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2010年2月 2日 (火)

稲田騒動(淡路、阿波)にまつわる歴史実話、稲田家の北海道移住と開拓(静内、日高)、淡路の兵庫への編入、とは(2010.2.2)

  古代、飛鳥時代淡路(あわじ)は、南海道(なんかいどう)、阿波(あわ)へ行く路(みち)を意味しています。律令時代淡路国で、津名(つな、のち洲本、すもと、淡路の玄関口は由良)と三原(みはら、福良港は阿波への渡船場)の2郡があり、国衙(こくが、国庁)は三原町市(いち)の近くにありました。 

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蜂須賀茂韶(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E8%8C%82%E9%9F%B6

 江戸時代、第16代徳島藩主、蜂須賀茂韶(はちすかもちあき、阿波)、1846年(弘化3年)~1918年(大正7年)の家臣、稲田邦種(いなだくにたね、淡路)、1855年(安政2年)~1931年(昭和6年)は、洲本城の城代家老でした。版籍奉還(はんせきほうかん)の禄制改革において、洲本の稲田家の家臣が、全員士族編入、さらに、淡路分藩など要求、これに対し、蜂須賀家の家臣が反発、傷害事件となりました。この騒動は淡路が兵庫に編入される遠因となりました。 稲田邦種(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E7%94%B0%E9%82%A6%E6%A4%8D

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洲本城址からの眺望(洲本市街と洲本港、洲本、淡路、google画像)

(解説) 稲田家は、もともと美馬郡(名西、阿波)の猪尻(いのしり)村に屋敷、会所をかまえ、家臣もこの地方の出身者が多く、猪尻侍と呼ばれていました。阿波国18万石の藩祖、蜂須賀家政(はちすかいえまさ)、1558年(永禄元年)~1639年(寛永15年)は、1615年(元和元年)の大坂夏の陣の活躍により淡路国7万石が加増され、25万石の領国が確定しました。

 大阪の陣の後、徳島藩の筆頭家老、稲田稙元(いなだたねもと、稲田家祖、阿波九城の一つ、脇城を守備、のち廃城、から淡路の由良城へ)、1545年(天文14年)~1628年(寛永5年)は、また、淡路の由良から洲本に移り(由良引け、由良城、のち廃城、から洲本城へ)、その15代目、稲田邦稙(いなだくにたね)は洲本城主(蜂須賀徳島藩主の城代家老)となり、淡路の知行地(7000石余)のみ支配していました。

 幕末、1853年(嘉永6年)、米国提督ペリーが浦賀に黒船来航、稲田家は淡路の沿岸警備の任を命じられ、家臣は天保年間(1830~1843年)の500人から約1300人に急増しました。さらに1849年(嘉永2年)には3000人に増加、その家臣の多くは猪尻侍でした。

 幕末の政局の中で、徳島藩の蜂須賀家は、公武合体(幕府補佐、佐幕派)にこだわり、倒幕に踏みきれなかったが、稲田家は、戊辰戦争の東征軍(倒幕派)に加わるなど、本藩とは反対の独自行動をとり、その活躍は官軍でも高く評価されました。結果的には、この行動は、新政府に対し、本藩の面目が立つことになりました。 

 1869年(明治2年)6月、明治政府による版籍奉還により、第14代徳島藩主須賀茂韶(はちすかもちあき)、1846年(弘化3年)~1918年(大正7年)は、知藩事(ちはんじ)となり、徳島(阿波)の蜂須賀家の家臣は、全員、新政府の下に10等級の士族(しぞく)に分けられ、家禄も国から支給されることになりました。

 一方、淡路(阿波)の稲田家の家臣については、10月11日、新政府は、知藩事の判断で稲田家の家臣の処遇を決めるよう指示、12月28日、稲田家に家臣の士族、卒族別の名簿の提出を命じました。蜂須賀藩主から見れば、稲田家の家臣は、蜂須賀の家臣(武士)である稲田家老の家来(足軽、武士と農民の中間)ということで、筆頭家老の稲田邦稙(淡路、猪尻含む旧禄14000石、1等士族として1000石支給)以外は全員、卒族(そつぞく、希望すれば郡付銃卒)というものでした。これが翌年の徳島藩騒擾(そうじょう)事件、稲田騒動の原因となりました。

 1870年(明治3年)1月15日、稲田家の家臣の嘆願運動の指導者、三田昂馬(みたこうま、旧禄100石)は、家臣の士族と卒族の分別はできないと回答、特別な稲田家の家柄と家臣の活躍(淡路の沿岸警備、倒幕運動など)を理由に、全員の士族編入の要望書を提出しました。そこで、知藩事は、問題の早期解決のため、全員の士族編入を認める旨を通達しました。 

 この通達に対し、稲田家の家臣は、さらに徳島藩から淡路を分離し、稲田邦稙を知藩事とする洲本藩の独立を政府の岩倉具視(いわくらともみ)に嘆願しました。しかし、中央集権をめざす政府は、これを容認できないので、3月21日、岩倉は使者を徳島に送り、稲田家の家臣全員の士族編入を認めるかわりに、北海道移住を命じました。しかし、4月、第10回の嘆願において、稲田家の家臣は北海道移住を拒否、特別賞典の下付を求め、さらに第11回の嘆願で淡路分藩を願い出ました。

