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2010年3月10日 (水)

碁の名手(村瀬、のち本因坊秀甫)の郵便碁にまつわる歴史対局、方円社(のち日本棋院)、郵便碁(私の体験)、メール碁、郵政博物館、とは(2010.3.1)

 村瀬秀甫(のち18世本因坊)は、方円社の活動の一環として、郵便による対局(ハガキ、手紙に一手ずつ書き、交互に送って対戦)を考案、1883年(明治16年)6月より18ヵ月間、村瀬秀甫(2級、8段、準名人)と三戸与彰(さんのへともあき、9級、初段)との四子局(117手まで)を打っていますが、この対局が郵便碁の始まりだと言われています。

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本因坊秀甫(2007年 第4回囲碁殿堂入り、日本棋院、市ヶ谷、千代田、東京): https://ssl.nihonkiin.or.jp/07_10dainews/07_10dainews_igodendo_shuho.html

 

 本因坊秀甫(ほんいんぼうしゅうほ、本名、村瀬弥吉)、1838年(天保9年)~1886年(明治19年)は、車坂下(上野、江戸、東京)の木匠(大工)の子として生まれました。幼少より本因坊丈策、秀和に師事し、1848年(嘉永元年)11才で早くも初段となり、同4年本因坊家の内弟子となりました。

 

 後年、本因坊家を出て、1879年(明治12年)4月、中川亀三郎(12世本因坊丈和名人の3男)、1837年(天保8年)~1903年(明治36年)、小林鉄次郎、1848年(嘉永元年)~1893年(明治26年)らと共に、東都の棋士を糾合して方円社を発会、初代社長となりました。その後、1924年(大正13年)5月20日、日本棋院創立により、5月21日、方円社発展解散しますが、明治と大正の棋界に大きな役割を果たしました。

 

 1886年(明治19年)7月、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)、1838年(天保9年)~1897年(明治30年)らの骨折りで本因坊秀栄(17、19世本因坊)、1852年(嘉永5年)~1907年(明治40年)と和解することになり、8段を免許され、次いで18世本因坊となりましたが、3ヵ月ほど後、10月14日、49才で急逝しました。一説には、発狂したと言われています。現在の専門棋士の間でもその芸が最も高く評価されている一人です。 11月には、中川亀三郎が方円社長に就任しています。

 

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日本初の郵便碁 四子 三戸与彰―村瀬秀甫、 18世本因坊秀甫肖像)

 

(解説) 方円社の機関誌、囲棋新報、1884年(明治17年)11月号によれば、三戸与彰は岩手県南岩手郡新荘村居住、旧南部藩士族なり。同氏は甚だ(はなはだ)この道をたしなむ。しかれども居住を離れて東京に来るを得ず。常にこの新報をを見て、すこぶる会得する所あり。しかれども方円社員と対局するを得ず。故に郵便にて手合をなさんと約し、去る明治16年6月より、この局を打始め、すでに18月の往復を費し、117手を着せり。

 

 黒16のオサエは力強い。正確に読み黒26まで不満なし。白27以下にも正確に対応している。しかし、白49とトンで中央が白っぽく、黒はいつのまにか打ち回されている。黒54は少しつらい。白115、117とツケ切り、微妙なところで打ち掛けとなっている。

 

 未だ収局に至らざるも、まず録して同好に示す。その評は収局の後に於いてすべし。遠地に隔離しても、対局してこの道を研究するを得る。開花の功力もまた大なりというべし、と結んであります。この郵便碁がどう決着したかは不明だそうです。

 

 郵便碁は、郵便をもって打着点を知らせながら繋続する碁をいう。明治初年、熊谷厳励が方円社に申し込んだのが有名である。厳励は僧侶であったが、還俗して自覚坊天才と号し、中川亀三郎に先、小林鉄次郎にに互先の手合を申し込んだ。疑問のうちにも方円社は応諾し、局を進めたが侮り難き手並みであったという。この局は、中途、郵便料の事から中止された。(囲碁百科事典、金圓社より)

 

 中田敬三氏(囲碁史研究家、長野市中御所)によれば、1896年(明治29年)の囲碁教科書、碁学活法、3巻の中に、碁学活法を出版した島根県のアマチュア棋士、熊谷巌励(くまがいげんれい)が、3人の相手と郵便碁で打った4局の棋譜が収められている。

