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2010年2月24日 (水)

宮本武蔵(二天一流)にまつわる歴史伝承、五輪書(霊巖洞)、巌流島の決闘(二天記)、花鳥水墨画(剣禅一如)、吉川英治の創作と史実、とは(2010.2.24)

  宮本武蔵が、晩年、五輪書を書いた時、参籠(さんろう)した雲巖禅寺(うんがんぜんじ、曹洞宗、本尊は岩戸観音)の奥の院(おくのいん)、霊巖洞(れいがんどう、岩戸観音を祀る)に何か心が引かれ、1987年(昭和 62年)10月、そこを訪れたことがあります。熊本交通センターからバスに乗り、ミカン畑を眺めながら山を越え、岩戸(いわと)観音入口で下車してお参りしましたが、当時はバスの便が悪く、帰りが相当遅くなりました。

 河内川の岸辺、バス停から坂道を約15分上り、雲巖禅寺へ、本堂前の宝物館武蔵ゆかりの展示(自画像、木刀など)を見た後、境内裏の岩山(凝灰岩、ぎょうかいがん)を歩き、岩肌の五百羅漢(ごひゃくらかん)の石像を拝みながら、霊巖洞にお参りしたのが、懐かしく思い出されます。そこで、改めて、宮本武蔵について調べて見ました。

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宮本武蔵(肖像画、熊本・島田美術館 所蔵): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%9C%AC%E6%AD%A6%E8%94%B5

 宮本武蔵(みやもとむさし)、1584年(天正12年)?~1645年(正保2年)5月19日は、播磨(兵庫、のち美作、岡山へ?)生まれ、江戸初期の剣豪、姓は新免(しんめん)、名は政名、諱(いみな)は玄信(はるのぶ)、号は二天(にてん)という。初め円明流(のち二刀一流)と称する剣法を案出、晩年になって二天一流と唱えました。

 武蔵は、60才の時、雲巖寺(うんがんじ、曹洞宗)の奥の院霊巖洞(れいがんどう、金峰山西麓、熊本)に参籠(さんろう)して五輪書(ごりんのしょ)を、また、62才、死の1週間前、独行道(どっこうどう)を書き残しました。武蔵画人としても著名で、枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)、鵜図(うず)、布袋見闘鶏図(ほていけんとうけいず)など、花鳥水墨画が現存しています。

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霊巖洞(れいがんどう、岩戸観音、岩戸、松尾、熊本、google画像)

(解説) 宮本武蔵は、島原の乱における働きが縁となって、1640年(寛永17年)8月、57才、肥後(ひご、熊本)の54万国藩主、細川忠利(ほそかわただとし、初代)、1586年(天正14年)~1641年(寛永18年)、の客分(7人扶持、合力米18石)となりました。忠利は、1632年(寛永9年)、47才の時、熊本藩主、加藤忠広(かとうただひろ、第2代)、1601年(慶長6年)~1653年(承応2年)、32才が、出羽(でわ、山形)の1万石丸岡藩主に改易(かいえき、処罰、しょばつ)されたため、その後を受けて、豊前(ぶぜん、福岡)の39万9千石小倉藩主(第2代)から熊本藩に加増し、移封(いふう、国替、くにがえ)されていました。

 豊前(ぶぜん)の小倉藩主、細川忠興(ほそかわただおき、初代、忠利)、1563年(永禄6年)~1646年(正保3年)の時、宮本武蔵佐々木小次郎の決闘が、小倉藩領の巌流島(がんりゅうじま、舟島、豊前、小倉、福岡、のち舟島、下関、山口))で行われました。これは、1612年(慶長17年)、武蔵が29才の時の試合と言われています。

 五輪書は、1643年(寛永20年)、武蔵が60才の時、熊本市の西方、金峰山(きんぽうさん)の麓(ふもと)、岩戸(いわと)観音像が安置された、雲巖寺(うんがんじ、曹洞宗)の奥の院、霊巖洞(れいがんどう)の中に参籠(さんろう)し、1641年(寛永18年)に著した兵法三十五箇条増補し、二天一流の剣術兵法の基本的伝書として、(じょ、経歴)と(ち、基礎的考え)、(すい、剣法の詳細)、火(か、実戦での注意点)、風(ふう、流儀の優位性)、空(くう、悟りの境地)の5巻にまとめた思想技術です。

