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2010年2月15日 (月)

源義仲(火牛の計、倶利伽羅峠の戦)にまつわる歴史伝承、平氏の打倒、源平の争乱、平氏一門の滅亡、とは(2010.2.15)

  倶利伽羅峠(くりからとうげ)は、越中(富山)と加賀(石川)の県境にあります。源平盛衰記(編者不詳、14世紀頃成立?)によれば、平安時代の末期、1183年(寿永2年)5月11日(新暦、6月2日)、この峠で、源義仲(みなもとのよしなか、木曽義仲とも、30才)率いる4万の軍が、数百匹の牛を集め、火牛の計(かぎゅうのけい)の奇襲により、平維盛(たいらのこれもり、27才?)の10万の大軍を破った、と伝えられています。 この戦(倶利伽羅峠の戦、砺波山の戦とも)は、平氏滅亡の一因となりました。
 

 火牛とは、牛の角に刀を束ね、尾に葦(あし)を結び付けて点火し、夜に乗じて敵軍に放つもので、そのルーツは、古代(紀元前284年)、斉(せい、中国)の田単(でんたん、生没年未詳)の奇策(火牛の計)、と伝えられています(司馬遷、史記、前漢)。

 私は、1980年(昭和55年)5月頃、倶利伽羅峠の古戦場を訪ねたことがあり、そこの公園に立っている火牛像が珍しく、強く印象に残りました。

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倶利伽羅峠の戦火牛の計、越中、富山と加賀、石川の国境、砺波山、google画像)

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源義仲(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E4%BB%B2

 源義仲、1154年(久寿元年)~1184年(元暦元年)は、1155年(久寿2年)、父の源義賢(みなもとのよしたか)、?~1155年(久寿2年)が武蔵大倉館で殺害され、木曽の乳母夫、中原兼遠(なかはらのかねとお、生没年未詳)のもとで育てられました。

 平家物語(作者不詳、13世紀中頃成立?)によれば、1183年(寿永2年)5月11日、平家軍は源義仲の奇計に乗せられ、前後から挟撃を受け、倶利伽羅谷に人馬もろとも追い落され、70000余騎を失うという悲惨きわまる大敗北を喫しました。軍司令官、平維盛らはわずか2000騎となって加賀へ落ち延びました(倶利伽羅峠の戦)。

 また、1183年(寿永2年)5月21日、源平両軍が篠原(江沼、加賀、石川)で激突、炎天下の激戦の果てに、有力武将を数多く失った平家軍は敗走しました。老将、斉藤実盛(さいとうさねもり)、70余才?は、老醜を隠すため白髪を染め、故郷が越前(福井)だったので、特別に許された大将の錦の直垂(ひたたれ)を着て戦い、壮絶な討死を遂げました(篠原の戦)。

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篠原の戦斉藤実盛の兜、篠原、江沼、加賀、石川、多太神社蔵、google画像)

 松尾芭蕉(46才)、1644年(寛永21年)~1694年(元禄7年)は、1689年(元禄2年)7月25日、秋の加賀路で、古社、多太神社(ただじんじゃ、上本折町、小松)を詣で、斉藤実盛の最後の姿に思いを馳せ、むざんやな 甲(かぶと)の下のきりぎりす、と詠みました。その2日後、小松を出発して山中温泉に向かうとき、もう一度神社に参拝し、その句を奉納しました(松尾芭蕉、奥の細道、江戸時代)。 

 柴山潟(加賀、石川)のほとりの片山津温泉近くに、首洗池、という源平争乱の篠原古戦場跡があります。平家物語や謡曲、実盛に、白髪を黒く染めた斉藤実盛の首を洗ったと伝える池です。甲を前に嘆き悲しむ源義仲、樋口次郎、手塚太郎。実盛は手塚に打たれましたが、義仲は幼時、実盛に命を助けられた恩義があり、樋口は幼少からなれ親しんだ人物でした。

 樋口の首検分によって、あなむざんやな斉藤別当にて候いけり、と。不審の黒髪は洗えばたちまち白髪に。義仲が樋口に託して奉納したという、実盛の甲は、加賀市の東隣、小松市中にある、多太神社の宝物殿に厳重に保管されています。(2009年(平成21年)9月4日、北陸中日新聞、朝刊、実盛の池に秋の気配、篠原古戦場 より)

