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2009年12月13日 (日)

金箔(金沢)にまつわる伝統工芸、砂金、金の舞(金箔、銀箔、金沢)、澄屋(金合わせ、圧延)、箔屋(雁皮紙、箔打ち)、金閣寺の修復(京都、金沢の金箔)、とは(2009.12.13)

  古代(飛鳥時代)、金箔(きんぱく)は、遣唐使によって、仏教文化と共に、中国から日本に持ち込まれたと言われています。は、749年(天平21年)、陸奥守、敬福( きょうふく)により、日本で初めて陸奥国(涌谷町、わくやちょう、宮城)で砂金が発見され、多量の金箔が藤原時代、967年(康保4年)~1068年(治暦4年)、中尊寺(天台宗、岩手)、平等院鳳凰堂(天台宗、浄土宗、のち単立、京都)において使われました。

 このことから、日本に製箔技術が定着したのは、奈良時代の末期、または平安時代の初期の頃と考えられています。金箔は、主に仏像や寺院に使われ、沈金(ちんきん)、截金(きりかね)、蒔絵(まきえ)、金屏風(びょうぶ)、料紙(りょうし)装飾、金蘭(きんらん)、西陣織、金唐革(からかわ)、水引(みずひき)、漆器、陶芸などの美術工芸品、金仏壇、建築屋根の金箔瓦、鴟尾(しび)へと利用が広まりました。

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砂金(マイントピア別子、新居浜、愛媛)と 金の舞金箔、銀箔、箔一産業、金沢、石川) 2014年3月、石川県立自然史資料館へ砂金を寄贈

(解説) 金沢金箔生産については、1593年(文禄2年)2月、加賀初代藩主前田利家、1537年(天文6年)~1599年(慶長4年)が、豊臣秀吉、1537年(天文6年)~1598年(慶長3年)の朝鮮出兵に従って、九州の名護屋(なごや、肥前、佐賀)にいた頃、秀吉から明(中国)の使節団の出迎え役を申し渡され、武者揃(むしゃそろえ)の際の槍(やり)などをきらびやかに飾るため、領地の加賀、能登にそれぞれ金箔(きんぱく)と銀箔(ぎんぱく)を打つように命じたとの史料があります。このことより、利家の金沢入城以前に、加賀には箔の工人がいたのではないかと言われています。

 加賀藩では、加賀には、1584年(天正12年)、宝達(ほうたつ)金山、1615年(元和2年)、倉谷(くらたに)金銀山、1770年、(明和7年)、金平(かなひら)金山のほか、鞍ヶ嶽金山、九谷金山、白山金山、下白山金山、尾小屋銅山(1682年(天和2年)の記録に、採金の記述あり)、阿手鉱山、遊泉寺鉱山、中島鉱山、越中には、松倉金山、虎谷金山、河原波金山、長棟鉱山、などの金鉱山開坑(かいこう、鉱床に向かい坑道を切り開く)されています。

 1603年(慶長8年)、江戸幕府を開いた徳川家康、1543年(天文11年)~1616年(元和2年)は、幕藩体制を固める経済政策として、全国の主要鉱山を直轄領としました。1667年(寛文7年)に各藩に命じて貨幣の鋳造を禁止し、貨幣の材料である金銀銅の地金を管理統制下に置き、1696年(元禄9年)には、箔座を設けて、金銀箔の生産、販売を厳しく統制しました。その後、箔座は廃止され箔打ち金座銀座管理下に置かれ、金箔は江戸、京都以外での製造が厳しく禁じられました。

 金箔製造は、素材の金を薄く延ばす作業ですが、昔から分業制をとっており、大きく分けて3つの工程を家内工業的な2種の業者が分担しています。一つは、澄屋(ずみや)と呼ばれる業者で、延金(のべきん)の製造と上澄(うわずみ)の2つの工程を受け持っています。純金の箔は軟らか過ぎて扱いにくいので、銀や銅を少量混ぜ、熔融して合金金を作り(金合わせ、標準は四号色、質量比が純金100に対し、純銀4.8,純銅0.7)延金にします。

 これを圧延して(澄打ち)、厚さ3μ(マイクロ)m程度の 上澄を作ります。次に、箔屋と呼ばれる業者で箔打ちと箔移しの第3工程が行われます。約4cm角の上澄を特殊加工した和紙(雁皮紙、がんぴし)約500~1600枚の間に一枚ずつ鋏みこみ重ねたものを牛や猫の袋皮にしっかりと固定してハンマー(槌)で打ちます。江戸時代、箔打ちは親方が鎚1挺(かなづちいっちょう)、子方が2挺で向かい合って行いました。明治の末期から機械打ちの工夫がされ、昭和の初期の頃から、家内工業のまま、完全に機械打ちに変わりました。

