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2009年10月の4件の記事

2009年10月29日 (木)

碁の名手(本因坊秀策)の耳赤の一手にまつわる歴史対局、耳赤の碁、秀策流、御城碁19連勝、とは(2009.10.29)

  人は、本因坊道策(4世)を前聖本因坊秀策(14世跡目)を後聖と呼んでいます。江戸も終わり頃、1846年(弘化3年)7月21日、碁聖と呼ばれた本因坊秀策が、18才(4段)の時、準名人位、49才(8段)の幻庵(井上因碩)に先番で対戦、耳赤の一手、により局勢を優勢に導き、三目勝(実際は二目勝)を収めたのは、昔から有名な話です。

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本因坊秀策(本因坊秀策囲碁記念館、因島、尾道、広島): http://honinbo.shusaku.in/shusaku.html

 本因坊秀策(ほんいんぼうしゅうさく)、1829年(文政12年)~1862年(文久2年)は、、因島(いんのしま、備後、外浦、広島)生まれ、俗称は桑原(父の実家は安田)、幼名は虎次郎、父輪三と母カメの次男です。秀策は母から碁を習い、6才の頃、尾道港の豪商橋本吉兵衛に碁の手ほどきを受け上達、神童(安芸小僧)の誉れ高く、父の主君である三原城主、浅野甲斐守忠敬に召し出されました。そこで、安田榮斎と名を改め、宝泉寺の住職葆真、儒者坂井虎山から碁や漢学の教えを受けています。

 1836年(天保7年)7才の時、尾道港に立ち寄った伊藤松次郎(のち松和)との対局でその碁才を認められ、松和の勧めで、翌年浅野家の家臣寺西右膳に伴われて東上、9才の時、本因坊丈和(12世)の門下に入りました。ある日、車坂下の道場に来て、秀策の碁を見た名人丈和は、是れ正に百五十年来の碁豪にして、我門風、之より大に揚らん、と喜んで言ったそうです。150年来とは、本因坊道策以来のという意味です。榮斎少年は11才で初段に入品、12才の時、師匠の本因坊丈策(13世)と本因坊秀和(13世跡目、のち14世)から1字ずつ採った、秀策の名、及び2段格の免状を与えられています。

 秀策の碁は、丈和の予見通り、大きな進歩を見せ、1846年(弘化3年)18才で4段となり、師の許しを得て、同年5月始めて帰省し、故郷に錦を飾りました。秀策耳赤の一手を打った幻庵との対局は、同年7月、帰東の途次、浪華(天王寺屋、大阪)の辻氏宅で行われました。その後、秀策は幻庵に、この対局も含め二子1局、定先4局(うち一局は優勢のまま打ち掛け)の5局を連勝、名声が大いに揚がりました。

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耳赤の碁上譜 1~64、

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下譜 1(100)~27(127)、27(127)が耳赤の一手

耳赤の碁上譜 1~64、 下譜 1(100)~27(127)、27(127)が耳赤の一手)

(解説) 黒①(17の四)、③(16の十七)、⑤(3の十六)と3線の小目の位置を変え、⑨(16の五)と4線に高くコスムのが、秀策流の堅実な先番必勝布石と言われているものです。 秀策は、碁の打ち方は時代と共に変化するかも知れんが、小目からコスむ形だけは変わるまい、と語ったそうです。現代布石の根本理念と余り変わらない先進性のある布石戦法と言われています。

 右下隅は、白⑩(14の十六)の大斜ガケから、大斜百変と言われている大型の定石の力戦となり、秀策を一挙に潰そうとの幻庵の気迫が、一手一手に感じられます。右下スミ劫含みの型は、黒不利と断定され、後世この定石型を修正させる、大きな影響を与えました。

 この碁の形勢は混沌、激闘を重ねて中盤戦も後半に入った時、幻庵は中央黒の4子の石の連絡を断って白26(126)を打った時、秀策は下辺4子の黒石を逃げるともなく、また助けるともなく、天元の脇に打った黒27(127)のが、耳赤の一手、と言われているものです。この手を秀策が打った時、幻庵の耳が赤くなり、これはその手に動揺し、自信を失った証拠である、との黒の勝ちを予言した、観戦医師の逸話があります。

 この一手は、Aのキキを見て上辺のモヨウを盛り上げ、下辺の4子の黒石に声援を送っています。また、左辺への打ち込みを見た八方にらみの位置となっていて、これから黒が主導権を握ることになります。

 幻庵もまた同年の後、備後尾道(広島)に遊び、橋本氏の邸にて、人の問いに、秀策の碁品は秀逸なり。今年齢漸く18才にして、已に上手(7段)の地位に及べり。以て将来を卜知すべきなり、と答えています。秀策は、1848年(嘉永元年)、20才で6段に進んでいます。

 秀策は、1849年(嘉永2年)21才、6段の時、本因坊秀和(14世)の跡目となり、御城碁初出仕、1852年(嘉永5年)、上手(7段)に昇進13年間19連勝(黒番9勝、白番10勝)は前人未踏の快挙でした。1862年(文久2年)、江戸でコレラが大流行、本因坊家でも多くの患者が出たので、秀策は、秀和が止めるのも聴かず、終始看病していたが、自らも感染、医薬効なく、34才の若さで病死したと伝えられています。秀策は、囲碁に強いばかりでなく、両親に孝養をを尽くし、人情に篤い人柄は、誰からも愛されたと言われています。 

 この年、1862年(文久2年)より、200年の歴史ある御城碁も廃止となりました、時勢は鎖国から開国へ、また、攘夷から倒幕へと激動の時代が始まり、1867年(慶応3年)10月14日、徳川慶喜は大政奉還を奏上、同年、12月9日、京都御所内において、王政復古の大号令(小御所会議)が発せられ、江戸幕府は滅亡、1868年(明治元年治と改元(一世一元の制)、明治維新となっています。

 1871年(明治4年)、家元家禄は打ち切りとなり、碁界は厳しい現実に直面します。その後、1879年(明治12年)4月、本因坊秀甫(18世)中心に方円社が創設され、囲棋新報(毎月の手合い5局選んで秀甫評を掲載)を刊行、また、1924年(大正13年)、碁界合同の日本棋院が創立され、現在に至っています。

(参考文献) 青木新平: 碁石の微笑、六月社(1956); 安永一: 囲碁名勝負物語、時事通信社(1972); 安藤如意(改補社者渡辺英夫): 坐隠談叢(新編増補、囲碁全史、新樹社(1955);福井正明: 囲碁古典名局選集 全三巻、秀麗秀策、日本棋院(1992); 水口藤雄: 囲碁の文化誌、起源伝説からヒカルの碁まで、日本棋院、第2刷(2002). 

