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2010年1月の7件の記事

2010年1月25日 (月)

内灘闘争(内灘砂丘、石川)にまつわる歴史実話、朝鮮戦争、米軍基地反対闘争、非行少女(映画)、とは(2010.1.25)

 内灘砂丘(うちなださきゅう)は、日本海の近く、内灘村(のち内灘町、河北、石川)にある日本の代表的な砂丘の一つです。今から60年ほど前、朝鮮戦争勃発、この内灘砂丘米軍各種砲弾試射場として接収され、村民が中心となり、ムシロ旗金は1年、土地は万年)を立て、炎天下の着弾地点に座り込みを続ける、日本さきがけの米軍基地反対闘争が繰り広げられました。政府は、4年余の後、内灘村に試射場の土地を全面返還しました。

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内灘砂丘から眺めた日本海(内灘海水浴場、内灘、河北、石川)

(解説) 1950年(昭和25年)6月25日、北朝鮮軍は、北緯38度線を越え、韓国を奇襲攻撃し、朝鮮戦争が勃発しました。米軍を中心とした国連軍の参戦、中国の人民義勇軍の参戦、ソ連の北朝鮮援助と、戦況はめまぐるしく展開しました。

 同年7月8日、連合国軍最高司令官、マッカーサー元帥は、日本に国家警察予備隊(のち自衛隊創設海上保安庁拡充指令し、朝鮮戦争に備えました。

 1951年(昭和26年)9月8日、サンフランシスコ調和条約において、対日平和条約と同時に結ばれた日米安全保障条約調印は、その後の日本国内米軍基地における紛争事件根源となりました。

 内灘村(のち内灘町)は、金沢市の北郊、河北潟畔の砂丘地に位置する貧しい寒村でした。男は遠洋漁業に出稼ぎに行き、女は村近くで獲れた漁獲物(沿岸漁業、地引き網漁など)を頭上にのせて売り歩き(振売、ふりうり)、金沢市民から、いただきと呼ばれていました。

 1952年(昭和27年)9月6日、米軍用地接収係が秘かに内灘砂丘地(旧陸軍演習地)を視察、10日後、日本政府内灘砂丘地及び接岸海域接収を決定、米軍各種砲弾試射場指定されました。これは、小松製作所(小松、石川)で、朝鮮戦争特需砲弾製造され、その試射場として内灘砂丘接収されるというニュースでした。

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米軍各種砲弾試射、着弾地観測所跡(内灘砂丘、内灘、石川、google画像)

(解説) 内灘村民は、米軍進駐による風紀問題、試射による爆音や震動(着弾の時、地響きしたという)が漁業に深刻な影響を与えること、接収期間が半永久的であることを心配し、ムシロ旗を立て県庁に押しかけ、同年10月、県議会も接収反対の決議をしたため、政府は、総選挙を控えていたので、しばらく見送りました。新聞には、内灘砂丘接収に猛反対、わが生活を奪うもの、緊急村議会で絶対反対を決議、畑とられ漁とられ、村には宿命の砂丘など、大きく取り上げられました。

 しかし、第26回衆院選挙において、吉田茂(よしだしげる)、1878年(明治11年)~1967年(昭和42年)は、自由党を率いて大勝、第4次吉田内閣、1952年(昭和27年)10月30日~1953年(昭和28年)5月18日が成立すると、同年12月、4ヶ月間期限付き接収を決定、砂丘には、鉄板道路、コンクリート製のかまぼこ形の珍しい構築物を建造、立ち入り禁止となり、1953年(昭和28年)3月から試射が始まりました。  

 その後、1953年(昭和28年)4月の第3回参院選挙は内灘問題が最大の争点となりました。接収促派林屋亀次郎(国務大臣、自由党)と反対派井村徳二改進党)の両候補が戦い、武蔵(林屋、武蔵ヶ辻丸越百貨店の経営者)と大和(井村、片町大和百貨店の経営者)の内灘沖海戦と呼ばれました。井村は革新陣営からも支持され、21万票対19万票(1万6000票余差)で林屋落選、内灘問題に対する県民の審判が下されました。

 しかし、1953年(昭和28年)3月14日のバカヤロー解散後、第5次吉田内閣、1953年(昭和28年)5月21日~1954年(昭和29年)12月7日は、少数与党のため、改進党連携し、内灘地区の漁業補償措置無期限使用閣議決定、使用強行を発表しました。

 内灘村民はあくまで試射中止と土地返還を要求、1953年(昭和28年)6月13日、試射場での座り込み、また、学生らのデモ、北鉄労組の軍需物質輸送拒否ストの応援など、激しい運動が展開されました。

 しかし、日本中が朝鮮特需の時期であり、政府による、試射場が日本経済を支えているという説得、また、愛村同志会による地域利益優先条件闘争により、内灘村は3年間の使用を認めることで妥結、基地反対闘争終息しました。その結果、漁業及び公共事業(農地として河北潟の干拓、学校、医療などの諸施設、上下水道の整備、道路の改修、防風林など)の保障要求が認められました(国の保証金と見舞金は、22憶4000万円、当時の村の予算は2000万円)が、村民の表情は複雑なものでした。

 1953年(昭和28年)9月から米軍による砲弾試射が開始され、3年余の後、1957年(昭和32年)1月23日、政府は、内灘村試射場土地全面返還しました。これは、戦後の日本の米軍基地反対闘争のさきがけとして、全国的にも注目された事件でした。

 ところで、1963年(昭和38年)3月17日、和泉雅子主演、非行少女(浦山桐郎監督)という日活映画が公開され、そのタイトルにひかれて見たことがあります。

 この映画が内灘闘争内灘村舞台に描かれている(少女とその家族が闘争に巻き込まれること、地元住民の人間関係など)とは、2006年(平成18年)、内灘町歴史民俗資料館風と砂の館を訪ねるまで知らず、エッと驚きましたが、どういうわけか、美しい少女が鍬(くわ)を振り上げ畑を耕している姿しか思い浮かびませんでした。

(参考文献) 若林喜三郎監修: 石川県の歴史、北国出版社(1970); 若林喜三郎編: 加賀能登の歴史、講談社(1978); 石川県の歴史散歩、山川出版社(1993); 永原慶二監修: 日本史事典、岩波書店(1999); 野島博之(監修)、成美堂出版編集部編: 昭和史の地図、成美堂出版(2005); 詳説日本史図録編集委員会: 山川 詳説日本史図録(第2版)、山川出版社(2009).

