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2010年1月23日 (土)

白山(石川)の麓の巨樹、御仏供杉にまつわる歴史伝承、巨樹(巨木)、祇陀寺(鶴林寺、金沢)、大智禅師(肥後、熊本)、とは(2010.1.23)

  白山、吉野谷村(白山市、石川)の工芸の里近くに、1938年(昭和13年)8月8日に国指定天然記念物に指定された巨樹(きょじゅ)、御仏供杉(おぼけすぎ)、があります。

 巨樹とは、大きな立木、巨木のことで、地上から約1m30cmの位置での幹周(囲)が3m以上の樹木。なお、地上から約1m30cmの位置において幹が複数に分かれている場合には、個々の幹の幹周の合計が3m以上であり、そのうちの主幹の幹周が2m以上のものとする、と定義されています。

 悠久の時によって育まれた巨樹・巨木林は、わが国の森林・樹木の象徴的存在であり、良好な景観の形成や野生動物の生息環境、地域のシンボルとして人々の心のよりどころとなるなど、保全すべき自然として重要である。(自然環境保全基礎調査、緑の国勢調査、環境省より)

 はしなやかですが、はしっかりしています。これは、草も木も細胞壁(さいぼうへき)を持ち、その成分はセルロースという細い繊維質とヘミセルロースやリグニンという無定形の物質(マトリックス)とからできていますが、には特にリグニンが多く、木質部(もくしつぶ、細胞壁を固化して年輪を形成、二酸化炭素の固定)ができるからです。

 鉄筋コンクリートの建物でいえば、セルロースは鉄筋、ヘミセルロースは鉄筋を結びつける針金、リグニンはコンクリートにあたります。従って、鉄筋にあたるセルロースの並ぶ方向は、鉄筋コンクリートの性質を持っているので、二重三重に丈夫であり、高層建築、すなわち、巨樹になると言えます。

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御仏供杉(おぼけすぎ、吉野谷村、白山市、石川)

(解説) 御仏供杉は、樹齢約700年、樹高18.7m、目廻り7.6mの大樹で、その樹形が仏様にお供えする、おぼくさま、のよう(仏飯を盛ったような形)に見えることから、御仏供杉と呼ばれるようになりました。この杉は、別名、倒さ杉(さかさすぎ)、とも呼ばれ、この辺りは、14世紀の中頃(鎌倉末期から南北朝初期)、元(中国)から帰国した祖継大智(そけいだいち)が、地頭結城(ゆうき)一族に支えられて建てた祇陀寺(ぎだじ、禅寺、曹洞宗)と言われています。

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大智禅師(絹本著色、長谷川信春筆、石川県): http://www.pref.ishikawa.lg.jp/kyoiku/bunkazai/kaiga/k-10.html

 大智禅師は、1290年(正応3年)、肥後国(熊本)に生まれられ、幼い時(7才)に仏門に入り、1324年(正中元年)、中国(当時は元の国)での11年間の修行を終えて帰朝、翌年ここ吉野の山中(河内荘、吉野郷、加賀)にて、祇陀寺(ぎだじ、禅寺、曹洞宗)を開山されました。

 また、大智禅師は、1330年(元徳2年)に菊池武重(きくちたけしげ、菊池氏第13代当主、肥後)の願いを入れ、肥後に向かうにあたり、山ん寺から杖にしてこられた杉の小枝をさかさにさして、この木が根づいて繁盛すれば、仏法盛んになるべし、と言われて、村人に別れを告げられ、以後村人は仏の木として大事にお守りし、今の大樹になったと伝えられています。また、この木は、梢(こずえ)が四方に根が張ったように見え、どの枝も下に垂れたように下り、又上を向いています。これが倒さ杉と言う名の起こりです。

 その後、祇陀寺は、開創後100年で火災にあい、久しく絶えていたが、藩政期に入って越中守山(高岡、富山)で再興、まもなく金沢城下、八坂(やさか)の地に移り、大安寺と改め、さらに鶴林寺(東兼六町、金沢)と改称しました。この寺には、宋元画風に描かれた室町時代中期の作品、大智禅師画像が伝わっています。また、大智禅師祇陀寺にいた頃に選んだという、吉野十勝(十景)は、白山信仰とつながりを持つ修行場であり、白山信仰を基に定着させた曹洞禅の一つの姿を伝える名残と言われています。

 現在、この地の周辺は、吉野工芸の里ですが、すぐ近く、手取峡谷の黄門橋を渡り右に歩くと、1985年(昭和60年)、日本の名水百選に選ばれた弘法池の水が湧き出しています。

(参考文献) 石川県の歴史研究会編(編集代表、奥村哲): 石川県の歴史散歩、山川出版社(1993); 熊本県高等学校社会科研究会編、熊本県の歴史散歩、山川出版会(2000).

(参考資料) 自然環境保全基礎調査(緑の国勢調査): http://www.biodic.go.jp/kiso/13/13_kyoju.html

大智禅師: http://www.kumashoko.or.jp/shiranui/local/kankou/taichi.html

吉野工芸の里(吉野、白山市、石川): http://hakusan-no-megumi.jp/nature/nature_detail.php?P=42

(追加説明) ○ 大智禅師は、1338年(延元3年、暦応元年)、菊池武重より宏大な所領の寄進を受け、聖護寺(しょうごじ、曹洞宗、菊池、熊本)を創建、ここで禅師は20年間修行し、その教えは菊池一門の心の支えとなりました。1942年(昭和17年)頃から大智の遺徳を慕う村上素道により、もとの所に現在の聖護寺が再興されています。

○ 足利尊氏が建武の新政から離脱し、反旗を翻すと、菊池武重(きくちたけしげ)は後醍醐天皇の近くに仕え、日本各地を転戦しました。

 菊池氏は、太宰府府官の出身ですが、菊池 武重、1307年(徳治2年)?~1338年(延元3年、暦応元年)?は、鎌倉時代末期から南北朝時代頃の武将、菊池氏第13代当主(第12代当主、菊池武時の嫡男)です。1333年(元弘3年)、父の武時と共に挙兵し、鎌倉幕府の鎮西探題、北条英時を攻めたが、逆に英時や少弐貞経、大友貞宗らの反撃を受け父は討死、武重は命からがら本国に逃げ帰りました。後醍醐天皇による建武の新政が始まると、亡父の功績を賞されて肥後(熊本)一国を与えられました。

 1335年(建武2年)、足利尊氏後醍醐天皇反逆、鎌倉より軍を率いて侵攻すると、弟の菊池武吉と共に新田義貞に加わって足利軍と戦ったが、敗れて京都に逃げ帰りました。その後、九州に落ちた尊氏が再挙して攻め上ってくると、武重は兵庫など各地で足利軍と戦ったが、敗れて足利軍に捕えられました。しかし一命は助けられて、肥後に送り返されています。

 1337年(延元2年、建武4年)2月、九州における南朝勢力を結集して北朝勢力と戦ったが、1338年(延元3年、暦応元年)に死去。後を弟の菊池武士が継ぎました。

 

 

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