 そので、武蔵は、1645年(正保2年)、60才の時、五輪書を書き始めたこと、13才の時、有馬喜兵衛という兵法者と初めて戦い、勝利、16才の時、秋山某という但馬の強力の兵法者と戦い、勝利、21才で都に上り、天下の兵法者に会って数度勝負して勝ったことなど、13才~28,29才まで合計60数度の勝負をしたが、負けたことはなかったことしか述べておらず、その他のことについては、二天記の記述に頼らざるをえないようです。

  しかし、二天記は、1776年(安永5年)、熊本藩細川家の筆頭家老(八代城主)松井家の二天一流兵法師範、豊田景英した宮本武蔵(新免玄信)の伝記ですが、武蔵死後130年ほど経て書かれたものです。ということで、武蔵の生涯については、粉飾、誤伝も含まれている可能性があるそうです。

 その原本で史料の価値が高いものは、二天記より20年ほど古く、1755年(宝暦5年)、熊本藩細川家の筆頭家老(八代城主)松井家の二天一流兵法師範、豊田正脩した武公伝(ぶこうでん)です。二天記には、武公伝には述べられていない武蔵の数々の伝承、説話などが付け加えられています。

 武公伝によれば、武蔵は、作用(播磨国、兵庫)の赤松氏の末葉であり、ゆえあって外戚の宮本に氏名を改めました。13才から28,29才まで60余度勝負して、一度も負けたことはない。 父は新免無二之介という剣術家で、十手二刀の達人、15代将軍足利義昭の時に、御前に招かれて、扶桑(ふそう)第1の剣術家とされる京の吉岡庄左右衛門拳法(けんぽう、憲法)と戦い、3度のうち2度も勝ち、日下無双(日本一)の号を与えられました。

 武蔵は、13才の時、初めて有馬喜兵衛という新当流(新道流)の兵法者、16才の時、秋山某という但馬の強力の兵法者と戦い、勝利しました。これを機に単身故郷を出奔、武道修行のため諸国を遍歴しました。

 1600年(慶長5年)10月、関ヶ原の合戦に参戦し、活躍しました。21才で上京し、吉岡庄左右衛門拳法(けんぽう、憲法)の子の清十郎と洛外蓮台野(れんだいの)で決闘し、勝利、次に清十郎の弟伝七郎と戦い、勝利、その後、清十郎の子、又七郎を擁して数十人と戦いを挑んできた吉岡一門と下り松で立ち会い、ことごとく斬殺、これによって吉岡家は断絶しました。同年、南都宝蔵院で槍術の達人奥蔵院と二度勝負し、二度とも勝ちました。伊賀国で宍戸某という鎖鎌の達人と戦い、勝利、江戸で夢想権之助を一撃のもとに倒しました。

 また、佐々木小次郎(巖流)、(?~1612年、慶長17年、5月13日)は、二天記によれば、越前(福井)宇坂の庄、浄教寺村の生まれで、天資豪岩、壮健類ないと言う。もともと、小次郎は1尺5寸という短い刀を操る小太刀の名人である富田勢源(とだせいげん)の弟子であったのですが、勢源は自分の稽古のために小次郎に長い太刀(3尺余、1m以上)を持たせて打ち込ませていました。そのうちに小次郎は長い太刀について習熟し、名高い兵法者になったと言う。燕返しの剣法を案出、のち小倉藩主、細川忠興に仕えました。年令については、武蔵より10才程度年下、あるいは同年齢など諸説があります。 一乗滝と佐々木小次郎(ふくい歴史百景、福井): http://fukui100kei.dogaclip.com/kanko/Profile-100000046.html

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巌流島(がんりゅうじま、舟島、豊前、小倉、福岡、のち舟島、下関、山口、google画像)

(解説) 巌流島の決闘については、武蔵の死後9年経た、1654年(承応3年)、養子の宮本伊織(みやもといおり、長兄、田原久光の次男、貞次)が小倉城下の手向山に建てた武蔵頌徳(しょうとく)銘文は、小次郎の三尺余の白刃に対して、木刀の一撃で小次郎を打ち殺した、と伝えています。

