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2009年10月 8日 (木)

本願寺(東、西、京都)と真宗(一向一揆、加賀)、勧進帳にまつわる歴史実話、浄土真宗、本願寺(東、西)、金沢御堂(百姓の持ちたる国)、とは(2009.10.8)

  古来、京の都(みやこ)周辺の送葬地として、化野(あだしの、小倉山北東山麓一帯、右京区)、鳥辺野(とりべの、阿弥陀ヶ峰(鳥部山)山麓一帯、東山区)、蓮台野(れんだいの、船岡山西麓一帯、北区)がありました。 

 親鸞(しんらん、範円、綽空、善信とも)、1173年(承安3年)~1262年(弘長2年)は、鎌倉前期浄土真宗(じょうどしんしゅう、真宗)の祖とされています。浄土真宗の名称は、真実の浄土教を意味し、親鸞が師の法然(ほうねん)の教義(ひたすら阿弥陀仏の称号、南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)の六字名号を称える、称名念仏(しょうみょうねんぶつ)は、阿弥陀仏が選択した唯一の往生行である、との選択本願念仏説、専修念仏(せんじゅねんぶつ)を表したもので、一向宗(いっこうしゅう、真宗門徒、時宗門徒、一向派の念仏者を含む)とも呼ばれています。

  親鸞の説には、「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人おや」、という悪人正機説、また、「ナムアミダブツを称えれば、阿弥陀仏のおかげでこの世から極楽へ往生することができるばかりか、また極楽からこの世へ還ることができる」、という大切な二種回向(にしゅえこう、往相廻向、還相廻向)の説があるそうです。

 親鸞は、1262年(弘長2年)、90才の時、押小路南、万里小路東の善法院 にて示寂(没)し、自分の墓は作らず、骨は鴨川に流してくれと遺言しましたが、子孫や弟子達は、鳥辺野の近く、東山大谷(知恩院山門の北)に埋葬しました。また、1272年(文永9年)、東山の大谷の地に親鸞の祖廟、大谷廟堂(おおたにびょうどう)を建立、これが大谷本願寺に発展しました。

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大谷祖廟東大谷、東山区、京都、google画像)

 鎌倉、室町から戦国(安土、桃山)時代まで、本願寺派の系図(1世~11世)は、親鸞、如信、覚如、善如、綽如、巧如、存如、蓮如、実如、証如、顕如と続いています。本願寺派は、鎌倉末に成立し、室町、戦国期連如(れんにょ、本願寺8世)、1415年(応永22年)~1499年(明応8年)の時に大きく発展しました。

 蓮如は御文(おふみ)と呼ばれる多くの手紙(法語)を書き、例えば、「人はどのような職業(侍能工商之事、士農工商)に携わっていても、いかに罪を犯しても、双心なく阿弥陀仏を信じる心があれば、必ず阿弥陀仏がお助け下さり、極楽往生することができる」と説き、民衆に親鸞の思想を分かりやすく伝えています。また、蓮如は親鸞よりいっそう感謝の念仏を生活の中心に置いて生きよと説き、日本人の多くが、ご飯を食べる時に「いただきます」、食べ終えた時に「ごちそうさま」と言うのも、蓮如の仏教の影響によるものと考えられています。

 室町時代、蓮如は、1465年(寛正6年)、51才の時、大谷本願寺が延暦寺宗徒により破却されたので、1471年(文明3年)、57才の時、越前吉崎に坊舎を建立して布教、北陸で多数の門徒を獲得しました。しかし、加賀(金沢)では、門徒らが一向一揆(いっこういっき)を起こすに至り、また、各地の一向一揆(加賀、三河、石山など)は、信長、秀吉、家康を悩ませました。

