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2009年8月の3件の記事

2009年8月24日 (月)

京都の大仏開眼法要にまつわる歴史実話、秀吉と応其、古代の道、五大老、豊臣家滅亡、安土、桃山時代、1596年(慶長元年)の大地震による京都大仏(方広寺)の倒壊、とは(2009.8.24)

  近世、江戸時代、日本の三大仏(さんだいぶつ)と言えば、奈良の大仏(東大寺)、鎌倉の大仏(高徳院)に次いで、京都の大仏(方広寺)が挙げられます。

 大仏は、壇越(だんえつ、施主、布施をする人)たる権力者が、聖俗の両界における自らの権威権力誇示し、また相応の功徳(くどく)を期して造立するものだと言われています。また、大規模な造仏事業は、中世以降庶民への勧進によって行われています。

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豊臣秀吉(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89

 京都大仏(方広寺)豊臣秀吉、1537年(天文6年)~1598年(慶長3年)、の発願(ほつがん)により、1586年(天正14年)着工、1593年(文禄2年)に棟上(むねあげ)し、高さ6丈(約20m)の木製坐像大仏が安置され、1596年(慶長元年)に千僧供養が営まれましたが、同年(7月13日)の慶長伏見大地震倒壊してしまいました。

 その後再建、1598年(慶長3年、8月22日)の落慶法要(千僧供養)は、豊臣秀吉木食応其(もくじきおうご)、1536年(天文5年)~1608年(慶長13年)、によって準備が進められました。導師(どうし)には、天台宗の道澄どうちょう、聖護院門跡、本山派修験道(山伏)の棟梁、とうりょう)、真言宗の空性くうしょう、法親王、後陽成天皇の弟公)、そして職衆(しきしゅう)は、天台宗500人、真言宗500人の千人僧侶でした。

 木食応其は、37才で武士を捨て、木食行人として、南海道を通り、四国の邊路(へじ、13年)、高野山(25年)で修行を積み、1585年(天正13年)の秀吉高野山攻略に際し和議を斡旋(あっせん)、秀吉の信頼は大きく、高野山は戦禍をまぬがれました。応其は、木食行人(聖)としての修行、山林抖擻(とそう)、四国の邊路を踏む修行(山伏、山岳修行で験力を得て、加持祈祷と呪法を行う行者)、木食草衣(もくじきそうえ)の苦行などを積み重ね、最後(さいご)は飯道寺(はんどうじ、甲賀)で、空海(弘法大師)と同じ、捨身の行の一つ、土中入定(どちゅうにゅうじょう、生きながら石室(石棺、岩窟)に入り、五穀を断ち、読教、死を迎える、生死を越えた修行、即身成仏)により、永遠の生命と一つになっています。

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古代の道(南海道、四国邊路、高野山(和歌山)~平安京(京都)、四国遍路の春秋 Ⅱ)

 ところで、秀吉落慶法要4日前の8月18日(63才)、死去していましたがこの喪(も)は、遺言によって伏せられたまま、1598年(慶長3年、8月22日)の落慶法要が進められました。 秀吉の死は、翌年の正月まで公表されず、1599年(慶長4年、2月29日)秀吉葬儀京都方広寺においてとり行なわれ、遺言によって、木食応其導師をつとめました。そして、同年4月、遺体京都阿弥陀ヶ峰(鳥部山)廟所(びょうしょ)埋葬されました。

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豊臣秀吉ゆかりの史跡(方広寺、豊国神社、高台寺、阿弥陀ヶ峰(豊国廟)、京都の歴史地図本

 この時、秀頼は7才、秀吉は死ぬ前に、伏見城五大老の徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元、小早川隆景(死後、上杉景勝)、五奉行の浅野長政、前田玄以、石田三成、長束正家、増田長森、の秀頼への忠誠を誓わせ、さらに五大老に宛てて遺言状を書き、また秀頼千姫(家康の孫娘)の婚姻も約束させました。秀吉辞世の句は、露(つゆ)と落ち 露と消えにし わが身かな 難波(なにわ)のことも 夢のまた夢、でした。

