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2010年2月の4件の記事

2010年2月24日 (水)

宮本武蔵(二天一流)にまつわる歴史伝承、五輪書(霊巖洞)、巌流島の決闘(二天記)、花鳥水墨画(剣禅一如)、吉川英治の創作と史実、とは(2010.2.24)

  宮本武蔵が、晩年、五輪書を書いた時、参籠(さんろう)した雲巖禅寺(うんがんぜんじ、曹洞宗、本尊は岩戸観音)の奥の院(おくのいん)、霊巖洞(れいがんどう、岩戸観音を祀る)に何か心が引かれ、1987年(昭和 62年)10月、そこを訪れたことがあります。熊本交通センターからバスに乗り、ミカン畑を眺めながら山を越え、岩戸(いわと)観音入口で下車してお参りしましたが、当時はバスの便が悪く、帰りが相当遅くなりました。

 河内川の岸辺、バス停から坂道を約15分上り、雲巖禅寺へ、本堂前の宝物館武蔵ゆかりの展示(自画像、木刀など)を見た後、境内裏の岩山(凝灰岩、ぎょうかいがん)を歩き、岩肌の五百羅漢(ごひゃくらかん)の石像を拝みながら、霊巖洞にお参りしたのが、懐かしく思い出されます。そこで、改めて、宮本武蔵について調べて見ました。

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宮本武蔵(肖像画、熊本・島田美術館 所蔵): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%9C%AC%E6%AD%A6%E8%94%B5

 宮本武蔵(みやもとむさし)、1584年(天正12年)?~1645年(正保2年)5月19日は、播磨(兵庫、のち美作、岡山へ?)生まれ、江戸初期の剣豪、姓は新免(しんめん)、名は政名、諱(いみな)は玄信(はるのぶ)、号は二天(にてん)という。初め円明流(のち二刀一流)と称する剣法を案出、晩年になって二天一流と唱えました。

 武蔵は、60才の時、雲巖寺(うんがんじ、曹洞宗)の奥の院霊巖洞(れいがんどう、金峰山西麓、熊本)に参籠(さんろう)して五輪書(ごりんのしょ)を、また、62才、死の1週間前、独行道(どっこうどう)を書き残しました。武蔵画人としても著名で、枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)、鵜図(うず)、布袋見闘鶏図(ほていけんとうけいず)など、花鳥水墨画が現存しています。

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霊巖洞(れいがんどう、岩戸観音、岩戸、松尾、熊本、google画像)

(解説) 宮本武蔵は、島原の乱における働きが縁となって、1640年(寛永17年)8月、57才、肥後(ひご、熊本)の54万国藩主、細川忠利(ほそかわただとし、初代)、1586年(天正14年)~1641年(寛永18年)、の客分(7人扶持、合力米18石)となりました。忠利は、1632年(寛永9年)、47才の時、熊本藩主、加藤忠広(かとうただひろ、第2代)、1601年(慶長6年)~1653年(承応2年)、32才が、出羽(でわ、山形)の1万石丸岡藩主に改易(かいえき、処罰、しょばつ)されたため、その後を受けて、豊前(ぶぜん、福岡)の39万9千石小倉藩主(第2代)から熊本藩に加増し、移封(いふう、国替、くにがえ)されていました。

 豊前(ぶぜん)の小倉藩主、細川忠興(ほそかわただおき、初代、忠利)、1563年(永禄6年)~1646年(正保3年)の時、宮本武蔵佐々木小次郎の決闘が、小倉藩領の巌流島(がんりゅうじま、舟島、豊前、小倉、福岡、のち舟島、下関、山口))で行われました。これは、1612年(慶長17年)、武蔵が29才の時の試合と言われています。

 五輪書は、1643年(寛永20年)、武蔵が60才の時、熊本市の西方、金峰山(きんぽうさん)の麓(ふもと)、岩戸(いわと)観音像が安置された、雲巖寺(うんがんじ、曹洞宗)の奥の院、霊巖洞(れいがんどう)の中に参籠(さんろう)し、1641年(寛永18年)に著した兵法三十五箇条増補し、二天一流の剣術兵法の基本的伝書として、(じょ、経歴)と(ち、基礎的考え)、(すい、剣法の詳細)、火(か、実戦での注意点)、風(ふう、流儀の優位性)、空(くう、悟りの境地)の5巻にまとめた思想技術です。

 そので、武蔵は、1645年(正保2年)、60才の時、五輪書を書き始めたこと、13才の時、有馬喜兵衛という兵法者と初めて戦い、勝利、16才の時、秋山某という但馬の強力の兵法者と戦い、勝利、21才で都に上り、天下の兵法者に会って数度勝負して勝ったことなど、13才~28,29才まで合計60数度の勝負をしたが、負けたことはなかったことしか述べておらず、その他のことについては、二天記の記述に頼らざるをえないようです。

  しかし、二天記は、1776年(安永5年)、熊本藩細川家の筆頭家老(八代城主)松井家の二天一流兵法師範、豊田景英した宮本武蔵(新免玄信)の伝記ですが、武蔵死後130年ほど経て書かれたものです。ということで、武蔵の生涯については、粉飾、誤伝も含まれている可能性があるそうです。

 その原本で史料の価値が高いものは、二天記より20年ほど古く、1755年(宝暦5年)、熊本藩細川家の筆頭家老(八代城主)松井家の二天一流兵法師範、豊田正脩した武公伝(ぶこうでん)です。二天記には、武公伝には述べられていない武蔵の数々の伝承、説話などが付け加えられています。

 武公伝によれば、武蔵は、作用(播磨国、兵庫)の赤松氏の末葉であり、ゆえあって外戚の宮本に氏名を改めました。13才から28,29才まで60余度勝負して、一度も負けたことはない。 父は新免無二之介という剣術家で、十手二刀の達人、15代将軍足利義昭の時に、御前に招かれて、扶桑(ふそう)第1の剣術家とされる京の吉岡庄左右衛門拳法(けんぽう、憲法)と戦い、3度のうち2度も勝ち、日下無双(日本一)の号を与えられました。

 武蔵は、13才の時、初めて有馬喜兵衛という新当流(新道流)の兵法者、16才の時、秋山某という但馬の強力の兵法者と戦い、勝利しました。これを機に単身故郷を出奔、武道修行のため諸国を遍歴しました。

 1600年(慶長5年)10月、関ヶ原の合戦に参戦し、活躍しました。21才で上京し、吉岡庄左右衛門拳法(けんぽう、憲法)の子の清十郎と洛外蓮台野(れんだいの)で決闘し、勝利、次に清十郎の弟伝七郎と戦い、勝利、その後、清十郎の子、又七郎を擁して数十人と戦いを挑んできた吉岡一門と下り松で立ち会い、ことごとく斬殺、これによって吉岡家は断絶しました。同年、南都宝蔵院で槍術の達人奥蔵院と二度勝負し、二度とも勝ちました。伊賀国で宍戸某という鎖鎌の達人と戦い、勝利、江戸で夢想権之助を一撃のもとに倒しました。

 また、佐々木小次郎(巖流)、(?~1612年、慶長17年、5月13日)は、二天記によれば、越前(福井)宇坂の庄、浄教寺村の生まれで、天資豪岩、壮健類ないと言う。もともと、小次郎は1尺5寸という短い刀を操る小太刀の名人である富田勢源(とだせいげん)の弟子であったのですが、勢源は自分の稽古のために小次郎に長い太刀(3尺余、1m以上)を持たせて打ち込ませていました。そのうちに小次郎は長い太刀について習熟し、名高い兵法者になったと言う。燕返しの剣法を案出、のち小倉藩主、細川忠興に仕えました。年令については、武蔵より10才程度年下、あるいは同年齢など諸説があります。 一乗滝と佐々木小次郎(ふくい歴史百景、福井): http://fukui100kei.dogaclip.com/kanko/Profile-100000046.html

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巌流島(がんりゅうじま、舟島、豊前、小倉、福岡、のち舟島、下関、山口、google画像)

(解説) 巌流島の決闘については、武蔵の死後9年経た、1654年(承応3年)、養子の宮本伊織(みやもといおり、長兄、田原久光の次男、貞次)が小倉城下の手向山に建てた武蔵頌徳(しょうとく)銘文は、小次郎の三尺余の白刃に対して、木刀の一撃で小次郎を打ち殺した、と伝えています。

