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2010年1月18日 (月)

五箇山(加賀藩の流刑地)にまつわる歴史秘話、加賀騒動(大槻伝蔵)、塩硝(培養法)、合掌造り(白川郷)、国史跡・辰巳用水附土清水塩硝蔵跡(金沢)、とは(2010.1.18)

  近世(江戸時代)、人は、加賀騒動(かがそうどう、重臣大槻伝蔵、加賀)、伊達騒動(だてそうどう、3代藩主伊達綱宗、仙台)、黒田騒動(くろだそうどう、家老栗山大膳、黒田、筑前、福岡)を、日本の三大騒動、と呼んでいます。

 加賀騒動は、加賀前田家の家督相続をめぐる御家騒動です。大槻伝蔵(おおつきでんぞう、朝元、とももと)、1703年(元禄16年)~1748年(寛延元年)は、足軽の子(3男)として生まれ、加賀6代藩主前田吉徳(まえだよしのり)、1690年(元禄3年)~1745年(延享2年)の時、1716年(京保元年)14才で御居間坊主(おいまぼうず)に召し抱えられ、財政状態が慢性的な累積赤字を出していた時、財政改革(こまかい計算による節約、大阪の商人から何とか借金を続けること、など)を断行、その手腕を認められて寵愛(ちょうあい)を受け、わずか28年間に3800石の大身まで出世しました。

 大槻伝蔵(おおつきでんぞう、革新派)の破格登用を喜ばぬ家老前田直躬(まえだなおみ、保守派)、1714年(正徳4年)~1774年(安永3年)らにより、1745年(延享2年)、56才、吉徳の急死後、伝蔵と吉徳の側室、お貞(おてい、真如院、しんにょいん)が密通、真如院の子を藩主にさせようと画策(歴代藩主、5代吉徳、6代宗辰の暗殺、その弟、7代重熙の毒殺を企てたこと)、真如院と伝蔵の恋文の発見などの罪状(でっち上げ?)より、1748年(寛延元年)、46才、五箇山祖山(そやま)に送られ、自刃(じじん)しました。また、奥女中浅尾は蛇責め、それを見せられた真如院は悶死、伝蔵の関係者は全て断罪、となりました。真如院の子勢之助は、相続順位から外され、町外れに幽閉されていましたが、ついに発狂して暴死しました。この騒動は、実録小説、浄瑠璃、講談などの題材として著名です。

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流刑小屋(五箇山、田向、たむかい、南砺市、富山、google画像)

(解説) 五箇山加賀藩流刑地となったのは、1667年(寛文7年)、関所を置いて重罪人の流刑地としたからです。 本格的な指定は1690年(元禄3年)以後のことですが、流刑地として断崖絶壁の庄川右岸があてられ、田向(たむかい)のほか、祖山(そやま)、大崩島(おくずしま)、籠渡(かごど)、小原(おはら)、猪谷(いのたに)などが選ばれました。 

 田向の村へ上る小高い丘の中腹に、間口2.77m、奥行3.63m、高さ3m、中に便所を備えた流刑小屋があります。重罪人を収容した、お縮(しま)り小屋と呼ばれたもので、食事の差し入れなどは柱を切り込んだ小窓を利用していました。この流刑小屋は、1769年(明和6年)、田向村の大火で焼失、その後、再建、1963年(昭和38年)、豪雪により倒壊、1965年(昭和40年)もと通りに復元されています。

 五箇山(ごかやま)は、庄川(しょうがわ)上流、平(たいら)、上平(かみたいら)、利賀(とが)3村の総称ですが、庄川(本流)、利賀川(支流)の五つの谷に小山村が点在しています。この秘境本願寺領であった頃から つの谷間、赤尾谷(あかをだに)、上梨谷(かみなしだに)、下梨谷(しもなしだに)、小谷(おたに)、栂谷(とがだに)、という意味で五ヶ谷間(ごかやま)、転じて五箇山と呼ばれるようになりました。その昔、平家落人(おちうど)伝説があり、加賀藩の流刑地となった隔絶地域でありました。 近年、大牧ダム、御母衣(みほろ)ダムなどの電源開発により開けてきました。合掌造りの民家が残存し、近くの白川郷と共に、世界遺産に選ばれました。

