« サイエンス(科学)から眺める歴史散歩の話題(2010.1.1.迎春、年賀、犀川の雪景色) | トップページ | 米騒動(魚津、富山)にまつわる歴史実話、シベリア出兵、大戦景気、越中女一揆、とは(2010.1.12) »

2010年1月 8日 (金)

大伴家持(越中国司、歌人)と気多神社(能登、石川)にまつわる歴史実話、能登の国歌(万葉集)、気多神社、入らずの森、海行かば、とは(2010.1.8)

  古代(奈良時代)、718年(養老2年)、越前国から羽咋(はくい)、能登(のと)、鳳至(ふげし)、珠洲(すず)の4郡が分離され、能登国ができました。その国も、741年(天平13年)、越中国に併合され、757年(天平宝字元年)、再び能登国となっています。

220pxsanjrokkasengaku__5__kan_tany_

大伴家持(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E5%AE%B6%E6%8C%81

 大伴家持(おおとものやかもち)、718年(養老2年)頃~785年(延暦4年)は、746年(天平18年)、29才、越中国司(在任5年)に任命され、748年(天平20年)の春、租税の割り当ての財源確保のため、能登巡行を行っています。その経路は、射水(いみず)の国府(高岡、富山)を出発して、之乎地(しおじ、志雄路)を通り、気多神社(けたじんじゃ)に参拝、羽咋の海の邑知(おうち)潟を詠い、香島津(かしまつ、七尾港)から熊来(くまき、中島町)への舟中でしきりに都を恋い、能登半島を横断して劔地(つるぎじ)へ廻り、輪島(わじま)から外浦海岸を巡って珠洲から海路を国府へ帰りました。

Imagescaznytm3

気多神社本殿(羽咋、能登、石川)

 万葉集には、能登国歌として、大伴家持が能登巡行の折りに詠んだ歌(10首)と能登地方の歌(3首)がおさめられていて、8世紀頃の能登の暮らしが読み取れます。

 能登の熊来では、梯立(はしだて)の 熊来のやらに 新羅斧(しらぎおの) 墜(おと)し入れ わし 懸けて懸けて 勿(な)泣かしそね 浮き出づるやと 見む わし、と詠んでいます。特に、熊来の沼で新羅を使っていたことを詠んだこの歌は、能登と朝鮮半島との深いつながりが感じられます。

 七尾湾の机島(つくえじま)でシタダミという小貝の殻を石で割り、海水で洗っている嫁の姿を見て、香島嶺(かしまね)の机の島の 小螺(しただみ)を い拾 持ち来て 石以(いしも)ち 突き破り 早川に洗ひ濯(すす)ぎ 辛塩(からしお)に こごと揉(も)み 高杯に盛り 机に立てて 母に奉りつや めご児の刀自 父に奉りつや むめ児の刀自、と詠んでいます。

 珠洲の郡より船出して、治布に還るとき、長浜の湾に泊まって、月光を仰ぎ見た時、珠洲の海に 朝びらきして 漕ぎ来れば 長浜の湾(うら)に 月照りにけり、と詠んでいます。 

 気多神社(祭神、大己貴、おおなむち、羽咋、能登)は、正面に近世初期に建てられた簡素な神門、そして1653年(承応2年)~1654年(承応3年)に建立の拝殿があり、海に向かって開かれた神のすみかの長い歴史を見ることができます。

 拝殿の奥には、中央に気多神社本殿、右手に摂社白山神社本殿、左手に摂社若宮神社本殿の三つの本殿が並んでいます。

 越中守大伴家持は、748年(天平20年)、気太神宮参詣し、海辺を行ってる時、之乎路から 直越え来れば 羽咋の海 朝凪(な)ぎしたり 船楫もがも、と詠んでいます。

 気多神社は、古代は、神格が高い名神大社となり、中世は、能登の一ノ宮として守護の畠山氏の保護を受け、近世は、前田家の手厚い保護を受け、明治を迎えました。

Imagescak8nehi

入らずの森(いらずのもり、気多神社本殿背後、羽咋、能登、石川)

 気多神社本殿背後の約3ヘクタールの森の中心部は、タブ、シイの大木がそびえ、それを取り巻くようにヤブツバキ、ヤブニッケイなどが生い茂る、通称、入らずの森(いらずのもり)、と呼ばれる社叢(しゃそう)があります。その名の通り、誰も足を踏み入れることはできないのですが、常緑広葉樹の名残をとどめる自然植物群落として、1967年(昭和42年)、国の天然記念物に指定されました。社叢は神々の森、すなわち鎮守の森のことで、神社には必ず社叢があり、少なくともその名残の樹林(社叢林、極相林)が見られます。

 から日本の人々は新しい集落に必ず「土地本来のふるさとの木によるふるさとの森」、鎮守の森をつくってきた、という。おろか者に破壊させないために、神社や寺をつくり、この森を切ったら罰があたる、というふうに守ってきた。それらの森は、地震、台風、火事などの災害の時には逃げ場所になった。ふるさとの木は自然が管理するが、そうでない木は管理に大きな労力と経費を要する。(宮脇昭、都市の植生のゆくえ、より)

 鎮守の森は、自然と人間の共生の場でもある。植物学者の南方熊楠(生物学、民族学)、1867年(慶応3年)~1941年(昭和16年)が強調しているように、鎮守の森は住民共同体の自治の場で、神と水を共に味わって心を同じくする「一味同心」の集合の場であった。また、貴重な動植物が生きている景勝の地であり、歴史と伝承が息づく聖域であった。

 このような思想を受け継ぎ、鎮守の森の保全と活用は21世紀の重要な課題ということで、2002年(平成14年)5月26日(日)に学際の「社叢学会」が京都の賀茂御祖(下鴨)神社の糺の森(ただすのもり)研修道場で上田正昭、1927年(昭和2年)~、京都大学名誉教授(歴史学、小幡神社宮司)が初代理事長となって設立されました。 

(参考文献) 富山県歴史散歩研究会(編集委員長、高井進)編: 富山県の歴史散歩、山川出版社(1992); 石川県の歴史研究会編(編集代表、奥村哲): 石川県の歴史散歩、山川出版社(1993).

