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2009年9月17日 (木)

吉野川(徳島)の第十堰にまつわる歴史実話、本流の変化と管理、川舟の平田舟、徳島城の総構、本四架橋の先人(大久保諶之丞、中川虎之助、原口忠次郎)、とは(2009.9.17)

  人は、利根川(坂東太郎)、筑後川(筑後次郎)、吉野川(四国三郎)を日本三大暴れ川と呼んでいます。吉野川は、延長194km(全国12位)、流域面積3750km2(全国17位、四国の20%)ですが、洪水流量は2万4000m3(全国1位)であり、阿波の吉野川流域は、かっては日本一の洪水地帯となっていました。この氾濫を防ぐために、川沿いに水防竹林(すいぼうちくりん)が植えられ、上流から運んできた肥沃な土壌を利用して藍作が盛んに行われました。

 ところで、1672年(寛文12年)、阿波4代藩主蜂須賀綱道(はちすかつなみち)(1656年(明暦2年)~1678年(延宝6年)は、徳島城の防御で掘に水を引き入れること、また、城下への物資輸送の必要から、名西郡の第十村と名東郡の姥ヶ島村の村境付近で、幅11~15mの掘割水道をつくり、吉野川本流の一部を別宮川(現吉野川)に流し、徳島城に取り入れる工事を行いました。こうして、第十村の地域において、吉野川本流から別宮川(べっくがわ)への分流が始まりました。  蜂須賀綱道(ウィキペディア):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E7%B6%B1%E9%80%9A

 ところが、別宮川の下流が低地のため、吉野川の水の多くがそちらに流れ、また、その後の河川水による浸食(洪水など)により川幅も次第に広くなり、別宮川が吉野川の本流となりました。そのため、もと本流の吉野川の水量が次第に枯れ衰え、特に川口に近い村々では、田畑が水不足となり、海水の逆流現象なども現れて、水田の稲作に被害(塩害)が出るようになってきました。

 その対策として、阿波藩に旧吉野川下流の44ヶ村百姓達の連判(庄屋繁右衛門、庄屋丹右衛門、二名、発起人)による新吉野川堰止めの願い出を出し、阿波8代藩主蜂須賀宗鎮(はちすかむねしげ)、1721年(京保6年)~1780年(安永9年)、が直ちに状況調査の上、その願いを受け入れ、吉野川第十堰(よしのがわだいじゅうぜき)の構築(幅13~22m、長さ400m)が計画され、1752年(宝暦2年)に着工、3年後にようやく完工しました。蜂須賀宗鎮(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E5%AE%97%E9%8E%AE

 この時、竹を編んでつくった蛇籠(じゃかご)という長い籠の中に石を詰め、これを積み重ねて吉野川の流れを堰き止めました。その後、洪水の度に改修、補修工事を加え、この堰の上流葯1.2kmにある第十樋門(だいじゅうひもん、北岸側、板野郡上板町)は、1923年(大正12年)に設置され、旧吉野川の下流への流水量も調節できるようになっています。

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第十堰(上空から見たの全景、吉野川、徳島、google画像検索)

(解説) 現在、第十新田(北岸側、板野郡上板町)と藍畑第十(南岸側、名西郡石井町)の間で吉野川を堰き止めている吉野川第十堰2段堰で、吉野川分流するために設けられています。下流側の堰(越流堰)は、お手堰と呼ばれ、1752年(宝暦2年)、初めて築かれた堰ですが、上流側の堰(円弧型堰)は、幕末期の洪水が基で、1884年(明治17年)に完成したものです。第十は地名であり、吉野川にある十番目の堰というわけではなく、また、河口からは約14km離れた所にあり、全長は約800mです。

 その後、1936年(昭和36年)の台風(第2室戸)と出水により、堰北部の流出が基で、1965年(昭和40年)から17年をかけ、表面をコンクリート構造とし、また、コンクリートブロックにより補強された堰となっています。近年、建設省(国土交通省)による第十堰の撤廃と可動堰構築の計画が持ち上がり、大きな社会問題となりました。

 別宮川の名称が、吉野川(本流)に変わるのは、1932年(昭和7年)で、吉野川第十堰から流れ出ている、かっての吉野川(本流)は、旧吉野川と名称が改められ、今日に至っています。現在、吉野川の川幅は、一番長いところで2360m(阿波市、全国2位)、河口近く(徳島市)は1000~1300mの流れとなり、紀伊水道に注いでいます。 

 古代、奈良時代、阿波の国府(こくふ、政庁)は、国府町(府中、こう、徳島市)に置かれ、その近くに、国分寺(こくぶんじ)、国分尼寺(こくぶんにじ)が建立され、政祭の中心地となっていました。