(参考資料) 内灘闘争(内灘町、石川):http://www.town.uchinada.lg.jp/webapps/www/info/detail.jsp?id=115;  

内灘闘争(内灘、石川、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%86%85%E7%81%98%E9%97%98%E4%BA%89&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

内灘町歴史民俗博物館(風と砂の館、内灘、石川):http://www.jtb.co.jp/kokunai/Sight.aspx?bookid=A3201170; 風と砂の館(内灘、石川): http://www2s.biglobe.ne.jp/~west_v/newpage18.htm

非行少女(日活映画)の原作は青い靴(森山啓作、原題は三郎と若江): http://www.lib.city.komatsu.ishikawa.jp/moriyama/kei3/kei3.html; 非行少女(日活映画、内灘、石川、google画像):http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E9%9D%9E%E8%A1%8C%E5%B0%91%E5%A5%B3%E3%80%81%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%80%81%E5%92%8C%E6%B3%89%E9%9B%85%E5%AD%90&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi 

(追加説明) ○ 砂丘(さきゅう)とは、風によって運ばれた砂が堆積して出来た丘状の地形です。日本三大砂丘と言えば、吹上浜(ふきあげはま、鹿児島)、鳥取砂丘(とっとりさきゅう、鳥取)、遠州灘砂丘(えんしゅうなださきゅう、南遠大砂丘とも、中田島砂丘、静岡)と言われていますが、九十九里浜(くじゅうくりはま、千葉)、内灘砂丘(うちなださきゅう、石川)、庄内砂丘(しょうないさきゅう、山形)を挙げる人もいて、定説はないようです。

○ 内灘河北潟干拓は、藩政末期、海の百万石、豪商銭屋五兵衛(ぜにやごへえ、銭五、金石、金沢、加賀)の干拓による農地開墾事業があり、河北潟に毒を投入したとの疑い(冤罪、えんざい?)で、1852年(嘉永5年)、加賀藩により一族が逮捕され(藩当局が、銭五の海運業における密貿易のうわさが幕府に発覚するのを恐れたこと、また、藩の借財などの思惑が絡む?)、投獄、処刑される事件が起こりました。その頃、魚が獲れないことなど、干拓に強く反対した沿岸漁民の子孫が、100年余の後、内灘闘争を契機として、河北潟干拓の実現を図り、その干拓が完成した時、日本の米作農業は、減反政策などの曲り角を迎え、時代の流れとはいえ、複雑な思いがします。

○ 韓国、北朝鮮国境地帯については、太平洋戦争の終戦日、1945年(昭和20年)8月15日、朝鮮は日本の植民地支配から解放されましたが、北緯38度線の北側はソ連軍の、南側は米軍の占領下に入っていました。1948年(昭和23年)8月、大韓民国成立、大統領は李承晩(イスンマン)、また9月、朝鮮民主主義人民共和国が成立、首相は金日成(キムイルソン)となり、1950年(昭和25年)6月25日~1953年(昭和28年)7月27日、朝鮮戦争が勃発しました。

○ 太平洋戦争終戦日については、1945年(昭和20年)8月14日、御前会議にて、ポッダム宣言(日本軍の武装解除、領土の限定、戦争犯罪人の処罰などを骨子とする米、英、中3ヶ国からの降伏勧告)受諾を決定、同年8月15日、正午のラジオで国民にポッダム宣言受諾を発表、終戦となりました。

 トルーマン米大統領は、太平洋軍最高司令官マッカーサー陸軍元帥を、英中ソ各国の同意を得て、連合国軍最高司令官に任命、天皇の地位と日本の国家統治を制限し得る絶大な権力が与えられました。同年9月2日、東京湾に停泊した米戦艦ミズーリ上で、米、中、英、ソ連、オーストラリア、カナダ、仏、オランダ、ニュージランド各国代表と降伏文書に調印し、日本の敗戦が決定しました。

○ 日米安全保障条約は、戦後日本の戦略体制を決定づけてきたもので、1960年(昭和35年)1月19日に調印されました。1951年(昭和26年)9月8日に、平和条約と同時にサンフランシスコで日米間に締結された、安全保障条約を全面的に改定したもので、その内容は、相互協力と安全保障ということに変わりました。

 

2010年1月23日 (土)

白山(石川)の麓の巨樹、御仏供杉にまつわる歴史伝承、巨樹(巨木)、祇陀寺(鶴林寺、金沢)、大智禅師(肥後、熊本)、とは(2010.1.23)

  白山、吉野谷村(白山市、石川)の工芸の里近くに、1938年(昭和13年)8月8日に国指定天然記念物に指定された巨樹(きょじゅ)、御仏供杉(おぼけすぎ)、があります。

 巨樹とは、大きな立木、巨木のことで、地上から約1m30cmの位置での幹周(囲)が3m以上の樹木。なお、地上から約1m30cmの位置において幹が複数に分かれている場合には、個々の幹の幹周の合計が3m以上であり、そのうちの主幹の幹周が2m以上のものとする、と定義されています。

 悠久の時によって育まれた巨樹・巨木林は、わが国の森林・樹木の象徴的存在であり、良好な景観の形成や野生動物の生息環境、地域のシンボルとして人々の心のよりどころとなるなど、保全すべき自然として重要である。(自然環境保全基礎調査、緑の国勢調査、環境省より)

 はしなやかですが、はしっかりしています。これは、草も木も細胞壁(さいぼうへき)を持ち、その成分はセルロースという細い繊維質とヘミセルロースやリグニンという無定形の物質(マトリックス)とからできていますが、には特にリグニンが多く、木質部(もくしつぶ、細胞壁を固化して年輪を形成、二酸化炭素の固定)ができるからです。

 鉄筋コンクリートの建物でいえば、セルロースは鉄筋、ヘミセルロースは鉄筋を結びつける針金、リグニンはコンクリートにあたります。従って、鉄筋にあたるセルロースの並ぶ方向は、鉄筋コンクリートの性質を持っているので、二重三重に丈夫であり、高層建築、すなわち、巨樹になると言えます。

