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2009年11月の4件の記事

2009年11月28日 (土)

後醍醐天皇(第96代)の流刑(隠岐)と鎌倉大仏、剣投ぜし(鎌倉幕府滅亡)、露坐の大仏(1498年(明応7年)、明応東海大地震の大津波による大仏殿流出)、とは(2009.11.28)

  七里ヶ浜の磯(いそ)伝い 稲村ヶ埼 名将の 剣(つるぎ)投ぜし古戦場。これは、鎌倉の歌の一番の歌詞ですが、1957年(昭和32年)頃、私が高校の修学旅行で江ノ島、鎌倉を訪れた時、観光バスのガイド嬢に教えてもらった歌で、今でも懐かしく思い出されます。

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鎌倉攻め新田義貞、剣を投ず、稲村ヶ埼、google画像)

(解説) 名将とは、新田義貞(にったよしさだ)、1301年(正安3年)~1338年(建武5年、暦応元年、北朝、延元3年、南朝)のことで、1331年(元弘元年)~1333年(元弘3年、正慶2年)、元弘の乱があり、鎌倉の北条高時(第14代執権)討伐の際、士気をを高めるために、稲村ヶ埼の海に名剣を投じた、という故事に因んだもので、この戦いに敗れた北条氏の鎌倉幕府は滅亡、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)による建武政権の樹立となりました。

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後醍醐天皇(清浄光寺蔵、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87

 後醍醐天皇、1288年(正応元年)~1339年(延元4年、暦応2年)は、天皇親政の理想に燃えて、1324年(正中元年)、37才、大社寺や畿内の小武士団を主力に倒幕で挙兵しましたが敗北(正中の変)、その後1331年(元弘元年)、44才、2度目の倒幕計画が吉田定房の密告により幕府に察知されると、天皇は山城の笠置(かさぎ)に移りました。後醍醐天皇は、笠置陥落後、退位させられ、隠岐島(島根)に流されました。

 翌年末から護良(もりよし)親王、楠木正成らによる倒幕活動が活発化すると、後醍醐天皇は隠岐から伯耆(ほうき)に脱出し、名和(なわ)長利に奉じられました。このような形勢の中、各地で倒幕勢力が蜂起(ほうき)し幕府軍は分裂、1333年(元弘3年、正慶2年)、関東の豪族足利尊氏、新田義貞らが幕府にそむき、1333年(元弘3年、正慶2年)5月、京都の六波羅は尊氏に、その直後、鎌倉は義貞に攻められ、北条一門は全滅、鎌倉幕府は滅亡しました。これを受け、同月後醍醐天皇(46才)は帰京、復位して建武新政府を樹立しました。その後、足利尊氏の反乱もあって、建武の政権は2年半ほどで幕を閉じ、1338年(延元3年、暦応元年)、足利氏による室町幕府の樹立となっています。

 極楽寺坂越え行けば 長谷観音の堂近く 露坐(ろざ)の大仏おわします。これは、鎌倉の歌の二番の歌詞ですが、風雨に曝(さら)された大仏の姿を詠っています。

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鎌倉大仏(高徳院、長谷、鎌倉、google画像)

(解説) 鎌倉大仏(かまくらだいぶつ)は、高徳院(こうとくいん、長谷)にある阿弥柁如来像のことで、長谷(はせ)の大仏とも呼ばれています。青銅像の阿弥陀如来坐像の像高は12.4mです。僧淨光の勧進によって1238年(嘉禎4年)3月に大仏堂の事始めがあり、1243年(寛元元年)、木造阿弥柁如来像が造立され、4年後に台風で倒壊、1252年(建長4年)、現在の青銅像に鋳直されています。運慶様式(平安時代)を基本に、宋代(中国)美術様式を加味した鎌倉地方様式の仏像と言われています。

 この大仏殿は、1498年(明応7年)8月25日、明応東海大地震(マグニチュード、8.2~8.4)が起こり、大津波が来襲(推定、死者3~4万人以上)、大仏殿も海へ押し流され、その後、再建されず、現在に至っています。

 鎌倉(芳賀矢一作詞、作曲者不詳)の歌詞は、一番から八番まで、古都鎌倉の名所旧跡が詠われていて、1910年(明治43年)、尋常小学唱歌として登場、3年後には尋常小学読本の教材として取り上げられ、音楽国語の両方で習うことになっていました。しかし戦後、教科書から鎌倉は姿を消し、いつの間にか忘れられていったと言われています。  

