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2010年3月の6件の記事

2010年3月24日 (水)

金沢城の大火事にまつわる歴史実話、火元(落雷、フェーン現象、火の不始末)、火消し(加賀鳶、破壊消防法)、とは(2010.3.24)

  江戸時代、藩政時代の金沢は火災が多く、金沢城も数多くの火事に見舞われ、1602年(慶長7年)から1859年(安政6年)まで約255年間に、1602年(慶長7年)、1631年(寛永8年)、1759年(宝暦8年)、1808年(文化5年)の四大火事を含む56件の火災が記録されています。これらは、冬における落雷、春先から初夏にかけてのフェーン現象、火の不始末などに起因しています。

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前田利長(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E9%95%B7

 1602年(慶長7年)10月、加賀藩主(2代)前田利長(まえだとしなが)、1562年(永禄5年)~1614年(慶長19年)の時、金沢城の天守閣に落雷があり炎上、本丸御殿も焼失し、以降は三階の櫓だけ建てられました。これは、一発雷(雪おこし、ブリ起こし)と呼ばれる冬の北陸の雷の仕業でした。その後の歴代藩主は平屋の二の丸御殿で過ごしています。

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金沢城天守の落雷焼失(徳川2代将軍、徳川秀忠の書状、徳川美術館蔵、2009年(平成21年)7月15日(水)、朝日新聞、朝刊)

(解説) 金沢城の落雷焼失は、100年以上後の伝承資料などで知られていましたが、最近、天守閣焼失の直後に記述された書状が発見され、確認されました。それは、1602年(慶長7年)11月15日、越前国北之庄(福井藩、67万石)初代藩主、結城秀康(ゆうきひでやす、家康の次男)、1574年(天正2年)~1607年(慶長12年)に宛てた、徳川2代将軍、徳川秀忠(家康の3男)、1579年(天正4年)~1632年(寛永9年)の書状です。越前の結城秀康が、加賀の前田藩の災難を、江戸の徳川秀忠にいち早く知らせ、安心させたことに対する礼状のようです。

 金沢に雷火があったことについて、早々にご報告いただき、かつ飛脚でもって(書状を)届けていただき、念のいったことで、大変うれしく思います。なお、(詳細については)大久保相模を通じて(ご報告して)下さい。11月15日 秀忠(花押) 結城秀康殿(徳川美術館による意訳より)

 1610年(慶長15年)、加賀藩主(3代)前田年常(まえだとしつね)、1594年(文禄2年)~1658年(万治元年)が名古屋城の普請(ふしん)手伝いを命ぜられた時、留守を任せた篠原一孝(しのはらかつたか)、1561年(永禄4年)~1616年(元和2年)は外堀を掘り、外総構(そうがまえ)を築造しました。

 1631年(寛永8年)4月14日、加賀藩主(3代)前田年常(まえだとしつね)の時、金沢城下の法船寺(ほうせんじ)から出火した火事は、またたく間に本丸辰巳櫓に飛び火(フェーン現象)、本丸はじめ城の中心部の大半が類焼しました。加賀藩は幕府の許可を得て、二の丸を拡充し、御殿など造営しましたが、本丸御殿は再建しませんでした。

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フェーン現象の模式図(3月~4月頃、北陸地域、google画像)

(解説) 北陸地域のフェーン現象は、3月から4月の頃、太平洋側の湿った空気が山岳(白山、立山など)にぶち当たり、雨を降らした後、山越えして下降し、日本海側に乾燥した熱風をもたらし、火災が起こりやすい状態になっています。

 寛永の大火で、防火の必要が高まり、加賀藩では、1632年(寛永9年)、板屋兵四郎(いたやへいしろう)、? ~1653年(承応2年)に犀川(さいがわ)から水を引く辰巳用水(たつみようすい)を造らせ、城内の掘も水堀となり、防火機能が高まり、その余水は城下町の用水として利用され、城下町の防火にも役立ちました。

 1759年(宝暦8年)4月10日、午後4時頃、加賀藩主(10代)前田重教(まえだしげみち)、1741年(寛保元年)~1786年(天明6年)の時、金沢泉寺町(のち寺町)からの火災は、折からの強い南風に煽(あお)られ(フェーン現象)、犀川を越えて金沢城の大半を焼き尽くす大火となりました。被災は1万戸を越え、米38万7千石を失いました。この火災は、城下からの出火により城内が焼失したので、御類焼と呼ばれました。

 加賀藩は、徳川幕府、9代将軍、徳川家重(とくがわいえしげ)、1711年(正徳元年)~1761年(宝暦11年)より金5万両を借り入れて一時の急をしのぎましたが、その復興は困難を極め、財政責任者の前田直躬(まえだなおみ)、1714年(正徳4年)~1774年(安永3年)も収集の見込みはないと辞職、年寄3人がその後を受け、家臣には借知の継続、領民には冥加金(みょうがきん、商工業者対象の税)を賦課しました。

 この劫火(ごうか)と呼ばれた大火は、さきに加賀騒動で処刑された大槻伝蔵(おおつきでんぞう)、1703年(元禄16年)~1748年(寛延元年)一味と見なされた、加賀藩主(6代)前田吉徳(まえだよしのり)、1690年(元禄3年)~1745年(延享2年)の3男、母は吉徳の側室真如院(しんよいん)、前田利和(まえだ としかず)、通称勢之佐(せいのすけ)、1734年(享保19年)~1759年(宝暦9年)の幽霊の仕業であるというデマまで飛び出しました。

 1808年(文化5年)1月15日、夕暮れ、加賀藩主(12代)前田斉広(まえだなりひろ)の時、金沢城は、二の丸御殿内で出火(火の不始末)、またたく間に御殿を焼失しましたが、翌年再建されています。加賀藩の財政困難な時期であったが、藩主は一切を領内の町在からの拠金に求め、冥加金という名目で、5000貫目を集めさせました。この再建では、宝暦以来欠けていた諸建物はほとんど復旧されました。

 このように、藩政時代の金沢は数多くの火災に見舞われ、1631年(寛永8年)の金沢城下、法船寺焼け以降、1635年(寛永12年)から1859年(安政6年)まで242年の間に、52回の大火の記録があります。平均43年毎に100軒以上の火事に見舞われており、1690年(元禄3年)には、3月16日、17日、24日と連続3日、各々900軒、6639軒、311軒と大量に焼けています。特に、3~4月に大火が多かったのは、北陸地方特有のフェーン現象に起因するものでした。

 さらに、コバ屋根の小さな家屋が、城下町特有の歪曲した小路や袋小路にぎっしり建て詰まっていたので、ちょっとしたボヤでも大事に至りました。

 というわけで、加賀藩主(3代)前田年常(まえだとしつね)が設けた辰巳用水も、加賀藩主(5代)前田綱紀(まえだつなのり)が整備した加賀鳶(かがとび)も、充分な効力は発揮できませんでした。(石川県史、石川県立図書館より) 

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加賀鳶(かがとび、 加賀鳶繰出之図(消防防災博物館、仮想)、  加賀鳶梯子登り(金沢市ホームページ、いいねっと金沢、金沢)、加賀、金沢、石川、google画像)

 江戸時代の消防法の基本は、破壊消防法であり、加賀鳶(かがとび)においても、鳶口(とびぐち)は火を消す道具ではなく、家を壊す道具でした。カケヤという大型の鎚(つち)も同じものでした。燃えだしたら仕方がないから、周りの家を壊して防火帯をつくるための道具でした。加賀鳶は、江戸時代、加賀藩が本郷(江戸)の藩邸に抱えていた火消し人夫でしたが、特権意識が強く、一般町の火消しとの対立が絶えなかったと言う。火事と喧嘩(けんか)は江戸の華(はな)と言われるほど、江戸では火災が頻繁に起こっていました。

 相撲取りが、やはり昔の火消しでした。力が強いから、柱に縄をかけて一気に引っ張って家をつぶす役割を果たしました。講談で有名な、め組の喧嘩(けんか)などのように、昔の物語に相撲取りと火消しの喧嘩がよく描かれているが、それは両者の間に縄張り争いのような利害の対立があったことを示唆しています。(樋口清之、梅干しと日本刀、祥伝社黄金文庫より)