(参考資料) 本因坊秀策囲碁記念館(因島、広島): http://honinbo.shusaku.in/

(追加説明) ○ 歴代本因坊は、本因坊算砂(1世)、本因坊算悦(2世)、本因坊道悦(3世)、本因坊道策(4世)、本因坊道的(4世跡目)、本因坊策元(4世跡目)、本因坊道知(5世)、本因坊知伯(6世)、本因坊秀伯(7世)、本因坊伯元(8世)、本因坊察元(9世)、本因坊烈元(10世)、本因坊元丈(11世)、本因坊丈和(12世)、本因坊丈策(13世)、本因坊秀和(14世)、本因坊秀策(14世跡目)、

 江戸幕府滅亡により、秀悦(15世)の時から家元家禄が打ち切りとなっています。

本因坊秀悦(15世)、本因坊秀元(16世)、本因坊秀栄(17世)、本因坊秀甫(18世)、本因坊秀栄(19世)、本因坊秀元(20世)、本因坊秀哉(21世)

(参考資料) 日本棋院(市ヶ谷、千代田区、東京): http://www.nihonkiin.or.jp/

(追加説明) ○ 現在の日本のルール、コミ碁については、互先(たがいせん)の場合、先手(黒)が後手(白)に対して6目半のハンデ(コミ出し)を負います。江戸時代、基本的にコミというものはありませんでした。

 その歴史は、黒番の勝率が高いという理由で徐々に改められました。1939年(昭和14年)、本因坊戦で初めて4目半のコミを採用 、1974年(昭和49年) まだ黒が有利なため、コミを5目半に改め、さらに、2002年(平成14年)、まだ 黒が有利ということで、また国際棋戦との整合性のため、タイトル戦ごとに順次コミを6目半に改め始めました 。

 ということで、正式の棋戦では、2004年(平成16年)から、コミは完全に6目半に改定されています。

 史上初のコミ碁は、1837年(天保8年)12月、土屋秀和、竹川弥三郎(先番5目コミ)対太田雄蔵、服部正徹局(打ち掛け)の連碁と言われています。(日本棋院編: 日本棋院創立80周年記念、囲碁雑学手帳、月刊碁ワールド1月号付録(2005)より) 

 

2009年10月22日 (木)

道後温泉(伊予、愛媛)と坊ちゃん(松山)にまつわる歴史秘話、神之湯、漱石、子規との交遊、松山城、私の囲碁はじめ、とは(2009.10.22)

  道後温泉(伊予、愛媛)、白浜温泉(紀伊、和歌山)、有馬温泉(但馬、兵庫)は、古代(奈良時代)、古事記、日本書紀、風土記などにも登場、日本三古湯(にほんさんことう)と呼ばれています。

 古来、伊予(いよ)の国は、東西に区分し、道前西道後と呼んでいました。伊予由来は、道後温泉のイデユ(出で湯)がイユとなり、さらに音が転化して、イヨになったとも伝えられています。 また、愛媛(えひめ)のは、四国の国生み神話(古事記)、伊予の国を愛比売(エヒメ)と呼んだことに由来しています。

愛媛(伊予、松山)名の由来、古事記に伊予国を愛比売という、是すなわち湯姫なり、とは(2012.11.18):http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/kagakufudoki300.html.

 道後温泉は、1960年(昭和35年)頃、神之湯(かみのゆ)、椿の湯白鷺の湯があり、入浴の時にタオルを借りると、温泉マーク入りの小さな楕円形の石鹸が貰えました。温泉水は、ラドンを含む弱アルカリ性単純泉で、入浴後は皮膚がつるつるになり、なかなか湯冷めがしないので、疲れた身体をよく癒しました。温泉に含まれているラドンはラジウムの崩壊からできる希ガスなので、ラジウム温泉とも言われています。

 また、道後温泉は、中央構造線断層割れ目に雨水がしみ込み、地下のマグマに温められ湧き出している、と言われています。日本列島の大断層、中央構造線の近くにある、白浜、竜神、道後、別府など、地下の泉脈に何か共通点があるのではないかと思います。

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道後温泉本館(道後湯之町、松山、愛媛、 本館正面、神之湯入り口、 下 本館3階、坊っちゃんの間、あだ名のついた松山中学教師、漱石と漱石夫人の見合い写真) 道後温泉物語(道後温泉旅館協同組合ホ-ムページ、松山、愛媛): http://www.dogo.or.jp/pc/honkan/

 ところで、夏目漱石(1857~1916)は、小説坊ちゃんの中で、ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが、温泉だけは立派なものだ、と言っています。その道後温泉本館は、1894年(明治27年)に建造された、3層楼本陣風の建築です。1階は神之湯という大衆浴場、2階は神之湯に通じる広間、3階は霊之湯(たまのゆ)という上客の浴室休憩室があります。3階の個室には、漱石ゆかりの、坊ちゃんの間があり、当時の松山中学校の教師の写真が、あだ名をつけて飾られています。さらに上には、振露閣(しんろかく)という太鼓楼があり、朝夕6時には時を告げる太鼓が鳴ります。

 坊っちゃんは、1906年(明治39年)4月号の、ホトトギスに発表されました。夏目漱石は、1895年(明治28年)4月から翌年4月まで、松山の愛媛県尋常中学校(のち松山中学、松山東高等学校)の英語教師でした。この時の体験を基にして、正義派の江戸っ子教師、坊っちゃんの痛快な活躍ぶりを描いています。この事実と小説坊っちゃんとを単純に結びつけ、一般に、漱石の松山生活の大部分は、坊っちゃんに描かれた通りだと思い込まれる時期があったようです。

 愛媛県の初代県令(のちの知事)、岩村高俊(1845~1906、もと土佐藩士)は、伊予松山藩校、明教館跡(一番町、松山)に英学校を設けましたが、やがて松山中学校となりました。正岡子規(1867~1902)は、1880年(明治13年)に松山中学校に入学、1883年(明治16年)退学、上京して共立学校に入っています。

 ところで、漱石子規は、同い年の1867年(慶応3年)生まれ、漱石は江戸(牛込)の名主の五男(本名、金之助)、子規は伊予松山藩の下級武士の長男(本名、常規)、共に1884年(明治17年)、17才、東京大学(のち東京帝国大学)の予備門(第一高等中学校)に入学、1890年(明治23年)、23才、漱石は文科大学の英文科、また子規は文科大学の哲学科(翌年国文学科に転科)に入学しています。この頃、漱石と子規は、急速に親しくなり、文学論、俳句、短歌、小説について語り合っていたそうです。

 また、漱石、子規と東京の第一高等中学校で同級生となり、東京帝国大学(哲学科)、大学院と進み、学業半ばの28才で病死した、2人の文学への進路に大きな影響を与えた、米山保三郎(1869年、明治2年、生まれ、加賀藩算用者、三男、金沢)がいます。米山は、漱石の作品、吾輩は猫であるでは、天然居士のモデルとなっています。

 1892年(明治25年)、25才、子規は大学を中途退学、日本新聞社入社、1895年(明治28年)、28才、新聞記者として日清戦争への従軍が許可され、金州城にに入り、講和が成立し帰国となるのですが、帰途中船上で喀血(結核)、上陸後2ヶ月ほど神戸病院に入院しました。

 漱石は、1895年(明治28年)、28才、松山中学校で1年間英語の教師を務めていました。また、子規は、この年の8月下旬から50日間、療養のために松山に帰省、漱石の下宿(愚陀佛庵、二番町、松山、漱石の俳号とも)に同居し、松山や校外の散策を楽しみ、多くの俳句を残しています。この時、俳人、柳原極堂(1867~1957)は連日のように漱石の下宿を訪れ、子規の指導を受けています。