三、由比の浜辺を右に見て  雪の下村過(すぎ)行けば 八幡宮の御社(おんやしろ)。四、上るや石のきざはしの 左に高き大銀杏(いちょう) 問わばや遠き世々の跡。五、若宮堂の舞の袖 しずのおだまきくりかえし 返せし人をしのびつつ。六、鎌倉宮にもうでては 尽きせぬ親王(みこ)のみうらみに 悲憤(ひふん)の涙わきぬべし。七、歴史は長き七百年(しちひゃくねん) 興亡すべてゆめに似て 英雄墓はこけ蒸(む)しぬ。八、建長円覚(えんがく)古寺(ふるでら)の 山門高き松風(まつかぜ)に 昔の音やこもるらん。

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鎌倉大仏(高徳院、長谷、鎌倉、 大仏の横顔、 大仏の台座下、石垣周辺のホンモンジゴケ) 

 その後、1991年(平成3年)、1999年(平成11年)、鎌倉を2回ほど訪れましたが、露坐の大仏酸性雨の影響を受け、銅像の緑青が溶解し、台座下の石垣周辺には、銅に耐性のあるコケ植物、ホンモンジゴケが群生しているのが見られました。また、このコケが多量の蓄積していることを確認しました。 .

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 永原慶二監修: 日本史事典、岩波書店(1999); 高森明勅: 歴代天皇事典、PHP研究所(2006); 合田道人: 鎌倉(文部省唱歌)、童謡の風景、103、北陸中日新聞朝刊、2009年、4月21日(火); 織田樹郎、本浄高治: 重金属汚染地域の金属耐性コケ植物ータチゴケ、ホンモンジゴケ及びキヘチマゴケにおける銅、鉛及び亜鉛のキャラクタリゼーション-(英文)、植物地理・分類研究、43巻、p.91(1995).

(参考資料) 鎌倉(唱歌): https://www.youtube.com/watch?v=Zsuf9g_g2tk; https://www.youtube.com/watch?v=RXsC4tMgCZI

新田義貞(鎌倉攻め、google画像): http://images.google.co.jp/images?hl=ja&q=%E6%96%B0%E7%94%B0%E7%BE%A9%E8%B2%9E%20%E9%8E%8C%E5%80%89%E6%94%BB%E3%82%81&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

鎌倉攻め(新田義貞、稲村ヶ埼、剣を投ずる): http://www7a.biglobe.ne.jp/~kyukaidou-tougemichi/kama-k-zeme.html

鎌倉大仏(鎌倉大仏殿 地震 津波流失、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%A4%A7%E4%BB%8F%E6%AE%BF%E3%80%80%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%80%80%E6%B4%A5%E6%B3%A2%E6%B5%81%E5%A4%B1&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

○ 後醍醐天皇による「建武の新政」は、武士の不満(持ち主が20年以上支配している土地の権利は変更できないという武士社会の法、年紀法の無視)が噴出して、3年崩壊しました。武士の声望を集める足利尊氏北朝(光明天皇、京都)後醍醐天皇南朝(吉野、奈良)の戦いが始まりました。

○ 新田義貞は、1333年(元弘3年、正慶2年)鎌倉に入って北条氏を滅ぼし、佐兵衛督に任じられ、1336年(延元元年、建武3年)足利尊氏を九州に走らせたが、東上した尊氏を兵庫に防いで敗れました。

○ 金崎(かねがさき)の戦とは、1336年(延元元年、建武3年)10月、後醍醐天皇の命で恒良(つねよし)、尊良(たかよし)両親王を奉じて越前に下った新田義貞が籠城した金崎城(敦賀、福井)を、足利方の斯波(しば)高経、高師泰(こうのもろやす)が攻めた戦いです。翌年、義貞脱出後に落城、尊良親王は自害し、恒良親王は毒殺されたという。

 藤島(ふじしま)の戦とは、1338年(延元3年、建武5年)閏7月、越前国藤島(福井)において南朝方の新田義貞と足利側の越前守護、斯波高経軍とが戦った戦闘です。金崎城落城後、越前国府を占領した義貞は、高経方の藤島城攻撃中に、灯明寺畷(なわて)で高経軍の軍勢と遭遇し討死しました。(永原慶二監修: 日本史事典、岩波書店(1999)より)

2009年11月24日 (火)

土御門上皇(第83代天皇、歌人)の流刑(土佐、阿波)にまつわる歴史伝承、承久の乱、遠流、百種和歌、とは(2009.11.21)