 明治時代、1872年(明治5年)、金沢城に陸軍兵舎が設置されましたが、1881年(明治14年)1月、金沢城内に駐屯していた陸軍歩兵第七連隊(のち第六旅団司令部、第九師団司令部)の失火で(火の不始末)、石川門と三十間長屋を残して城内の建物全てが焼失しました。その時、屋根の鉛瓦が溶けて屋根から滝のように流れ落ち、建物内の品物は取り出すことが出来なかったと言われています。

 昭和時代、1945年(昭和20年)8月、第二次世界大戦の敗戦後、旧陸軍が解体され、金沢城内の師団、旅団、連隊の軍用施設と城地は進駐軍(石川軍政体)の管轄を経て、1949年(昭和24年)以来、新制金沢大学(法文、教育、理学、教養)のキャンパスとして利用されました。その後、金沢大学の城内キャンパスは、学部の改組(法文は法学、文学、経済へ)、大学院(修士、博士)の整備により手狭となり、1996年(平成8年)、金沢市郊外、約4kmほど山手の角間の里山キャンパスに移転しました。

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金沢城公園の全体図(石川県ホームページ、いしかわ、石川、google画像)

 その跡地は県有地となり、1999年(平成11年)、金沢城の二の丸菱櫓、五十間長屋、橋爪門、橋爪門続櫓などが江戸後期の姿での復元事業が始められ、2001年(平成13年)に完成して金沢城公園となり、さらに整備が進み、一般県民に開放され現在に至っています。

(参考文献) 金沢大学金沢城学術調査委員会内「金沢城」編集委員編: 金沢城ーその自然と歴史ー、山越(1967); 森栄松: 金沢城、北国新聞社(1970); 若林喜三郎監修: 石川県の歴史、北国出版社(1970); 若林喜三郎編: 加賀能登の歴史、講談社(1978); 石川県の歴史研究会編(編集代表、奥村哲): 石川県の歴史散歩、山川出版社(1993); .樋口清之: 完本、梅干しと日本刀、日本人の知恵と独創の歴史、祥伝社黄金文庫(2005); 金沢城研究調査室編: よみがえる金沢城、北興新聞社(2006).

(参考資料) 金沢城の変貌(金沢城再現、金沢城四大火災含む、石川新情報書府): http://shofu.pref.ishikawa.jp/inpaku/castle/history/henbou_07.htm

金沢城(日本の城、金沢、石川): http://www.uraken.net/museum/castle/shiro21.html

フェーン現象(google画像):http://images.google.co.jp/images?hl=ja&q=%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%B3%E7%8F%BE%E8%B1%A1&lr=&aql=&oq=&gs_rfai=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi;;

加賀鳶(かがとび、google画像、金沢、石川): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%8A%A0%E8%B3%80%E9%B3%B6&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

消防防災博物館(加賀鳶含む、消防の歴史、仮想、google画像):http://www.bousaihaku.com/cgi-bin/hp/index.cgi?ac1=R101&ac2=R10104&ac3=1979&Page=hpd_view

金沢城公園(金沢城址、google画像、金沢、石川): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E9%87%91%E6%B2%A2%E5%9F%8E%E5%85%AC%E5%9C%92&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi;

(追加説明) ○ フェーン現象は、フェーン(ドイツ、:Föhn)というアルプス山中で吹く局地風から名付けられた現象です。岡田武松(おかだたてまつ)、1874年(明治7年)~1956年(昭和31年)は、これを風炎と表しました。

○ 劫火(ごうか)は、仏教用語で、こうかとも読み、人の住む世界を焼き尽くして灰燼(かいじん)とする大火で、壊劫(えこう、四劫の第三)の時に起きると言う。四劫とは、世界の成立から破滅に至る四大期です。世界が成立する期間を成劫(じょうこう)、成立した世界が持続する期間を住劫(じゅうこう)、世界の壊滅するに至る期間を壊劫(えこう)、次の世界が成立するまでの何もない期間を空劫(くうこう)と言う。(新村出編、広辞苑、岩波書店より)

2010年3月18日 (木)

北陸の地震(活断層)にまつわる歴史災害、加賀と能登(石川)、福井、富山、岐阜の歴史的な地震、とは(2010.3.18)

  石川県で発生している歴史的な地震では、森本(金沢市)から大聖寺(加賀市)の周辺に、また、能登半島の地域に、大きな被害が出ています。能登半島で発生する地震には、周期性(約70年?)が感じられます。 富山県、石川県、福井県の3県は、岐阜県の大地震の時、濃尾断層帯活動の震源が近く、直下型の震動も連動し、大きな被害を受けています。

 加賀(金沢、石川)の地震として、江戸時代には、1799年(寛政11年)6月29日(旧暦5月26日)、午後4時過ぎ、金沢地震、金沢城下が地震に直撃されました。M6クラスの地震で、金沢市街地から北東方向に活断層(森本断層)が延びており、この断層から生じた地震と考えられています。加賀では上下動が激しく、屋根石が1尺(30.3cm)が飛び上がったという。金沢城で石垣破損、城下で潰家4169戸、能美、石川、河北郡で損家1003戸、潰家964戸、全体で死者15人など、大きな被害を受けています。

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森本、富樫断層(左 点線は断層位置(推定)、右 森本断層、梅田町、金沢、google画像)

(解説) 森本断層が、弥生時代後期(約2000年前)頃に活動を行ない、M7クラスの大地震を発生させていたことが確認されています。(石川県森本断層調査グループ、石川県環境安全部、金沢市の森本活断層の発掘調査(1997) より)。 森本、富樫断層(調査、石川県): http://www.pref.ishikawa.lg.jp/bousai/bousai_g/morimoto_togashi/

 加賀(大聖寺、石川)の地震として、江戸時代には、1640年(寛永17年)11月23日の地震(M6.25~6.75)、加賀大聖寺地震、石川県の加賀大聖寺では家屋の損潰多く、人畜の死傷が多く、また、福井県では死傷者多数、昭和時代には、1952年(昭和27年)3月7日の地震(M6.5)、大聖寺沖地震、石川県では死者7人、福井県では北海で被害が大きく、壁の剥落、山崩れ、道路の亀裂など、大きな被害を受けました。 

 能登半島(石川)が震源であった地震は、江戸時代には、1729年(京保14年)8月1日の地震(M6.6~7.0)、能登、佐渡、死者5人など、1833年(天保4年)12月7日の地震(M7.5)、羽前、羽後、越後、佐渡、能登で死者約100人など、明治時代には、1892年(明治25年)12月5日の地震(M6.4)、死者1人など、昭和時代には、1933年(昭和8年)9月21日の地震(M6.0)、死者3人など、大きな被害を受けています。

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能登地震(上 災害状況図、2007年(平成19年)3月25日、下 震央(本震、余震)分布図、2007年(平成19年)3月25日~6月11日、能登、石川、google画像)

(解説) 平成時代には、2007年(平成19年)の地震(M6.9)、震源は輪島市西南西沖40kmの日本海、震源の深さ約11km、海底から陸地の一部を含む14km程の活断層による直下型の地震で、家屋全壊684戸、死者1人、負傷者358人など、大きな被害が出ました。能登半島で起こる地震には、周期性(約70年ごとに1回は起こる?)が感じられます。

 福井県で発生した大地震には、1948年(昭和23年)6月28日、午後4時13分、M7.1の福井地震があります。その引き金は、丸岡城の2km西を北北西から南南東に延びる沖積層に厚く覆われていた活断層が、断層の東側が70cm上昇して左横ずれ方向に最大2mずれ動いたことによることが、確認されています。福井県では、死者3728人、負傷者2万1750人、家屋全壊3万5382戸、市内の建物の8割が全壊、2000棟近くが焼失しました。石川県では死者41人、負傷者453人など、大きな被害を受けました。

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福井地震(大和百貨店、7階建の1階が潰れ、各階の梁が著しく破壊され、火災による被害も受け損壊、小林啓美氏撮影、1948年(昭和23年)6月28日、福井市、google画像) 福井地震(日本地震学会): http://www.zisin.jp/modules/pico/index.php?content_id=1373

