« 仮名文字、いろは歌にまつわる歴史説話、無常(覚鍐、涅槃教)、鳥啼歌(坂本百次郎、明治、懸賞第1位)、高野切(伝 紀貫之筆、古今和歌集)、とは(2009.8.19) | トップページ | 数字(大数、小数)と図形(黄金比、白銀比)にまつわる歴史実話、東洋、西洋の思考、感性の違い、デジタル(二進法)とアナログ(フーリエ解析)のコンピュター(計算機)、とは(2009.9.5) »

2009年8月24日 (月)

京都の大仏開眼法要にまつわる歴史実話、秀吉と応其、古代の道、五大老、豊臣家滅亡、安土、桃山時代、1596年(慶長元年)の大地震による京都大仏(方広寺)の倒壊、とは(2009.8.24)

  近世、江戸時代、日本の三大仏(さんだいぶつ)と言えば、奈良の大仏(東大寺)、鎌倉の大仏(高徳院)に次いで、京都の大仏(方広寺)が挙げられます。

 大仏は、壇越(だんえつ、施主、布施をする人)たる権力者が、聖俗の両界における自らの権威権力誇示し、また相応の功徳(くどく)を期して造立するものだと言われています。また、大規模な造仏事業は、中世以降庶民への勧進によって行われています。

250pxtoyotomi_hideyoshi1

豊臣秀吉(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89

 京都大仏(方広寺)豊臣秀吉、1537年(天文6年)~1598年(慶長3年)、の発願(ほつがん)により、1586年(天正14年)着工、1593年(文禄2年)に棟上(むねあげ)し、高さ6丈(約20m)の木製坐像大仏が安置され、1596年(慶長元年)に千僧供養が営まれましたが、同年(7月13日)の慶長伏見大地震倒壊してしまいました。

 その後再建、1598年(慶長3年、8月22日)の落慶法要(千僧供養)は、豊臣秀吉木食応其(もくじきおうご)、1536年(天文5年)~1608年(慶長13年)、によって準備が進められました。導師(どうし)には、天台宗の道澄どうちょう、聖護院門跡、本山派修験道(山伏)の棟梁、とうりょう)、真言宗の空性くうしょう、法親王、後陽成天皇の弟公)、そして職衆(しきしゅう)は、天台宗500人、真言宗500人の千人僧侶でした。

 木食応其は、37才で武士を捨て、木食行人として、南海道を通り、四国の邊路(へじ、13年)、高野山(25年)で修行を積み、1585年(天正13年)の秀吉高野山攻略に際し和議を斡旋(あっせん)、秀吉の信頼は大きく、高野山は戦禍をまぬがれました。応其は、木食行人(聖)としての修行、山林抖擻(とそう)、四国の邊路を踏む修行(山伏、山岳修行で験力を得て、加持祈祷と呪法を行う行者)、木食草衣(もくじきそうえ)の苦行などを積み重ね、最後(さいご)は飯道寺(はんどうじ、甲賀)で、空海(弘法大師)と同じ、捨身の行の一つ、土中入定(どちゅうにゅうじょう、生きながら石室(石棺、岩窟)に入り、五穀を断ち、読教、死を迎える、生死を越えた修行、即身成仏)により、永遠の生命と一つになっています。

Images5_3

古代の道(南海道、四国邊路、高野山(和歌山)~平安京(京都)、四国遍路の春秋 Ⅱ)

 ところで、秀吉落慶法要4日前の8月18日(63才)、死去していましたがこの喪(も)は、遺言によって伏せられたまま、1598年(慶長3年、8月22日)の落慶法要が進められました。 秀吉の死は、翌年の正月まで公表されず、1599年(慶長4年、2月29日)秀吉葬儀京都方広寺においてとり行なわれ、遺言によって、木食応其導師をつとめました。そして、同年4月、遺体京都阿弥陀ヶ峰(鳥部山)廟所(びょうしょ)埋葬されました。

Images2_8

豊臣秀吉ゆかりの史跡(方広寺、豊国神社、高台寺、阿弥陀ヶ峰(豊国廟)、京都の歴史地図本

 この時、秀頼は7才、秀吉は死ぬ前に、伏見城五大老の徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元、小早川隆景(死後、上杉景勝)、五奉行の浅野長政、前田玄以、石田三成、長束正家、増田長森、の秀頼への忠誠を誓わせ、さらに五大老に宛てて遺言状を書き、また秀頼千姫(家康の孫娘)の婚姻も約束させました。秀吉辞世の句は、露(つゆ)と落ち 露と消えにし わが身かな 難波(なにわ)のことも 夢のまた夢、でした。