  承久(じょうきゅう)の乱、1221年(承久3年)は、鎌倉幕府の武家(ぶけ)政権が、京都朝廷の公家(くげ)政権を徹底的に打ちのめし、武家により歴史が動く、武者(もののふ)の世(執権北条氏、幕府支配の拡大)とした事件だと言われています。 

 古代(奈良時代)、701年(大宝元年)、わが国の流刑(るけい)は、唐(中国)の永徽律令(えいきりつりょう)を基に、大宝律令(たいほうりつりょう)としてはじめて定められました。

 その後、修正されて養老律令(ようろうりつりょう)となり、五刑の苔(ち)、杖(じょう)、徒(ず)、流(る)、死の中の流は、近流(こんる、越前、安芸、讃岐、阿波など)、中流(ちゅうる、信濃、甲斐、能登、伊予など)、遠流(伊豆、安房、常陸、佐渡、隠岐、土佐など)の三等に分けられ、流刑地名と都(みやこ)からの距離が明記されました。

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京都御所(建礼門 正門、京都、google画像)

(解説) 承久の乱は、後鳥羽上皇(第82代)が、源氏の正統が途絶え、北条氏が台頭してきたので、鎌倉幕府を打倒するため、執権北条義時の追討、関東御家人への直接支配を企画して挙兵、敗走した事件です。幕府は、後鳥羽(ごとば)、土御門(つちみかど、第83代)、順徳(じゅんとく、第84代)の3上皇を、流刑とし、それぞれ隠岐、土佐、佐渡に遠流しました。また、幕府は仲恭(ちゅうきょう、16才、第85代)天皇を廃位し、後堀河(ごほりかわ、10才、第86代)天皇を即位させ、後高倉(ごたかくら)法皇の院政をしきました。

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土御門天皇(1196~1231、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%BE%A1%E9%96%80%E5%A4%A9%E7%9A%87

 為仁親王(のち土御門天皇)は、後鳥羽天皇(第82代)の第一皇子で天皇の譲位により4才で即位、人柄は極めて穏和でしたが、世事には疎かったようです。鎌倉幕府と緊張関係にあった後鳥羽上皇(42才)は、この性格を物足りなく思い、土御門天皇(27才、第83代)に譲位を迫り、弟の才気煥発な守成親王(のち順徳天皇、25才、第84代)を即位させました。

 土御門上皇は、京の都では、後鳥羽上皇、順徳上皇と共に、新古今和歌集の歌人と並び、優れた歌人であり、1216年(健保4年)3月、22才の時、はじめて、百首和歌(土御門院御百首)をまとめられています。和歌については、藤原定家(55才)、藤原家隆(59才)に師事されています。また、土佐、阿波へ遷幸の後、配所で折にふれ詠まれた和歌(枯淡、平明、新古今調、家隆の歌風に近い)を、京都の藤原家隆に送り、点評を求められています。

 土御門上皇は、承久の乱にあたり、時期尚早として、後鳥羽上皇に北条氏討伐を諫められたと言われています。このため、幕府による承久の乱後の処分もなかったのですが、孝心の厚い上皇は、自分だけが京に留まるわけにはいかないと、身から配流を申し出ました。

 幕府は、その必要はないと罪を認めなかったのですが、上皇の強い願いとあって、土佐の配流となりました。その1年半後、幕府は、上皇が京都に近い阿波に移るよう配慮し、阿波の守護、小笠原氏に御所を造営させるなどして厚遇しました。

 なお、土御門上皇の京都から土佐への配流、また、土佐から阿波への遷幸経路、行在所については、伝承が多いようです。    

 土御門上皇は、1221年(承久3年)閏10月、27才、京都から土佐の幡多(畑)に向かう時、山陽道を西へ行かれ、播州の古湊、室津から船出、屋島、白峰の沖を過ぎ、阿波の西部を経て、阿波の南方海岸より土佐に入り、野根山(のねやま、安芸)の道を越える途中、吹雪にあい、うき世にはかかれとてこそ生まれけめ ことはり知らぬわが涙かな、と詠われています。

 1223年(貞応2年)、阿波の守護、小笠原長経は、土御門上皇を阿波へ迎え、新殿を造営しますが、土佐から阿波へ遷る途中、土佐の常楽寺(じょうらくじ、現宝幢院、香美)に滞在し、名月を眺めて、鏡野やたがいつわりの名のみして 恋ふる都の影もうつらず、と都をしのんだ歌を詠まれています。この伝承から、月見山の名が生まれ、山上には、土御門上皇仙跡碑が立っています。