  子規は、1898年(明治31年)、31才、和歌革新を提唱(歌よみに与ふる書、人々に答ふ、日本新聞に掲載)、1902年(明治35年)、35才の時、病状が悪化、足の甲に水腫ができ、9月14日の朝の作品を、高浜虚子に口述筆記してもらい、19日に死去しました。子規の墓地は、大龍寺(北区田端、東京)にあります。

 ほととぎす(のちホトトギス)は、俳句雑誌で、1897年(明治30年)1月に松山で、正岡子規の友人、俳人、柳原極堂によって創刊され、翌年の10月から高浜虚子(1874~1959)に受け継がれて東京で発行されました。

 その後、正岡子規を中心とする日本派の写生俳句(柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺、事物の簡潔描写)、蕪村の俳句(菜の花や月は東に日は西に)を賞揚、及び写生文の牙城となりました。誌名は正岡の俳号、子規(ほととぎす)によるものです。子規は生涯に約24000句、また漱石は2600句(熊本での約1000の句作含む)と多くの俳句を作っています。

 この雑誌には、漱石が、1905年(明治38年)1月、38才の時、高浜虚子のすすめで、小説、吾輩は猫であるをはじめてホトトギスに発表、いちやく有名になりました。また、翌年の1906年(明治39年)4月、39才の時、坊っちゃんの小説を、同じホトトギスに発表しています。この時、漱石は東京帝国大学及び第一高等学校の英語の講師でしたが、松山を離れて10年、また4年ほど前に亡くなった、子規との交遊の思いも込めて、この二つの作品を発表したのではないかと思いました。

 小説の中では、坊っちゃんは物理学校(のち東京理科大学)出身の数学の教師、漱石自身は英語を教えていましたので、その後、坊っちゃんのモデルは弘中又一(1873~1938、山口生まれ、同志社で3年半ほど学び、漱石より少し遅れて、数学の助教諭として着任)ではないか、と言われています。現在もなお、モデルとされたと信じる元教師たちの発言、様々な憶測もあって、坊っちゃん神話、伝説は尽きないようです。

 坊ちゃんのモデルとなった弘中又一は,松山中学から東予分教場(のちの西条中学)に転任しましたが在職8カ月で依頼免となり、そのあと徳島第二分校(のちの富岡中学)を経て埼玉県の熊谷中学に転任しています。松山ではシッポクうどん四杯を平らげて数え唄にうたわれたように,転任先でも奇行を演じたと言われています。

 漱石は、1896年(明治29年)4月、29才の時、熊本の第五高等学校の英語の教授に転任、1900年(明治33年)9月、英国留学、1903年(明治36年)1月、帰国した後、第五高等学校を退職して上京、1905年(明治38年)38才、東京大学と一高の英語の講師となっています。

 この時、松山を離れて10年、漱石の名を世に知らしめる基となった、名作、吾輩は猫である、坊っちゃんの作品を、虚子がすすめたホトトギスに発表、漱石の子規と松山との得(え)も言われぬご縁を感じる次第です。

 松山中学には、漱石在職中、教師あだ名数え歌がう謡われていました。

一つとや ひとつ弘中シッポクさん 数学弘中又一先生 (坊ちゃん)
二つとや ふたつふくれたブタの腹 英語西川忠太郎先生
三つとや みっつみにくい太田さん 漢学太田厚先生
四つとや よっつ横地のゴートひげ 教頭横地石太郎先生(赤シャツ)
五つとや いつつ色男中村さん 歴史中村宗太郎先生(鈴ちゃん)
六つとや むっつ無理いう伊藤さん 体操伊藤朔太郎先生
七つとや ななつ夏目の鬼瓦 英語夏目漱石先生
八つとや やっつやかしの本吾さん 植物安芸本吾先生
九つとや ここのつこっとり一寸坊 物理中堀貞五郎先生
十とや じゅうでとりこむ寒川さん 会計係寒川朝陽

 夏目鬼瓦は,夏目先生の顔のアバタ(疱瘡あと)説、むずかしい顔をいつもしていたので近寄りにくかったという説があります。 

 坊っちゃんモデル弘中先生は、松山では、シッポクうどんを4杯平らげて、一つ弘中シッポクさん、と謡われています。

 なお、教頭横地石太郎先生(赤シャツ)は、金沢出身の説とされていますが、弘中、横地は退職して、京都に住んでいたことがあり、横地の菩提寺は関連する相国寺承天閣美術館(京都市)で、「坊ちゃん」の「書入本」の現物が70年ぶりに確認され、そこには、物語の要所要所に、それぞれの記述の後に、「弘中記」「横地記」と添えられていました。赤シャツが登場する場面では、弘中が赤シャツは当時の流行で、横地以外の教師も着ていたことから、横地説に疑問を投げかけています。一方、坊ちゃんが赤シャツらと釣りに出かける場面では、横地が実際に漱石と釣りに出かけ、漱石が初めて小魚を釣り上げて自慢した想い出を回想しています。(2016.9.10(土)、北陸中日新聞)

校長  住田昇先生 (校長の狸)
数学 

渡辺政和先生(山嵐)

 小説坊っちゃんには、うらなり(古賀先生、英語)、のだいこ(吉川先生、画学)、マドンナ(遠田ステ、松山女子校、のち松山東雲学園)というあだ名の先生方が登場しています。

 坊っちゃんの発表から1年後、漱石は、1907年(明治40年)、40才の時、池辺三山の訪問を受け、朝日新聞入社を決意、虞美人草を執筆、本格的な作家活動を開始します。

 その後、三四郎それから行人など話題作を次々と発表しますが、46才の時、強度の神経衰弱となります。 その翌年、1914年(大正3年)4月、47才、漱石は、先生の遺書(のち、こころと改題)を発表しますが、9月、4度目の胃潰瘍発症、そして、1916年(大正5年)、49才、4月に糖尿病併発、5月、明暗は未完で連載中止、11月、胃潰瘍再発、病状悪化、12月9日、胃潰瘍により死去しました。 漱石の墓地は、雑司ヶ谷霊園(豊島区、東京)にあります。

 人間の孤独の問題、利欲に満ちた現実社会と相容れない精神の問題、愛の問題、財産の問題、生と死の問題等々を上げてゆくと、こころの作にある問題はすでに、坊っちゃんにも出ており、一見対照的な両作品の基底には、まぎれもなく同じ漱石が存在しているという事実に突き当たらざるを得ないのである。(平岡敏夫氏解説より)

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加藤嘉明(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%98%89%E6%98%8E

 1603年(慶長8年)、加藤嘉明(1563~1631、賤ヶ岳の戦いで活躍、七本槍の一人)が、孤立丘陵の勝山の頂上に築城し、松山城(まつやまじょう)と命名、これを取り巻く城下町が発達しました。勝山には、松、杉、檜(ひのき)などの常緑樹が多く、松山(まつやま)の名は嘉名(かめい)でもあり、松の繁る山という植物景相の上から名付けられたものであろう、と言われています。