 蓮如(本願寺8世)は、1475年(文明7年)、吉崎を退去し畿内に戻った後、1480年(文明12年)、山科本願寺(京都)を、また、1496年(明応5年)、石山坊舎(大坂)を建立するなど精力的な活動を行い、本願寺教団の繁栄の基礎を築きました。そして、1499年(明応8年)、85才の時、大坂石山御坊より京都の山科本願寺に帰参し示寂(没)しました。その後、山科本願寺は、1532年(天文元年)、法華宗徒らに焼き討ちされ、大坂石山本願寺は、1580年(天正8年)、織田信長と顕如(本願寺11世)との講和、退去まで、本願寺の本山(現在の大坂城址)となりました。

 戦国(安土、桃山)時代、本願寺は、1592年(文禄元年)、顕如の示寂(没)後、長子教如が12世を継ぎましたが、1593年(文禄2年)、秀吉の裁決(母、顕如後室が提出した遺言状)により、弟の光昭(理光院)に譲り、教如は醒井堀川側に隠居、光昭は本願寺12世、准如と称しました。その後、本願寺は、1591年(天正19年)、大坂から豊臣秀吉が寄進した京都七条坊門堀川の地に移転、阿弥陀堂を建立、翌年御影堂供養、西本願寺(俗称、西大谷)となりました。また、大谷本廟(西大谷)は、1603年(慶長8年)、現在の地(五条橋東、通称五条坂、東山五条、東山区)に改葬されています。

 1600年(慶長5年)徳川家康は、関ヶ原の戦いに勝利して入京、伏見城にて教如と会見しました。1602年(慶長7年)、家康は教如の不遇をいたみ、また、本願寺勢力の削減のねらいもあって、教如に京都東六条の寺地四町四方を寄進、その独立をすすめました教如復職を宣言、1603年(慶長8年)、親鸞影像を上野廐橋(うまやばし、妙安寺、前橋)より京都に迎え、阿弥陀堂、翌年御影堂を建立東本願寺(俗称、東大谷となりました。家康は、教如に同じく本願寺12世を名のらせ、世人はこれを裏方本願寺と呼びました。また、大谷祖廟(東大谷)は、1670年(寛文10年)、現在の地(円山町、東山区)に改葬されています。

 こうして江戸初期本願寺は、准如(西本願寺、浄土真宗本願寺派)、教如(東本願寺、真宗大谷派本願寺派)に分派しましたが、共に大教団に発展し現在に至っています。

 加賀一向一揆(かがいっこういっき)は、戦国時代、1488年(長享2年)~1580年(天正8年)、本願寺門徒(加賀国)の一揆組織(坊主、土豪、農民)が、守護家の内紛と加賀の内乱が故(もと)で、武力蜂起により高尾城(高尾町、金沢)の守護富樫政親を滅ぼし、100年近く自治を行った一揆です。 加賀国は本願寺の領国と見なされ、加賀は「百姓の持ちたる国」(加賀一揆国)と呼ばれました。 これに対し、本願寺の蓮如から、御叱(おしか)りの御文(おふみ)が専光寺(せんこうじ、本町、金沢)に下されましたが、一人の門徒も破門された様子はなかったと言われています。

 この頃の加賀には、蓮如(本願寺8世)の息子が加州3ヶ寺(若松本泉寺、波佐谷松岡寺、山田光教寺)にいて、法主代行として寺院や門徒を統率していました。また、1531年(天文5年)になって、一向一揆体制の内部で指導権をめぐっての争い、享禄の錯乱(大小一揆、一向一揆の内部分裂)が起こっています。また、一向一揆が各地(加賀、能登、越前、越中など)で起こったので、大坂本願寺は、証如(本願寺10世)の時、法主の権限強化を図ろうと教団の改革に着手し、加賀では、加州3ヶ寺を追放、代わって教団の中枢指令機関として、1546年(天文15年)、金沢御堂(かなざわみどう、金沢坊舎、尾山御坊とも金沢城本丸跡)を建て直轄政庁としました。

 金沢御堂は、大坂本願寺の御坊(別院)であったので、完成した坊舎には、大坂本願寺の証如から本尊、仏具が送られてきました。ここは、真宗のみならず加賀の百姓自治の中心(加賀一向一揆の中核組織)でした。これが、現在の東別院(真宗大谷派金沢別院、安江町、金沢)につながっています。