○ 平氏の打倒(反乱)、源平の争乱(挙兵と討伐)、平氏一門の滅亡(壇の浦の戦) 

 1177年(治承元年)6月、後白河上皇(ごしらかわほうおう)、1127年(大治2年)~1192年(建久3年)の側近を中心とする平清盛(たいらのきよもり)、1118年(元永元年)~1181年(治承5年)一門打倒の企てが発覚し、西光(さいこう、出家、もと藤原師光、ふじわらのもろみつ)、?~1177年(安元3年)は死罪、藤原成親(ふじわらのなりちか)、1138年(保延4年)~1177年(治承元年)は流罪(児島、備前、岡山、のち殺害)、俊寛(しゅんかん、生没年未詳)は流罪(鬼界ヶ島、薩摩硫黄島、薩摩、鹿児島)となりましたが、この事件が源平の争乱(治承、寿永の乱)の引き金となりました(鹿ヶ谷の謀議、俊寛の山荘、東山区、京都)。

 1179年(治承3年)11月、平清盛は、後白河法皇を鳥羽殿(とばどの、院御所)に幽閉しました。それ以前には、独裁君主の後白河法皇は、賀茂川の水、双六(すごろく)の賽(さい)、山法師(比叡山延暦寺の僧兵)、この三つだけは自分の自由にならないと嘆いていたと言う。

 1180年(治承4年)2月、言仁親王(ことひとしんのう、第80代、高倉天皇の第1皇子、3才)、1178年(治承2年)~1185年(文治元年)が第81代、安徳天皇として即位、これは全て平清盛(祖父)の指揮のもとに行われました。

 1180年(治承4年)4月~5月、源頼政(みなもとのよりまさ、77才)、1104年(長治元年)~1180年(治承4年)が以仁王(もちひとおう、第77代、後白河天皇第3皇子、30才)、1151年(仁平元年)~1180年(治承4年)と共に平氏打倒の挙兵を計画しましたが、もれて園城寺(大津、滋賀)に逃れ、興福寺(奈良)に向う途中、宇治平等院(京都)で平氏の追撃を受け戦死しました。しかしながら、平氏打倒の令旨(りょうじ、皇太子命令の伝達文書)は、5年に及ぶ源平の争乱の起因となりました(以仁王の乱)。  

 1180年(治承4年)6月、平清盛は、福原(兵庫)に遷都を強行しましたが、11月には京都に復帰しました。3年後の1183年((寿永2年)7月24日、平家一門は、当地に火を放って九州に落ちて行きました。

 1180年(治承4年)8月23~24日、源頼朝(みなもとのよりとも、34才)、1147年(久安3年)~1199年(政治元年)は東国武士団を率いて伊豆で挙兵、大庭景親(おおばかげちか)、?~1180年(治承4年)の平氏軍との相模国(神奈川)、石橋山の戦いで敗北、山中に逃れ、海路安房国(千葉)に渡り、再挙を図りました(石橋山の戦)。

 1180年(治承4年)9月、源義仲(27才)は、木曽谷(信州、長野)で挙兵しました。

 1180年(治承4年)10月23日、源頼朝は、関東の有力武士を味方につけ鎌倉(神奈川)入りしました。平維盛軍との駿河国(静岡)、富士川の戦は、平氏軍が水鳥の羽音を敵襲と間違えて敗走しましたが、頼朝は、西進せず鎌倉に戻り、東国の安定確保に専念しました(富士川の戦)。11月には、侍所(さむらいどころ、軍事、警察、御家人統率)を設置しました。

 1180年(治承4年)12月、平重衡(たいらのしげひら、24才)、1157年(保元2年)~1185年(元暦2年)は平清盛の命に従い南都焼討ち(東大寺大仏殿、興福寺炎上)を行い、反乱の鎮圧に務めました。

 1181年(養和元年)2月、平清盛(64才)が熱病で死去後、後白河法皇は院政を再開、その後、源頼朝と共に、平氏、源義仲らを滅亡させることになります。

 1181年(養和元年)4月、養和(ようわ)の飢饉が起こり、世の中が2年間ほど飢渇し、五穀が生(みの)らず、京でも多くの餓死者(42300余)が出ました(鴨長明、方丈記、鎌倉時代)。  