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ライトアップされた松山城(丸の内、標高131.7m、松山、愛媛) 松山城(ホ-ムページ、松山市、伊予鉄道株式会社、松山、愛媛): http://www.matsuyamajo.jp/

 伊予松山藩の歴代藩主は、加藤家(初代、外様)22万石、蒲生家(初代、外様)20万石、松平(久松)家(初代~15代、譜代)15万石と、城主が変わるたびごとに石高が減り、明治維新に至っています。

 近代俳句の創始者、正岡子規(1867~1902)は、1895年(明治28年)、ふるさとの松山に帰った時、春や昔 十五万石の 城下哉(かな)、という句を作っています。また、松山や 秋より高き 天守閣、と松山城の天守閣を詠んでいます。

 私は、徳島(阿波高校、卒業)から愛媛へ(愛媛大学文理学部、進学)、1960年(昭和35年)4月~1964年(昭和39年)3月、松山中学校(のち松山東高校、持田町へ移転)、 すぐ近くに松山高等学校(のち愛媛大学文理学部)近く、歩いて5分足らず、道後温泉には徒歩30分足らずの此花町(松山)に下宿していました。

 その下宿(松本宏様方、隣で食事、堀内正敏様方、ここで下宿しておられた同郷の母親の知人、先輩の多富弘之様の紹介による)の2階の窓から眺めた、ライトアップされた美しい松山城の光景が、今でも懐かしく思い出されます。

 また、囲碁に興味を持ち、日本棋院愛媛県支部(小山久良師範、7段)、大学の囲碁部、市内の碁会所などで腕を磨き、2段まで上達しました。初段から2段までの碁の免状は、小山久良師範のご推薦(試験碁含む)によるものです。 

 この頃の体験が、1964年(昭和39年)4月、愛媛から京都へ(京都大学大学院理学研究科、進学)、1969年(昭和44年)4月、京都から金沢へ(金沢大学理学部、就職)、その後の人生において大いに役立ちました。 

(参考文献) 吉崎正松: 都道府県名と国名の起源、古今書院(1972); 山本大、田中歳雄: 四国の風土と歴史、山川出版社(1977年); 愛媛県高等学校教育研究会社会部会編: 新版 愛媛県の歴史散歩、山川出版社、1版2刷(1994); 西川宣雄: 夏目漱石と金沢の人、米山保三郎(文学分野)、平成15年度 石川県民大学校大学院、石川の博士論文集、p.84(2003); 夏目漱石: 坊ちゃん、第109刷、岩波書店(2008). 

(参考資料) 坊っちゃんのモデル(あだ名数え唄、伊予歴史文化探訪、よもだ堂日記、伊予三津浜、愛媛): http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-476.html

子規記念博物館(松山市): http://sikihaku.lesp.co.jp/

伊予松山藩: http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/shikoku/matuyama.html

愛媛大学(ホームページ): http://www.ehime-u.ac.jp/

(追加説明) ○ 加藤嘉明は、三河(愛知)生まれ、豊臣秀吉に属し、1583年(天正11年)賤ヶ岳の戦いでは、七本槍の一人、のち淡路国を領し、水軍を率いて朝鮮出兵に従いました。1595年(文禄4年)、伊予6万石、関ヶ原の戦後、20万石に加増、1603年(慶長8年)41才、築城なった松山城に移りました。1627年(寛永4年)65才、会津(福島)40万石に増転封しています。

 加藤家の後に、1627年(寛永4年)24才、出羽上山(山形)4万石の蒲生忠知が、16万石加増されて、伊予松山20万石に移封します。ところが嫡子ができず蒲生家は断絶します。

 蒲生家の後に、1630年(寛永12年)49才、伊勢桑名(三重)4万石の松平(久松)定行が11万石加増されて伊予松山15万石の藩主となり、その後15代まで家系は続き、明治維新に至りました。

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正岡子規(1867~1902、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%B2%A1%E5%AD%90%E8%A6%8F

○ 正岡子規(享年35才)、辞世の3句は、糸瓜咲て痰のつまりし仏かな、痰一斗糸瓜の水も間にあはず、をとゝひのへちまの水も取らざりき、

 これら糸瓜を詠んだ句より、子規の忌日9月19日を糸瓜(へちま)忌と言い、また、雅号の一つから、獺祭(だっさい)忌とも言います。

○ 時鳥(ほととぎす)は、子規、不如帰、杜鵑、杜宇、蜀魂などとも書きます。古来、春の花、夏の時鳥、秋の月、冬の雪が四季を代表する詠題とされました。多くは5月中旬頃に渡来し、晩秋までいて南方に渡ります。低山帯から高山の林に棲息し、昼夜別なく、いそがしげに鳴きます。テッペンカケタカ、本尊かけたか、特許許可局など、さまざまに聞きなしています。

 ほととぎすほととぎすとて明けにけり(加賀千代)、ほととぎす声横たふや水の上(芭蕉)、時鳥廁半ばに出かねたり(漱石)

 鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥、この句は、機が熟するまで辛抱強く待とう、の意で、徳川家康の性格を表現、これに対し、鳴かぬなら殺してしまえ時鳥、が織田信長の、鳴かぬなら鳴かしてみしょう時鳥、が豊臣秀吉の性格を表現していると言われています。

○ 江戸の3俳人とは、松尾芭蕉、与謝蕪村、小林一茶のことですが、正岡子規は、特に、与謝蕪村の句を高く賞揚しました。

 与謝蕪村、1716年(京保元年)~1783年(天明3年)、江戸中期の画家、俳人、大坂毛馬生まれ、蕪村の俳句: 春の海終日(ひねもす)のたりのたり哉(かな)、 菜の花や月は東に日は西に、 月天心貧しき町を通りけり、 寒月や門なき寺の天高き、花いばら故郷の路に似たる哉

 小林一茶、1763年(宝暦13年)~1827年(文政10年)、江戸後期の俳人、信濃柏原生まれ、一茶の句: 目出度(めでた)さもちうぐらい也おらが春、雀の子そこのけそこのけ御馬が通る、名月を取てくれろとなく子哉、ともかくもあなた任せの年のくれ、ふるさとや寄るもさわるもばらの花

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夏目漱石(1857~1916、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E7%9B%AE%E6%BC%B1%E7%9F%B3

○ 明治の文豪、夏目漱石のペンネーム「漱石」については、「石に枕し、流れに漱(すす)ぐ」という中国の名言に由来しています。この言葉は、もともと隠遁(いんとん)の志を表すものとしてよく用いられますが、「漱石」は「石漱」の誤用であり、わざとこう使うことで、自分の頑固ひねくれぶりを示したと言われています。因みに漱石の本名は、夏目金之助です。

 中国には、次のような故事が伝わっています。西晋の時代、孫楚という男がいた。若いころ、隠遁の志があって、その気持ちを友人の王済に伝えようとして「石に枕し、流れに漱ぐ」というべきところを「石に漱ぎ、流れに枕す」といってしまった。王済が、「流れに枕したり、石に漱いだりできるのだろうか」とからかうと。頑固な孫楚はやりかえした。「流れに枕するのは耳を洗うためであり、石に漱ぐといったのは歯をみがくため」だといった。

