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2009年9月の7件の記事

2009年9月30日 (水)

修験者(山伏)と忍者にまつわる歴史秘話、山伏、忍者、家康の伊賀越え、とは(2009.9.30)

   修験道(しゅげんどう)は、原始(縄文、弥生、古墳時代)からの山岳信仰(さんがくしんこう)に、古代(飛鳥、奈良時代)の道教(どうきょう、中国、朝鮮からの渡来人によって伝えられた、神仙思想、老荘思想、易、陰陽、五行、医学、占星の説など含む宗教)、仏教(ぶっきょう、仏陀創始の宗教、欽明天皇(きんめいてんのう、?~571年(欽明32.4)の代、538年または552年、百済(朝鮮)の聖明王から朝廷(日本)に仏像、教典などが届けられた、仏教公伝)などが融合した民衆宗教(みんしゅうしゅうきょう)です。 

 修験者(しゅげんじゃ)は、山伏(やまぶし)とも呼ばれ、山林修行による呪術力(じゅじゅつりょく)の獲得を旨とし(修験道)、独自の儀礼によって治病、各種の祈祷(きとう)に従事しました。その起源は、奈良時代のはじめ、役小角(えんのおづの、生没年未詳、大和国葛城山に棲む、呪術をよくし、金峰山上で蔵王権現を感得、葛城山一帯から吉野、大峰を越え熊野まで、捨身の行を積む)を修験道の開祖とすることが多い。

役小角(えんのおづの、役行者像、吉永院蔵、吉野、奈良、google画像より)

 役小角は、日本古来の山岳信仰密教(雑密、ぞうみつ、道教、仏教含む)秘法加えて、新しい独自の宗教、修験道、を開き、これが全国に広まって行きました。護摩(ごま)を炊(た)き、呪文(じゅもん)を唱(とな)え、祈祷(きとう)を行い、難行(なんぎょう)、苦行(くぎょう)をして、神験(しんげん)を修得すると言われています。

 密教(みっきょう、仏の境地に達した者にしか開示されない秘密の教え)については、平安時代、空海(弘法大師)が開いた東密(とうみつ、東寺、真言密教)と最澄(伝教大師)が開いた台密(たいみつ、延暦寺、天台密教)を、純密(じゅんみつ)と呼んでいます。

 平安中期以降、熊野、吉野を中心とする修験者(山伏)の活動が活発化し、熊野は鎌倉末までに寺門派の聖護院を中心とする本山派に組織化されました。出羽三山(でわさんざん、月山、羽黒山、湯殿山、山形)、四国石槌山(しこくいしずちざん、愛媛)、九州英彦山(きゅうしゅうひこさん、福岡、大分)などの山岳でも宗派が形成されました。

 山伏は、熊野大峰山修行を終えて、本山、本寺から院号、坊号、法印、権大僧都などの各種補任を受け、身分保障されました。補任料は、山伏の加持祈祷など日常活動に対する檀家支援によって賄われました。近世(江戸時代)には、平安末に成立した、本山派修験(天台宗系、聖護院門跡、熊野から吉野へ、順峰)と鎌倉末に成立した、当山派修験(真言宗系、醍醐寺三宝院門跡、吉野から熊野へ、逆峰)の二派が競合していましたが、1872年(明治5年)、明治新政府による神仏分離令(しんぶつぶんりれい)により修験道廃止、解体されました。戦後は、地方に帰農した昔の山伏とその一派が、再び独自の宗教的な活動を行っています。

 ところで、忍者(にんじゃ)は、鎌倉時代から江戸時代、大名や領主に仕え諜報活動や暗殺を仕事としていた、個人ないし集団の名称です。伊賀(いが、三重、西部)と甲賀(こうが、滋賀、南東部)の忍者は有名ですが、様々な特殊訓練を行い、特殊な道具なども所持しており、この道具を忍具、逃走術を含む種々の技術を忍術(にんじゅつ)と呼んでいます。

 忍術には、修験者(山伏)が用いた九字護身法(くじごしんぼう、九字を切る、九字(臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前)の呪文を唱え、手印を結び、悪鬼、怨霊から身を守る、道教)、山嶽兵法(さんがくへいほう、亀六の法、敵が攻めて来ると、亀が手足を甲羅(こうら)の中に入れるように、山中に身を隠し、敵が疲れるのを待って、襲撃する、甲賀)などもあります。

 また、伊賀には、金属武器製造の技術集団、渡来人(朝鮮、中国)がいたことは、伊賀一宮敢国神社、あえくにじんじゃ)の祭神(金山比咩命、かなやまひめのみこと、少彦名命、すくなひこなのみこと)が、渡来系鉄の神であることから想像されます。鉄製造のためには高温が必要であり、それは忍者狼煙(のろし)、火術(木炭、硫黄、硝石などが原料の火薬使用、敵の城内で火を放つ術)とも関連しています。また、は表裏一体であり、甲賀者(薬草、和漢秘薬)も巧みに使っていました。は山岳で修行する山伏と密接な関係があると言われています。

伊賀一宮(敢国神社、あえくにじんじゃ、伊賀、三重、google画像より)

 伊賀者(いがもの、伊賀衆、忍者軍団)が大きな脚光を浴びたのは、織田信長本能寺(京都)の変で倒れた、1582年(天正10年)6月の時で、徳川家康は信長に招かれ、40人余りの家臣と共に、和泉(いずみ)国、堺(さかい)の見物に出かけていました。京都の商人茶屋四郎次郎清延(ちゃやしろうじろうきよのぶ)から信長の訃報を聞き、三河への最短経路である伊賀路によって帰国しようとしました。甲賀から伊賀の山中を通って伊勢に抜け、海路で三河へ帰還したのですが、最大の難所伊賀でした。

伊賀越えルート(徳川家康の危機、三重、google画像より)

 この伊賀越えの時、家康は何度も一揆衆に襲われましたが、伊賀者(200人)、甲賀者(100人)に警固(けいご)されたと伝えられています。徳川実記(とくがわじっき)によれば、「これを神君(しんくん)伊賀越えといい、御生涯艱難(かんなん)の第一とす」とあるように、家康にとっては生死にかかわる厳しい逃避行となっています。その後、伊賀者は伊賀越えの功績により、伊賀組同心(どうしん、警護、護衛)として徳川家に雇われています。服部半蔵正成(はっとりはんぞうまさなり、伊賀組屋敷前が江戸城半蔵門)は、その組頭(くみがしら)に任じられています。

 江戸泰平な時には、伊賀と甲賀の忍者は、早朝より畑を耕し、午後より先祖から受け継いだ兵法の訓練をし(傭兵、ようへい)、通常の百姓大差のない生活を送っていました。

(参考文献) 永原慶二監修、石上英一ほか8名編: 岩波日本史事典、岩波書店(1999); 和歌森太郎:  山伏、入峰、修行、呪法、中央公論新社(2001); 小向く正司編: 密教の本、驚くべき秘儀、修法のの世界、学習研究社(1993);  歴史群像編集部編: 決定版、忍者、忍術、忍器大全、 学習研究社(2009). 

(参考資料) 役小角(えんのおづの、吉永院、吉野、奈良、google画像):http://images.google.co.jp/images?hl=ja&lr=&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&um=1&q=%E5%BD%B9%E5%B0%8F%E8%A7%92%E3%80%80%E5%90%89%E9%87%8E%E3%80%80%E5%90%89%E6%B0%B4%E9%99%A2&sa=N&start=20&ndsp=20

伊賀一宮(敢国神社、あえくにじんじゃ、伊賀、三重、google画像):http://images.google.co.jp/imglanding?imgurl=http://www45.tok2.com/home/todo94/photogallery/tabisaki/shrine/s-kinki/aekunijinja01.JPG&imgrefurl=http://www45.tok2.com/home/todo94/driving/driving2004aichishigamie.htm&usg=__6FF5tmNjg--ru892uHiTbLFgi3g%3D&h=1000&w=1504&sz=744&hl=ja&um=1&tbnid=qB0ZRIvQlnmt8M:&tbnh=100&tbnw=150&prev=/images%3Fq%3D%25E4%25BC%258A%25E8%25B3%2580%25E4%25B8%2580%25E5%25AE%25AE%25E3%2580%2580%26hl%3Dja%26lr%3D%26rlz%3D1T4GGIH_jaJP278JP279%26sa%3DG%26um%3D1&q=%E4%BC%8A%E8%B3%80%E4%B8%80%E5%AE%AE%E3%80%80&lr=&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&sa=G&um=1&start=0;

伊賀越えルート(徳川家康の危機、三重、google画像): http://images.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E4%BC%8A%E8%B3%80%E8%B6%8A%E3%81%88%E3%81%AE%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88%EF%BC%88%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7%EF%BC%89&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

伊賀流忍者博物館: http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E4%BC%8A%E8%B3%80%E6%B5%81%E5%BF%8D%E8%80%85%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi ; 

甲賀流忍術屋敷: http://www.kouka-ninjya.com/link.html ;

(追加説明) ○ 古代中国陰陽五行説は、諸子百家(紀元前6~4世紀)の時代に、民間の風習や自然宗教から発生した道家(老荘思想)陰陽家(おんようか、または、おんみょうか)及び五行(木、火、土、金、水)が基になっています。五行の思想と、万物は陰と陽からなるという陰陽家とは何の抵抗もなく融合し、五行にはそれぞれ陰陽の2要素があり、木の兄(きのえ)、木の弟(きのと)---などと呼ばれる十干の考え方が生まれました。

 すなわち、十干が複雑に絡み合って万物が出来上がるという思想が陰陽五行説です。この思想は、確証のない考え方でしたが、日本を含む東アジアに広く行き渡り、占い縁起かつぎとして、鬼門、あるいは仏滅大安など、今も生き続けています。

