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2009年11月28日 (土)

後醍醐天皇(第96代)の流刑(隠岐)と鎌倉大仏、剣投ぜし(鎌倉幕府滅亡)、露坐の大仏(1498年(明応7年)、明応東海大地震の大津波による大仏殿流出)、とは(2009.11.28)

  七里ヶ浜の磯(いそ)伝い 稲村ヶ埼 名将の 剣(つるぎ)投ぜし古戦場。これは、鎌倉の歌の一番の歌詞ですが、1957年(昭和32年)頃、私が高校の修学旅行で江ノ島、鎌倉を訪れた時、観光バスのガイド嬢に教えてもらった歌で、今でも懐かしく思い出されます。

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鎌倉攻め新田義貞、剣を投ず、稲村ヶ埼、google画像)

(解説) 名将とは、新田義貞(にったよしさだ)、1301年(正安3年)~1338年(建武5年、暦応元年、北朝、延元3年、南朝)のことで、1331年(元弘元年)~1333年(元弘3年、正慶2年)、元弘の乱があり、鎌倉の北条高時(第14代執権)討伐の際、士気をを高めるために、稲村ヶ埼の海に名剣を投じた、という故事に因んだもので、この戦いに敗れた北条氏の鎌倉幕府は滅亡、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)による建武政権の樹立となりました。

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後醍醐天皇(清浄光寺蔵、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87

 後醍醐天皇、1288年(正応元年)~1339年(延元4年、暦応2年)は、天皇親政の理想に燃えて、1324年(正中元年)、37才、大社寺や畿内の小武士団を主力に倒幕で挙兵しましたが敗北(正中の変)、その後1331年(元弘元年)、44才、2度目の倒幕計画が吉田定房の密告により幕府に察知されると、天皇は山城の笠置(かさぎ)に移りました。後醍醐天皇は、笠置陥落後、退位させられ、隠岐島(島根)に流されました。

 翌年末から護良(もりよし)親王、楠木正成らによる倒幕活動が活発化すると、後醍醐天皇は隠岐から伯耆(ほうき)に脱出し、名和(なわ)長利に奉じられました。このような形勢の中、各地で倒幕勢力が蜂起(ほうき)し幕府軍は分裂、1333年(元弘3年、正慶2年)、関東の豪族足利尊氏、新田義貞らが幕府にそむき、1333年(元弘3年、正慶2年)5月、京都の六波羅は尊氏に、その直後、鎌倉は義貞に攻められ、北条一門は全滅、鎌倉幕府は滅亡しました。これを受け、同月後醍醐天皇(46才)は帰京、復位して建武新政府を樹立しました。その後、足利尊氏の反乱もあって、建武の政権は2年半ほどで幕を閉じ、1338年(延元3年、暦応元年)、足利氏による室町幕府の樹立となっています。

 極楽寺坂越え行けば 長谷観音の堂近く 露坐(ろざ)の大仏おわします。これは、鎌倉の歌の二番の歌詞ですが、風雨に曝(さら)された大仏の姿を詠っています。

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鎌倉大仏(高徳院、長谷、鎌倉、google画像)

(解説) 鎌倉大仏(かまくらだいぶつ)は、高徳院(こうとくいん、長谷)にある阿弥柁如来像のことで、長谷(はせ)の大仏とも呼ばれています。青銅像の阿弥陀如来坐像の像高は12.4mです。僧淨光の勧進によって1238年(嘉禎4年)3月に大仏堂の事始めがあり、1243年(寛元元年)、木造阿弥柁如来像が造立され、4年後に台風で倒壊、1252年(建長4年)、現在の青銅像に鋳直されています。運慶様式(平安時代)を基本に、宋代(中国)美術様式を加味した鎌倉地方様式の仏像と言われています。

 この大仏殿は、1498年(明応7年)8月25日、明応東海大地震(マグニチュード、8.2~8.4)が起こり、大津波が来襲(推定、死者3~4万人以上)、大仏殿も海へ押し流され、その後、再建されず、現在に至っています。

 鎌倉(芳賀矢一作詞、作曲者不詳)の歌詞は、一番から八番まで、古都鎌倉の名所旧跡が詠われていて、1910年(明治43年)、尋常小学唱歌として登場、3年後には尋常小学読本の教材として取り上げられ、音楽国語の両方で習うことになっていました。しかし戦後、教科書から鎌倉は姿を消し、いつの間にか忘れられていったと言われています。  

