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2010年4月の3件の記事

2010年4月14日 (水)

富山の売薬にまつわる歴史伝承、反魂丹(腹痛薬)、先用後利(配置家庭薬)、おまけ(土産、進物)、とは(2010.4.14)

  富山の売薬起源は、立山信仰に基づく修験者(山伏)の檀那場廻(だんなばまわり、檀家の布教など)、諸国配札(しょこくくばりふだ、お札の配付など)だとも言われています。立山修験者が行っていた、先用後利(せんようこうり)という商売の方法に、薬の安定生産が加わることによって、富山の売薬は盛んになりました。

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檀那場廻(だんなばまわり、檀配札活動に出向く衆徒立山山麓、富山、google画像)

(解説) 檀那場廻とは、修験者が行う布教活動で、村々の農閑期に修験者が出向き、立山曼荼羅(たてやままんだら)を開帳し、開山縁起を語って聞かせ、立山への参詣登山(さんけいとざん)を呼びかけます。その時、村の代表者のもとに護符や経帳衣などを置いておき、使った品物の代金を1年後に回収しました。この修験者の檀那場廻では、薬を置くこともあったようです。

 売薬の行商は近世に発達し、越中富山を筆頭に大和丹波市(やまとたんばいち、奈良)付近、備中(びつちゅう、岡山)総社周辺、越後(えちご、新潟)西蒲原地方などを本拠としました。特に富山は、配置薬(はいちやく、置き薬とも)という独特の販売法によって全国に販売を広げました。越後の毒消売りは慶長年間に始まるといい、漁村の女の出稼(でかせぎ)として発達しました。

 配置家庭薬(置き薬)は、富山の薬売りとして江戸時代から親しまれたもので、かぜ薬、胃腸薬などを広く家庭に配置して、年に2回の春と秋に補充、薬の使用代金は後払い(先用後利)とし、特に農村では珍重されました。

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越中反魂丹(えっちゅうはんごんたん、池田屋安兵衛老舗、富山、google画像)

(解説) 江戸時代の売薬人が扱った薬の中で、よく知られたものは反魂丹(はんごんたん)で、富山の売薬は、この薬を中心として発展しました。明治時代まで、売薬人が、反魂丹売りと呼ばれていたほどで、現在もこの薬は、富山の薬の主商品として売り出されています。しかし、反魂丹という薬は、富山独自のものではなく、1683年(天和3年)備前(岡山)の藩医、11代万代常閑(もずじょうかん、のちまんだいじょうかん)が長崎に旅した時、富山藩(10万石、加賀藩の支藩)の藩命で長崎にいた藩士(近習役)、日比野小兵衛(ひびのこへえ、生没不明、砲術家) の腹痛を直したこと、またこの薬の製法を小兵衛が伝習したと伝えられています。

 また、1690年(元禄3年)に加賀藩より分藩した富山藩2代藩主、前田正甫(まえだまさとし)、1649年(慶安2年)~1706年(宝永3年)に関わる話として、正甫が腹痛を起こした時、家臣の日比野小兵衛が反魂丹を献上して直したこと、江戸城で、三春(5万石、福島)3代藩主秋田輝季(あきたてるすえ)、1649年(慶安2年)~1720年(京保5年)が腹痛の急病を起した時、正甫が所持していた反魂丹を飲ませるとすぐに回復したと伝えられています。

 そして、その効果を見た全国の大名が自国領内での販売を懇願したので、正甫は城下の薬種屋、松井屋源右衛門(まついやげんえもん)、1645年(正保2年)~1717年(京保2年)に製造させ、八重崎屋源六(やえざきやげんろく)、?~1749年(寛延2年)に 全国販売させました。ということで、反魂丹の処方は、万代常閑が伝えたものと言われ、富山では常閑は、越中売薬の祖として知られています。

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越中反魂丹(えっちゅうはんごんたん、池田屋安兵衛商店、富山、google画像)

