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2009年12月の7件の記事

2009年12月28日 (月)

法然(浄土宗、開祖)の流刑(土佐、讃岐に変更)にまつわる歴史実話、専修念仏、建永(承元とも)の法難、とは(2009.12.28)

  中世(鎌倉時代)、1207年(建永2年、承元元年)、75才、法然(ほうねん)の専修念仏弾圧事件建永の法難承元の法難とも)が起こりました。法然四国土佐、実際は讃岐、香川)に、弟子の親鸞(しんらん)は越後(新潟)に流罪、また、安楽、住蓮含む弟子4名が死罪となりました。

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法然(藤原隆信作、京都・知恩院 所蔵、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E7%84%B6

 法然、1133年(長承2年)~1212年(建暦2年)、鎌倉初期の僧、浄土宗開祖、諱(いみな)は源空、勅諡(ちょくし)は円光大師、通称は黒谷上人、父は美作(みまさか、岡山)国押領使、漆間時国(うるまときくに)で、夜襲で父を亡くし、遺言で出家、1147年(久安3年)15才、比叡山源光(生没年未詳)の門に入り、天台宗を学んだが、1150年(久安6年)18才、教学などに対する疑問を生じ、比叡山西塔黒谷叡空(くろたにえいくう)、?~1179年(治承3年)、のもとに隠棲(いんせい)し、法然房源空と称しました。以後20年間修学、山を下ったのは、1175年(安元元年)、43才の時で、唐(中国)の善導(ぜんどう)、613年(大業9年)~681年(永隆2年)、の観経疎(かんぎょうしょ、観無量寿経の注釈書)を読み、善導による専修念仏(せんじゅねんぶつ、称名念仏、しょうみょうねんぶつ)ひたすら南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)を口で唱える、とする浄土宗を開きました。

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知恩院(浄土宗総本山、林下町、東山区、京都、google画像)

 まもなく、源平(げんぺい)の戦乱(律令社会は崩壊、権力は京都王朝から鎌倉幕府に移る)が起こり、また地震、台風、飢餓など起こり、人々は無常を実感しました。平家物語の「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鉦の声、諸行無常の響きあり」、鴨長明(かものちょうめい)、1155年(久寿2年)~1216年(建保4年)の方丈記の「ゆく河の流れは、絶えずして、しかももとの水にあらず」という言葉は、この時代に住む人々の実感を言い表したものです。

 当時の仏教は、権力者や貴族達のだけのもの(貴族仏教)でしたが、法然は、東山の吉水(よしみず)に草庵を結び、老若貴賎(ろうにゃくきせん)を問わず教化、すべての人は平等、南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)と称え救われる、と説きました。1186年(文治2年)天台宗の学匠顕真、1131年(天承元年)~1192年(建久2年)、と専修念仏について議論(大原問答)で注目され、1190年(建久元年)には重源、1121年(保安2年)~1206年(建永元年)、の要請で東大寺で講説、称名念仏が弥陀に選択された唯一の往生行である、との選択本願念仏説専修念仏)を披露しました。、

 その後、南都北嶺(なんとほくれい)の仏教教団(延暦寺、興福寺など)の迫害元久の法難)がありました。また、1206年(建永元年)12月、後鳥羽上皇(第82代天皇)1180年(治承4年)~1239年(延応元年)の熊野詣での間に、上皇に仕える侍女(じじょ)二人(松虫姫19才、鈴虫姫17才)が、徹夜の念仏である六時礼賛(ろくじらいさん)に参加し、法然の弟子、安楽(あんらく住連(じゅうれん)によって出家する事件が起こり、後鳥羽上皇激怒、翌年2月、専修念仏禁止令が出されました。そして、安楽、住蓮、善綽、性願の4名が死罪、また法然、親鸞、行空ら8名が流罪となりました。

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専称寺(浄土宗、塩飽、本島、丸亀市、香川、google画像)

 法然は、1207年(承元元年)、四国讃岐、高松、香川)に配流(はいる)されましたが、同12月、最勝四天王院供養恩赦赦免され、流罪4年にして、1211年(建暦元年)11月帰洛が許されました。 しかし、老耄(ろうもう)の徴候ががひどく、1212年(建暦2年)、80才、京都東山吉水(知恩院、京都)で入滅しました。

 土佐に流されるはずだった法然が、讃岐の丸亀沖の塩飽本島(しわくほんじな)に流されてきたのは、法然帰依していた関白藤原兼実(かねざね)が、自分の荘園のある塩飽本島(しわくほんじま)に移したのでありました。専称寺(せんしょうじ、浄土宗)は、法然本島に流された時、地頭高階保遠入道西忍(たかしなやすとおにゅうどうさいにん)が法然のために建てた草庵から始まった寺と言われています。本島での法然の様子は、法然上人絵伝でもよく知られています。

 また、法然満濃池(まんのういけ)のほとりにを結び、1207年(建永2年)、善通寺などに参詣されています。善通寺五重塔には、今も法然参詣者後世往生を願って建立したと伝えられる逆修(ぎゃくしゅ、生前に、あらかじめ自分の死後の冥福を祈って営まれる仏事)の石塔(五輪塔)があります。 

 この念仏弾圧事件は、建永の法難(けんえいのほうなん、または、承元の法難、しょうげんのほうなん)と呼ばれrています。

 専修念仏の思想は、選択集(せんちゃくしゅう)に最もよく表現され、至誠心(しじょうしん)、深心(じんしん)、回向発願心(えこうほつがんしん)の三心によって、老若貴賎、修行の多寡など問題なく南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)の称名念仏によって救われる、としました。門下には、聖光、源智、証空、親鸞などを出し、日本浄土教の発展の基礎となりました。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 香川県の歴史散歩編集委員会編: 香川県の歴史散歩、山川出版社(1996); 永原慶二監修: 日本史事典、岩波書店(1999); 高森明勅: 歴代天皇事典、PHP研究所(2006); 四国八十八ヶ所霊場会編: 先達教典、四国八十八ヶ所霊場会(2006); 詳説日本史図録編集委員会編: 山川 詳説日本史図録(第2版)、山川出版社(2009); 梅原猛: 日本仏教をゆく、朝日新聞出版(2009) .

(参考文献) 比叡山延暦寺(天台宗総本山、大津市(滋賀)、京都市(京都):http://www.hieizan.or.jp/

知恩院(浄土宗総本山、法然の廟所、林下町、東山区、京都): http://www.chion-in.or.jp/; 知恩院(浄土宗総本山、東山区、京都、google画像):http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E7%9F%A5%E6%81%A9%E9%99%A2&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi; 

住連山安楽寺(浄土宗、鹿ヶ谷、左京区、京都): http://blog.goo.ne.jp/kimmy_v-kobe/e/2b8b984c0a42937abeb4011dd0237032; http://gt80.fc2web.com/kyouto/play/anraku.html

専称寺(浄土宗、塩飽、本島、丸亀市、香川、google画像); http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%B0%82%E7%A7%B0%E5%AF%BA%E3%80%80%E6%9C%AC%E5%B3%B6%E3%80%80%E4%B8%B8%E4%BA%80%E3%80%80&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

空海(弘法大師)ゆかりの満濃池と弘法の水(本浄高治編): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/kagakufudoki5.html 

(追加説明)○ 御身拭式(おみぬぐいしき) 12月25日、京都市知恩院の本堂に安置されている法然上人の木像を白絹で拭う儀式で、念仏法要のなかに、古式により木像を清め、一年の罪(つみ)穢(けがれ)をはらう祈願をします。

 寺院などでは本尊清掃をすることを、煤払い(すすはらい)、御身拭式(ごしんしょくしき)ともいい、東京目黒の不動尊、浅草観音では12月12日に行われます。

(樋口清之監修、暮らしのジャーナル、生活歳時記、三宝出版(1994)より)

2009年12月23日 (水)

碁の名手(本因坊秀哉)の引退碁にまつわる歴史対局、本因坊秀哉、木谷実、名人(小説、川端康成)、とは(2009.12.23)

