吉田神社(京都)と京都大学の青色と赤色の建造物周辺に群生するコケ植物、土壌とタチゴケ、キヘチマゴケ、ホンモンジゴケの組織内の重金属分布、大学近くの碁会所、とは(2009.9.12)
吉田神社(よしだじんじゃ、左京区吉田、京都)は、吉田山の麓にあり、京都大学時計台前の正門を出ると、すぐ左に赤い大鳥居が見えます。
その歴史は古く、9世紀後半、藤原山蔭(やまかげ)が一族の繁栄を祈るために春日(かすが、奈良)四神を勧進(かんじん)したのを始まりとし、藤原道長(みちなが)の氏神社として信仰を集め、卜部(うらべ)氏が、代々神職を努めました。
室町時代になって神職の卜部兼俱(うらべかねとも、のち吉田姓)が唯一神道(ゆいつしんとう、儒、仏、道の三教に対する神道の純粋性を主張)を唱え、大元宮(だいげんぐう、日本中の神社のご利益を一度に授かれるという)を創祠(そうし)、吉田流神道の総家として大いに興隆しました。
時計台絵はがき(京都大学、吉田、左京区、京都) 京都大学(ホームページ): http://www.kyoto-u.ac.jp/ja.
ところで、今年(8月4日)の雨水の酸性、アルカリ性の強さ、pH(水素イオン指数)の全国一斉調査(4000人協力)によれば、政令指定都市は平均pH5.33(京都市はpH5.61)でした。
近年、神社、仏閣の青色の銅葺き屋根や銅像(赤銅色の金属銅が錆びて、緑青、塩基性炭酸銅を生じたもの)、白色の金沢城の鉛瓦(灰黒色の金属鉛が錆びて、鉛白、塩基性炭酸鉛を生じたもの)などが、酸性雨(さんせいう、pH<5.6の雨)により溶解し、周辺の土壌が銅や鉛で汚染されています。
そこの土の中には多量の銅や鉛があり、有毒な重金属(可吸態、イオン形、可溶)が多いと、普通のコケ植物は全く生えませんが、特に銅の汚染地には、銅に耐性のあるコケ植物、ホンモンジゴケ(センボンゴケ科、Scopelophila cataractae(Mitt.)Bross)、キヘチマゴケ(カサゴケ科、Pohlia bulbifera、また、鉛の汚染地には、鉛に耐性のあるコケ植物、タチゴケ(スギゴケ科、Atrichum undulatum(Hedw.)P.Beauv.)、キヘチマゴケなどの特異的な群落が見られます。
主として、タチゴケは鉛、亜鉛の汚染地域、キヘチマゴケは、鉛、亜鉛、銅の汚染地域、ホンモンジゴケは銅の汚染地域で群落をなして生育していることが分かりました。
鉛、銅、亜鉛などに耐性のあるコケ植物(左よりタチゴケ、ホンモンジゴケ、キヘチマゴケ)
1991年(平成3年)頃の調査でしたが、吉田神社の緑青で青くなっている銅葺き屋根の拝殿の石段の壁には、銅に耐性のあるシダ植物、ヘビノネゴザ、またコケ植物、キヘチマゴケ、ホンモンジゴケの生育が見られました。
土壌中の有毒な銅が一番多いところにホンモンジゴケ、その量が少なくなると、隣にキヘチマゴケ、さらに銅が少なくなるとヘビノネゴザの生育が見られ、この植生は、銅の汚染の程度に応じた生育分布を示していることが分かりました。
また、京都大学の時計台近くの元総長荒木博士銅像、正門から向かって左の銅葺き屋根と雨樋のある留学生センター周辺でも銅ゴケの群生が見られました。
吉田神社拝殿石垣の植生(左より、ヘビノネゴザ、キヘチマゴケ、ホンモンジゴケ)
吉田神社の表参道の大鳥居(吉田、左京区、京都、google画像)
吉田神社(わたしの青秀庵、ヒデ、京都):http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/urochoro-yoshida-jinjya.htm、http://www5.ocn.ne.jp/~yosida/.