 天下政治は、家康利家の意見によって決定すること、家康伏見にいて政治のことをつかさどり、利家は秀頼を守って大阪に移り、補弼(ほひつ、補佐)の役をして欲しいと遺言していたので、秀頼大阪城へ移り住むことになりました。その後、利家は、1599年(慶長4年)閏(うるう)3月3日(63才)、秀吉の死から8ヶ月足らずで、大阪で病没しました。

 その後、関ヶ原の戦、1600年(慶長5年、9月15日)、の勝者、徳川家康(62才)は、1603年(慶長8年)、天皇から征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開きました。

 ところで、京都大仏のことですが、伏見城で秀吉死去後、秀頼淀殿(よどどの、茶々、母)が、その後焼失した方広寺の大仏殿を三たび再建、金銅大仏及び梵鐘(ぼんしょう)も鋳造(ちゅうぞう)しました。ところが、、徳川家康(73才)が、1614年(慶長19年)鋳造された鐘銘中国家安康(こっかあんこう)、君臣豊楽(くんしんほうらく)の文字に難癖をつけ(家と康の字を引き裂き徳川家を呪い、臣と豊を繋いで豊臣家の繁栄を願っている)、大阪の冬の陣、1614年(慶長19年11月)、が起こり、同年12月の戦闘中止と講和、その後、夏の陣、1615年(元和元年5月)、が起こり、秀頼(23才)と淀殿は炎上する城中の蔵の中で自害し、秀吉の全国統一の25年後、豊臣家滅亡しました。また、秀吉が祀られていた豊国社(とよくにしゃ)も全て破却(はきゃく)されました。明治維新以降、豊国神社は,1880年(明治13年)、方広寺跡地(南半分)に再興されています。

 その後、徳川幕府は、1662年(寛文2年)の地震で再び壊れた京都方広寺の金銅の大仏を銭貨に鋳造、木造仏に替えましたが、1798年(寛政10年)、雷火で大仏殿と共に焼失していまいました。その後、1843年(天保14年)再建、巨大な木造の大仏胸像(高さ14m)が安置され、1884年(明治17年)、鐘楼も造られ、梵鐘が釣り下がっていましたが、1973年(昭和48年)3月27日、深夜に焼失しました。

 現在、京都国立博物館の近く、京都市東山区、7条通りを西に戻り、大和大路通(やまとおおじとおり)をに向かうと、豊国神社(とよくに、ほうこく、じんじゃ)と方広寺(ほうこうじ、天台宗)があり、どちらも豊臣秀吉とゆかりが深く、方広寺には、豊臣家の滅亡の原因となった国家安康梵鐘(三条釜座(かまんざ)名越三昌を中心に全国3000人の鋳物師によって鋳造されたもの、重要文化財)が現存しています。また、JR東海道本線(琵琶湖線)、東山トンネルの近く、阿弥陀ヶ峰(鳥部山)豊国廟では、秀吉永遠眠りについています。高台寺(こうだいじ、臨済宗、もと曹洞宗)は、北政所(秀吉の妻、寧、ねね、吉子、落飾し高台院)が秀吉菩提を弔うため、家康の許可を得て創建しました。

(参考文献) 永原慶二監修、石上英一ほか8名編: 岩波日本史事典、岩波書店(1999); 畠田秀峰(住職): 四国へんろ春秋、四国八十八ヶ所霊場六番、温泉山安楽寺(2000)、同Ⅱ(2008); 歴史探訪研究会編: 歴史地図本、知って尋ねる京都、大和書房(2008).