 この話から、こじつけの巧みなことの形容として、「漱石枕流」という成語生まれた。わが国で「流石」を「さすが」と読むのも、さすがにうまいことをいった、というところからきているといわれる。(樋口清之監修、生活歳時記、三宝出版(1994)より)

○ 日本棋院愛媛県支部小山久良師範、大街道、松山)については、山崎献氏のブログ(けんさん、囲碁往来):http://www.ken-san.jp/yigo/igoourai.html、に当時の様子が目に浮かぶように紹介されています。

 その頃は、高僧の風貌の小野5段もいて、一般の方に指導碁を打っておられました。中園清三少年は、中学生でしたが、囲碁は完成されたようなところがあり、小山師範が少年に、終局の100手ほど前に、その碁を勝ちきる手段を考えるようにと宿題を出し、後日打ち継ぎ、それをひっくり返して打つ勉強をしている、とおっしゃっていたのを覚えています。現在は日本のアマを代表する打ち手としてご活躍中です。

 また、もう一人、野性的で、荒削りな碁を打つ、プロを目指す中学生、太田清道少年が顔を見せていました。現在は、関西棋院のプロ棋士(九段)、現役でご活躍中です。

 また、当時、小山師範には二人の娘さんがいて、上の子は高校生でした。のち、関西棋院の関山利夫九段に嫁ぎ、その子供さんが関山利昭九段で、ご活躍中とのこと、時の流れを痛感する次第です。(棋士紹介関西棋院http://www.kansaikiin.jp/profile/index.html)。

○ 1960年(昭和35年)岸内閣のとき、大学では全学連中心に激しい安保改定反対闘争があり、全国の大学では連日抗議集会がくりひろげられました。

 全学連は、全日本学生自治会総連合(共産党、民青とつながり?)の略で、共産党の指導に反発するグループの独立で、1963年(昭和38年)に3つ(新左翼の3派全学連、第2次ブント(同盟)全学連、中核派など)に、その後、革マル派が加わり4組織に分裂しました。

 1月16日、岸信介首相ら新安保条約調印全権団、米国に出発、全学連主流派学生と警官隊衝突 1月19日、新日米安保条約、行政協定に代わる地位協定がワシントンで調印 5月14日、安保改定阻止国民会議、10万人が第2回国会請願デモ 5月20日、午前零時すぎ自民党が衆議院本会議で新安保条約を単独採決 5月26日、安保改定阻止第16次全国統一行動、空前の国会デモ隊(17万人)が国会議事堂を包囲 5月28日、岸首相、安保問題に関し「声ある声」を批判、「声なき声」に耳を傾けると語る 

 6月4日、安保改定阻止第1次実力行使、国鉄労組など交通部門で早期スト 6月10日、米大統領秘書ハガチーが羽田に到着、デモ隊包囲、16日アイゼンハワー米大統領の訪日延期決定 6月15日、安保改定阻止第2次実力行使、580万人参加。右翼が国会周辺でデモ隊を襲撃。全学連主流派デモ隊は国会構内に突入、警官隊と乱闘。東大生、樺美智子死亡、負傷者多数(6・15事件) 6月19日、33万人の国会包囲デモの中、午前零時、新安保条約自然成立。22日第3次実力行使、620万人参加。23日批准書交換。新日米安保条約発効。岸首相が引退表明。

 7月14日、自民党大会で池田勇人を総裁に選出。15日岸内閣総辞職 7月19日、第1次池田勇人内閣。9月5日、自民党、高度経済成長、所得倍増などの新政策を発表 (戦後史年表 1926ー2006、朝日新聞社(2007)、より)

○ 私は、1960年〈昭和35年)頃、石手寺〈松山)、鹿島〈北条港沖の小島、松山)、また、1961年〈昭和36年)頃、金山出石寺(大洲)を訪れたことがあります。

 そのころ、下宿の窓から眺めた松山城の天守閣、一人で訪れた石手寺の三重塔、下宿先の知人とピクニックで行った北条の鹿島の頂から眺めた瀬戸内の海を走る船の風景などを鉛筆でスケッチし、ぺンで仕上げた絵を郷里の親父に送ったところ、実家の客間に飾ってあったのを覚えています。また、大洲の金山出石寺では、夏に大学の囲碁部の合宿があり、宿坊で丸1日、囲碁三昧を楽しんだことを覚えています。

石手寺(51番札所、松山、愛媛): http://www.88shikokuhenro.jp/ehime/51ishiteji/index.html

鹿島(松山市北条港沖の小島、ウィキペディア、愛媛): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E9%B9%BF%E5%B3%B6

金山出石寺〈番外札所、大洲、愛媛): http://www.city.ozu.ehime.jp/life/facilities/ken_kinzan.html

 降る雪や明治は遠くなりにけり

 中村草田男(なかむらくさたお、1901~1983)、1931年(昭和6年)作、句集「長子」、この句は、麻布の親戚を訪ねての帰途、雪が降りしきる中、20年振りに母校の青南小学校(青山南町)付近を散策中、児童の服装を目にした時、かって、小学校4,5年を過ごした頃を想い出して詠んだものと言う。

松山(愛媛)ともゆかりが深い(吟行ナビえひめ):
http://iyokannet.jp/ginkou/poet/detail/haiku_poet_id/5/

 草田男(本名、清一郎)は、外交官の父が領事をしていた清国廈門(アモイ)にて長男として誕生、3歳で帰国後は松山、東京と転居を繰り返すが、11歳から松山で暮らし、松山中学、松山高校、東京帝国大学へ、のち高浜虚子に入門。世俗を嫌う純粋なまなざしを社会や人間の内面に目を向ける作風で難解派、人間探求派と呼ばれています。なお、正岡子規が友人とともに創刊した俳句雑誌、「ホトトギス」の発行は、子規の弟子の高浜虚子(1874~1959、松山、愛媛). に引き継がれています。

○ 高浜虚子(1874~1959)、松山市生まれ。俳誌「ホトトギス」主宰。正岡子規に師事。定型と季語を重視し、客観写生と花鳥諷詠(ふうえい)による俳句を提唱しました。85年間の生涯で20万句を作ったとされています。小説「虹」や「新歳時記」を残したほか、後進の育成にも努めました。芸術院会員。54年に文化勲章を受章しました。

 虚子は1949年(昭和24年)4月に七尾市(石川県)を訪れました。能登地方のホトトギス派有志の招きで、前田利家が築いた城があった小丸山城址公園を散策し、市内で句会が開かれ、その後、和倉温泉(七尾市)の旅館に宿泊した際、七尾湾を眺めて詠んだのが「家持の妻恋船か春の海」という句でした。

 家持は、奈良時代に越中国の国司だった万葉歌人大友家持。748年(天平20年)に当時越中国の一部だった能登を視察し、各地で歌を残しました。七尾湾は船で渡り、能登島などを歌にしました。(北陸中日新聞、2,017年(平成29年)5月12日(金)より)

 

2009年10月14日 (水)

二宮尊徳(小田原、神奈川出身の農政家)にまつわる歴史物語、背負う薪と手に取る本、富と貧、報徳仕法、とは(2009.10.14)