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御仏供杉(おぼけすぎ、吉野谷村、白山市、石川)

(解説) 御仏供杉は、樹齢約700年、樹高18.7m、目廻り7.6mの大樹で、その樹形が仏様にお供えする、おぼくさま、のよう(仏飯を盛ったような形)に見えることから、御仏供杉と呼ばれるようになりました。この杉は、別名、倒さ杉(さかさすぎ)、とも呼ばれ、この辺りは、14世紀の中頃(鎌倉末期から南北朝初期)、元(中国)から帰国した祖継大智(そけいだいち)が、地頭結城(ゆうき)一族に支えられて建てた祇陀寺(ぎだじ、禅寺、曹洞宗)と言われています。

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大智禅師(絹本著色、長谷川信春筆、石川県): http://www.pref.ishikawa.lg.jp/kyoiku/bunkazai/kaiga/k-10.html

 大智禅師は、1290年(正応3年)、肥後国(熊本)に生まれられ、幼い時(7才)に仏門に入り、1324年(正中元年)、中国(当時は元の国)での11年間の修行を終えて帰朝、翌年ここ吉野の山中(河内荘、吉野郷、加賀)にて、祇陀寺(ぎだじ、禅寺、曹洞宗)を開山されました。

 また、大智禅師は、1330年(元徳2年)に菊池武重(きくちたけしげ、菊池氏第13代当主、肥後)の願いを入れ、肥後に向かうにあたり、山ん寺から杖にしてこられた杉の小枝をさかさにさして、この木が根づいて繁盛すれば、仏法盛んになるべし、と言われて、村人に別れを告げられ、以後村人は仏の木として大事にお守りし、今の大樹になったと伝えられています。また、この木は、梢(こずえ)が四方に根が張ったように見え、どの枝も下に垂れたように下り、又上を向いています。これが倒さ杉と言う名の起こりです。

 その後、祇陀寺は、開創後100年で火災にあい、久しく絶えていたが、藩政期に入って越中守山(高岡、富山)で再興、まもなく金沢城下、八坂(やさか)の地に移り、大安寺と改め、さらに鶴林寺(東兼六町、金沢)と改称しました。この寺には、宋元画風に描かれた室町時代中期の作品、大智禅師画像が伝わっています。また、大智禅師祇陀寺にいた頃に選んだという、吉野十勝(十景)は、白山信仰とつながりを持つ修行場であり、白山信仰を基に定着させた曹洞禅の一つの姿を伝える名残と言われています。

 現在、この地の周辺は、吉野工芸の里ですが、すぐ近く、手取峡谷の黄門橋を渡り右に歩くと、1985年(昭和60年)、日本の名水百選に選ばれた弘法池の水が湧き出しています。

(参考文献) 石川県の歴史研究会編(編集代表、奥村哲): 石川県の歴史散歩、山川出版社(1993); 熊本県高等学校社会科研究会編、熊本県の歴史散歩、山川出版会(2000).

(参考資料) 自然環境保全基礎調査(緑の国勢調査): http://www.biodic.go.jp/kiso/13/13_kyoju.html

大智禅師: http://www.kumashoko.or.jp/shiranui/local/kankou/taichi.html

吉野工芸の里(吉野、白山市、石川): http://hakusan-no-megumi.jp/nature/nature_detail.php?P=42

(追加説明) ○ 大智禅師は、1338年(延元3年、暦応元年)、菊池武重より宏大な所領の寄進を受け、聖護寺(しょうごじ、曹洞宗、菊池、熊本)を創建、ここで禅師は20年間修行し、その教えは菊池一門の心の支えとなりました。1942年(昭和17年)頃から大智の遺徳を慕う村上素道により、もとの所に現在の聖護寺が再興されています。

○ 足利尊氏が建武の新政から離脱し、反旗を翻すと、菊池武重(きくちたけしげ)は後醍醐天皇の近くに仕え、日本各地を転戦しました。

 菊池氏は、太宰府府官の出身ですが、菊池 武重、1307年(徳治2年)?~1338年(延元3年、暦応元年)?は、鎌倉時代末期から南北朝時代頃の武将、菊池氏第13代当主(第12代当主、菊池武時の嫡男)です。1333年(元弘3年)、父の武時と共に挙兵し、鎌倉幕府の鎮西探題、北条英時を攻めたが、逆に英時や少弐貞経、大友貞宗らの反撃を受け父は討死、武重は命からがら本国に逃げ帰りました。後醍醐天皇による建武の新政が始まると、亡父の功績を賞されて肥後(熊本)一国を与えられました。

 1335年(建武2年)、足利尊氏後醍醐天皇反逆、鎌倉より軍を率いて侵攻すると、弟の菊池武吉と共に新田義貞に加わって足利軍と戦ったが、敗れて京都に逃げ帰りました。その後、九州に落ちた尊氏が再挙して攻め上ってくると、武重は兵庫など各地で足利軍と戦ったが、敗れて足利軍に捕えられました。しかし一命は助けられて、肥後に送り返されています。

 1337年(延元2年、建武4年)2月、九州における南朝勢力を結集して北朝勢力と戦ったが、1338年(延元3年、暦応元年)に死去。後を弟の菊池武士が継ぎました。

 

 

2010年1月21日 (木)

冬(2010年1月21日)、わが家(桜田、金沢)から眺める霊峰白山、加賀100万石前田藩主の眠る野田山、金沢出身の作家、室生犀星のふるさと、犀川の風景

 石川県は全国的にみて、雨の多い地方ですが、降水の大部分は雪です。冬にシベリア方面から吹いてくる冷たい北風は、暖かい日本海の大量の水蒸気を白山を中心とした加賀山地に運び、山にぶち当て、大雪をもたらします。この雪はやがて清らかな水に変わり、郷土の豊かな自然を生み出す源(みなもと)となります。

 白山は標高2702m、石川、福井、富山、岐阜の4県を含む白山国立公園に指定されています。高山植物の宝庫として知られる頂上部、裾野に広がる広大なブナ林、野生動物など、貴重な自然が残されています。(石川県白山自然保護センター、ホームページ):http://www.pref.ishikawa.jp/hakusan/index.htm.)