 土佐から阿波への移動経路は、伝承地の分布から、阿波の山城谷村(山城町、三好郡)を経て吉野川沿いを通ったとする説(南海道、四国山脈を横断、阿波西部の山越え後、阿波の行在所へ)、南方海岸沿いの陸路を北上してきた説(南海道、室戸の手前の奈半利から野根山を越え、土佐、阿波の海浜を経て、阿波の行在所へ)などあります。

 また、土御門上皇の阿波の新殿(行在所、あんざいしょ)の所在地についても、諸説があります。はじめ栖養(すがい)の森(古城、板西城の南、下庄の八幡神社付近)に一時滞在したという松木殿(まつきでん)の跡があります。1227年(嘉禄3年)、33才の時、御所屋敷(吉田、土成町、板野郡、のち阿波市)へ移ったと伝えられています。

 御所の地名は、この御所屋敷に因んだものです。この行宮跡には、土御門上皇行宮址、と刻んだ大きな石碑が立っています。ここには上皇の歌碑、秋風の払ひし宿は野となりて、くずのうら葉ぞ庭に残れる、が刻まれています。また、そこにある古井を御所の井と言う。

 この御所屋敷には、上皇を祀る御所神社がありましたが、1957年(昭和32年)、約1km北の山麓にある吹越(ふきこし)神社に合祀され、今はそこが吉田の御所神社と呼ばれています。なお、この御所を中心に、今もこの周辺に残る一条から七条までの地名が京の条坊制にならったとの説もありますが、これは条里制の名残りで、昔は、一条(西、御所)から七条(東、松島)まで、各々村名にもなっていました。

 私は、1955年(昭和30年)4月頃より、自宅(引野、上板町、板野郡)から自転車で1時間ほどかけて、この御所地域を通り、さらに西にある阿波高等学校(柿島村、阿波郡、のち柿原、吉野町、板野郡、のち阿波市)に通学していましたので、当時の風景が、懐かしく思い出されます。

 しかし、行在所は、通例では、守護所の近くに設けられるので、小笠原氏が初期の守護所を勝瑞(しょうずい)に置いたという説に従えば、阿波の土御門上皇の新殿の所在地は、勝瑞とするのが史実に近いと思われます。

 その後、土御門上皇は、阿波の守護所近く、南陽神社あたりの行在所で8年余りの謫居(たくきょ)の後、1231年(寛喜3年)、37才の若さで亡くなったと伝えられています。

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土御門上皇火葬塚(池谷、大麻町、鳴門市、德島、google画像)

 火葬所についても、諸説がありますが、池谷(いけのたに)の古墳塚で火葬にされたと伝えられています。1869年(明治2年)、藩主蜂須賀茂昭(もちあき)がこの地を御陵と決め、また1872年(明治5年)宮内省が再決定し、御火葬塚となりました。

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阿波神社本殿 土御門上皇、御祭神、大麻町、鳴門市、德島、google画像)

 徳島県は、1940年(昭和15年)、紀元2600年の記念事業として、土御門上皇を祭神とする、土御門帝火葬塚のある阿波神社を造営することになり、もと村社の丸山神社を改称して昇格させ、1943年(昭和18年)10月に竣工、阿波神社は県社となりました。 

 土御門上皇には10男9女の皇子女があって、多くは仏門に入りましたが、典侍通子との間の邦仁王のみは仏門に入らず、後堀河天皇(第86代)が23才、また、四条天皇(第87代)が12才で突然崩御しましたので、その後を継ぎ、後嵯峨天皇(第88代)となりました。なお、日蓮宗の開祖日蓮は、この土御門上皇の皇胤、賤民、武家の生まれなど諸説があります。

(参考文献) 藤井喬: 土御門上皇と阿波、土成町観光協会(1975); 山本大、田中歳雄: 四国の風土と歴史、山川出版社(1977); 山本大(監修)、高知県高等学校教育研究会歴史部会: 高知県の歴史散歩、山川出版社(1992); 湯浅良幸編、徳島史学会: 徳島県の歴史散歩、山川出版社(1995); とくしま地域政策研究所編: 吉野川事典、農文協(1999); 永原慶二監修: 日本史事典、岩波書店(1999); 小石房子: 江戸の流刑、平凡社新書(2005); 高森明勅: 歴代天皇事典、PHP文庫(2006); 上田正昭、井上満郎: 平安京の風景、文英堂(2006).

