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2010年5月12日 (水)

小立野台地(金沢城址)の遺跡と寺院にまつわる歴史伝承、古代遺跡(発掘)、寺院(金沢御堂)、御城(金沢城)、坪野石(金沢城本丸跡、舟形手水鉢)、とは(2010.5.12)

   金沢城址は、犀川と浅野川に挟まれた金沢平野を一望できる小立野台地(こだつのだいち)の先端部にあります。このような地域は、原始時代(旧石器、縄文時代)、古代人の集落の立地に適していました。また、原始から古代(弥生・古墳時代)になると、農耕が始まり、金属(銅、鉄)器の使用、渡来人(朝鮮)文化も加わり、富と権力を握り集落を治める有力者(豪族)が生まれました。その頃の古墳は、当時の支配者、首長のです。

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小立野台地(こだつのだいち、金沢、石川、google画像) まちあるきの考古学(金沢): http://www.koutaro.name/.

(解説) 金沢城跡とその周辺域の発掘の時、広坂遺跡(金沢21世紀美術館)では、磨製石斧(縄文時代)、勾玉、車輪石(古墳時代)、布目瓦(広坂廃寺、勝興寺、氏寺?、奈良時代)、皇朝十二銭(奈良時代)、大手町遺跡(KKRホテル金沢)では、赤彩土器(弥生時代)などが出土しています。また、金沢城の本丸と御宮では、石塔(仏身陽刻、五輪塔の水輪、宝塔の笠、密教?、平安時代)が出土しています。

 しかしながら、中世(鎌倉・室町時代)以前の遺構や遺物は、予想外に少なく、金沢御堂(みどう)の創建と金沢城の築城の時、大掛かりな地形の造成工事が繰り返され、先人の生活の跡、古墳、氏寺、遺跡などが破壊されたと推定されています。

 金沢御堂の周辺地域は、もと石浦村、山崎村、木新保(きのしんぽ)村、今市村など石浦七ヶ村の地であり、農耕中心の農村地帯でしたが、後町(うしろちょう)、南町(みなみちょう)などの町ができ、酒、味噌、醤油の醸造業者、精米業者、鍛冶、鋳物師(いもじ)、金堀り(かなほり、金屋、かなや)など近住の人々が集まり、参詣者も増え、寺院の周囲に寺内町(じないまち、門前町)ができ、発展していきました。

 加賀一向一揆は、戦国時代、1488年(長享2年)~1580年(天正8年)、本願寺門徒(加賀国)の一揆組織(坊主、土豪、農民)が、守護家の内紛と加賀の内乱が故(もと)で、武力蜂起により高尾城(高尾町、金沢)の守護富樫政親を滅ぼし、100年近く自治を行った一揆です。

 加賀国は本願寺の領国と見なされ、加賀は「百姓の持ちたる国」(加賀一揆国)と呼ばれました。 これに対し、本願寺の蓮如から、御叱(おしか)りの御文(おふみ)が専光寺(せんこうじ、本町、金沢)に下されましたが、一人の門徒も破門された様子はなかったと言われています。

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蓮如(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%AE%E5%A6%82

 この頃の加賀には、蓮如(本願寺8世)の息子が加州3ヶ寺(若松本泉寺、波佐谷松岡寺、山田光教寺)にいて、法主代行として寺院や門徒を統率していました。また、1531年(天文5年)になって、一向一揆体制の内部で指導権をめぐっての争い、享禄の錯乱(大小一揆、一向一揆の内部分裂)が起こっています。

 また、一向一揆が各地(加賀、能登、越前、越中など)で起こったので、大坂本願寺は、証如(本願寺10世)の時、法主の権限強化を図ろうと教団の改革に着手し、加賀では、加州3ヶ寺を追放、代わって教団の中枢指令機関として、1546年(天文15年)、金沢御堂金沢坊舎、尾山御坊とも、金沢城本丸跡)を建て直轄政庁としました。

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本願寺金沢別院(西別院、本堂、笠市町、金沢、google画像)

金沢、加賀、七尾の寺院群(きまっし金沢、金沢観光情報): http://kimassi.net/ekimaejiin/higasibetuin.html

(解説) 金沢御堂は、大坂本願寺の御坊(別院)であったので、完成した坊舎には、大坂本願寺の証如から本尊、仏具が送られてきました。ここは、真宗のみならず加賀の百姓自治の中心(加賀一向一揆の中核組織)でした。これが、本願寺の西別院(西末寺、本願寺金沢別院、笠市町、金沢)と東別院(東末寺、真宗大谷派金沢別院、安江町、金沢)につながっています。