 また、武蔵死後130年ほど経た二天記では次のように記述されています。小次郎霜刃を抜て鞘を水中に投(じ)、水際に立て武蔵が近づくを迎ふ。時に武蔵水中に踏留り、にっこと笑て云く、小次郎負たり、勝者何ぞ其鞘を捨ん、小次郎は益々怒て、武蔵が相近づくと斉く刀を真甲に振立、武蔵が眉間を打つ。

 この戦いの勝負は、武蔵の死後70年ほど経た、1716年(京保元年)刊行、熊沢猪太郎(熊沢淡庵)著の武将感状記(ぶしょうかんじょうき)、日夏繁高著の本朝武芸小伝(ほんちょうぶげいしょうでん)の中では、二天記とは少し異なる話となっているので、決闘の時の言葉などは、著者の創作と考えらています。

  吉川英治の長編小説、宮本武蔵は、1935年(昭和10年)~1939年(昭和14年)、朝日新聞に連載されました。武蔵が苦悩しながら自己鍛錬を重ね、日本一の剣豪に登りつめていく、求道者として剣禅一如の境地をめざす姿は、フィクション(お通、又八は架空の人物、沢庵との関係は?)、逸話(丹治峯均筆記、たんじほうきんひっき)、伝記(二天記)を交え、吉川英治の筆の力により、感動的な場面として描かれています。

 吉川英治は、武蔵を完成させた後、舞台位置や決闘など個々の要素について書き綴った随筆集武蔵、の中で、史実として確実に言えることは、ほんの微々たるものだ、と言っています。そして、武蔵の歩いた生涯は、煩悩(ぼんのう)と闘争(とうそう)の生涯であったに違いないという。

 また、武蔵が中山道を通って江戸に入ったのは史実でなく、樋口清之(1909-1997)氏の資料提供に基ずく創作であったという。(樋口清之:逆さ・日本史(第8刷)、武士の時代編、江戸→戦国→鎌倉、p.20~36、(1)小説「宮本武蔵」が歴史を変えた話、祥伝社(2007)より) 

 その創作ネタ本は、二天記であり、同じ内容の表現が随所に見られます。例えば、巌流島の決闘のシーンでは、波間に鞘を投げ捨てた小次郎に対して、小次郎負けたり、と言い、勝つ身であればなぜ鞘をすてる、とたたみかける小次郎を苛立(いらだた)せるセリフは、ほとんど二天紀の内容と同じです。

 私は、1961年(昭和36年)、中村錦之介(萬屋錦之介)が演じた宮本武蔵(原作は、吉川英治小説宮本武蔵)の映画を見たことがあり、特に京都の吉岡拳法一門(一乗寺下り松)、また佐々木小次郎(巌流島)との決闘シーンが印象的で、今でも目に浮かびます。

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枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず、宮本武蔵、和泉市久保惣記念美術館蔵)

(解説) 宮本武蔵画人としても著名で、水墨画もよくし、枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず、和泉市久保惣記念美術館蔵)、鵜図(うず、永青文庫蔵)、布袋見闘鶏図(ほていけんとうけいず、福岡市美術館蔵、松永コレクション)、正面達磨図(しょうめんだるまず、永青文庫蔵)などの作品があります。また、雄渾な戦気(松井文庫蔵)が有名です。武蔵は、兵法の利にまかせて諸芸諸能を道となせば、万事におゐて我に師匠なし、と言う。

 武蔵は、1643年(寛永20年)10月10日、60才の時、五輪書を書き始めて約1年後病に伏し、藩主の命により、1644年(寛永21年)11月16日、熊本城下に戻り、1645年(正保2年)5月19日、62才、熊本城内、千葉城址屋敷亡くなりました

 五輪書は、武蔵の病状悪化のため、1645年(正保2年)5月12日付で、新免武蔵守玄信(しんめんむさしのかみはるのぶ)から寺尾孫之允信正(てらおまごのじょうのぶまさ、弟子)に草稿のまま譲り与えられたと考えられています。今日、武蔵自筆のものは伝存せず寺尾勝延(てらおかつのぶ、弟子)の書写が伝わっています。

 また、武蔵は、死の1週間前、独行道(どっこうどう)を書き、1645年(正保2年)5月12日付で寺尾孫之丞勝信に与えました。その内容は、自分の人生を振り返り、自らの信条を21ヶ条に書いたもので、武蔵自筆のものが現存しています。

 一、世々の道をそむくことなし。(世の中のさまざまな道に背いてはならない。) 一、身にたのしみをたくまず。(わが身の楽しみを追い求めてはならない。) 一、よろづに依怙(えこ、他に依り頼みとする)の心なし。(どんなことにもそれをたのみにする心を抱いてはならない。) 一、一生の間よくしん(欲心)思はず。(一生の間、欲深いことを考えてはならない。)一、我事におゐて後悔をせず。(一度したことについては後悔をしてはならない。) 

 一、仏神は貴し(とうと)し、仏神をたのまず。(仏や神は貴いけれども、これを頼りにしてはならない。われ神を信じて、神に頼らず。) 一、身を捨てても名利はすてず。(自分の命が危険にさらされても、名誉心を失ってはならない。) 一、常に兵法の道をはなれず。(常に兵法の道から離れてはならない。)など、武蔵がこれまでの人生で心がけてきた言葉です。

 武蔵は、死後も、細川藩主を守りたいと遺言し、参勤交代の行列を見送る大津街道沿いの地に埋葬されたとのことです。

(参考文献) 永原慶二監修: 日本史事典、岩波書店(1999); 熊本県高等学校社会科研究会編、熊本県の歴史散歩、山川出版会(2000);  井沢元彦: 宮本武蔵、最強伝説の真実、小学館文庫(2007); 魚住孝至: 宮本武蔵、兵法の道を生きる、岩波新書(2008); 佐藤正英: 五輪書、宮本武蔵、ちくま学芸文庫(2009).

(参考資料) 宮本武蔵(THE MUSASHI、播磨武蔵研究会): http://www.geocities.jp/themusasi1/index.html

霊巖洞(岩戸、松尾、熊本、google 画像): http://images.google.co.jp/images?hl=ja&source=hp&q=%E9%9C%8A%E5%B7%96%E6%B4%9E&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

雲巌禅寺(曹洞宗、岩戸、松尾、熊本、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E9%9B%B2%E5%B7%8C%E7%A6%85%E5%AF%BA&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

巌流島(巌流島ホームページ、下関、山口): http://www.city.shimonoseki.yamaguchi.jp/kanko/ganryujima/index.html

巌流島の決闘(舟島、豊前、福岡、のち舟島、下関、山口、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%B7%8C%E6%B5%81%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%B1%BA%E9%97%98&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

宮本武蔵の水墨画(剣禅一如、花鳥画、道釈人物画、google画像): http://images.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%AE%AE%E6%9C%AC%E6%AD%A6%E8%94%B5%E3%81%AE%E6%B0%B4%E5%A2%A8%E7%94%BB&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

(追加説明) ○ 雲巌寺(曹洞宗、九州西国三十三観音第14番霊場)は、寺の裏山の中腹の岩窟、奥の院、霊巌洞に祀られている石体四面の観音像(岩戸観音)を本尊とし、南北朝時代の1351年(観応2年)、元からの渡来僧、東陵永輿(とうりょうえいよ)によって開かれました。戦国末期には鹿子木寂心(かのこぎじゃくしん、親員)、徳川時代には加藤家、細川家の保護を受けて栄えました。 

 雲巌寺の境内から裏の岩山に入ると、1708年(宝永5年)銘の釈迦三尊像や十六羅漢像、それ取り囲むように五百羅漢の石像が並んでいます。この五百羅漢は、淵田屋儀平(ふちだやぎへい、商人)の発願により、1779年(安永8年)~1802年(享和2年)の24年間に刻まれたものと言われています。五百羅漢よりさらに奥に入ると霊巌洞に着きます。

○ 宮本武蔵は、五輪書の序で、生国播磨の武士、新免武蔵守藤原玄信(しんめんむさしのかみふじわらのはるのぶ)と名乗っています。宮本家系図によれば、1582年(天正10年)、田原家貞(たばるいえさだ)の次男として、播磨国姫路近くの、米堕(よねだ)村(のち兵庫県高砂市米田町米田)に生まれました。長兄は、4才年上の田原久光です。通説は、五輪書の、年つもりて六十、という記述によって、1584年(天正12年)生まれとしますが、実年齢ではなく。修辞と考えられています。