  私が郷里の松島小学校(上板、徳島)に入学した1947年(昭和22年)頃、学校の正面玄関横に、薪(たきぎ)を背中に背負い本を開いて読書しながら歩いている、二宮金次郎(のち尊徳)の銅像が建っていたのを、今でもはっきり覚えています。

 最近、衆議院選挙のあった、2009年(平成21年)8月30日、現住所(桜田、金沢)から徒歩15分ほどの戸板小学校(二口、金沢)へ投票に行った時、久しぶりに学校の入り口玄関横に立っていた、二宮金次郎銅像を見て、改めて二宮尊徳なる人物を思い起こしました。銅像の礎石に刻まれた寄贈者と年月から、最初の銅像は、戦前の1936年(昭和11年)6月、一人の寄贈者(中村長兵衛氏)によるものですが、太平洋戦争(1941年(昭和16年)12月8日~1945年(昭和20年)8月15日)中は、その銅像が兵器製造の金属として供出されたのか、現在の銅像は、1973年(昭和48年)3月、10名の寄贈者によりに再建されたものでした。

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二宮金次郎(のち二宮尊徳、銅像、戸板小学校、二口、金沢)

○ 戸板小学校は、2013年(平成25年)4月、二口町から戸板第二土地区画整理事業地移転しました。

 二宮金次郎(にのみやきんじろう)、1787年(天明7年)~1856年(安政3年、70才)は、相模国(さがみのくに、神奈川県)足柄上郡栢山(かやま)の農家の生まれ、本名金次郎、江戸末期の農村指導者(篤農家、とくのうか)で、晩年尊徳(そんとく)と称しました。

 二宮金次郎は、13才の時に父親が死去、その後24才までに没落した二宮家を立て直し、33才の頃、小田原藩に仕え、節約、勤労を奨める農政改革(桜町領)を成功させました。各地の農村の立て直しを求められ、関東、東海地方、600ヵ村の荒廃農村(福島県から滋賀県にわたる36地区)を復興させ、また56才の時、幕府にも召し抱えられました。

 二宮金次郎は苦学して儒学算学を修め、その勤勉さは、戦前には教科書で教材として取り上げられました。かっては、全国の小学校に、薪(たきぎ)を背負い本を読む金次郎(尊徳)の銅像があり、模範とされました

 修身(しゅうしん)の教科書には、孝行、勤勉、学問お手本として現れていました。 昼のしごとをすまして家にかえると夜おそくまでおきていてわらじをつくりました、のちにえらい人になりました、という物語が類型としてありました。小学唱歌の、二宮金次郎、については、

○ 一、柴刈り縄ない草履(ぞうり)をつくり 親の手を助(す)け弟(おとと)を世話し 兄弟仲良く孝行つくす 手本は二宮金次郎  二、 骨身を惜しまず仕事をはげみ 夜なべ済まして手習い読書 せわしい中にも撓(たゆ)まず学ぶ 手本は二宮金次郎  三、家業大事に費(ついえ)をはぶき 少しの物も粗末にせずに 遂には身を立て人をもすくう 手本は二宮金次郎 

 銅像では、歩きながら書物を開いています。二宮金次郎の弟子であり、金次郎の娘を嫁にもらった富田高慶(たかよし)の報徳記金次郎伝説のもとになっています。

○ 鶏鳴(けいめい)のころに起きて遠くの山に行って、柴を刈ったり薪をきったりしてこれを売り、夜は縄をない、わらじを作り、わずかの時間も惜しんで体を使い心を尽くし、母を安心させ二人の弟を養うことにひたすら苦労した。そして、柴刈りの行き帰りにも、大学(儒教の経典の一つ、四書五経の四書、漢字)の書物を懐にして、途中歩きながら声をあげて読み、少しも怠らなかった。(佐々井典比古、現代語訳より)

○ 金次郎は、柴や薪を村の共有財産である入会地(いりあいち)で入手し、燃料として燃やさずに、これを小田原宿で売りさばき、さらにその儲けた金を運用して増やす手法(みなで資金を出し合い、入れ札(くじ引き)で貸し付けする頼母子請、無尽請など、またこの時の約束事として五常(仁、義、礼、智、信)を指針とすること)を、小田原藩服部家で若党として働いた時、奉公人(中間、下男、女中)にも積小為大として教えています。(猪瀬直樹、二宮金次郎はなぜ薪を背負っているのか?より)

 晩年、二宮金次郎(尊徳)は、豊富な農業知識を持ち、農政家として、次第に知られるようになりました。福住正兄の二宮翁夜話(にのみやおうやわ)によれば、富みと貧とは、については、

○ 富と貧とは、もと遠く隔(へだ)つ物にあらず。ただ少しの隔てあり。その本源はただ一つの心得(こころえ)にあり。貧者は昨日のために今日勤め、昨年のために今年務む。故に終身(しゅうしん)苦しんでその功なし。富者は明日のために今日勤め、来年のために今年勤む。安楽自在(じざい)にして成す事成就せずという事なし。

 然(しか)るに世の人、今日飲む酒なき時は借りて飲み、今日食う米なき時はまた借りて食う。これ貧窮(ひんきゅう)すべき原因なり。今日薪を取りて明朝飯をたき、今夜縄をないて明日マガキ(間垣)を結ばば安心して差し支えなし。然るを貧者の仕方は、明日取る薪にて今夕の飯をたかんとし、明朝なう縄をもって今日マガキを結ばんとするがごとし。

 故に我れ常に曰く。貧者草刈らんとする時鎌なし。これを隣に借りて草を刈る。常の事なり。これ貧窮をまぬがること能(あた)わざる原因なり。鎌なくば、まず日傭(にちよう)取りをなすべし。この賃銭(ちんせん)鎌を買い求め、しかる後に草を刈るべし。

 この道はすなわち開闢(かいびゃく)元始の大道に基くものなるが故に、卑怯(ひきょう)卑劣の心なし。これ神代(じんだい)の古(いにしえ)、豊芦原に天降りし時の神の御心(みこころ)なり。故にこの心なき者は富貴を得ること能(あた)わず。

○ 衣は寒さをしのぎ、食は飢(う)えをしのぐのみにて足れるものなり。そのほかは皆無用の事なり。飢えをしのぐための食、寒さをしのぐための衣は、智恵賢不肖(ふしょう)を分かたず、学者にても無学者にても、悟りても迷いても離(はな)るることはできぬものなり。これを備うる道こそ人道の大元(だいげん)、政道の根本なれ。

 ところで、江戸末期、徳川11代家斉(いえなり)、1773年(安永2年)~1841年(天保12年)、から12代家慶(いえよし)、1793年(寛政5年)~1853年(嘉永6年)、13代家定(いえさだ)、1824年(文政7年)~1858年(安政5年)の頃、飢饉や災害起こり、全国一揆(いっき)や打ち壊しが急増し、幕府の権威は揺らいでいました。1841年(天保12年)、老中水野忠邦による天保の改革の時、二宮金次郎(尊徳)は幕府勘定所から御普請役格にとして採用され、日光御神領、89ヵ村の復興計画(日光仕法雛形作成など)に携わりましたが、改革中途で倒れ、最晩年の2年間は床に伏して現場には足を運べませんでした。 