 岐阜県で発生した大地震の北陸3県への影響として、安土桃山時代には、1586年(天正14年)1月18日、天正地震(岐阜県)、M7.8の時、岐阜県では、白川谷で山崩れが起き圧死者多数、帰雲城が埋没、富山県では、西部(震度6?)、城の崩壊で圧死者多数、江戸時代には、1858年(安政5年)4月9日、飛騨地震(岐阜県)、M7.0~7.1の時、岐阜県では飛騨で死者209人など、富山県では、岐阜県境に位置する跡津川断層沿いや富山平野東部の地域で大きな被害を受け、県内の死者は百数十以上、石川県でも、加賀藩で死者147人など、大きな被害を受けました。

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濃尾大震災(上 濃尾断層帯位置図、 下 長良川鉄橋の被害、1891年(明治24年)10月28日、濃尾地震、長良川、岐阜、岐阜県歴史資料館蔵、google画像)

 明治時代には、1891年(明治24年)10月28日、濃尾地震(岐阜県)、M8.0(日本国内で発生した、世界でも最大級の内陸直下型地震)の時、岐阜県では、死者4990人(愛知県を含めると、死者7273人、家屋全壊14万戸)など、福井県では越前で死者12人、負傷者105人、富山県では越中で家屋全壊2戸など、昭和時代には、1961年(昭和36年)8月19日、北美濃地震、M7.0の時、岐阜県では死者3人など、石川県では白山周辺、山沿い地方で崩落、亀裂、落石が発生、死者4人、負傷者7人、. 家屋半壊1戸など、福井県では死者1人、負傷者15人など、大きな被害を受けました。

 岐阜県を震源とする大地震の時には、震源が濃尾断層帯の活動による直下型であり、富山県、石川県、福井県の3県、愛知県とも近く、大きな被害が出たものと思います。

(参考文献) 寒川旭: 地震の日本史、大地は何を語るのか、中公新書(2007); 水谷仁編: ”そのとき”は確実にやってくる、連動して発生する巨大地震、Newton(ニュートン)別冊、ニュートンプレス(2008).

(参考資料)  2007年(平成19年)能登半島地震関連(国土地理院): http://www.gsi.go.jp/BOUSAI/isikawa-index.html;

2007年度(平成19年)のと半島地震特集(気象庁); http://www.seisvol.kishou.go.jp/eq/2007_03_25_noto/index.html

濃尾大震災(岐阜県総合防災ポータル): http://www.pref.gifu.lg.jp/bosai-bohan/bosai/bosai-oyakudachi-joho/saigai-siryo/noubi.html

(追加説明) ○ M(マグニチュード)とは、地震の際に放出されるエネルギーの大きさを表す指標です。Mは地震計で記録されたゆれの大きさ(振幅)などを基に計算され、地震エネルギーの対数値(たいすうち)として表され、1増えるとエネルギーは約32倍、2増えるとエネルギーは約1000倍(32×32)など、巨大になります。一般に、M7以上を大地震、8以上を巨大地震、9以上を超巨大地震と呼んでいます。

 地震の際に放出されるエネルギーの大きさをE(単位はJ、ジュール)、マグニチュードをMとするとlog10E = 4.8 + 1.5M という関係があります。1935年(昭和10年)、アメリカの地震学者チャールズ、リヒターによって初めて定義されました。

○ 震度とは、各観測地点ごとに記録されたゆれの激しさのことです。地震波は遠くに伝わるにつれて弱まるので、地震が観測地点の直下で発生した場合、M(地震の規模)は小さいにもかかわらず、最高ランクの震度7のゆれを示し、その近くでは大きな被害を受けることになります。

○ 加賀(石川県)という地名は、災害に関係があり、自然の力で欠(か)けた土地、波により多くの崖(がけ)ができたことを意味するという。(楠原祐介:この地名があぶない、幻冬舎新書(2011)より)

2010年3月12日 (金)

南海地震(四国沖、紀伊半島沖)にまつわる歴史災害、南海地震の周期性、中央構造線、日本沈没(映画)、とは(2010.3.12)

  古来、地震、雷、火事、親父は、日常、人々の恐れるものを、その順に並べた言葉です。古語では、地震は、なゐ(ない)と言い、江戸時代、大名公家方では、地震や落雷を避けるため、赤銅瓦の三階作り一重一重に天井幕を張るなど、地震雷の間(じしんかみなりのま)を、番匠(ばんじょう、大工)に作らせました。(井原西鶴、1642年(寛永19年)~1693年(元禄6年)、遺稿集、西鶴織留より)。

 南海道地震(なんかいどうじしん、南海地震とも)は、四国沖から紀伊半島沖にかけて起る巨大地震のことですが、プレート(岩盤)の境界で起こり、昔から何度も繰り返されています。

 最古の記録によれば、白鳳時代には、684年(朱鳥元年)11月29日(旧暦10月14日)、M8.25 白鳳地震(東海、南海、西海諸道)が発生しています。その時、諸国地大ニ震フ、就中、土佐国最モ激烈ヲ極メ、田苑五十余万頃没シテ海ト為リ、伊予国ノ温泉亦屛止セリ、コノタ京都ヨリ東方ニ鼓ノ如キ鳴響アリ、であったと言う 。(田山實編、震災予防調査会報告、第46号、大日本地震資料、1903年(明治36年)より)。

 白鳳地震が起こった時、伊予国(愛媛)の温泉の湧出が止まったと言う。これは、道後温泉が、中央構造線の断層の割れ目に雨水がしみ込み、地下のマグマに温められ湧き出していることから、地震が断層に何らかの影響を与えたものと考えられます。

 平安時代には、1099年(康和元年)2月22日、M8~8.3、康和南海地震(南海道、畿内)、室町時代には、1498年(明応7年)9月20日、M8.2~8.4、明応地震(東海道全般、南海道)が起こっています。

 江戸時代には、1605年(慶長10年)2月3日、M7.9、慶長地震(東海、南海、西海諸道)、1707年(宝永4年)10月28日、M8.4 宝永地震(五幾、七道)、東海地震と南海地震が同時に発生し、南海トラフ(海のプレートが陸のプレートの下に沈み込むところ、海溝)のほぼ全域で、プレートが一気に破壊されました。

 1854年(安政元年)12月23日(旧暦11月4日)、M8.4 安政東海地震(東南海道沖)では、津波が房総半島から土佐湾にかけて発生し、壊滅、焼失家屋は約3万戸、死者は2000~3000人と言われています。また、32時間後の12月24日、M8.4 安政南海地震(南海道沖、畿内、東海、南海、北陸、山陰、山陽諸道)が発生し、特に津波の被害が大きく、津波の高さは串本で15m、高知県久礼で16m、死者は数千など、200~300kmしか離れていない所で、相次いで大地震が起こっています。

 私の郷里(神宅、上板町、徳島)では、神宅遺跡(かんやけいせき)において、安政南海地震における液状化現象(地表面下2.6mの深さから幅数センチの砂脈が上昇した跡)が確認されています。江戸後期の磁器片を含む地層を引き裂き、近代の地層に覆われていました。(徳島県教育委員会、徳島郷土文化会館、埋蔵文化財資料展、掘ったでよ阿波、1991、より)。

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南海地震 電柱も横倒し、 津波によって舟がのし上がる、徳島新聞社、1946年(昭和21年)12月21日、海部郡浅川、徳島、google画像)

 現代の昭和時代には、1944年(昭和19年)12月7日、M8.0 東南海地震(熊野灘、東海地域)が発生し、また、1946年(昭和21年)12月21日、M8.1 南海地震(紀伊半島沖)が発生し、九州、近畿、中国、四国にわたり大被害を与えました。震源地は潮岬南西50キロ付近でした。震源の断層は、プレート境界にほぼ一致しています。

 この時、陸では、太平洋側の半島の先端部、紀伊半島南端で6.6m隆起し、付け根の地域、高知市東方では15平方キロが海面下に沈没しました。また、震央が海底であったので、三重、徳島、高知では4~6mの大津波が発生し、静岡県以西にも津波が押し寄せ、死者1330人、家屋の全壊2521戸,半壊4283戸,流失1451戸,焼失2598戸など、大被害をもたらしました。