 

 また、明治期に長野県内に滞在して囲碁を指導した鈴木善之助(すすきぜんのすけ)、1825(文政8年)?~1899年(明治32年)との棋譜も収められています。郵便代は全部で8円くらいかかり、高段者への謝礼は10円、一局に数年かかる上、費用もかさむため、それほど流行しなかったそうです。

 

 日本郵便碁愛好会は、1966年(昭和41年)、大和百貨店(金沢)社長、のち会長、同社出版部門、勁草(けいそう)書房(東京)社長、井村寿二(いむらじゅじ)、1923(大正12年)~1988年(昭和63年)が、1966年(昭和41年)に発足させました。最盛期の会員は約800人で、今でも約500人ほど会員がいるそうです。

 

 私は、1969年(昭和44年)4月より金沢大学(理学部)に勤務し、郷里(徳島)の父親(初段)とハガキで近況を知らせると共に、2局同時対局で、郵便碁を打ったことがあります。1969年(昭和44年)7月~1973年(昭和48年)2月まで5局対局、私の2勝3打ち掛け、となっています。親父も息子とは、先、二子、三子の手合いで、打ちづらかったと思います。よく、「碁は幾何を応用して代数で割り出す」、とか言っていました。これは、碁の黒石と白石の配置の形には図形的な要素(幾何)が見られるが、最終的な勝敗は、黒石と白石双方で囲まれた地の数の多さで決まりますので、黒石と白石の打つ手には計算的な要素(代数)がある、ということだと思います。

 

 また、1969年(昭和44年)5月頃、金沢大学(理学部)阪上正信教授から、日本郵便碁愛好会の入会を誘われ、1975年(昭和50年)1月からアリゾナ大学(ツーソン、U.S.A)化学科博士研究員として、H.Freiser教授のもとへ留学するまで、5年間ほど、私(3段格、のち3段、4段、5段)は、対局の申し込みがあった会員(初段から4段、奈良、大阪、茨城、栃木、北海道)の方々と2局ずつ郵便碁を楽しみました。その時の対局(14局)結果は、10勝1敗、3打ち掛け、となっています。手許の棋譜を見ると、その頃が懐かしく思い出されます。 

 

アリゾナ大学(ツーソン、アリゾナ、米国): http://www.arizona.edu/

 

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H.Freiser(1920~2013)

 

T. Honjo and H. Freiser; Extraction of Nickel(II), Copper(II), and Zinc(II) in Carbon Tetrachloride with Monothiodibennzoilmethan and Derivatives,  Anal. Chem.,53, 1258-1265(1981).

 

Henry Freiser先生を悼む-(PDF、日本分析化学会):http://www.jsac.or.jp/bunseki/pdf/bunseki2015/201509fuhou.pdf

 

  私の碁の免状は、初段から3段までは、小山久良師範(日本棋院愛媛県支部)のご推薦(試験碁含む)、また、4段から5段は月刊雑誌、棋道(日本棋院)の段級位認定試験によるものです。特に、3段の免状は、1972年(昭和47年)6月11日付で、私の結婚のお祝いの贈りものとなっています。また、4段の免状(5万円)は、1986年(昭和61年)9月1日付、5段の免状(10万円)は、1991年(平成3年)12月18日付となっています。その後、6段の免状は、段級位認定試験に合格したものの、高額(20万円)なので、申請をあきらめました。。囲碁免状(日本棋院): https://www.nihonkiin.or.jp/teach/menjo.html

 

 日本郵便碁愛好会、郵便ニュース、北信越支部版、1970年(昭和45年)1月号、支部版No.3に掲載されました、1969年(昭和44年)10月25日(土)、阪上教授部屋(城内キャンパス)で開かれた金沢地区座談会(3名参加、1名誌上参加)の席上、私は次のように発言しています。

 

 郵便碁は、序盤でも、打ち方で相手が力碁かどうかわかる感じです。〒碁では、自分の納得のゆくまでじっくり考え、応揚にに打てますね。〒碁ではプロの方ともお相手できるなど貴重な機会もあり、そのほか外に出かけなくとも色々な方々とつながりができるのもよいと思います。一方、筆不精が筆達者にならざるをえないのもその余得と思いますね。