(参考資料) 京都御所(京都、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BE%A1%E6%89%80&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

阿波神社(德島、google画像): http://www.genbu.net/data/awa2/awa_title.htm(玄松子の記憶より); http://www.ooasa.com/kankou/awajinjya.htm(鳴門市大麻町、観光案内より) :

阿波神社(徳島、google画像): http://images.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&um=1&q=%E9%98%BF%E6%B3%A2%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%80%E5%BE%B3%E5%B3%B6&sa=N&start=0&ndsp=20 

 

2009年11月13日 (金)

空海(弘法大師)と書(風信帖、飛白書、雑体書)、五筆和尚、筆の誤り、筆を選ばず、とは(2009.11.13)

  古代(平安時代)、三人の優れた書道家、空海(弘法大師、くうかい)、橘逸勢(たちばなのはやなり)、嵯峨天皇(さがてんのう)は、三筆(さんぴつ)と呼ばれています。

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空海弘法大師真言宗、密教修験道 ): http://www.cnet-ga.ne.jp/kenta/mitsu/shingon.html

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王羲之(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E7%BE%B2%E4%B9%8B王羲之(画像、東京国立博物館展示、東京):http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1569

 空海(弘法大師)は、真言密教宗祖ですが、幼少より書に親しみ、王義之(おうぎし、中国)の書を学んでいます。遣唐使の留学僧として入唐後、多くの書論を読み、能筆家とも交わり、知識と技能を吸収し、三体楷書(かいしょ)、行書(ぎょうしょ)、草書(そうしょ)のほか、篆書(てんしょ)、隷書(れいしょ)、飛白書(ひはくしょ)、雑体書(ざったいしょ)まで、幅広く勉強して帰国しました。空海の書の特徴は、書域の広さ、思想や書論に裏付けられた奥の深さにあると言われています。

 空海から天台宗の宗祖最澄に宛てた、風信帖(ふうしんじょう、東寺)と呼ばれている、消息(手紙)は、最も有名な真蹟(しんせき)です。811年(弘仁2年)~813年(弘仁4年)頃、王義之(おうぎし)の書風を根底にした書写と言われています。

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風信帖(国宝、空海(弘法大師)、東寺(教王護国寺)、京都)

(訓読) 風信帖 風信雲書(ふうしんうんしょ)、天より翔臨(しょうりん)す。これを披(ひら)きこれを閲(けみ)するに、雲務(うんむ)を掲(かか)ぐるがごとし。兼ねて止観(しかん)の妙門(みょうもん)を恵まる。頂戴供養(ちょうだいくよう)し、おく攸(ところ)を知らず。すでに冷(れい)なり。伏して惟(おもん)みるに、法体如何(ほうたいいかん)。空海、推しはかること常なり。命(めい)に随いて、かの嶺(みね)に躋攀(せいはん)せんことを擬(ぎ)す。限るに少願を以てするも、東西すること能(あた)わず。今思うに、我金蘭(きんらん)及び室山(しつさん)と一処に集会し、仏法の大事因縁(だいじいんねん)を商量し、共に法幢(ほうとう)を建てて、仏の恩徳に報ぜん。望むらくは、煩労(はんろう)を憚(はば)からず、暫(しばら)くこの院に降赴(こうふ)せられんことを。これ望むところ、望むところ。忩々(そうそう)不具。釈空海状上。 九月十一日  東嶺金蘭(とうれいのきんらん) 法前 謹空 

(大意) お手紙をいただき拝読いたしますと、まるで眼前にたちこめた雲や霧が消えていくような気持ちになります。摩訶止観をご恵贈いただきありがとうございました。身のおきどころもないほどうれしいです。仰せに従って叡山に登りたいのですが、ひそかなる修禅に所定の期間を要し時間がなくて出かけられません。できれば室生寺の修円師と共にあなたとお話ししたく思っています。仏法のあるべきようについて相はかり、相ともに同じ旗印をかかげて、仏の恩徳に報いたいと存じます。ご足労ですが私の寺院へお越し下さい。

 雑体書とは、主として古文(金文)、篆隷(てんれい)から変化して起こった一種の装飾文字を総称していった言葉です。太陽、月、星、雲、山川草木、鳥、獣、虫、魚など、自然の物象を借りて、それらを文字の中に組み入れて作った文字を指し、それによって人間の思想や感情の表現を試みたものです。

 飛白書は、漢字の書体の一つで、刷毛(はけ)筆でかすれ書きにしたもので、広く解釈すれば雑体書の一つと言えます。後漢の蔡邕(さいよう)の作と言う。宮殿、神社などの扁額(へんがく、横に長い額)に用いられました。