 古代インドでは、水を万物のもととする一元説のほかに、四大(しだい、地大、水大、風大、火大)がありました。四大とは、釈迦が説いた仏教用語で、それぞれ硬さ、湿り気、動き、熱さを本質とし、これらが集まって自然現象の世界、(しき)、を構成すること、また、これらは万物のもとである(くう)から生じ空に帰るとされています。お寺の五重塔や墓地の五輪塔は、四大の五元素の思想を形で表したものです。

○ 護摩(ごま)は、智慧(ちえ)の火で煩悩の薪を焚(た)くことを意味する密教の修法です。護摩壇(火炉)で護摩木を焚き、火中に五穀等を投じて、本尊と行者の三密が一体となる作法により、息災、増益、降伏(ごうぶく)、敬愛を祈願し、この趣旨を板や紙に書いた護摩札を護符(ごふ)とします。古くは、インドで行われていた祭祀法を採り入れたものです。

○ 護摩の灰(ごまのはい)とは、旅人らしく装って、旅人をだまし財物をかすめとる盗賊のことですが、高野聖の扮装をして、弘法大師の護摩の灰と称して押し売りをした者のの呼び名から転じて用いられたと言う。

○ 法螺(ほら)は、インドで人を集めるのにホラガイを吹いたのを、仏の説法に集まる人の盛んな様子、また仏の説法そのものにも喩(たと)えました。日本では、山伏が悪獣を追うために用いましたが、のち重要な法具となり、法会でも用いられるようになりました。

○ 1582年(天正10年)5月、徳川家康は、安土を経て上洛(じょうらく)し、織田信長の計らいで、本能寺の変が起こった、1582年(天正10年)6月、堺見物に出かけ、豪商、今井宗久、津田宗及らの接待を受けていました。この時同行していた茶屋四郎次郎清延(呉服商、京都、三河出身)が、伊賀の土豪(伊賀者)に渡りをつけて、最短の伊賀越えに協力させ、伊賀山中を抜け、白子の浜(伊勢)から大浜(三河)へ着き、家康の城がある岡崎へ帰したと言われています。

 1582年(天正10年)4月、天目山の戦いにおいて、徳川家康は、織田信長と共に武田攻めを行い、武田家滅亡させた(天目山山麓で勝頼自刃)功績により、信長から駿河の国をいただき、そのお礼に、安土の信長のもとを訪れ、接待を受けています。信長は、この時の接待役を明智光秀に命じたのですが、魚が傷んでいたとかで、光秀をしかりつけ、もてなし役を別の家来にかえ、光秀は、これをひどく恨みに思ったと伝えられています。

 また、信長は、高松城(備中、岡山)を攻めていた羽柴秀吉から、毛利軍に対抗する援軍の要請があり、信長は、光秀が坂本の城に帰り、細川忠興、高山右近と共に出陣するよう命じました。このような状況で、信長は家康を手厚くもてなしていたようです。1582年(天正10年)6月、光秀による信長の裏切り、本能寺の変が起こっています。

2009年9月23日 (水)

江戸城(東京)の惣構え(そうがまえ、総構とも)にまつわる歴史実話、渦郭式、四神相応、東照大権現、とは(2009.9.23)

  江戸幕府(えどばくふ)は、実質的には、徳川家康、1543年(天文11年)~1616年(元和2年)が、1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いに勝利した時、形式的には、1603年(慶長8年)、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に就任した時に始まり、1605年(慶長8年)、秀忠、1579年(天正7年)~1632年(寛永9年)に将軍職を譲り、その後、家光、家綱、綱吉、家宣、家継、吉宗、家重、家治、家斉、家慶、家定、家茂、慶喜の15代、265年間、もしくは268年間続き、1867年(慶長3年)の大政奉還(たいせいほうかん)をもって終わっています。

 ところで、江戸城(えどじょう)は、12世紀初頭に江戸重継(えどしげつぐ)が、15世紀には太田道灌(おおたどうかん、資長、すけなが)が築城しています。その後、上杉氏北条氏を経て、家康は、秀吉から240万石に加増されたが、関八州(かんはっしゅう、武蔵、相模など6ヶ国)に国替えを命じられ、1590年(天正18年)8月1日、はじめて江戸入りました。江戸幕府が、8月1日を八朔(はっさく)と呼び、お祝いの年中行事と定めたのはこの故事に因んだものです。江戸という地名は、江(海や湖が陸に入り込んだ部分)の門戸ということで、陸地の先端を意味しています。その半島の丘陵に、本丸、二の丸、三の丸が縦一列に並んで築城されていました。

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徳川家康(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7

 徳川家康(1543~1616)は、江戸幕府の威光を示すために、太田道灌が築いた城の大規模な改修(埋め立て造成)を行いました。藤堂高虎(とうどうたかとら)、1556年(弘治2年)~1630年(寛永7年)の基本設計によれば、江戸城の城郭、内郭(うちくるわ、内曲輪)は、本丸、二の丸、三の丸、西の丸、西の丸下、的場、吹上、北、帯と、九つの郭(くるわ、曲輪)ができ、一番下の帯郭から本丸に向かって渦を巻いた、右渦巻き(うずまき)、螺旋(らせん)状、「の」字型となっています。

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幕末の江戸城(東京、Google画像検索)

(解説) この渦郭式(かていしき)、螺旋式(らせんしき)の城郭は、金沢城にも見られ、西洋建築影響とも考えられています。 1599年(慶長4年)、高山右近(たかやまうこん、もと高槻城主、キリシタン大名、前田利家の客将、26年在)が、金沢城の築城に関与しています。この頃は、ヨーロッパ(ルネサンス都市、イタリア)では螺旋状のデザインが大流行していました。この手法を高山右近、1552年?(天文21年?)~1615年(慶弔20年)が金沢城に、また藤堂高虎江戸城応用した可能性があります。

 また、江戸城の外郭(そとくるわ、外曲輪)は、外掘と隅田川、江戸湾に囲まれた内側で、台地や川など自然の地形を生かして、右螺旋状掘を掘削、それに五街道(東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中)を組み合わせる惣構え(そうがまえ、総構とも)としました。 

 家光、1604年(慶長9年)~1651年(慶安4年)の代にも拡張、修築をが進められ、1635年(寛永12年)、「の」の字の渦巻きは、隅田川から江戸湊に通じ、1636年(寛永13年)、惣構え(そうがまえ、総構とも)が完成、また、1640年(寛永17年)、五層の天守閣を持つ江戸城が竣工しました。

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幕末の江戸の町並み鳥瞰図(ちょうかんず)、勝海舟、東京、Google画像検索)

  家康は、京の都(平安京)と同じように、江戸四神相応(しじんそうおう、中国の陰陽学の原理)、すなわち神獣に守られた都市、東は青龍(せいりゅう)が宿る川(大川、隅田川)、南は朱雀(すざく)が宿る平野、海(江戸湊)、西は白虎(びゃっこ)が宿る大道(東海道)、北は玄武(げんぶ)が宿る山(麹町台地)を配置しました。天海(てんかい、天台宗、南光坊天海、智楽院)、1536年?(天文5年?)~1643年(寛永20年)は、家康の命により、西の比叡山に並ぶ東の比叡山、東叡山寛永寺(かんえいじ、天台宗、徳川家(4、5、8、10、11、13、15代)の菩提寺)を、江戸城の鬼門(東北方向)の上野に建立しました。

 家康は、豊臣家が滅亡した大坂夏の陣、1615年(元和元年5月)の翌年、1616年(元和2年)4月17日、駿府(静岡)の城で死去(75才)、遺言は、遺体は駿府の久能山(くのうざん)に埋葬、葬礼は江戸の増上寺(ぞうじょうじ、浄土宗、徳川家(2、6、7、9、12、14代)の菩提寺、裏鬼門(南西方向)、)で行い、一周忌後は日光に小さな堂を建て、灌頂(かんじょう)、それを関東八州の鎮守(ちんじゅ)とし、京都には南禅寺(なんぜんじ、臨済宗)の金地院(こんちいん、塔頭)に小さな堂を建て、所司代(しょしだい、幕府の侍所の頭人の代官、朝廷、天皇、西国の監視、治安維持)はじめ武士達が参拝すべし、とのことでした。

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日光東照宮 陽明門、 徳川家康廟(墓所)、日光、栃木、Google画像検索)

 家康は、遺言通り、秀吉の如く、吉田神道(よしだしんとう)によって明神(みょうじん、神主仏従)として祀(まつ)られるはずでした。 ところが、天海が、家康が自分にだけ語った遺言があると言って、家康山王一実神道(さんのういちじつしんとう)によって権現(ごんげん、仏主神従)として祀られるべきで、子孫の断絶した豊臣氏(豊国大明神)の例にならったならば徳川氏は末永く繁栄出来ないと主張しました。将軍(2代)秀忠は、僧、崇伝(すうでん、臨済宗、金地院崇伝、以心崇伝)、1569年(永禄12年)~1633年(寛永10年)らの強い反対がありましたが、天海の意見に従い、家康東照大権現として祀ることにしました。家康の葬儀は、天海だけが家康から聞いたという遺言によって行われましたが、また、天海は、将軍(3代)家光に上申(じょうしん)して、家康の遺志をはるかに超えるような、壮大で華麗な日光東照宮を建立、徳川幕府の威光を天下に示し、幕藩体制を末永く安定させました。そして、東照宮の名称は、京の都の西の朝廷に対して、東の幕府の威光を示すものと言われています。 

 1868年(慶応4年)4月、江戸城は無血開城、9月8日に改元され明治元年となり、10月、明治天皇は東京に行幸、西の丸の仮御殿に入りました。江戸城は東京城と改称され、翌年の3月28日、東京遷都(とうきょうせんと、城中に太政官府設置、遷都の詔勅なし)に伴って皇城(こうじょう)、1889年(明治22年)、明治宮殿の完成によって宮城(きゅうじょう)、1945年(昭和20年)5月の太平洋戦争による空襲で明治宮殿は焼失、1948年(昭和23年)、皇居(こうきょ)と改称、1968年(昭和43年)11月、昭和宮殿が落成、今日に至っています。

(参考文献) 東京都歴史教育研究会編: 東京都の歴史散歩、下町、上、山川出版社(1988); 永原慶二監修、石上英一ほか8名編: 岩波日本史事典、岩波書店(1999);樋口清之: 完本、梅干しと日本刀、日本人の知恵と独創の歴史、祥伝社(2000); 竹内誠監修、市川寛明編: 地図、グラフ、図解でみる、一目でわかる、江戸時代、小学館(2004); 宮元健次: 名城の由来、そこで何が起きたのか、光文社新書(2006); 歴史探訪倶楽部編: 歴史地図本、知る 味わう 愉しむ、大江戸探訪、大和書房(2008); 梅原猛: 日本仏教をゆく、朝日新聞出版(2009).