 野田山は金沢市街の南西部、標高約180mの小高い山で、豊かな自然に恵まれ、加賀藩主前田家墓地はじめ多くの著名人、一般市民が眠る、墓石約5万の一大霊園地となっています。1587年(天正15年)、初代藩主前田利家の兄利久をここに葬ったのが墓地の始まりとされています。 野田山墓地(前田家墓地): http://kimassi.net/nodaboti/nodaboti.html).

 犀川の源流は、石川、富山の3市(金沢、白山、南砺)の境、白山国立公園の北端、標高1644mの奈良岳(ならだけ)にあり、全長34km、日本海に向かって流れています。

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白山(背後の右端の雪に覆われている一番高い山、標高 2702m)、野田山(手前中央の金沢市街に近い低い山、右隣は野々市市) 

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野田山墓地(手前の金沢市街に近い低い山一帯、標高 約180m)、左端背後の山麓に金沢大学(角間キャンパス)

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犀川源流は上流の標高1644mの奈良岳)、背後は卯辰山、手前は金沢の中心街、片町、香林坊、金沢城、兼六園

 私は、1969年(昭和44年)4月、京都大学(大学院理学研究科化学専攻博士課程修了)から金沢大学(理学部化学教室分析化学研究室)に勤務し、約3年ほど一人で金沢市内に下宿、中央通町(米沢様方)、長町(岩岸様方)、長土塀町(中島様方)、山科町(古町様方)と、転居を繰り返したことがあります。

 その後、家庭を持ち、1972年(昭和47年)5月~2003年(平成15年)3月まで、野田山の麓、平和町(金沢)の公務員宿舎(1丁目、あと3丁目、3階)に住んでいました。 

 2003年(平成15年)4月には、桜田町(金沢)のサーパスマンション(一番館、10階)に転居し、2006年(平成18年)3月、金沢大学を定年退職、金沢大学名誉教授となりました。

 わが家のベランダから、東南方向には、日本三名山、白山、加賀100万石前田藩主の眠る野田山を遠望し、眼下には、金沢出身の作家、室生犀星のふるさと、犀川の流れを眺めることができます。  

2010年1月18日 (月)

五箇山(加賀藩の流刑地)にまつわる歴史秘話、加賀騒動(大槻伝蔵)、塩硝(培養法)、合掌造り(白川郷)、国史跡・辰巳用水附土清水塩硝蔵跡(金沢)、とは(2010.1.18)

  近世(江戸時代)、人は、加賀騒動(かがそうどう、重臣大槻伝蔵、加賀)、伊達騒動(だてそうどう、3代藩主伊達綱宗、仙台)、黒田騒動(くろだそうどう、家老栗山大膳、黒田、筑前、福岡)を、日本の三大騒動、と呼んでいます。

 加賀騒動は、加賀前田家の家督相続をめぐる御家騒動です。大槻伝蔵(おおつきでんぞう、朝元、とももと)、1703年(元禄16年)~1748年(寛延元年)は、足軽の子(3男)として生まれ、加賀6代藩主前田吉徳(まえだよしのり)、1690年(元禄3年)~1745年(延享2年)の時、1716年(京保元年)14才で御居間坊主(おいまぼうず)に召し抱えられ、財政状態が慢性的な累積赤字を出していた時、財政改革(こまかい計算による節約、大阪の商人から何とか借金を続けること、など)を断行、その手腕を認められて寵愛(ちょうあい)を受け、わずか28年間に3800石の大身まで出世しました。

 大槻伝蔵(おおつきでんぞう、革新派)の破格登用を喜ばぬ家老前田直躬(まえだなおみ、保守派)、1714年(正徳4年)~1774年(安永3年)らにより、1745年(延享2年)、56才、吉徳の急死後、伝蔵と吉徳の側室、お貞(おてい、真如院、しんにょいん)が密通、真如院の子を藩主にさせようと画策(歴代藩主、5代吉徳、6代宗辰の暗殺、その弟、7代重熙の毒殺を企てたこと)、真如院と伝蔵の恋文の発見などの罪状(でっち上げ?)より、1748年(寛延元年)、46才、五箇山祖山(そやま)に送られ、自刃(じじん)しました。また、奥女中浅尾は蛇責め、それを見せられた真如院は悶死、伝蔵の関係者は全て断罪、となりました。真如院の子勢之助は、相続順位から外され、町外れに幽閉されていましたが、ついに発狂して暴死しました。この騒動は、実録小説、浄瑠璃、講談などの題材として著名です。

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流刑小屋(五箇山、田向、たむかい、南砺市、富山、google画像)

(解説) 五箇山加賀藩流刑地となったのは、1667年(寛文7年)、関所を置いて重罪人の流刑地としたからです。 本格的な指定は1690年(元禄3年)以後のことですが、流刑地として断崖絶壁の庄川右岸があてられ、田向(たむかい)のほか、祖山(そやま)、大崩島(おくずしま)、籠渡(かごど)、小原(おはら)、猪谷(いのたに)などが選ばれました。 

 田向の村へ上る小高い丘の中腹に、間口2.77m、奥行3.63m、高さ3m、中に便所を備えた流刑小屋があります。重罪人を収容した、お縮(しま)り小屋と呼ばれたもので、食事の差し入れなどは柱を切り込んだ小窓を利用していました。この流刑小屋は、1769年(明和6年)、田向村の大火で焼失、その後、再建、1963年(昭和38年)、豪雪により倒壊、1965年(昭和40年)もと通りに復元されています。

 五箇山(ごかやま)は、庄川(しょうがわ)上流、平(たいら)、上平(かみたいら)、利賀(とが)3村の総称ですが、庄川(本流)、利賀川(支流)の五つの谷に小山村が点在しています。この秘境本願寺領であった頃から つの谷間、赤尾谷(あかをだに)、上梨谷(かみなしだに)、下梨谷(しもなしだに)、小谷(おたに)、栂谷(とがだに)、という意味で五ヶ谷間(ごかやま)、転じて五箇山と呼ばれるようになりました。その昔、平家落人(おちうど)伝説があり、加賀藩の流刑地となった隔絶地域でありました。 近年、大牧ダム、御母衣(みほろ)ダムなどの電源開発により開けてきました。合掌造りの民家が残存し、近くの白川郷と共に、世界遺産に選ばれました。