 このような洲本(淡路、阿波)の稲田家の家臣の嘆願行動は、徳島(阿波)の蜂須賀家の家臣の反発を招き、知藩事に対する不忠、藩を分断する裏切りとし、4月5日、若い藩兵隊は知藩事に稲田討伐の決議書を提出しました。

 1870年(明治3年)5月14日、阿波にいた蜂須賀家の家臣は、知藩事の抑止を振り切って、藩兵隊有志が猪尻に進撃、猪尻村(のち脇町、阿波、徳島)の稲田家の家臣300人余人は、高松藩(讃岐、香川)に退避しました。藩兵隊は、途中、下浦(名西、のち石井)で藩吏(はんり)、下条勘兵衛(しもじょうかんべえ)、?~1870年(明治3年、切腹)の説得を受け、進撃を中止して解散、阿波では悲劇は寸前で回避されました。

 一方、淡路にいた蜂須賀家の家臣は、5月13日未明、藩兵有志と農兵隊800人を率いて洲本城下の稲田家の屋敷、家臣たちの長屋、別荘であった武山邸、学問所である益習館などを次々と急襲しました。稲田家の家臣は無抵抗で、死者15人、自殺者2人、負傷者20人、焼失家屋10数軒という惨事となりました。

 そして、8月、新政府の太政官から出された蜂須賀家の家臣に対する判決は、斬罪10人(首謀者、うち8人は切腹)、終身刑26人(八丈島、流罪)、禁固、謹慎処分は多数(約100人)という厳しいものでした。また、知藩事、惨事は謹慎処分でした。

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稲田家の北海道移住と開拓、静内(しずない)上陸地(静内、日高、google画像)

(解説)、稲田家の家臣は、全員士族籍を得ましたが、北海道移住(日高国、のち静内郡の静内町、しずないちょう、根室の色丹島)を命じられ、稲田邦稙も家臣と共に未開地の開拓に従事しました。移住は1871年(明治4年)4月から始まり、第1陣500余人は日高の静内町に入りました。ところが、8月の第2陣を乗せた薩州平運丸が和歌山沖の周参見浦(すさみうら)で岩に乗り上げ沈没、水死者83人を出す惨事が起こりました。

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江国寺(稲田家の菩提寺、臨済宗、洲本、淡路、google画像)

(解説) 舟山馨(ふなやまかおる)の小説「お登勢」は、この稲田騒動、庚午事変(こうごじへん)を生々しく描いています。洲本の栄町3丁目の江国寺(こうこくじ、臨済宗)の山門の横に稲田騒動の稲田家の家臣の霊を慰める招魂碑が、また本町8丁目の専称寺(せんしょうじ、浄土宗)には蜂須賀家の家臣の庚午志士碑が立っています。

 この稲田騒動は、1871年(明治4年)に断行される廃藩置県以降の徳島県の県名、県域の変動にも影響を与え、1880年(明治13年)3月2日、徳島県の再配置が確定、淡路は兵庫県に編入されました。 また、その後の自由民権運動(自助社、有信社など政治結社の形成、自由党、改進党など政党の形成)にも影響を与えることになりました。

(参考文献) 吉崎正松: 都道府県名と国名の起源、古今書院(1972); 三好昭一郎、松本博、佐藤正史: 徳島県の百年、山川出版社(1992); 湯浅良幸(徳島史学会)編: 徳島県の歴史散歩、山川出版社(1995); とくしま地域政策研究所編: 四国のいのち、吉野川事典、自然/歴史/文化、稲田騒動(三好昭一郎)、農文協(1999); 兵庫県高等学校教育研究会歴史部会(兵庫県歴史学会): 兵庫県の歴史散歩(上)、山川出版社(1998); 石躍胤央、北條芳隆、大石雅章、高橋啓、生駒佳也: 徳島県の歴史、山川出版社(2007). 

(参考資料) 洲本城(洲本、淡路島、兵庫、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%B4%B2%E6%9C%AC%E5%9F%8E&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi;  

稲田騒動(徳島新聞): http://www.topics.or.jp/nie/117307666665/122447122491.html

稲田騒動(快左右衛門):http://kaizaemon.com/inada/inada.html

稲田騒動(洲本、淡路、兵庫県洲本市及び北海道日高郡靜内町含む、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E7%A8%B2%E7%94%B0%E9%A8%92%E5%8B%95&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi; 

稲田騒動(歴史で巡る新ひだか町、静内、日高、北海道): http://shinhidaka.hokkai.jp/kankoukyoukai/rekiside/meguru.html;

 

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コメント

稲田男爵子孫の現況を知るにはどうすればよいですか?

mixi RAMBO日記
Gree RAMBO日記

回答

稲田男爵子孫については、稲田邦植(いなだくにたね、1855-1931、稲田家16代当主)男爵の子孫として、旧開拓地、北海道静内町、現在は、北海道新ひだか町のホームぺページ:http://www.shinhidaka-hokkaido.jp/を開き、稲田家で検索すると、手がかりがありそうです。

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