 天下政治は、家康利家の意見によって決定すること、家康伏見にいて政治のことをつかさどり、利家は秀頼を守って大阪に移り、補弼(ほひつ、補佐)の役をして欲しいと遺言していたので、秀頼大阪城へ移り住むことになりました。その後、利家は、1599年(慶長4年)閏(うるう)3月3日(63才)、秀吉の死から8ヶ月足らずで、大阪で病没しました。

 その後、関ヶ原の戦、1600年(慶長5年、9月15日)、の勝者、徳川家康(62才)は、1603年(慶長8年)、天皇から征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開きました。

 ところで、京都大仏のことですが、伏見城で秀吉死去後、秀頼淀殿(よどどの、茶々、母)が、その後焼失した方広寺の大仏殿を三たび再建、金銅大仏及び梵鐘(ぼんしょう)も鋳造(ちゅうぞう)しました。ところが、、徳川家康(73才)が、1614年(慶長19年)鋳造された鐘銘中国家安康(こっかあんこう)、君臣豊楽(くんしんほうらく)の文字に難癖をつけ(家と康の字を引き裂き徳川家を呪い、臣と豊を繋いで豊臣家の繁栄を願っている)、大阪の冬の陣、1614年(慶長19年11月)、が起こり、同年12月の戦闘中止と講和、その後、夏の陣、1615年(元和元年5月)、が起こり、秀頼(23才)と淀殿は炎上する城中の蔵の中で自害し、秀吉の全国統一の25年後、豊臣家滅亡しました。また、秀吉が祀られていた豊国社(とよくにしゃ)も全て破却(はきゃく)されました。明治維新以降、豊国神社は,1880年(明治13年)、方広寺跡地(南半分)に再興されています。

 その後、徳川幕府は、1662年(寛文2年)の地震で再び壊れた京都方広寺の金銅の大仏を銭貨に鋳造、木造仏に替えましたが、1798年(寛政10年)、雷火で大仏殿と共に焼失していまいました。その後、1843年(天保14年)再建、巨大な木造の大仏胸像(高さ14m)が安置され、1884年(明治17年)、鐘楼も造られ、梵鐘が釣り下がっていましたが、1973年(昭和48年)3月27日、深夜に焼失しました。

 現在、京都国立博物館の近く、京都市東山区、7条通りを西に戻り、大和大路通(やまとおおじとおり)をに向かうと、豊国神社(とよくに、ほうこく、じんじゃ)と方広寺(ほうこうじ、天台宗)があり、どちらも豊臣秀吉とゆかりが深く、方広寺には、豊臣家の滅亡の原因となった国家安康梵鐘(三条釜座(かまんざ)名越三昌を中心に全国3000人の鋳物師によって鋳造されたもの、重要文化財)が現存しています。また、JR東海道本線(琵琶湖線)、東山トンネルの近く、阿弥陀ヶ峰(鳥部山)豊国廟では、秀吉永遠眠りについています。高台寺(こうだいじ、臨済宗、もと曹洞宗)は、北政所(秀吉の妻、寧、ねね、吉子、落飾し高台院)が秀吉菩提を弔うため、家康の許可を得て創建しました。

(参考文献) 永原慶二監修、石上英一ほか8名編: 岩波日本史事典、岩波書店(1999); 畠田秀峰(住職): 四国へんろ春秋、四国八十八ヶ所霊場六番、温泉山安楽寺(2000)、同Ⅱ(2008); 歴史探訪研究会編: 歴史地図本、知って尋ねる京都、大和書房(2008).

(参考資料) 豊臣秀吉(google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

方広寺: http://www.kyoto-wel.com/mailmag/ms0304/mm.htm; 豊国神社と豊国廟(阿弥陀ヶ峰山頂): http://www.genbu.net/data/yamasiro/toyokuni_title.htm; 高台寺: http://www.kodaiji.com/index.html; 人生は遍路なり畠田秀峰、四国六番安楽寺貫主): http://sekiho.ddo.jp/jinsei1.html

撫養塩田(鳴門、徳島)の歴史技術、入浜式製塩と塩田争議、流下式製塩、イオン交換膜製塩、安土、桃山時代、1596年(慶長元年)の大地震による撫養沿岸の隆起、鳴門渦潮、とは(2010.3.4);http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/62.html

(追加説明) ○ 古代、飛鳥時代、701年(大宝元年)大宝律令の制度のもと、702年(大宝2年)、はじめて、都(みやこ)と四国(阿波、讃岐、伊予、土佐)の国府を駅路(駅馬と泉を備えてある)、海路(船)で結ぶ南海道(なんかいどう、国道)ができました。この頃の都は、694年(朱鳥元年、8年後)、持統天皇のとき誕生した藤原京(奈良)で、律令国家の基礎が築かれました。