 国司(こくし)は、南海道(なんかいどう)を通って、都から国府に赴任する時、撫養から西の郡頭駅(こうずのえき、宿駅、板野)へ、北へ行くと大坂越えから讃岐へ、一方、ここから南へ行くと第十の地に辿り着き、そこには吉野川を川舟で渡る(つ、川港(湊)、渡し場)がありました。また、この地域は新島荘(にいじまのしょう)の大豆処(だいずどころ)であり、第十(だいじゅう)の地名の由来になったとも言われています。ということで、第十は、陸路と水路の重要な中継点の役割を果たしました。

 近世、江戸時代、阿波の領国内の人や物資の輸送(藩主の巡見、公用荷物の輸送、流域の村々の産物など)は、主に平田船(ひらたぶね、船底が浅く幅が広い小型帆船)、高瀬舟(たかせぶね、船底の平たい小型荷舟)、荷楫取舟(かんどりぶね、鮎魚、吉野川特有の舟)、など、吉野川を利用した舟運でした。吉野川の川港(湊)は、上流の川口、川崎から第十を経て名田、大寺まで20数ヶ所ありました。 藍(葉藍、藍玉)、砂糖、和紙、米、麦、大豆、葉たばこ、薪炭など、吉野川、新町川を通り徳島城下、吉野川、撫養川を通り阿波の玄関(海上交通の拠点)、撫養港(むやこう、紀伊水道に面した東の岡崎から、撫養川の川口にある林崎、その西の黒崎へかけての港)などに積み降ろされ、一方徳島、撫養からは、干鰯(ほしか、藍作肥料)、塩、衣服類など、吉野川の上流の各地の村に舟で運ばれました。第十堰には、1754年(宝暦4年)、舟通し(ふなとおし、通船料徴収)が設けられました。

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吉野川の川船(平田舟、かんどり舟、google画像検索)

 一方、徳島城は、吉野川の分流、新町川、福島川、助任川、寺島川などを外堀として利用する、外敵から城を防御する造りで、惣構(そうがまえ、総構とも)と呼ばれています。城の周囲には石垣が築造され、松が植えられていました。

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徳島城の惣構(そうがまえ、google画像検索)

 徳島は、1585年(天正13年)、蜂須賀家政、1558年(永禄元年)~1639年(寛永15年)が、吉野川の三角州上の孤立丘陵にある渭山城(いのやまじょう)に入城してから城下町として発展しました。徳島は、もと渭山城の東方の三角州の一つの島の名であったが、嘉名であったので、渭山城を徳島城の名に改めたと言われています。蜂須賀家政(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E5%AE%B6%E6%94%BF

 その後、吉野川の水運は、1887年(明治20年)頃まで隆盛を続けたが、1900年(明治33年)、徳島と川田(かわだ、吉野川市)間に鉄道が開通すると、陸上交通が次第に発達し、吉野川水運は衰退しました。

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明石海峡大橋(淡路ハイウェイオアシス)

 また、明治の中頃、海上交通が帆船から汽船の時代を迎えると、撫養など川港(湊)は大型船には不便であり、小松島に新しく港湾が造られ、撫養の港としての活力は衰退しましたが、1985年(昭和60年)、大鳴門橋、1998年(平成10年)、明石海峡大橋の開通により、撫養(鳴門)の新しい発展が期待されています。

 なお明石海峡大橋は、180kgに耐える太いケーブルで支えられていますが、それを当時の本州四国連絡橋公団と新日鉄、神戸製鋼が試験を重ねて開発、つり橋の新しい歴史を開きました。鋼鉄にケイ素を1%入れるのがミソだという。この鋼鉄ワイヤは一本で乗用車ほぼ4台を吊り上げられる。束にすると、想定される最大張力の6万2千5百トンに十分耐える。ケーブルはカバーで覆われ内部には、さび防止のため乾いた空気が流される。200年以上使うのが目標と言う。(橋の科学館、神戸市垂水区より)

(参考文献) 児島光一: 上板昔読本、教育出版センター(1979); 湯浅良幸(徳島史学会)編: 徳島県の歴史散歩、山川出版社(1995); とくしま地域政策研究所編: 四国のいのち、吉野川事典、自然/歴史/文化、農文協(1999); 石躍胤央、北條芳隆、大石雅章、高橋啓、生駒佳也、徳島県の歴史、山川出版社(2007).