 南海地震の前兆として、和歌山方面での発光現象、井戸水の水位の低下、井戸水の多少の濁りなどが確認されています。また、地震発生の数日前から、紀伊半島や四国の太平洋沿岸で、浅い位置にある地下水の水位が数cm低下したことが確認されています。これらの現象は、地震の前兆を知る上で大いに役立つと思われます。

 阪神・淡路大震災は、1995年(平成7年)1月17日、午前5時46分、淡路島北端を震源地(深さは5~15km)とした、M7.2の大地震で、被害は淡路島北部から神戸市、芦屋市、西宮市、宝塚市に及び、死者6544人でした。また、震源は明石海峡の海底で、プレート(岩盤)の破壊が始まり、活断層の野島断層に沿って南西方向に破壊が進みました。その間10数秒で、地面が右横ずれ方向に最大2.1m、縦ずれ方向に最大1.3m変位しました。M(マグニチュード、地震エネルギーの対数値で、1増えるとエネルギーは約32倍となる)は南海地震より1ほど小さかったが、多くの死者を出し、人口密集地帯の直下型地震の恐ろしさを思い知らされました。

 ところで、中央構造線(ちゅうおうこうぞうせん)は、日本列島の中央部を東西に、諏訪湖の南から天竜川の東側に沿い、豊川の谷を通って紀伊半島に入り、四国から九州中部に及ぶ大断層線です。この大きな活断層の中央構造線を震源とする大地震は、この千数百年の間に一度も発生しておらず、南海地震との直接的なつながりは見られないようです。

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中央構造線 日本列島の中央構造線概略図  中央構造線路頭(内帯は花崗岩、外帯は変成岩)、大鹿村北川、長野、google画像)

(解説) この中央構造線の日本海側を内帯、太平洋側を外帯と呼びます。外帯側でこの線に接するのは、長野県茅野市南方の杖突峠から大分県付近まで、主に三波川変成岩、それより西は、古生代(5億7000万年ほど前から2億2500万年前まで)や中生代(約2億2500万年前から6500万年前まで)のものです。

 内帯側では、杖突峠から奈良県五条付近まで主に領家変成帯の花崗岩で、この部分では内側の幅約1キロは鹿塩圧砕岩からなっています。五条から松山までは白亜系の和泉層群です。九州では阿蘇火山噴出物に覆われて不明瞭です。落差は最大数千mに達し水平変位もあります。古生代末、遅くとも中生代後期に始まり、第四記(200万年ほど前、人類その他多くの哺乳動物が出現した時代、生物のほとんどが現生種)まで繰り返して活動したものです。フォッサマグナ(第三紀中頃、日本列島を横断して生じた地質構造上の特異な地帯、大きな割れ目)の東では関東山地北縁の群馬県下仁田町を東西に走りますが、それより先は不明です。

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中央構造線路頭 黒い土の層、外帯、変成岩、 糖源公園の入口、上板町、徳島)

(解説) 徳島県の中央構造線は、地質の境界としては、吉野川の西から東への流れに沿って、北岸を走っています。私の郷里(松島、上板町、徳島)は、吉野川の北側で、阿讃山脈の麓にあり、阿波和三盆の里、糖源公園の入口を登り切った所の斜面に、中央構造線が黒い土の層として露出しています。(上板町、わがまち再発見読本より)。

 日本沈没(にほんちんぼつ)は、小松左京(こまつさきょう)、1931年(昭和6年)~のSF(サイエンスフィクション)小説ですが、1973年(昭和48年)、光文社が発行、同年映画化されたので見たことがあります。日本列島が海底プレートの急速な沈降により沈没するのですが、まず最初に四国地域が沈み、日本列島の中心、扇の要(かなめ)に位置する北陸地域の金沢が、最後の方で沈むのが印象に残っています。

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南海地震(想定される震源域と地震発生間隔、徳島地方気象台、徳島、google画像)

 南海地震は、いずれも四国沖から和歌山沖の海底のプレート(厚さ数10~200km程度の岩石の層)の境界で発生した海溝型の巨大地震です。歴史上は、約100年に1回の割合で周期的に起こっています。ということで、いつの日か(50年内?)、必ず起る大地震と考えられています。

 天災は忘れたころにやってくる。この言葉は、寺田寅彦(てらだとらひこ)、1878年(明治11年)~1935年(昭和10年)の考えを要約した警句として有名です。中谷宇吉郎(なかやうきちろう)、1900年(明治33年)~1962年(昭和37年)が恩師の言葉として紹介したものです。 けだし、心したい名言です。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第4版)、岩波書店(1991); 奥村清、西村宏、村田守、小澤大成、自然の歴史シリーズ④、徳島、自然の歴史、コロナ社(1998); 竹内誠監修、市川寛明編: 地図・グラフ・図解でみる、一目でわかる江戸時代、日本列島を繰り返し襲った大地震、p.50~51、小学館(2004); 寒川旭: 地震の日本史、大地は何を語るのか、中公新書(2007).

(参考資料) 南海地震(歴史民俗資料館、松茂町、徳島):http://joruri.jp/html/kanashimi/kanashimi3-3.html

南海地震発生のメカニズム(坂出市、香川): http://www.city.sakaide.lg.jp/kurasi/bousai/jisin1.html

中央構造線(遠山郷観光協会、長野): http://www.tohyamago.com/rekisi/chuoukouzousen/index.html; 

南海地震の特徴(徳島気象台): http://www.jma-net.go.jp/tokushima/nankai/tokutyo.htm

気まぐれ歳時記(菊地馨、天災は忘れたころにやってくる、1999年): http://kazamidori.net/kaoru/saijiki/04.htm

 

2010年3月10日 (水)

碁の名手(村瀬、のち本因坊秀甫)の郵便碁にまつわる歴史対局、方円社(のち日本棋院)、郵便碁(私の体験)、メール碁、とは(2010.3.1)

 村瀬秀甫(のち18世本因坊)は、方円社の活動の一環として、郵便による対局(ハガキ、手紙に一手ずつ書き、交互に送って対戦)を考案、1883年(明治16年)6月より18ヵ月間、村瀬秀甫(2級、8段、準名人)と三戸与彰(さんのへともあき、9級、初段)との四子局(117手まで)を打っていますが、この対局が郵便碁の始まりだと言われています。

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本因坊秀甫(2007年 第4回囲碁殿堂入り、日本棋院、市ヶ谷、千代田、東京): https://ssl.nihonkiin.or.jp/07_10dainews/07_10dainews_igodendo_shuho.html

 本因坊秀甫(ほんいんぼうしゅうほ、本名、村瀬弥吉)、1838年(天保9年)~1886年(明治19年)は、車坂下(上野、江戸、東京)の木匠(大工)の子として生まれました。幼少より本因坊丈策、秀和に師事し、1848年(嘉永元年)11才で早くも初段となり、同4年本因坊家の内弟子となりました。

 後年、本因坊家を出て、1879年(明治12年)4月、中川亀三郎(12世本因坊丈和名人の3男)、1837年(天保8年)~1903年(明治36年)、小林鉄次郎、1848年(嘉永元年)~1893年(明治26年)らと共に、東都の棋士を糾合して方円社を発会、初代社長となりました。その後、1924年(大正13年)5月20日、日本棋院創立により、5月21日、方円社発展解散しますが、明治と大正の棋界に大きな役割を果たしました。

 1886年(明治19年)7月、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)、1838年(天保9年)~1897年(明治30年)らの骨折りで本因坊秀栄(17、19世本因坊)、1852年(嘉永5年)~1907年(明治40年)と和解することになり、8段を免許され、次いで18世本因坊となりましたが、3ヵ月ほど後、10月14日、49才で急逝しました。一説には、発狂したと言われています。現在の専門棋士の間でもその芸が最も高く評価されている一人です。 11月には、中川亀三郎が方円社長に就任しています。

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日本初の郵便碁 四子 三戸与彰―村瀬秀甫、 18世本因坊秀甫肖像)