 塩硝(焔硝、煙硝、えんしょう)は、硝酸カリウム(天然鉱物は硝石)のことで、煙火薬黒色火薬、硝酸カリウム、木炭粉末、硫黄の混合物)において、酸化剤の働きをする、最も重要な成分です。

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塩硝(えんしょう、煙硝、硝酸カリウムの結晶、長さ約4cmの無色の斜方晶形の結晶、沢村保昌先生(三重大名誉教授)より里見信生先生(金沢大講師、のち教授)に寄贈された伊賀(三重)忍者が使っていた煙硝を譲り受けたもの、五箇山産か? 2014年3月、石川県立自然史資料館へ寄贈)

 1570年(元亀元年)、戦国時代の頃より、越中五箇山(平村、上平村、利賀村の一帯)では、農民の副業として、従来の古土法(奈良時代、中国より伝来、床下の古い土より硝酸塩を抽出)より大量生産できる培養法を用いた塩硝生産され、加賀藩の管理下で、塩硝箱に詰められ、牛馬により山越えの塩硝街道(40km)を通り、金沢城下まで運ばれていました。

  塩硝製造法(培養法)は、合掌造りの家の床下に穴(1.8~3.6m四方、深さ2m、すり鉢型)を掘り、麻畑土、干し草(ヨモギ、サクという山草など)、蚕糞、人馬の尿などを混ぜて積み、糞尿中のアンモニアを土壌中の硝化細菌(アンモニア酸化菌、亜硝酸酸化菌など)により硝酸イオンに酸化します。

 約5年培養後、土桶(つちおけ)を用いて、培養土(塩硝土から水で抽出された液(硝酸カルシウム含む)を木灰(炭酸カリウム含む)と混ぜ、平釜に移して煮ると、熱水に溶けやすい硝酸カリウム(溶液)と溶けにくい炭酸カルシウム(沈殿)に分離されます。その後、放冷すると、冷水に溶けにくい硝酸カリウムの純粋な結晶が得られました。この中煮塩硝(なかにえんしょう)をさらに鉄鍋で再結晶し、上質の上煮塩硝(うわにえんしょう、白色柱状結晶)を得ました。

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岩瀬家(五箇山、西赤尾、南砺市、富山、google画像より)

 現在、五箇山村上家岩瀬家には、塩硝土の培養に使われた穴跡や塩硝製造に用いられた道具(桶、鍋、釜、ザル)及び塩硝標本が当時の製紙、生活用具と共に展示されています。また、江戸時代後期の焔硝箱(えんしょうばこ)が石川県立歴史博物館展示されています。

 江戸の初期、火縄銃黒色火薬、土清水(つっちょうず)塩硝蔵跡(涌波町、金沢)で製造されていました。現在、火薬作り中枢(ちゅうすう)であった搗蔵(つきくら)が確認されています。江戸初期は、金沢城内、現在の小立野付近にあったが、度重なる大火事で、1658年(万治元年)、この場所に移されたと言う。

 最盛期の1865年(慶応元年)には、五箇山では、年間39トンもの塩硝が生産され、加賀藩に買い上げられています。当時、五箇山の塩硝は、質、量共に日本一の座にあったと言われています。明治時代に入り、チリ硝石ドイツ火薬が大量に輸入されるようになると、1870年(明治3年)には買い上げが停止され、五箇山塩硝は、約300年の歴史を残して急速に衰退しました。

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合掌造り集落(白川郷、白川、大野郡、岐阜、google画像)

 白川郷と近くの五箇山(南砺市、富山)の合掌造り集落は、1995年(平成7年)12月9日、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されています。この地域には、着工以来36年を経て、東海北陸自動車道が、2008年(平成20年)7月、全線開通し、白川郷IC五箇山ICより気軽に訪れることができ、秘境の観光名所として賑わっています。

(参考文献) 若林喜三郎監修: 石川県の歴史、北国出版社(1970); 若林喜三郎編: 加賀能登の歴史、講談社(1978); 中西孝、日吉芳朗、本浄高治: 化学風土記、わが街の化学史跡、加賀藩の産業・工芸の史跡と遺品(五箇山の塩硝)、化学と教育、日本化学会(1991); 富山県歴史散歩研究会(編集委員長、高井進)編: 富山県の歴史散歩、山川出版社(1992); 石川県の歴史研究会編(編集代表、奥村哲): 石川県の歴史散歩、山川出版社(1993); 石川化学教育研究会編: ポピュラーサイエンス、科学風土記、加賀・能登のサイエンス、中西孝、越中五箇山の塩硝(1)、板垣英治、同(2)、裳華房(1997).