 不世出の名人、21世本因坊秀哉(ほんいんぼうしゅうさい、64才)は、1938年(昭和13年)、自らの健康と時代の流れを読み取り引退を決意し、名人引退碁で、木谷実(きたにみのる、29才)七段(のち九段)と対局しました。この碁は、観戦記を担当した川端康成(かわばたやすなり、39才)の名作、名人(木谷実七段は大竹七段として登場)として、1954年(昭和29年)に完成しています。

小説、名人(川端康成著、google画像)

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名人引退碁対局 木谷実七段、  本因坊秀哉名人、google画像より)

 川端康成、1899年(明治32年)~1972年(昭和47年)、の観戦記は、呉清源、1914年(大正3年)~の解説をもとに、対局光景や勝負師の表情、動作、心理などを流麗な筆致で活写し、それは観戦記というより一個の文学作品であった。

 観戦記の書き出しは、棋史を飾るこの日、降り続く梅雨も雷(は)れ間を見せて、青空に渋い夏雲が浮かんでいた。芝公園の紅葉館の庭は、緑が雨に洗われて、蘆(あし)の葉ずれのかすかに聞こえる微風である。対局室は、なんとなく明治が思われるような寂(さ)びのついた二階。十八畳に十五畳の次の間。襖(ふすま)から欄間(らんま)の模様まで紅葉づくめ、一階には光淋(こうりん)描くあでやかな紅葉の金屏風ー稚児髷(ちごまげ)の少女が、白い花簪(はなかんざし)して茶を入れる。名人の白扇が、氷水のコップを載せた黒塗りの盆に写って動く静かさ。観戦は私一人だけだ。

 小説、名人の書き出しは、第二十一世本因坊秀哉(ほんいんぼうしゅうさい)名人は、昭和十五年一月十八日朝、熱海(あたみ)のうろこ屋旅館で死んだ。数え年六十七であった。この一月十八日の命日は、熱海では覚えやすい。「金色夜叉(こんじきやしゃ)」の熱海海岸の場、貫一のあのせりふの「今月今夜の月」の日を記念して、一月十七日を熱海では紅葉祭という。秀哉名人の命日は、その紅葉祭の翌日にあたる。

 本因坊秀哉(ほんいんぼうしゅうさい、本名、田村保寿)は、1874年(明治7年)、東京で生まれ、10才で方円社に入社、9年後に初段、19才で一時、方円社を離れ、17世本因坊秀栄の門に入り、1891年(明治24年)に四段を許されました。1908年(明治41年)、20世本因坊秀元の推挙により21世本因坊を襲名、名を秀哉と改め、八段に昇進、1914年(大正3年)、史上8人目の名人となりました。 

 名人引退碁は、東京日日新聞、大阪毎日新聞主催で、1938年(昭和13年)、6月26日、紅葉館(芝公園、東京)より打ち始め(2回打ち継ぐ)、7月11日より奈良屋(箱根)に移り、8月14日までの前半戦(8回打ち継ぐ)は、8月に入って名人が病気のため聖路加病院に入院して中断(白100のツギ、封じ手)となりました。加療約三ヵ月間の後、後半戦は、11月18日より暖香園(伊藤温泉、伊豆)で再開され、12月14日の終局まで(5回打ち継ぐ)、実に7ヵ月間に及ぶ長期対局となりました。結果は、木谷実七段5目勝で終わりました。

本因坊秀哉名人引退碁(先番 木谷実七段、google画像)

(解説) 前半戦は、黒11のノゾキに白12と押し上げ、名人の気迫が感じられる。白24,26も名人の新手らしく、32の抜きまで必然。黒33から37とカケてこの碁の骨格ができた。特に47のツギは信念の一手。白に48の大場を占められるものの、鉄壁を背景にした49が狙いだった。黒63,65は下辺の白を固めてどうかと是非の分かれるところだが、遠くから次なる戦闘へ応援しており、木谷流の大胆かつ思い切った構想である。黒69が苛烈な攻めだった。この手を打つ時、木谷は「雨か嵐か」とつぶやいた。名人は意表を突かれたらしく、次の70に1時間46分も費やし、左辺四子を捨てて本体の安全を図る方針をとった。立ち会いの小野田千代太郎六段は、黒69を<鬼手>、白70を<凌ぎの妙手>と評したという。白82が大場の手止まり。黒83とつめて堅実路線を行く。白88は本手。黒89に白90,92のツケ切りは手筋、黒97までは相場らしい。黒99が、箱根における最後の一手になった。

 後半戦は、盤面は大ヨセに入り、中央の白がどの程度まとまるかが勝負。黒119に白129と引けばアジがいいが、それでは形勢に自信が持てない。黒129の切り込みが絶妙手だった。白130を利かそうとしたのが敗着。(黒121の封じ手が名人を怒らせ、また動揺させ、そして白130の運命的な敗着が導き出されたという。)

 白132は仕方がない。勝敗の分岐点になったらしき部分を、川端康成は次のように描いた。「黒129と切った。白のもう片一方を、黒133で切って、3目の当り、それから黒139まで、当り当りと、ぐんぐん一筋に押して<驚天動地>の大きな変化が起きた。黒は白模様の真只中に突入した。私はがらがらと白の陣の崩壊する音が聞こえるように感じた。どこからか上手な尺八の音が流れてきて、盤面の嵐がわずかにやわらげた」。

 本因坊名跡(300年伝承)は、1924年(大正13年)に創設された日本棋院また碁譜掲載権毎日新聞委譲され、本因坊戦という名のタイトル戦が誕生しました。本因坊戦が順調に発足進行し始めた頃、秀哉名人は、昭和15年(1940年)1月18日、67才、熱海で静養中に亡くなりました。

 2006年(平成18年)12月19日、朝日新聞(朝刊)に、「昭和の伯楽」木谷九段、没後31年、との木谷道場を主催して数多くの俊秀を育てた木谷九段の偉業を讃える特集記事が出ています。

 木谷実(関連年譜)は、1909年(明治42年)、神戸市生まれ、1921年(大正10年)、12才、上京、鈴木為次郎に入門、1924年(大正13年)、15才、設立された日本棋院に初段で参加、1933年(昭和8年)、24才、呉清源と新布石研究、1938年(昭和13年)、29才、本因坊秀哉名人引退碁、1957年(昭和32年)、48才、第2期最高位、1958年(昭和33年)、49才、第3期最高位(防衛)、1975年(昭和50年)12月19日、66才、自宅(平塚市、神奈川)で逝去。

 木谷実の歩みは、年譜の通りで、新布石を打ち出して現代囲碁に革新をもたらし、時の第一人者、本因坊秀哉名人の相手を務め、この対局はのち、川端康成の名作「名人」に結実しました。勝負では、最高位決定戦(1955年、昭和30年~1961年、昭和36年)で2連覇したが、3度挑戦した本因坊位の獲得は成らなかった。

 木谷実の弟子は、戦前の1933年(昭和8年)からとり始め、1970年(昭和45年)入門の日高敏之八段(日本棋院離脱)まで計54人で、孫弟子まで含めた一門の合計段位は500段に達し、2000年(平成12年)に記念の会が開かれました。

 木谷一門のすごさ弟子の多さだけではなく、囲碁界を代表する棋士が多く輩出したことにあり、20年ほど前には一門で七タイトルを独占していました。三大タイトル(棋聖、名人、本因坊)を獲得した7人(大竹英夫、石田芳夫、加藤正夫(故人)、趙治勲、小林光一、武宮正樹、小林覚)はじめ、多くの木谷門下の棋士が現在も活躍中です。 

(参考文献) 川端康成: 名人、新潮文庫(1962); 井口昭夫; 本因坊名勝負物語、三一書房(1995); 菊池達也: 木谷實とその時代、棋苑図(2000); 「昭和の伯楽」木谷九段、没後31年: 朝日新聞(朝刊)特集、2006年(平成18年)12月19日(火).