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雑体書(十如是、部分)

 空海の著書、聾瞽指帰(ろうこしいき)には、雑体書法(飛白書含む)が見られるので、空海は入唐以前から雑体書に関心を持っていたと思われます。また、空海は、長安でより多くの書論を学ぶうちに、極めて特殊な雑体書飛白書の魅力にとりつかれ、密教の思想、人間の姿や感情を書で表現するのに最適と考えて、積極的にその書法を学びました。性霊集(巻四)で、飛白の書一巻、亦是れ在唐の日、一(ひと)たび此の体をみて試みに之を書す、とあり、別の項でも雑体書について詳しく述べています。そして帰朝後、嵯峨天皇に請来した、鳥獣の飛白一巻を献納しています。

 空海(弘法大師)の伝説、五筆(ごひつ)は、両手、両足及び口に筆をくわえて文字を書くことで、これを創(はじ)めたとされる弘法大師を、五筆和尚(おしょう)という。空海は、在唐中、その文章に卓抜した才を発揮されたばかりでなく、書においても皇帝から、五筆和尚、と称され、また送別の詩で、日本三藏空海上人は梵書(ぼんしょ)を能くし八体に工(たく)み、と賞賛されたと言われています。

 また、空海(弘法大師)の諺、弘法にも筆の誤りは、学芸に長じた者にも、時には誤りがあるという喩(たと)えで、猿も木から落ちる、と同じです。

 弘法筆を選(択、えら)ばずは、文字を書くのが上手な人は、筆のよしあしを問わないという喩えで、能書(のうしょ、のうじょ)筆を選ばず、と同じです。

 空海の書師、王義之(おうぎし、中国)、307?~365?は、東晋時代の官人、能筆家で、行書、草書にとくに優れ、書聖として、日本でも奈良時代には、尊重されていました。また、顔真卿(がんしんけい)、709~785?は、唐の官人、能筆家で、その書は王義之流に対し、隷書を楷書に取り入れた筆法で、新潮流を開き、空海の書に影響を与えたとみる説もあります。

(参考文献) 東寺(教王護国寺)宝物館編: 秋季特別公開図録、弘法大師の書とその周辺、便利堂(1987); 新村出編: 広辞苑、第四版、岩波書店(1991); 永原慶二監修: 日本史事典、岩波書店(1999); 高木訷元、岡村圭真編: 日本の名僧、空海、密教の聖者、吉川弘文館(2003); 木本南邨: 弘法大師空海、人と書、朱鷺書房(2003).

(参考資料) 三筆、三碩(京都市歴史資料館、文化史02): http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/bunka02.html#1

風信帖(空海): http://images.google.co.jp/imglanding?imgurl=http://ofda.jp/column/image/fuusinjyogen.jpg&imgrefurl=http://ofda.jp/column/2006/01/&usg=__wIIQ16DWK2C_gvqgpZmiryxmYQE%3D&h=641&w=1233&sz=88&hl=ja&um=1&tbnid=QAvUqRNWsJ82aM:&tbnh=78&tbnw=150&prev=/images%3Fq%3D%25E9%25A2%25A8%25E4%25BF%25A1%25E5%25B8%2596%2B%25E7%25A9%25BA%25E6%25B5%25B7%26hl%3Dja%26rlz%3D1T4GGIH_jaJP278JP279%26sa%3DN%26um%3D1&q=%E9%A2%A8%E4%BF%A1%E5%B8%96+%E7%A9%BA%E6%B5%B7&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&sa=N&um=1&start=6

雑体書(空海、飛白書含む、小林堂雑稿): http://blog.livedoor.jp/shorindo3/archives/2006-08.html

飛白体(好古斎):http://holms727.cocolog-nifty.com/blog/cat35228883/index.html

空海(書風、google画像): https://www.google.co.jp/search?q=%E7%A9%BA%E6%B5%B7%E3%80%80%E6%9B%B8%E9%A2%A8&hl=ja&rlz=1T4GGNI_jaJP523JP523&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=_WFNUoCeLsLClAWV-oDACA&ved=0CDcQsAQ&biw=1366&bih=588&dpr=1

王義之(書風、google画像):  http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E7%8E%8B%E7%BE%B2%E4%B9%8B&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

顔真卿(書風、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E9%A1%94%E7%9C%9F%E5%8D%BF%EF%BC%88&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