 武蔵の生家、田原氏は、室町幕府の樹立に貢献した赤松則村(のりむら)を祖とする土着の武士でした。赤松氏一統の御着(ごちゃく)城主小寺氏に仕えていたが、小寺氏が豊臣秀吉に滅ぼされ、田原氏が没落して後、武蔵は、美作国宮本村の宮本無二斎一真(みやもとむにさいいっしん)の養子となりました。

 無二斎は、竹山城主新免氏に仕え、十文字鎚を用いた武功によって、新免性を名乗ることを許されていました。また、二刀を遣う当理流(とうりりゅう)を創始しました。武蔵が二刀を遣ったのは、養父の無二斎に負うと推測されています。

 武蔵は、1600年(慶長5年)、19才、関ヶ原の戦いで、無二斎と共に、豊前国中津城主の黒田孝高(よしたか)の下、東軍方で戦ったと考えられます。1604年(慶長9年)の黒田藩知行書付よれば、無二斎は関ヶ原の合戦以前から黒田氏に仕えていたようです。

○ 五輪書については、武蔵自筆のものは伝存せず、また、諸写本には、五輪書という書名は見当たらないそうです。福岡藩家老吉田家旧蔵本(九州大学九州文化研究所蔵)の表紙には、二天一流兵法書となっています。

 一般に流布している、五輪書という書名は、武蔵の伝記、1776年(安永5年)刊行の豊田景英の二天記に由来しています。仏教(密教)において、宇宙の構成要素(五大、ごだい)を円輪(えんりん、曼荼羅、マンダラ)になぞらえ、五輪(地輪、水輪、火輪、風輪、空輪)と呼ぶのを、五輪書の名としています。

 水(すい)の巻には、兵法における平常心の大切さを、兵法の道におゐて、心の持やうは、常の心に替る事なかれ。常にも、兵法の時にも、少もかはらずして、心を広く直にして、きつくひつぱらず、少もたるまず、心のかたよらぬやうに、心をまん中におきて、心を靜にゆるがせて、其ゆるぎのせつなも、ゆるぎやまぬやうに、能々吟味すべし。---、と兵法の実戦原理を説いています。

○ 武蔵の自画像については、自画像、肖像画と言われるものが、四種類、十数点見られますが、ほぼ歌舞伎などで有名になった江戸中期以降のもので、武蔵の本当の姿は分からないそうです。

(追加参考資料) ○ 有名剣術流派剣客(戦国剣術流派、宮本武蔵、二天一流ほか): http://machinaexdeo.fc2web.com/senngoku.html

○ 武術道歌(五十雀俗謡集): http://sakusabe.exblog.jp/658434/; 道歌(剣道):http://www.ne.jp/asahi/y.yoda/walser/douka.htm

 宮本武蔵玄信・二天一流: 乾坤をその侭庭に見るときは我は天地の外にこそ住め; 柳生十兵衛三厳: 兵法に勝たんと思ふ心こそ仕合に負くるはじめなりけり; 鞍馬流: 気は長く心は丸く腹立てず己小さく人は大きく

○ 私の生家(徳島)の壁掛けに、親父が横書きで墨書した、人自腹気心、の四文字が飾ってありました。人の字は非常に大きく、自の字は少し小さく、腹の字は普通の大きさで横に寝かせてあり、気の字は大きく、乙のところを右に伸ばし、心が小さめに配置されていました。

 人は大きく、自分は小さく、腹を立てずに、気を長く、心静かに、とのことでしたが、この言葉は、剣道一家(新開家、刑務官、利三郎、長男、清、あと武蔵、高志、のち上板、徳島)に生まれた親父(農業技手、利三郎、次男、利治、本浄家養子、あと高治、松島、のち上板、徳島)から教えてもらいました。そのルーツが鞍馬流の剣道の道歌であることは、昨年インターネットで調べてはじめて知りました。父は身長が150cm台で低かったので、剣道では抜き胴とか小手が得意であったようです。家には木刀(のち真剣)がありました。

 

2010年2月22日 (月)

北陸の冬の雷(一発雷)にまつわる歴史実話、はじめて訪れた金沢での事件(1969年)、雷おこし(ブリ起こし)、落雷による自衛隊機の墜落、金沢大学定年退職(2006年)、雷から「反物質」、とは(2010.2.22)

  1969年(昭和44年)2月8日(土)午前11時59分ごろ、小松航空自衛隊のF104ジェット戦闘爆撃機が、市内の民家(泉、金沢)近くの路上に墜落、炎上しました。 

 当時の金沢市内の上空は、雷もようでした。 これは、魔の雷雲、雪おこし(一発雷、いっぱつかみなりによるもので、市内全域が一時停電しました。はじめて金沢を訪れた時の忘れがたいショッキングな事件でした。 金沢市(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%B2%A2%E5%B8%82

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金沢市内の地図左端 JR金沢駅、 中央 旧金沢大学城内キャンパス(金沢城公園)、 中央左下 泉(自衛隊機墜落)、 右端 新金沢大学角間キャンパス(角間)、google画像)

 私は、1969年(昭和44年)4月1日に金沢大学理学部助手として赴任しました。お城の中の大学といわれていた金沢大学木羽敏泰教授の研究室へ就職のことで、その2ヶ月ほど前の1969年(昭和44年)2月8日(土)のお昼ごろ、生まれてはじめて京都大学重松恒信教授付き添いで金沢を訪れました。

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木羽敏泰(きばとしやす、1913~2017) (教員プロフィール): http://www.kanazawa-it.ac.jp/kyouinroku/m/kiba_toshiyasu.htm

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重松恒信(しげまつつねのぶ、1916~2003) 

 金沢駅の地下街の食堂で重松教授と昼食をとっていたとき、しばらくの間ですが、食堂が停電で真っ暗になったことを覚えています。この時、お城からそれほど遠くない金沢市泉の民家の密集地に自衛隊機が落雷により墜落するという衝撃的な事件に出くわしました。これは後に冬場の北陸特有の雪おこしとか鰤(ぶり)おこしと呼ばれる自然現象(一発雷)の仕業であることを知りました。

 金沢駅からタクシーでお城の大学を訪れ教授部屋で木羽教授と赤座郁子助手との面談を受け、木羽教授が化学教室を案内して下さいました。その頃は大学紛争の激しいときでしたが、その余波はまだ金沢大学には見られず、ここは学問をするには静かで最もよいところであるとの木羽教授のお話を承りました。

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雪おこし一発雷、ブリおこし、金沢、石川、北陸地方、google画像)

(解説) 雪おこし(一発雷)については、冬になるとシベリア大陸から吹いてくる冷たい季節風(シベリア寒気団)と南方からの日本海沿岸を流れる温かい海流(対馬暖流)との温度差による激しい上昇気流により低空で(100mから数100m)豊富な水蒸気を含む雷雲が発生し、突然の稲光と落雷の後に平野部から山間部にかけての広い範囲に、水分の多い雪(ベタ雪)を降らせます。金沢で住むようになってから、冬場の雷は夏場と違って何の前触れもなく突然稲光と雷鳴をともなう激しいことに驚きました。

 気象の専門家は、これを一発雷と呼んでいます。冬季に雷が発生する地域では、大しけの日本海から静かな富山湾に逃げ込む小魚を追って鰤が回遊し、沿岸に張った定置網に鰤が獲れることから、 北陸特有のこの冬の雷は、また鰤おこしとも呼ばれています。

 自衛隊機の落雷による墜落事故については、 当時の北国新聞と北陸中日新聞(夕刊)には、次のように報道されています。

 1969年(昭和44年)2月8日(土)午前11時59分ごろ,金沢市泉2丁目,農業角村源治さん(44)宅前の路上に小松航空自衛隊のF104ジェット戦闘爆撃機が墜落、炎上しました。墜落した当時の金沢市内の上空は、雷もようでした。魔の雷雲、雪おこしによる雷の音とともにバーン、バーンという爆音がなり、市内全域が一時停電しました。

 また付近は民家の密集地だったため、たちまち火災が拡がり、 まわりの民家14戸が全焼,半焼2戸、30戸が爆風でこわれました。さらに道路や民家にエンジンや機体金属破片が散乱するなどものすごい惨状をみせました。住民4人死亡、19人以上重軽傷という金沢市はじまって以来の大惨事で、まるで戦場のようなあわただしさでした。

 なおパイロットの経(たて)三輝二尉(30)はパラシュートで脱出、金沢市間明町の米丸保育所の建設工事現場の岡組飯場で、石川県警の調べを受けているが、顔に軽傷を負っただけで元気でした。 原因については石川県警本部、金沢中署、金沢市消防本部で調べているが、ジェット機が落雷に当たったのではないかとみています。