タチゴケ(上)、ホンモンジゴケ(下左)、キヘチマゴケ(下右)の根の横断面の鉛、銅及び鉛の分布
(解説) 吉田神社の鮮やかな赤色の鳥居、本殿(本宮)、摂社、末社、特に摂社の建物の周辺は、金沢城の鉛瓦による鉛汚染地域と似た植生が見られ、鉛に耐性のあるタチゴケとキヘチマゴケの群生が目立っていました。そこで、生育土壌を調べたところ、大量の鉛が検出されました。
また、有機試薬染色ー顕微鏡観察より、タチゴケとキヘチマゴケの組織中には、表皮から茎の中心部にかけて表皮側ほど多量の鉛を、ホンモンジゴケでは多量の銅を蓄積していることを確認しました。
宮司さんに電話で塗装(顔料)のことをお聞きしたところ、秘密のことでしたが、赤色の塗装は、安価なベンガラ(酸化第二鉄)は傷みやすく何回も塗装する必要があること、また朱(辰砂、硫化水銀)は高価なので、鉛丹(四三酸化鉛、光明丹、赤鉛)を使っていますとのこと、思いもかけず土壌の鉛汚染を確認したことを懐かしく思い出します。
(参考文献) 山本四郎: 京都府の歴史散歩(上)、山川出版社(1990); 織田樹郎、本浄高治: 重金属汚染地域の金属耐性コケ植物ータチゴケ、ホンモンジゴケ及びキヘチマゴケにおける銅、鉛及び亜鉛のキャラクタリゼーション-(英文)、植物地理・分類研究、43巻、p.91(1995); 本浄高治: 環境をめぐる視点(Ⅱ)、重金属と植物ー自然の回復ー、環境保全(京都大学)、p.25~35(1997); 本浄高治; 重金属と指標植物ー自然環境の回復-、日本海域研究所報告(金沢大学)、30巻、p.171~193(1999); 永原慶二監修、石上英一ほか8名編: 岩波日本史事典、岩波書店(1999).
(参考資料)○ 酸性雨調査(2009.8.4): http://weathernews.com/jp/c/press/2009/090804_1.html、http://weathernews.com/jp/c/press/2009/090623.html;
○ 顔料と染料(身の回りの粉粒体):http://www.biwa.ne.jp/~futamura/sub73.htm; 丹土: http://homepage2.nifty.com/amanokuni/hani.htm;
○ 指標植物(しひょうしょくぶつ)、重金属集積植物
(追加説明)○ 鉛の顔料には、白色の鉛白(えんぱく、塩基性炭酸鉛、京おしろい)、黄色の密柁僧(α型一酸化鉛、みつだそう、金密柁、β型一酸化鉛、きんみつだ)、赤色の鉛丹(えんたん、四三酸化鉛、別称光明丹、こうみょうたん)などがあります。
水銀の顔料には、白色の水銀白粉(塩化水銀含む、伊勢おしろい)、赤色の朱(しゅ、辰砂、しんしゃ、硫化水銀)などがあります。
鉛と水銀は、共に有毒ですので、現在では白色の顔料として、亜鉛華(あえんか、酸化亜鉛)、チタン白(ちたんしろ、二酸化チタン)などが用いられています。
また、舗装道路の塗装として、一般に、白線にはチタン白、黄線には黄鉛(おうえん、クロム酸鉛)が使われています。
○ ところで、万葉集に、あおに(青丹)よし 奈良(寧楽、なら)の都(京師、みやこ)は 咲く花の 薫(にお)ふがごとく 今盛りなり、という和歌があります。 この歌は、小野老(おののおい)が大宰府(九州)へ赴任していた時、奈良の都を懐かしんで詠んだと言われています。 あおによし(青丹よし)は奈良の枕詞(まくらことば)ですが、従来は特別な意味を持たず、次の語句への口調をよくする言葉です。 一方、あお(青、岩緑青)、に(赤、朱)に色の意味を持たせ、青と赤に彩られた奈良の都(平城京)の建物の美しい景色を称えた歌としての解釈もあります。
奈良に顔料の青丹(青黒い土、岩緑青、いわろくしょう)を産出したことが秘府本万葉集に見えるが、事実か伝説の記録か不明とのことです。(広辞苑、岩波書店、より)