 塩硝(焔硝、煙硝、えんしょう)は、硝酸カリウム(天然鉱物は硝石)のことで、煙火薬黒色火薬、硝酸カリウム、木炭粉末、硫黄の混合物)において、酸化剤の働きをする、最も重要な成分です。

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塩硝(えんしょう、煙硝、硝酸カリウムの結晶、長さ約4cmの無色の斜方晶形の結晶、沢村保昌先生(三重大名誉教授)より里見信生先生(金沢大講師、のち教授)に寄贈された伊賀(三重)忍者が使っていた煙硝を譲り受けたもの、五箇山産か? 2014年3月、石川県立自然史資料館へ寄贈)

 1570年(元亀元年)、戦国時代の頃より、越中五箇山(平村、上平村、利賀村の一帯)では、農民の副業として、従来の古土法(奈良時代、中国より伝来、床下の古い土より硝酸塩を抽出)より大量生産できる培養法を用いた塩硝生産され、加賀藩の管理下で、塩硝箱に詰められ、牛馬により山越えの塩硝街道(40km)を通り、金沢城下まで運ばれていました。

  塩硝製造法(培養法)は、合掌造りの家の床下に穴(1.8~3.6m四方、深さ2m、すり鉢型)を掘り、麻畑土、干し草(ヨモギ、サクという山草など)、蚕糞、人馬の尿などを混ぜて積み、糞尿中のアンモニアを土壌中の硝化細菌(アンモニア酸化菌、亜硝酸酸化菌など)により硝酸イオンに酸化します。

 約5年培養後、土桶(つちおけ)を用いて、培養土(塩硝土から水で抽出された液(硝酸カルシウム含む)を木灰(炭酸カリウム含む)と混ぜ、平釜に移して煮ると、熱水に溶けやすい硝酸カリウム(溶液)と溶けにくい炭酸カルシウム(沈殿)に分離されます。その後、放冷すると、冷水に溶けにくい硝酸カリウムの純粋な結晶が得られました。この中煮塩硝(なかにえんしょう)をさらに鉄鍋で再結晶し、上質の上煮塩硝(うわにえんしょう、白色柱状結晶)を得ました。

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岩瀬家(五箇山、西赤尾、南砺市、富山、google画像より)

 現在、五箇山村上家岩瀬家には、塩硝土の培養に使われた穴跡や塩硝製造に用いられた道具(桶、鍋、釜、ザル)及び塩硝標本が当時の製紙、生活用具と共に展示されています。また、江戸時代後期の焔硝箱(えんしょうばこ)が石川県立歴史博物館展示されています。

 江戸の初期、火縄銃黒色火薬、土清水(つっちょうず)塩硝蔵跡(涌波町、金沢)で製造されていました。現在、火薬作り中枢(ちゅうすう)であった搗蔵(つきくら)が確認されています。江戸初期は、金沢城内、現在の小立野付近にあったが、度重なる大火事で、1658年(万治元年)、この場所に移されたと言う。

 最盛期の1865年(慶応元年)には、五箇山では、年間39トンもの塩硝が生産され、加賀藩に買い上げられています。当時、五箇山の塩硝は、質、量共に日本一の座にあったと言われています。明治時代に入り、チリ硝石ドイツ火薬が大量に輸入されるようになると、1870年(明治3年)には買い上げが停止され、五箇山塩硝は、約300年の歴史を残して急速に衰退しました。

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合掌造り集落(白川郷、白川、大野郡、岐阜、google画像)

 白川郷と近くの五箇山(南砺市、富山)の合掌造り集落は、1995年(平成7年)12月9日、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されています。この地域には、着工以来36年を経て、東海北陸自動車道が、2008年(平成20年)7月、全線開通し、白川郷IC五箇山ICより気軽に訪れることができ、秘境の観光名所として賑わっています。

(参考文献) 若林喜三郎監修: 石川県の歴史、北国出版社(1970); 若林喜三郎編: 加賀能登の歴史、講談社(1978); 中西孝、日吉芳朗、本浄高治: 化学風土記、わが街の化学史跡、加賀藩の産業・工芸の史跡と遺品(五箇山の塩硝)、化学と教育、日本化学会(1991); 富山県歴史散歩研究会(編集委員長、高井進)編: 富山県の歴史散歩、山川出版社(1992); 石川県の歴史研究会編(編集代表、奥村哲): 石川県の歴史散歩、山川出版社(1993); 石川化学教育研究会編: ポピュラーサイエンス、科学風土記、加賀・能登のサイエンス、中西孝、越中五箇山の塩硝(1)、板垣英治、同(2)、裳華房(1997).

(参考資料) 五箇山(流刑小屋、 南砺市、富山、google画像より): http://images.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E4%BA%94%E7%AE%87%E5%B1%B1%20%E6%B5%81%E5%88%91%E5%B0%8F%E5%B1%8B&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

五箇山(小さな世界遺産の村、上平、南砺市、富山): http://www.gokayama.jp/meguri/midokoro.html

五箇山から涌波(金沢)まで(塩硝の道を訪ねて、土清水、涌波、小立野、金沢、石川): http://www.spacelan.ne.jp/~sakiur-k/ensho1.html

東海北陸自動車道(高速道路、富山、岐阜、名古屋、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E5%8C%97%E9%99%B8%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A%E9%81%93&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

白川郷合掌造り集落(岐阜、五箇山含む、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E7%99%BD%E5%B7%9D%E9%83%B7%E5%90%88%E6%8E%8C%E9%80%A0%E3%82%8A%E9%9B%86%E8%90%BD&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi;

(追加説明) ○ 2013年(平成25年)3月27日、金沢市涌波町の加賀藩火薬製造所土清水薬合所跡が、文科省より国指定歴史遺跡指定され、石碑と説明の案内板が市道沿いに設置されました。001_2

国史跡 辰巳用水 附 土清水塩硝蔵跡(たつみようすい つけたり つっちょうずえんしょうぐらあと、涌波町、金沢) 2013年6月17日、金沢大学名誉教授、板垣英治先生より写真と関連パンフレットコピーの提供を受けました。