 源平盛衰記(編者不詳、14世紀頃成立?)によれば、1183年(寿永2年)5月11日、源義仲は木曽(信濃)から北陸道(越後、越中、加賀、越前、若狭)を通って京に入る途中、倶利伽羅峠(越中と加賀の国境、砺波山)で平維盛(27才?)、(1157年(保元2年)?~1184年(寿永3年)?)らと戦い、義仲(30才)軍は、牛の角に松明(たいまつ)をつけ、平家軍を倶利伽羅谷に追い落とした、と伝えられています(倶利伽羅峠の戦)。

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火牛の計倶利伽羅峠の戦、越中、富山と加賀、石川の国境、砺波山、源平盛衰記、google画像)

 1183年(寿永2年)7月、源義仲は、平氏軍を破って上洛(じょうらく、京都入り)を果たし、全国を源頼朝(東国)、平氏(西国)、源義仲(都、みやこ)と3分するに至りました。しかし、京都の治安維持には失敗しました。

 源義仲は、以仁王が平氏に討たれた時、北陸に逃れていた、北陸宮(ほくりくのみや、以仁王の子、木曽宮とも、19才)、1165年(永万元年)~1230年(寛喜2年)を皇位継承候補者に推しましたが、後白河法皇(57才)は拒否しました。

 1183年(寿永2年)8月10日、源義仲は、後白河法皇により佐馬頭(さまのかみ、馬の管理、飼育、調教の役所、左馬寮の長官)に任じられ、朝日将軍(あさひしょうぐん)の称号を授けられました。  

 1183年(寿永2年)10月1日、源義仲(30才)は、平氏が西国で勢力を立て直して東進してきたので、これを討つため水島(備中、倉敷、岡山)に出兵しますが、平重衡(27才)に大敗を喫しました(水島の戦)。

 また、源義仲の軍勢が、養和の飢饉による食料難の洛中で多くの略奪を行ったことから、後白河法皇は、源頼朝に対し、宣旨(せんじ、東国支配権の容認)の見返りに、義仲の討伐を要請しました。また、平家の没管領(もっかんりょう)支配権の見返りに、平氏討伐も要請しました。

 1183年(寿永2年)11月19日、源義仲は、法住寺殿(ほうじゅうじどの、院御所)を襲撃し、後白河法皇(第77代、57才)と後鳥羽天皇(第82代、4才)、1180年(治承4年)~1239年(延応元年)を幽閉、政権を掌握しました。(法住寺の戦、軍事クーデター)

 1184年(元暦元年)1月20日過ぎ、源義仲(31才)は、鎌倉の源頼朝が派遣した源範頼(みなもとののりより、?才)、?~1193年(建久4年)と源義経(みなもとのよしつね、26才)、1159年(平治元年)~1189年(文治5年)との宇治川、河原の戦いに敗れ(宇治川の戦)、1月21日(新暦、3月5日)、粟津(近江、滋賀)で義経、東国諸将との間の戦いで討死しました(粟津の戦)。  

 義仲の墓所は、義仲寺(ぎちゅうじ、天台宗、馬場、大津、滋賀)にあり、義仲の墓の隣には松尾芭蕉の墓があります。(義仲寺; http://www.biwako-visitors.jp/search/spot.php?id=410

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一の谷の戦鵯越の逆落とし、福原、須磨、神戸、兵庫)、屋島の戦(背後から急襲、屋島、香川)、(源平合戦の経路、google画像)

 1183年(寿永2年)7月、源義仲に京を追われた平氏一門は、安徳天皇(6才)を守り、西国に逃げました。 その後の頼朝と義経の対立に助けられ、1184年(寿永3年)1月には、屋島から福原(須磨、神戸、兵庫)に移り、一の谷に陣を構え、その勢力を盛り返しつつありました。