(解説) 方円社の機関誌、囲棋新報、1884年(明治17年)11月号によれば、三戸与彰は岩手県南岩手郡新荘村居住、旧南部藩士族なり。同氏は甚だ(はなはだ)この道をたしなむ。しかれども居住を離れて東京に来るを得ず。常にこの新報をを見て、すこぶる会得する所あり。しかれども方円社員と対局するを得ず。故に郵便にて手合をなさんと約し、去る明治16年6月より、この局を打始め、すでに18月の往復を費し、117手を着せり。

 黒16のオサエは力強い。正確に読み黒26まで不満なし。白27以下にも正確に対応している。しかし、白49とトンで中央が白っぽく、黒はいつのまにか打ち回されている。黒54は少しつらい。白115、117とツケ切り、微妙なところで打ち掛けとなっている。

 未だ収局に至らざるも、まず録して同好に示す。その評は収局の後に於いてすべし。遠地に隔離しても、対局してこの道を研究するを得る。開花の功力もまた大なりというべし、と結んであります。この郵便碁がどう決着したかは不明だそうです。

 郵便碁は、郵便をもって打着点を知らせながら繋続する碁をいう。明治初年、熊谷厳励が方円社に申し込んだのが有名である。厳励は僧侶であったが、還俗して自覚坊天才と号し、中川亀三郎に先、小林鉄次郎にに互先の手合を申し込んだ。疑問のうちにも方円社は応諾し、局を進めたが侮り難き手並みであったという。この局は、中途、郵便料の事から中止された。(囲碁百科事典、金圓社より)

 中田敬三氏(囲碁史研究家、長野市中御所)によれば、1896年(明治29年)の囲碁教科書、碁学活法、3巻の中に、碁学活法を出版した島根県のアマチュア棋士、熊谷巌励(くまがいげんれい)が、3人の相手と郵便碁で打った4局の棋譜が収められている。

 また、明治期に長野県内に滞在して囲碁を指導した鈴木善之助(すすきぜんのすけ)、1825(文政8年)?~1899年(明治32年)との棋譜も収められています。郵便代は全部で8円くらいかかり、高段者への謝礼は10円、一局に数年かかる上、費用もかさむため、それほど流行しなかったそうです。

 日本郵便碁愛好会は、1966年(昭和41年)、大和百貨店(金沢)社長、のち会長、同社出版部門、勁草(けいそう)書房(東京)社長、井村寿二(いむらじゅじ)、1923(大正12年)~1988年(昭和63年)が、1966年(昭和41年)に発足させました。最盛期の会員は約800人で、今でも約500人ほど会員がいるそうです。

 私は、1969年(昭和44年)4月より金沢大学(理学部)に勤務し、郷里(徳島)の父親(初段)とハガキで近況を知らせると共に、2局同時対局で、郵便碁を打ったことがあります。1969年(昭和44年)7月~1973年(昭和48年)2月まで5局対局、私の2勝3打ち掛け、となっています。親父も息子とは、先、二子、三子の手合いで、打ちづらかったと思います。よく、「碁は幾何を応用して代数で割り出す」、とか言っていました。これは、碁の黒石と白石の配置の形には図形的な要素(幾何)が見られるが、最終的な勝敗は、黒石と白石双方で囲まれた地の数の多さで決まりますので、黒石と白石の打つ手には計算的な要素(代数)がある、ということだと思います。

 また、1969年(昭和44年)5月頃、金沢大学(理学部)阪上正信教授から、日本郵便碁愛好会の入会を誘われ、1975年(昭和50年)1月からアリゾナ大学(ツーソン、U.S.A)化学科博士研究員として、H.Freiser教授のもとへ留学するまで、5年間ほど、私(3段格、のち3段、4段、5段)は、対局の申し込みがあった会員(初段から4段、奈良、大阪、茨城、栃木、北海道)の方々と2局ずつ郵便碁を楽しみました。その時の対局(14局)結果は、10勝1敗、3打ち掛け、となっています。手許の棋譜を見ると、その頃が懐かしく思い出されます。 

アリゾナ大学(ツーソン、アリゾナ、米国): http://www.arizona.edu/

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H.Freiser(1920~2013)

T. Honjo and H. Freiser; Extraction of Nickel(II), Copper(II), and Zinc(II) in Carbon Tetrachloride with Monothiodibennzoilmethan and Derivatives,  Anal. Chem.,53, 1258-1265(1981).

Henry Freiser先生を悼む-(PDF、日本分析化学会):http://www.jsac.or.jp/bunseki/pdf/bunseki2015/201509fuhou.pdf

  私の碁の免状は、初段から3段までは、小山久良師範(日本棋院愛媛県支部)のご推薦(試験碁含む)、また、4段から5段は月刊雑誌、棋道(日本棋院)の段級位認定試験によるものです。特に、3段の免状は、1972年(昭和47年)6月11日付で、私の結婚のお祝いの贈りものとなっています。また、4段の免状(5万円)は、1986年(昭和61年)9月1日付、5段の免状(10万円)は、1991年(平成3年)12月18日付となっています。その後、6段の免状は、段級位認定試験に合格したものの、高額(20万円)なので、申請をあきらめました。。囲碁免状(日本棋院): http://www.nihonkiin.or.jp/profile/sikaku/menjo.html.

 日本郵便碁愛好会、郵便ニュース、北信越支部版、1970年(昭和45年)1月号、支部版No.3に掲載されました、1969年(昭和44年)10月25日(土)、阪上教授部屋(城内キャンパス)で開かれた金沢地区座談会(3名参加、1名誌上参加)の席上、私は次のように発言しています。

 郵便碁は、序盤でも、打ち方で相手が力碁かどうかわかる感じです。〒碁では、自分の納得のゆくまでじっくり考え、応揚にに打てますね。〒碁ではプロの方ともお相手できるなど貴重な機会もあり、そのほか外に出かけなくとも色々な方々とつながりができるのもよいと思います。一方、筆不精が筆達者にならざるをえないのもその余得と思いますね。

 ただ先日連絡のあった懇親碁会全国大会など大層結構で参加したいのですが、ちょっと会費が高いのが気にかかります。実戦対局は、〒碁では味わえない実戦心理のなかで碁を打つというまた別の意義があると思われます。

 また、郵便連碁が提案され、1971年(昭和46年)から打ち始められた金沢チーム(大村、久村、下浜、本浄、西念)と昭九会チーム(高橋、大塚、川原、長尾、佐々木、村山)の2局同時対局(互先)は、47手まで、何かの事情で打ち掛けとなっています。

 1972年(昭和47年)2月から1973年(昭和48年)9月まで、金沢Aチーム(大村、下浜、西念)と金沢Bチーム(阪上、本浄、中)の2局同時対局(互先)は、打ち分け(黒番勝利)となっています。

 その頃に、日本郵便碁愛好会、会長、井村寿二氏から、ご恵送いただいた、榊山潤著、日中囲碁盛衰史、勁草書房(1967)が手許にあり、思い出の記念となりました。

 私は、アメリカ留学で中断し、残念ながら都合で退会したのですが、最近、インターネット、google検索より、本多操氏のブログに出会い、日本郵便碁愛好会(事務局、川崎市)は、2006年(平成18年)に35周年を迎え、める碁(電子メールで対局)が、2001年(平成13年)から始められていることを知りました。

 また、癌で闘病中の本多操氏のブログ(雑草の見る世界、郵便碁、メール碁の思い出含む): http://blog.livedoor.jp/nanrindo3181/archives/50767446.html#comments)、思い出に残る方々、1.の中で、1970年(昭和45年)5月から1974年(昭和49年)12月まで、2年間対局した、1994年(平成6年)6月、事故死の水谷義昭氏(宗谷支庁、北海道)のこと、また、思い出に残る方々、4.で、1998年(昭和63年)、突然訃報の井村寿二会長のことを知りました。ご冥福をお祈りする次第です。 

 近年は、世界中の人々と、インターネットと電子メールを使って囲碁を楽しむことができます。電子のメール碁は、インターネト囲碁(日本棋院): http://u-gen.nihonkiin.or.jp/; 日本メール碁会(JMGS): http://e-mail-go.sunnyday.jp/など、時代の流れを感じます。

 2008年(平成20年)5月11日には、古本書店(松山、京都、金沢)で買い集めた昔の囲碁書籍、江戸時代の新撰碁經大全、全2巻、1720年(京保5年)、碁立、全8巻、1787年(天明7年)等56冊を、私の手許より図書館へと、石川県立図書館に寄贈しました。

 最近は、新聞碁(名人戦、天元戦など)、インターネット碁(各種棋戦)の観戦、また、NHK杯囲碁トーナメント(日曜日)の対局は、碁盤に一手ずつ石を置きながら観戦しています。

(参考文献) 安藤如意(改補社者渡辺英夫): 坐隠談叢(新編増補、囲碁全史、新樹社(1955); 林裕編: 総合囲碁講座、別巻、囲碁百科事典、金圓社(1965); 福井正明: 囲碁史探偵が行くー昔と今 碁打ちの物語ー、p.6~9、明治十六年、初めての郵便碁、方円社百二十五年、日本棋院(2008).