(参考資料) 徳川家康(google画像);http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

江戸城(google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%9F%8E%E3%80%80&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

江戸城、城郭、惣構え(google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%9F%8E%E3%80%80%E5%9F%8E%E9%83%AD%E3%80%80%E6%83%A3%E6%A7%8B%E3%81%88&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi ;

幕末の江戸(google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%B9%95%E6%9C%AB%E3%81%AE%E6%B1%9F%E6%88%B8&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

日光東照宮(徳川家康(初代)、墓所、google画像):http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%97%A5%E5%85%89%E6%9D%B1%E7%85%A7%E5%AE%AE&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

輪王寺(徳川家光(3代)、墓所、google画像): http://www.rinnoji.or.jp/keidai/taiyuin/oku.html

(追加説明) 徳川家康は、関ヶ原の戦い後、1603年(慶長8年)3月21日、京都の二条城にて、朝廷より征夷大将軍の宣下(せんげ)を受けました。

 徳川家康は、1617年(元和3年)、後水尾(ごみずのお)天皇から、東照大権現(とうしょうだいごんげん)の直諡号(ちょくしごう)を下賜(かし)されました。1616年(元和2年)に75才で死去した家康は、久能山(くのうざん)に埋葬され、翌年、日光に改葬(かいそう)されました。その後、社(やしろ)は、直諡号より、東照宮と呼ばれるようになりました。

 ところで、江戸城の天守閣(てんしゅかく)は、1657年(明暦3年)、江戸史上で最大の明暦の大火(本郷丸山町本妙寺で施餓鬼に焼いた振袖が大火の原因であったため、振袖火事とも呼ばれています)で焼失、また、金沢城の天守閣は、1602年(慶長7年)落雷で焼失、その後は、どちらの天守閣も再建されませんでした。

2009年9月17日 (木)

吉野川(徳島)の第十堰にまつわる歴史実話、本流の変化と管理、川舟の平田舟、徳島城の総構、本四架橋の先人(大久保諶之丞、中川虎之助、原口忠次郎)、とは(2009.9.17)

  人は、利根川(坂東太郎)、筑後川(筑後次郎)、吉野川(四国三郎)を日本三大暴れ川と呼んでいます。吉野川は、延長194km(全国12位)、流域面積3750km2(全国17位、四国の20%)ですが、洪水流量は2万4000m3(全国1位)であり、阿波の吉野川流域は、かっては日本一の洪水地帯となっていました。この氾濫を防ぐために、川沿いに水防竹林(すいぼうちくりん)が植えられ、上流から運んできた肥沃な土壌を利用して藍作が盛んに行われました。

 ところで、1672年(寛文12年)、阿波4代藩主蜂須賀綱道(はちすかつなみち)(1656年(明暦2年)~1678年(延宝6年)は、徳島城の防御で掘に水を引き入れること、また、城下への物資輸送の必要から、名西郡の第十村と名東郡の姥ヶ島村の村境付近で、幅11~15mの掘割水道をつくり、吉野川本流の一部を別宮川(現吉野川)に流し、徳島城に取り入れる工事を行いました。こうして、第十村の地域において、吉野川本流から別宮川(べっくがわ)への分流が始まりました。  蜂須賀綱道(ウィキペディア):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E7%B6%B1%E9%80%9A

 ところが、別宮川の下流が低地のため、吉野川の水の多くがそちらに流れ、また、その後の河川水による浸食(洪水など)により川幅も次第に広くなり、別宮川が吉野川の本流となりました。そのため、もと本流の吉野川の水量が次第に枯れ衰え、特に川口に近い村々では、田畑が水不足となり、海水の逆流現象なども現れて、水田の稲作に被害(塩害)が出るようになってきました。

 その対策として、阿波藩に旧吉野川下流の44ヶ村百姓達の連判(庄屋繁右衛門、庄屋丹右衛門、二名、発起人)による新吉野川堰止めの願い出を出し、阿波8代藩主蜂須賀宗鎮(はちすかむねしげ)、1721年(京保6年)~1780年(安永9年)、が直ちに状況調査の上、その願いを受け入れ、吉野川第十堰(よしのがわだいじゅうぜき)の構築(幅13~22m、長さ400m)が計画され、1752年(宝暦2年)に着工、3年後にようやく完工しました。蜂須賀宗鎮(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E5%AE%97%E9%8E%AE

 この時、竹を編んでつくった蛇籠(じゃかご)という長い籠の中に石を詰め、これを積み重ねて吉野川の流れを堰き止めました。その後、洪水の度に改修、補修工事を加え、この堰の上流葯1.2kmにある第十樋門(だいじゅうひもん、北岸側、板野郡上板町)は、1923年(大正12年)に設置され、旧吉野川の下流への流水量も調節できるようになっています。

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第十堰(上空から見たの全景、吉野川、徳島、google画像検索)

(解説) 現在、第十新田(北岸側、板野郡上板町)と藍畑第十(南岸側、名西郡石井町)の間で吉野川を堰き止めている吉野川第十堰2段堰で、吉野川分流するために設けられています。下流側の堰(越流堰)は、お手堰と呼ばれ、1752年(宝暦2年)、初めて築かれた堰ですが、上流側の堰(円弧型堰)は、幕末期の洪水が基で、1884年(明治17年)に完成したものです。第十は地名であり、吉野川にある十番目の堰というわけではなく、また、河口からは約14km離れた所にあり、全長は約800mです。

 その後、1936年(昭和36年)の台風(第2室戸)と出水により、堰北部の流出が基で、1965年(昭和40年)から17年をかけ、表面をコンクリート構造とし、また、コンクリートブロックにより補強された堰となっています。近年、建設省(国土交通省)による第十堰の撤廃と可動堰構築の計画が持ち上がり、大きな社会問題となりました。

 別宮川の名称が、吉野川(本流)に変わるのは、1932年(昭和7年)で、吉野川第十堰から流れ出ている、かっての吉野川(本流)は、旧吉野川と名称が改められ、今日に至っています。現在、吉野川の川幅は、一番長いところで2360m(阿波市、全国2位)、河口近く(徳島市)は1000~1300mの流れとなり、紀伊水道に注いでいます。 

 古代、奈良時代、阿波の国府(こくふ、政庁)は、国府町(府中、こう、徳島市)に置かれ、その近くに、国分寺(こくぶんじ)、国分尼寺(こくぶんにじ)が建立され、政祭の中心地となっていました。

 国司(こくし)は、南海道(なんかいどう)を通って、都から国府に赴任する時、撫養から西の郡頭駅(こうずのえき、宿駅、板野)へ、北へ行くと大坂越えから讃岐へ、一方、ここから南へ行くと第十の地に辿り着き、そこには吉野川を川舟で渡る(つ、川港(湊)、渡し場)がありました。また、この地域は新島荘(にいじまのしょう)の大豆処(だいずどころ)であり、第十(だいじゅう)の地名の由来になったとも言われています。ということで、第十は、陸路と水路の重要な中継点の役割を果たしました。

 近世、江戸時代、阿波の領国内の人や物資の輸送(藩主の巡見、公用荷物の輸送、流域の村々の産物など)は、主に平田船(ひらたぶね、船底が浅く幅が広い小型帆船)、高瀬舟(たかせぶね、船底の平たい小型荷舟)、荷楫取舟(かんどりぶね、鮎魚、吉野川特有の舟)、など、吉野川を利用した舟運でした。吉野川の川港(湊)は、上流の川口、川崎から第十を経て名田、大寺まで20数ヶ所ありました。 藍(葉藍、藍玉)、砂糖、和紙、米、麦、大豆、葉たばこ、薪炭など、吉野川、新町川を通り徳島城下、吉野川、撫養川を通り阿波の玄関(海上交通の拠点)、撫養港(むやこう、紀伊水道に面した東の岡崎から、撫養川の川口にある林崎、その西の黒崎へかけての港)などに積み降ろされ、一方徳島、撫養からは、干鰯(ほしか、藍作肥料)、塩、衣服類など、吉野川の上流の各地の村に舟で運ばれました。第十堰には、1754年(宝暦4年)、舟通し(ふなとおし、通船料徴収)が設けられました。

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吉野川の川船(平田舟、かんどり舟、google画像検索)

 一方、徳島城は、吉野川の分流、新町川、福島川、助任川、寺島川などを外堀として利用する、外敵から城を防御する造りで、惣構(そうがまえ、総構とも)と呼ばれています。城の周囲には石垣が築造され、松が植えられていました。

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徳島城の惣構(そうがまえ、google画像検索)

 徳島は、1585年(天正13年)、蜂須賀家政、1558年(永禄元年)~1639年(寛永15年)が、吉野川の三角州上の孤立丘陵にある渭山城(いのやまじょう)に入城してから城下町として発展しました。徳島は、もと渭山城の東方の三角州の一つの島の名であったが、嘉名であったので、渭山城を徳島城の名に改めたと言われています。蜂須賀家政(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E5%AE%B6%E6%94%BF

 その後、吉野川の水運は、1887年(明治20年)頃まで隆盛を続けたが、1900年(明治33年)、徳島と川田(かわだ、吉野川市)間に鉄道が開通すると、陸上交通が次第に発達し、吉野川水運は衰退しました。