(参考資料) 囲碁の歴史、昭和初期の碁(日本棋院、市ヶ谷、千代田区、東京): http://www.nihonkiin.or.jp/lesson/knowledge/history07.htm

  本因坊秀哉(第21世本因坊、名人、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%9C%AC%E5%9B%A0%E5%9D%8A%E7%A7%80%E5%93%89&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

 木谷実(日本棋院、七段(のち九段)、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%9C%A8%E8%B0%B7%E5%AE%9F&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

 木谷實・星のプラザ(平塚市、神奈川): http://www.totalmedia.co.jp/works/works2005_kitani.html

 日本棋院(市ヶ谷、千代田区、東京): http://www.nihonkiin.or.j

漆器(石川)にまつわる歴史技法、漆の採取、輪島塗、山中塗、金沢漆器、とは(2009.12.23)

  漆芸(しつげい)は、おもに木の素地(きじ)に漆(うるし)を塗り、装飾を施した工芸です。加賀藩(石川)の漆器(しっき)産地として、輪島(わじま)、山中(やまなか)、金沢(かなざわ)があります。 輪島塗山中塗は、庶民の日常生活の必要から生まれた漆工芸ですが、金沢漆器は、加賀藩主前田家の御用により生まれた贅沢な貴族工芸でした。

 漆器は、日本、中国、朝鮮、ビルマ、タイなどで発達し、日本では、縄文時代の末期に出現しています。製作工程は、漆の精製、素地(木、竹、紙、麻布、皮、陶磁器、金属など)の加工に始まり、下地、上塗、加飾など複雑です。加飾技法には、蒔絵(まきえ)、漆絵など絵画的方法、沈金(ちんきん)、彫漆、鎌倉彫などの彫刻的方法などがあります。

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漆の採取(漆掻き、輪島、能登、石川、google画像)

 漆(うるし)の樹木は、中国、朝鮮を経由して日本に移植され、漆の採取や塗り加工の技術も伝わったと言われています。は、ウルシの樹皮に傷をつけ、漆液溝から外に滲み出す黄白色乳状液で、そのままのものは生漆です。

 漆液の中の主成分はウルシオール(OH基を2個含むカテコールの混合物)であり、漆が迅速乾燥してかたい膜をつくるのは、ラッカーゼ(銅(Ⅰ価)を含む酸化酵素)の酵素反応によるもので、水分を除去する一般の乾燥と異なり、湿度の高い(70~90%)乾燥室(漆風呂、室、むろ25~30℃)に放置すると硬くなります。ウルシオールは、皮膚のタンパク質と反応してかぶれ(アレルギー反応)を起こしますが、身体(サラダ油など)を塗っておけば、漆かぶれを防ぐことができます。

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輪島塗 朱塗懸盤、しゅぬりかけばん、わん、1828年(文政11年)、輪島市所蔵、  老松沈金四段重、おいまつちんきんよんだんじゅう、 1848年(嘉永元年)、石屋清九郎作、輪島市所蔵、輪島、能登、石川、google画像)  

 輪島塗(わじまぬり)は、輪島(奥能登、石川)で生まれた漆器で、室町中期(応永年間、1394~1428年)に紀州(和歌山)の根来(ねごろ)から伝授されたと言われています。 アテ(ヒノキアスナロ)、ケヤキ、ホウなどを木地(きじ)として、下塗りに地の粉(じのこ、珪藻土、けいそうど、小峰山、杉平町特産、輪島市内)を用い、また100回に近い複雑な工程を経るため、堅牢をもって聞こえ、装飾には主に沈金が施されます。輪島塗は、木地師、下地塗師、中塗師、研師、上塗師、蒔絵師、沈金師、呂色師など、多くの職人、作家の問屋制家内工業による総合漆工芸となっています。

  根来塗(ねごろぬり、和歌山)は、黒漆で下塗りした上に朱漆を塗ったものが多いです。(根来塗: http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/000200/ren/web/ren7/negoro.html

 黒漆には、生漆を天日(真夏、気温30℃以上が最適)で加熱しながら手作業で掻き混ぜ(3~4時間)、水分と不純物を除去し、主成分のウルシオール酸化させてく精製した高級な天日黒目(てんぴくろめ)、また、砂鉄、鉄粉、水酸化鉄などを混ぜ、ウルシオール鉄分による酸化鉄(Ⅱ価)との錯化合物の生成によりく精製した天目黒目の代用品もあります。赤漆には朱色辰砂(しんしゃ、硫化水銀)が顔料として含まれています 

 京保年間(1716~1736年)、日常雑器の加飾から始めた金箔を用いた沈金技法を開発、末期から明治初年に金沢、京都の蒔絵技法を導入するなど、高度な漆芸技法を大成し、高級漆器として全国に名声を博するようになりました。

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山中塗(正尺四寸欅盛器、しょうしゃくよんすんけやきもりぎ、初代向出二郎作、山中漆器伝統産業会館所蔵、山中、大聖寺、石川、google画像)

 山中塗(やまなかぬり)では、大聖寺川の渓流を16kmほど遡った真砂(まさご)(山中、江沼、大聖寺、石川)で、中世末に越前から木地屋(きじや、椀や盆などの木器を作る職人)の集団が移住したと言う。、麦や稗を作りながら、自家用の食器を轆轤(ろくろ)で(ひ)いて作り、元禄年間(1688~1704年)、山中温泉の湯治客の土産物として売られたのが始まりと言われています。ケヤキを素地とした、色彩の明るい、現代風のデザインで値段も安く、大衆向きの漆器です。

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金沢漆器(蒔絵螺鈿秋月野景図硯箱、まきえらでんしゅうげつやけいすずりばこ、江戸 17世紀、伝 五十嵐道甫作、石川県立美術館所蔵、金沢、石川、google画像)

 金沢漆器(かなざわしっき)では、藩政時代、金沢の漆の工人は、蒔絵師、塗師、鞘師(さやし)、靭師(うつぼし)の四つに分かれていました。加賀3代藩主前田利常、1594年(文禄2年)~1658年(万治元年)の頃、蒔絵師として五十嵐道甫(いがらしどうほ)、?~1678年(延宝6年)が金沢に京風の蒔絵を伝え、塗師は茶道具の棗(なつめ)や飾棚(かざりだな)、贅沢な椀、盆、硯箱、手筥(てばこ)、卓などのみ塗り、鞘師は刀の鞘だけ塗り、鞘師は矢を入れる皮製の道具、靫に漆加工していました。(漆工芸京漆器の歴史と特徴: http://www.kyo-shikki.jp/history/index.html

 輪島塗保存団体(輪島塗技保存会、輪島市水守町四十刈11、石川県輪島漆芸美術館内)は、1977年(昭和52年)4月25日、国指定の重要無形文化財として認定されました。

(参考文献) 小百科事典、平凡社(1973); 日吉芳朗、本浄高治、中西孝: 化学風土記、わが街の化学史跡、加賀藩にゆかりのある史跡と産物(輪島塗)、化学と教育、日本化学会(1991); 石川県の歴史研究会編(編集代表、奥村哲): 石川県の歴史散歩、山川出版社(1993)); 石川化学教育研究会編: 科学風土記、加賀・能登のサイエンス、太田永久、加賀藩の漆器、輪島塗、山中塗、加賀蒔絵(金沢蒔絵)、日吉南賀子、輪島塗と山中漆器、裳華房(1997); 永原慶二監修: 日本史事典、岩波書店(1999).

(文献資料) 漆の採取(輪島、能登、石川、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%BC%86%E3%80%80%E6%8E%A1%E5%8F%96%20%20%E8%BC%AA%E5%B3%B6&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

石川県輪島漆芸美術館: http://www.city.wajima.ishikawa.jp/art/

輪島漆器(石川新情報書府): http://shofu.pref.ishikawa.jp/shofu/wajima/main.html

山中漆器(石川新情報書府): http://shofu.pref.ishikawa.jp/shofu/yamanaka/

金沢漆器(石川新情報書府):http://shofu.pref.ishikawa.jp/shofu/kougei1/sikki/what/index.html

漆工芸(日本の漆塗りの特徴): http://urushi-kogei.org/characteristics.html

漆の歴史(まる又漆器店、長野): http://www.marumata-japan.com/urushinorekishi.htm

2009年12月21日 (月)

宮崎友禅斎(友禅染の祖)と京友禅(京都)、加賀友禅(金沢)、江戸友禅(東京)、とは(2009.12.21)

  友禅染(ゆうぜんぞめ)は、江戸中期(元禄期、1688~1704年)に京都の扇絵師、宮崎友禅斎(みやざきゆうぜんさい)が創始したと言われています。京都のものは京友禅、金沢のものは加賀友禅、東京のものは江戸友禅と呼ばれています。中世から近世にかけ、衣の主流は、織物から染物へと時代は移っています。