 金箔の厚さが0.5μm程度のところで雁皮紙を取り替え、さらに0.1~0.4μmの厚さの金箔(透かすと向こう側が見える、1万分の1ミリの薄さ)にまで打ち延ばし、和紙100枚を綴じた広物帳(ひろものちょう)に1枚ずつ鋏みます。最後に、箔を、女竹製の枠カッターやピンセットを用いて、所定の大きさ(標準は11.5cm角)に切り揃え、切紙(きりがみ)に移しかえて100枚1束で出荷しました。 

 1808年(文化5年)、金沢城の二の丸御殿が焼失し、その再興のために多量の金箔が必要となり、京都より箔打ちに熟達した職人が呼び寄せられました。これを契機に金沢の町人の間に、製箔業を確立しようとする動きが起こりました。

 幕府は文政年間に3度も箔打ち禁止令を出していますが、加賀藩の細工所中心に、幕府の目を逃れて秘(ひそ)かに箔を打つ「隠し打ち」が行われていました。加賀藩内では、幕府の規制対象にはならない真鍮箔(しんちゅうはく)、錫箔(すずはく)、銅箔(どうはく)を隠れ蓑(みの)に金箔(きんぱく)を打っていたと言われています。加賀藩12代藩主前田斎広、1782年(天明2年)~1824年(文政7年)は、1819年(文政2年)、兼六園内に竹沢御殿を建てましたが、そこに使った金箔は全て金沢の安田屋助三郎らによって作られたものです。

 1830年(天保元年)加賀藩当局の尽力で、江戸金座の後藤家から、江戸箔売りさばきの鑑札として、「金箔請売所」の看板が能登屋佐助に下付され、1845年(弘化2年)に江戸箔売りさばきの公式の許可が下りました。この間、金沢の箔職人達は、江戸、京都から購入した金銀箔を打ち直し、あるいは銅、真鍮箔の打ち立てという名目を隠れ蓑とし、金、銀箔の隠し打ちを続けていました。

 幕末、1864年(元治元年)、加賀藩の御用箔に限って金箔打ちをしてもよいとの幕府の公認、1868年(明治元年)、明治維新による金箔製造に関する締め付けの撤廃などが行われました。また、1900年(明治33年)、金沢にも電気が通じ、三浦彦太郎、1869年(明治2年)~1949年(昭和14年)がドイツ製打箔機を改良し、重労働だった箔打ちの機械化が進みました。

 現在、金沢金箔生産は、全国99%を獲得し、残る1%は京都府と滋賀県産となっています。 中尊寺金色堂(岩手)、東大寺大仏殿(奈良)、金閣寺(京都)、日光東照宮(栃木)などの国宝、世界遺産登録の建造物、また古都(京都、奈良)の重要文化財、美術工芸品など、全ての補修、修復に、金沢の金箔が用いられています。 

(参考文献) 中西孝、日吉芳朗、本浄高治: 化学風土記、わが街の化学史跡、加賀藩の産業・工芸の史跡と遺品(金沢の金箔)、化学と教育、日本化学会(1991); 国立科学博物館編: 日本の鉱山文化、絵図が語る暮らしと技術、科学博物館後援会(1996); 北国新聞社出版局編: 日本の金箔は99%が金沢産、北国新聞社(2006).

(参考資料) マイントピア別子(新居浜、愛媛):  http://www.besshi.com/

金沢箔(石川新情報書府): http://shofu.pref.ishikawa.jp/shofu/kougei1/haku/index.html

金沢金箔(金沢、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E9%87%91%E7%AE%94%20%E9%87%91%E6%B2%A2&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

金閣寺(京都、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E9%87%91%E9%96%A3%E5%AF%BA&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

中尊寺金色堂(岩手、google画像): https://www.google.co.jp/search?q=%E4%B8%AD%E5%B0%8A%E5%AF%BA%E9%87%91%E8%89%B2%E5%A0%82&hl=ja&rlz=1T4GGNI_jaJP523JP523&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=xItXUoGuL4WakAXtiIDACg&ved=0CDwQsAQ&biw=1366&bih=588&dpr=1