辰巳用水附土清水塩硝蔵跡(金沢市の文化財と歴史遺産、金沢市): http://www4.city.kanazawa.lg.jp/11104/bunkazaimain/shiteibunkazai/kinenbutsu/tatsumiyousui.html

 黒色火薬の生産

 黒色火薬は、原材料の塩硝(硝石)、硫黄、木炭調合して造られました。このうち塩硝越中五箇山で生産されていました。硫黄越中立山地獄谷採取し、滑川で精製された後、加賀の土清水塩硝蔵まで運ばれました。木炭は土清水塩硝蔵内の木灰所という施設で、原木として麻木を用いて生産されていました。

 これらの原材料は、搗蔵(つきくら)内に引き込んだ辰巳用水の水流で回した水車の力で粉砕にした後、調合所にて調合され、その後、水練り、切り出し、乾燥という工程を経て黒色火薬へと加工されていました。

 土清水塩硝蔵跡は、黒色火薬の原材料の貯蔵から火薬への加工、そして製品貯蔵搬出までを行う大規模施設であったということができます。(加賀藩における塩硝の生産について、金沢市都市政策局歴史文化部文化財保護課編集・発行パンフレットより)

 

 

 

2010年1月12日 (火)

米騒動(魚津、富山)にまつわる歴史実話、シベリア出兵、大戦景気、越中女一揆、とは(2010.1.12)

  米騒動(こめそうどう)は、1918年(大正7年)7~9月、米価の暴騰で生活難に苦しむ大衆が、米の安売りを要求し、米屋、富豪邸、警察を襲撃した事件です。

 魚津(うおづ、富山)の漁民の主婦が、県外移出米積込みを阻止、西水橋(にしみずはし)の女一揆と拡大、米騒動となり、全国に波及、労働者、農民を主力とする全国民運動に発展、軍隊が鎮圧に出動しました。

 この事件で、寺内内閣は、1916年(大正5年)10月~1918年(大正7年)9月、総辞職に追い込まれました。

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米積込みのモニュメント(米騒動、大町海岸公園、魚津、富山、google画像)

(解説)  第一次世界大戦、1914年(大正3年)7月~1918年(大正7年)11月は、1914年(大正3年)6月28日、オーストリア皇太子夫妻がボスミアのサラエボで暗殺されたのが契機となって、ヨーロッパ諸国がドイツを中心とする同盟国側(ドイツ、オーストリア、イタリア)とイギリスを中心とする連合国側(協商国、イギリス、フランス、ロシア)に分かれた戦いでした。

 日本は、日英同盟を理由にドイツに宣戦、中国におけるドイツの根拠地、青島(ちんたお)を占領し、ドイツ領南洋諸島まで支配を広げました。

 一方、1918年(大正7年)8月~1922年(大正11年)、日本はロシア革命への干渉戦争で、アメリカ、イギリス、フランスと共にシベリアに7万3000名の軍隊を派遣しました。この干渉は、パルチザンの抵抗で失敗、各国は1920年(大正9年)6月までに撤兵しました。このシベリア出兵に際し、米商人による米価上昇を当て込む米の買占め、売り惜みなどが起こりました。、

 また第一次世界大戦による好景気(生糸はアメリカ市場へ、綿織物はアジア市場へ、軍需品はヨーロッパ諸国への輸出増加、また、鉄鋼、造船などの重化学工業、薬品、染料、肥料などの化学工業の発達)、労働者の増加と人口の都市集中などが、物価の上昇を招き、米価を戦前の4倍近く(一石当たり13円6銭から45円89銭へ)に暴騰させました。

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米騒動発祥の地(中央は石碑、 背後は旧十二銀行の米倉、魚津、富山、google画像)

 1918年(大正7年)7月23日、富山県魚津町(現、魚津市)で50人ほどの漁師の主婦が、北海道への米の輸送船、息吹丸が米の積出しを行っていた大町海岸近くの十二銀行の米倉庫前に集まり、県外移出米の積出しを止めるよう要求、米の搬出は中止されました。さらにその日の午後、百数十人で米の積出しを行っている大商店に押しかけ、米の移出阻止の要求を行いました。

 こうした米騒動は水橋(みずはし)、岩瀬(いわせ)、滑川(なめりかわ)など沿岸部で次々と起こり、8月3日、西水橋町で米の移出差止め、安売りを求めて米屋などに押しかけました。この事件が、越中女一揆(えちゅうおんないっき、米の暴騰が生んだ富山の女一揆、此処では餓死する生か死の境目だと叫ぶ、引致者の争奪、滑川警察など)として新聞に大きく報じられると、近畿(大阪)、中国(神戸)地方を中心に全国に波及、参加者は60~70万と言われる大騒動となりました。

 また、8月10日以降、六大都市をはじめ、仙台から小倉まで拡大、全体で1道3府32県、36市、129町、145村に及び、9月17日まで続きました。政府は米屋に米の廉売を要請、恩賜金、政府支出金を出して国民を安心させ、また、新聞報道を禁止、警官のほか軍隊(120ヶ所出動)で騒動を鎮圧、農民や労働者の検挙者数2万5000人余、起訴者7700人余に達しました。 

 民衆や言論界の反対を前に、1918年(大正7年)9月、寺内正毅(てらうちまさたけ、陸軍大将、第18代内閣総理大臣、67才、山口)内閣は総辞職に追い込まれ、初の政党内閣、第3代立憲政友会総裁、原敬(はらたかし、平民宰相、第19代内閣総理大臣、63才、岩手)内閣が、1918年(大正7年)9月~1921年(大正10年)11月、成立しました。

 この民衆の動きは、一定の政治的な自由を拡大させ、その後の日本の社会運動(普通選挙による政党政治など、民主主義の実現)の発展の基礎となりました。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 富山県歴史散歩研究会(編集委員長、高井進)編: 富山県の歴史散歩、山川出版社(1992); 石川県の歴史散歩、山川出版社(1993); 永原慶二監修: 日本史事典、岩波書店(1999); 詳説日本史図録編集委員会: 山川 詳説日本史図録(第2版)、山川出版社(2009); 成美堂出版編集部: 図解日本史、成美堂出版(2009).