 この時、藤原京(都、奈良)から四国の国府へは、そこから南の橋本(紀伊、和歌山)を経由し、紀ノ川沿いの紀伊の国府を通り、賀太の港(賀太駅、紀伊)に行きます。ここから船で淡路の玄関、由良の港(由良駅、淡路、兵庫)に渡り、それから陸路、福良の港(福良駅、淡路)まで歩き、また船で鳴門海峡を渡り、四国の玄関、石隅の港(石隅駅、撫養、阿波)に着きます。ここから陸路で西の阿波の国府近く郡頭駅(こうずえき、3番札所、金泉寺近く)に行き、次ぎに右方向の北に道をとり、大坂峠(おおさかとうげ)を越えて引田駅(讃岐)に入ります。その後は、瀬戸内海を左回りで、讃岐国府(河内駅)、伊予国府(越智駅、今治近く)、松山、大洲、太平洋沿岸の足摺崎と大回りして土佐国府(頭駅)に至る道となっていました。 

 その後、南海道には、718年(養老2年)、室戸廻りの道ができ、さらに、796年(延暦15年)、立川越えの官道(国道)ができ、特に讃岐から土佐への近道が新しく開けてきました。

○ 豊臣家滅亡の原因となった方広寺鐘銘(ほうこうじしょうめい)事件は、豊臣秀頼のつくった鐘の銘に言いがかりをつけ、大坂冬の陣、夏の陣を起こさせ、豊臣氏を滅亡に追い込んだ事件ですが、黒衣(こくえ)の宰相(さいしょう)、崇伝(すうでん、臨済宗、金地院崇伝、以心崇伝)、1569年(永禄12年)~1633年(寛永10年)が策略したと言われています。また、崇伝は、家康の命によって、武家諸法度(大名、旗本、武士の守る法)、禁中並公家諸法度(天皇、公家の守る法)、寺院法度(僧侶、神官の守る法)などの制定にも関与(起草)、徳川の幕藩体制を末永く支えました。

○ ところで、奈良大仏は、アマルガム法により金メッキ(水銀に金を溶かし、銅製の大仏の表面に塗り、火で炙り、水銀を蒸発させる)されていました。このは陸奥より、また、水銀は若狭より調達したと考えられています。大仏開眼よりお水取りの行事が始まっています

 東大寺の二月堂の行事、お水取り修二会(しゅうにえ)は、天下泰平、五穀豊穣、万民快楽などを祈願する法会のことです。若狭のお水送りは、遠敷川(おにゅうがわ、大丹生川)の上流にある閼伽井(あかい)から汲み上げられた清水(お香水、おこうすい)が約2km上流の鵜の瀬から遠敷川に注がれます。お香水は地下を通り10日の後、すなわち12日のお水取りの日に東大寺の閼伽井(若狭井)に届くとされています。この井戸から観音さまにお供えするお香水を汲み上げるお水取りの儀式が行われます。

 この時、練行衆(れんぎょうしゅう)の道明かりとして、大きな松明に火が灯され、人々を大いにわかせます。このため、修二会は、お水取りお松明の名で知られるようになりました。

 また、この行事は、若狭の遠敷(おにゅう、大丹生)からのお水送り水銀送り)と東大寺での松明(たいまつ)の火によるお水取り水銀取り)行事の名残とも考えられています。

 

« 仮名文字、いろは歌にまつわる歴史説話、無常(覚鍐、涅槃教)、鳥啼歌(坂本百次郎、明治、懸賞第1位)、高野切(伝 紀貫之筆、古今和歌集)、とは(2009.8.19) | トップページ | 数字(大数、小数)と図形(黄金比、白銀比)にまつわる歴史実話、東洋、西洋の思考、感性の違い、デジタル(二進法)とアナログ(フーリエ解析)のコンピュター(計算機)、とは(2009.9.5) »

● ふるさと(四国遍路、空海(弘法大師)、四国88ヵ寺(徳島23、高知16、愛媛26、香川23)、高野山(金剛峰寺、真言宗、和歌山)、高野聖(泉鏡花)、最澄(伝教大師)、比叡山、暦寺、天台宗、京都)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

« 仮名文字、いろは歌にまつわる歴史説話、無常(覚鍐、涅槃教)、鳥啼歌(坂本百次郎、明治、懸賞第1位)、高野切(伝 紀貫之筆、古今和歌集)、とは(2009.8.19) | トップページ | 数字(大数、小数)と図形(黄金比、白銀比)にまつわる歴史実話、東洋、西洋の思考、感性の違い、デジタル(二進法)とアナログ(フーリエ解析)のコンピュター(計算機)、とは(2009.9.5) »

2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

カテゴリー

フォト

アクセス解析

無料ブログはココログ