 金沢市泉2の住宅密集地に1969年(昭和44年)、航空自衛隊小松基地のF104Jジェット戦闘機が墜落、炎上した事故から8日で40年になる。住み慣れた家は燃え上がり、焼け跡から変わり果てた肉親が―。そろそろ忘れます。もう思い出したくない。当時を知る住民の心(トラウマ)は癒えていない。(雷おこし(一発雷)による自衛隊機の墜落から40年、北陸中日新聞、朝刊、2009年(平成21年)2月8日)

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金沢大学城内キャンパス上 中央 旧城内キャンパスの航空写真(金沢城公園)、 石川門(旧大学正門)、google画像)

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前田利長まえだとしなが、1562~1614)加賀藩2代藩主(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E9%95%B7

 江戸時代、加賀藩2代藩主、前田利長(1562~1614)の頃、金沢城の本丸に15年間ほど建っていた天守閣が、1602年(慶長7年)の冬場にこの一発雷に襲われ、焼失しています。それ以後は、 金沢城の天守閣は再建されず、代わりに三階の櫓を造ったのですが、落雷を恐れたのか、不便なのか何かの理由で、その後の歴代藩主は平屋の二の丸御殿で過ごしています。以前に本丸跡の高木が落雷を受け、まっ二つに割れて上半分が立ち枯れているのを見かけたことがあります。

 

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本浄高治(ほんじょうたかはる、1940~ )

 私は、1969年(昭和44年)4月に金沢大学(理学部化学教室、就職)に赴任しました。その後、37年間(金沢城のキャンパスで24年, 角間の里のキャンパスに移転してから13年)、分析化学と環境化学に関する教育研究にたずさわりました。

 おかげさまで、恩師, 先輩,同僚,教職員, 学生さんをはじめ皆様方のご指導とご支援により、2006年(平成18年)3月、無事定年退職まで勤め終えることができました。

 現在は、歴史散歩とサイエンスの話題を、四季折々、思いつくままに、心身の健康、生涯学習、社会貢献にも繋がるかと、ココログ(2013.3~)に紹介しています。                

(参考文献) 本浄高治編: 本浄高治先生 最終講義と退職記念記録本浄高治先生定年退職記念事業会 (2006).

(参考資料) 

北陸の雷: http://wave.ap.teacup.com/noisynight/56.html

石川県立生涯学習センター(金沢、石川):  http://www.pref.ishikawa.lg.jp/shakyo-c/

金沢大学(ホームページ): http://www.kanazawa-u.ac.jp/  

(追加説明) ○ 学園紛争  1965年(昭和40年)1月28日 慶応大生、学費値上げ反対で全学スト、2月5日解決、学園紛争の始まりとなる。

1968年(昭和43年)1月29日、東京大学医学部学生自治会がインターン制廃止に伴う登録医制度に反対して無期限ストに突入、主役のリーダー(無党派・ノンポリ学生を集めた全学共闘会議、全共闘)17人が処分されました。全共闘は党派や学部を超えたものとして組織されました。この年全国116大学で学園紛争(東大闘争が発端)、学生たちは6月、安田講堂を占拠、機動隊に排除されたものの7月再占拠。

 同年6月2日、米軍板付基地のF4Cファントム機が九州大学構内に墜落(6月2日)。教授・学生ら5000人が抗議デモ。

 1969年(昭和44年)1月18日、東大闘争で大学側が警官8500人を導入。19日機動隊が安田講堂の封鎖解除、ろう城学生631人全員を検挙。

 同年1月20日、坂田道太文相が東京大の入学試験中止を加藤一郎学長代行に要望。東京大当局はこれを受け入れ、開学以来はじめて大学入試中止。

朝日新聞社、戦後史年表1926(昭和元年)~2006(平成18年)、2007年(平成19年)3月31日発行、より

〇 木羽敏泰

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木羽敏泰先生(教員プロフィール): http://www.kanazawa-it.ac.jp/kyouinroku/m/kiba_toshiyasu.htm

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 2013年(平成25年)11月1日、金沢大学名誉教授、木羽敏泰先生(理学部、化学教室、分析化学研究室)は、お元気で、めでたく、100歳を迎えられました。その後、2017年(平成29年)2月20日、103歳、急性気管支炎のため金沢市内の病院で逝去、ご冥福をお祈りする次第です。

木羽敏泰先生を偲ぶ(PDF、日本分析化学会):http://www.jsac.or.jp/bunseki/pdf/bunseki2017/201705shinobu.pdfPhoto

 

 百寿のお祝いのとき、次のような漢詩送杜少府之任蜀川 王勃(おうぼつ、649~676、初唐)(五言律詩、五言と8句の中の5句、6句)の墨書をいただきました。

海内存知己  海内(かいだい)に  知己(ちき)を存(そん)すれば

天涯若比隣  天涯(てんがい)も  比隣(ひりん)の若(ごと)し

 この句の意味は、「この世の中で、自分を理解してくれている友がいるかぎり、世界のはても、隣り近所のようなもの」とのことです。語の「四海皆兄弟」のをうたう、優れた対句として名高いものです。

送杜少府之任蜀川 王勃(詩詞世界、碇豊長): http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/pbt_shi00.htm

 コメント  ガメラ (crs1219@hotmail.c m,  2010/02/23): 因みに、あの事故機が空自 第6航空団 第205飛行隊のF-104J  #691 (76-8691)でした。

〇 ご教示ありがとうございました。 本浄高治

(追加資料)

〇 雷から「反物質」 、京大など発見 宇宙の不思議 実は身近に

 物質と出合うと、光を放って消えてしまう不思議な性質を持つ「反物質」が、雷によって大量に作られていることを、京都大や東京大などの研究チームが突き止めた。これまで、宇宙から降り注ぐ高エネルギー粒子(宇宙線)が地球の大気にぶつかって生じるケースなどが報告されていたが、身近な気象現象である雷による生成が確認されたのは初めて。英科学誌ネイチャー(電子版)に2017年11月23日、論文が掲載される。

 雷から反物質が作られる仕組み(イメージ) ①雷からガンマ線が出て大気中の窒素と反応、②放射性同位体ができ、反物質(陽電子)を放出、③陽電子は電子と衝突し消滅。反物質は、物質と電気的な性質が逆で、宇宙誕生時には物質と同じ量あったが、その後ほとんどが消えたと考えられている。ただ、加速器を使って人工的に作ることができる。米映画「天使と悪魔」(2009年)では、物質と接触して膨大なエネルギーを放つ「兵器」として描かれた。

 京都大の榎戸輝揚・特定準教授8宇宙物理学)らのチームは今年2017年2月、新潟県柏崎市で雷雲から放出されるガンマ線を観測。反物質の一種である「陽電子」が消滅する際に出る特有のガンマ線を検出することに成功した。また、雷によって作られた窒素の放射性同位体から、陽電子が発生するという仕組みを突き止めた。

 雷雲の中では、1回の放電で数兆個の陽電子が作られ、10分間ほどの間に発生と消滅を繰り返すと推定されるいう。榎戸さんは「反物質が、実は身近な場所で生まれて驚いた」と話す。(朝日新聞、2017.11.23)

〇 雷から「反物質」 宇宙の不思議 実は身近に 京大など発見(朝日新聞デジタル):http://www.asahi.com/articles/DA3S13240921.html

 

2010年2月15日 (月)

源義仲(火牛の計、倶利伽羅峠の戦)にまつわる歴史伝承、平氏の打倒、源平の争乱、平氏一門の滅亡、とは(2010.2.15)

  倶利伽羅峠(くりからとうげ)は、越中(富山)と加賀(石川)の県境にあります。源平盛衰記(編者不詳、14世紀頃成立?)によれば、平安時代の末期、1183年(寿永2年)5月11日(新暦、6月2日)、この峠で、源義仲(みなもとのよしなか、木曽義仲とも、30才)率いる4万の軍が、数百匹の牛を集め、火牛の計(かぎゅうのけい)の奇襲により、平維盛(たいらのこれもり、27才?)の10万の大軍を破った、と伝えられています。 この戦(倶利伽羅峠の戦、砺波山の戦とも)は、平氏滅亡の一因となりました。
 

