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2009年11月24日 (火)

土御門上皇(第83代天皇、歌人)の流刑(土佐、阿波)にまつわる歴史伝承、承久の乱、遠流、百種和歌、とは(2009.11.21)

  承久(じょうきゅう)の乱、1221年(承久3年)は、鎌倉幕府の武家(ぶけ)政権が、京都朝廷の公家(くげ)政権を徹底的に打ちのめし、武家により歴史が動く、武者(もののふ)の世(執権北条氏、幕府支配の拡大)とした事件だと言われています。 

 古代(奈良時代)、701年(大宝元年)、わが国の流刑(るけい)は、唐(中国)の永徽律令(えいきりつりょう)を基に、大宝律令(たいほうりつりょう)としてはじめて定められました。

 その後、修正されて養老律令(ようろうりつりょう)となり、五刑の苔(ち)、杖(じょう)、徒(ず)、流(る)、死の中の流は、近流(こんる、越前、安芸、讃岐、阿波など)、中流(ちゅうる、信濃、甲斐、能登、伊予など)、遠流(伊豆、安房、常陸、佐渡、隠岐、土佐など)の三等に分けられ、流刑地名と都(みやこ)からの距離が明記されました。

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京都御所(建礼門 正門、京都、google画像)

(解説) 承久の乱は、後鳥羽上皇(第82代)が、源氏の正統が途絶え、北条氏が台頭してきたので、鎌倉幕府を打倒するため、執権北条義時の追討、関東御家人への直接支配を企画して挙兵、敗走した事件です。幕府は、後鳥羽(ごとば)、土御門(つちみかど、第83代)、順徳(じゅんとく、第84代)の3上皇を、流刑とし、それぞれ隠岐、土佐、佐渡に遠流しました。また、幕府は仲恭(ちゅうきょう、16才、第85代)天皇を廃位し、後堀河(ごほりかわ、10才、第86代)天皇を即位させ、後高倉(ごたかくら)法皇の院政をしきました。

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土御門天皇(1196~1231、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%BE%A1%E9%96%80%E5%A4%A9%E7%9A%87

 為仁親王(のち土御門天皇)は、後鳥羽天皇(第82代)の第一皇子で天皇の譲位により4才で即位、人柄は極めて穏和でしたが、世事には疎かったようです。鎌倉幕府と緊張関係にあった後鳥羽上皇(42才)は、この性格を物足りなく思い、土御門天皇(27才、第83代)に譲位を迫り、弟の才気煥発な守成親王(のち順徳天皇、25才、第84代)を即位させました。

 土御門上皇は、京の都では、後鳥羽上皇、順徳上皇と共に、新古今和歌集の歌人と並び、優れた歌人であり、1216年(健保4年)3月、22才の時、はじめて、百首和歌(土御門院御百首)をまとめられています。和歌については、藤原定家(55才)、藤原家隆(59才)に師事されています。また、土佐、阿波へ遷幸の後、配所で折にふれ詠まれた和歌(枯淡、平明、新古今調、家隆の歌風に近い)を、京都の藤原家隆に送り、点評を求められています。

 土御門上皇は、承久の乱にあたり、時期尚早として、後鳥羽上皇に北条氏討伐を諫められたと言われています。このため、幕府による承久の乱後の処分もなかったのですが、孝心の厚い上皇は、自分だけが京に留まるわけにはいかないと、身から配流を申し出ました。

 幕府は、その必要はないと罪を認めなかったのですが、上皇の強い願いとあって、土佐の配流となりました。その1年半後、幕府は、上皇が京都に近い阿波に移るよう配慮し、阿波の守護、小笠原氏に御所を造営させるなどして厚遇しました。

 なお、土御門上皇の京都から土佐への配流、また、土佐から阿波への遷幸経路、行在所については、伝承が多いようです。    

 土御門上皇は、1221年(承久3年)閏10月、27才、京都から土佐の幡多(畑)に向かう時、山陽道を西へ行かれ、播州の古湊、室津から船出、屋島、白峰の沖を過ぎ、阿波の西部を経て、阿波の南方海岸より土佐に入り、野根山(のねやま、安芸)の道を越える途中、吹雪にあい、うき世にはかかれとてこそ生まれけめ ことはり知らぬわが涙かな、と詠われています。

 1223年(貞応2年)、阿波の守護、小笠原長経は、土御門上皇を阿波へ迎え、新殿を造営しますが、土佐から阿波へ遷る途中、土佐の常楽寺(じょうらくじ、現宝幢院、香美)に滞在し、名月を眺めて、鏡野やたがいつわりの名のみして 恋ふる都の影もうつらず、と都をしのんだ歌を詠まれています。この伝承から、月見山の名が生まれ、山上には、土御門上皇仙跡碑が立っています。