(参考資料) 五箇山(流刑小屋、 南砺市、富山、google画像より): http://images.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E4%BA%94%E7%AE%87%E5%B1%B1%20%E6%B5%81%E5%88%91%E5%B0%8F%E5%B1%8B&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

五箇山(小さな世界遺産の村、上平、南砺市、富山): http://www.gokayama.jp/meguri/midokoro.html

五箇山から涌波(金沢)まで(塩硝の道を訪ねて、土清水、涌波、小立野、金沢、石川): http://www.spacelan.ne.jp/~sakiur-k/ensho1.html

東海北陸自動車道(高速道路、富山、岐阜、名古屋、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E5%8C%97%E9%99%B8%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A%E9%81%93&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

白川郷合掌造り集落(岐阜、五箇山含む、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E7%99%BD%E5%B7%9D%E9%83%B7%E5%90%88%E6%8E%8C%E9%80%A0%E3%82%8A%E9%9B%86%E8%90%BD&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi;

(追加説明) ○ 2013年(平成25年)3月27日、金沢市涌波町の加賀藩火薬製造所土清水薬合所跡が、文科省より国指定歴史遺跡指定され、石碑と説明の案内板が市道沿いに設置されました。001_2

国史跡 辰巳用水 附 土清水塩硝蔵跡(たつみようすい つけたり つっちょうずえんしょうぐらあと、涌波町、金沢) 2013年6月17日、金沢大学名誉教授、板垣英治先生より写真と関連パンフレットコピーの提供を受けました。

辰巳用水附土清水塩硝蔵跡(金沢市の文化財と歴史遺産、金沢市): http://www4.city.kanazawa.lg.jp/11104/bunkazaimain/shiteibunkazai/kinenbutsu/tatsumiyousui.html

 黒色火薬の生産

 黒色火薬は、原材料の塩硝(硝石)、硫黄、木炭調合して造られました。このうち塩硝越中五箇山で生産されていました。硫黄越中立山地獄谷採取し、滑川で精製された後、加賀の土清水塩硝蔵まで運ばれました。木炭は土清水塩硝蔵内の木灰所という施設で、原木として麻木を用いて生産されていました。

 これらの原材料は、搗蔵(つきくら)内に引き込んだ辰巳用水の水流で回した水車の力で粉砕にした後、調合所にて調合され、その後、水練り、切り出し、乾燥という工程を経て黒色火薬へと加工されていました。

 土清水塩硝蔵跡は、黒色火薬の原材料の貯蔵から火薬への加工、そして製品貯蔵搬出までを行う大規模施設であったということができます。(加賀藩における塩硝の生産について、金沢市都市政策局歴史文化部文化財保護課編集・発行パンフレットより)

 

 

 

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コメント

溝田智俊 様

一昨年、お問い合わせのありました、ブログの硝石は、その後、2014年3月、石川県立自然史資料館(金沢市銚子町リ441番地. TEL : 076-229-3450)へ寄贈しました。 もし調査ご希望でしたら、そちらの方にお問い合わせて下さい。
ホームページ: http://www.n-muse-ishikawa.or.jp/
              お知らせまで              本浄高治

写真に掲載の塩硝は現在どこに収蔵されているのか教えてください。

溝田 智俊 様

先日、私のブログに、「写真に掲載の塩硝は現在どこに収蔵されているのか教えてください。」とのメール
が2通届きました。
現在は個人の所有となっていますが、詳細はブログに説明しておきましたので、悪しからずご了承ください。
                         本浄 高治


投稿: 溝田智俊(みぞた ちとし) | 2013年7月 2日 (火) 10時14分

写真に掲載の塩硝は現在どこに収蔵されているのか教えてください。

溝田 智俊 様

先日、私のブログに、「写真に掲載の塩硝は現在どこに収蔵されているのか教えてください。」とのメール
が2通届きました。
現在は個人の所有となっていますが、詳細はブログに説明しておきましたので、悪しからずご了承ください。
                         本浄 高治

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