(参考資料) 米騒動発祥の地(とやま観光ナビ、魚津、富山): http://www.info-toyama.com/_sightseeing/000140.html ; 米騒動発祥の地(発祥の地コレクション、魚津、富山):http://hamadayori.com/hass-col/history/Komesodo.htm; 

米騒動発祥の地(魚津、富山、google画像): http://images.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&um=1&sa=1&q=%E7%B1%B3%E9%A8%92%E5%8B%95%E7%99%BA%E7%A5%A5%E3%81%AE%E5%9C%B0%E3%80%80%E9%AD%9A%E6%B4%A5%E3%80%80%E5%AF%8C%E5%B1%B1&btnG=%E7%94%BB%E5%83%8F%E6%A4%9C%E7%B4%A2&aq=f&oq=&start=0

(追加説明) ○ 米よこせ運動は、1932年(昭和7年)6~8月、 米価急騰、恐慌下の賃下げ、失業による生活困窮が重なるなか、日本無産者消費組合連盟と共産党の指導により、政府米払下げ要求運動(署名運動、大衆デモ)として全国的に展開されました。

○ 百姓一揆(ひゃくしょういっき)は、江戸時代、農民の集団が行った反領主闘争です。1590年(天正18年)~1877年(明治10年)の間で3700件余発生しました。百姓経営の成立、相続を求め、それを阻害する諸施策、具体的には年貢重課、諸課役負担、専売制などの排除を求め、領主に非合法的に訴願するものです。闘争形態としては、蜂起(ほうき)、強訴(ごうそ)、逃散(ちょうさん)、打毀し(うちこわし)、越訴(おっそ)などがあります。幕末には全国的に激発し、都市の打毀しと相まって、幕府倒壊の要因となりました。 

○ 泣き一揆(なきいっき、安政の騒動)は、江戸時代、町人の登山が禁止されていた、金沢の北東に連なる丘陵の卯辰山(標高141m)で起こった騒動です。1858年(安政5年)7月11~12日の夜、2000人の町人(女、子供含む)が松明(たいまつ)をかざして強行登山、声をかぎりに金沢城に向かって「ヒダルイ(腹が減った)、ヒダルイ」、「米が高(たこ)うてくえんワイ」と絶叫しました。この年は、大地震(1868年、安政5年、2月26日、飛騨地震、M.7.0~7.1)、長雨による凶作などが起こり、一升(1500g)60文だった米が129文に跳ね上がりました。

 加賀13代藩主、前田斉泰(なりやす)は、手持ちの米を供出し、米価を76文に下げることによって、ようやく騒動を抑えましたが、町人の首謀者7人が処刑されました。金沢の東山の近く、七稲地蔵(なないねじぞう)で知られる寿経寺(じゅきょうじ、浄土宗)には、7人の霊を慰めるため、地元の有力者、綿津屋(わたつや)政右衛門が彫らせた7体の地蔵が祀られています。

 

2010年1月 8日 (金)

大伴家持(越中国司、歌人)と気多神社(能登、石川)にまつわる歴史実話、能登の国歌(万葉集)、気多神社、入らずの森、とは(2010.1.8)

  古代(奈良時代)、718年(養老2年)、越前国から羽咋(はくい)、能登(のと)、鳳至(ふげし)、珠洲(すず)の4郡が分離され、能登国ができました。その国も、741年(天平13年)、越中国に併合され、757年(天平宝字元年)、再び能登国となっています。

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大伴家持(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E5%AE%B6%E6%8C%81

 大伴家持(おおとものやかもち)、718年(養老2年)頃~785年(延暦4年)は、746年(天平18年)、29才、越中国司(在任5年)に任命され、748年(天平20年)の春、租税の割り当ての財源確保のため、能登巡行を行っています。その経路は、射水(いみず)の国府(高岡、富山)を出発して、之乎地(しおじ、志雄路)を通り、気多神社(けたじんじゃ)に参拝、羽咋の海の邑知(おうち)潟を詠い、香島津(かしまつ、七尾港)から熊来(くまき、中島町)への舟中でしきりに都を恋い、能登半島を横断して劔地(つるぎじ)へ廻り、輪島(わじま)から外浦海岸を巡って珠洲から海路を国府へ帰りました。

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気多神社本殿(羽咋、能登、石川)

 万葉集には、能登国歌として、大伴家持が能登巡行の折りに詠んだ歌(10首)と能登地方の歌(3首)がおさめられていて、8世紀頃の能登の暮らしが読み取れます。

 能登の熊来では、梯立(はしだて)の 熊来のやらに 新羅斧(しらぎおの) 墜(おと)し入れ わし 懸けて懸けて 勿(な)泣かしそね 浮き出づるやと 見む わし、と詠んでいます。特に、熊来の沼で新羅を使っていたことを詠んだこの歌は、能登と朝鮮半島との深いつながりが感じられます。

 七尾湾の机島(つくえじま)でシタダミという小貝の殻を石で割り、海水で洗っている嫁の姿を見て、香島嶺(かしまね)の机の島の 小螺(しただみ)を い拾 持ち来て 石以(いしも)ち 突き破り 早川に洗ひ濯(すす)ぎ 辛塩(からしお)に こごと揉(も)み 高杯に盛り 机に立てて 母に奉りつや めご児の刀自 父に奉りつや むめ児の刀自、と詠んでいます。

 珠洲の郡より船出して、治布に還るとき、長浜の湾に泊まって、月光を仰ぎ見た時、珠洲の海に 朝びらきして 漕ぎ来れば 長浜の湾(うら)に 月照りにけり、と詠んでいます。 

 気多神社(祭神、大己貴、おおなむち、羽咋、能登)は、正面に近世初期に建てられた簡素な神門、そして1653年(承応2年)~1654年(承応3年)に建立の拝殿があり、海に向かって開かれた神のすみかの長い歴史を見ることができます。