(参考資料) 豊臣秀吉(google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

方広寺: http://www.kyoto-wel.com/mailmag/ms0304/mm.htm; 豊国神社と豊国廟(阿弥陀ヶ峰山頂): http://www.genbu.net/data/yamasiro/toyokuni_title.htm; 高台寺: http://www.kodaiji.com/index.html; 人生は遍路なり畠田秀峰、四国六番安楽寺貫主): http://sekiho.ddo.jp/jinsei1.html

撫養塩田(鳴門、徳島)の歴史技術、入浜式製塩と塩田争議、流下式製塩、イオン交換膜製塩、安土、桃山時代、1596年(慶長元年)の大地震による撫養沿岸の隆起、鳴門渦潮、とは(2010.3.4);http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/62.html

(追加説明) ○ 古代、飛鳥時代、701年(大宝元年)大宝律令の制度のもと、702年(大宝2年)、はじめて、都(みやこ)と四国(阿波、讃岐、伊予、土佐)の国府を駅路(駅馬と泉を備えてある)、海路(船)で結ぶ南海道(なんかいどう、国道)ができました。この頃の都は、694年(朱鳥元年、8年後)、持統天皇のとき誕生した藤原京(奈良)で、律令国家の基礎が築かれました。

 この時、藤原京(都、奈良)から四国の国府へは、そこから南の橋本(紀伊、和歌山)を経由し、紀ノ川沿いの紀伊の国府を通り、賀太の港(賀太駅、紀伊)に行きます。ここから船で淡路の玄関、由良の港(由良駅、淡路、兵庫)に渡り、それから陸路、福良の港(福良駅、淡路)まで歩き、また船で鳴門海峡を渡り、四国の玄関、石隅の港(石隅駅、撫養、阿波)に着きます。ここから陸路で西の阿波の国府近く郡頭駅(こうずえき、3番札所、金泉寺近く)に行き、次ぎに右方向の北に道をとり、大坂峠(おおさかとうげ)を越えて引田駅(讃岐)に入ります。その後は、瀬戸内海を左回りで、讃岐国府(河内駅)、伊予国府(越智駅、今治近く)、松山、大洲、太平洋沿岸の足摺崎と大回りして土佐国府(頭駅)に至る道となっていました。 

 その後、南海道には、718年(養老2年)、室戸廻りの道ができ、さらに、796年(延暦15年)、立川越えの官道(国道)ができ、特に讃岐から土佐への近道が新しく開けてきました。

○ 豊臣家滅亡の原因となった方広寺鐘銘(ほうこうじしょうめい)事件は、豊臣秀頼のつくった鐘の銘に言いがかりをつけ、大坂冬の陣、夏の陣を起こさせ、豊臣氏を滅亡に追い込んだ事件ですが、黒衣(こくえ)の宰相(さいしょう)、崇伝(すうでん、臨済宗、金地院崇伝、以心崇伝)、1569年(永禄12年)~1633年(寛永10年)が策略したと言われています。また、崇伝は、家康の命によって、武家諸法度(大名、旗本、武士の守る法)、禁中並公家諸法度(天皇、公家の守る法)、寺院法度(僧侶、神官の守る法)などの制定にも関与(起草)、徳川の幕藩体制を末永く支えました。

○ ところで、奈良大仏は、アマルガム法により金メッキ(水銀に金を溶かし、銅製の大仏の表面に塗り、火で炙り、水銀を蒸発させる)されていました。このは陸奥より、また、水銀は若狭より調達したと考えられています。大仏開眼よりお水取りの行事が始まっています

 東大寺の二月堂の行事、お水取り修二会(しゅうにえ)は、天下泰平、五穀豊穣、万民快楽などを祈願する法会のことです。若狭のお水送りは、遠敷川(おにゅうがわ、大丹生川)の上流にある閼伽井(あかい)から汲み上げられた清水(お香水、おこうすい)が約2km上流の鵜の瀬から遠敷川に注がれます。お香水は地下を通り10日の後、すなわち12日のお水取りの日に東大寺の閼伽井(若狭井)に届くとされています。この井戸から観音さまにお供えするお香水を汲み上げるお水取りの儀式が行われます。