(解説) 反魂丹は、食傷、腹痛等に特効ある懐中丸薬です。この丸薬は、黄蓮(おうれん)、甘草(かんぞう)、熊胆(ゆうたん)などの20数味の薬剤(時代、調製者により少しずつ異なる)を調合した腹薬ですが、庶民は万病薬として用いました。元禄の頃から富山の薬売りが全国に広め、江戸では芝、田町(たまち)の堺屋長兵衛(さかいやちょうべえ)売り出しのものが、田町の反魂丹として名高い。

 現在の池田屋安兵衛商店の反魂丹処方は、黄蓮(おうれん)、千振(せんぶり)、生姜(しょうきょう)、牛胆(ぎゅうたん)、ウルソデオキシコール酸(熊胆の主成分) などを調合したものです。和漢薬の成分は、明治時代になり、毒劇薬取扱規則など、薬事法の施行を受け、反魂丹の薬剤成分は江戸時代のものとかなり異なり、特に有毒成分(ヒ素の硫化鉱物、雄黄、ゆうおう、解毒剤など)は調合成分から完全に除去されています。

 この反魂丹で代表される富山の売薬が、江戸時代から現在まで続く不動の地位を築いたのは、薬の効能が確かであること、先用後利の商法(現在の配置売薬の方法と同じで、預けた薬の使用した分の代金をもらう)が的を得たことにあります。それと藩が時代に即して、例えば、反魂丹役所を設けるなど保護育成を図ると共に、売薬屋も、仲間組と向寄という組織を作り、互助と自己規制を行うことで、信用を高めたことにもよります。富山藩の売薬が成功すると、越中加賀藩でも盛んとなり、現在も富山県全域に配置売薬業者がいて、その活動範囲は全国に渡っています。

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売薬のおまけ( 売薬土産、紙ふうせん、紙ぼうし、富山、google画像)         

(解説) 薬売人は薬の他に、得意先に配る簡単なおまけ(土産、進物)を持参していました。その種類は、売薬版画(絵紙、えがみ)、氷見の針、塗箸、手ぬぐい、湯呑、紙ふうせん、紙飛行機、喰い合わせ表、食品分類表などで、実用的なものや娯楽性のあるものが喜ばれたようです。このおみやげは、薬の売上の約5%ほどの費用で作られていました。売薬人は、おみやげによって、得意先へ文化や情報を運び、またおみやげの品物に関わる産業をも発展させてきたと思われます。

 私が小学生の頃、郷里の田舎の家(引野、松島、のち上板、徳島)には、赤色の家庭薬箱が置いてありました。富山の薬売りが春の暖かい時期に訪れ、薬の使用状況を調べ、また薬の入れ替えをし、おまけの紙ふうせんなど貰ったことを覚えています。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 日吉芳朗、本浄高治、中西孝: 加賀藩にゆかりのある史跡と産物p.298~299、加賀藩の秘薬と富山藩の売薬、化学と教育(1991); 富山市郷土博物館編: 富山の売薬、富山市教育委員会(1996).

(参考資料) 立山檀那配札廻(たてやまだんなくばりふだまわり、富山、google画像): http://images.google.co.jp/images?um=1&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&tbs=isch%3A1&sa=1&q=%E7%AB%8B%E5%B1%B1%E6%AA%80%E9%82%A3%E9%85%8D%E6%9C%AD%E5%BB%BB%E3%82%8A&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&aq=f&aqi=&aql=&oq=&gs_rfai=&start=0

反魂丹(はんごんたん、google画像): http://images.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%8F%8D%E9%AD%82%E4%B8%B9&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

反魂丹(池田屋安兵衛商店、富山):http://www.hangontan.co.jp/

富山の売薬(広貫堂資料館、富山: http://www.koukandou.co.jp/shiryoukan/index.html

富山市売薬資料館(富山市民俗民芸村内): ;http://www.city.toyama.toyama.jp/etc/minzokumingei/baiyaku/baiyaku.html

おまけ(富山の売薬、富山、google画像): http://images.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E3%81%AE%E5%A3%B2%E8%96%AC%E3%80%80%E3%81%8A%E3%81%BE%E3%81%91&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