 また、武蔵死後130年ほど経た二天記では次のように記述されています。小次郎霜刃を抜て鞘を水中に投(じ)、水際に立て武蔵が近づくを迎ふ。時に武蔵水中に踏留り、にっこと笑て云く、小次郎負たり、勝者何ぞ其鞘を捨ん、小次郎は益々怒て、武蔵が相近づくと斉く刀を真甲に振立、武蔵が眉間を打つ。

 この戦いの勝負は、武蔵の死後70年ほど経た、1716年(京保元年)刊行、熊沢猪太郎(熊沢淡庵)著の武将感状記(ぶしょうかんじょうき)、日夏繁高著の本朝武芸小伝(ほんちょうぶげいしょうでん)の中では、二天記とは少し異なる話となっているので、決闘の時の言葉などは、著者の創作と考えらています。

  吉川英治の長編小説、宮本武蔵は、1935年(昭和10年)~1939年(昭和14年)、朝日新聞に連載されました。武蔵が苦悩しながら自己鍛錬を重ね、日本一の剣豪に登りつめていく、求道者として剣禅一如の境地をめざす姿は、フィクション(お通、又八は架空の人物、沢庵との関係は?)、逸話(丹治峯均筆記、たんじほうきんひっき)、伝記(二天記)を交え、吉川英治の筆の力により、感動的な場面として描かれています。

 吉川英治は、武蔵を完成させた後、舞台位置や決闘など個々の要素について書き綴った随筆集武蔵、の中で、史実として確実に言えることは、ほんの微々たるものだ、と言っています。そして、武蔵の歩いた生涯は、煩悩(ぼんのう)と闘争(とうそう)の生涯であったに違いないという。

 また、武蔵が中山道を通って江戸に入ったのは史実でなく、樋口清之(1909-1997)氏の資料提供に基ずく創作であったという。(樋口清之:逆さ・日本史(第8刷)、武士の時代編、江戸→戦国→鎌倉、p.20~36、(1)小説「宮本武蔵」が歴史を変えた話、祥伝社(2007)より) 

 その創作ネタ本は、二天記であり、同じ内容の表現が随所に見られます。例えば、巌流島の決闘のシーンでは、波間に鞘を投げ捨てた小次郎に対して、小次郎負けたり、と言い、勝つ身であればなぜ鞘をすてる、とたたみかける小次郎を苛立(いらだた)せるセリフは、ほとんど二天紀の内容と同じです。

 私は、1961年(昭和36年)、中村錦之介(萬屋錦之介)が演じた宮本武蔵(原作は、吉川英治小説宮本武蔵)の映画を見たことがあり、特に京都の吉岡拳法一門(一乗寺下り松)、また佐々木小次郎(巌流島)との決闘シーンが印象的で、今でも目に浮かびます。

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枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず、宮本武蔵、和泉市久保惣記念美術館蔵)

(解説) 宮本武蔵画人としても著名で、水墨画もよくし、枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず、和泉市久保惣記念美術館蔵)、鵜図(うず、永青文庫蔵)、布袋見闘鶏図(ほていけんとうけいず、福岡市美術館蔵、松永コレクション)、正面達磨図(しょうめんだるまず、永青文庫蔵)などの作品があります。また、雄渾な戦気(松井文庫蔵)が有名です。武蔵は、兵法の利にまかせて諸芸諸能を道となせば、万事におゐて我に師匠なし、と言う。

 武蔵は、1643年(寛永20年)10月10日、60才の時、五輪書を書き始めて約1年後病に伏し、藩主の命により、1644年(寛永21年)11月16日、熊本城下に戻り、1645年(正保2年)5月19日、62才、熊本城内、千葉城址屋敷亡くなりました

 五輪書は、武蔵の病状悪化のため、1645年(正保2年)5月12日付で、新免武蔵守玄信(しんめんむさしのかみはるのぶ)から寺尾孫之允信正(てらおまごのじょうのぶまさ、弟子)に草稿のまま譲り与えられたと考えられています。今日、武蔵自筆のものは伝存せず寺尾勝延(てらおかつのぶ、弟子)の書写が伝わっています。