 宮崎友禅斎(生没年未詳)は、江戸前中期の扇、染物絵師です。知恩院(ちおんいん、浄土宗、京都)門前に住み、狩野派の影響が見られる画風の扇絵蛍の図などを描いていました。友禅齊は、扇絵師として名声を博し、元禄期以降は小袖模様を描きました。

 1692年(元禄5年)に小袖雛形本(こそでひながたぼん)、余情ひながた、を刊行、動植物、器物、風景など、絵画性を持つ図柄を模様染に取入れましたが、友禅染という技法の創始にどの程度関与したかは不明です。

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扇絵蛍の図、宮崎友禅齊、東京国立博物館所蔵、google画像)

 友禅齊は、謎の多い人物ですが、伝承によれば、能登(穴水、あなみず)生まれ、晩年に35年住み慣れた京都から金沢へ帰り、加賀6代藩主前田吉徳、1690年(元禄3年)~1745年(延享2年)の御用、紺屋頭取黒梅屋のもとで染め衣装の下絵を描いて余生を送り、1736年(元文3年)86才の生涯を終えたとも伝えられています。卯辰山の龍国寺(りゅうこくじ、曹洞宗、金沢)の境内の石碑に、京のこと また口へ出る 余寒かな、と刻まれています。

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友禅染上 京友禅、京都、 下 加賀友禅、金沢、google画像より)

  京友禅は、柔らかい色調を好み、多彩な色を使っていますが、配色に工夫が見られ、上品で華やかです。加賀友禅は多色を使っていますが、加賀五彩(臙脂(えんじ)、黄土(おうど)、古代紫、草緑、藍)、特に紅色や紫、緑などに深みがあり、優雅で艶やかです。

 絵柄は、図案調京友禅に対し、加賀友禅では、草、花、鳥等の絵画調の物が多く、自然描写を重んじる中から「虫喰い」等独自の装飾が生まれました。「ぼかし」も京友禅以上に多用される傾向にあります

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友禅染江戸友禅、東京、google画像)

 また、東京の江戸友禅は、江戸の町人文化を背景とし、渋く落ち着いた色合いの中にも、洒落感が漂う都会風が特徴とされています。

(解説) 加賀友禅は、下絵(したえ)には、もち米粉とぬかで作った糊(のり)で図案の線を描き、色挿し(いろさし)、伏せ糊地染など約26工程を経て染めます。下絵を付け、糊を置きあるいは絞りをして地色と文様を染分け、その後、縫箔や鹿の子絞りを入れて、その上に彩色絵を手書きで描く、優美で多彩な染色法です。華やかな配色とぼかしの技法に特色があります。

 下絵を書き始めるとき、染め上がりに影響しないように、ツユクサ科のオオボウシバナの青い花弁から水で抽出した青い色素が下絵に使われます。その絞り汁を和紙に染め込ませ、乾燥して青花紙を作り、この和紙より青い色素を水に溶かし出して、下絵描きに使っています。この色素は、青い花の色素(アントシアニンの類似体)で、ツユクサの学名より、コンメリニンと呼ばれています。

 色挿しとは、輪郭が完成した模様に筆や刷毛で染料を染め付けていく工程で、昔は日本画の顔料として使われる青黛(せいたい)や艶紅(ひかりべに、つやべに)などを柄の彩色に使用しています。また、天然由来の藍(あい)、紅花(べにばな)、蘇芳(すおう)、茜(あかね)、紫根(しこん)、刈安(かりやす)などの植物染料、臙脂虫(えんじむし)から得られるコチニールなどの動物染料を用いていました。現在では、1856年(安政3年)、イギリスの化学者 W.H.パーキンにより発見された赤紫色の合成染料(アゾ染料)、その後、開発された化学染料が使われています。

 有名な友禅流しは、水のきれいな川(鉄分の少ない適度な軟水)で布から糊や余分な染料を落とす水洗(水もと)です。金沢では、厳冬のころ行うこと(約3時間)が多く、犀川、浅野川の雪解け水にさらすこともあります。川の上に色とりどりの布が泳ぐさまは、観光の目玉にもなる美しさですが、現在は河川の汚れなどもあり、1968年(昭和43年)、良質で豊富な地下水を求め、金沢の郊外、専光寺浜の松林に加賀友禅染色団地を竣工し、人工の川を利用して染めた布を水洗しています。

 型染友禅(かたぞめゆうぜん)は、明治中期に広瀬治助(ひろせじすけ、京都)、1822年(文政5年)~1890年(明治23年)が考案したもので、型紙を用いて捺染(なっせん)します。また、堀川新三郎(ほりかわしんざぶろう)、1851年(嘉永4年)~1914年(大正3年)がモスリン友禅(写染法)を開発して安価なものが工夫されました。 縮緬(ちりめん、モスリン)、絽(ろ)、羽二重などに染めて振袖(ふりそで)、訪問着などにしますが、最近はウール(羅紗、らしゃ、羊毛)、化学繊維、合成繊維なども染められています。

 1978年(昭和53年)7月13日、石川県は、加賀友禅の伝統技術の保護育成のため、こうした伝統的な技術を有する技術者を主たる会員とする、加賀友禅技術保存会(専光寺町、金沢)を県指定の無形文化財として認定しました。

(参考文献) 小百科事典、平凡社(1973); 石川県の歴史研究会編(編集代表、奥村哲): 石川県の歴史散歩、山川出版社(1993)); 石川化学教育研究会編: 科学風土記、加賀・能登のサイエンス、太田永久、加賀友禅、友禅流し、宮崎友禅齊ー加賀友禅の生みの親ー、板垣英治、ツユクサと加賀友禅、裳華房(1997); 永原慶二監修: 日本史事典、岩波書店(1999).

(文献資料) 加賀友禅とは(金沢の伝統工芸、長町友禅館、石川): http://www.kagayuzen-club.co.jp/learn/history.html

京友禅(友禅齊と友禅染、美と技の都、京都): http://www.kougei.or.jp/crafts/kyoto/yuzen1.html

江戸時代の京友禅(京都、google画像)http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E4%BA%AC%E5%8F%8B%E7%A6%85%E3%80%80%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

京友禅(京都、google画像):http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E4%BA%AC%E5%8F%8B%E7%A6%85&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

加賀友禅(金沢、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%8A%A0%E8%B3%80%E5%8F%8B%E7%A6%85&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

江戸友禅(東京、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%8F%8B%E7%A6%85&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

(追加説明) 

○ 友禅祭  1920年(大正9年)、龍国寺金沢市東山)で加賀友禅の始祖・宮崎友禅斎墓碑が見つかったのをきっかけに、毎年開催されています。

龍国寺(曹洞宗、金沢): http://www.kanazawa-kankoukyoukai.gr.jp/spot_search/spot.php?sp_no=551

 2014年(平成26年)度は、命日の5月17日(土)、70回目の「友禅祭」が龍国寺で開かれ、友禅作家や呉服業者ら約100人が出席し、友禅斎の墓参りをし、加賀友禅のさらなる発展を祈願しました。また、制作で使いふるした筆やはけなどを燃やす筆供養もありました。(2014年(平成26年)5月18日(日)、北陸中日新聞朝刊

 2017年(平成29年)5月17日(水)、友禅斎史跡保存会により、加賀友禅の祖とされる宮崎友禅斎の遺徳をしのぶ恒例(73回目)の友禅まつりが金沢市東山の龍国寺でありました。友禅作家や呉服業者ら百人が参列。参列者は境内にある墓に焼香し、手を合わせました。筆供養もあり、友禅染に使用した筆やはけを麦わらとともに燃やしました。

 友禅斎史跡保存会の水野昌徳会長は「友禅斎先生のおかげで今の加賀友禅の発展がある。これからも多くの人に加賀友禅の魅力を伝えていきたい」と述べました。(2017年(平成29年)5月18日(金)、北陸中日新聞朝刊)

2009年12月18日 (金)

野々村仁清(京焼色絵の祖)と国宝の色絵雉香炉(石川県立美術館蔵)、とは(2009.12.18)