 1184年(元暦元年)1月29日、範頼は56000余、義経は20000余の軍勢で京を発ち渡辺津(摂津、大坂、兵庫)に向かい、2月7日、源義経が別働隊(べつどうたい)を率いて、背後の崖から駆け下りる奇襲(鵯越の逆落とし、ひよどりごえのさかおとし)を敢行、平氏は屋島(讃岐、香川)に敗走しました(一の谷の戦)。

 この戦で、平清盛の甥(おい、異母弟経盛の子)、平敦盛(たいらのあつもり、16才)、1169年(嘉応元年)~1184年(元暦元年)は、源氏方の熊谷直実(くまがいなおざね、44才)、1141年(永治元年)~1208年(承元2年)に討たれました。

 織田信長、1534年(天文3年)~1582年(天正10年)が好んだとされる「人間(じんかん)五十年、下天(げてん)の内(うち)をくらぶれば、夢幻の如くなり---」は、幸若舞(こうわかまい)「敦盛」の一節です。無常観から直実は、その後出家したとされますが、領地争いでの敗北が理由だったとする説が有力です。美貌の若武者、敦盛をめぐる謎は多い。(2009年(平成21年)11月28日、朝日新聞、朝刊、平敦盛、薄命の武者 無常の響き、平家物語より)

 1185年(元暦2年)2月17日、源義経は、平氏の拠点、屋島を攻めるため、敵の意表をついて嵐の中、渡辺津(摂津、大坂、兵庫)から勝浦(阿波、徳島)に渡海、勝浦の平氏方の桜庭能遠を討ち(勝浦の戦)、大阪越えで阿讃山脈を横断、2月18日、背後から急襲、平氏軍は、彦島(ひこしま、長門、のち下関の南端、山口)に敗走しました。平維盛は、屋島より脱出し、那智(紀伊、和歌山)で入水、と伝えられています(屋島の戦)。

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屋島の戦(扇を射落とす神業の一矢、那須与一、屋島、讃岐、香川、google画像)

 那須与一(なすのよいち、生没年未詳、20才?)が、源平両軍の注視する中で、屋島の戦において、平氏方の小舟に掲げられた扇の的(20~25m?)を射落とした話は有名です。 

 1185年(文治元年)3月24日(新暦、4月25日)、源義経(27才)は、西国の水軍勢力(伊予の河野通信、熊野別当湛増ら)を味方につけ、3000余艘、彦島に向かい、平氏軍の1000余艘と壇の浦(赤間関、長門、のち下関、山口)の海上(関門海峡、潮の干満により潮流の向きが逆転)で激突、初めは平宗盛(たいらのむねもり、39才)率いる平氏が優勢でしたが、敗色が濃厚になると、平氏一門(平知盛、教盛など)が次々と入水、安徳天皇(8才)も祖母(二位殿、清盛の妻)に抱かれ海に没し、宗盛も捕虜となり、平氏一門は滅亡しました。(壇の浦の戦)。

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壇の浦の戦壇の浦古戦場址、赤間関、長門のち下関、山口、google画像)

 1185年(文治元年)3月、平宗盛は、壇の浦で源義経に捕らえられ、6月、篠原(野洲、近江、滋賀)で斬首されました。また、愛息、安徳天皇らと入水したものの、捕えられて京都に送還された平清盛の娘、建礼門院徳子(けんれいもんいんとくこ、31才、義父、後白河法皇)、1155年(久寿2年)~1191年(建久2年)は出家して尼となり、7年間、寂光院(大原、左京区、京都)で平家一門、わが子(安徳天皇)の菩提を弔う余生を送りました。本堂は、2000年(平成12年)に火災で全焼、2005年(平成17年)に再建されました。

(参考文献) 富山県歴史散歩研究会(編集委員長、高井進)編: 富山県の歴史散歩、山川出版社(1992); 永原慶二監修: 日本史事典、岩波書店(1999); 高森明勅: 歴代天皇事典、PHP文庫(2006): 詳説日本史図録編集委員会: 山川 詳説日本史図録(第2版)、山川出版社(2009); 成美堂出版編集部: 図解日本史、成美堂出版(2009); 角川書店編(武田友宏、企画、執筆): ビギナーズ、クラシックス、平家物語、角川文庫(2009).