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明石海峡大橋(淡路ハイウェイオアシス)

 また、明治の中頃、海上交通が帆船から汽船の時代を迎えると、撫養など川港(湊)は大型船には不便であり、小松島に新しく港湾が造られ、撫養の港としての活力は衰退しましたが、1985年(昭和60年)、大鳴門橋、1998年(平成10年)、明石海峡大橋の開通により、撫養(鳴門)の新しい発展が期待されています。

 なお明石海峡大橋は、180kgに耐える太いケーブルで支えられていますが、それを当時の本州四国連絡橋公団と新日鉄、神戸製鋼が試験を重ねて開発、つり橋の新しい歴史を開きました。鋼鉄にケイ素を1%入れるのがミソだという。この鋼鉄ワイヤは一本で乗用車ほぼ4台を吊り上げられる。束にすると、想定される最大張力の6万2千5百トンに十分耐える。ケーブルはカバーで覆われ内部には、さび防止のため乾いた空気が流される。200年以上使うのが目標と言う。(橋の科学館、神戸市垂水区より)

(参考文献) 児島光一: 上板昔読本、教育出版センター(1979); 湯浅良幸(徳島史学会)編: 徳島県の歴史散歩、山川出版社(1995); とくしま地域政策研究所編: 四国のいのち、吉野川事典、自然/歴史/文化、農文協(1999); 石躍胤央、北條芳隆、大石雅章、高橋啓、生駒佳也、徳島県の歴史、山川出版社(2007).

(追加説明) ○ 蜂須賀家

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蜂須賀小六正勝      蜂須賀家政

 蜂須賀家は、尾張国蜂須賀郷の土豪、豊臣秀吉(木下籐吉郎)に仕えた、阿波一国(18万石)の大名、蜂須賀正勝(小六)ですが、その嫡子(長男)の家政(関ヶ原の戦いでは、領地を豊臣家に返納、剃髪、高野山光明院へ)、一方、関ヶ原の戦いで、家康の東軍に属して出陣した家政の嫡子、至鎮(よししげ、15才)は、大坂夏の陣の後、淡路一国(7万石)を加増され、江戸時代には、阿波国(徳島)と淡路国(淡路島、兵庫)を領有する徳島藩(25万石)の初代藩主となり、その後、14代、忠英、光隆、綱通、綱矩、宗員、宗英、宗鎮、至央、重喜、治昭、斉昌、斉裕、茂韶、と明治維新まで続きました。

○ 蜂須賀至鎮

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蜂須賀至鎮(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E8%87%B3%E9%8E%AE

 蜂須賀至鎮(1586~1620)は、阿波国徳島藩の初代藩主ですが、正室は徳川家康の養女、氏姫(信州、長野、8万石、松本初代藩主、小笠原秀政の娘)です。家紋は、蜂須賀家は卍(まんじ)、徳川家は葵(あおい)、小笠原家は三階菱(さんがいひし)です。

○ 諏訪神社(すわじんじゃ、佐古、徳島)は、祭神が多祁御奈刀(たけのみなとね)神で、神紋の鎌は祭神が信濃(しなの)国を領有するにあたり、山国はいばらを切り開くようだということで、鎌を用いた故事によるものだと言う。県下の諏訪神社は、鎌倉時代、阿波守護職小笠原(おがさわら)氏が故郷、信濃国、諏訪大社から勧進(かんじん)したもので、蜂須賀氏の尊崇も厚く、渭津(いのつ)五社の随一と言われました。

(参考資料) 正保城地図(阿波国徳島城): http://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/map/districtArchives/700/default

 また、徳島藩、阿波水軍(森家)が、特に大阪の陣、 朝鮮出兵において大きな戦功を挙げています。 

 蜂須賀家の菩提寺は、興源寺(こうげんじ、臨済宗、大雄山)で、下助任町(しもすけとうまち、徳島)にあります。また、蜂須賀家歴代の墓所は、興源寺墓所と万年山墓所の2ヶ所にあります。

蜂須賀家興源寺(菩提寺)墓所(下助任町、助任緑地、google画像):http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E5%AE%B6%E3%80%80%E8%8F%A9%E6%8F%90%E5%AF%BA&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi 

蜂須賀家万年山墓所(佐古山町、諏訪山、google画像):  http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E5%AE%B6%E3%80%80%E5%A2%93%E6%89%80%E3%80%80%E4%B8%87%E5%B9%B4%E5%B1%B1&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

○ 現在、本州と四国は、神戸淡路鳴門自動車道(1998年、平成10年4月開通)、瀬戸中央自動車道(1988年、昭和63年4月開通)、しまなみ海道(1999年、平成11年5月開通)の3つのルートが開通しています。

 本四架橋先人として、大久保甚之丞(おおくぼじんのじょう、香川)、中川虎之助(なかがわとらのすけ、徳島)、原口忠次郎(はらぐちちゅうじろう、兵庫)の提案がありました。

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大久保諶之丞

 大久保諶之丞(香川県議会議員)、1849年(嘉永2年)~1891年(明治24年)は、1889年(明治22年)、讃岐鉄道の開通式で、瀬戸内海をまたいで岡山県へ橋をかけよう(塩飽諸島を橋台として架橋連絡)と訴え、会場をびっくりさせました。ルートはほぼ今の瀬戸大橋に当たりますが、当時は大ホラ吹きとバカにされ、橋をかけようとする動きは出ませんでした。

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中川虎之助

 中川虎之助(衆議院議員)、1859年(安政6年)~1926年(昭和元年)は、1914年(大正3年)3月13日、鳴門海峡に橋をかけ、潮の流れで発電するための調査を求める建議案を第31回帝国議会の予算委員会に提出しました。しかし、議案は否決され、阿波の大風呂敷(中川ホラ之助、奇人代議士)と悪口を言われました。

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原口忠次郎

 原口忠次郎(神戸市長、もと内務省役人、神戸土木出張所長)、1889年(明治22年)~1976年(昭和51年) は、神戸―鳴門ルートの生みの親と呼ばれ、1940年(昭和15年)、鳴門海峡に橋をかけることを提案しています。しかし、海軍の反対で計画は動きませんでした。太平洋戦争後、原口氏は、明石海峡に橋をかけるための調査を市独自で進める一方、神戸から鳴門を経て、愛媛県、大分県と道路を整備して、近畿、四国、南九州を結ぶ新しい南日本国道構想を提案しました。(NIEのひろば、歴史探検隊、2006、より)。

 

2009年9月12日 (土)

吉田神社(京都)と京都大学の青色と赤色の建造物周辺に群生するコケ植物、土壌とタチゴケ、キヘチマゴケ、ホンモンジゴケの組織内の重金属分布、大学近くの碁会所、とは(2009.9.12)

 吉田神社(よしだじんじゃ、左京区吉田、京都)は、吉田山の麓にあり、京都大学時計台前の正門を出ると、すぐ左に赤い大鳥居が見えます。

 その歴史は古く、9世紀後半、藤原山蔭(やまかげ)が一族の繁栄を祈るために春日(かすが、奈良)四神を勧進(かんじん)したのを始まりとし、藤原道長(みちなが)の氏神社として信仰を集め、卜部(うらべ)氏が、代々神職を努めました。

 室町時代になって神職の卜部兼俱(うらべかねとも、のち吉田姓)が唯一神道(ゆいつしんとう、儒、仏、道の三教に対する神道の純粋性を主張)を唱え、大元宮(だいげんぐう、日本中の神社のご利益を一度に授かれるという)を創祠(そうし)、吉田流神道の総家として大いに興隆しました。

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時計台絵はがき(京都大学、吉田、左京区、京都)  京都大学(ホームページ): http://www.kyoto-u.ac.jp/ja

 ところで、今年(8月4日)の雨水の酸性、アルカリ性の強さ、pH(水素イオン指数)の全国一斉調査(4000人協力)によれば、政令指定都市は平均pH5.33(京都市はpH5.61)でした。

 近年、神社、仏閣の青色の銅葺き屋根や銅像(赤銅色の金属銅が錆びて、緑青、塩基性炭酸銅を生じたもの)、白色の金沢城の鉛瓦(灰黒色の金属鉛が錆びて、鉛白、塩基性炭酸鉛を生じたもの)などが、酸性雨(さんせいう、pH<5.6の雨)により溶解し、周辺の土壌が銅や鉛で汚染されています。

 そこの土の中には多量の銅や鉛があり、有毒な重金属(可吸態、イオン形、可溶)が多いと、普通のコケ植物は全く生えませんが、特に銅の汚染地には、銅に耐性のあるコケ植物、ホンモンジゴケ(センボンゴケ科、Scopelophila cataractae(Mitt.)Bross)、キヘチマゴケ(カサゴケ科、Pohlia bulbifera、また、鉛の汚染地には、鉛に耐性のあるコケ植物、タチゴケ(スギゴケ科、Atrichum undulatum(Hedw.)P.Beauv.)、キヘチマゴケなどの特異的な群落が見られます。

 主として、タチゴケは鉛、亜鉛の汚染地域、キヘチマゴケは、鉛、亜鉛、銅の汚染地域、ホンモンジゴケは銅の汚染地域で群落をなして生育していることが分かりました。

 

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鉛、銅、亜鉛などに耐性のあるコケ植物(左よりタチゴケ、ホンモンジゴケ、キヘチマゴケ) 

 1991年(平成3年)頃の調査でしたが、吉田神社の緑青で青くなっている銅葺き屋根の拝殿の石段の壁には、銅に耐性のあるシダ植物、ヘビノネゴザ、またコケ植物、キヘチマゴケ、ホンモンジゴケの生育が見られました。

 土壌中の有毒な銅が一番多いところにホンモンジゴケ、その量が少なくなると、隣にキヘチマゴケ、さらに銅が少なくなるとヘビノネゴザの生育が見られ、この植生は、銅の汚染の程度に応じた生育分布を示していることが分かりました。