 この時、練行衆(れんぎょうしゅう)の道明かりとして、大きな松明に火が灯され、人々を大いにわかせます。このため、修二会は、お水取りお松明の名で知られるようになりました。

 また、この行事は、若狭の遠敷(おにゅう、大丹生)からのお水送り水銀送り)と東大寺での松明(たいまつ)の火によるお水取り水銀取り)行事の名残とも考えられています。

 

2009年8月19日 (水)

仮名文字、いろは歌にまつわる歴史説話、無常(覚鍐、涅槃教)、鳥啼歌(坂本百次郎、明治、懸賞第1位)、高野切(伝 紀貫之筆、古今和歌集)、とは(2009.8.19)

   日本語を表音的に書き表す仮名文字として、万葉仮名(奈良時代)、平仮名、片仮名(平安初期)が、漢字より、我国に独自の音節文字として生まれました。 

 いろは(伊呂波)歌は、手習(てならい)歌の一つで、音の異なる仮名(かな)47文字、いろはにほへとちりぬるを わかよたれそつねならむ うゐのおくやまけふこえて あさきゆめみしゑひもせず、の歌からできています。末尾に、、また、京、を付けることがあります。

 平安末期以降、この歌は空海(弘法大師)作と信じられていましたが、その後の調査(い・ゐ、え・ゑ、お・を、同音の区別など)で、空海入定後の平安中期以降に作られたものと考えられています。 

 この歌は、色は匂へど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ 有為(うゐ)の奥山今日越えて 浅き夢見じ酔ひもせず、という意味の七五音四句、今様(いまよう)の和讃形式の歌謡となっています。

 新義真言宗の祖である覚鍐(かくばん)、1095年(嘉保2年)~1144年(天養元年)は、密厳諸秘釈(みつごんしょひしゃく)の中で、いろは歌を、もとは涅槃教(ねはんきょう)第13聖行品の世の無常偈(むじょうげ)、諸行無常(しょぎょうむじょう)、是生滅法(ぜしょうめっぽう)、生滅滅巳(しょうめつめつい)、寂滅為楽(じゃくめついらく)、の意味であると説明しています。 覚鍐(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%9A%E9%91%81

 ところで、いろは歌には1903年(明治36年)、万朝報という新聞で、新しいいろは歌について、全国に懸賞つきの募集があり、一位には、坂本百次郎の有名な鳥啼歌(とりなくうた)が選ばれ、戦前には、いろは歌と共によく使われたそうです。

 この歌については、1969年(昭和44年)4月より金沢大学に勤務してまもなく、木羽敏泰教授との歓談でいろいろ教えていただいたことがあり、朝靄(あさもや)につつまれた帆船の幻想的な風景が目に浮かぶようで、なつかしく思い出されます。

 とりなくこえすゆめさませ みよあけわたるひんがしを  そらいろはえておきつへに  ほふねむれゐぬもやのうち、 鳥啼く声す夢覚せ  見よ明け渡る東を  空色栄えて沖つ辺に 帆船群れ居(ゐ)ぬ靄の中

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紀貫之(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E8%B2%AB%E4%B9%8B

 仮名文字が流麗な美しさを発揮しはじめるのは、平安時代中期、古今和歌集(こきんわかしゅう)撰者紀貫之(きのつらゆき)、862年(貞観4年)~946年(天慶9年)が登場してからです。その真蹟は残っていませんが、伝 紀貫之筆と言われている、高野切(こうやぎれ、高野山に伝来の写本)古今和歌集、寸松庵色紙、桂本万葉集などがあります。

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(解説) 古今倭歌集 巻第九 羈旅哥(歌)(きりょのうた)  あまの(能)はら ふ(不)りさけ(介)みれば(盤) かす(須)(川)(奈)る み(美)(可)さのやまに(尓) いでしつ(徒)(支)(可)(无)  この(能)うた(多)はむか(可)しなか(可)まろを、ーーー   も(毛)ろこしに(尓)て(弖)つ(徒)き(支)をみてよみ(見)ける  あべのなか(可)まろ(呂)