(参考資料) 倶利伽羅峠の戦火牛の計、砺波山の戦とも)、越中(小矢部、富山)と加賀(津幡、石川)の県境、(google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%80%B6%E5%88%A9%E4%BC%BD%E7%BE%85%E5%B3%A0%E3%81%AE%E6%88%A6&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi;

屋島の戦(屋島、讃岐、香川、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%B1%8B%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

壇の浦の戦(赤間関、長門、のち下関、山口、google画像):http://images.google.co.jp/images?hl=ja&source=hp&q=%E5%A3%87%E3%81%AE%E6%B5%A6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84&lr=&oq=%E5%A3%87%E3%81%AE%E6%B5%A6&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

寂光院(大原、左京区、京都): http://www.jakkoin.jp/

(追加説明) ○ 倶利伽羅峠は、富山県小矢部市と石川県津幡町の間にある北陸道(若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡の7国、駅路設置)の峠です。標高(海抜)277mで、砺波(となみ)山中に倶利伽羅不動明王の小祠があります。1183年(寿永2年)、源義仲(木曽義仲とも)が火牛の計によって平維盛を破った、と伝えられています。

○ 倶利伽羅不動(倶利伽羅、梵語、Kulika、くりから、竜王)は、不動明王の変化(へんげ)身で竜王の一種、形像は、盤石の上に立って剣に巻き付いた黒竜が剣を呑む姿を示し、火炎に覆われています。不動明王の持物の利剣と羅索(けんさく)とを合したもの、またその種子(しゅじ)の形という。

 不動明王(ふどうみょうおう、梵語、Acalanatla、動かざる尊者の意)は、五大明王、八大明王の一つで、仏典では最初、大日如来の使者として登場、やがて大日如来が教化し難い衆生をを救うために憤怒(ふんぬ)の姿を仮に現したものとしています。

○ 平家物語(作者として、天台座主、歌人の慈円、信濃国の前司で出家した行長、盲人の生仏?)には、冒頭(ぼうとう)、祇園精舎の 鐘の声 諸行無常の 響きあり 沙羅双樹の 花の色 盛者必衰の 理をあらわす おごれる人も 久しからず ただ春の夜の 夢のごとし たけき者も ついには滅びぬ 偏に風の前の 塵に同じ、との有名な一偈(いちげ)があります。 この世でおごり高ぶっていたのは、平清盛の一門でした。

 1118年(元永元年)、平清盛誕生。1156年(保元元年)7月、保元の乱。平清盛、源義朝が勝つ。1159年(平治元年)12月、平治の乱。清盛、義朝を破る。1160年(永暦元年)3月、源頼朝、伊豆へ配流。1167年(仁安2年)2月、清盛、太政大臣。1168年(仁安3年)2月、清盛出家。1171年(嘉応3年)12月、清盛の娘徳子入内。鹿ヶ谷で平家討伐密議。

 源平の争乱は、桓武天皇(第50代、45才で即位)、737年(天平9年)~806年(大同元年)、律令国家の完成から平安遷都への流れ、桓武平氏系と清和天皇(第56代、9才で即位)、850年(嘉祥3年)~880年(元慶4年)、外祖父の藤原良房が摂政、藤原摂関政治の始まりと終焉の流れ、清和源氏系の対立関係となっています。

○ 鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、鎌倉を拠点とした最初の武家政権で、1180年(治承4年)、平氏打倒の挙兵をした源頼朝が、鎌倉を本拠と定めたことに始まり、後醍醐天皇(ごだいごてんのう、第96代)、1288年(正応元年)~1339年(暦応2年、延元4年)の倒幕計画に呼応し、各地に反乱が勃発、1333年(正慶2年、元弘3年)、滅亡しました。

○ 源氏一族の争いと鎌倉幕府の創設については、1184年(元暦元年)8月、後白河法皇(58才)は、鎌倉殿(頼朝)の推挙なしで義経を叙任、以降、頼朝と義経は対立しました。頼朝は、10月、公文所(くもんじょ、政務、財政)、問注所(もんちゅうじょ、訴訟、裁判)を設置しました。