(追加説明) ○ 江戸時代、越中富山の薬売りは、唐薬種(中国)を大阪で仕入れ、琵琶湖の水運を経て、敦賀から北前船で富山に運びました。薬の行商人は、目的地別に仲間を組んで徒歩で出かけ、商品は船便にしたと言われています。(加藤貞仁(文)、鐙啓記(写真): 北前船、寄港と交易の物語、越中、薬売りを支えた北前船、無明舎出版(2002)より)

○ 江戸時代の後期、富山売薬の九州地方(薩摩、大隅、日向)への配薬は、日本海の海運を利用したもので、薬荷の輸送は、西廻航路を利用した北前船でされました。また、薩摩組仲間は、鹿児島藩から資金の貸与を受けて、蝦夷松前(北海道)にて昆布を仕入れて廻送し、鹿児島藩に1万斤を献上、残りも同藩にて販売することとなりました。この昆布販売の背景には、鹿児島藩の御製薬方の設置、富山売薬差留問題がありました。

 薬売りの行商の旅は、年2回の春と秋が原則です。この季節は、稲などの収穫、あるいは出稼ぎから帰る頃で、旅先地の家々に現金収入がある時期だからです。この1年の旅立ちは、江戸時代以来、現代まで引き継がれています。(富山市郷土博物館編: 富山の売薬、富山市教育委員会(1996)より)

2010年4月 9日 (金)

春、わが家(桜田、金沢)から眺める霊峰白山、加賀100万石加賀前田藩主の眠る野田山、室生犀星のふるさと、犀川の風景(2010.4.9)


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 わが家、金沢市桜田町、犀川近くのサーパスマンション(10階)のベランダの東南方向には、日本三名山、白山(標高2702m)、加賀100万石前田藩主の眠る野田山(標高約180m)を遠望し、眼下には、金沢出身の作家、室生犀星のふるさと、犀川の流れを眺めることができます。(2010年(平成22年)4月9日撮影)

 私は南国(徳島)生まれなので、はじめて金沢に住み始めた頃、満開の桜の下で遠くの残雪の山々が眺められることに驚きました。 

2010年4月 5日 (月)

原子力エネルギーと原子爆弾(マンハッタン計画)、原子爆弾投下(広島、長崎)、日本の原子力発電所(核燃料、原子炉)、天然原子炉(オクロ鉱山、南アフリカ)、とは(2010.4.5)

  1941年(昭和16年)12月8日~1945年(昭和20年)9月8日、太平洋戦争の時、アメリカ合衆国(USA)は、マンハッタン計画において、1945年(昭和20年)7月16日、アラモゴードの砂漠(ニューメキシコ州、USA)において、人類初のプルトニウムの原子力エネルギー(核エネルギー)を使った原子爆弾の実験(トリニティ実験)に成功しました

 原子爆弾(略称、原爆)は、ウラン235(質量数235のウラン)、プルトニウム239(質量数239のプルトニウム)などに核分裂反応を爆発的に行わせ、発生する熱線、衝撃波、各種放射線を利用した爆弾です。1945年(昭和20年)8月6日、午前8時15分、ウランを用いたものが広島に、プルトニウムを用いたものが、3日後の8月9日、午前11時2分、長崎に投下され、人類史上かってない大惨事をもたらしました。

原子爆弾のキノコ雲 広島原爆投下(1945.8.6)、 下 長崎原爆投下(1945.8.9)、google画像) 

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オットー ・ ハーンOtto Hahn1879~1968、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B3

(解説) 核燃料の核分裂反応は、ウラン、プルトニウムなどの重い原子核が、熱中性子(低エネルギー中性子)の照射によってほぼ同程度の大きさの2つの原子核に分裂する現象です。1938年(昭和13年)オットー・ハーンらが発見、この際、大きなエネルギーの放出を伴うことが分かりました。

