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2009年9月10日 (木)

碁の名手(本因坊道策)と琉球第一の打手(親雲上浜比賀)にまつわる歴史対局、とは(2009.9.10)

  1682年(天和2年)、琉球王、尚貞(しょうてい、1669年~1709年在位)は、国内外に威名の高い本因坊四世道策(どうさく)のことを耳にして、国中第一の名手、親雲上浜比賀(ぺいちんはまひか)を日本に送り、薩摩2代藩主、島津光久(しまづみつひさ)、1616年(元和2年)~1694年(元禄7年)の頃、島津家を通じて道策との対局を願い出たことがあります。

 ところで、1609年(慶長14年)3月、江戸幕府(日本)は、明国(中国)との国交樹立政策の一環として、島津家久(しまづいえひさ、薩摩藩(鹿児島)、初代藩主)、1576年(天正4年)~1638年(寛永15年)を琉球(りゅうきゅう、沖縄)に出兵(三千余の兵)させ、4月1日琉球は降伏、7月、徳川家康、1543年(天文11年)~1616年(元和2年)は、琉球を家久に与えました。

 1611年(慶長16年)、家久は琉球仕置を行い、琉球国王、尚寧(しょうねい、1589年~1620年在位)に琉球が古くから薩摩の附庸国(属国)だったことを認めさせ、沖縄島ほかの諸島8万9000余石を与え、与論島以北の大島(奄美諸島)を直轄化しました。

 1634年(寛永11年)、琉球の日中両属(外見は独立国の琉球王国、内実は薩摩藩、徳川幕府の強い規制を受ける)が確定、同年、島津家久は琉球の王位を琉球国司に任じ、また、琉球(国王、尚豊、しょうほう、1621年~1640年在位)使節の江戸上がり(慶賀使、謝恩使、進貢、2年一貢)が始まりました。

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守礼門(しゅれいもん、首里城外門の一つ、琉球、沖縄)

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本因坊道策(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9B%A0%E5%9D%8A%E9%81%93%E7%AD%96

 本因坊道策(ほんいんぼうどうさく、法名日忠)は、1645年(正保2年)~1702年(元禄15年)、岩見(いわみ、島根)、山崎家(毛利臣下、松浦但馬守出身)の生まれで、近代碁の創始者、碁聖(ごせい)、と言われています。

 道策は、幼くして俊才、母親に厳しく鍛えられ、7,8才で碁を学び、13才の時、本因坊三世道悦(どうえつ)、1636年(寛永13年)~1727年(享保12年)に入門、1667年(寛文7年)、23才で御城碁に初出仕して、通算14勝2敗、2敗はいずれも二子局で、道策の一目負けでした。

 道策(実力十三段とか)は、1677年(延宝5年)、33才で本因坊の家督を継ぐ頃には、当時の強豪をを全て向先以下に打ち込んでいました。この時、道策は名人碁所(ごどころ)の内命も受け、1702年(元禄15年)まで26年間碁所を勤めました。

 また、道策は、その頃の碁が部分的な力戦中心の中で、手割(てわり)理論(石の働きや効率性で局面の優劣を判断、棋理による碁形の分析)を導入、近代碁に通じる感覚、打法の開拓、段位制度の整備、優秀な弟子の育成(門下3000人とか)など、大きな功績を残しています。当時の最高位は上手(じょうず、七段)であり、その上の準名人(八段)、名人(九段)は神業の聖域で、幕府から名人の芸に達する碁所の地位を与えられ、家元四家(本因坊、井上、安井、林)の上に君臨しました。六段以下初段までは、「上手に対して□子」という格付けを実施しました。

 囲碁の国際試合として、本因坊初代算砂(さんさ、法名日海)、1559年(永禄2年)~1623年(元和9年)の頃、朝鮮(韓国)から李礿史(りやくし)という人が来て、算砂と三子を置いて対局したことがあります。朝鮮随一の打ち手と言われた李礿史も見事に負かされました。

 この算砂と朝鮮人との三子以来、時の最高位者は、三子を置かせて外人と対局するのが恒例となっていましたが、道策は四子で対局する旨(むね)、島津家に伝えました。

 そこで、島津家でも、「古来、外人は三子が恒例となっているが、今回の対局が四子というのは如何なる訳なのか。親雲上といえども相当の打ち手であり、万一本因坊において負けるとなると国恥ともなりかねないが」と言ったところ、「なるほど、初代は三子で対局されたが、本朝の囲碁は当時より少なくとも一子以上は進歩しています。異朝においてそれだけ進歩したとも思えないので、初代が三子ならば、私は四子で対局すべきと考えます」と答え、対局は四子で行われることになりました。

 親雲上は、琉球第一の名手であり、四子を置いては負けられない。一方、道策も官許碁所の名にかけても負ける訳にはいかない。 というわけで、置碁には珍しく、力のこもった勝負が始まったのですが、道策は随所に妙手を下し、完全に黒を翻弄(ほんろう)、十四目の大差をもって遠来の浜比賀を破り、人々を驚嘆させました。

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坐隠談叢(ざいんだんそう、四子 親雲浜比賀 ー 本因坊道策

(解説) 爛柯堂(らんかどう)評、「下手に対すといえども無理なく、敵器量を知りて、趣向妙なり」。

 この碁では、道策は少しも無理な手を打たず、巧みに黒の虚を突いて優勢に導いたと言われています。また、一面、道策のハメ手と伝えられるような手を繰り返し試みています。例えば、白5、7及び白27、29のツケ、また、白11、13の手は、黒の形を重複させ、いわゆる凝(こ)り形にさせる意味の手筋です。また、「唐人(とうじん)の泣き手」と語り伝えられている手は、白61のサガリだと言われています。 黒60とオサエ込み、これで渡れるつもりが、白61と下(さ)がられて、泣くに泣けない事になりました。道策は、浜比賀を下手と見て侮らず、打ち方を緩めず十分に打ち回しています。

 親雲上浜比賀は、後に改めて道策に師事して、上手(じょうず、七段)に対し二子、すなわち三段の免状を下附されました。浜比賀は帰国後、道策流の石立(いしだて)を取り入れ、琉球の囲碁も大いに発展したと言われています。

(参考文献) 安藤如意(改補社者渡辺英夫): 坐隠談叢(新編増補、囲碁全史、新樹社(1955); 林元美(林裕校注): 爛柯堂棋話 Ⅰー昔の碁打ちの物語-、平凡社(1978);高良倉吉(沖縄歴史研究会)編: 沖縄県の歴史散歩、山川出版会(1995); 永原慶二監修、石上英一ほか8名編: 岩波日本史事典、岩波書店(1999);青木新平(呉清源序): 碁石の微笑、六月社(1956); 水口藤雄: 囲碁の文化誌、起源伝説からヒカルの碁まで、日本棋院(2002). 

(参考資料) 本因坊道策(木石庵); http://umai.dip.jp/assembly/mignon/go_kiri/dosaku.html

本因坊道策(google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%9C%AC%E5%9B%A0%E5%9D%8A%E9%81%93%E7%AD%96&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

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