 また、京都大学の時計台近くの元総長荒木博士銅像、正門から向かって左の銅葺き屋根と雨樋のある留学生センター周辺でも銅ゴケの群生が見られました。

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吉田神社拝殿石垣の植生(左より、ヘビノネゴザ、キヘチマゴケ、ホンモンジゴケ) 

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吉田神社の表参道の大鳥居(吉田、左京区、京都、google画像)

吉田神社(わたしの青秀庵、ヒデ、京都)http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/urochoro-yoshida-jinjya.htmhttp://www5.ocn.ne.jp/~yosida/

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タチゴケ(上)、ホンモンジゴケ(下左)、キヘチマゴケ(下右)の根の横断面の鉛、銅及び鉛の分布

(解説) 吉田神社の鮮やかな赤色の鳥居、本殿(本宮)、摂社、末社、特に摂社の建物の周辺は、金沢城の鉛瓦による鉛汚染地域と似た植生が見られ、鉛に耐性のあるタチゴケとキヘチマゴケの群生が目立っていました。そこで、生育土壌を調べたところ、大量の鉛が検出されました。

 また、有機試薬染色ー顕微鏡観察より、タチゴケとキヘチマゴケの組織中には、表皮から茎の中心部にかけて表皮側ほど多量の鉛を、ホンモンジゴケでは多量の銅を蓄積していることを確認しました。

 宮司さんに電話で塗装(顔料)のことをお聞きしたところ、秘密のことでしたが、赤色の塗装は、安価なベンガラ(酸化第二鉄)は傷みやすく何回も塗装する必要があること、また朱(辰砂、硫化水銀)は高価なので、鉛丹(四三酸化鉛、光明丹、赤鉛)を使っていますとのこと、思いもかけず土壌の鉛汚染を確認したことを懐かしく思い出します。

(参考文献) 山本四郎: 京都府の歴史散歩(上)、山川出版社(1990); 織田樹郎、本浄高治: 重金属汚染地域の金属耐性コケ植物ータチゴケ、ホンモンジゴケ及びキヘチマゴケにおける銅、鉛及び亜鉛のキャラクタリゼーション-(英文)、植物地理・分類研究、43巻、p.91(1995); 本浄高治: 環境をめぐる視点(Ⅱ)、重金属と植物ー自然の回復ー、環境保全(京都大学)、p.25~35(1997); 本浄高治; 重金属と指標植物ー自然環境の回復-、日本海域研究所報告(金沢大学)、30巻、p.171~193(1999); 永原慶二監修、石上英一ほか8名編: 岩波日本史事典、岩波書店(1999).

(参考資料)○ 酸性雨調査(2009.8.4): http://weathernews.com/jp/c/press/2009/090804_1.htmlhttp://weathernews.com/jp/c/press/2009/090623.html; 

 顔料と染料(身の回りの粉粒体):http://www.biwa.ne.jp/~futamura/sub73.htm; 丹土:  http://homepage2.nifty.com/amanokuni/hani.htm

○ 指標植物(しひょうしょくぶつ)、重金属集積植物

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(追加説明)○ 鉛の顔料には、白色の鉛白(えんぱく、塩基性炭酸鉛、京おしろい)、黄色の密柁僧(α型一酸化鉛、みつだそう、金密柁、β型一酸化鉛、きんみつだ)、赤色の鉛丹(えんたん、四三酸化鉛、別称光明丹、こうみょうたん)などがあります。

 水銀の顔料には、白色の水銀白粉(塩化水銀含む、伊勢おしろい)、赤色の朱(しゅ、辰砂、しんしゃ、硫化水銀)などがあります。

 鉛と水銀は、共に有毒ですので、現在では白色の顔料として、亜鉛華(あえんか、酸化亜鉛)、チタン白(ちたんしろ、二酸化チタン)などが用いられています。

 また、舗装道路の塗装として、一般に、白線にはチタン白、黄線には黄鉛(おうえん、クロム酸鉛)が使われています。

○ ところで、万葉集に、あおに(青丹)よし  奈良(寧楽、なら)の都(京師、みやこ)は 咲く花の 薫(にお)ふがごとく  今盛りなり、という和歌があります。 この歌は、小野老(おののおい)が大宰府(九州)へ赴任していた時、奈良の都を懐かしんで詠んだと言われています。 あおによし(青丹よし)は奈良の枕詞(まくらことば)ですが、従来は特別な意味を持たず、次の語句への口調をよくする言葉です。 一方、あお(青、岩緑青)、に(赤、朱)に色の意味を持たせ、青と赤に彩られた奈良の都(平城京)の建物の美しい景色を称えた歌としての解釈もあります。

 奈良に顔料の青丹(青黒い土、岩緑青、いわろくしょう)を産出したことが秘府本万葉集に見えるが、事実か伝説の記録か不明とのことです。(広辞苑、岩波書店、より) 

〇 あおに(青丹)よし  奈良(寧楽、なら)の都(京師、みやこ)は 咲く花の 薫(にお)ふがごとく  今盛りなり(小野老、大宰少貳小野老朝臣歌一首、万葉集巻三・328)

この歌は、730年(天平2年)ころに詠まれ、奈良の都が造られ20年ほど、人口は20万~10万と推定され、10人に1人が役人の政治都市で、活気があったようです。小野老が大宰府(九州)へ赴任していた時、宴席で奈良の都を懐かしんで詠んだとされています。

ところで、この歌の「にほふ」は、この時代には、赤黄白の鮮やかに映ゆることを意味し、のち匂いの香りにも用いるようになっているようです。

また、「咲く花」については、桜という説と、いろいろな花という説があるようですね! ご教示の武田祐吉(1886~1958)「萬葉集全註釈」は、桜の花という説、一方 、伊藤博(1925~2003)「萬葉集釈注」は、その季節に奈良で咲いていた、色々な花(梅、桜、藤波など)ではないか、とあります。

奈良の都から遠く、筑紫の国で、宴席の一座の者達が、望郷の念を募らせ、この直前まで、奈良の都にいた老に、今の平城の都の様子を尋ねたときのの答えがこの歌である、と言われています。

〇 匂ふ”ことについて、先日、ふと思い出したことですが、京都大学学歌(昭和15年1月18日制定)に、 1, 九重に 花ぞ匂へる 千年の 京に在りて その土を 朝踏みしめ ーーーとあり、この歌詞では、九重は宮中、花は奈良から贈られた八重桜、”匂へる”は、香りではなく 見た目の美しさを表す意味のようですね!

百人一首には、いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな 、伊勢大輔(61番) (通釈)古い都があった奈良の八重桜は、献上された今日、ここ平安京の九重の宮中で色美しく咲き匂うのだった。

〇 小倉百人一首、いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな 伊勢大輔(61番) 『詞花集』春・29、 この句の「にほひ」の「にほふ」については、現在の「におう」にあたり、

におう”(匂う。臭う)は、広辞苑によると、ニは丹で赤色、ホは穂。秀の意で、外に
現れること、すなわち赤などの色にくっきり色づくのが原義。転じて、ものの香がほのぼのと立つ意。多く、良い感じの場合は「匂う」、悪い感じの場合は「臭う」と書く。

○ 私は、愛媛(愛媛大学文理学部、卒業)から京都へ(京都大学大学院理学研究科、進学)、1964年(昭和39年)4月~1969年(昭和44年)3月まで、5年間、京都大学吉田、北部キャンパス(理学部化学教室、化学研究所放射化学研究室、放射性同位元素総合研究室)まで徒歩10分、銀閣寺電停近く、下別当町(村井良治様方、北白川、左京区、京都)で下宿していました。ということで、銀閣寺、哲学者の道、吉田神社の周辺はよく散策したことがあります。

 また、私の趣味囲碁は、下宿から登校途中の農学部正門手前の歩道右側にある碁会所(西村宅、久保田町、北白川、左京区、京都)で、常連の学生として、一般の方々とよく囲碁対局を楽しみました。

 江戸時代、初代名人、本因坊算砂(ほんいんぼうさんさ)ゆかりの寂光寺(じゃっこうじ)を、はじめ寂光院と間違え、訪ね歩き、やっとのことで探しあてたことがありました。 

 ご縁があり、京都から金沢へ(金沢大学理学部、就職)、1969年(昭和44年)4月から金沢大学理学部(化学教室分析化学研究室)に勤務し、1991年(平成3年)頃に、鉛瓦(金沢城)、神社、仏閣の銅葺き屋根、銅像(日本各地)などの酸性雨による溶解と土壌汚染、そこに特異的に生育している重金属耐性のコケ植物、シダ植物を環境化学の立場から調べたことがあります。その頃、久しぶりに、京都大学キャンパスへ、近くの吉田神社をフィールドに選び、調査研究したことが懐かしく思い出されます。

2009年9月10日 (木)

碁の名手(本因坊道策)と琉球第一の打手(親雲上浜比賀)にまつわる歴史対局、とは(2009.9.10)

  1682年(天和2年)、琉球王、尚貞(しょうてい、1669年~1709年在位)は、国内外に威名の高い本因坊四世道策(どうさく)のことを耳にして、国中第一の名手、親雲上浜比賀(ぺいちんはまひか)を日本に送り、薩摩2代藩主、島津光久(しまづみつひさ)、1616年(元和2年)~1694年(元禄7年)の頃、島津家を通じて道策との対局を願い出たことがあります。

 ところで、1609年(慶長14年)3月、江戸幕府(日本)は、明国(中国)との国交樹立政策の一環として、島津家久(しまづいえひさ、薩摩藩(鹿児島)、初代藩主)、1576年(天正4年)~1638年(寛永15年)を琉球(りゅうきゅう、沖縄)に出兵(三千余の兵)させ、4月1日琉球は降伏、7月、徳川家康、1543年(天文11年)~1616年(元和2年)は、琉球を家久に与えました。