 戦後、原子力エネルギーの平和利用として、原子炉による原子力発電が開発されました。これは、原子炉で発生する熱エネルギーを用いて、高温高圧の水蒸気をつくり、火力発電と同じように蒸気タービンを回して発電するものです。原子炉では、熱中性子を吸収し核分裂の度合いを調整する制御棒を操作し、濃縮ウランなどの原子核分裂の連鎖反応を制御しながら持続させる状態(臨界、りんかい)にしています。

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原子力発電所 原子力発電所の分布地図 下 美浜原子力発電所、google 画像)

 1969年(昭和44年)8月8日、関西電力の美浜原子力発電所(美浜町、福井)で生み出された電気が大阪万博会場(吹田市、大阪)に送られました。この試験的な送電は、出力1万キロワットと小さいものでしたが、日本のエネルギーに新時代の到来をもたらす記念日となりました。

 現在、日本の総発電量の約3割は、核燃料(ウラン、プルトニウムなど)を用いる原子力発電によるものです。地球の温暖化が、化石燃料(石炭、石油など)を用いる火力発電が大きな要因となっているということで、これを減少させる対策として、原子力発電が注目されたことがあります。

 原子力発電では、火力発電の化石燃料の燃焼によって二酸化炭素や硫黄酸化物などの地球環境に悪影響を与える排ガスは生じないのですが、核燃料の中に核分裂によって生じた有害な放射性物質が蓄積されます。ということで、使用済みの核燃料をいかに安全に長時間管理するかという問題を抱えています

 天然原子炉とは、過去に自然に核分裂反応が起こっていたウラン鉱床のことで、1972年(昭和47年)、Francis Perrin(物理学者、フランス)が発見しました。天然原子炉が発見された場所は、オクロ(オートオゴウェ、ガボン、南アフリカ)にある3つの鉱床で、自律的な核分裂反応のあった場所が16ヵ所も見つかっています。約20億年ほど前、数十万年にわたって、平均で100kW相当の出力の反応が起きていたという。

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天然原子炉の場所と外観オクロ鉱山、ガボン共和国、南アフリカ、google画像)

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黒田和夫 (P.K.Kuroda1917~2001、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E5%92%8C%E5%A4%AB. 

 自然界で天然原子炉が形成される可能性は、1956年(昭和31年)、P. Kuroda(P、洗礼名のパウル、黒田和夫)が予言されていました。オクロで発見された条件は予想された条件に極めて近かったという。(Kuroda, P. K. (1956). “On the Nuclear Physical Stability of the Uranium Minerals”. Journal of Chemical Physics 25: 781–782; 1295–1296. )

黒田和夫博士を偲ぶ(名誉教授より)http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/27042/1/rgn33_1_7.pdf

○ 天然原子炉が20億年前のガボン共和国(アフリカ)のオクロ鉱山で稼働していた!

 その根拠は、自然界に存在するウランは、主に重さの違いから「ウラン235」と「ウラン238」の二種類があります。このうち臨界に達するのが235です。太陽系に存在する全てのウラン鉱石はほぼ238で構成され、235の比率はわずか0.72%です。このため自然界では通常、235の比率が低すぎて臨界には達しない。原子炉で用いるウラン燃料は、235の割合を人工的に2~5%にまで濃縮しています。

 地球化学者、黒田和夫博士(1917~2001)は、アメリカのアーカンソー大助教授時代の1956年(昭和31年)、天然ウランが自然界で臨界に達する「天然原子炉説」を発表しました。黒田博士が着目したのは、半減期の違いでした。ウラン235の半減期は約7億年とウラン238(約45億年)より短く、過去にさかのぼるほど鉱石中の比率が高くなります。約20億年前なら約3%となり、原子炉のウラン燃料中の濃度に近くなります。

 論文発表から16年後の1972年(昭和47年)、フランス原子力庁の調査で、オクロ・ウラン鉱床のウラン235の比率が0.44%まで減っていることが判明しました。そこからオクロでははるか昔に臨界に達していたことが導き出され、黒田説の正しさが証明されました。