 1053年(天喜元年)頃に書かれた 高野切古今和歌集では、平仮名文字は能筆家によって洗練され、芸術の域まで高められました。筆者は3人の寄合い書きで、その書風の違いによって、第1種から第3種に分けられています。第1種と第3種の筆者は特定されていませんが、第2種の筆者は源兼行と考えられています。高野切は,豊臣秀吉が連歌を好む木食応其(もくじきおうご、高野山)にその断簡(だんかん)を与えたこと(高野山文殊院伝来した、きれ)にちなんで名付けられたそうです。

(参考文献) 平凡社小百科事典編集部編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第4版)岩波書店(1991); 古谷稔解説: 日本名筆選1 高野切第一種 伝紀貫之筆、二玄社(1993); 永原慶二監修、石上英一ほか8名編: 岩波日本史事典、岩波書店(1999); 木本南邨: 弘法大師空海・人と書、朱鷺書房(2003).

(参考資料) ○ 高野切(こうやぎれ、解説): http://www.kanashodo.jp/kanashodo-files/kouyakire.html

○ いろは歌(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%84%E3%82%8D%E3%81%AF%E6%AD%8C

(追加説明)○ 仮名(かな)という名の語源は、漢字を真名(まな)と呼ぶのに対する言葉、仮字(かりな)で、それが、かんな、かな、に変化したと言われています。平仮名(ひらがな)は、平易な、かな、とか、貴賤男女を問わず平均して用いられる、かな、の意味を持つと言われています。

 いろは歌末尾に、、を付けるのは、いろはかるた歌の最後の諺が、京の夢大阪の夢(江戸)、京に田舎あり(上方、京、大阪)など、となっているからです。  

○ 平安時代、紀貫之(きのつらゆき)が書いた土佐日記は、日本最初の仮名文字日記で、四国の土佐(高知)の国守(こくしゅ、今の県知事)であった紀貫之が、土佐の国から京都へ帰るまでの紀行文です。

 土佐から大阪までの海上の旅は順調に来ているのですが、大阪から京都までに20日近く要しています。当時の大阪周辺は低湿地帯が多く、葦(あし)がたくさん生えていて、その中に行く先の標識が立っていました。これが葦の背丈が高いためによく見えず、あちこち間違え、やっと淀川(よどがわ)を見つけて京都に帰ったようです。これは、大阪周辺に葦が生い茂っていたと同時に、淀川は水上交通路が迷うくらいに発達していた、と見るべきです。(樋口清之: 完本、梅干しと日本刀、日本人の知恵と独創の歴史、祥伝社(2000)より)

土佐日記(紀貫之): http://www.aozora.gr.jp/cards/000155/files/832_16016.html

○ 弘法大師講聖典(四国六番安楽寺、弘法大師講本部)、弘法大師御入定千百五十年御遠忌記念出版、1983年(昭和58年)10月21日(新版)、講員(こういん)のよるべ、涅槃経(ねはんきょう)、弘法大師訳(こうぼうだいしやく)によれば、

涅槃経 諸行(しょぎょう)は無常(むじょう)なり  是生滅(これしょうめつ)の法(ほう)なり 生滅(しょうめつ)を滅(めっ)し已(おわ)りて 寂滅(じゃくめつ)を楽(らく)と為(な)す

弘法大師訳 色(いろ)は匂(にお)へど散(ち)りぬるを 我(わ)が世誰(よたれ)ぞ常(つね)ならん 有為(うい)の奥山今日越(おくやまきょうこ)えて 浅(あさ)き夢見(ゆめみ)じ酔(え)いもせず