性霊集(飛白書、空海、google画像): http://images.google.co.jp/images?gbv=2&hl=ja&sa=1&q=%E6%80%A7%E9%9C%8A%E9%9B%86%E3%80%80%E9%A3%9B%E7%99%BD&btnG=%E7%94%BB%E5%83%8F%E6%A4%9C%E7%B4%A2&aq=f&oq=&start=0

真理の花たば(第三十号): カレンダー平成十八年度(飛白書、雑体書、四国六番安楽寺 弘法大師講本部) 弘法大師著書、秘蔵寶鑰(ひぞうほうやく)より

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春種不下 秋實何獲 (はるのたねをくださずんば、あきのみをいかんがえん)、始めなければ何も始まらない  平成18年(2006年)7月 四国六番安楽寺 山主 畠田秀峰 竹筆書   

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畠田秀峰四国六番安楽寺 山主、google画像検索): https://www.google.co.jp/search?q=%E7%95%A0%E7%94%B0%E7%A7%80%E5%B3%B0+%E7%94%BB%E5%83%8F&hl=ja&rlz=1T4GGNI_jaJP523JP523&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=xmRNUumXOYzFkwWF1oGQBw&ved=0CCsQsAQ&biw=1366&bih=588&dpr=1

(解説) 弘法大師は、空海筆を下せば文成り、書法に於いて最もその妙を得たり、と続日本後記(835年、承和2年)にあるが、今に至っても書道においては弘法大師の右に出る人はいないといわれている。 

 その大師の末徒として、大師の書蹟を鑑賞し、学ぶことは最もよろこびとするところであり、筆を持ち遊びはじめてもう三十五年になろうとしているが、いまだに納得のゆく線の引けないままである。 

 此度、精進の筆、竹のみを使用した竹筆を用いた。この文は、弘法大師ののこされた秘蔵寶鑰の中から選んだもので、意味がわかりやすいように現代語訳を下に添えることにした。

 お盆の頃、安楽寺を訪れた時、真理の花たばのカレンダーを畠田秀峰住職から拝受、いろいろご教示いただきました。

○ 永字八法(えいじはっぽう)  書法伝授の一法。「永」の一字で、すべての文字に共通する八種の運筆法。側(そく、点の祖)・勒(ろく、横画の祖)・努(ど、縦画の祖)・趯(てき、跳の祖)・策(さく、短横画の祖)・掠(りゃく、撤の祖)・啄(たく、短撤の祖)・磔(たく、捺の祖)の八種を示したもの。中国の後漢の蔡邕(さいよう、132~192)の考案?という。 永字八法(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%AD%97%E5%85%AB%E6%B3%95. 蔡邕(さいよう、132~192):http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0na/07141000/

2009年11月 4日 (水)

白山スーパー林道(石川)の蛇谷渓谷と紅葉(こうよう)、秋の夕日に照る山紅葉(やまもみじ)、冬芽、落葉帰根、とは(2009.11.4)

   白山スーパー林道(石川)の蛇谷渓谷は、紅葉の名所ともなっていますが、その主な樹種は、ブナ、イタヤカエデ、ナナカマド、ヤマウルシと言われています。白山スーパー林道(特定森林地域開発林道、総延長33.3km)は、石川と岐阜を含む未開発森林資源の開発を目的として、1967年(昭和42年)に着工、1977年(昭和52年)8月に開通しました。

 白山麓の中宮、尾添(白山市、石川)から白川郷、鳩ヶ谷(大野郡、岐阜)まで、全線2車線(幅6.5m)で、通常は、6月5日から11月10日まで通行できます。白川郷と近くの五箇山(南砺市、富山)の合掌造り集落は、1995年(平成7年)12月9日、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されています。

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白山スーパー林道の紅葉(蛇谷渓谷、じゃだにけいこく、石川)

 秋になると、気候の変化のため、葉中に生理的な反応が起こって、大体の落葉樹(モミジ、ケヤキ、イチョウ、ブナなど)は赤(紅葉)、黄(黄葉)、橙(褐葉)などに色づきます。その種類は多いのですが、中でも鮮麗なのが紅葉(こうよう、もみじ、カエデ科の落葉樹)、楓(ふう、かえで、マンサク科の落葉樹)です。一般に新緑にすぐれた土地は紅葉にもすぐれています。秋も深まり、気温が10℃以下で色づき始め、霜が降りるようになると、紅葉は一段とあざやかさを増します。