 1611年(慶長16年)、家久は琉球仕置を行い、琉球国王、尚寧(しょうねい、1589年~1620年在位)に琉球が古くから薩摩の附庸国(属国)だったことを認めさせ、沖縄島ほかの諸島8万9000余石を与え、与論島以北の大島(奄美諸島)を直轄化しました。

 1634年(寛永11年)、琉球の日中両属(外見は独立国の琉球王国、内実は薩摩藩、徳川幕府の強い規制を受ける)が確定、同年、島津家久は琉球の王位を琉球国司に任じ、また、琉球(国王、尚豊、しょうほう、1621年~1640年在位)使節の江戸上がり(慶賀使、謝恩使、進貢、2年一貢)が始まりました。

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守礼門(しゅれいもん、首里城外門の一つ、琉球、沖縄)

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本因坊道策(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9B%A0%E5%9D%8A%E9%81%93%E7%AD%96

 本因坊道策(ほんいんぼうどうさく、法名日忠)は、1645年(正保2年)~1702年(元禄15年)、岩見(いわみ、島根)、山崎家(毛利臣下、松浦但馬守出身)の生まれで、近代碁の創始者、碁聖(ごせい)、と言われています。

 道策は、幼くして俊才、母親に厳しく鍛えられ、7,8才で碁を学び、13才の時、本因坊三世道悦(どうえつ)、1636年(寛永13年)~1727年(享保12年)に入門、1667年(寛文7年)、23才で御城碁に初出仕して、通算14勝2敗、2敗はいずれも二子局で、道策の一目負けでした。

 道策(実力十三段とか)は、1677年(延宝5年)、33才で本因坊の家督を継ぐ頃には、当時の強豪をを全て向先以下に打ち込んでいました。この時、道策は名人碁所(ごどころ)の内命も受け、1702年(元禄15年)まで26年間碁所を勤めました。

 また、道策は、その頃の碁が部分的な力戦中心の中で、手割(てわり)理論(石の働きや効率性で局面の優劣を判断、棋理による碁形の分析)を導入、近代碁に通じる感覚、打法の開拓、段位制度の整備、優秀な弟子の育成(門下3000人とか)など、大きな功績を残しています。当時の最高位は上手(じょうず、七段)であり、その上の準名人(八段)、名人(九段)は神業の聖域で、幕府から名人の芸に達する碁所の地位を与えられ、家元四家(本因坊、井上、安井、林)の上に君臨しました。六段以下初段までは、「上手に対して□子」という格付けを実施しました。

 囲碁の国際試合として、本因坊初代算砂(さんさ、法名日海)、1559年(永禄2年)~1623年(元和9年)の頃、朝鮮(韓国)から李礿史(りやくし)という人が来て、算砂と三子を置いて対局したことがあります。朝鮮随一の打ち手と言われた李礿史も見事に負かされました。

 この算砂と朝鮮人との三子以来、時の最高位者は、三子を置かせて外人と対局するのが恒例となっていましたが、道策は四子で対局する旨(むね)、島津家に伝えました。

 そこで、島津家でも、「古来、外人は三子が恒例となっているが、今回の対局が四子というのは如何なる訳なのか。親雲上といえども相当の打ち手であり、万一本因坊において負けるとなると国恥ともなりかねないが」と言ったところ、「なるほど、初代は三子で対局されたが、本朝の囲碁は当時より少なくとも一子以上は進歩しています。異朝においてそれだけ進歩したとも思えないので、初代が三子ならば、私は四子で対局すべきと考えます」と答え、対局は四子で行われることになりました。

 親雲上は、琉球第一の名手であり、四子を置いては負けられない。一方、道策も官許碁所の名にかけても負ける訳にはいかない。 というわけで、置碁には珍しく、力のこもった勝負が始まったのですが、道策は随所に妙手を下し、完全に黒を翻弄(ほんろう)、十四目の大差をもって遠来の浜比賀を破り、人々を驚嘆させました。

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坐隠談叢(ざいんだんそう、四子 親雲浜比賀 ー 本因坊道策

(解説) 爛柯堂(らんかどう)評、「下手に対すといえども無理なく、敵器量を知りて、趣向妙なり」。

 この碁では、道策は少しも無理な手を打たず、巧みに黒の虚を突いて優勢に導いたと言われています。また、一面、道策のハメ手と伝えられるような手を繰り返し試みています。例えば、白5、7及び白27、29のツケ、また、白11、13の手は、黒の形を重複させ、いわゆる凝(こ)り形にさせる意味の手筋です。また、「唐人(とうじん)の泣き手」と語り伝えられている手は、白61のサガリだと言われています。 黒60とオサエ込み、これで渡れるつもりが、白61と下(さ)がられて、泣くに泣けない事になりました。道策は、浜比賀を下手と見て侮らず、打ち方を緩めず十分に打ち回しています。

 親雲上浜比賀は、後に改めて道策に師事して、上手(じょうず、七段)に対し二子、すなわち三段の免状を下附されました。浜比賀は帰国後、道策流の石立(いしだて)を取り入れ、琉球の囲碁も大いに発展したと言われています。

(参考文献) 安藤如意(改補社者渡辺英夫): 坐隠談叢(新編増補、囲碁全史、新樹社(1955); 林元美(林裕校注): 爛柯堂棋話 Ⅰー昔の碁打ちの物語-、平凡社(1978);高良倉吉(沖縄歴史研究会)編: 沖縄県の歴史散歩、山川出版会(1995); 永原慶二監修、石上英一ほか8名編: 岩波日本史事典、岩波書店(1999);青木新平(呉清源序): 碁石の微笑、六月社(1956); 水口藤雄: 囲碁の文化誌、起源伝説からヒカルの碁まで、日本棋院(2002). 

(参考資料) 本因坊道策(木石庵); http://mignon.ddo.jp/assembly/mignon/go_kisi/meikan_dosaku.html ;

本因坊道策(google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%9C%AC%E5%9B%A0%E5%9D%8A%E9%81%93%E7%AD%96&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

2009年9月 7日 (月)

松尾芭蕉(奥の細道、那谷寺)にまつわる歴史紀行、石山の石より白し秋の風、この句の中の石は那谷寺(加賀)の石、それとも石山寺(近江)の石なのか、とは(2009.9.7)

  那谷寺(なたでら、泰澄(たいちょう)開創、真言宗、那谷町、小松)の寺号は、西国三十三ヶ所、霊場1番のの紀伊(和歌山)那智山のと、最終33番の美濃(岐阜)谷汲(たにぐみ)山のを合わせて名づけられたと言われています。 松尾芭蕉は、1689年(元禄2年)46才の時、那谷寺を訪れ、奥の細道の中の有名な一句、石山の石より白し秋の風、を作っています。

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松尾芭蕉(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E8%8A%AD%E8%95%89

 松尾芭蕉(まつおばしょう、1644年(寛永21年、正保元年)~1694年(元禄7年)、俳人、江戸)は、伊賀上野の無足人の家に生まれ、津藩(三重)の藤堂良忠(俳号蝉吟)に仕えて北村季吟門の俳諧を学びました。その後、蕉風(しょうふう、侘び(わび)、寂び(さび)など)を開眼(かいげん)、1689年(元禄2年)より河合曽良(かわいそら、1649年(慶安2年)~1710年(宝栄7年)、俳人、神道家)を伴って奥州、北陸を行脚し、歌枕(うたまくら)、史跡を訪ね、奥の細道を著し(1702年(元禄15年)刊行)、不易流行(ふえきりゅうこう)を達観(たっかん)、さらにかるみを唱えて上方に赴き、1694年(元禄7年)10月、51才で客死、近江の義仲寺に葬られています。

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那谷寺奇岩遊仙境、2009年(平成21年)9月、小松、石川)

 ところで、石山の石より白し秋の風の意味のことですが、石の対象を那谷寺(加賀)とするのか、石山寺(近江)とするのか、そのとらえ方で意味が大きく異なると思います。一般に、近江の石と解釈するのが定説となっていますが、異論も多く、芭蕉に聞いてみたいところです。

 近江の石山をとると、その意味は、「那谷寺の石は、近江の石山寺の石山よりも白いと言われているが、今吹いている秋風は、那谷寺の石山よりも白く感じられる(秋の風を白と言う、白秋、中国)」となり、一方、加賀の石山をとると、「那谷寺の石山の石は、とても白く、吹きわたる秋風は、それよりももっと白く感じられる」という意味になります。

 那谷寺の石は、白色の凝灰岩(ぎょうかいがん)ですが、石山寺の石は灰白色の珪灰石(けいかいせき)です。

 私は、定説に近い体験をしました。1967年(昭和42年)4月、その頃は京都(村井良治様方、北白川、下別当町、左京区)で下宿していましたが、桜のいい季節でしたので、石山寺を訪ねました。まさに、奇岩、奇石が目に焼き付き、今も懐かしく思い出されます。

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石山寺(1967年(昭和42年)4月、滋賀)

 また、ご縁があって、1969年(昭和44年)4月に金沢に来て、11月より武家屋敷のある長町(岩岸様方)に下宿していました、その年の秋に、知人から紅葉の美しいところとして、那谷寺の紹介を受け、金沢からバスでそこを訪ねました。

 美しい紅葉の中、こじんまりとした奇岩に入り込む御堂に参拝し、その後、芭蕉がここを訪ねて、石山の石より白し秋の風の句を詠んだことを知った時、ふと、近江の石山寺の荒々しくでっかい奇岩を思い出しました。芭蕉は、かの有名な石山寺の石を、句の中に詠み込むことによって、那谷寺の奇岩の上の小堂にも敬意を表し、誉め讃えていると思いました。

 この時の奥の細道の紀行文は、山中(やまなか)の温泉(いでゆ)に行ほど、白根が嶽、跡にみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。花山(くわさん)の法皇三十三所の巡礼とげさせ給ひて後、大慈大悲の像を安置し給ひて、那谷(なた)と名付給ふと也。那智・谷汲(たにぐみ)の二字をわかち侍りしとぞ。奇石さまざまに、古松(こしょう)植ならべて、萱ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、殊勝の土地也。

 この少し前に、金沢を訪れ、この句以外にも、あかあかと日はつれなくも秋の風、塚も動け我が泣く声は秋の風など、秋の風を含む2句が、奥の細道に載っています。

 松尾芭蕉は、近江の月見亭の隣の芭蕉庵を、たびたび仮住まいとし、多くの句(石山の石にたばしるあられかな)を残しています。 近江は芭蕉が亡くなった地であり、石山寺の近く、芭蕉の墓地のある義仲寺の無名庵、また、長期滞在した幻住庵、岩間寺などが現存しています。芭蕉、51才、辞世の句は、「旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる」でした。

(参考文献) 石川県の歴史散歩研究会編: 新版石川県の歴史散歩、山川出版社(1993); 永原慶二監、石上英一ほか8名編: 岩波日本史事典、岩波書店(1999).