 

 ただ先日連絡のあった懇親碁会全国大会など大層結構で参加したいのですが、ちょっと会費が高いのが気にかかります。実戦対局は、〒碁では味わえない実戦心理のなかで碁を打つというまた別の意義があると思われます。

 

 また、郵便連碁が提案され、1971年(昭和46年)から打ち始められた金沢チーム(大村、久村、下浜、本浄、西念)と昭九会チーム(高橋、大塚、川原、長尾、佐々木、村山)の2局同時対局(互先)は、47手まで、何かの事情で打ち掛けとなっています。

 

 1972年(昭和47年)2月から1973年(昭和48年)9月まで、金沢Aチーム(大村、下浜、西念)と金沢Bチーム(阪上、本浄、中)の2局同時対局(互先)は、打ち分け(黒番勝利)となっています。

 

 その頃に、日本郵便碁愛好会、会長、井村寿二氏から、ご恵送いただいた、榊山潤著、日中囲碁盛衰史、勁草書房(1967)が手許にあり、思い出の記念となりました。

 

 私は、アメリカ留学で中断し、残念ながら都合で退会したのですが、最近、インターネット、google検索より、本多操氏のブログに出会い、日本郵便碁愛好会(事務局、川崎市)は、2006年(平成18年)に35周年を迎え、める碁(電子メールで対局)が、2001年(平成13年)から始められていることを知りました。

 

 また、癌で闘病中の本多操氏のブログ(雑草の見る世界、郵便碁、メール碁の思い出含む): http://blog.livedoor.jp/nanrindo3181/archives/50767446.html#comments)、思い出に残る方々、1.の中で、1970年(昭和45年)5月から1974年(昭和49年)12月まで、2年間対局した、1994年(平成6年)6月、事故死の水谷義昭氏(宗谷支庁、北海道)のこと、また、思い出に残る方々、4.で、1998年(昭和63年)、突然訃報の井村寿二会長のことを知りました。ご冥福をお祈りする次第です。 

 

 近年は、世界中の人々と、インターネットと電子メールを使って囲碁を楽しむことができます。電子のメール碁は、インターネト囲碁(日本棋院): http://u-gen.nihonkiin.or.jp/; 日本メール碁会(JMGS): http://e-mail-go.sunnyday.jp/など、時代の流れを感じます。

 

 2008年(平成20年)5月11日には、古本書店(松山、京都、金沢)で買い集めた昔の囲碁書籍、江戸時代の新撰碁經大全、全2巻、1720年(京保5年)、碁立、全8巻、1787年(天明7年)等56冊を、私の手許より図書館へと、石川県立図書館に寄贈しました。

 

 最近は、新聞碁(名人戦、天元戦など)、インターネット碁(各種棋戦)の観戦、また、NHK杯囲碁トーナメント(日曜日)の対局は、碁盤に一手ずつ石を置きながら観戦しています。

 

(参考文献) 安藤如意(改補社者渡辺英夫): 坐隠談叢(新編増補、囲碁全史、新樹社(1955); 林裕編: 総合囲碁講座、別巻、囲碁百科事典、金圓社(1965); 福井正明: 囲碁史探偵が行くー昔と今 碁打ちの物語ー、p.6~9、明治十六年、初めての郵便碁、方円社百二十五年、日本棋院(2008).

 

(参考資料) 囲碁史年表(郵便碁含む、1800年代): http://umai.dip.jp/assembly/mignon/go_history/go_history1800.html

 

中田敬三(岡目八目、郵便碁の先覚者「秀甫」波乱生涯): http://kisei.yomiuri.co.jp/column/okame_nakata/04.htm

 

(追加説明) ○ 日本の郵便事業(官営)は、前島密(まえじまひそか、36才)、1835年(天保6年)~1919年(大正8年)の発議により、1871年(明治4年)3月1日(新暦4月20日)、東京と大阪間で開始されました。1870年(明治3年)から11年間、郵政の長として基礎を築き、また、郵便、郵便切手などの用語は、前島密が使い始めたものです。