 火牛とは、牛の角に刀を束ね、尾に葦(あし)を結び付けて点火し、夜に乗じて敵軍に放つもので、そのルーツは、古代(紀元前284年)、斉(せい、中国)の田単(でんたん、生没年未詳)の奇策(火牛の計)、と伝えられています(司馬遷、史記、前漢)。

 私は、1980年(昭和55年)5月頃、倶利伽羅峠の古戦場を訪ねたことがあり、そこの公園に立っている火牛像が珍しく、強く印象に残りました。

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倶利伽羅峠の戦火牛の計、越中、富山と加賀、石川の国境、砺波山、google画像)

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源義仲(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E4%BB%B2

 源義仲、1154年(久寿元年)~1184年(元暦元年)は、1155年(久寿2年)、父の源義賢(みなもとのよしたか)、?~1155年(久寿2年)が武蔵大倉館で殺害され、木曽の乳母夫、中原兼遠(なかはらのかねとお、生没年未詳)のもとで育てられました。

 平家物語(作者不詳、13世紀中頃成立?)によれば、1183年(寿永2年)5月11日、平家軍は源義仲の奇計に乗せられ、前後から挟撃を受け、倶利伽羅谷に人馬もろとも追い落され、70000余騎を失うという悲惨きわまる大敗北を喫しました。軍司令官、平維盛らはわずか2000騎となって加賀へ落ち延びました(倶利伽羅峠の戦)。

 また、1183年(寿永2年)5月21日、源平両軍が篠原(江沼、加賀、石川)で激突、炎天下の激戦の果てに、有力武将を数多く失った平家軍は敗走しました。老将、斉藤実盛(さいとうさねもり)、70余才?は、老醜を隠すため白髪を染め、故郷が越前(福井)だったので、特別に許された大将の錦の直垂(ひたたれ)を着て戦い、壮絶な討死を遂げました(篠原の戦)。

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篠原の戦斉藤実盛の兜、篠原、江沼、加賀、石川、多太神社蔵、google画像)

 松尾芭蕉(46才)、1644年(寛永21年)~1694年(元禄7年)は、1689年(元禄2年)7月25日、秋の加賀路で、古社、多太神社(ただじんじゃ、上本折町、小松)を詣で、斉藤実盛の最後の姿に思いを馳せ、むざんやな 甲(かぶと)の下のきりぎりす、と詠みました。その2日後、小松を出発して山中温泉に向かうとき、もう一度神社に参拝し、その句を奉納しました(松尾芭蕉、奥の細道、江戸時代)。 

 柴山潟(加賀、石川)のほとりの片山津温泉近くに、首洗池、という源平争乱の篠原古戦場跡があります。平家物語や謡曲、実盛に、白髪を黒く染めた斉藤実盛の首を洗ったと伝える池です。甲を前に嘆き悲しむ源義仲、樋口次郎、手塚太郎。実盛は手塚に打たれましたが、義仲は幼時、実盛に命を助けられた恩義があり、樋口は幼少からなれ親しんだ人物でした。

 樋口の首検分によって、あなむざんやな斉藤別当にて候いけり、と。不審の黒髪は洗えばたちまち白髪に。義仲が樋口に託して奉納したという、実盛の甲は、加賀市の東隣、小松市中にある、多太神社の宝物殿に厳重に保管されています。(2009年(平成21年)9月4日、北陸中日新聞、朝刊、実盛の池に秋の気配、篠原古戦場 より)

○ 平氏の打倒(反乱)、源平の争乱(挙兵と討伐)、平氏一門の滅亡(壇の浦の戦) 

 1177年(治承元年)6月、後白河上皇(ごしらかわほうおう)、1127年(大治2年)~1192年(建久3年)の側近を中心とする平清盛(たいらのきよもり)、1118年(元永元年)~1181年(治承5年)一門打倒の企てが発覚し、西光(さいこう、出家、もと藤原師光、ふじわらのもろみつ)、?~1177年(安元3年)は死罪、藤原成親(ふじわらのなりちか)、1138年(保延4年)~1177年(治承元年)は流罪(児島、備前、岡山、のち殺害)、俊寛(しゅんかん、生没年未詳)は流罪(鬼界ヶ島、薩摩硫黄島、薩摩、鹿児島)となりましたが、この事件が源平の争乱(治承、寿永の乱)の引き金となりました(鹿ヶ谷の謀議、俊寛の山荘、東山区、京都)。

 1179年(治承3年)11月、平清盛は、後白河法皇を鳥羽殿(とばどの、院御所)に幽閉しました。それ以前には、独裁君主の後白河法皇は、賀茂川の水、双六(すごろく)の賽(さい)、山法師(比叡山延暦寺の僧兵)、この三つだけは自分の自由にならないと嘆いていたと言う。

 1180年(治承4年)2月、言仁親王(ことひとしんのう、第80代、高倉天皇の第1皇子、3才)、1178年(治承2年)~1185年(文治元年)が第81代、安徳天皇として即位、これは全て平清盛(祖父)の指揮のもとに行われました。

 1180年(治承4年)4月~5月、源頼政(みなもとのよりまさ、77才)、1104年(長治元年)~1180年(治承4年)が以仁王(もちひとおう、第77代、後白河天皇第3皇子、30才)、1151年(仁平元年)~1180年(治承4年)と共に平氏打倒の挙兵を計画しましたが、もれて園城寺(大津、滋賀)に逃れ、興福寺(奈良)に向う途中、宇治平等院(京都)で平氏の追撃を受け戦死しました。しかしながら、平氏打倒の令旨(りょうじ、皇太子命令の伝達文書)は、5年に及ぶ源平の争乱の起因となりました(以仁王の乱)。  

 1180年(治承4年)6月、平清盛は、福原(兵庫)に遷都を強行しましたが、11月には京都に復帰しました。3年後の1183年((寿永2年)7月24日、平家一門は、当地に火を放って九州に落ちて行きました。

 1180年(治承4年)8月23~24日、源頼朝(みなもとのよりとも、34才)、1147年(久安3年)~1199年(政治元年)は東国武士団を率いて伊豆で挙兵、大庭景親(おおばかげちか)、?~1180年(治承4年)の平氏軍との相模国(神奈川)、石橋山の戦いで敗北、山中に逃れ、海路安房国(千葉)に渡り、再挙を図りました(石橋山の戦)。

 1180年(治承4年)9月、源義仲(27才)は、木曽谷(信州、長野)で挙兵しました。

 1180年(治承4年)10月23日、源頼朝は、関東の有力武士を味方につけ鎌倉(神奈川)入りしました。平維盛軍との駿河国(静岡)、富士川の戦は、平氏軍が水鳥の羽音を敵襲と間違えて敗走しましたが、頼朝は、西進せず鎌倉に戻り、東国の安定確保に専念しました(富士川の戦)。11月には、侍所(さむらいどころ、軍事、警察、御家人統率)を設置しました。

 1180年(治承4年)12月、平重衡(たいらのしげひら、24才)、1157年(保元2年)~1185年(元暦2年)は平清盛の命に従い南都焼討ち(東大寺大仏殿、興福寺炎上)を行い、反乱の鎮圧に務めました。

 1181年(養和元年)2月、平清盛(64才)が熱病で死去後、後白河法皇は院政を再開、その後、源頼朝と共に、平氏、源義仲らを滅亡させることになります。

 1181年(養和元年)4月、養和(ようわ)の飢饉が起こり、世の中が2年間ほど飢渇し、五穀が生(みの)らず、京でも多くの餓死者(42300余)が出ました(鴨長明、方丈記、鎌倉時代)。  

 源平盛衰記(編者不詳、14世紀頃成立?)によれば、1183年(寿永2年)5月11日、源義仲は木曽(信濃)から北陸道(越後、越中、加賀、越前、若狭)を通って京に入る途中、倶利伽羅峠(越中と加賀の国境、砺波山)で平維盛(27才?)、(1157年(保元2年)?~1184年(寿永3年)?)らと戦い、義仲(30才)軍は、牛の角に松明(たいまつ)をつけ、平家軍を倶利伽羅谷に追い落とした、と伝えられています(倶利伽羅峠の戦)。

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火牛の計倶利伽羅峠の戦、越中、富山と加賀、石川の国境、砺波山、源平盛衰記、google画像)

 1183年(寿永2年)7月、源義仲は、平氏軍を破って上洛(じょうらく、京都入り)を果たし、全国を源頼朝(東国)、平氏(西国)、源義仲(都、みやこ)と3分するに至りました。しかし、京都の治安維持には失敗しました。