(追加説明) ○ 蜂須賀家

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蜂須賀小六正勝      蜂須賀家政

 蜂須賀家は、尾張国蜂須賀郷の土豪、豊臣秀吉(木下籐吉郎)に仕えた、阿波一国(18万石)の大名、蜂須賀正勝(小六)ですが、その嫡子(長男)の家政(関ヶ原の戦いでは、領地を豊臣家に返納、剃髪、高野山光明院へ)、一方、関ヶ原の戦いで、家康の東軍に属して出陣した家政の嫡子、至鎮(よししげ、15才)は、大坂夏の陣の後、淡路一国(7万石)を加増され、江戸時代には、阿波国(徳島)と淡路国(淡路島、兵庫)を領有する徳島藩(25万石)の初代藩主となり、その後、14代、忠英、光隆、綱通、綱矩、宗員、宗英、宗鎮、至央、重喜、治昭、斉昌、斉裕、茂韶、と明治維新まで続きました。

○ 蜂須賀至鎮

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蜂須賀至鎮(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E8%87%B3%E9%8E%AE

 蜂須賀至鎮(1586~1620)は、阿波国徳島藩の初代藩主ですが、正室は徳川家康の養女、氏姫(信州、長野、8万石、松本初代藩主、小笠原秀政の娘)です。家紋は、蜂須賀家は卍(まんじ)、徳川家は葵(あおい)、小笠原家は三階菱(さんがいひし)です。

○ 諏訪神社(すわじんじゃ、佐古、徳島)は、祭神が多祁御奈刀(たけのみなとね)神で、神紋の鎌は祭神が信濃(しなの)国を領有するにあたり、山国はいばらを切り開くようだということで、鎌を用いた故事によるものだと言う。県下の諏訪神社は、鎌倉時代、阿波守護職小笠原(おがさわら)氏が故郷、信濃国、諏訪大社から勧進(かんじん)したもので、蜂須賀氏の尊崇も厚く、渭津(いのつ)五社の随一と言われました。

(参考資料) 正保城地図(阿波国徳島城): http://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/map/districtArchives/700/default

 また、徳島藩、阿波水軍(森家)が、特に大阪の陣、 朝鮮出兵において大きな戦功を挙げています。 

 蜂須賀家の菩提寺は、興源寺(こうげんじ、臨済宗、大雄山)で、下助任町(しもすけとうまち、徳島)にあります。また、蜂須賀家歴代の墓所は、興源寺墓所と万年山墓所の2ヶ所にあります。

蜂須賀家興源寺(菩提寺)墓所(下助任町、助任緑地、google画像):http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E5%AE%B6%E3%80%80%E8%8F%A9%E6%8F%90%E5%AF%BA&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi 

蜂須賀家万年山墓所(佐古山町、諏訪山、google画像):  http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E5%AE%B6%E3%80%80%E5%A2%93%E6%89%80%E3%80%80%E4%B8%87%E5%B9%B4%E5%B1%B1&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

○ 現在、本州と四国は、神戸淡路鳴門自動車道(1998年、平成10年4月開通)、瀬戸中央自動車道(1988年、昭和63年4月開通)、しまなみ海道(1999年、平成11年5月開通)の3つのルートが開通しています。

 本四架橋先人として、大久保甚之丞(おおくぼじんのじょう、香川)、中川虎之助(なかがわとらのすけ、徳島)、原口忠次郎(はらぐちちゅうじろう、兵庫)の提案がありました。

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大久保諶之丞

 大久保諶之丞(香川県議会議員)、1849年(嘉永2年)~1891年(明治24年)は、1889年(明治22年)、讃岐鉄道の開通式で、瀬戸内海をまたいで岡山県へ橋をかけよう(塩飽諸島を橋台として架橋連絡)と訴え、会場をびっくりさせました。ルートはほぼ今の瀬戸大橋に当たりますが、当時は大ホラ吹きとバカにされ、橋をかけようとする動きは出ませんでした。

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中川虎之助

 中川虎之助(衆議院議員)、1859年(安政6年)~1926年(昭和元年)は、1914年(大正3年)3月13日、鳴門海峡に橋をかけ、潮の流れで発電するための調査を求める建議案を第31回帝国議会の予算委員会に提出しました。しかし、議案は否決され、阿波の大風呂敷(中川ホラ之助、奇人代議士)と悪口を言われました。

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原口忠次郎

 原口忠次郎(神戸市長、もと内務省役人、神戸土木出張所長)、1889年(明治22年)~1976年(昭和51年) は、神戸―鳴門ルートの生みの親と呼ばれ、1940年(昭和15年)、鳴門海峡に橋をかけることを提案しています。しかし、海軍の反対で計画は動きませんでした。太平洋戦争後、原口氏は、明石海峡に橋をかけるための調査を市独自で進める一方、神戸から鳴門を経て、愛媛県、大分県と道路を整備して、近畿、四国、南九州を結ぶ新しい南日本国道構想を提案しました。(NIEのひろば、歴史探検隊、2006、より)。

 

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