 金沢城の本丸跡周辺には、金沢御堂の遺構として、極楽橋などが残っています。当時、御坊に参詣する人々は、この橋から日本海に沈む夕日を拝み、極楽往生を願ったと言われています。

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金沢御堂遺構極楽橋、金沢城本丸跡周辺、金沢) 

 その後、1580年(天正8年)、織田信長の家来、柴田勝家の下、佐久間盛政らが金沢御堂を攻め、一向一揆勢の拠点を奪い取り、尾山城と名を改め、掘や土塁が築かれ、本能寺の変、賤ヶ岳の戦い豊臣(羽柴)秀吉の支配を経て、1583年(天正11年)、前田利家が入城(金沢城と改名)、加賀藩主、前田氏14代、約280余年間の居城となりました。  

 上記のように、 金沢城は、もと金沢御坊、現在も本丸跡周辺にはその遺構として極楽橋、石の手水鉢などが残っています。当時、御坊に参詣する人々は、この橋から日本海に沈む夕日を拝み、極楽往生を願ったと言う。私はそこを何度も訪れ、そのことを実感しました!

(参考文献) 山本四郎: 京都府の歴史散歩(上)、山川出版社(1990); 石川県の歴史散歩研究会: 石川県の歴史散歩、山川出版(1993); 永原慶二監修、石上英一ほか8名編: 岩波日本史事典、岩波書店(1999); 藤島達朗: 本廟物語、東本願寺の歴史、真宗大谷派宗務所出版部(東本願寺出版部)(2007); 石川県教育委員会事務局文化財課、金沢城研究調査室編; よみがえる金沢城、450年の歴史を歩む、北国新聞社(2006); 梅原猛: 日本仏教をゆく、朝日新聞出版(2009).

(参考資料) 大谷祖廟東大谷、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E7%A5%96%E5%BB%9F&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi ; 

大谷本廟西大谷、google画像): http://images.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&um=1&sa=1&q=%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E6%9C%AC%E5%BB%9F%E3%80%80%E8%A5%BF%E5%A4%A7%E8%B0%B7&btnG=%E7%94%BB%E5%83%8F%E6%A4%9C%E7%B4%A2; 本願寺派浄土真宗、西本願寺): http://www.hongwanji.or.jp/

真宗大谷派金沢別院: http://www.oyama-net.jp/index.html; 真宗本願寺派金沢別院: http://www.incl.ne.jp/honganji/

(追加説明) 

 加賀一向一揆に滅ぼされた富樫政親(12代、室町後期)の先祖は、鎌倉時代の加賀守護、富樫泰家ですが、江戸時代勧進帳(歌舞伎)の安宅の関守として、富樫左右衛門の名で登場しています。

 最近、清水郁夫氏(地方史家、安宅町、小松)によれば、源義経一行が安宅(小松、加賀)を通ったのは、1187年(文治3年)と言われているが、「如意宝珠御修法日記」の裏に記された鎌倉幕府の古文書中の「関東御教書安」には、幕府が、京都の治安維持を担う役職「篝屋守護人」だった富樫泰家から息子への所領(甲賀市、滋賀)の支配相続を認めたと言うことが記されているそうです。

 この御教書案には、正応3年との記載があり、西暦では1290年であり、史料に100年の開きがあり関守、富樫泰家は存在せず、別人ではないかと問題を提起されています。(2009年(平成21年)4月2日(木)、北陸中日新聞、朝刊より

(参考資料) 勧進帳(google画像): http://images.google.co.jp/images?hl=ja&lr=&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&um=1&sa=1&q=%E5%8B%A7%E9%80%B2%E5%B8%B3&btnG=%E7%94%BB%E5%83%8F%E6%A4%9C%E7%B4%A2

安宅の関所(小松、石川google画像): http://images.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%AE%89%E5%AE%85%E3%81%AE%E9%96%A2%E6%89%80&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

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