〇 あおに(青丹)よし 奈良(寧楽、なら)の都(京師、みやこ)は 咲く花の 薫(にお)ふがごとく 今盛りなり(小野老、大宰少貳小野老朝臣歌一首、万葉集巻三・328)
この歌は、730年(天平2年)ころに詠まれ、奈良の都が造られ20年ほど、人口は20万~10万と推定され、10人に1人が役人の政治都市で、活気があったようです。小野老が大宰府(九州)へ赴任していた時、宴席で奈良の都を懐かしんで詠んだとされています。
ところで、この歌の「にほふ」は、この時代には、赤黄白の鮮やかに映ゆることを意味し、のち匂いの香りにも用いるようになっているようです。
また、「咲く花」については、桜という説と、いろいろな花という説があるようですね! ご教示の武田祐吉(1886~1958)「萬葉集全註釈」は、桜の花という説、一方 、伊藤博(1925~2003)「萬葉集釈注」は、その季節に奈良で咲いていた、色々な花(梅、桜、藤波など)ではないか、とあります。
奈良の都から遠く、筑紫の国で、宴席の一座の者達が、望郷の念を募らせ、この直前まで、奈良の都にいた老に、今の平城の都の様子を尋ねたときのの答えがこの歌である、と言われています。
〇 ”匂ふ”ことについて、先日、ふと思い出したことですが、京都大学学歌(昭和15年1月18日制定)に、 1, 九重に 花ぞ匂へる 千年の 京に在りて その土を 朝踏みしめ ーーーとあり、この歌詞では、九重は宮中、花は奈良から贈られた八重桜、”匂へる”は、香りではなく 見た目の美しさを表す意味のようですね!
百人一首には、いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな 、伊勢大輔(61番) (通釈)古い都があった奈良の八重桜は、献上された今日、ここ平安京の九重の宮中で色美しく咲き匂うのだった。
〇 小倉百人一首、いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな 伊勢大輔(61番) 『詞花集』春・29、 この句の「にほひ」の「にほふ」については、現在の「におう」にあたり、
”におう”(匂う。臭う)は、広辞苑によると、ニは丹で赤色、ホは穂。秀の意で、外に
現れること、すなわち赤などの色にくっきり色づくのが原義。転じて、ものの香がほのぼのと立つ意。多く、良い感じの場合は「匂う」、悪い感じの場合は「臭う」と書く。
○ 私は、愛媛(愛媛大学文理学部、卒業)から京都へ(京都大学大学院理学研究科、進学)、1964年(昭和39年)4月~1969年(昭和44年)3月まで、5年間、京都大学吉田、北部キャンパス(理学部化学教室、化学研究所放射化学研究室、放射性同位元素総合研究室)まで徒歩10分、銀閣寺電停近く、下別当町(村井良治様方、北白川、左京区、京都)で下宿していました。ということで、銀閣寺、哲学者の道、吉田神社の周辺はよく散策したことがあります。
また、私の趣味の囲碁は、下宿から登校途中の農学部正門手前の歩道右側にある碁会所(西村宅、久保田町、北白川、左京区、京都)で、常連の学生として、一般の方々とよく囲碁対局を楽しみました。
江戸時代、初代名人、本因坊算砂(ほんいんぼうさんさ)ゆかりの寂光寺(じゃっこうじ)を、はじめ寂光院と間違え、訪ね歩き、やっとのことで探しあてたことがありました。
ご縁があり、京都から金沢へ(金沢大学理学部、就職)、1969年(昭和44年)4月から金沢大学理学部(化学教室分析化学研究室)に勤務し、1991年(平成3年)頃に、鉛瓦(金沢城)、神社、仏閣の銅葺き屋根、銅像(日本各地)などの酸性雨による溶解と土壌汚染、そこに特異的に生育している重金属耐性のコケ植物、シダ植物を環境化学の立場から調べたことがあります。その頃、久しぶりに、京都大学キャンパスへ、近くの吉田神社をフィールドに選び、調査研究したことが懐かしく思い出されます。
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