(追加説明) ○ 金泥(きんでい)とは、金箔をすりつぶして粉末とし、膠(にかわ)液で練って泥状にしたものです。その色合いによって、青金、赤金などの種類があり、顔料の一つとして、仏画などの絵画、料紙(りょうし、美術工芸紙)装飾の下絵、また経文の書写などに幅広く使われます。

○ 金箔押しとは、薄い金箔を絵画などの地に貼付して装飾する技法です。箔は膠水(こうすい)ようのりを引いて貼り付けます。

○ 金平(かなひら)金山(小松、加賀)は、大杉谷川と郷谷川とに挟まれた山間部にあり、明和年間(1764~1772年)に、沢村の十村(村方の最高役人)、石黒源次(7代、いしぐろげんじ)によって発見されました。金の産出の増加につれて、諸国から人夫が集まり、村には茶屋や芝居小屋などもできて、鉱山町として大変賑わいました。 

 鉱石発見から製錬までの過程は次のようであり、その間にいろいろの用具を使用しました。鉱脈の存在を予想して、ゲンノウでタガネを打ち込み、土砂を崩しながら掘り進んでいく。金鉱を見つけるとカッサでかき出し、ザルで運んでワンカケワンに入れ、水で不純物を洗い流す(ワンカケ法)。その後金場(きんば)に送り、釜に入れて焼き、細紛化する。これを根子流(ねこなが)し用布を敷いた箱に入れて、何度も繰り返して洗い流す。布の上に残った砂金を水銀と共に乳鉢に入れ24時間置く(アマルガム法)。洗浄後、唐木綿で水銀を絞り取り、残った混在物をルツボに入れて火にかけ、金の固形物を得る。さらに、薄く引き延ばした鉛に包み、フイゴで加熱し、を得る。これは、江戸時代の灰吹法(はいふきほう)という製錬法である。

 1616年(元和2年)、大坂の陣の褒美として、徳川家康から、金平の山師、金掘師に金山を掘る権利を与えられた採掘免許状が現存しています。また、金平金山は、1788年(天明8年)、加賀藩直営の御手前山となっています。

(小松市立博物館編集、発行: 小松市立博物館 総合案内(2000).より)

○ 2004年(平成16年)では、全世界の金産出量は、南アフリカ(14.1%)、オーストラリア(10.7%)、アメリカ(10.6%)、中国(8.8%)、ペルー(7.1%)、ロシア(7.0%)、カナダ(5.3%)です。日本(0.3%)では、菱刈金山(鹿児島)が操業中です。 菱刈金山(鹿児島):http://www.pref.kagoshima.jp/aa02/pr/gaiyou/itiban/shizen/hishikari.html

○ 金沢金洗い沢、その昔、砂金を洗って取ったことが名前の由来となっています。金沢にまつわる民話、芋掘り藤五郎は、掘った芋の根に砂金がたくさんからまっており、それを取って藤五郎夫妻は幸せに暮らしたというものです。実は民話だけでなく、金沢を流れる犀川からは砂金が取れ、昔からたくさんの人が川に入って砂金を取ってきました。江戸時代、1608年(慶長13年)、犀川上流にあった倉谷鉱山は、鉛、亜鉛を主に産出した鉱山でしたが、産出していました。その周辺の金を含んだ鉱脈から、砂金が川に流れ込んだと考えられています。砂金は激しい流れにのって上流から流されてくるのですが、岩の割れ目や、ポットボール(甌穴、おうけつ)のような穴があると、そこにもぐり込んでたまります。その場所に草など生えていると、根っこにからまることが多いので、そこを探しワンカケ法により今でも砂金採取することができます。(石川化学教育研究会編: 科学風土記、加賀・能登のサイエンス、四ヶ浦弘、砂金、裳華房(1997).より)  

○ 金沢城はもと真宗(一向宗)の本拠地、金沢御坊跡地といわれ、ことに兼六園から金沢城址にかけての小立野台地砂金層を大量に含み、戦国期には流浪の金屋たちが砂金を採掘し、金沢御坊成立の起因となりました。このとき沢水を利用して採金(ワンカケ法)したので、金掘沢、金洗い沢などと呼ばれ、金沢の名の起源となっています。現在も兼六園の南端には、金沢の名称発生の地、金城霊沢があり、今も絶えることなく水鉢の底から清水が湧き出しています。(石川化学教育研究会編: 科学風土記、加賀・能登のサイエンス、本浄高治、金城霊沢、金沢の名の由来、裳華房(1997).より)

 

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