 有名な童謡唱歌紅葉(もみじ)は、信州(長野)の高野辰之作詞、岡野貞一作曲の作品です。この詩は、高野博士が郷里と東京を往復するのに使った信越本線、熊ノ平駅付近から見た風景を詠んだと言われています。1911年(明治44年)刊行の尋常小学校唱歌(二)に発表されました。紅葉(もみじ)には、ヤマンモミジ、イロハモミジなどの種があり、ここでは、秋の夕日に照らされた美しい山紅葉(ヤマモミジ)、また、松の緑と楓(かえで)及び蔦(つた)の紅葉と織りなす山麓の美しい風景を詠っていると感じました。

 秋の夕日に照る山紅葉(やまもみじ)  濃いも薄いも数ある中で  松を色どる 楓(かえで)や蔦(つた)も  山のふもとの裾模様(すそよう)      

 渓(たに)の流れに散り浮く紅葉(もみじ)  波にゆられて離れて寄って 赤や黄色の色様々に 水の上にも踊る錦(にしき)

(解説) 紅葉(こうよう)のしくみは、 晩秋になると、気温が低下、葉の根元に瘤(こぶ、離層)ができ、葉から茎への物質の移動が困難となり、葉の組織内に糖分(ブドウ糖、蔗糖など)が蓄積され、これらの成分からアントシアニンという紅色の色素(鮮紅色、紫赤色の色素、アントシアニジンの配糖体)が形成されます。同時に、葉の中のクロロフィルという色素(緑色、葉緑素、マグネシウムのテトラピロール環中心配位体)は分解され、葉は赤く色づき、紅葉となります。

 イチョウ(銀杏)のように、アントシアニンが形成されない葉では、クロロフィルが分解されると葉の組織内のカロチノイドという色素(黄色から赤色又は紫色のポリエン色素、テルペン類)が目立つようになり、葉は黄色に色づきます。アントシアニンの形成とカロチノイドの程度によって葉はさまざまな色調を示すことになります。また、ブナのような褐葉では、タンニンとつながりのある成分が褐色に色づいていると言われています。

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落葉樹の紅葉(桜田町近く、歩道沿い、金沢)

 木の葉には一定の寿命があり、紅葉、黄葉となった後、葉柄の付け根の離層(りそう)から離れることを落葉(らくよう)と言い、落葉樹では、秋に集中しています。植物は、落葉に際しては、葉の有用な光合成物質(糖分、デンプン、タンパク質など)を茎の方へ移し、また、不要な物質(代謝物のシュウ酸、大気汚染物質など)を葉の組織に移動させますので、落葉により老廃物を除去している姿にも見えます。また、冬になると乾燥するので、植物は、葉を落として体からの水分の蒸散を防ぎ、身を守っているとも考えられます。常緑樹では、一年を通し少しずつ新しい葉と入れ替わるのですが、特に、春から夏に集中して落葉するものが多いようです。 

 中国の諺、樹高千丈(じゅこうせんじょう)、落葉帰根(らくようきこん)は、樹木がどんなに高くても、落ちる葉は、また、根元に帰り、腐葉土となり、木を育てると言う。これは、中国禅宗六祖、慧能(えのう)、638年(貞観12年)~713年(先天2年)の言葉で、人間が年老いて昔を懐かしみ、生まれ育った故郷に帰りたくなる思いを、高木の落ち葉に喩えた、とも言われています。

(参考文献) 大木道則、大沢利昭、田中元治、千原秀昭編、化学事典、東京化学同人(1994); 岩瀬徹、大野啓一: 写真で見る植物用語、全国農村教育協会(2004).

(参考資料) 白山スーパー林道の紅葉(google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E7%99%BD%E5%B1%B1%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E6%9E%97%E9%81%93%E3%81%AE%E7%B4%85%E8%91%89&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

山紅葉(ヤマモミジ、google画像): http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%e3%83%a4%e3%83%9e%e3%83%a2%e3%83%9f%e3%82%b8

いろは紅葉(イロハモミジ、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%83%8F%E3%83%A2%E3%83%9F%E3%82%B8&um=1&ie=UTF-8&ei=I8PvSqlPyY-RBYf-1I8H&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=1&ved=0CBgQsAQwAA

紅葉(モミジ)の歌の作詞(高野辰之、長野): http://www.dynax.co.jp/sinsen/shinano/song/tatsuyuki.html

紅葉(モミジ)の歌の作曲(岡野貞一、鳥取): http://www.pref.tottori.lg.jp/dd.aspx?menuid=89649

○ 日本の懐かしい童謡、唱歌など、(歌詞と視聴、ごんべ007の雑学村): http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/00_songs.html

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