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2009年10月14日 (水)

二宮尊徳(小田原、神奈川出身の農政家)にまつわる歴史物語、背負う薪と手に取る本、富と貧、報徳仕法、とは(2009.10.14)

  私が郷里の松島小学校(上板、徳島)に入学した1947年(昭和22年)頃、学校の正面玄関横に、薪(たきぎ)を背中に背負い本を開いて読書しながら歩いている、二宮金次郎(のち尊徳)の銅像が建っていたのを、今でもはっきり覚えています。

 最近、衆議院選挙のあった、2009年(平成21年)8月30日、現住所(桜田、金沢)から徒歩15分ほどの戸板小学校(二口、金沢)へ投票に行った時、久しぶりに学校の入り口玄関横に立っていた、二宮金次郎銅像を見て、改めて二宮尊徳なる人物を思い起こしました。銅像の礎石に刻まれた寄贈者と年月から、最初の銅像は、戦前の1936年(昭和11年)6月、一人の寄贈者(中村長兵衛氏)によるものですが、太平洋戦争(1941年(昭和16年)12月8日~1945年(昭和20年)8月15日)中は、その銅像が兵器製造の金属として供出されたのか、現在の銅像は、1973年(昭和48年)3月、10名の寄贈者によりに再建されたものでした。

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二宮金次郎(のち二宮尊徳、銅像、戸板小学校、二口、金沢)

○ 戸板小学校は、2013年(平成25年)4月、二口町から戸板第二土地区画整理事業地移転しました。

 二宮金次郎(にのみやきんじろう)、1787年(天明7年)~1856年(安政3年、70才)は、相模国(さがみのくに、神奈川県)足柄上郡栢山(かやま)の農家の生まれ、本名金次郎、江戸末期の農村指導者(篤農家、とくのうか)で、晩年尊徳(そんとく)と称しました。

 二宮金次郎は、13才の時に父親が死去、その後24才までに没落した二宮家を立て直し、33才の頃、小田原藩に仕え、節約、勤労を奨める農政改革(桜町領)を成功させました。各地の農村の立て直しを求められ、関東、東海地方、600ヵ村の荒廃農村(福島県から滋賀県にわたる36地区)を復興させ、また56才の時、幕府にも召し抱えられました。

 二宮金次郎は苦学して儒学算学を修め、その勤勉さは、戦前には教科書で教材として取り上げられました。かっては、全国の小学校に、薪(たきぎ)を背負い本を読む金次郎(尊徳)の銅像があり、模範とされました

 修身(しゅうしん)の教科書には、孝行、勤勉、学問お手本として現れていました。 昼のしごとをすまして家にかえると夜おそくまでおきていてわらじをつくりました、のちにえらい人になりました、という物語が類型としてありました。小学唱歌の、二宮金次郎、については、

○ 一、柴刈り縄ない草履(ぞうり)をつくり 親の手を助(す)け弟(おとと)を世話し 兄弟仲良く孝行つくす 手本は二宮金次郎  二、 骨身を惜しまず仕事をはげみ 夜なべ済まして手習い読書 せわしい中にも撓(たゆ)まず学ぶ 手本は二宮金次郎  三、家業大事に費(ついえ)をはぶき 少しの物も粗末にせずに 遂には身を立て人をもすくう 手本は二宮金次郎 

 銅像では、歩きながら書物を開いています。二宮金次郎の弟子であり、金次郎の娘を嫁にもらった富田高慶(たかよし)の報徳記金次郎伝説のもとになっています。

○ 鶏鳴(けいめい)のころに起きて遠くの山に行って、柴を刈ったり薪をきったりしてこれを売り、夜は縄をない、わらじを作り、わずかの時間も惜しんで体を使い心を尽くし、母を安心させ二人の弟を養うことにひたすら苦労した。そして、柴刈りの行き帰りにも、大学(儒教の経典の一つ、四書五経の四書、漢字)の書物を懐にして、途中歩きながら声をあげて読み、少しも怠らなかった。(佐々井典比古、現代語訳より)

○ 金次郎は、柴や薪を村の共有財産である入会地(いりあいち)で入手し、燃料として燃やさずに、これを小田原宿で売りさばき、さらにその儲けた金を運用して増やす手法(みなで資金を出し合い、入れ札(くじ引き)で貸し付けする頼母子請、無尽請など、またこの時の約束事として五常(仁、義、礼、智、信)を指針とすること)を、小田原藩服部家で若党として働いた時、奉公人(中間、下男、女中)にも積小為大として教えています。(猪瀬直樹、二宮金次郎はなぜ薪を背負っているのか?より)

 晩年、二宮金次郎(尊徳)は、豊富な農業知識を持ち、農政家として、次第に知られるようになりました。福住正兄の二宮翁夜話(にのみやおうやわ)によれば、富みと貧とは、については、