○ 方丈記(鴨長明、鎌倉時代) 序 ゆく河の流(なが)れは絶(た)えずして、しかも、もとの水にあらず。淀(よど)みに浮(う)かぶうたかたは、 かつ消(き)えかつ結(むす)びて、久(ひさ)しくとどまりたる例(ためし)なし。世中(よのなか)にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし。

○ 平家物語(作者不詳、鎌倉時代) 冒頭 祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし たけき者もついには滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ

○ 古今和歌集は、平安前期の歌集で、勅撰和歌集の最初、20巻、歌数約1100首である。905年(延喜5年)、醍醐天皇のを受けて紀友則、紀貫之、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、壬生忠岑選者になって編纂しました。紀貫之作の仮名序紀淑望作真名(まな)があり、春、夏、秋、冬、賀、離別、羈旅(きりょ)、物名、恋など13種に分類されている。平明優雅な歌風古今調として後世和歌の範とされ、整然とした体裁は基準としてその後の勅撰集ににも踏襲された。(小百科事典、平凡社より)

2009年8月14日 (金)

阿波踊り(徳島)と北前船(日本海の商船、撫養~大阪~瀬戸内海~日本海~北海道、西廻り航路)にまつわる歴史逸話、盆踊り(念仏踊り)、阿波踊りの歴史、とは(2009.8.14)

  古代、飛鳥(あすか)時代、645年(大化元)年の大化改新(たいかのかいしん)により、北方(きたがた)の粟(あわの)国と南方(みなみがた)の長(ながの)国が統一されて、阿波(あわの)国ができました。

 ところで、盆踊り(ぼんおどり)は、旧暦7月の盂蘭盆会(うらぼんえ)の時期に、死者の霊がこの世に戻り、それを供養するための踊りです。その起源として、平安時代の空也(くうや、浄土教民間布教僧、阿弥陀信仰と念仏を広める)、903年(延喜3年)~972年(天禄3年)、鎌倉中期の僧、一遍(いっぺん、時宗開祖、南無阿弥陀仏の六字名号札を賦る)、1239年(延応元年)~1289年(正応2年)の念仏踊りが考えられています。

 (ぼん)は、盂蘭盆会(うらぼんえ)の略語で、盂蘭盆は梵語(ぼんご)で倒懸(さかさづり)という意味です。あの世で非常な苦しみを受けている死者を供養し救うのが、盂蘭盆会の行事です。飛鳥時代、推古天皇(女帝)、606年頃に、インドから中国を経て、日本に取り入れられたことが、日本書紀に記録されています。盆については、供物を載せる容器を日本の古語でボンといったところから、盆になったという説もあります。

 祖霊祭の意味を持つ盆の期日ですが、室町時代では、14日~16日、江戸時代では、13日~16日でしたが、近年になって13日~15日となっています。その代表的な行事には、迎え火、送り火、盆踊りなどがあります。盆の13は、先祖代々の墓参りをするならわしがあります。夕方に門口で苧殻(おがら、あさがら、皮をはぎ取った麻の茎)の迎え火を炊(た)き、精霊(しょうりょう)を迎え入れます。14日15日はお坊さんにお経をあげてもらい、15日の夜は送り火を焚き、精霊を送ります。

 盆踊りは、もともと精霊(しょうりょう)を迎えて慰め、送る行事ですが、現在は、阿波踊りに見られるように、娯楽的な要素が強くなっています。 

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三好昭一郎(徳島近世史研究会会長) ふるさとの宝物徳島盂蘭盆組踊之図阿波踊りのルーツ : http://www.jrt.co.jp/tv/ohayo/furusato/020813.htm

 阿波踊りの起源については、豊臣秀吉の四国征伐に勲功のあった蜂須賀家政(はちすかいえまさ、正勝(小六)の長男)が、1585年(天正13年)に播州(兵庫)龍野(5万石)から秀吉から賜った阿波国(徳島藩18万石)に入り、1587年(天正15年)、徳島城完成のお祝いに、町人達を招いて祝い酒をふるまった時の無礼講(ぶれいこう)で、自然発生的に町人達が踊り出したのが始まりと言われています。