 二宮金次郎(尊徳)は、徹底した実践主義で、儒教仏教神道関連の学問を修め、自身の日常生活の体験から解釈した報徳思想(困窮を救い安全な生活を営ませる生活様式)を創始、自ら陰徳、積善、節約を力行し、殖産のことを説きました。

 そして、報徳仕法(ほうとくしほう、何事も小さなことの積み重ねである、分相応を見極め生活する、余った財産は他や先に譲る)という考えを確立しました。  

 後にその影響を受けた弟子たちが、困窮した農民を救う報徳社運動を展開することになりました。報徳とは、過去、現在、未来のの三世を一貫とする天地人三才の徳に報いる道であるとし、至誠、勤労、分度、推譲根本原理としました。その報徳運動は、明治期に遠州(静岡)地方を拠点に広がり、自発的な報徳社(二宮尊徳の思想を実践する目的で組織された結社、1843年(天保14年)小田原報徳社の結成に始まる)が結成され、後に全国的民衆運動として展開しました。

(参考文献) 樋口清之(監修): 暮らしのジャーナル、生活歳時記、三宝出版(1994); 永原慶二(監修)、石上英一ほか8名編: 岩波日本史事典、岩波書店(1999); 猪瀬直樹: 二宮金次郎はなぜ薪を背負っているのか?、人口減少社会の成長戦略、文春文庫(2007).

(参考資料) 二宮金次郎(尊徳)、(google画像): http://images.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1W1GGLD_ja&q=%E4%BA%8C%E5%AE%AE%E5%B0%8A%E5%BE%B3&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi ; 報徳博物館: http://www.hotoku.or.jp/

松島小学校(ホームページ、上板、徳島):http://www.kci-net.ne.jp/~matsushima-f/

戸板小学校(ホームページ、二口、金沢):  http://www.kanazawa-city.ed.jp/toita-e/

(参考資料) 松下幸之助ら名経営者が再評価、「勤勉の象徴」二宮尊徳: http://j-net21.smrj.go.jp/watch/ippomae/entry/20090216.html

 松下幸之助や土光敏夫など、名経営者と呼ばれる人物たちが二宮尊徳を再評価し、事業経営に大きく活かしたと言われています。

松下幸之助(成功へのヒント): http://success.hoyu.net/matsushita.htm

2009年10月 8日 (木)

本願寺(東、西、京都)と真宗(一向一揆、加賀)、勧進帳にまつわる歴史実話、浄土真宗、本願寺(東、西)、金沢御堂(百姓の持ちたる国)、とは(2009.10.8)

  古来、京の都(みやこ)周辺の送葬地として、化野(あだしの、小倉山北東山麓一帯、右京区)、鳥辺野(とりべの、阿弥陀ヶ峰(鳥部山)山麓一帯、東山区)、蓮台野(れんだいの、船岡山西麓一帯、北区)がありました。 

 親鸞(しんらん、範円、綽空、善信とも)、1173年(承安3年)~1262年(弘長2年)は、鎌倉前期浄土真宗(じょうどしんしゅう、真宗)の祖とされています。浄土真宗の名称は、真実の浄土教を意味し、親鸞が師の法然(ほうねん)の教義(ひたすら阿弥陀仏の称号、南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)の六字名号を称える、称名念仏(しょうみょうねんぶつ)は、阿弥陀仏が選択した唯一の往生行である、との選択本願念仏説、専修念仏(せんじゅねんぶつ)を表したもので、一向宗(いっこうしゅう、真宗門徒、時宗門徒、一向派の念仏者を含む)とも呼ばれています。

  親鸞の説には、「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人おや」、という悪人正機説、また、「ナムアミダブツを称えれば、阿弥陀仏のおかげでこの世から極楽へ往生することができるばかりか、また極楽からこの世へ還ることができる」、という大切な二種回向(にしゅえこう、往相廻向、還相廻向)の説があるそうです。

 親鸞は、1262年(弘長2年)、90才の時、押小路南、万里小路東の善法院 にて示寂(没)し、自分の墓は作らず、骨は鴨川に流してくれと遺言しましたが、子孫や弟子達は、鳥辺野の近く、東山大谷(知恩院山門の北)に埋葬しました。また、1272年(文永9年)、東山の大谷の地に親鸞の祖廟、大谷廟堂(おおたにびょうどう)を建立、これが大谷本願寺に発展しました。

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大谷祖廟東大谷、東山区、京都、google画像)

 鎌倉、室町から戦国(安土、桃山)時代まで、本願寺派の系図(1世~11世)は、親鸞、如信、覚如、善如、綽如、巧如、存如、蓮如、実如、証如、顕如と続いています。本願寺派は、鎌倉末に成立し、室町、戦国期連如(れんにょ、本願寺8世)、1415年(応永22年)~1499年(明応8年)の時に大きく発展しました。

 蓮如は御文(おふみ)と呼ばれる多くの手紙(法語)を書き、例えば、「人はどのような職業(侍能工商之事、士農工商)に携わっていても、いかに罪を犯しても、双心なく阿弥陀仏を信じる心があれば、必ず阿弥陀仏がお助け下さり、極楽往生することができる」と説き、民衆に親鸞の思想を分かりやすく伝えています。また、蓮如は親鸞よりいっそう感謝の念仏を生活の中心に置いて生きよと説き、日本人の多くが、ご飯を食べる時に「いただきます」、食べ終えた時に「ごちそうさま」と言うのも、蓮如の仏教の影響によるものと考えられています。

 室町時代、蓮如は、1465年(寛正6年)、51才の時、大谷本願寺が延暦寺宗徒により破却されたので、1471年(文明3年)、57才の時、越前吉崎に坊舎を建立して布教、北陸で多数の門徒を獲得しました。しかし、加賀(金沢)では、門徒らが一向一揆(いっこういっき)を起こすに至り、また、各地の一向一揆(加賀、三河、石山など)は、信長、秀吉、家康を悩ませました。

 蓮如(本願寺8世)は、1475年(文明7年)、吉崎を退去し畿内に戻った後、1480年(文明12年)、山科本願寺(京都)を、また、1496年(明応5年)、石山坊舎(大坂)を建立するなど精力的な活動を行い、本願寺教団の繁栄の基礎を築きました。そして、1499年(明応8年)、85才の時、大坂石山御坊より京都の山科本願寺に帰参し示寂(没)しました。その後、山科本願寺は、1532年(天文元年)、法華宗徒らに焼き討ちされ、大坂石山本願寺は、1580年(天正8年)、織田信長と顕如(本願寺11世)との講和、退去まで、本願寺の本山(現在の大坂城址)となりました。