 源義仲は、以仁王が平氏に討たれた時、北陸に逃れていた、北陸宮(ほくりくのみや、以仁王の子、木曽宮とも、19才)、1165年(永万元年)~1230年(寛喜2年)を皇位継承候補者に推しましたが、後白河法皇(57才)は拒否しました。

 1183年(寿永2年)8月10日、源義仲は、後白河法皇により佐馬頭(さまのかみ、馬の管理、飼育、調教の役所、左馬寮の長官)に任じられ、朝日将軍(あさひしょうぐん)の称号を授けられました。  

 1183年(寿永2年)10月1日、源義仲(30才)は、平氏が西国で勢力を立て直して東進してきたので、これを討つため水島(備中、倉敷、岡山)に出兵しますが、平重衡(27才)に大敗を喫しました(水島の戦)。

 また、源義仲の軍勢が、養和の飢饉による食料難の洛中で多くの略奪を行ったことから、後白河法皇は、源頼朝に対し、宣旨(せんじ、東国支配権の容認)の見返りに、義仲の討伐を要請しました。また、平家の没管領(もっかんりょう)支配権の見返りに、平氏討伐も要請しました。

 1183年(寿永2年)11月19日、源義仲は、法住寺殿(ほうじゅうじどの、院御所)を襲撃し、後白河法皇(第77代、57才)と後鳥羽天皇(第82代、4才)、1180年(治承4年)~1239年(延応元年)を幽閉、政権を掌握しました。(法住寺の戦、軍事クーデター)

 1184年(元暦元年)1月20日過ぎ、源義仲(31才)は、鎌倉の源頼朝が派遣した源範頼(みなもとののりより、?才)、?~1193年(建久4年)と源義経(みなもとのよしつね、26才)、1159年(平治元年)~1189年(文治5年)との宇治川、河原の戦いに敗れ(宇治川の戦)、1月21日(新暦、3月5日)、粟津(近江、滋賀)で義経、東国諸将との間の戦いで討死しました(粟津の戦)。  

 義仲の墓所は、義仲寺(ぎちゅうじ、天台宗、馬場、大津、滋賀)にあり、義仲の墓の隣には松尾芭蕉の墓があります。(義仲寺; http://www.biwako-visitors.jp/search/spot.php?id=410

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一の谷の戦鵯越の逆落とし、福原、須磨、神戸、兵庫)、屋島の戦(背後から急襲、屋島、香川)、(源平合戦の経路、google画像)

 1183年(寿永2年)7月、源義仲に京を追われた平氏一門は、安徳天皇(6才)を守り、西国に逃げました。 その後の頼朝と義経の対立に助けられ、1184年(寿永3年)1月には、屋島から福原(須磨、神戸、兵庫)に移り、一の谷に陣を構え、その勢力を盛り返しつつありました。

 1184年(元暦元年)1月29日、範頼は56000余、義経は20000余の軍勢で京を発ち渡辺津(摂津、大坂、兵庫)に向かい、2月7日、源義経が別働隊(べつどうたい)を率いて、背後の崖から駆け下りる奇襲(鵯越の逆落とし、ひよどりごえのさかおとし)を敢行、平氏は屋島(讃岐、香川)に敗走しました(一の谷の戦)。

 この戦で、平清盛の甥(おい、異母弟経盛の子)、平敦盛(たいらのあつもり、16才)、1169年(嘉応元年)~1184年(元暦元年)は、源氏方の熊谷直実(くまがいなおざね、44才)、1141年(永治元年)~1208年(承元2年)に討たれました。

 織田信長、1534年(天文3年)~1582年(天正10年)が好んだとされる「人間(じんかん)五十年、下天(げてん)の内(うち)をくらぶれば、夢幻の如くなり---」は、幸若舞(こうわかまい)「敦盛」の一節です。無常観から直実は、その後出家したとされますが、領地争いでの敗北が理由だったとする説が有力です。美貌の若武者、敦盛をめぐる謎は多い。(2009年(平成21年)11月28日、朝日新聞、朝刊、平敦盛、薄命の武者 無常の響き、平家物語より)

 1185年(元暦2年)2月17日、源義経は、平氏の拠点、屋島を攻めるため、敵の意表をついて嵐の中、渡辺津(摂津、大坂、兵庫)から勝浦(阿波、徳島)に渡海、勝浦の平氏方の桜庭能遠を討ち(勝浦の戦)、大阪越えで阿讃山脈を横断、2月18日、背後から急襲、平氏軍は、彦島(ひこしま、長門、のち下関の南端、山口)に敗走しました。平維盛は、屋島より脱出し、那智(紀伊、和歌山)で入水、と伝えられています(屋島の戦)。

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屋島の戦(扇を射落とす神業の一矢、那須与一、屋島、讃岐、香川、google画像)

 那須与一(なすのよいち、生没年未詳、20才?)が、源平両軍の注視する中で、屋島の戦において、平氏方の小舟に掲げられた扇の的(20~25m?)を射落とした話は有名です。 

 1185年(文治元年)3月24日(新暦、4月25日)、源義経(27才)は、西国の水軍勢力(伊予の河野通信、熊野別当湛増ら)を味方につけ、3000余艘、彦島に向かい、平氏軍の1000余艘と壇の浦(赤間関、長門、のち下関、山口)の海上(関門海峡、潮の干満により潮流の向きが逆転)で激突、初めは平宗盛(たいらのむねもり、39才)率いる平氏が優勢でしたが、敗色が濃厚になると、平氏一門(平知盛、教盛など)が次々と入水、安徳天皇(8才)も祖母(二位殿、清盛の妻)に抱かれ海に没し、宗盛も捕虜となり、平氏一門は滅亡しました。(壇の浦の戦)。

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壇の浦の戦壇の浦古戦場址、赤間関、長門のち下関、山口、google画像)

 1185年(文治元年)3月、平宗盛は、壇の浦で源義経に捕らえられ、6月、篠原(野洲、近江、滋賀)で斬首されました。また、愛息、安徳天皇らと入水したものの、捕えられて京都に送還された平清盛の娘、建礼門院徳子(けんれいもんいんとくこ、31才、義父、後白河法皇)、1155年(久寿2年)~1191年(建久2年)は出家して尼となり、7年間、寂光院(大原、左京区、京都)で平家一門、わが子(安徳天皇)の菩提を弔う余生を送りました。本堂は、2000年(平成12年)に火災で全焼、2005年(平成17年)に再建されました。

(参考文献) 富山県歴史散歩研究会(編集委員長、高井進)編: 富山県の歴史散歩、山川出版社(1992); 永原慶二監修: 日本史事典、岩波書店(1999); 高森明勅: 歴代天皇事典、PHP文庫(2006): 詳説日本史図録編集委員会: 山川 詳説日本史図録(第2版)、山川出版社(2009); 成美堂出版編集部: 図解日本史、成美堂出版(2009); 角川書店編(武田友宏、企画、執筆): ビギナーズ、クラシックス、平家物語、角川文庫(2009).

(参考資料) 倶利伽羅峠の戦火牛の計、砺波山の戦とも)、越中(小矢部、富山)と加賀(津幡、石川)の県境、(google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%80%B6%E5%88%A9%E4%BC%BD%E7%BE%85%E5%B3%A0%E3%81%AE%E6%88%A6&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi;

屋島の戦(屋島、讃岐、香川、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%B1%8B%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

壇の浦の戦(赤間関、長門、のち下関、山口、google画像):http://images.google.co.jp/images?hl=ja&source=hp&q=%E5%A3%87%E3%81%AE%E6%B5%A6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84&lr=&oq=%E5%A3%87%E3%81%AE%E6%B5%A6&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

寂光院(大原、左京区、京都): http://www.jakkoin.jp/

(追加説明) ○ 倶利伽羅峠は、富山県小矢部市と石川県津幡町の間にある北陸道(若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡の7国、駅路設置)の峠です。標高(海抜)277mで、砺波(となみ)山中に倶利伽羅不動明王の小祠があります。1183年(寿永2年)、源義仲(木曽義仲とも)が火牛の計によって平維盛を破った、と伝えられています。

○ 倶利伽羅不動(倶利伽羅、梵語、Kulika、くりから、竜王)は、不動明王の変化(へんげ)身で竜王の一種、形像は、盤石の上に立って剣に巻き付いた黒竜が剣を呑む姿を示し、火炎に覆われています。不動明王の持物の利剣と羅索(けんさく)とを合したもの、またその種子(しゅじ)の形という。