 また、武蔵は、死の1週間前、独行道(どっこうどう)を書き、1645年(正保2年)5月12日付で寺尾孫之丞勝信に与えました。その内容は、自分の人生を振り返り、自らの信条を21ヶ条に書いたもので、武蔵自筆のものが現存しています。

 一、世々の道をそむくことなし。(世の中のさまざまな道に背いてはならない。) 一、身にたのしみをたくまず。(わが身の楽しみを追い求めてはならない。) 一、よろづに依怙(えこ、他に依り頼みとする)の心なし。(どんなことにもそれをたのみにする心を抱いてはならない。) 一、一生の間よくしん(欲心)思はず。(一生の間、欲深いことを考えてはならない。)一、我事におゐて後悔をせず。(一度したことについては後悔をしてはならない。) 

 一、仏神は貴し(とうと)し、仏神をたのまず。(仏や神は貴いけれども、これを頼りにしてはならない。われ神を信じて、神に頼らず。) 一、身を捨てても名利はすてず。(自分の命が危険にさらされても、名誉心を失ってはならない。) 一、常に兵法の道をはなれず。(常に兵法の道から離れてはならない。)など、武蔵がこれまでの人生で心がけてきた言葉です。

 武蔵は、死後も、細川藩主を守りたいと遺言し、参勤交代の行列を見送る大津街道沿いの地に埋葬されたとのことです。

(参考文献) 永原慶二監修: 日本史事典、岩波書店(1999); 熊本県高等学校社会科研究会編、熊本県の歴史散歩、山川出版会(2000);  井沢元彦: 宮本武蔵、最強伝説の真実、小学館文庫(2007); 魚住孝至: 宮本武蔵、兵法の道を生きる、岩波新書(2008); 佐藤正英: 五輪書、宮本武蔵、ちくま学芸文庫(2009).

(参考資料) 宮本武蔵(THE MUSASHI、播磨武蔵研究会): http://www.geocities.jp/themusasi1/index.html

霊巖洞(岩戸、松尾、熊本、google 画像): http://images.google.co.jp/images?hl=ja&source=hp&q=%E9%9C%8A%E5%B7%96%E6%B4%9E&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

雲巌禅寺(曹洞宗、岩戸、松尾、熊本、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E9%9B%B2%E5%B7%8C%E7%A6%85%E5%AF%BA&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

巌流島(巌流島ホームページ、下関、山口): http://www.city.shimonoseki.yamaguchi.jp/kanko/ganryujima/index.html

巌流島の決闘(舟島、豊前、福岡、のち舟島、下関、山口、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%B7%8C%E6%B5%81%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%B1%BA%E9%97%98&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

宮本武蔵の水墨画(剣禅一如、花鳥画、道釈人物画、google画像): http://images.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%AE%AE%E6%9C%AC%E6%AD%A6%E8%94%B5%E3%81%AE%E6%B0%B4%E5%A2%A8%E7%94%BB&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

(追加説明) ○ 雲巌寺(曹洞宗、九州西国三十三観音第14番霊場)は、寺の裏山の中腹の岩窟、奥の院、霊巌洞に祀られている石体四面の観音像(岩戸観音)を本尊とし、南北朝時代の1351年(観応2年)、元からの渡来僧、東陵永輿(とうりょうえいよ)によって開かれました。戦国末期には鹿子木寂心(かのこぎじゃくしん、親員)、徳川時代には加藤家、細川家の保護を受けて栄えました。 

 雲巌寺の境内から裏の岩山に入ると、1708年(宝永5年)銘の釈迦三尊像や十六羅漢像、それ取り囲むように五百羅漢の石像が並んでいます。この五百羅漢は、淵田屋儀平(ふちだやぎへい、商人)の発願により、1779年(安永8年)~1802年(享和2年)の24年間に刻まれたものと言われています。五百羅漢よりさらに奥に入ると霊巌洞に着きます。

○ 宮本武蔵は、五輪書の序で、生国播磨の武士、新免武蔵守藤原玄信(しんめんむさしのかみふじわらのはるのぶ)と名乗っています。宮本家系図によれば、1582年(天正10年)、田原家貞(たばるいえさだ)の次男として、播磨国姫路近くの、米堕(よねだ)村(のち兵庫県高砂市米田町米田)に生まれました。長兄は、4才年上の田原久光です。通説は、五輪書の、年つもりて六十、という記述によって、1584年(天正12年)生まれとしますが、実年齢ではなく。修辞と考えられています。