 歴史的には、阿波踊りは、江戸時代の鈴木芙蓉(すずきふよう)の描いた踊りの絵から推して、盆の精霊踊りが変化したものと考えられ、藩の規制の触書(ふれがき)が出された俄(にわか)踊り(即興の寸劇、歌舞伎、人形浄瑠璃などの真似、声色、手品など、1人~数人)、組踊り(風流踊り継承、風流芸能集団、大踊り、100~120人)、文化・文政の頃から藍(あい)の豪商が他国の藍問屋を招待したときの座興(余興、俄)踊り、また、藩の貢祖の収奪によって苦しめられた民衆の鬱積(うっせき)した不満のはけ口としての狂乱(きょうらん)踊り騒(ぞめき)踊りなど、400年の間に諸芸や諸楽器を取り入れて、時代と共に変化してきた特異な民族芸能と考えられています。徳島の盆踊りは、社会の混乱が激しい時、また、戦時中は中止させられているので、平和な世を歓びあう意味も持っています。

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徳島市街の盆踊り(徳島盂蘭盆、組踊り、幕末の絵、徳島県の百年

(解説) 徳島市では、毎年、8月12日~15日の4日間阿波踊り(ぞめき踊り)があります。「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」との唄ばやし(よしこの)、前身は都々逸(どどいつ)、リズミカルな太鼓、鉦(かね)、三味線(しゃみせん)に笛(ふえ)の囃子(はやし)にのって浮かれ踊る姿は楽しいもので、飛び入りしたくなるものです。

 ただ、阿波踊りは、手を挙げて足を運べば阿波踊りとも言われ、現代的な二拍子の激しい動きの踊り(ぞめき踊り)であり、日本古来のゆったりした盆踊り(寺社の境内の櫓(やぐら)の廻りを輪になって踊る、廻り踊りなど)とは根本的に異なるもので、あの世の精霊を喜ばせるための踊りというよりも、現世の人々のストレス発散のための踊りの意味合いが強いように感じました。

 ところで、この手を挙げて踊るスタイル跳ねるようなリズミカルな三味線の伴奏は、九州ハイヤ節(牛深、熊本、元唄)が源流のようです。もとは、船出の唄(うた)で、船乗り達が、南風(はや)を受け、北前船(きたまえぶね)に乗って日本海や瀬戸内方面へ貿易に出かけた時、ハイヤ節をその曲調と名を変えて日本各地の港町に伝え、広まった(黒潮文化)と言われています。南風(ハヤ)が唄の名(ハイヤ)となったという。テンポの激しいリズミカルな曲の踊りですが、北へ行くにつれて緩やかとなり、阿波踊り、佐渡おけさ、津軽あいや節などに変化したと言われています。

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北前船模型(広海家広徳丸)      北前船の航路と寄港地(西廻り航路)

(解説) 北前船(弁才船、帆船、千石船)は、最初は大阪に北陸の米などを運び、その後は大阪、瀬戸内各地の塩、紙、砂糖、木綿、雑貨などを買い、日本各地の港で商売しながら北海道(蝦夷地)の函館、江差、松前まで行き、これらを売って海産物(昆布(コンブ)、数の子、鰊(ニシン)、魚肥の鰊〆粕(ニシンしめかす)、鰯粕(いわしかす)など)を仕入れ、また内地への帰り道でこれらを売る商売(貿易)をしました。瀬戸内の撫養(岡崎、徳島)では、塩、砂糖(三盆白、黒砂糖))、藍(葉藍、藍玉)などを売り出し、一方、北海道、東北産の魚肥を買い付け、藍や甘蔗(サトウキビ)を栽培するときの有機肥料としました。

 北海道と大阪を日本海を経由して結ぶ西廻り(まわり)航路は、河村瑞賢(かわむらずいけん)が1672年(寛文12年)に開拓したものです。北前船は、江戸時代(18世紀)中期から1897年(明治30年)頃まで活躍していますが、地方によっては商品価格に大きな差があり、大きな利益を得ることが出来ました。鉄道の発達などにより衰退していきました。