 不動明王(ふどうみょうおう、梵語、Acalanatla、動かざる尊者の意)は、五大明王、八大明王の一つで、仏典では最初、大日如来の使者として登場、やがて大日如来が教化し難い衆生をを救うために憤怒(ふんぬ)の姿を仮に現したものとしています。

○ 平家物語(作者として、天台座主、歌人の慈円、信濃国の前司で出家した行長、盲人の生仏?)には、冒頭(ぼうとう)、祇園精舎の 鐘の声 諸行無常の 響きあり 沙羅双樹の 花の色 盛者必衰の 理をあらわす おごれる人も 久しからず ただ春の夜の 夢のごとし たけき者も ついには滅びぬ 偏に風の前の 塵に同じ、との有名な一偈(いちげ)があります。 この世でおごり高ぶっていたのは、平清盛の一門でした。

 1118年(元永元年)、平清盛誕生。1156年(保元元年)7月、保元の乱。平清盛、源義朝が勝つ。1159年(平治元年)12月、平治の乱。清盛、義朝を破る。1160年(永暦元年)3月、源頼朝、伊豆へ配流。1167年(仁安2年)2月、清盛、太政大臣。1168年(仁安3年)2月、清盛出家。1171年(嘉応3年)12月、清盛の娘徳子入内。鹿ヶ谷で平家討伐密議。

 源平の争乱は、桓武天皇(第50代、45才で即位)、737年(天平9年)~806年(大同元年)、律令国家の完成から平安遷都への流れ、桓武平氏系と清和天皇(第56代、9才で即位)、850年(嘉祥3年)~880年(元慶4年)、外祖父の藤原良房が摂政、藤原摂関政治の始まりと終焉の流れ、清和源氏系の対立関係となっています。

○ 鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、鎌倉を拠点とした最初の武家政権で、1180年(治承4年)、平氏打倒の挙兵をした源頼朝が、鎌倉を本拠と定めたことに始まり、後醍醐天皇(ごだいごてんのう、第96代)、1288年(正応元年)~1339年(暦応2年、延元4年)の倒幕計画に呼応し、各地に反乱が勃発、1333年(正慶2年、元弘3年)、滅亡しました。

○ 源氏一族の争いと鎌倉幕府の創設については、1184年(元暦元年)8月、後白河法皇(58才)は、鎌倉殿(頼朝)の推挙なしで義経を叙任、以降、頼朝と義経は対立しました。頼朝は、10月、公文所(くもんじょ、政務、財政)、問注所(もんちゅうじょ、訴訟、裁判)を設置しました。

 1185年(文治元年)10月、後白河法皇は、義経に頼朝追討の院宣(いんぜん、法皇の任命書)を発給しましたが、義経は挙兵に失敗、奥州平泉(岩手)へ逃亡しました。

 1185年(文治元年)、源頼朝(39才)は、反乱を起こした弟の義経(27才)を探索する名目で、法皇より、各地に守護(しゅご、軍事、警察、御家人統率、大犯三ヵ条)、地頭(じとう、税務、裁判、荘園、公領の管理)を任命する権限を得ました。

 1189年(文治5年)4月、頼朝は、藤原泰衡(ふじわらのやすひら、第4代)、1155年(久寿2年)~1189年(文治5年)に義経追討を要求、泰衡(35才)は頼朝の圧力に抗しきれず、義経(31才)を衣館に急襲、自刃に追い込みました(衣川の戦)。頼朝の幕府勢力は、7月、奥州藤原氏を追討、9月、藤原氏を滅亡させ奥州を平定、全国制覇を達成しました。

 1990年(建久元年)11月、源頼朝(44才)は、上洛して後白河法皇と会見、法皇(66才)が1192年(建久3年)7月に死去した後、朝廷から征夷大将軍(武家の統率者)の地位を獲得しました。

 1199年(正治元年)1月、源頼朝(53才)は、落馬(?)がもとで急死、源頼朝と北条政子の長男、源賴家(みなもとよりいえ、18才)、1182年(寿永元年)~1204年(元久元年)が跡を継ぎました。その5年後、賴家(23才)は殺害され、また、その後を継いだ源実朝(13才)、1192年(建久3年)~1219年(建保7年)も28才の時に暗殺され、源家は3代(40年)で滅びました。

○ 北条氏は、鎌倉幕府の執権を世襲した武家です。1203年(建仁3年)2代将軍源賴家を廃して、源実朝を立て、その後見者として幕政を掌握しました。その地位が執権と称されることになります。執権に就任すべき北条氏の家督は徳宗(とくそう)と呼ばれ、時政の子、義時が承久の乱(第82代天皇、後鳥羽上皇、鎌倉幕府倒幕の挙兵、失敗)を勝利に導き、執権の地位を確立、泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時と継承されましたが、1333年元弘3年)、高時の14代で130年の執権政治に幕を閉じました。北条義時の時、北条政子は尼将軍、二位尼として、聴政(簾中政治)を行いました。また、天皇(後白河から後醍醐まで)は20代、将軍(源氏)は9代、執権(北条氏)は16代、続きました。

○ 平家物語によれば、壇の浦の戦において、能登守教経(平清盛弟の教盛の次男)は、今日を最後と大奮戦しました。舟から舟へと乗り移り、ようやく平義経を発見しましたが、義経は対戦を避けて、およそ6mも離れていた源氏の軍船に飛び移りました。これは、義経の八艘飛び(はっそうとび)と伝えられているものです。

 教経は観念して、武器を海に投じ、大手を広げて立ちはだかり、大音声で名乗りをあげました。そこへ、大力の安芸太郎、次郎兄弟が組みつきましたが、教経は兄弟を両脇に抱え込んだまま、わが冥土の旅の供をせよと叫んで、海に飛び込みました。(平家物語、角川文庫、2009、より

○ 平家武士の面目を伝える武将、平教経については、阿波(徳島)の祖谷に別の伝説があります。1185年(元暦2年、文治元年)、屋島の戦に敗れた平家の一族、平国盛(平教盛次男、教経?)が手兵百余と共に、祖谷川渓谷の道をさかのぼり、さらに小川谷に沿って登った阿佐名の山懐に入山し、平和な生活を求めて住み着いた、と伝えられています。

 そこには、1862年(文久年)に建てられた、当時の面影を残す平家屋敷と呼ばれる阿佐本家の館があります。 同家には、祖谷の里に入山する際、本陣用と戦陣用の2竿の平家の赤旗(軍旗)を奉持したという。以来825年、家宝として伝えられているそうです。平家落人の資料や民俗資料は、祖谷平家民俗資料館(阿佐名、東祖谷山、三好)に展示されています。また、平家一族の哀話を秘める、祖谷のかずら橋(善徳、西祖谷山、三好)があります。(徳島史学会編、徳島県の歴史散歩、山川出版社、1995、より

2010年2月 2日 (火)

稲田騒動(淡路、阿波)にまつわる歴史実話、稲田家の北海道移住と開拓(静内、日高)、淡路の兵庫への編入、とは(2010.2.2)

  古代、飛鳥時代淡路(あわじ)は、南海道(なんかいどう)、阿波(あわ)へ行く路(みち)を意味しています。律令時代淡路国で、津名(つな、のち洲本、すもと、淡路の玄関口は由良)と三原(みはら、福良港は阿波への渡船場)の2郡があり、国衙(こくが、国庁)は三原町市(いち)の近くにありました。 

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蜂須賀茂韶(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E8%8C%82%E9%9F%B6

 江戸時代、第16代徳島藩主、蜂須賀茂韶(はちすかもちあき、阿波)、1846年(弘化3年)~1918年(大正7年)の家臣、稲田邦種(いなだくにたね、淡路)、1855年(安政2年)~1931年(昭和6年)は、洲本城の城代家老でした。版籍奉還(はんせきほうかん)の禄制改革において、洲本の稲田家の家臣が、全員士族編入、さらに、淡路分藩など要求、これに対し、蜂須賀家の家臣が反発、傷害事件となりました。この騒動は淡路が兵庫に編入される遠因となりました。 稲田邦種(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E7%94%B0%E9%82%A6%E6%A4%8D

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洲本城址からの眺望(洲本市街と洲本港、洲本、淡路、google画像)

(解説) 稲田家は、もともと美馬郡(名西、阿波)の猪尻(いのしり)村に屋敷、会所をかまえ、家臣もこの地方の出身者が多く、猪尻侍と呼ばれていました。阿波国18万石の藩祖、蜂須賀家政(はちすかいえまさ)、1558年(永禄元年)~1639年(寛永15年)は、1615年(元和元年)の大坂夏の陣の活躍により淡路国7万石が加増され、25万石の領国が確定しました。