 武蔵の生家、田原氏は、室町幕府の樹立に貢献した赤松則村(のりむら)を祖とする土着の武士でした。赤松氏一統の御着(ごちゃく)城主小寺氏に仕えていたが、小寺氏が豊臣秀吉に滅ぼされ、田原氏が没落して後、武蔵は、美作国宮本村の宮本無二斎一真(みやもとむにさいいっしん)の養子となりました。

 無二斎は、竹山城主新免氏に仕え、十文字鎚を用いた武功によって、新免性を名乗ることを許されていました。また、二刀を遣う当理流(とうりりゅう)を創始しました。武蔵が二刀を遣ったのは、養父の無二斎に負うと推測されています。

 武蔵は、1600年(慶長5年)、19才、関ヶ原の戦いで、無二斎と共に、豊前国中津城主の黒田孝高(よしたか)の下、東軍方で戦ったと考えられます。1604年(慶長9年)の黒田藩知行書付よれば、無二斎は関ヶ原の合戦以前から黒田氏に仕えていたようです。

○ 五輪書については、武蔵自筆のものは伝存せず、また、諸写本には、五輪書という書名は見当たらないそうです。福岡藩家老吉田家旧蔵本(九州大学九州文化研究所蔵)の表紙には、二天一流兵法書となっています。

 一般に流布している、五輪書という書名は、武蔵の伝記、1776年(安永5年)刊行の豊田景英の二天記に由来しています。仏教(密教)において、宇宙の構成要素(五大、ごだい)を円輪(えんりん、曼荼羅、マンダラ)になぞらえ、五輪(地輪、水輪、火輪、風輪、空輪)と呼ぶのを、五輪書の名としています。

 水(すい)の巻には、兵法における平常心の大切さを、兵法の道におゐて、心の持やうは、常の心に替る事なかれ。常にも、兵法の時にも、少もかはらずして、心を広く直にして、きつくひつぱらず、少もたるまず、心のかたよらぬやうに、心をまん中におきて、心を靜にゆるがせて、其ゆるぎのせつなも、ゆるぎやまぬやうに、能々吟味すべし。---、と兵法の実戦原理を説いています。

○ 武蔵の自画像については、自画像、肖像画と言われるものが、四種類、十数点見られますが、ほぼ歌舞伎などで有名になった江戸中期以降のもので、武蔵の本当の姿は分からないそうです。

(追加参考資料) ○ 有名剣術流派剣客(戦国剣術流派、宮本武蔵、二天一流ほか): http://machinaexdeo.fc2web.com/senngoku.html

○ 武術道歌(五十雀俗謡集): http://sakusabe.exblog.jp/658434/; 道歌(剣道):http://www.ne.jp/asahi/y.yoda/walser/douka.htm

 宮本武蔵玄信・二天一流: 乾坤をその侭庭に見るときは我は天地の外にこそ住め; 柳生十兵衛三厳: 兵法に勝たんと思ふ心こそ仕合に負くるはじめなりけり; 鞍馬流: 気は長く心は丸く腹立てず己小さく人は大きく

○ 私の生家(徳島)の壁掛けに、親父が横書きで墨書した、人自腹気心、の四文字が飾ってありました。人の字は非常に大きく、自の字は少し小さく、腹の字は普通の大きさで横に寝かせてあり、気の字は大きく、乙のところを右に伸ばし、心が小さめに配置されていました。

 人は大きく、自分は小さく、腹を立てずに、気を長く、心静かに、とのことでしたが、この言葉は、剣道一家(新開家、刑務官、利三郎、長男、清、あと武蔵、高志、のち上板、徳島)に生まれた親父(農業技手、利三郎、次男、利治、本浄家養子、あと高治、松島、のち上板、徳島)から教えてもらいました。そのルーツが鞍馬流の剣道の道歌であることは、昨年インターネットで調べてはじめて知りました。父は身長が150cm台で低かったので、剣道では抜き胴とか小手が得意であったようです。家には木刀(のち真剣)がありました。

 

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