○ 富と貧とは、もと遠く隔(へだ)つ物にあらず。ただ少しの隔てあり。その本源はただ一つの心得(こころえ)にあり。貧者は昨日のために今日勤め、昨年のために今年務む。故に終身(しゅうしん)苦しんでその功なし。富者は明日のために今日勤め、来年のために今年勤む。安楽自在(じざい)にして成す事成就せずという事なし。

 然(しか)るに世の人、今日飲む酒なき時は借りて飲み、今日食う米なき時はまた借りて食う。これ貧窮(ひんきゅう)すべき原因なり。今日薪を取りて明朝飯をたき、今夜縄をないて明日マガキ(間垣)を結ばば安心して差し支えなし。然るを貧者の仕方は、明日取る薪にて今夕の飯をたかんとし、明朝なう縄をもって今日マガキを結ばんとするがごとし。

 故に我れ常に曰く。貧者草刈らんとする時鎌なし。これを隣に借りて草を刈る。常の事なり。これ貧窮をまぬがること能(あた)わざる原因なり。鎌なくば、まず日傭(にちよう)取りをなすべし。この賃銭(ちんせん)鎌を買い求め、しかる後に草を刈るべし。

 この道はすなわち開闢(かいびゃく)元始の大道に基くものなるが故に、卑怯(ひきょう)卑劣の心なし。これ神代(じんだい)の古(いにしえ)、豊芦原に天降りし時の神の御心(みこころ)なり。故にこの心なき者は富貴を得ること能(あた)わず。

○ 衣は寒さをしのぎ、食は飢(う)えをしのぐのみにて足れるものなり。そのほかは皆無用の事なり。飢えをしのぐための食、寒さをしのぐための衣は、智恵賢不肖(ふしょう)を分かたず、学者にても無学者にても、悟りても迷いても離(はな)るることはできぬものなり。これを備うる道こそ人道の大元(だいげん)、政道の根本なれ。

 ところで、江戸末期、徳川11代家斉(いえなり)、1773年(安永2年)~1841年(天保12年)、から12代家慶(いえよし)、1793年(寛政5年)~1853年(嘉永6年)、13代家定(いえさだ)、1824年(文政7年)~1858年(安政5年)の頃、飢饉や災害起こり、全国一揆(いっき)や打ち壊しが急増し、幕府の権威は揺らいでいました。1841年(天保12年)、老中水野忠邦による天保の改革の時、二宮金次郎(尊徳)は幕府勘定所から御普請役格にとして採用され、日光御神領、89ヵ村の復興計画(日光仕法雛形作成など)に携わりましたが、改革中途で倒れ、最晩年の2年間は床に伏して現場には足を運べませんでした。 

 二宮金次郎(尊徳)は、徹底した実践主義で、儒教仏教神道関連の学問を修め、自身の日常生活の体験から解釈した報徳思想(困窮を救い安全な生活を営ませる生活様式)を創始、自ら陰徳、積善、節約を力行し、殖産のことを説きました。

 そして、報徳仕法(ほうとくしほう、何事も小さなことの積み重ねである、分相応を見極め生活する、余った財産は他や先に譲る)という考えを確立しました。  

 後にその影響を受けた弟子たちが、困窮した農民を救う報徳社運動を展開することになりました。報徳とは、過去、現在、未来のの三世を一貫とする天地人三才の徳に報いる道であるとし、至誠、勤労、分度、推譲根本原理としました。その報徳運動は、明治期に遠州(静岡)地方を拠点に広がり、自発的な報徳社(二宮尊徳の思想を実践する目的で組織された結社、1843年(天保14年)小田原報徳社の結成に始まる)が結成され、後に全国的民衆運動として展開しました。

(参考文献) 樋口清之(監修): 暮らしのジャーナル、生活歳時記、三宝出版(1994); 永原慶二(監修)、石上英一ほか8名編: 岩波日本史事典、岩波書店(1999); 猪瀬直樹: 二宮金次郎はなぜ薪を背負っているのか?、人口減少社会の成長戦略、文春文庫(2007).

(参考資料) 二宮金次郎(尊徳)、(google画像): http://images.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1W1GGLD_ja&q=%E4%BA%8C%E5%AE%AE%E5%B0%8A%E5%BE%B3&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi ; 報徳博物館: http://www.hotoku.or.jp/

松島小学校(ホームページ、上板、徳島):http://www.kci-net.ne.jp/~matsushima-f/

戸板小学校(ホームページ、二口、金沢):  http://www.kanazawa-city.ed.jp/toita-e/

(参考資料) 松下幸之助ら名経営者が再評価、「勤勉の象徴」二宮尊徳: http://j-net21.smrj.go.jp/watch/ippomae/entry/20090216.html

 松下幸之助や土光敏夫など、名経営者と呼ばれる人物たちが二宮尊徳を再評価し、事業経営に大きく活かしたと言われています。

松下幸之助(成功へのヒント): http://success.hoyu.net/matsushita.htm

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