(参考資料) 松尾芭蕉(google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E8%8A%AD%E8%95%89&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

石川県観光素材集(那谷寺): http://www.natadera.com/; 奥の細道(道祖神の旅-9): http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/okunohosomiti9.html  : 芭蕉の年譜: http://www.intweb.co.jp/basyou/basyou_nenpu.htm ; 石山寺観光ガイド: http://www.ishiyamadera.or.jp/ishiyamadera/culture.htmll

松尾芭蕉(北陸紀行、旅しよう北陸):http://e-teltel.jp/column/bashou/index.html; 奥の細道(北陸路の旅程): http://www.ishikawa-c.ed.jp/basyou/ryotei/ryotei.htm.

(追加説明) ○ 自然な区切りである、四分法(しぶんほう)に従えば、季節の移り変わりは、春、夏、秋、冬、と表しますが、人生の四つの節目は、中国では、青春(せいしゅん)、朱夏(しゅか)、白秋(はくしゅう)、玄冬(げんとう)、また、古代インドでは、学生期(がくしょうき)、家住期(かじゅうき)、林住期(りんじゅうき)、遊行期(ゆぎょうき)、となり、それぞれの生き方を示唆(しさ)する興味深い思想です。(五木寛之、林住期、幻冬舎(2007)より)

○ 松尾芭蕉は、1644年(正保元年)伊賀上野の城下赤坂町で生まれました。父は与左衛門といい、手習師匠をしていました。子供のうちから藤堂家の若君の側に使えていましたが、1666年(寛文6年)に若君が逝去したので脱藩し、1673年(寛文12年)には江戸に出ています。

 芭蕉の生涯は旅から旅の連続でした。 生まれた伊賀上野は、忍者の里であり、後の芭蕉の俳諧の旅が隠密の旅との噂がありました。1694年(元禄7年)5月、江戸を出て長崎に向かっていたが、大阪に入って発病し、門人の看病にもかかわらず、ついに同年10月12日51才で一生を閉じました。(樋口清之監修、生活歳時記、p.589、俳聖・芭蕉、より)

○ 芭蕉(ばしょう)という植物は、約2mほど大きく、みずみずしい青葉を広げる。しかし、この葉は、傷つきやすく、秋風の頃になると葉脈に沿って裂けはじめ、風雨に破れ裂けた芭蕉の葉は痛ましい。松尾芭蕉は、「その性 風雨に傷みやすきを愛す」といってこの植物を好んだ。(樋口清之監修、生活歳時記、p.520、芭蕉、より)

〇 南北朝時代の戦乱で那谷寺は荒廃し、その復興に尽力したのが加賀藩三代藩主の前田利常(1594~1658)でした。山門近くの書院から眺める庫裏庭園は国指定名勝で、利常の美的感覚が光る庭であると言われています。加賀藩の作庭奉行だった分部卜斎(わけべぼくさい)によって1642年(寛永19年)に完成しました。庭には、三角と四角の石を組み合わせた珍しい飛び石や、三つの立石で仏教の三尊仏を表現する「三尊石」と呼ばれる石組みなどが配置されています。

 飛び石などに使われている流紋岩には、碧玉(へきぎょく)やメノウ、オパールといった小さな鉱物が含まれていることが近年の学術調査で分かってきました。那谷寺は、石が織りなす風景を楽しむ文化の拠点となっています。 利常が庭で現した石文化は、訪れる人々を今も魅了し」続けています。(北陸中日新聞:3代藩主利常 復興に尽力、石の風景 人々を魅了、2017年(平成29年)4月22日(土)より)

2009年9月 5日 (土)

数字(大数、小数)と図形(黄金比、白銀比)にまつわる歴史実話、東洋、西洋の思考、感性の違い、デジタル(二進法)とアナログ(フーリエ解析)のコンピュター(計算機)、とは(2009.9.5)

   1627年(寛永4年)、和算家吉田光由(よしだみつよし)、1598年(慶長3年)~1672年(寛文12年)は、わが国最初の算術書、仏教語の塵点劫(じんでんごう)に由来する、塵劫記(じんこうき)、を著しました。塵劫という名は、光由が京都五山の第一、嵯峨の天竜寺の玄光(げんこう)に著書をお見せし、名付けてもらったと言われています。これは、中国(周)の数学(算法統宗)を底本とした、大数、小数の名(十進命数法)、九九の掛け算、米や材木の売買、立木の高さの測量、検地など、日本の日常生活にも役立つ初級の和算書(明治末期までに約300種刊行)です。

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立木の高さの測量(たち木の長をつもる事、塵劫記

 大数とは、マクロの世界、1以上の大きい数のことで、十進法(じっしんほう、数がある大きさに達すると、10ごとにまとめる)によれば、一(1)、十(10)、百(10の2乗)、千(10の3乗)、万(10の4乗)、億(をく、10の8乗)、兆(てう、10の12乗)、京(けい、10の16乗)、姟(がい、10の20乗)、秭(ぢょ、10の24乗)、穰(じゃう、10の28乗)、溝(かう、10の32乗)、澗(かん、10の36乗)、正(せい、10の40乗)、載(さい、10の44乗)、極(ごく、10の48乗)、恒河沙(ごうがしゃ、10の52乗)、阿僧祇(あそうぎ、10の56乗)、那由他(なゆた、10の60乗)、不可思議(ふかしぎ、10の64乗)、無量大数(むりゃうたいすう、10の68乗)など、その中でも、恒河沙(インドのガンジス川の砂粒の数)から無量大数までの数の単位は、古代インドの仏教由来の言葉です。

 空海(弘法大師)の入定(にゅうじょう)信仰と結びつく弥勒下生(みろくげしょう)信仰によれば、弥勒菩薩(みろくぼさつ)が56億7000万年後、この世に降誕(ごうたん、下生)し、華林園(かりんえん)の龍華樹の下で開悟(かいご)して仏となり、3回の大法会(だいほうえ、三会)を開いて、釈尊(しゃくそん、お釈迦様)の救済から洩れたいっさいの人々と神々を救済するという。

 生物の中で、肉眼ではほとんど見えず、顕微鏡や電子顕微鏡で初めてその存在が分かるものをまとめて、微生物(びせいぶつ)と呼んでいます。普通、1g(小さじ一杯)の土壌中(土壌菌)には1億、少し肥えた土壌中には10億、人間の大腸内(大腸菌)には、100兆ほどの微生物が生きていることが確認されています。

 生物は、約9億年前から、両親が子供をつくる営み(有性生殖)が始まり、目覚ましい進化を遂げ、環境の変化に適応し、約3000万種の多種多様な生物や人が地球上に生まれ現在に至っています。

 の場合、有性生殖から数えても約9億年、最初の生物(微生物)から数えると約38億年の生物の進化のドラマが、母親の胎内でわずか38週で進行します。妊娠初期24日ごろの胎児は魚に似ています。驚異的なスピードで、遺伝子暗号のプログラム通りのドラマが進行します。一個の受精卵から、38週間で数十兆個の細胞からなる新生児のプログラムを書いたのは、神業(かみわざ)であり、私たちの年齢は、地球生命38億歳と考えられます。

 また、人の遺伝子暗号の並びの可能性は、4×30億、両親の染色体の組み合わせにより生まれる子供の可能性は、70兆にも達するそうです。ということは、私たち1人1人は70兆分の1の存在ということになります。まさに、子供は大自然から授かった奇跡の命です。私たちは、生きていることのありがたさに感謝して毎日を過ごしたいものです。

 なお、女の人の胎児期に最大700万個存在した卵細胞は、閉経までに減少の一途をたどり、一方、男の人の精子生涯に1兆個以上産生されるといわれています。人は、奇跡的な確率を経て生まれます。

  小数とは、ミクロの世界、1より小さい数のことで、ある単位を基準にとり、その十分の1から表されるのを常とし、分(ぶ、10の-1乗)、厘(りん、10の-2乗)、毫(もう・こう、10のー3乗)、糸(し、10の-4乗)、忽(こつ、10の-5乗)、微(び、10の-6乗)、繊(せん、10のー7乗)、沙(しゃ、10のー8乗)、塵(ぢん、10のー9乗)、挨(あい、10のー10乗)、となっています。この後、渺(びよう、10の-11乗)、漠(ばく、10の-12乗)、糢糊(もこ、10の-13乗)、逡巡(しゅんじゅん、10のー14乗)、須臾(しゅゆ、10のー15乗)、瞬息(しゅんそく、10の-16乗)、弾指(だんし、10の-17乗)、刹那(せつな、10の-18乗)、六徳(りっとく、10の-19乗)、虚(きょ、10の-20乗)、空(くう、10の-21乗)、清(せい、10のー22乗)、浄(じょう、10のー23乗)、と仏教語の数の単位が続き(算法統宗によれば、タダコノ名アリテ実ナシ、公私マタ用イズ)、浄(じょう、10のー23乗)が一番小さい数となります。小数が大数と違うのは、他の単位と重複していることで、分、厘は、銭貨の単位、毫、糸、忽、微などは、長さや面積、重さの単位としても使われていました。