 1185年(文治元年)10月、後白河法皇は、義経に頼朝追討の院宣(いんぜん、法皇の任命書)を発給しましたが、義経は挙兵に失敗、奥州平泉(岩手)へ逃亡しました。

 1185年(文治元年)、源頼朝(39才)は、反乱を起こした弟の義経(27才)を探索する名目で、法皇より、各地に守護(しゅご、軍事、警察、御家人統率、大犯三ヵ条)、地頭(じとう、税務、裁判、荘園、公領の管理)を任命する権限を得ました。

 1189年(文治5年)4月、頼朝は、藤原泰衡(ふじわらのやすひら、第4代)、1155年(久寿2年)~1189年(文治5年)に義経追討を要求、泰衡(35才)は頼朝の圧力に抗しきれず、義経(31才)を衣館に急襲、自刃に追い込みました(衣川の戦)。頼朝の幕府勢力は、7月、奥州藤原氏を追討、9月、藤原氏を滅亡させ奥州を平定、全国制覇を達成しました。

 1990年(建久元年)11月、源頼朝(44才)は、上洛して後白河法皇と会見、法皇(66才)が1192年(建久3年)7月に死去した後、朝廷から征夷大将軍(武家の統率者)の地位を獲得しました。

 1199年(正治元年)1月、源頼朝(53才)は、落馬(?)がもとで急死、源頼朝と北条政子の長男、源賴家(みなもとよりいえ、18才)、1182年(寿永元年)~1204年(元久元年)が跡を継ぎました。その5年後、賴家(23才)は殺害され、また、その後を継いだ源実朝(13才)、1192年(建久3年)~1219年(建保7年)も28才の時に暗殺され、源家は3代(40年)で滅びました。

○ 北条氏は、鎌倉幕府の執権を世襲した武家です。1203年(建仁3年)2代将軍源賴家を廃して、源実朝を立て、その後見者として幕政を掌握しました。その地位が執権と称されることになります。執権に就任すべき北条氏の家督は徳宗(とくそう)と呼ばれ、時政の子、義時が承久の乱(第82代天皇、後鳥羽上皇、鎌倉幕府倒幕の挙兵、失敗)を勝利に導き、執権の地位を確立、泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時と継承されましたが、1333年元弘3年)、高時の14代で130年の執権政治に幕を閉じました。北条義時の時、北条政子は尼将軍、二位尼として、聴政(簾中政治)を行いました。また、天皇(後白河から後醍醐まで)は20代、将軍(源氏)は9代、執権(北条氏)は16代、続きました。

○ 平家物語によれば、壇の浦の戦において、能登守教経(平清盛弟の教盛の次男)は、今日を最後と大奮戦しました。舟から舟へと乗り移り、ようやく平義経を発見しましたが、義経は対戦を避けて、およそ6mも離れていた源氏の軍船に飛び移りました。これは、義経の八艘飛び(はっそうとび)と伝えられているものです。

 教経は観念して、武器を海に投じ、大手を広げて立ちはだかり、大音声で名乗りをあげました。そこへ、大力の安芸太郎、次郎兄弟が組みつきましたが、教経は兄弟を両脇に抱え込んだまま、わが冥土の旅の供をせよと叫んで、海に飛び込みました。(平家物語、角川文庫、2009、より

○ 平家武士の面目を伝える武将、平教経については、阿波(徳島)の祖谷に別の伝説があります。1185年(元暦2年、文治元年)、屋島の戦に敗れた平家の一族、平国盛(平教盛次男、教経?)が手兵百余と共に、祖谷川渓谷の道をさかのぼり、さらに小川谷に沿って登った阿佐名の山懐に入山し、平和な生活を求めて住み着いた、と伝えられています。

 そこには、1862年(文久年)に建てられた、当時の面影を残す平家屋敷と呼ばれる阿佐本家の館があります。 同家には、祖谷の里に入山する際、本陣用と戦陣用の2竿の平家の赤旗(軍旗)を奉持したという。以来825年、家宝として伝えられているそうです。平家落人の資料や民俗資料は、祖谷平家民俗資料館(阿佐名、東祖谷山、三好)に展示されています。また、平家一族の哀話を秘める、祖谷のかずら橋(善徳、西祖谷山、三好)があります。(徳島史学会編、徳島県の歴史散歩、山川出版社、1995、より

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