三、由比の浜辺を右に見て  雪の下村過(すぎ)行けば 八幡宮の御社(おんやしろ)。四、上るや石のきざはしの 左に高き大銀杏(いちょう) 問わばや遠き世々の跡。五、若宮堂の舞の袖 しずのおだまきくりかえし 返せし人をしのびつつ。六、鎌倉宮にもうでては 尽きせぬ親王(みこ)のみうらみに 悲憤(ひふん)の涙わきぬべし。七、歴史は長き七百年(しちひゃくねん) 興亡すべてゆめに似て 英雄墓はこけ蒸(む)しぬ。八、建長円覚(えんがく)古寺(ふるでら)の 山門高き松風(まつかぜ)に 昔の音やこもるらん。

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鎌倉大仏(高徳院、長谷、鎌倉、 大仏の横顔、 大仏の台座下、石垣周辺のホンモンジゴケ) 

 その後、1991年(平成3年)、1999年(平成11年)、鎌倉を2回ほど訪れましたが、露坐の大仏酸性雨の影響を受け、銅像の緑青が溶解し、台座下の石垣周辺には、銅に耐性のあるコケ植物、ホンモンジゴケが群生しているのが見られました。また、このコケが多量の蓄積していることを確認しました。 .

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 永原慶二監修: 日本史事典、岩波書店(1999); 高森明勅: 歴代天皇事典、PHP研究所(2006); 合田道人: 鎌倉(文部省唱歌)、童謡の風景、103、北陸中日新聞朝刊、2009年、4月21日(火); 織田樹郎、本浄高治: 重金属汚染地域の金属耐性コケ植物ータチゴケ、ホンモンジゴケ及びキヘチマゴケにおける銅、鉛及び亜鉛のキャラクタリゼーション-(英文)、植物地理・分類研究、43巻、p.91(1995).

(参考資料) 鎌倉(唱歌): https://www.youtube.com/watch?v=Zsuf9g_g2tk; https://www.youtube.com/watch?v=RXsC4tMgCZI

新田義貞(鎌倉攻め、google画像): http://images.google.co.jp/images?hl=ja&q=%E6%96%B0%E7%94%B0%E7%BE%A9%E8%B2%9E%20%E9%8E%8C%E5%80%89%E6%94%BB%E3%82%81&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

鎌倉攻め(新田義貞、稲村ヶ埼、剣を投ずる): http://www7a.biglobe.ne.jp/~kyukaidou-tougemichi/kama-k-zeme.html

鎌倉大仏(鎌倉大仏殿 地震 津波流失、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%A4%A7%E4%BB%8F%E6%AE%BF%E3%80%80%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%80%80%E6%B4%A5%E6%B3%A2%E6%B5%81%E5%A4%B1&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

○ 後醍醐天皇による「建武の新政」は、武士の不満(持ち主が20年以上支配している土地の権利は変更できないという武士社会の法、年紀法の無視)が噴出して、3年崩壊しました。武士の声望を集める足利尊氏北朝(光明天皇、京都)後醍醐天皇南朝(吉野、奈良)の戦いが始まりました。

○ 新田義貞は、1333年(元弘3年、正慶2年)鎌倉に入って北条氏を滅ぼし、佐兵衛督に任じられ、1336年(延元元年、建武3年)足利尊氏を九州に走らせたが、東上した尊氏を兵庫に防いで敗れました。

○ 金崎(かねがさき)の戦とは、1336年(延元元年、建武3年)10月、後醍醐天皇の命で恒良(つねよし)、尊良(たかよし)両親王を奉じて越前に下った新田義貞が籠城した金崎城(敦賀、福井)を、足利方の斯波(しば)高経、高師泰(こうのもろやす)が攻めた戦いです。翌年、義貞脱出後に落城、尊良親王は自害し、恒良親王は毒殺されたという。

 藤島(ふじしま)の戦とは、1338年(延元3年、建武5年)閏7月、越前国藤島(福井)において南朝方の新田義貞と足利側の越前守護、斯波高経軍とが戦った戦闘です。金崎城落城後、越前国府を占領した義貞は、高経方の藤島城攻撃中に、灯明寺畷(なわて)で高経軍の軍勢と遭遇し討死しました。(永原慶二監修: 日本史事典、岩波書店(1999)より)

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