  江戸時代、17世紀頃、野々村仁清(ののむらにんせい)によって作られた国宝 色絵雉香炉重要文化財 色絵雌雉香炉が、石川県立美術館の第一展示室に常設展示されています。1969年(昭和44年)、金沢城址にキャンパスがあった金沢大学に勤務し始めた頃、近くの金沢伝統工芸の展示場で、この国宝の色絵雉香炉を見て、これが国宝なるものか、と感嘆して眺めたことを、今も印象深く思い出します。

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色絵香炉(いろえこうろ、野々村仁清作、左 重要文化財 色絵雌雉香炉、右 国宝 色絵雉香炉、石川県立美術館蔵、金沢、絵ハガキ)

(解説) 色絵雉香炉は、装飾的な香炉で、尾を水平に延ばし鋭く前方を見る雄雉が色彩豊かに表現されています。首と胴部は黒の上に緑をかけ、羽毛を細い金の線描でくくり表現されています。加賀3代藩主前田利常の注文により作られたと思われますが、金沢城下の素封家(そほうか、財産家)、山川家(初代、甚平)が収集伝世し、1951年(昭和26年)、国宝に指定、1958年(昭和33年)、山川家から石川県に寄贈されました。

 なお、重要文化財の色絵雌雉香炉は、尾を斜めに上げ、毛繕いしている雌雉が地味な色合いで表現されています。同じく仁清作ですが、作風上かなり違った感じがします。

 野々村仁清(生没年未詳)は、江戸前期の陶工です。丹波国(たんばのくに、野々村、北桑田、京都)の生まれ、通称清右衛門、号は仁清、元禄年間(1688~1704年)没と伝えらています。

 粟田口(あわたぐち、京都)、瀬戸(せと、尾張、愛知)で学び、1647年(正保4年)頃、御室仁和寺(おむろにんなじ、真言宗御室派、京都)の門前にて(かま)を開きました。出生地と仁和寺の一字をもらって野々村仁清し、窯の名前を御室窯(おむろがま)としました。茶人、金森宗和(かなもりそうわ、武士、茶人、宗和流の祖、名は重近、宗和は道号、飛騨高山、岐阜)、1584年(天正12年)~1656年(明暦2年)、の指導のもと、茶陶(唐物、瀬戸写しの茶入れなど)を製作、京焼色絵陶器大成しました。

 金森宗和は、飛騨国高山城主の長男で、豊臣秀吉、1537年(天文6年)~1598年(慶長3年)に仕え、飛騨守に叙せられました。ところが、父に勘当され、京都に蟄居(ちっきょ)して茶道に専念しました。大徳寺(だいとくじ、臨済宗、京都)で出家、小堀遠州、1579年(天正7年)~1647年(正保4年)らと親交があり、宗和流の開祖となりました。公家好みの優美な茶風で、俗に姫宗和と呼ばれました。加賀藩3代藩主前田利常、1594年(文禄2年)~1658年(万治元年)による召し抱えについては、金森七之助方氏(2代)、1610年(慶長15年)~1664年(寛文4年)が出仕、金森家は加賀藩(金沢)に仕え1700石を領しました。

色絵梅花図平水指(いろえばいかずひらみずさし、野々村仁清作、重要文化財、石川県立美術館蔵、金沢、google画像) 

(解説) 水指(みずさし、茶碗のすすぎ、釜に足す水を入れる容器)には、側面いっぱいに梅の老木が描かれ、黒や赤のほか、ところどころに金彩や銀彩の梅花も添えられています。京風の洗練された意匠で、狩野派や土佐派の画風、漆器の蒔絵などを取り入れ、金と銀を巧みに使いながら、華麗で優美な世界を作っています。明治時代の九谷焼の名工、九谷庄三、1816年(文化13年)~1883年(明治16年)の彩色金襴手の画風に影響を与えているような感じがしました。

  野々村 仁清は、優れた轆轤(ろくろ)技法による優美な成形(法螺貝、雉、宝舟の置物、香炉など)と、華麗な色絵を得意としました。代表作、色絵藤花文茶壺国宝)はMOA美術館(熱海、静岡)、また色絵雉子香炉国宝)は石川県立美術館(金沢)が所蔵、一般の人々が鑑賞できるよう、常設室展示されています。

(参考文献) 小百科事典、平凡社(1973); 永原慶二監修: 日本史事典、岩波書店(1999); 北国新聞社出版局編: 日本の金箔は99%が金沢産、北国新聞社(2006).

(参考資料) 野々村仁清(K.Saiki、2005年、平成17年): http://udgw.jp/logos/chado/report/05.html

石川県立美術館(野々村仁清、所蔵品データベース、かなざわ、google画像): http://www.ishibi.pref.ishikawa.jp/syozou/sakuhin_list_sakka.php?Id=960

MOA美術館(野々村仁清、色絵藤花文茶壺、熱海、静岡、google画像): http://www.moaart.or.jp/owned.php?id=1076

金沢和菓子の歴史背景(いいねっと金沢): http://www4.city.kanazawa.lg.jp/17003/dentou/bunka/wagashi/index.html

(追加説明)○ 京焼(きょうやき)は、京都の陶磁器です。江戸初期すでに粟田口、八坂、音羽、清水、御菩薩(みぞろ)、修学院、清閑寺、押小路(おしこうじ)などに窯があったが、17世紀中頃、野々村仁清(ののむらにんせい)、次いで尾形乾山(おがたけんざん)が出て、京焼独特の優雅な色絵模様を完成、地方の高松、虫明(むしあけ)、赤膚(あかはだ)、淡路の諸窯にも影響を与えました。やがて清水焼(きよみずやき)が磁器を取り入れて京焼の主流となり、奥田頴川(おくだえいせん)、その門下の青木木米(あおきもくべい)、仁阿弥道八(にんあみ どうはち)、欽古堂亀祐(きんこどうきすけ)、また永楽保全(えいらくほぜん)、永楽和全(えいらくわぜん)が出て、第二の京焼黄金時代となりました。

○ 磁器染付に用いる鉱物顔料呉須(ごす、天然産、中国の地方名)は、酸化コバルトを主成分として鉄、マンガン、ニッケルなどを含んでいます。

2009年12月13日 (日)

金箔(金沢)にまつわる伝統工芸、砂金、金の舞(金箔、銀箔、金沢)、澄屋(金合わせ、圧延)、箔屋(雁皮紙、箔打ち)、金閣寺の修復(京都、金沢の金箔)、とは(2009.12.13)

  古代(飛鳥時代)、金箔(きんぱく)は、遣唐使によって、仏教文化と共に、中国から日本に持ち込まれたと言われています。は、749年(天平21年)、陸奥守、敬福( きょうふく)により、日本で初めて陸奥国(涌谷町、わくやちょう、宮城)で砂金が発見され、多量の金箔が藤原時代、967年(康保4年)~1068年(治暦4年)、中尊寺(天台宗、岩手)、平等院鳳凰堂(天台宗、浄土宗、のち単立、京都)において使われました。

 このことから、日本に製箔技術が定着したのは、奈良時代の末期、または平安時代の初期の頃と考えられています。金箔は、主に仏像や寺院に使われ、沈金(ちんきん)、截金(きりかね)、蒔絵(まきえ)、金屏風(びょうぶ)、料紙(りょうし)装飾、金蘭(きんらん)、西陣織、金唐革(からかわ)、水引(みずひき)、漆器、陶芸などの美術工芸品、金仏壇、建築屋根の金箔瓦、鴟尾(しび)へと利用が広まりました。

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砂金(マイントピア別子、新居浜、愛媛)と 金の舞金箔、銀箔、箔一産業、金沢、石川) 2014年3月、石川県立自然史資料館へ砂金を寄贈

(解説) 金沢金箔生産については、1593年(文禄2年)2月、加賀初代藩主前田利家、1537年(天文6年)~1599年(慶長4年)が、豊臣秀吉、1537年(天文6年)~1598年(慶長3年)の朝鮮出兵に従って、九州の名護屋(なごや、肥前、佐賀)にいた頃、秀吉から明(中国)の使節団の出迎え役を申し渡され、武者揃(むしゃそろえ)の際の槍(やり)などをきらびやかに飾るため、領地の加賀、能登にそれぞれ金箔(きんぱく)と銀箔(ぎんぱく)を打つように命じたとの史料があります。このことより、利家の金沢入城以前に、加賀には箔の工人がいたのではないかと言われています。