 その後の研究で、オクロ天然原子炉は数十万年にわたって断続的に臨界に達していることが分かりました。ウラン鉱床に染み込んだ地下水は軽水炉と同様、核分裂を引き起こす中性子の減速材の役割を果たしていました。熱で水が蒸発すると反応が止まりますが、鉱床が冷えてまた地下水が流れ込むと再臨界に達することを繰り返しました。その間の総出力は百万キロワット級の原子炉5基を1年間フル稼働させたときに発する熱エネルギーに相当します。

北陸中日新聞: 20億年前のアフリカ 天然原子炉あった 日本人が存在主張 原発5基分の熱エネルギー、2013年(平成25年)11月4日(月)朝刊

 私が金沢大学理学部(城内キャンパス)に勤務していた頃、1973年(昭和48年)7月7日、天然原子炉を予言された黒田和夫教授(アーカンソー大学、USA)が日本化学会主催、北陸地区の講演会で来沢され、金沢大学工学部の秀峰会館(小立野、金沢)で「宇宙化学と私」という演題で講演されました。

 丁度、七夕の日と重なり、「カナダから メキシコかけて 天の川」の一句をご披露され、また、1956年(昭和31年)、約20億年前にはウラン鉱床で自然に核分裂が起こる「天然原子炉」があったという予想、その後、1972年(昭和47年)、南アフリカのオクロ鉱山で天然原子炉が発見された秘話など、懐かしく思い出されます。 

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 大木道則、大沢利昭、田中元治、千原秀昭編: 化学辞典、東京化学同人(1996): 太田次郎、山崎和夫編: ー物質とエネルギーの探求ー、高等学校、新編、理科総合A(改訂版)、啓林館(2005).

(参考資料) 原子爆弾(広島、長崎、google画像): http://images.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

原子力発電所(日本、google画像): http://images.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

オクロの天然原子炉(南アフリカ、google画像): http://images.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E3%82%AA%E3%82%AF%E3%83%AD%20%E5%A4%A9%E7%84%B6%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%82%89&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

(追加説明) ○ 原子爆弾は、原子核分裂の連鎖反応を利用し、狭い空間で瞬間的に大量の核分裂エネルギーを放出させる装置です。臨界量(連鎖反応に最低必要な量)以上の核分裂核分裂性物質10キログラムを使用、約1キログラムが核分裂し、TNT2万トン相当の威力を示しました。

○ 原爆と水爆

 1945年(昭和20年) 8月6日 B29が広島原子爆弾投下(死者約15万人)。9日 長崎に投下(死者約7万人)、のち「原爆ドーム」となる広島県物産陳列館を設計したのは、チェコの建築家、ヤン・レツル(1880~1925)であった。

 1946年(昭和21年) 7月1日 米国がビキニ環礁で大戦後初の原爆実験。

 1948年(昭和23年) 5月14日 イスラエル共和国建国宣言。5月15日 第1次中東戦争。

 1949年(昭和24年) 10月1日 中華人民共和国が成立。

 1952年(昭和27年) 2月26日 チャーチル英首相が英の原爆保有を公表。11月1日 米が太平洋のエニウェトク環礁で水爆実験。5月25日 米がネバダで原子砲実験。8月8日 マレンコフ・ソ連首相が水爆保有を公表。

 1954年(昭和29年) 3月1日 アメリカが太平洋ビキニ環礁で水爆実験。静岡県焼津の第5福竜丸が放射能被災。9月23日 無線長・久保山愛吉死亡。原水爆禁止署名が全国的規模で起きる。6月2日 ソ連で世界最初の原子力発電による送電が開始される。(5000キロワット)

 1955年(昭和30年) 2月17日 英が水爆開始を発表。3月16日 フランスが原爆製造開始を発表。8月6日 第1回原水爆禁止世界大会を広島で開催。

 1957年(昭和32年) 5月15日 英国がクリスマス島で初の水爆実験、第3の水爆保有国に。8月27日 茨城県東海村の原子力研究所で、米国型原子炉に「原子の火」ともる。9月19日 米国がネバダ州ラスベガスで初の原爆地下実験。