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金沢御堂遺構 極楽橋 船形手水鉢、金沢城本丸跡周辺、金沢) 

(解説) 金沢城の本丸跡周辺には、金沢御堂の遺構として、極楽橋、また、舟形の石の手水鉢などが残されています。当時、御坊に参詣する人々は、この橋から日本海に沈む夕日を拝み、極楽往生を願ったと言われています。

 金沢城跡 船形手水鉢は、金沢市南部産の坪野石製であることが、金沢大学の酒寄淳史教授(50才、地質学)の研究で分かりました。斜方輝石や斜長石、鉄チタン鉱物、黒曜石レンズ、ガラス質の組成を持った溶結凝灰岩であることも判明、KーAr(カリウムーアルゴン)法により、約2000万年前の火砕流によってできた岩で、金沢市坪野町で産出されたことも分かりました。さらに、坪野石の採掘禁止(止め石)は第3代藩主、前田年常(1593~1658)の時代からとの記録があり、この舟形手水鉢年常時代のものと考えられています。

K-Ar法(カリウム-アルゴン}法は、放射性カリウム(原子量40)は半減期(放射能が半分になる時間)12.5億年で崩壊してアルゴン(原子量40)に変わります。そこで、岩石中に残っているアルゴンを集めて年代を測定する方法です。(北陸中日新聞:金沢城跡 手水鉢は坪野石、2010年(平成22年)11月25日(木)朝刊より) 

 その後、1580年(天正8年)、織田信長の家来、柴田勝家の下、佐久間盛政らが金沢御堂を攻め、一向一揆勢の拠点を奪い取り、尾山城と名を改め、掘や土塁を築きました。しかし、本能寺の変、賤ヶ岳の戦いが起こり、金沢城は、豊臣(羽柴)秀吉の支配となり、1583年(天正11年)、秀吉の勧めにより前田利家が入城(金沢城と改名)しました。その後、加賀藩主、前田氏14代、約280余年間の政治、経済、文化の拠点となりました。 

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金沢城石川門搦手門、からめてもん、枡形門とも、金沢城本丸跡からの眺め、金沢)

(解説) 金沢城址は、明治時代、1871年(明治4年)、兵部省、翌年、陸軍省の所管となり、金沢城の建造物を破却して兵営が設置されました。第二次世界大戦後は、進駐軍の管轄を経て、1949年(昭和24年)以来、新制金沢大学のキャンパス(本部、法文学部、理学部、教養部)として利用され、石川門(搦め手門、からめてもん、裏門)は大学の正門となっていました。1994年(平成6年)9月、金沢大学は城内から約4kmの卯辰山の丘陵、角間の地に移転しました。

 その後、2001年(平成13年)9月に、金沢城の二の丸の菱櫓、五十間長屋、橋爪門など、また、2010年(平成22年)に、金沢城の正門と言われた河北門が復元されるなど、都市公園として整備され、金沢城公園として一般市民に開放されています。(金沢城公園(石川県): http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/金沢の歴史(歴史倶楽部): http://www.spacelan.ne.jp/~daiman/index.htm.)

(参考文献) 石川県の歴史散歩研究会: 石川県の歴史散歩、山川出版(1993); 永原慶二監修、石上英一ほか8名編: 岩波日本史事典、岩波書店(1999); 石川県教育委員会事務局文化財課、金沢城研究調査室編; よみがえる金沢城、450年の歴史を歩む、1、北国新聞社(2006)、同、今に残る魅力をさぐる、2、(2009)

(追加説明) 金沢城本丸跡 手水鉢は、金沢市南部産の坪野石製であることが金沢大学の酒寄教授の研究で明らかにされましたが、その使用例は、1657年(明暦3年)創建の小松天満宮にある十五重の塔(http://www.bairin.net/JapaneseHP/Yuisho/yuisho1.htm、金沢城趾の玉泉丸庭園に水を落とすV字形の石樋と周りの石組み、同城跡本丸の庭園の一部(池)と考えられる遺構から出た突起部のある石造物など、ごく限られています。これらは、 第3代藩主、前田年常(1593~1658)の意向でつくられたものという。(北陸中日新聞:金沢城跡 手水鉢は坪野石、2010年(平成22年)11月25日(木)朝刊より) 

 

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