 加賀藩では、加賀には、1584年(天正12年)、宝達(ほうたつ)金山、1615年(元和2年)、倉谷(くらたに)金銀山、1770年、(明和7年)、金平(かなひら)金山のほか、鞍ヶ嶽金山、九谷金山、白山金山、下白山金山、尾小屋銅山(1682年(天和2年)の記録に、採金の記述あり)、阿手鉱山、遊泉寺鉱山、中島鉱山、越中には、松倉金山、虎谷金山、河原波金山、長棟鉱山、などの金鉱山開坑(かいこう、鉱床に向かい坑道を切り開く)されています。

 1603年(慶長8年)、江戸幕府を開いた徳川家康、1543年(天文11年)~1616年(元和2年)は、幕藩体制を固める経済政策として、全国の主要鉱山を直轄領としました。1667年(寛文7年)に各藩に命じて貨幣の鋳造を禁止し、貨幣の材料である金銀銅の地金を管理統制下に置き、1696年(元禄9年)には、箔座を設けて、金銀箔の生産、販売を厳しく統制しました。その後、箔座は廃止され箔打ち金座銀座管理下に置かれ、金箔は江戸、京都以外での製造が厳しく禁じられました。

 金箔製造は、素材の金を薄く延ばす作業ですが、昔から分業制をとっており、大きく分けて3つの工程を家内工業的な2種の業者が分担しています。一つは、澄屋(ずみや)と呼ばれる業者で、延金(のべきん)の製造と上澄(うわずみ)の2つの工程を受け持っています。純金の箔は軟らか過ぎて扱いにくいので、銀や銅を少量混ぜ、熔融して合金金を作り(金合わせ、標準は四号色、質量比が純金100に対し、純銀4.8,純銅0.7)延金にします。

 これを圧延して(澄打ち)、厚さ3μ(マイクロ)m程度の 上澄を作ります。次に、箔屋と呼ばれる業者で箔打ちと箔移しの第3工程が行われます。約4cm角の上澄を特殊加工した和紙(雁皮紙、がんぴし)約500~1600枚の間に一枚ずつ鋏みこみ重ねたものを牛や猫の袋皮にしっかりと固定してハンマー(槌)で打ちます。江戸時代、箔打ちは親方が鎚1挺(かなづちいっちょう)、子方が2挺で向かい合って行いました。明治の末期から機械打ちの工夫がされ、昭和の初期の頃から、家内工業のまま、完全に機械打ちに変わりました。

 金箔の厚さが0.5μm程度のところで雁皮紙を取り替え、さらに0.1~0.4μmの厚さの金箔(透かすと向こう側が見える、1万分の1ミリの薄さ)にまで打ち延ばし、和紙100枚を綴じた広物帳(ひろものちょう)に1枚ずつ鋏みます。最後に、箔を、女竹製の枠カッターやピンセットを用いて、所定の大きさ(標準は11.5cm角)に切り揃え、切紙(きりがみ)に移しかえて100枚1束で出荷しました。 

 1808年(文化5年)、金沢城の二の丸御殿が焼失し、その再興のために多量の金箔が必要となり、京都より箔打ちに熟達した職人が呼び寄せられました。これを契機に金沢の町人の間に、製箔業を確立しようとする動きが起こりました。

 幕府は文政年間に3度も箔打ち禁止令を出していますが、加賀藩の細工所中心に、幕府の目を逃れて秘(ひそ)かに箔を打つ「隠し打ち」が行われていました。加賀藩内では、幕府の規制対象にはならない真鍮箔(しんちゅうはく)、錫箔(すずはく)、銅箔(どうはく)を隠れ蓑(みの)に金箔(きんぱく)を打っていたと言われています。加賀藩12代藩主前田斎広、1782年(天明2年)~1824年(文政7年)は、1819年(文政2年)、兼六園内に竹沢御殿を建てましたが、そこに使った金箔は全て金沢の安田屋助三郎らによって作られたものです。

 1830年(天保元年)加賀藩当局の尽力で、江戸金座の後藤家から、江戸箔売りさばきの鑑札として、「金箔請売所」の看板が能登屋佐助に下付され、1845年(弘化2年)に江戸箔売りさばきの公式の許可が下りました。この間、金沢の箔職人達は、江戸、京都から購入した金銀箔を打ち直し、あるいは銅、真鍮箔の打ち立てという名目を隠れ蓑とし、金、銀箔の隠し打ちを続けていました。

 幕末、1864年(元治元年)、加賀藩の御用箔に限って金箔打ちをしてもよいとの幕府の公認、1868年(明治元年)、明治維新による金箔製造に関する締め付けの撤廃などが行われました。また、1900年(明治33年)、金沢にも電気が通じ、三浦彦太郎、1869年(明治2年)~1949年(昭和14年)がドイツ製打箔機を改良し、重労働だった箔打ちの機械化が進みました。

 現在、金沢金箔生産は、全国99%を獲得し、残る1%は京都府と滋賀県産となっています。 中尊寺金色堂(岩手)、東大寺大仏殿(奈良)、金閣寺(京都)、日光東照宮(栃木)などの国宝、世界遺産登録の建造物、また古都(京都、奈良)の重要文化財、美術工芸品など、全ての補修、修復に、金沢の金箔が用いられています。 

(参考文献) 中西孝、日吉芳朗、本浄高治: 化学風土記、わが街の化学史跡、加賀藩の産業・工芸の史跡と遺品(金沢の金箔)、化学と教育、日本化学会(1991); 国立科学博物館編: 日本の鉱山文化、絵図が語る暮らしと技術、科学博物館後援会(1996); 北国新聞社出版局編: 日本の金箔は99%が金沢産、北国新聞社(2006).

(参考資料) マイントピア別子(新居浜、愛媛):  http://www.besshi.com/

金沢箔(石川新情報書府): http://shofu.pref.ishikawa.jp/shofu/kougei1/haku/index.html

金沢金箔(金沢、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E9%87%91%E7%AE%94%20%E9%87%91%E6%B2%A2&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

金閣寺(京都、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E9%87%91%E9%96%A3%E5%AF%BA&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

中尊寺金色堂(岩手、google画像): https://www.google.co.jp/search?q=%E4%B8%AD%E5%B0%8A%E5%AF%BA%E9%87%91%E8%89%B2%E5%A0%82&hl=ja&rlz=1T4GGNI_jaJP523JP523&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=xItXUoGuL4WakAXtiIDACg&ved=0CDwQsAQ&biw=1366&bih=588&dpr=1

(追加説明) ○ 金泥(きんでい)とは、金箔をすりつぶして粉末とし、膠(にかわ)液で練って泥状にしたものです。その色合いによって、青金、赤金などの種類があり、顔料の一つとして、仏画などの絵画、料紙(りょうし、美術工芸紙)装飾の下絵、また経文の書写などに幅広く使われます。

○ 金箔押しとは、薄い金箔を絵画などの地に貼付して装飾する技法です。箔は膠水(こうすい)ようのりを引いて貼り付けます。

○ 金平(かなひら)金山(小松、加賀)は、大杉谷川と郷谷川とに挟まれた山間部にあり、明和年間(1764~1772年)に、沢村の十村(村方の最高役人)、石黒源次(7代、いしぐろげんじ)によって発見されました。金の産出の増加につれて、諸国から人夫が集まり、村には茶屋や芝居小屋などもできて、鉱山町として大変賑わいました。 

 鉱石発見から製錬までの過程は次のようであり、その間にいろいろの用具を使用しました。鉱脈の存在を予想して、ゲンノウでタガネを打ち込み、土砂を崩しながら掘り進んでいく。金鉱を見つけるとカッサでかき出し、ザルで運んでワンカケワンに入れ、水で不純物を洗い流す(ワンカケ法)。その後金場(きんば)に送り、釜に入れて焼き、細紛化する。これを根子流(ねこなが)し用布を敷いた箱に入れて、何度も繰り返して洗い流す。布の上に残った砂金を水銀と共に乳鉢に入れ24時間置く(アマルガム法)。洗浄後、唐木綿で水銀を絞り取り、残った混在物をルツボに入れて火にかけ、金の固形物を得る。さらに、薄く引き延ばした鉛に包み、フイゴで加熱し、を得る。これは、江戸時代の灰吹法(はいふきほう)という製錬法である。