 また、ハイヤ節の源流は、奄美大島(あまみおおしま、沖縄)の六調(ろくちょう)で、唄遊び、宴会、お祝いとつながりが深いものです。ハイヤ踊りは、もとが船乗り達の酒盛り踊りであり、中腰で重心が低く、また網投げ、櫓漕ぎ(ろこぎ)などの動きが特徴ですが、腰を落として豪快に踊る阿波踊りの男踊りとよく似たところがあります。

 徳島では、「よしこの節」を「ハイヤ節」の伴奏に合わせて唄うようになり、また、盆踊りは、時代の影響を受け、ぞめき踊り(二拍子の軽快で賑やかな踊り)だけが生き残り、今日の阿波踊りに発展してきたと考えられています。

(参考文献) 三好昭一郎、松本博、佐藤正志、徳島県の百年、山川出版社(1992); 樋口清之監修: 暮らしのジャーナル、生活歳時記(新装改訂版)、三宝出版株式会社(1994); 湯浅良幸(徳島史学会)編: 徳島県の歴史散歩、山川出版社(1995); (財)とくしま地域政策研究所編: 四国のいのちー吉野川辞典ー自然/歴史/文化ー、三好昭一郎、阿波踊り、農文協(.1999); 永原慶二監修、石上英一ほか8名編: 岩波日本史事典、岩波書店(1999); 牧野隆信: 日本海の商船 北前船とそのふる里、北前船の里資料館、加賀市地域振興事業団(1999); 加藤貞仁: 北前船、寄港地と交易の物語、無明舎出版(2002); 三好昭一郎: 喜寿記念日本史論集 第二部 徳島城下町民間藝能史論、山川製本書(2006); 石躍胤央、北條芳隆、大石雅章、高橋啓、生駒佳也、徳島県の歴史、山川出版社(2007). 

(参考資料) ○ 牛深ハイヤ節(YouTube): http://www.higo.ed.jp/sh/ushibukash/page007.html; 

○ 徳之島民謡、六調(ろくちょう、YouTube): http://www.youtube.com/watch?v=4U5QgFuhqko; 

○ 阿波踊りの歴史: http://www.awabank.co.jp/kojin/odori_1.php

(追加説明) 徳島藩は、1585年(天正13年)、蜂須賀家政による阿波国(18万石)の領国経営より始まります。1587年(天正15年)、蜂須賀家政、小早川秀景、長曽我部元親の天下普請により、徳島城(平山城、ひらやまじろ)が完成しました。

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蜂須賀家政(1558~1639、徳島藩祖、阿波、徳島)

 1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦では、家政は阿波の領国を豊臣秀頼に返上、家督を嫡子(ちゃくし、長男)、至鎭(よししげ)に譲って隠居、剃髪(号、蓬庵)して高野山に登り、光明院に入りました。 

 関ヶ原の戦では、家政は至鎭(よししげ)(15才)を徳川家康のもとに参陣させ、至鎭は先鋒隊として活躍、家康より改めて、阿波一国が与えられました。大坂の役では、至鎭は阿波の水軍を率いて徳川軍として参戦、1614年(慶長19年)、冬の陣では、大阪湾を封鎖、木津川砦・博労斑砦の攻防では大きな軍功をあげ、1615年(元和元年)、夏の陣では、海が荒れたため最後の決戦には遅参したが、味方を勇気づけました。

 その戦功として淡路(兵庫)7万石が加増となり、25万石の蜂須賀家(徳島藩)の領国が確定、また家康の養女(下総古河の小笠原秀政の娘、氏姫)と婚約、初代阿波藩主となりました。その後、蜂須賀家は、明治維新までの約270年、徳島藩主(14代まで)として、阿波と淡路の領国に君臨しました。

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