(参考資料) 高岡市万葉歴史館(伏木、高岡、富山): http://www.manreki.com/; 大伴家持と能登の海: http://www.geocities.jp/une_genzaburo/yakamochi.htm; 

 気多神社(能登、羽咋、石川): http://inoues.net/ruins2/keta_taisha.html; 気多神社(能登、羽咋、石川、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%B0%97%E5%A4%9A%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%80%E8%83%BD%E7%99%BB&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi; 気多神社(伏木、高岡、富山、google画像、天平宝字元年(757年)頃、気多神社(羽咋、能登、石川)から分霊) : http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%B0%97%E5%A4%9A%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%80%E9%AB%98%E5%B2%A1&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

 入らずの森(気多神社、能登、羽咋、石川): http://www.keta.jp/honden/mori.html

(追加説明) 

〇 万葉集は現存する最古の歌集で、20巻、編者、成立年代ともに不明ですが、全巻の完成は8世紀末頃で、大伴家持編纂に関係したことは確実とされる。総歌数約4500,短歌4200余首と長歌約260首が主体をなしている。部立(ぶだて)の基本は、雑歌(ぞうか)、相聞(そうもん)、挽歌(ばんか)である。主要な作家は、有間(ありま)皇子、額田(ぬかだ)王、柿本人麻呂、山上憶良(やまのうえのおくら)、山部赤人(やまべのあかひと)、大伴旅人、高橋虫麻呂、大伴家持などがある。和歌集として最高の達成を示すと共に、万葉仮名による表記法は、国学上極めて重要な資料となっている。(小百科事典、平凡社より)

〇 今年、2017年(平成29年)は、万葉歌人の大伴家持(718~785)が誕生して1300年(数え年)にあたる。第二次大戦中、ほとんどの日本人が耳にした「海ゆかば」の歌詞は、家持が越中国守在任中に詠んだ長歌の一節。

 作曲した信時潔(のぶとき・きよし、1887~1965)は戦後、軍国主義に同調したとして冷遇された。この曲は、コラール(J・S・バッハ、讃美歌の一種)風のシンプルながら端正な構成と荘重な響きで芸術性が高く親しみやすい。

軍歌・準国歌 海行かば(YouTube,mjrkwe1945):https://www.youtube.com/watch?gl=CO&feature=related&hl=es-419&v=PfBebI2oFp4

 「海行かば水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば草生(む)す屍 大君の辺(へ)にこそ死なめ 顧みはせじ」 戦時中、陸海軍部隊の玉砕の際などに、鎮魂歌としてラジオで放送され、人々の涙を誘った「海ゆかば」。今や、そのラジオ放送を聴いた人もほとんどが鬼籍に入り、歌える人も少ない。

 戦時中、この歌は「君が代」に次ぐ第二国歌、準国家なみの扱いを受け、国民に親しまれた。戦後、「天皇の側でこそ死のう。わが身を振り向くまい」という意味が災いして、軍国主義を助長したとして長く封印されてきた。

 この歌詞が、万葉歌人大伴家持が越中国守時代に作った長歌の一節であり、大伴氏の言立て(家訓)であることはあまり知られていない。大伴氏の遠い祖先に思いをはせ、家訓を取り上げ歌う。

 「大伴氏は勇敢な男の清らかな名を今に伝える一族だ。家訓を守り天皇に仕えるのが役目だ。手に弓を、腰に剣を帯びて朝夕に天皇をお守りするのは大伴をおいていない」「大君の辺にこそ死なめ」「みかどの守り、われをおきて人はあらじ」。大伴氏の遠い先祖から受け継いだ、この”血の信念”を家持は終生持ち続ける。

越中 万葉歌碑 勝興寺: http://www.info-toyama.com/spot/80125/

 家持が国守として執務し越中国庁は、富山県高岡市伏木古国府の勝興寺(浄土真宗、富山)のある場所にあったとされる。平成の修理が続くその境内に「海行かば」の歌碑が立っている。家持が歌を詠んだ国守館は、寺から程近い高岡市伏木気象資料館(旧伏木測候所)にあったと伝えられている。

(北陸中日新聞(名古屋出版部・小松泰静):海ゆかばの実像、大伴氏の家訓 時代に翻弄、2017年7月15日(土)より)

 

« サイエンス(科学)から眺める歴史散歩の話題(2010.1.1.迎春、年賀、犀川の雪景色) | トップページ | 米騒動(魚津、富山)にまつわる歴史実話、シベリア出兵、大戦景気、越中女一揆、とは(2010.1.12) »

● のと、かが(四季折々、能登半島、白山市、能美市、小松市、石川県)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1802629/48324975

この記事へのトラックバック一覧です: 大伴家持(越中国司、歌人)と気多神社(能登、石川)にまつわる歴史実話、能登の国歌(万葉集)、気多神社、入らずの森、海行かば、とは(2010.1.8):

« サイエンス(科学)から眺める歴史散歩の話題(2010.1.1.迎春、年賀、犀川の雪景色) | トップページ | 米騒動(魚津、富山)にまつわる歴史実話、シベリア出兵、大戦景気、越中女一揆、とは(2010.1.12) »

2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

カテゴリー

フォト

アクセス解析

無料ブログはココログ