 1616年(元和2年)、大坂の陣の褒美として、徳川家康から、金平の山師、金掘師に金山を掘る権利を与えられた採掘免許状が現存しています。また、金平金山は、1788年(天明8年)、加賀藩直営の御手前山となっています。

(小松市立博物館編集、発行: 小松市立博物館 総合案内(2000).より)

○ 2004年(平成16年)では、全世界の金産出量は、南アフリカ(14.1%)、オーストラリア(10.7%)、アメリカ(10.6%)、中国(8.8%)、ペルー(7.1%)、ロシア(7.0%)、カナダ(5.3%)です。日本(0.3%)では、菱刈金山(鹿児島)が操業中です。 菱刈金山(鹿児島):http://www.pref.kagoshima.jp/aa02/pr/gaiyou/itiban/shizen/hishikari.html

○ 金沢金洗い沢、その昔、砂金を洗って取ったことが名前の由来となっています。金沢にまつわる民話、芋掘り藤五郎は、掘った芋の根に砂金がたくさんからまっており、それを取って藤五郎夫妻は幸せに暮らしたというものです。実は民話だけでなく、金沢を流れる犀川からは砂金が取れ、昔からたくさんの人が川に入って砂金を取ってきました。江戸時代、1608年(慶長13年)、犀川上流にあった倉谷鉱山は、鉛、亜鉛を主に産出した鉱山でしたが、産出していました。その周辺の金を含んだ鉱脈から、砂金が川に流れ込んだと考えられています。砂金は激しい流れにのって上流から流されてくるのですが、岩の割れ目や、ポットボール(甌穴、おうけつ)のような穴があると、そこにもぐり込んでたまります。その場所に草など生えていると、根っこにからまることが多いので、そこを探しワンカケ法により今でも砂金採取することができます。(石川化学教育研究会編: 科学風土記、加賀・能登のサイエンス、四ヶ浦弘、砂金、裳華房(1997).より)  

○ 金沢城はもと真宗(一向宗)の本拠地、金沢御坊跡地といわれ、ことに兼六園から金沢城址にかけての小立野台地砂金層を大量に含み、戦国期には流浪の金屋たちが砂金を採掘し、金沢御坊成立の起因となりました。このとき沢水を利用して採金(ワンカケ法)したので、金掘沢、金洗い沢などと呼ばれ、金沢の名の起源となっています。現在も兼六園の南端には、金沢の名称発生の地、金城霊沢があり、今も絶えることなく水鉢の底から清水が湧き出しています。(石川化学教育研究会編: 科学風土記、加賀・能登のサイエンス、本浄高治、金城霊沢、金沢の名の由来、裳華房(1997).より)

 

2009年12月 7日 (月)

九谷焼(石川)にまつわる歴史技法、古九谷(江戸前期)、色絵磁器(陶土、呉須、九谷五彩)、再興九谷(江戸後期)、とは(2009.12.7)

  古九谷(九谷、大聖寺、石川)は、有田(有田、肥前、佐賀)、姫谷(福山、備後、広島)と共に、近世(江戸時代)初期、日本の三大色絵磁器として、その大胆な図柄、流麗な筆致、深みのある色調で、広く海外にまで知られていました。 

 山中温泉から大聖寺川を約14kmさかのぼる奥深い山麓に、九谷(くたに)村(現在、廃村)がありました。ここは、江戸の始め、色絵磁器で有名な古九谷(こくたに)発祥の地であり、九谷磁器窯址(くたにじきようあと、蓮房式登窯)の石碑が立っています。大聖寺藩の吹座役を務めていた後藤才次郎(ごとうさいじろう)が、重罪人を鉱夫に使った金山があったこの地に、金鉱を探し求めてやってきた時、良質の陶土を発見した、との伝承があります。

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古九谷色絵山水文平鉢、小松市立博物館蔵、九谷独特の五彩で山水図が豪快に描かれています。google画像)

(解説) 主原料の陶石は、カオリン(カオリン石、アルミニウムの含水ケイ酸塩、Al2O3・2SiO2・2H2O、長石の変質)の一種です。長石(アルミノケイ酸塩)類が自然に分解し流れて沈積した白色の粘土は、磁器の原料となります。陶磁器の中で、磁器は、粘土質物や石英、長石を原料とし、1300~1400℃程度の高温で、約15~20時間ほど焼成、最も硬く、軽く弾くと金属音がします。素地(きじ)がよく焼き締まってガラス化し、吸水性のない純白透明性の焼物となります。色絵磁器として、有田焼、九谷焼などが有名です。

 また、九谷焼では、九谷五彩と呼ばれる青,黄,紺青,紫,赤の色鮮やかな五色の絵具を使用しています。 赤と黄には酸化鉄を、青には酸化銅、紺には酸化コバルトを、紫には酸化マンガンを使用しています。色絵模様の下絵付けの藍色、呉須(ごす)の主成分は酸化コバルトで、少量の鉄、マンガンが含まれています。上絵具の熔剤には、白色の粉末、唐の土(塩基性炭酸鉛)、白玉(無色ガラス粉末)、日の岡(珪石)の3種を使用していますが、唐の土の鉛化合物は有毒なので代替品が考慮されています。

  九谷焼の特色は、磁器の素地が純白でなく、やや青味がかっていることです。これは陶石に含まれている鉄とチタン酸化物の焼成による着色と考えられています。九谷焼の陶石の原料として、九谷陶石(九谷)、荒谷陶石(荒谷)、花坂陶石(能美)などが使用されています。 また、九谷陶石は、蛍光X線分析より、ケイ素(77%)、アルミニウム(14%)、カリウム(8.5%)、鉄(0.1%)などが検出されました。

 このように、九谷焼に使われる土の原石は、流紋岩の風化物で、主成分は二酸化ケイ素(約74%)、酸化アルミニウム(約17%)ですが、鉄の含有量が比較的に高いので、やや青味がかり、白い素地ができず、この悪い素地をカバーするために、九谷焼の基本であり命までと言われる上絵が発達しました。

 大聖寺藩の初代藩主、前田利治(としはる)、1618年(元和4年)~1660年(万治3年)の命により、後藤才次郎(同名4名在、うち定次)が、有田(肥前、佐賀)の陶業技術修得に遣わされ、1655年(明暦元年)頃、九谷の地に窯を築き、田村権左右衛門(たむらごんざえもん)、?~1683年(天和3年)を指導し、古九谷の生産が始められたと言われています。その築窯、焼成のため、多数の工人が有田から招かれ、九州に伝わる明(中国)の技術が導入されたと考えられています。

 古九谷は、学問的には、有田(別名、伊万里)の移入説と九谷焼独自の開窯説が長い間対立していました。1970年(昭和45年)以降の発掘調査で、1655年(明暦元年)の銘の入った白磁の大皿や、古九谷の特徴とされる朱と藍の二彩の絵付皿が発見され、九谷で実際に焼かれたことが確かめられ、これより少し前の1650年(慶安3年)頃に開窯されたと考えられています。

 1690年(元禄3年)頃、古九谷は突如として姿を消しますが、その廃窯の事情を語る文献資料は全く伝わっていないという。その原因は謎ですが、大聖寺藩の御用窯であったが、藩の財政の悪化により廃止、大量生産の安価な伊万里の色絵磁器が入ってきたことなど、種々の要因が重なったと考えられています。

 江戸時代後期、九谷焼の復興を目的とした再興九谷の最初の春日山窯(金沢)、加賀藩営で量産に成功した若杉窯(小松)、古九谷についで声価の高い吉田屋窯(大聖寺)、赤絵細描で独特の趣を持つ宮本屋窯(大聖寺)、京風の優美な金襴手(きんらんで)の永楽窯(大聖寺)、洋絵具を加味して華やかな新しい画風を始めた九谷庄三(くたにしょうざ、寺井、能美)など、特色ある上絵付の作風を持つ窯が次々と生まれています。

 1806年(文化3年)、絵師、陶工として名高い京都の青木木米(あおきもくべい、春日山窯)、1767年(明和4年)~1833年(天保4年)が、九谷再興のため加賀藩に招かれ、約2年間指導、現在、卯辰山(山の上町、金沢)の地に春日山窯跡の碑が立っています。