 1958年(昭和33年) 3月31日 ソ連が核実験の一方的中止を言明。8月22日 米英が条件つきで10月31日以降核実験の1年間停止を発表。9月30日 ソ連が核実験を再開。10月31日 核実験停止に関する米英ソ3国会議開催(~12月19日)。核実験停止交渉開始。

 1960年(昭和35年) 2月13日 フランスがサハラ砂漠で初の原爆実験。第4の核保有国に。

 1964年(昭和39年) 10月16日 中国が第1回原爆実験に成功。17日 日本政府が抗議の談話を発表。11月12日 米原潜シードランド号が佐世保に入港。18日 反対デモ、警官隊と衝突。14日 出港。 

戦後史年表 1926ー2006、朝日新聞社(2007)、より) 

○ 金沢大学 理学部化学教室 放射化学講座 開設のきっかけ

 1954年(昭和29年)3月、静岡県焼津港から全国の市場に発送された、太平洋ビキニ環礁での米国の水爆実験による被ばくマグロが6本、金沢の近江町市場でも入荷されました。その後、2本は金沢大学の研究に使われ、4本は野田山墓地の近くに埋められました。

 木羽敏泰教授(分析化学講座)らは、マグロのうろこを一枚ずつ塩酸に漬け、放射性物質を取り出す研究を不眠不休で取り組みました。この研究が認められ、1962年(昭和37年)、金沢大学に全国でもいち早く放射化学講座開設されることになりました。

近江町襲った「死の灰」恐怖、第五福竜丸事件から55年 被ばくマグロ 流通寸前(石川ニュース、北国新聞、2009.3.1):http://www.hokkoku.co.jp/_today/H20090301101.htm. 

いわゆる「原爆マグロ」に付着せる放射性物質について(木羽、大橋、柴田、水辺、JAPAN ANALIST、1954、pdf): https://www.jstage.jst.go.jp/article/bunsekikagaku1952/3/4/3_4_361/_pdf

○ 原子力発電は、原子炉で発生する熱を用いた発電です。天然ウラン黒鉛減速型、加圧水型、沸騰水型等の発電用原子炉の冷却材を熱交換器に導いて、できるだけ高温高圧の水蒸気を発生させ、これでタービン発電機を運転させます。つまり火力発電所のボイラを原子炉と熱交換器で置き換えたものに相当します。最初の原子力発電は、1954年(昭和29年)ソ連で成功(出力5000キロワット)、次いで英国で1956年(昭和31年)に発電(出力35000キロワット)を開始しました。

 日本では1957年(昭和32年)、9電力会社、電源開発会社、5原子力産業グループなどの出資で、日本原子力発電(株)を設立、原子力発電計画が発足しました。1960年(昭和35年)、東海発電所は、コールダーホール型原子炉により、日本最初の商業発電を開始、1967年(昭和42年)完成時の電気出力は166メガワットでした。敦賀発電所は、沸騰水型原子炉により、電気出力322メガワットで、1970年(昭和45年)に操業を開始しました。 東海発電所1967年日本初の商業用発電、1998年停止、23年間の解体、撤去工程予定):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80. 

○ 原子炉は、核燃料、制御棒、冷却剤、減速剤、反射材、遮へい材という材料から構成されています。近年、話題となっている高速(中性子)増殖炉は、プルトニウム239を燃料として使い、ブランケット部(冷却、核燃料生産、遮へいを担う装置)に置いたウラン238をプルトニウム239に核変換させるので、プルトニウム239を消費して発電しながら、同時に新しくプルトニウム239を増殖できる可能性があります。

〇 ニホニウム(Nh) 113番元素のニホニウムは、83番元素のビスマスに30番元素の亜鉛の原子核をぶつけることで、日本の理化学研究所(埼玉)ではじめてつくられた元素です。

ニホニウム(理化学研究所、ホームページ):http://www.riken.jp/pr/fun/113/

 

 

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