(参考資料) 囲碁史年表(郵便碁含む、1800年代): http://mignon.ddo.jp/assembly/mignon/go_history/go_history1800.html

中田敬三(岡目八目、郵便碁の先覚者「秀甫」波乱生涯): http://210.155.158.203/kisei.yomi/column/okame_nakata/04.htm

島根県に関連する介護と医療の雑記(明治時代に郵便で囲碁対局、棋譜発見、長野市の中田敬三氏): http://www.kaigo-iryo9.com/archives/20.html

(追加説明) ○ 日本の郵便事業(官営)は、前島密(まえじまひそか、36才)、1835年(天保6年)~1919年(大正8年)の発議により、1871年(明治4年)3月1日(新暦4月20日)、東京と大阪間で開始されました。1870年(明治3年)から11年間、郵政の長として基礎を築き、また、郵便、郵便切手などの用語は、前島密が使い始めたものです。

○ 江戸時代における碁の家元は、本因坊(21世まで)、井上(16世まで)、安井(10世まで)、(13世まで)の四家でした。1612年(慶長17年)、徳川家康は、碁打衆将棋衆に扶持を給し、これが家元の起源となりました。徳川幕府から家元家禄が支給され、毎年年一回江戸城において御前対局を行うことが定められていました。その御城碁を勤める棋士(7段上手以上、8段準名人、9段名人)の中でも、碁所(ごどころ)制度において、本因坊家多くの名人を輩出する名門でした。

 歴代名人碁所)は、本因坊家は、算砂(1世)、道策(4世)、道知(5世)、察元(9世)、丈和(12世)、井上家は道碩(1世)、因碩(道節)(2世)、安井家は、算知(2世)でした。名人碁所別個の基準(官命、推薦、争碁、道策の頃からは9段)で定められていて、江戸以降、明治、大正までに、本因坊秀栄(17世)、本因坊秀哉(21世)が歴代名人に名を列ねています。

 碁所は、囲碁界最高の名誉と権威を有し、将軍の指南、四家元の総括、全ての棋士の昇入段を定め、免状の発行権を独占し、御城碁の対局組み合わせ、天覧碁や海外棋士との対局など、種々の行事を取り仕切りました。

 歴代本因坊は、本因坊算砂(1世)、本因坊算悦(2世)、本因坊道悦(3世)、本因坊道策(4世)、本因坊道的(4世跡目)、本因坊策元(4世跡目)、本因坊道知(5世)、本因坊知伯(6世)、本因坊秀伯(7世)、本因坊伯元(8世)、本因坊察元(9世)、本因坊烈元(10世)、本因坊元丈(11世)、本因坊丈和(12世)、本因坊丈策(13世)、本因坊秀和(14世)、本因坊秀策(14世跡目)、

 江戸幕府滅亡により、秀悦(15世)の時から家元家禄が打ち切りとなっています。

本因坊秀悦(15世)、本因坊秀元(16世)、本因坊秀栄(17世)、本因坊秀甫(18世)、本因坊秀栄(19世)、本因坊秀元(20世)、本因坊秀哉(21世)

○ 日本棋院の囲碁免状(和紙、毛筆、直筆)の文言は、初段については、貴殿棋道執心修行無懈怠 手段漸進 依之初段令免許畢 猶以勉勵上達之心掛可為 肝要者也 仍而免状如件(きでんきどうしゅうしんしゅぎょうけたいなく しゅだんようやくすすむ よってこれに しょだんのめんきょをゆるしめおわんぬ なおもってべんれいじょうたつのこころがけなすべきは かんようのものなり よってめんじょうくだんのごとし)、

 また、各段の主な相違点は、初段は漸進(ようやくすすむ)、2段は愈進(いよいよすすむ)、3段は漸熟(ようやくじゅくす)、4段は愈熟(いよいよじゅくす)で、2文字以外の文言は全て同じです。

 5段からは、全体の文言が変化し、貴殿棋道執心 所作宜敷 手段益巧 依之五段令免許畢 仍而免状如件、(きできどうしゅうしん しょさよろしく しゅだんますますこう よってこれに ごだんのめんきょをゆるしめおわんぬ よってめんじょうくだんのごとし)となります。6段は、5段の免状の益巧(ますますこう)が、益精(ますますせい)、7段は益妙(ますますみょう)となります。

2010年3月 4日 (木)

白山(石川)の雪形にまつわる歴史伝承、雪占、牛に乗った袈裟かけの坊さん、猿たばこ、とは(2010.3.8)

  雪形(ゆきがた)は、山腹の雪の消え具合による、人、動物などに見立てた残雪(ざんせつ)の模様のことです。雪占(ゆきうら)とも呼び、かってはその年の豊凶を占い、農事暦として使っていました。北国では、残雪の期間が長く、遠い連峰の残雪は、初夏の頃まで残っています。金沢に住み始めた頃、満開の桜の下で残雪の山々を遠望できるのに驚きました。  

 石川県白山では、4月末から5月上旬にかけて、北西方面の斜面に雪形が現れ、加賀市では、牛に乗った袈裟(けさ)かけの坊さん(融雪が進むと大ガラス)、猿たばこ(たばこを吸っていたおじいさんとも)、能美郡川北町では、苗男、田植え男(五月男)、白山市(旧松任市)では、水竜、火竜小松市では、カラス、コウモリ、ツバメ、いぶり形など名付けられた10個の雪形が伝わり、確認されています。また、富山県では、僧ヶ岳の僧、猪、兎、鶴など14個、福井県では、大日岳の鶴の1個の雪形が伝えられています。

 日本国内では、新潟県に最も多く190個近く(光兎山の兎形など)、次いで長野県に多く60個余り(白馬乗鞍岳の嫁岩など)、北は北海道(大雪山系のうなぎ雪渓など)から南の愛媛県(石鎚山の鍬形など)まで、430個余りの雪形の伝承が受け継がれています。 雪形コレクション(みやこさん編、431件、日本国内): http://uub.jp/nam/yukigata.html

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白山の雪形 牛に乗った袈裟かけの坊さん(融雪が進むと大ガラス)、 猿たばこ(たばこを吸っていたおじいさんとも)、 写真撮影 2005年5月2日、小松市那谷町、中川澄夫氏、イラスト作成 藤川恭子氏、google画像)

(解説) 雪形(ゆきがた)は、古くは、それぞれ固有の呼び名で伝えられています。 昭和の初期に雪形と総称されるようになりました。

 白山では、5月頃、牛に乗った袈裟(けさ)かけの坊さんが現れ、さらに融雪が進み黒い岩肌の露出が増えて牛の顔が分からなくなり、大ガラスに変化すると農作業を始め、猿たばこ(たばこを吸っていたおじいさんとも)が見えてくると、田の畦塗りの目安としました。

 苗男(傘をかぶった姿)、田植え男(天秤棒で苗かごを担ぐ姿)など、男の姿は、雪が解けて露出した山肌に現れ、田植えの目安とし、水竜、火竜など、竜の姿は、解け残った雪の部分に見られ、水不足の予測としました。

 現在、気象の予測の発達に伴い、雪形の役割は薄れてきました。 寒い冬を耐え、春が訪れ、雪解けにより、山々の残雪が変わる姿を眺め、その変化を農事暦として使い、自然と共生してきた先人の心を大切にしたいものです。

(参考文献) 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 小川弘司、納口恭明、神田健三、和泉薫: 白山の雪形、石川県白山自然保護センター研究報告、第34集(2007); 石川県: 白山の自然誌 29、白山の雪形、石川県白山自然保護センター(2009年3月).