 ヨーロッパでは、15世紀に入って小数の概念が現れていますが、東洋では極めて古くから小数が考えられており、0.1に分、0.01に厘などの名を付けています。

 また、環境分析における有害物質の定量にも使われている単位(分率)は、百分率(0.01、%、パーセント、per cent、1ドルの100分の1、10の-2乗)、千分率(0.001、‰、パーミル、per mill、1ドルの1000分の1、10のー3乗)、100万分率(0.0000001、ppm、パーツ パーミリオン、parts per million、100万分の1、10のー6乗)、10億分率(0.0000000001、ppb、パーツ パービリオン、parts per billion、十億分の1、10のー9乗)、となります。

 自然界のすべての物質は小さな粒子(りゅうし)、原子(げんし)から出来ています。その原子の大きさは、およそ1mの100億分の1(0.0000000001m、10のー9乗m)程度です。また、原子の大きさを直径200mのドーム型スタジアムにたとえると、原子核の大きさは、直径2cm以下の球に相当します。また、物質を構成する粒子1モル(6.0×10の23乗個)の質量は、原子量、分子量などにグラム単位をつけた値になり、水素原子は1.0g、水分子は18gとなります。

 微生物の大きさについては、各種ウイルスは0.0000001cm(10のー6乗cm)、大腸菌は2×0.00001cm(2×10のー4乗cm)ほどの大きさです。

 土壌環境分析において、特定有害物質(カドミウム及びその化合物、水銀及びその化合物、鉛及びその化合物など)の土壌含有量基準(直接摂取によるリスク)の指定基準は、それぞれ150ppm以下、15ppm以下、150ppm以下であり、また土壌溶出量基準(地下水等の摂取によるリスク)は、それぞれカドミウム(イタイイタイ病)は0.01ppm以下、水銀(水俣病)については、0.0005ppm以下、かつ検液中にはアルキル水銀は不検出のこと、鉛(鉛中毒)は0.01ppm以下です。

 ゼロ、0、という概念は、2段階に分かれ、ひとつは記号としてのゼロ、もう一つは数としてのゼロです。空位を表す記号としてのゼロであれば、メソポタミアの楔形(くさびがた)文字、エジプトのパピルス文書など、紀元前にも存在していました。それに対して、数としてのゼロとは、計算の対象に考えられた数としてのゼロのことを言い、インド起源であることが知られています。同じインドでも当初は記号のゼロが点や小円で表現され、そこから徐々に数のゼロに移行していったと考えられています。

 (れい)の字は、もともと滴(零)のことを言い、水をこぼすというのは、零す、と書きます。そこから派生して、種々の微細なものを表しました。空位の零は、中国数学に由良し、江戸時代にも使用されています。

 黄金比(おうごんひ)は、円に内接する正五角形における、一辺の長さと対角線の長さの比を与える数のことです。黄金比、黄金分割(おうごんぶんかつ、一つの線分を外中比に分割)は、1:(1+√5)/2、(ほぼ1対1.618; 5:8)です。長方形の縦と横との関係など安定した美感(ピラミッド、パルテノン神殿、ミロのビーナスなど)を与える比とされています。黄金比から生まれる、螺旋(らせん)状の自然界の形として、ヒマワリの種子(花)、巻き貝の渦、松ポックリ(松かさの描き出す模様)、アサガオのつる、気象衛星で見た台風、DNA(デオキシリボ核酸)らせん構造,銀河系、また、人間が作ったものとして、吹き抜けのらせん階段、ガウディのサグラダ・ファミリアの建造物など、中心から外に向かって拡大(発展)する姿が見られます。これらは、三次元空間(立体、動的)を最も効率的に利用できる形です。また、日常使っている、各種のカード、名刺、国旗の縦と横の比も、黄金比となっています。

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黄金比左上 ミロのヴィーナス左下 神奈川沖浪裏(葛飾北斎、富岳三十六景)、右の二つの建築 サグラダ・ファミリア聖家族贖罪教会、アントニオ・ガウディ)、スペイン、黄金比の謎

 白銀比(はくぎんひ、大和比)は、円に内接する正四角形における、一辺の長さと対角線の長さの比を与える数のことです。白銀比は、1:√2(ほぼ1対1.414; 5:7)です。日本の代表的な法隆寺の五重塔の造形(一番上の屋根と一番下の屋根の一辺の長さの比)、また、見返り美人図(菱川師宣)、秋冬山水図(雪舟東楊)などの絵画にも、白銀比が見られると考えられています。

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白銀比 見返り美人図(菱川師宣(ひしかわもろのぶ)、江戸中期、 秋冬山水図、雪舟東楊(せっしゅうとうよう)、室町後期、雪月花の数学

 また、畳の縦と横の長さの比は、白銀比となっています。畳を二つ合わせると真四角になります。曲尺(かねじゃく)を用いて、丸太の木から正四角形の角材を正確に切り取ると、木材を無駄なく使うことが出来ます。これらは、二次元空間(平面、静的)を最も効率的に利用できる形です。日常使っているA判用紙(A3,A4,A5)などの縦と横の比は、白銀比となっています。風呂敷は正方形ですが、種々の物を効率よく包むことができ、また、真四角の折り紙による、千変万化の折り紙細工の作品が創作されています。

(参考文献) 平凡社小百科事典編集部編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第4版)岩波書店(1991); 村上和雄(筑波大学名誉教授): 正論、子供は大自然から授かった奇跡の命、生命とは何か、の重要さを考える、産経新聞(朝刊)(2004); 増田秀光編: 空海の本、密教最大の聖者の実像と伝説を探る、大日本印刷株式会社(2006).; 桜井進: 雪月花の数学、祥伝社(2006); 渡邊泰治: 黄金比の謎、美の法則を求める、化学同人(2007); 吉田光由(大矢真一校注): 塵劫記、岩波文庫(2008).

(参考資料) 塵劫記: http://homepage1.nifty.com/zpe60314/jinkokiindex.htm; 塵劫記(序、玄光による命名):http://www5.ocn.ne.jp/~jyorin/3jinkouki.html; 黄金比: http://gakuen.gifu-net.ed.jp/~contents/museum/golden/page62.html ; 正五角形の対角線と外接円(黄金比): http://homepage2.nifty.com/sintakenoko/Construction/CGraph5B.html; 黄金比と白銀比(レポート、参考図):http://washimo-web.jp/Report/Ougonhi/ougonhi.htm

(追加説明) ○ コンピューター(計算機)においてよく用いられている記数法は、十進法(じっしんほう)ではなく、二進法(にしんほう)です。二進法では、実数を2つの数字、を用いて表す記数法です。

 例えば、整数1は2の0乗で1、2は2の1乗なので1つ桁があがり10、3は2の1乗+1なので11(10+1)、4は2の2乗なのでさらに桁が上がり100、5は2の2乗+1なので101(100+1)、6は2の2乗+2の1乗なので110(100+10)、以下、7は111、8は1000、9は1001、10は1010となります。数字の表記は単純ですが桁が大きくなっています。

○ コンピューターは、0と1の信号により計数するので、計算規則が単純であり、数字の桁が大きくなっても瞬時に計算できます。この0と1は、0(電気または光のスイッチを切る、offf、out)と1(電気または光のスイッチを入れる、on、In)として表せるので、デジタル(数字式、計数形)計算機で広く用いられています。 

 コンピューターにおける1ビット(bit)の記録がオン(on、1)、オフ(off、0)です。これは、デジタルコンピューターの扱うデータの最小単位、2進級の一桁(binary digiti)の略です。1バイト(byte)は8ビットで、2の8乗、1キロバイトは2の10乗、1メガバイトは2の20乗、1ギガバイトは2の30乗となります。

○ 音楽再生においては、デジタルアナログとの変換技術が必要です。現代のコンピューターは、0と1の2進法で表されるデジタルの計算機ですが、これを連続した波に戻すのがアナログの計算機です。

 これは、「どのような波も三角関数の波の足し合わせで表現できる」というフーリエの定理の「離散フーリエ変換」に基づき、電子計算機が高速に連立方程式を解いて、0と1から波を復元するものです。

 これは、フランス革命の頃、フランスの数学者、ジョゼフ・フーリエ(1768~1830)によって考え出された理論です。(朝日新聞: 桜井進の数と科学のストーリー、0と1→波、音なき音楽、2013年(平成25年)6月23日(日)朝刊より)

〇 私たち身体は、およそ60兆個の細胞で形づくられているそうです。その一つ一つにあるDNAを全てつなげると、およそ1200億キロ。光でも8分20秒かかる地球と太陽の間を、400往復するほどの長さである。壮大な宇宙の中では私たちはケシ粒のごとき存在ですが、その粒の中に生命の小宇宙が広がっているのである。

また、私たちの体内には、600兆ほどの数の細菌がすんでいるという。この膨大な細菌と共生するのに欠かせないのが免疫である。体内には、1000万という多様な免疫細胞が巧みな連携プレーを重ねており、実に1000万種類以上の病原体に対応できるそうです。(あっと驚く科学の数字(講談社)より)

〇 太古の昔、突然変異によってアミノ酸の合成能力を失った微生物あるいは植物が現れました。 致命的である。が、わずかでも自ら動く能力がことさら選抜された。失うことによって、より大きな力を得たのである!(風呂場椅子独り占め。これはヒトが自分の体内で合成できない必須アミノ酸9種類、フェニルアラニン、ロイシン、バリン、---を丸暗記するための語呂合わせである。)

 動くことができれば、食物の探査、捕食者からの逃走、新しいニッチの発見が積極的にできる。動物生である!つまり、必須アミノ酸の必須こそが動物を動物たらしめた。欠損や障害は、マイナスではない。それは本質的に動的な生命にとって、常に新しい可能性の扉を開く原動力になります。(福岡伸一(生物学者)の動的平衡、失ってこそ得られるもの、朝日新聞、2015年、12月17日(木)朝刊より)

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