 拝殿の奥には、中央に気多神社本殿、右手に摂社白山神社本殿、左手に摂社若宮神社本殿の三つの本殿が並んでいます。

 越中守大伴家持は、748年(天平20年)、気太神宮参詣し、海辺を行ってる時、之乎路から 直越え来れば 羽咋の海 朝凪(な)ぎしたり 船楫もがも、と詠んでいます。

 気多神社は、古代は、神格が高い名神大社となり、中世は、能登の一ノ宮として守護の畠山氏の保護を受け、近世は、前田家の手厚い保護を受け、明治を迎えました。

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入らずの森(いらずのもり、気多神社本殿背後、羽咋、能登、石川)

 気多神社本殿背後の約3ヘクタールの森の中心部は、タブ、シイの大木がそびえ、それを取り巻くようにヤブツバキ、ヤブニッケイなどが生い茂る、通称、入らずの森(いらずのもり)、と呼ばれる社叢(しゃそう)があります。その名の通り、誰も足を踏み入れることはできないのですが、常緑広葉樹の名残をとどめる自然植物群落として、1967年(昭和42年)、国の天然記念物に指定されました。社叢は神々の森、すなわち鎮守の森のことで、神社には必ず社叢があり、少なくともその名残の樹林(社叢林、極相林)が見られます。

 から日本の人々は新しい集落に必ず「土地本来のふるさとの木によるふるさとの森」、鎮守の森をつくってきた、という。おろか者に破壊させないために、神社や寺をつくり、この森を切ったら罰があたる、というふうに守ってきた。それらの森は、地震、台風、火事などの災害の時には逃げ場所になった。ふるさとの木は自然が管理するが、そうでない木は管理に大きな労力と経費を要する。(宮脇昭、都市の植生のゆくえ、より)

 鎮守の森は、自然と人間の共生の場でもある。植物学者の南方熊楠(生物学、民族学)、1867年(慶応3年)~1941年(昭和16年)が強調しているように、鎮守の森は住民共同体の自治の場で、神と水を共に味わって心を同じくする「一味同心」の集合の場であった。また、貴重な動植物が生きている景勝の地であり、歴史と伝承が息づく聖域であった。

 このような思想を受け継ぎ、鎮守の森の保全と活用は21世紀の重要な課題ということで、2002年(平成14年)5月26日(日)に学際の「社叢学会」が京都の賀茂御祖(下鴨)神社の糺の森(ただすのもり)研修道場で上田正昭、1927年(昭和2年)~、京都大学名誉教授(歴史学、小幡神社宮司)が初代理事長となって設立されました。 

(参考文献) 富山県歴史散歩研究会(編集委員長、高井進)編: 富山県の歴史散歩、山川出版社(1992); 石川県の歴史研究会編(編集代表、奥村哲): 石川県の歴史散歩、山川出版社(1993).

(参考資料) 高岡市万葉歴史館(伏木、高岡、富山): http://www.manreki.com/; 大伴家持と能登の海: http://www.geocities.jp/une_genzaburo/yakamochi.htm; 

 気多神社(能登、羽咋、石川): http://inoues.net/ruins2/keta_taisha.html; 気多神社(能登、羽咋、石川、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%B0%97%E5%A4%9A%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%80%E8%83%BD%E7%99%BB&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi; 気多神社(伏木、高岡、富山、google画像、天平宝字元年(757年)頃、気多神社(羽咋、能登、石川)から分霊) : http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%B0%97%E5%A4%9A%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%80%80%E9%AB%98%E5%B2%A1&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

 入らずの森(気多神社、能登、羽咋、石川): http://www.keta.jp/honden/mori.html

(追加説明) 万葉集は現存する最古の歌集で、20巻、編者、成立年代ともに不明ですが、全巻の完成は8世紀末頃で、大伴家持編纂に関係したことは確実とされる。総歌数約4500,短歌4200余首と長歌約260首が主体をなしている。部立(ぶだて)の基本は、雑歌(ぞうか)、相聞(そうもん)、挽歌(ばんか)である。主要な作家は、有間(ありま)皇子、額田(ぬかだ)王、柿本人麻呂、山上憶良(やまのうえのおくら)、山部赤人(やまべのあかひと)、大伴旅人、高橋虫麻呂、大伴家持などがある。和歌集として最高の達成を示すと共に、万葉仮名による表記法は、国学上極めて重要な資料となっている。(小百科事典、平凡社より)

2010年1月 1日 (金)

サイエンス(科学)から眺める歴史散歩の話題(2010.1.1.迎春、年賀、犀川の雪景色)

2010年(平成22年) 元旦  迎 春  

謹んで新春の

  お慶びを申し上げます

     皆様のご健康とご多幸をお祈り致します。

     本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

     生涯学習として、ジャストシステムブログ、

     サイエンス(科学)から眺める歴史散歩の話題を、

     今年も、科学風土記(人文、社会、自然)として

     徒然なるままに、紹介したいと思っています。                                  

     2010年(平成22年) 元旦 

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2010年(平成22年)1月1日 犀川の雪景色(桜田、金沢) 

○ 雪は、豊年のしるし、とも言われています。また、昔から雪月花といって、雪は冬の景観の大きな要素になっています。新雪は、降ったばかりの雪です。根雪は、春まで解けずに固まった雪で、北国特有のものです。大きくぼてりとした感じのぼたん雪、細かく小粒に降る細雪などがあります。

 冬は、どんよりと雲が垂れ込めた曇り日が多く、陰うつですが、晴れた日に空を半ば閉ざしたような雲は、色といい姿といい実に美しいものです。寒い空にじっと凍ったように動かずにいる雲のことを凍雲(いてくも)と言います。寒雲(かんうん)、冬雲。(生活歳時記、三宝出版より)   

○ 石川県立生涯学習センター(金沢、石川):  http://www.pref.ishikawa.jp/shakyo-c/ 

○ 子曰、 温故而知新、可以為師矣。 子曰(しのたま)わく 、故(ふる)きを温(あたた)めて新(あたら)しきを知(し)る、 以(もっ)て師(し)と為(な)るべし。 (意訳) 孔子がいわれました。「煮つめて取っておいたスープを、もう一度暖め直して飲むように、過去の歴史、伝統を、もう一度考え直して、現代に生かす新しい意味を知る、そんなことができる人、それが師というものだよ」と。(貝塚茂樹: 論語、講談社現代新書(2004)より)      

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