 戦国(安土、桃山)時代、本願寺は、1592年(文禄元年)、顕如の示寂(没)後、長子教如が12世を継ぎましたが、1593年(文禄2年)、秀吉の裁決(母、顕如後室が提出した遺言状)により、弟の光昭(理光院)に譲り、教如は醒井堀川側に隠居、光昭は本願寺12世、准如と称しました。その後、本願寺は、1591年(天正19年)、大坂から豊臣秀吉が寄進した京都七条坊門堀川の地に移転、阿弥陀堂を建立、翌年御影堂供養、西本願寺(俗称、西大谷)となりました。また、大谷本廟(西大谷)は、1603年(慶長8年)、現在の地(五条橋東、通称五条坂、東山五条、東山区)に改葬されています。

 1600年(慶長5年)徳川家康は、関ヶ原の戦いに勝利して入京、伏見城にて教如と会見しました。1602年(慶長7年)、家康は教如の不遇をいたみ、また、本願寺勢力の削減のねらいもあって、教如に京都東六条の寺地四町四方を寄進、その独立をすすめました教如復職を宣言、1603年(慶長8年)、親鸞影像を上野廐橋(うまやばし、妙安寺、前橋)より京都に迎え、阿弥陀堂、翌年御影堂を建立東本願寺(俗称、東大谷となりました。家康は、教如に同じく本願寺12世を名のらせ、世人はこれを裏方本願寺と呼びました。また、大谷祖廟(東大谷)は、1670年(寛文10年)、現在の地(円山町、東山区)に改葬されています。

 こうして江戸初期本願寺は、准如(西本願寺、浄土真宗本願寺派)、教如(東本願寺、真宗大谷派本願寺派)に分派しましたが、共に大教団に発展し現在に至っています。

 加賀一向一揆(かがいっこういっき)は、戦国時代、1488年(長享2年)~1580年(天正8年)、本願寺門徒(加賀国)の一揆組織(坊主、土豪、農民)が、守護家の内紛と加賀の内乱が故(もと)で、武力蜂起により高尾城(高尾町、金沢)の守護富樫政親を滅ぼし、100年近く自治を行った一揆です。 加賀国は本願寺の領国と見なされ、加賀は「百姓の持ちたる国」(加賀一揆国)と呼ばれました。 これに対し、本願寺の蓮如から、御叱(おしか)りの御文(おふみ)が専光寺(せんこうじ、本町、金沢)に下されましたが、一人の門徒も破門された様子はなかったと言われています。

 この頃の加賀には、蓮如(本願寺8世)の息子が加州3ヶ寺(若松本泉寺、波佐谷松岡寺、山田光教寺)にいて、法主代行として寺院や門徒を統率していました。また、1531年(天文5年)になって、一向一揆体制の内部で指導権をめぐっての争い、享禄の錯乱(大小一揆、一向一揆の内部分裂)が起こっています。また、一向一揆が各地(加賀、能登、越前、越中など)で起こったので、大坂本願寺は、証如(本願寺10世)の時、法主の権限強化を図ろうと教団の改革に着手し、加賀では、加州3ヶ寺を追放、代わって教団の中枢指令機関として、1546年(天文15年)、金沢御堂(かなざわみどう、金沢坊舎、尾山御坊とも金沢城本丸跡)を建て直轄政庁としました。

 金沢御堂は、大坂本願寺の御坊(別院)であったので、完成した坊舎には、大坂本願寺の証如から本尊、仏具が送られてきました。ここは、真宗のみならず加賀の百姓自治の中心(加賀一向一揆の中核組織)でした。これが、現在の東別院(真宗大谷派金沢別院、安江町、金沢)につながっています。

 金沢城の本丸跡周辺には、金沢御堂の遺構として、極楽橋などが残っています。当時、御坊に参詣する人々は、この橋から日本海に沈む夕日を拝み、極楽往生を願ったと言われています。

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金沢御堂遺構極楽橋、金沢城本丸跡周辺、金沢) 

 その後、1580年(天正8年)、織田信長の家来、柴田勝家の下、佐久間盛政らが金沢御堂を攻め、一向一揆勢の拠点を奪い取り、尾山城と名を改め、掘や土塁が築かれ、本能寺の変、賤ヶ岳の戦い豊臣(羽柴)秀吉の支配を経て、1583年(天正11年)、前田利家が入城(金沢城と改名)、加賀藩主、前田氏14代、約280余年間の居城となりました。  

 上記のように、 金沢城は、もと金沢御坊、現在も本丸跡周辺にはその遺構として極楽橋、石の手水鉢などが残っています。当時、御坊に参詣する人々は、この橋から日本海に沈む夕日を拝み、極楽往生を願ったと言う。私はそこを何度も訪れ、そのことを実感しました!

(参考文献) 山本四郎: 京都府の歴史散歩(上)、山川出版社(1990); 石川県の歴史散歩研究会: 石川県の歴史散歩、山川出版(1993); 永原慶二監修、石上英一ほか8名編: 岩波日本史事典、岩波書店(1999); 藤島達朗: 本廟物語、東本願寺の歴史、真宗大谷派宗務所出版部(東本願寺出版部)(2007); 石川県教育委員会事務局文化財課、金沢城研究調査室編; よみがえる金沢城、450年の歴史を歩む、北国新聞社(2006); 梅原猛: 日本仏教をゆく、朝日新聞出版(2009).

(参考資料) 大谷祖廟東大谷、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E7%A5%96%E5%BB%9F&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi ; 

大谷本廟西大谷、google画像): http://images.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&um=1&sa=1&q=%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E6%9C%AC%E5%BB%9F%E3%80%80%E8%A5%BF%E5%A4%A7%E8%B0%B7&btnG=%E7%94%BB%E5%83%8F%E6%A4%9C%E7%B4%A2; 本願寺派浄土真宗、西本願寺): http://www.hongwanji.or.jp/

真宗大谷派金沢別院: http://www.oyama-net.jp/index.html; 真宗本願寺派金沢別院: http://www.incl.ne.jp/honganji/

(追加説明) 

 加賀一向一揆に滅ぼされた富樫政親(12代、室町後期)の先祖は、鎌倉時代の加賀守護、富樫泰家ですが、江戸時代勧進帳(歌舞伎)の安宅の関守として、富樫左右衛門の名で登場しています。

 最近、清水郁夫氏(地方史家、安宅町、小松)によれば、源義経一行が安宅(小松、加賀)を通ったのは、1187年(文治3年)と言われているが、「如意宝珠御修法日記」の裏に記された鎌倉幕府の古文書中の「関東御教書安」には、幕府が、京都の治安維持を担う役職「篝屋守護人」だった富樫泰家から息子への所領(甲賀市、滋賀)の支配相続を認めたと言うことが記されているそうです。

 この御教書案には、正応3年との記載があり、西暦では1290年であり、史料に100年の開きがあり関守、富樫泰家は存在せず、別人ではないかと問題を提起されています。(2009年(平成21年)4月2日(木)、北陸中日新聞、朝刊より

(参考資料) 勧進帳(google画像): http://images.google.co.jp/images?hl=ja&lr=&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&um=1&sa=1&q=%E5%8B%A7%E9%80%B2%E5%B8%B3&btnG=%E7%94%BB%E5%83%8F%E6%A4%9C%E7%B4%A2

安宅の関所(小松、石川google画像): http://images.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%AE%89%E5%AE%85%E3%81%AE%E9%96%A2%E6%89%80&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

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