好まれ、話題となり、知れ渡っている作品には、次のような句があります。 

 ほととぎすほととぎすとて明けにけり、起きて見つ寝てみつ蚊帳の広さ哉、とんぼつり今日(けふ)はどこまでいったやら、破る子のなくて障子の寒さ哉 畸人伝、奇人談より)

 これらは全て彼女の盛名を当て込み、あとから付会されていった逸話という

(参考文献) 三熊花顛(みくまかてん)、伴萵蹊(ばんこうけい)補、中野三敏(なかのみとし)校注: 続近世畸人伝、加賀千代女、中央公論新社、巻之3、p.183-184(2006)、原本、1798年(寛政10年); 山根公: 松任の俳人、千代女、松任市役所(2002); 松任市立博物館(編集): 千代女生誕300年祭記念特別展、千代女の生涯、千代女の芸術・心、松任市立博物館(2003): 山根公著: 桂新書12 千代女の謎、p.90~91、千代女を有名にした句は、桂書房(2012). 

(参考資料) 加賀の千代女(google画像): http://images.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%8A%A0%E8%B3%80%E3%81%AE%E5%8D%83%E4%BB%A3%E5%A5%B3&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

江戸しぐさ(市民大学): http://meintagebuch.blog3.fc2.com/blog-entry-592.html; 

禅林世語集(ぜんりんせごしゅう):http://kaizenji.org/sonota/sego.html

千代女の里俳句館: http://haikukan.city.hakusan.ishikawa.jp/index.html

○ 千代女の里俳句館の案内役、俳文学会員、山根公さん(66才)は、「朝顔やつるべとられてもらひ水」の句碑について、「千代女は若いころは「朝顔に」、35才を過ぎてからは「朝顔や」と書いたと解説、「わずか一字でも違いは大きく、愛好家の好みも分かれている」と説明しています。(2011年(平成23年)6月4日(土)、北陸中日新聞、朝刊より)

 紙本墨書の「朝顔や」は句切れ、句の姿とすると「」という小休止があると格調高く本格的なのだが、釣瓶が誰にとられたのか分からない。「朝顔に」にして「句切れ」をなくすると、釣瓶を取ったのが朝顔だと因果関係がはっきりする。

 句の意味は、「早朝、水をくみに井戸端に出てみると、朝顔が釣瓶にからみついている。朝顔のつるを切るに忍びず、近所にもらい水に行った」。(山根公著: 桂新書12 千代女の謎、p.22~231、最も知られている句は、桂書房(2012)より) 

○ 「朝顔やつるべ取られてもらい水」と詠まれた千代女の句の井戸について

 当時の白山市の松任は水の便が悪く、深井戸は40軒から50軒に1本程度で数は少ない。飲み水を犠牲にして詠まれた井戸は、松任にはなかったのではないか? 創作の一句か、あるいは本吉(美川)の井戸か、幼なじみの和田希因(わだきいん、1700~1750)の家にでもあったのだろうか? 希因が他界すると、ほどなくして千代は髪をおろしている。

 千代女の所縁の品々がある聖興寺(しょうこうじ)は、松任の街中にある。境内にある遺芳館には千代女自筆の書画が収まる。実家の福増屋は旧北陸道に面して寺からほど近い。聖興寺(しょうこうじ、白山市): http://www.city.hakusan.ishikawa.jp/kyouiku/bunka/jinjabukaku/syokoji.jsp

聖興寺(しょうこうじ、白山市中町)、真宗大谷派、お寺、加賀、能登、越中、信仰の里を歩く、2010年(平成22年)4月11日(月)、北陸中日新聞朝刊より)

〇 千代女四季の画賛

春の句 花にさへ出ほしむあしをワかなかな

夏の句 清水には裏も表もなかりけり

秋の句 百生やつるひとすじの心より

冬の句 髪を結ぶ手の隙あけてこたつかな

絵に千代女の句を添えた画賛軸、冬の句は剃髪した時の心情を詠んだとされる。夏と冬の句は白山市指定文化財。ともに71歳の時の千代女が描かれ、写実的な描写の夏の句は浮世絵師、冬の句は千代女自身が絵を描いたという。どちらも片膝をついて座った構図で、見比べると興味深い内容となっています。

また、若菜の絵が添えられた新年・春の句、ヒョウタンが描かれた秋の句は、県立歴史博物館の所蔵品になっています。

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