 土佐から阿波への移動経路は、伝承地の分布から、阿波の山城谷村(山城町、三好郡)を経て吉野川沿いを通ったとする説(南海道、四国山脈を横断、阿波西部の山越え後、阿波の行在所へ)、南方海岸沿いの陸路を北上してきた説(南海道、室戸の手前の奈半利から野根山を越え、土佐、阿波の海浜を経て、阿波の行在所へ)などあります。

 また、土御門上皇の阿波の新殿(行在所、あんざいしょ)の所在地についても、諸説があります。はじめ栖養(すがい)の森(古城、板西城の南、下庄の八幡神社付近)に一時滞在したという松木殿(まつきでん)の跡があります。1227年(嘉禄3年)、33才の時、御所屋敷(吉田、土成町、板野郡、のち阿波市)へ移ったと伝えられています。

 御所の地名は、この御所屋敷に因んだものです。この行宮跡には、土御門上皇行宮址、と刻んだ大きな石碑が立っています。ここには上皇の歌碑、秋風の払ひし宿は野となりて、くずのうら葉ぞ庭に残れる、が刻まれています。また、そこにある古井を御所の井と言う。

 この御所屋敷には、上皇を祀る御所神社がありましたが、1957年(昭和32年)、約1km北の山麓にある吹越(ふきこし)神社に合祀され、今はそこが吉田の御所神社と呼ばれています。なお、この御所を中心に、今もこの周辺に残る一条から七条までの地名が京の条坊制にならったとの説もありますが、これは条里制の名残りで、昔は、一条(西、御所)から七条(東、松島)まで、各々村名にもなっていました。

 私は、1955年(昭和30年)4月頃より、自宅(引野、上板町、板野郡)から自転車で1時間ほどかけて、この御所地域を通り、さらに西にある阿波高等学校(柿島村、阿波郡、のち柿原、吉野町、板野郡、のち阿波市)に通学していましたので、当時の風景が、懐かしく思い出されます。

 しかし、行在所は、通例では、守護所の近くに設けられるので、小笠原氏が初期の守護所を勝瑞(しょうずい)に置いたという説に従えば、阿波の土御門上皇の新殿の所在地は、勝瑞とするのが史実に近いと思われます。

 その後、土御門上皇は、阿波の守護所近く、南陽神社あたりの行在所で8年余りの謫居(たくきょ)の後、1231年(寛喜3年)、37才の若さで亡くなったと伝えられています。

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土御門上皇火葬塚(池谷、大麻町、鳴門市、德島、google画像)

 火葬所についても、諸説がありますが、池谷(いけのたに)の古墳塚で火葬にされたと伝えられています。1869年(明治2年)、藩主蜂須賀茂昭(もちあき)がこの地を御陵と決め、また1872年(明治5年)宮内省が再決定し、御火葬塚となりました。

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阿波神社本殿 土御門上皇、御祭神、大麻町、鳴門市、德島、google画像)

 徳島県は、1940年(昭和15年)、紀元2600年の記念事業として、土御門上皇を祭神とする、土御門帝火葬塚のある阿波神社を造営することになり、もと村社の丸山神社を改称して昇格させ、1943年(昭和18年)10月に竣工、阿波神社は県社となりました。 

 土御門上皇には10男9女の皇子女があって、多くは仏門に入りましたが、典侍通子との間の邦仁王のみは仏門に入らず、後堀河天皇(第86代)が23才、また、四条天皇(第87代)が12才で突然崩御しましたので、その後を継ぎ、後嵯峨天皇(第88代)となりました。なお、日蓮宗の開祖日蓮は、この土御門上皇の皇胤、賤民、武家の生まれなど諸説があります。

(参考文献) 藤井喬: 土御門上皇と阿波、土成町観光協会(1975); 山本大、田中歳雄: 四国の風土と歴史、山川出版社(1977); 山本大(監修)、高知県高等学校教育研究会歴史部会: 高知県の歴史散歩、山川出版社(1992); 湯浅良幸編、徳島史学会: 徳島県の歴史散歩、山川出版社(1995); とくしま地域政策研究所編: 吉野川事典、農文協(1999); 永原慶二監修: 日本史事典、岩波書店(1999); 小石房子: 江戸の流刑、平凡社新書(2005); 高森明勅: 歴代天皇事典、PHP文庫(2006); 上田正昭、井上満郎: 平安京の風景、文英堂(2006).

(参考資料) 京都御所(京都、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BE%A1%E6%89%80&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

阿波神社(德島、google画像): http://www.genbu.net/data/awa2/awa_title.htm(玄松子の記憶より); http://www.ooasa.com/kankou/awajinjya.htm(鳴門市大麻町、観光案内より) :

阿波神社(徳島、google画像): http://images.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&um=1&q=%E9%98%BF%E6%B3%A2%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%80%E5%BE%B3%E5%B3%B6&sa=N&start=0&ndsp=20 

 

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