 1823年(文政6年)、大聖寺の豪商、吉田屋伝右衛門(よしだやでんえもん、吉田屋窯)、1752年(宝暦2年)~1827年(文政10年)72才が、120年ぶりに古九谷青手の技法を再興、1826年(文政9年)、飯田屋八郎右衛門(いいだやはちろうえもん、宮本屋窯)、1818年(文政元年)~1852年(嘉永5年)らが赤絵、金襴手(きんらんで)の技法を開発しました。

 1835年(天保6年)、斉田道開(さいだどうかい)、1796年(寛政8年)~?が、佐野窯を築いた後、名工、九谷庄三(くたにしょうざ)、1816年(文化13年)~1883年(明治16年)が、彩色金襴手(きんらんで)の画風を大成し、明治時代の九谷焼を風靡(ふうび)しました。明治の半ば頃、九谷焼は日本の輸出陶磁器の首位に立ち、ジャパンクタニの名で世界に知られました。各時代の上絵付の作風は、明治以降の今日までの九谷焼上絵付に強い影響を与えています。

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色絵金彩花鳥紋大香炉九谷庄三晩年の代表作、 石川県立美術館蔵、古九谷、吉田屋窯、赤絵、金襴などの手法を含む絢爛豪華な「彩色金襴手」の技法(色絵に金箔、金粉であらわした文様を焼き付けたもの)を確立し、洋絵具を使い、顔料釉薬では出せなかった中間色も表現し、作風を広げました。 google画像)

 石川県では、1976年(昭和51年)に九谷焼を石川県の無形文化財に指定、九谷焼技術保存会を組織して、その技術の保存と後継者の育成に当たり、九谷焼の伝統を守っています。石川県九谷焼美術館(大聖寺、加賀)、能美市九谷焼資料館(寺井、能美)には、九谷焼の代表的作品と作業工程などが展示されています。

(参考文献) 小百科事典、平凡社(1973); 嶋崎丞: カラーブックス、日本の陶磁18,九谷(1979); 新村出編: 広辞苑、第四版、岩波書店(1991); 中西孝、日吉芳朗、本浄高治: 化学風土記、わが街の化学史跡、加賀藩の産業・工芸の史跡と遺品(九谷焼)、化学と教育、日本化学会(1991); 石川県の歴史研究会編(編集代表、奥村哲): 石川県の歴史散歩、山川出版社(1993)); 石川化学教育研究会編: 科学風土記、加賀・能登のサイエンス、三宅幹夫、九谷焼、鈴木健之、後藤才次郎、古九谷の創始者、裳華房(1997); 永原慶二監修: 日本史事典、岩波書店(1999); 小松市立博物館(編集、発行): 小松市立博物館 総合案内(2000).

(参考資料) 古九谷焼(大聖寺、加賀、石川、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%8F%A4%E4%B9%9D%E8%B0%B7&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi; 古九谷焼(石川県立美術館、google画像): http://www.ishibi.pref.ishikawa.jp/syozou/keyword/search.php?page=1; 古九谷焼(小松市立博物館、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%8F%A4%E4%B9%9D%E8%B0%B7%E3%80%80%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E5%B8%82%E7%AB%8B%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi; 古九谷焼(出光美術館コレクション、 google画像): http://www.kutani-mus.jp/idemitu.html;

九谷焼(九谷庄三 作品、google画像より): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E4%B9%9D%E8%B0%B7%E5%BA%84%E4%B8%89%E3%80%80%E4%BD%9C%E5%93%81&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

石川県九谷焼美術館(大聖寺、加賀、石川): http://www.kutani-mus.jp/

能美市九谷焼資料館(泉台、寺井、能美、石川); http://www.kutaniyaki.or.jp/; 

九谷陶芸村(泉台、寺井、能美、石川): http://www.hitwave.or.jp/kutani/index2.htm

金沢卯辰山工芸工房(卯辰山、金沢、石川):http://www.utatsu-craft.gr.jp/

九谷焼(加賀、能美、石川、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E4%B9%9D%E8%B0%B7%E7%84%BC&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

有田焼(有田、佐賀、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%9C%89%E7%94%B0%E7%84%BC&um=1&ie=UTF-8&ei=DDsaS-qFI8uLkAWd34XOAw&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=4&ved=0CDIQsAQwAw

姫谷焼(姫谷、福山、広島、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%A7%AB%E8%B0%B7%E7%84%BC&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

人間国宝ギャラリー陶芸ほか、日本工芸会): http://www.nihon-kogeikai.com/KOKUHO.html.

(追加説明) ○ 九谷村(九谷、山中、江沼、大聖寺)は、かって山田光教寺(浄土真宗、現在廃寺、加賀)の蓮聖(本願寺8世蓮如の4男)が九谷坊を開き、また、江戸の頃は大聖寺藩の流刑地であり、重罪人を鉱夫に使った九谷金山がありました。

○ 九谷焼陶土は流紋岩の風化物で、主成分はケイ素(約74%)、酸化アルミニウム(約17%)です。しかし、陶土の鉄の含有量が比較的高く、白い素地ができないので、それを覆い隠すため、上絵が発達しました。

 九谷焼製造は、陶石を粉砕、水簸(すいひ)、水分除去の工程を順次加えて陶土とします。生乾きの段階で仕上げ削りをし、完全に乾燥し、約700℃で素焼きします。素焼きの上に呉須(ごす、鉄、マンガン、ニッケルを含むコバルト塩の顔料)で模様の骨描きをし、釉薬(ゆうやく、長石、石灰石、滑石などを混合粉砕して泥漿水(でいしょうすい)にしたもの)をかけ、1300~1380℃で本窯焼成します。これに上絵を施し、上絵窯(錦窯)で焼成します。

 九谷焼は、江戸の慶長から寛永の頃、中国から伝わった登窯(のぼりがま)でした。山の斜面に角型の煙突のように築きます。内部は何室かに区切られていて、下からまず第一室を焼き、順次一室ずつ上へ炊きあげます。第二室からは側面の小さな焚口から薪を投げ込みます。燃料は炎が高く上がる赤松が最も効率が良いとされています。1877年(明治10年)頃、ヨーロッパの窯が導入されましたが、燃料も石炭、重油、プロパンガス、そして今日主流の電気窯へと変わってきました。

○ 九谷焼は、石川県の金沢、小松、能美、加賀(九谷、江沼、大聖寺)地域で作られた焼きものですが、その名称については、元禄の頃は大聖寺焼(だいしょうじやき、ほか大聖寺染付、大聖寺伊万里)、一般に広く九谷焼と呼ばれるようになったのは、江戸後期の1803年(享和3年)以降からと言われています。また、創始期の九谷焼を、再興時代に入ってからの九谷焼と区別する意味で、江戸末期の1840年代より、古九谷と呼称するようになりました。また、九谷焼は、大別すると古九谷、再興九谷、明治九谷、現代九谷の4つの時代に分けられると言われています。

○ 九谷五彩(上絵具)の色素と融剤は、白玉(無色硝石の一種)、唐の土(炭酸鉛)、珪石(二酸化珪素)のほか、次のような色素ですが、調合は陶画工の秘伝ともなっています。色素として、赤には紅柄(酸化鉄)、アンチモニ、緑には酸化銅、紺青には酸化コバルト、黄には紅柄(酸化鉄)、紫には酸化マンガンが使われています。

○ 有田焼(伊万里焼とも)は、佐賀県有田地方産の磁器です。伊万里港から輸出されたので、伊万里焼の名が広まりました。1616年(元和2年)、朝鮮の帰化人、李参平(りさんぺい)が磁器焼成に成功し、寛永(1624~1643年)末期に酒井田柿右衛門(さかいだかきえもん)が赤絵を創始すると共に、その声価は欧州に及びました。製品は、染付、赤絵のほか青磁、染錦など多種多様で、有田は現在も日本有数の生産地です。 

有田焼(柿右衛門、伊万里焼とも、佐賀、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%9F%BF%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80&um=1&ie=UTF-8&ei=lO4qS9jtGYGgkQXO9uj7CA&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=4&ved=0CC8QsAQwAw

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