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2009年8月14日 (金)

阿波踊り(徳島)と北前船(日本海の商船、撫養~大阪~瀬戸内海~日本海~北海道、西廻り航路)にまつわる歴史逸話、盆踊り(念仏踊り)、阿波踊りの歴史、とは(2009.8.14)

  古代、飛鳥(あすか)時代、645年(大化元)年の大化改新(たいかのかいしん)により、北方(きたがた)の粟(あわの)国と南方(みなみがた)の長(ながの)国が統一されて、阿波(あわの)国ができました。

 ところで、盆踊り(ぼんおどり)は、旧暦7月の盂蘭盆会(うらぼんえ)の時期に、死者の霊がこの世に戻り、それを供養するための踊りです。その起源として、平安時代の空也(くうや、浄土教民間布教僧、阿弥陀信仰と念仏を広める)、903年(延喜3年)~972年(天禄3年)、鎌倉中期の僧、一遍(いっぺん、時宗開祖、南無阿弥陀仏の六字名号札を賦る)、1239年(延応元年)~1289年(正応2年)の念仏踊りが考えられています。

 (ぼん)は、盂蘭盆会(うらぼんえ)の略語で、盂蘭盆は梵語(ぼんご)で倒懸(さかさづり)という意味です。あの世で非常な苦しみを受けている死者を供養し救うのが、盂蘭盆会の行事です。飛鳥時代、推古天皇(女帝)、606年頃に、インドから中国を経て、日本に取り入れられたことが、日本書紀に記録されています。盆については、供物を載せる容器を日本の古語でボンといったところから、盆になったという説もあります。

 祖霊祭の意味を持つ盆の期日ですが、室町時代では、14日~16日、江戸時代では、13日~16日でしたが、近年になって13日~15日となっています。その代表的な行事には、迎え火、送り火、盆踊りなどがあります。盆の13は、先祖代々の墓参りをするならわしがあります。夕方に門口で苧殻(おがら、あさがら、皮をはぎ取った麻の茎)の迎え火を炊(た)き、精霊(しょうりょう)を迎え入れます。14日15日はお坊さんにお経をあげてもらい、15日の夜は送り火を焚き、精霊を送ります。

 盆踊りは、もともと精霊(しょうりょう)を迎えて慰め、送る行事ですが、現在は、阿波踊りに見られるように、娯楽的な要素が強くなっています。 

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三好昭一郎(徳島近世史研究会会長) ふるさとの宝物徳島盂蘭盆組踊之図阿波踊りのルーツ : http://www.jrt.co.jp/tv/ohayo/furusato/020813.htm

 阿波踊りの起源については、豊臣秀吉の四国征伐に勲功のあった蜂須賀家政(はちすかいえまさ、正勝(小六)の長男)が、1585年(天正13年)に播州(兵庫)龍野(5万石)から秀吉から賜った阿波国(徳島藩18万石)に入り、1587年(天正15年)、徳島城完成のお祝いに、町人達を招いて祝い酒をふるまった時の無礼講(ぶれいこう)で、自然発生的に町人達が踊り出したのが始まりと言われています。

 歴史的には、阿波踊りは、江戸時代の鈴木芙蓉(すずきふよう)の描いた踊りの絵から推して、盆の精霊踊りが変化したものと考えられ、藩の規制の触書(ふれがき)が出された俄(にわか)踊り(即興の寸劇、歌舞伎、人形浄瑠璃などの真似、声色、手品など、1人~数人)、組踊り(風流踊り継承、風流芸能集団、大踊り、100~120人)、文化・文政の頃から藍(あい)の豪商が他国の藍問屋を招待したときの座興(余興、俄)踊り、また、藩の貢祖の収奪によって苦しめられた民衆の鬱積(うっせき)した不満のはけ口としての狂乱(きょうらん)踊り騒(ぞめき)踊りなど、400年の間に諸芸や諸楽器を取り入れて、時代と共に変化してきた特異な民族芸能と考えられています。徳島の盆踊りは、社会の混乱が激しい時、また、戦時中は中止させられているので、平和な世を歓びあう意味も持っています。

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徳島市街の盆踊り(徳島盂蘭盆、組踊り、幕末の絵、徳島県の百年

(解説) 徳島市では、毎年、8月12日~15日の4日間阿波踊り(ぞめき踊り)があります。「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」との唄ばやし(よしこの)、前身は都々逸(どどいつ)、リズミカルな太鼓、鉦(かね)、三味線(しゃみせん)に笛(ふえ)の囃子(はやし)にのって浮かれ踊る姿は楽しいもので、飛び入りしたくなるものです。

 ただ、阿波踊りは、手を挙げて足を運べば阿波踊りとも言われ、現代的な二拍子の激しい動きの踊り(ぞめき踊り)であり、日本古来のゆったりした盆踊り(寺社の境内の櫓(やぐら)の廻りを輪になって踊る、廻り踊りなど)とは根本的に異なるもので、あの世の精霊を喜ばせるための踊りというよりも、現世の人々のストレス発散のための踊りの意味合いが強いように感じました。