 大阪の陣の後、徳島藩の筆頭家老、稲田稙元(いなだたねもと、稲田家祖、阿波九城の一つ、脇城を守備、のち廃城、から淡路の由良城へ)、1545年(天文14年)~1628年(寛永5年)は、また、淡路の由良から洲本に移り(由良引け、由良城、のち廃城、から洲本城へ)、その15代目、稲田邦稙(いなだくにたね)は洲本城主(蜂須賀徳島藩主の城代家老)となり、淡路の知行地(7000石余)のみ支配していました。

 幕末、1853年(嘉永6年)、米国提督ペリーが浦賀に黒船来航、稲田家は淡路の沿岸警備の任を命じられ、家臣は天保年間(1830~1843年)の500人から約1300人に急増しました。さらに1849年(嘉永2年)には3000人に増加、その家臣の多くは猪尻侍でした。

 幕末の政局の中で、徳島藩の蜂須賀家は、公武合体(幕府補佐、佐幕派)にこだわり、倒幕に踏みきれなかったが、稲田家は、戊辰戦争の東征軍(倒幕派)に加わるなど、本藩とは反対の独自行動をとり、その活躍は官軍でも高く評価されました。結果的には、この行動は、新政府に対し、本藩の面目が立つことになりました。 

 1869年(明治2年)6月、明治政府による版籍奉還により、第14代徳島藩主須賀茂韶(はちすかもちあき)、1846年(弘化3年)~1918年(大正7年)は、知藩事(ちはんじ)となり、徳島(阿波)の蜂須賀家の家臣は、全員、新政府の下に10等級の士族(しぞく)に分けられ、家禄も国から支給されることになりました。

 一方、淡路(阿波)の稲田家の家臣については、10月11日、新政府は、知藩事の判断で稲田家の家臣の処遇を決めるよう指示、12月28日、稲田家に家臣の士族、卒族別の名簿の提出を命じました。蜂須賀藩主から見れば、稲田家の家臣は、蜂須賀の家臣(武士)である稲田家老の家来(足軽、武士と農民の中間)ということで、筆頭家老の稲田邦稙(淡路、猪尻含む旧禄14000石、1等士族として1000石支給)以外は全員、卒族(そつぞく、希望すれば郡付銃卒)というものでした。これが翌年の徳島藩騒擾(そうじょう)事件、稲田騒動の原因となりました。

 1870年(明治3年)1月15日、稲田家の家臣の嘆願運動の指導者、三田昂馬(みたこうま、旧禄100石)は、家臣の士族と卒族の分別はできないと回答、特別な稲田家の家柄と家臣の活躍(淡路の沿岸警備、倒幕運動など)を理由に、全員の士族編入の要望書を提出しました。そこで、知藩事は、問題の早期解決のため、全員の士族編入を認める旨を通達しました。 

 この通達に対し、稲田家の家臣は、さらに徳島藩から淡路を分離し、稲田邦稙を知藩事とする洲本藩の独立を政府の岩倉具視(いわくらともみ)に嘆願しました。しかし、中央集権をめざす政府は、これを容認できないので、3月21日、岩倉は使者を徳島に送り、稲田家の家臣全員の士族編入を認めるかわりに、北海道移住を命じました。しかし、4月、第10回の嘆願において、稲田家の家臣は北海道移住を拒否、特別賞典の下付を求め、さらに第11回の嘆願で淡路分藩を願い出ました。

 このような洲本(淡路、阿波)の稲田家の家臣の嘆願行動は、徳島(阿波)の蜂須賀家の家臣の反発を招き、知藩事に対する不忠、藩を分断する裏切りとし、4月5日、若い藩兵隊は知藩事に稲田討伐の決議書を提出しました。

 1870年(明治3年)5月14日、阿波にいた蜂須賀家の家臣は、知藩事の抑止を振り切って、藩兵隊有志が猪尻に進撃、猪尻村(のち脇町、阿波、徳島)の稲田家の家臣300人余人は、高松藩(讃岐、香川)に退避しました。藩兵隊は、途中、下浦(名西、のち石井)で藩吏(はんり)、下条勘兵衛(しもじょうかんべえ)、?~1870年(明治3年、切腹)の説得を受け、進撃を中止して解散、阿波では悲劇は寸前で回避されました。

 一方、淡路にいた蜂須賀家の家臣は、5月13日未明、藩兵有志と農兵隊800人を率いて洲本城下の稲田家の屋敷、家臣たちの長屋、別荘であった武山邸、学問所である益習館などを次々と急襲しました。稲田家の家臣は無抵抗で、死者15人、自殺者2人、負傷者20人、焼失家屋10数軒という惨事となりました。

 そして、8月、新政府の太政官から出された蜂須賀家の家臣に対する判決は、斬罪10人(首謀者、うち8人は切腹)、終身刑26人(八丈島、流罪)、禁固、謹慎処分は多数(約100人)という厳しいものでした。また、知藩事、惨事は謹慎処分でした。

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稲田家の北海道移住と開拓、静内(しずない)上陸地(静内、日高、google画像)

(解説)、稲田家の家臣は、全員士族籍を得ましたが、北海道移住(日高国、のち静内郡の静内町、しずないちょう、根室の色丹島)を命じられ、稲田邦稙も家臣と共に未開地の開拓に従事しました。移住は1871年(明治4年)4月から始まり、第1陣500余人は日高の静内町に入りました。ところが、8月の第2陣を乗せた薩州平運丸が和歌山沖の周参見浦(すさみうら)で岩に乗り上げ沈没、水死者83人を出す惨事が起こりました。

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江国寺(稲田家の菩提寺、臨済宗、洲本、淡路、google画像)

(解説) 舟山馨(ふなやまかおる)の小説「お登勢」は、この稲田騒動、庚午事変(こうごじへん)を生々しく描いています。洲本の栄町3丁目の江国寺(こうこくじ、臨済宗)の山門の横に稲田騒動の稲田家の家臣の霊を慰める招魂碑が、また本町8丁目の専称寺(せんしょうじ、浄土宗)には蜂須賀家の家臣の庚午志士碑が立っています。

 この稲田騒動は、1871年(明治4年)に断行される廃藩置県以降の徳島県の県名、県域の変動にも影響を与え、1880年(明治13年)3月2日、徳島県の再配置が確定、淡路は兵庫県に編入されました。 また、その後の自由民権運動(自助社、有信社など政治結社の形成、自由党、改進党など政党の形成)にも影響を与えることになりました。

(参考文献) 吉崎正松: 都道府県名と国名の起源、古今書院(1972); 三好昭一郎、松本博、佐藤正史: 徳島県の百年、山川出版社(1992); 湯浅良幸(徳島史学会)編: 徳島県の歴史散歩、山川出版社(1995); とくしま地域政策研究所編: 四国のいのち、吉野川事典、自然/歴史/文化、稲田騒動(三好昭一郎)、農文協(1999); 兵庫県高等学校教育研究会歴史部会(兵庫県歴史学会): 兵庫県の歴史散歩(上)、山川出版社(1998); 石躍胤央、北條芳隆、大石雅章、高橋啓、生駒佳也: 徳島県の歴史、山川出版社(2007). 

(参考資料) 洲本城(洲本、淡路島、兵庫、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%B4%B2%E6%9C%AC%E5%9F%8E&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi;  

稲田騒動(徳島新聞): http://www.topics.or.jp/nie/117307666665/122447122491.html

稲田騒動(快左右衛門):http://kaizaemon.com/inada/inada.html

稲田騒動(洲本、淡路、兵庫県洲本市及び北海道日高郡靜内町含む、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E7%A8%B2%E7%94%B0%E9%A8%92%E5%8B%95&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi; 

稲田騒動(歴史で巡る新ひだか町、静内、日高、北海道): http://shinhidaka.hokkai.jp/kankoukyoukai/rekiside/meguru.html;

(追加説明)

〇 弥生時代、淡路島は海上交易の拠点だったという。兵庫県あわじ市の「入田稲荷前遺跡」で、中国大陸から弥生時代後期(1~2世紀)に伝わったとみられる銅銭「貨泉」が3枚一緒に見つかった。複数の貨泉が一度に出土するのは珍しいという。(朝日新聞:中国の銅銭3枚まとめて出土、淡路島・入田稲荷遺跡、2017年(平成29年)5月19日(金)より)

 

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