 1902年(明治35年)には郵便博物館(前身は逓信総合博物館)、その流れをくむ郵政博物館(東京都墨田区)が2014年(平成26年)3月1日、公益財団法人通信文化協会が運営する博物館として開館した。郵政博物館(ホームページ):https://www.postalmuseum.jp/

 2019年(平成31年)4月19日から、日本近代郵便の父・前島密の没後百年を記念して、「鴻爪痕(こうそうこん)-HISOKA MAEJIMA-展」(鴻爪は前島の号)を開催する(~6月16日)。「前島は情報の重要性をいち早く認め、通信・交通インフラを構築した」と指摘する。「西洋の通信ネットワークに接続できるスタンダードを築き、日本の近代化に寄与した」とも。(北陸中日新聞、2019.4.12)

○ 江戸時代における碁の家元は、本因坊(21世まで)、井上(16世まで)、安井(10世まで)、(13世まで)の四家でした。1612年(慶長17年)、徳川家康は、碁打衆将棋衆に扶持を給し、これが家元の起源となりました。徳川幕府から家元家禄が支給され、毎年年一回江戸城において御前対局を行うことが定められていました。その御城碁を勤める棋士(7段上手以上、8段準名人、9段名人)の中でも、碁所(ごどころ)制度において、本因坊家多くの名人を輩出する名門でした。

 

 歴代名人碁所)は、本因坊家は、算砂(1世)、道策(4世)、道知(5世)、察元(9世)、丈和(12世)、井上家は道碩(1世)、因碩(道節)(2世)、安井家は、算知(2世)でした。名人碁所別個の基準(官命、推薦、争碁、道策の頃からは9段)で定められていて、江戸以降、明治、大正までに、本因坊秀栄(17世)、本因坊秀哉(21世)が歴代名人に名を列ねています。

 

 碁所は、囲碁界最高の名誉と権威を有し、将軍の指南、四家元の総括、全ての棋士の昇入段を定め、免状の発行権を独占し、御城碁の対局組み合わせ、天覧碁や海外棋士との対局など、種々の行事を取り仕切りました。

 

 歴代本因坊は、本因坊算砂(1世)、本因坊算悦(2世)、本因坊道悦(3世)、本因坊道策(4世)、本因坊道的(4世跡目)、本因坊策元(4世跡目)、本因坊道知(5世)、本因坊知伯(6世)、本因坊秀伯(7世)、本因坊伯元(8世)、本因坊察元(9世)、本因坊烈元(10世)、本因坊元丈(11世)、本因坊丈和(12世)、本因坊丈策(13世)、本因坊秀和(14世)、本因坊秀策(14世跡目)、

 

 江戸幕府滅亡により、秀悦(15世)の時から家元家禄が打ち切りとなっています。

 

本因坊秀悦(15世)、本因坊秀元(16世)、本因坊秀栄(17世)、本因坊秀甫(18世)、本因坊秀栄(19世)、本因坊秀元(20世)、本因坊秀哉(21世)

 

○ 日本棋院の囲碁免状(和紙、毛筆、直筆)の文言は、初段については、貴殿棋道執心修行無懈怠 手段漸進 依之初段令免許畢 猶以勉勵上達之心掛可為 肝要者也 仍而免状如件(きでんきどうしゅうしんしゅぎょうけたいなく しゅだんようやくすすむ よってこれに しょだんのめんきょをゆるしめおわんぬ なおもってべんれいじょうたつのこころがけなすべきは かんようのものなり よってめんじょうくだんのごとし)、

 

 また、各段の主な相違点は、初段は漸進(ようやくすすむ)、2段は愈進(いよいよすすむ)、3段は漸熟(ようやくじゅくす)、4段は愈熟(いよいよじゅくす)で、2文字以外の文言は全て同じです。

 

 5段からは、全体の文言が変化し、貴殿棋道執心 所作宜敷 手段益巧 依之五段令免許畢 仍而免状如件、(きできどうしゅうしん しょさよろしく しゅだんますますこう よってこれに ごだんのめんきょをゆるしめおわんぬ よってめんじょうくだんのごとし)となります。6段は、5段の免状の益巧(ますますこう)が、益精(ますますせい)、7段は益妙(ますますみょう)となります。

 

 

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