(参考資料) 雪形の画像(日本国内、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E9%9B%AA%E5%BD%A2&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

撫養塩田(鳴門、徳島)の歴史技術、入浜式製塩と塩田争議、流下式製塩、イオン交換膜製塩、安土、桃山時代、1596年(慶長元年)の大地震による撫養沿岸の隆起、鳴門渦潮、とは(2010.3.4)

  江戸時代、文化年間(1804~1817年)、四国では、瀬戸内海沿岸の遠浅の砂浜に、阿波(徳島)から伊予(愛媛)にかけ、主要な入浜塩田が広がっていました。特に、讃岐(香川)の坂出塩田、阿波の撫養塩田、伊予の波止浜、多喜浜の塩田が有名でした。

 十州塩田(じつしゅうえんでん)と呼ばれていた播磨、備前、備中、備後、安芸、周防、長門、阿波、讃岐、伊予では、全国の製塩量の90%(400石)を生産していました。

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撫養塩田(板野郡、のち鳴門市)周辺の地図、(右上の島 高島、三ッ石など(旧鳴門)、右下の対岸 黒崎、桑島、斎田、立岩など(旧撫養)、google画像)

 阿波(徳島)の主な塩田(約530町歩)は、板野郡(のち鳴門市)の撫養塩田、名東郡(のち徳島市)の南斎田塩田、那珂郡(のち阿南市)の答島塩田でした。なかでも12ヵ村(大桑島、小桑島、高島、三ッ石、弁財天、北浜、立岩、南浜、斎田、黒崎、明神、小島田、のち鳴門市)は、塩方十二ヵ村、斎田浜(撫養塩田)と呼ばれ、阿波(徳島)の塩業の中核地となり、その産塩は斎田塩(さいたじお)として全国的に名が知られていました。大半の塩は、撫養(岡崎)港から塩廻船問屋を通じ、大阪と江戸を結ぶ南海路(大阪~太平洋岸~江戸)の樽廻船、菱垣廻船の交易により、大阪、江戸市場に積み出されていましたが、7割以上は江戸積みでした。

 撫養(むや)は、古くから四国の門戸として栄えた港町で、粟(阿波)の門(鳴門海峡)、牟夜(むや)とも呼ばれていました。撫養(岡崎)港は、阿波の玄関口でしたが、明治の中頃、海上交通が帆船から汽船の時代を迎えると、大型船には不便であり、小松島に新しく港湾が造られ、撫養の港としての活力は衰退しました。

 鳴門市は、1947年(昭和22年)3月、板野郡から分かれ、撫養町を中心に、里浦町、鳴門町(高島、三ツ石、土佐泊の3ヵ村が合併)、瀬戸町の4ヵ町が合併し、はじめは鳴南市、しかし、市名が住民に不評のため、3ヶ月後に鳴門市に改称して発足しました。その後、1955年(昭和30年)、大津村、翌年に北灘村、さらに1967年(42年)大麻町を合併して県下第2の都市となりました。

 海水からの製塩には、塩田を使って鹹水(かんすい、濃厚な塩水)を得る採鹹(さいかん、鹹水採取)、火力により鹹水を煮つめて塩を得る煎熬(せんごう、蒸発濃縮)の二つの過程があります。 鹹水は、古くは揚浜式(あげはましき)塩田、入浜式(いりはましき)塩田、また、現代(戦後)になって、流下式塩田、イオン交換膜による電解濃縮などにより得ました。煎熬は、古くは製塩土器、平釜、のち真空式や加圧式の蒸発缶により水分を蒸発させ、食塩の結晶を得ました。

 揚浜式塩田は、海水面より少し高い所を粘土で固め、その上に砂をまき、それに海水をかけ、その砂を集めます。それにまた海水をかけ、得られた濃い鹹水を煮つめる方法です。

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入浜塩田の風景、江戸時代初期~1955年(昭和30年)、(高島、三ツ石鳴門、阿波、徳島、google画像)

(解説) 入浜式塩田は、瀬戸内海沿岸に多く、海水が入江に流れて砂を運んで来ますが、潮が引くと、砂州の内側に干潟が出来ます。その干潟に日が当たると、砂についている海水の水分が蒸発し、濃い塩分が砂に残ります。それを掻き集めて、さらに海水をかけ、得られた濃い鹹水を煮つめる方法です。

 阿波(撫養)の本格的な入浜式製塩は、藩政期に始まっています。1597年(慶長2年)、淡路島の篠原孫左右衛門、1556年(弘治2年)~1625年(寛永2年)が撫養の竹島村(のち高島村)に塩田を築造し、民間主導によって開始されました。徳島藩も殖産政策の一環として製塩業を重視し、1599年(慶長4年)3月、播州赤穂の入浜式塩田の技術者、馬居七郎兵衛、?~1625年(寛永2年)、大谷五郎右衛門、?~1670年(寛文10年)を招き、夷山(えびすやま、蛭子山とも、大桑島、撫養)の麓に塩田を築造させました。ということで、ここ(蛭子山公園)は撫養塩田の発祥地と伝えられています。

 1608年(慶長13年)には、斎田、桑島、南浜、北浜、竹島(のち高島)、三ツ石、安芸神、立岩、弁財天、小島田の塩浜10ヵ村が成立し、1644年(正保元年)、桑島を大桑島と小桑島に分け、斎田から黒崎が分かれ、塩浜12ヵ村となりました。この斎田塩(さいたじお)は、江戸で赤穂塩(あかほじお)と並ぶ評価を受け、阿波藍と共に徳島藩の重要な特産品となりました。

 幕末から明治にかけて、塩は慢性的な生産過剰となりました。江戸時代から生産過剰による値崩れを防ぐため、瀬戸内沿岸十州の塩業者が十州塩田同盟を結び、休浜法による生産制限が行われていましたが、1886年(明治19年)に組織された十州塩田組合は、不同盟者が続出するなど結束が弱まりました。

 1905年(明治38年)、塩は専売制施行で政府の統制下に置かれ、また、製塩地も整理されましたが、大正期には輸入塩(日本の植民地、租借地の台湾、中国遼東半島の関東州など)との競争が起こり、高価格と生産過剰が相まって、塩業不況が続き、生産削減が相次ぎ、撫養でも賃下げ反対の争議が起きました。

1912年(明治45年)に鳴門塩田労働組合、1921年(大正10年)には、撫養塩田労働連合会が結成されました。1926年(大正15年)10月、政府が要請した、生産一割削減を受け入れた経営者側に撫養塩田労働組合が反発、激しい塩田争議に突入し、1927年(昭和2年)4月には、同労働組合高島支部が賃上げ闘争に立ち上がり、105日にわたる同盟罷業(ストライキ)を行いましたが、組合側の敗北に近い調停で終息しました。大正期、徳島県の塩田面積は460町歩前後で、全国の総面積の約7.9%、全国生産高の約7~9%を占めていました。

 1952年(昭和27年)から約5年の間に、採鹹の方法は、入浜式塩田から流下式塩田という能率のよい方法に変わり、また、煎熬法も平釜から真空式蒸発缶に切り替わりましたが、1967年(昭和42年)にイオン交換膜製塩法が導入されると、枝条架の流下式製塩も姿を消しました。現在では、1966年(昭和41年)に設立された、鳴門塩業株式会社(黒崎、撫養、鳴門)でイオン交換膜法による製塩が行われています。

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流下式塩田の風景、1950年(昭和20年)代後半~1971年(昭和46年)、(鳴門、徳島、google画像)

(解説) 流下式塩田では、まず粘土や塩化ビニルなどで作ったゆるやかな傾斜盤の表面に小砂利を敷きつめ、海水をこの上に数回流して太陽熱によって蒸発濃縮させます。次に枝条架という数メートルのやぐらに、1メートル間隔で、孟宗竹の枝を組んで作られた枝条(しじょう)を数段つるしたものを、風向きに直角に立て、海水を雨のように落下させ、風を利用して濃縮し、これを繰り返して塩分15~20%の濃縮塩水を得て製塩工場に送りました。