 ところで、この手を挙げて踊るスタイル跳ねるようなリズミカルな三味線の伴奏は、九州ハイヤ節(牛深、熊本、元唄)が源流のようです。もとは、船出の唄(うた)で、船乗り達が、南風(はや)を受け、北前船(きたまえぶね)に乗って日本海や瀬戸内方面へ貿易に出かけた時、ハイヤ節をその曲調と名を変えて日本各地の港町に伝え、広まった(黒潮文化)と言われています。南風(ハヤ)が唄の名(ハイヤ)となったという。テンポの激しいリズミカルな曲の踊りですが、北へ行くにつれて緩やかとなり、阿波踊り、佐渡おけさ、津軽あいや節などに変化したと言われています。

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北前船模型(広海家広徳丸)      北前船の航路と寄港地(西廻り航路)

(解説) 北前船(弁才船、帆船、千石船)は、最初は大阪に北陸の米などを運び、その後は大阪、瀬戸内各地の塩、紙、砂糖、木綿、雑貨などを買い、日本各地の港で商売しながら北海道(蝦夷地)の函館、江差、松前まで行き、これらを売って海産物(昆布(コンブ)、数の子、鰊(ニシン)、魚肥の鰊〆粕(ニシンしめかす)、鰯粕(いわしかす)など)を仕入れ、また内地への帰り道でこれらを売る商売(貿易)をしました。瀬戸内の撫養(岡崎、徳島)では、塩、砂糖(三盆白、黒砂糖))、藍(葉藍、藍玉)などを売り出し、一方、北海道、東北産の魚肥を買い付け、藍や甘蔗(サトウキビ)を栽培するときの有機肥料としました。

 北海道と大阪を日本海を経由して結ぶ西廻り(まわり)航路は、河村瑞賢(かわむらずいけん)が1672年(寛文12年)に開拓したものです。北前船は、江戸時代(18世紀)中期から1897年(明治30年)頃まで活躍していますが、地方によっては商品価格に大きな差があり、大きな利益を得ることが出来ました。鉄道の発達などにより衰退していきました。

 また、ハイヤ節の源流は、奄美大島(あまみおおしま、沖縄)の六調(ろくちょう)で、唄遊び、宴会、お祝いとつながりが深いものです。ハイヤ踊りは、もとが船乗り達の酒盛り踊りであり、中腰で重心が低く、また網投げ、櫓漕ぎ(ろこぎ)などの動きが特徴ですが、腰を落として豪快に踊る阿波踊りの男踊りとよく似たところがあります。

 徳島では、「よしこの節」を「ハイヤ節」の伴奏に合わせて唄うようになり、また、盆踊りは、時代の影響を受け、ぞめき踊り(二拍子の軽快で賑やかな踊り)だけが生き残り、今日の阿波踊りに発展してきたと考えられています。

(参考文献) 三好昭一郎、松本博、佐藤正志、徳島県の百年、山川出版社(1992); 樋口清之監修: 暮らしのジャーナル、生活歳時記(新装改訂版)、三宝出版株式会社(1994); 湯浅良幸(徳島史学会)編: 徳島県の歴史散歩、山川出版社(1995); (財)とくしま地域政策研究所編: 四国のいのちー吉野川辞典ー自然/歴史/文化ー、三好昭一郎、阿波踊り、農文協(.1999); 永原慶二監修、石上英一ほか8名編: 岩波日本史事典、岩波書店(1999); 牧野隆信: 日本海の商船 北前船とそのふる里、北前船の里資料館、加賀市地域振興事業団(1999); 加藤貞仁: 北前船、寄港地と交易の物語、無明舎出版(2002); 三好昭一郎: 喜寿記念日本史論集 第二部 徳島城下町民間藝能史論、山川製本書(2006); 石躍胤央、北條芳隆、大石雅章、高橋啓、生駒佳也、徳島県の歴史、山川出版社(2007). 

(参考資料) ○ 牛深ハイヤ節(YouTube): http://www.higo.ed.jp/sh/ushibukash/page007.html; 

○ 徳之島民謡、六調(ろくちょう、YouTube): http://www.youtube.com/watch?v=4U5QgFuhqko; 

○ 阿波踊りの歴史: http://www.awabank.co.jp/kojin/odori_1.php

(追加説明) 徳島藩は、1585年(天正13年)、蜂須賀家政による阿波国(18万石)の領国経営より始まります。1587年(天正15年)、蜂須賀家政、小早川秀景、長曽我部元親の天下普請により、徳島城(平山城、ひらやまじろ)が完成しました。

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蜂須賀家政(1558~1639、徳島藩祖、阿波、徳島)

 1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦では、家政は阿波の領国を豊臣秀頼に返上、家督を嫡子(ちゃくし、長男)、至鎭(よししげ)に譲って隠居、剃髪(号、蓬庵)して高野山に登り、光明院に入りました。 

 関ヶ原の戦では、家政は至鎭(よししげ)(15才)を徳川家康のもとに参陣させ、至鎭は先鋒隊として活躍、家康より改めて、阿波一国が与えられました。大坂の役では、至鎭は阿波の水軍を率いて徳川軍として参戦、1614年(慶長19年)、冬の陣では、大阪湾を封鎖、木津川砦・博労斑砦の攻防では大きな軍功をあげ、1615年(元和元年)、夏の陣では、海が荒れたため最後の決戦には遅参したが、味方を勇気づけました。

 その戦功として淡路(兵庫)7万石が加増となり、25万石の蜂須賀家(徳島藩)の領国が確定、また家康の養女(下総古河の小笠原秀政の娘、氏姫)と婚約、初代阿波藩主となりました。その後、蜂須賀家は、明治維新までの約270年、徳島藩主(14代まで)として、阿波と淡路の領国に君臨しました。

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