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イオン交換膜製塩法、1972年(昭和47年)以降、(鳴門、徳島、google画像)

(解説) イオン交換膜製塩法は、電解槽(でんかいそう、電気分解を行う装置)の両電極間に多数のイオン交換膜を並べ、海水の電気透析(イオン交換膜と電気を利用する膜分離)により濃い鹹水(3.5%の塩濃度の海水を18%濃度まで濃縮)とし、これの蒸発により食塩を得る方法です。わが国の食塩は、ほとんどこの方法により生産されています。陽極側から陰イオン交換膜、陽イオン交換膜の順で数百室に仕切り、一室おきに原料の鹹水を流して電解すると、中間の各室から18%NaCl(塩化ナトリウム、食塩)の濃い鹹水が得られます。これを多重効用蒸発缶(蒸発濃縮の効率を高める多段化蒸発缶)に移し、食塩を結晶化させました。 

 1972年(昭和47年)には、鳴門市内の塩田は全て廃止され、350年にわたる塩田による製塩の歴史の幕を閉じました。 その後、廃止塩田の転用や、転業の問題が大きな課題となりました。現在では、高島の塩田跡は、鳴門教育大学のキャンパス(1981年、昭和56年10月、開校)に生まれ変わっています。

 私の母(高子、小学校教諭)は、高島(撫養の対岸、のち鳴門)の製塩業者(中島家)の生まれですが、本浄家の養女として育てられました。毎年、お盆には里帰りしていました。私が小学校の頃、お盆に、母の実家に連れていって貰ったことがあります。その頃は、流下式塩田となっていて、竹の細枝で作った藁葺き状の屋根から海水がゆっくりと流れ落ちていたのを覚えています。太陽熱によって水分を蒸発させていたものと思います。

 また、高島は一つの島であり、昔は岡崎桟橋から高島渡舟場まで渡し船が出ていました。そこの小鳴門海峡には、小鳴門橋(441.4m、1961年、昭和36年7月、開通) 、それと平行して、徳島自動車の撫養橋(536m、1987年、昭和62年5月、暫定2車線、のち上り線、1998年4月、平成10年、下り線、開通)が架かっています。

 そこを通り抜けると鳴門海峡があり、淡路島の間には大鳴門橋(1629m、1985年、昭和60年、6月8日、開通)が架かり、さらに、淡路島と明石(神戸)の間には明石海峡があり、明石海峡大橋(3911m、1998年、平成10年、4月5日、開通)が架かり、鳴門から明石まで、神戸淡路鳴門自動車道が結ばれ、夢の架け橋となり、21世紀に向けて、撫養(鳴門)の新しい発展が始まっています。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 湯浅良幸(徳島史学会)編: 徳島県の歴史散歩、山川出版社(1995); 大木道則、大沢利昭、田中元治、千原秀昭編: 化学事典、東京化学同人(1996); 山本大、田中歳雄: 四国の風土と歴史、山川出版社(1977); とくしま地域政策研究所編: 吉野川事典、農文協(1999); 宮本常一: 塩の道、講談社学術文庫(2007). 

(参考資料) 鳴門塩業株式会社(黒崎、撫養、鳴門):http://www.naruen.co.jp/gaiyou01.htm

撫養塩田入浜式、流下式、鳴門、google画像): http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%92%AB%E9%A4%8A%E5%A1%A9%E7%94%B0%E3%80%80%E5%85%A5%E6%B5%9C%E5%BC%8F%E3%80%80%E6%B5%81%E4%B8%8B%E5%BC%8F&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

高島塩田地帯の社会調査(富野敬邦、阿波学会研究紀要): http://www.library.tokushima-ec.ed.jp/digital/webkiyou/04/0406.htm

鳴門の風景(なつかしの写真館、鳴門市): http://www.city.naruto.tokushima.jp/contents/natsukashi/hukei.html

(追加説明) ○ 藻塩(もしお)は、海草(アマモ類、藻塩草)に潮水を注ぎかけて塩分を多く含ませ、これを薪(藻塩木)の火(藻塩火)で焼いて水に溶かし、その上澄みを釜で煮つめて得られた塩です。古代、歌などに多く詠まれ、また、随筆にも引用されています。

○ 海水からの製塩は、日射が強く、降雨の少ない地中海、紅海、中国、西アジア、東南アジア、北アメリカ、中米、アフリカなどの沿岸で、太陽熱と風を利用し、塩田で順次海水を濃縮し、塩の結晶を得ていました。これは天日製塩と呼ばれていました。

 天然鹹水は、湖沼や地下の塩水で、中国では地下のものを塩井という井戸から汲み上げて利用していました。

 岩塩は、鉱物(塩化ナトリウム、不純物として、硫酸カルシウム、塩化カルシウム、塩化マグネシウム、硫酸マグネシウムなど少量混在)として、米国、ドイツ、ソ連に広く産出します。鉱石のように採掘し、粉砕とふるい分けをしてそのまま利用するか、あるいは水を流し込んで濃塩水をつくったのち、これを煮つめて製塩しました。

○ 1585年(天正13年)、蜂須賀家政(阿波、徳島藩祖)が播州(兵庫)竜野(竜野市)から阿波(徳島県)に入国しました。そして、播州、淡路から製塩技術者を招き、1596年(慶長元年)の大地震によって隆起した撫養沿岸の干拓地の踏査、,開発に当たらせました

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蜂須賀家政(1558~1639、徳島藩祖、阿波、徳島)

 篠原孫左衛門もその一人で、1597年(慶長2年)、竹島村(のち高島村)の干潟を調査し、翌年塩浜の築造に着手しました。1607年(慶長12年)、塩田の検地が行われ、高島塩浜8町6反24歩(約8.5ha)、年貢として銀784匁1分9厘が定められ、孫左衛門は竹島村の庄屋に任命されました。以降、篠原家は代々庄屋を世襲し、製塩業に従事しました。(鳴門市史、上、岩村武勇、高島塩田の開拓と篠原家、1983、より)。

 安土、桃山時代1596年(慶長元年)の大地震は、1596年(慶長元年)7月13日(新暦9月5日)、近畿地方(山城、大和、摂津、河内、和泉)を襲ったM8の大地震です。京都と伏見の間は特に被害が大きく、京都の伏見城天守閣、石垣、方広寺の大仏も崩れました。この時、畿内に謎の降灰、降毛があり、伏見城の圧死者600人、豊臣秀吉も命からがら外に避難したと言う。 

 この2ヶ月後の9月4日、九州、大分の別府湾において、M7.0の慶長豊後大地震が発生し、大津波に襲われ、また瓜生島が海没し、死者700余名を出しました。

 この二つの地震の間に、四国の中央構造線断層帯も活動した可能性が高いと考えられています。この場合、九州北部から近畿西部にかけて、大きな断層がドミノ倒しのように、次々に活動したことになります。しかし、四国の中央構造線断層帯が、この時に活動したことを実証する記録は得られていないようです。

○ 大鳴門橋(おおなるときょう)と渦潮(うずしお) 瀬戸内海と紀伊水道の潮の干満により、幅が1.3kmと狭い鳴門海峡に1.5mもの落差ができ、ときに時速20kmとすさまじい勢いで潮が流れることにより、無数の渦が発生します。春と秋の大潮の時には、直径20m以上の大きな渦が現れ、その迫力は、観潮線により間近に味わうことができます。大鳴門橋は全長1829mの吊り橋で、渦潮をまたぐように架かっています。

 渦潮は現れたと思えば、すぐ消え、一つの渦の寿命はせいぜい数十秒、速さの違う潮流の波と波がぶつかり合って、ザバザバと音を立てる「鳴る瀬戸」という。そして、遊覧船の周囲は一面に白く泡立ちます。 渦の道(大鳴門橋遊歩道、450m、展望ガラス床から45m下の渦潮、エディ、徳島県): http://www.uzunomichi.jp/

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