« 小立野台地(金沢城址)の遺跡と寺院にまつわる歴史伝承、古代遺跡(発掘)、寺院(金沢御堂)、御城(金沢城)、坪野石(金沢城本丸跡、舟形手水鉢)、とは(2010.5.12) | トップページ | 日本茶にまつわる歴史伝承、夏も近づく八十八夜、緑茶(玉露、煎茶、番茶)、お茶の効能、お茶の歴史、とは(2010.5.19) »

2010年5月15日 (土)

金沢城の外庭(兼六園)にまつわる歴史伝承、蓮池庭(のち兼六園、松平楽翁、洛陽名園記)、日本三名園(特別名勝)、中国三名園、とは(2010.5.15)

  金沢城の東南の傾斜地に外庭が誕生したのは、1676年(延宝4年)、加賀藩主(5代)前田綱紀(まえだつなのり)、1643年(寛永20年)~1724年(享保9年)が、蓮池亭(れんちてい、別荘)、瓢池(ひさごいけ)などからなる蓮池庭を造った頃からで、正式な名はなく、蓮池のお庭と呼んでいました。

Imagesca4mdvbh

前田斉広(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E6%96%89%E5%BA%83

 江戸後期、文政(1818~1830年)頃、藩主(12代)前田斉広(なりなが)、1782年(天明2年)~1824年(文政7年)が、豪華な竹沢御殿(隠居所)、辰巳用水を取り入れた曲水を造り、各種の石橋を架け、本格的な造園を行い、松平定信(白河楽翁)、1758年(宝暦8年)~1829年(文政12年)に、庭園の名を兼六園と命名してもらいました。

 その後、藩主(13代)前田斉泰(なりやす)、1811年(文化8年)~1884年(明治17年)が、父の竹沢御殿を、完成して8年を待たず、順次取り崩しながら、霞ヶ池の掘り広げ、護岸、千歳台の築庭など、また、蓮池庭との境を取り除くなど、現在の池泉廻遊式庭園に近い大庭園を完成させました。

兼六園虹橋、にじはし、徽軫燈籠、ことじとうろう、霞ヶ池、兼六町、金沢、google画像)

(解説) 徽軫燈籠は、虹橋を琴に見立て(琴橋)、燈籠の足が、琴の糸を支える琴柱(ことじ)に似ているのでその名が付いたと言われています。燈籠の右足が短い不均整さが、この燈籠の美しさを引き出しています。ところが、幕末に近い文久(1861~1863年)頃に描かれた兼六園絵巻では、燈籠の両方とも同じ長さで、右足も水につかっています。

 ということで、明治になり、何かの理由で倒れて燈籠の片足が折れたのだろうと言われています。その証拠に、燈籠の折れた右足の下半分はすぐそばに置いてあります。その後、徽軫燈籠は7回ほど心ない人に壊され、現在の燈籠は京都の石屋に依頼して造ってもらったものだそうです。 初代の燈籠は、藩主(12代)前田斉広に木谷藤右衛門(8代、生没不明、北前船主、豪商、粟崎、加賀、越前出身?)が献上したものと言われ、今は完全に修復され、兼六園管理事務所の倉庫に保管されています。

Images3

兼六園(扁額、松平定信(白河楽翁)書、石川県伝統産業工芸館、常設展示、google画像)

250pxmatsudaira_sadanobu_21

松平定信(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E4%BF%A1

(解説) 江戸において、加賀藩主(12代)前田斉広から竹沢御殿(約1万3000㎡の隠居所)にある庭の命名を頼まれた白川楽翁、こと松平定信は、広々としている(宏大)、けれども奥深さ(幽邃)があり、人の手が加わって(人力)いても、古びた趣(蒼古)があり、池や滝(水泉)がたくさんあるのに、遠くまで眺める(眺望)ことができる、と六勝を兼ね備えた洛陽(中国)の名園、湖園(こえん)に因んで、兼六園と命名しました。そして、 1822年(文政5年)9月、松平定信から加賀藩へ、自ら筆をとった兼六園の扁額が届きました。

 出典は、北宋(960~1127年)頃、済南の詩人、李格非(りかくひ)撰による洛陽名園記(らくようめいえんき)です。これは、洛陽にあった19の庭園を解説したのものですが、松平定信が引用したのは、湖園の項の冒頭を飾る以下の文章です

 洛人云 園圃之勝 不能相兼者六 務宏大者少幽邃 人力勝者少蒼古 多水泉者無眺望 兼此六者 惟湖園而巳 (田圃の勝 相兼ねる能わざるは六 宏大を務るは幽邃少なし 人力勝るは蒼古少なし 水泉多きは眺望難し 此の六を兼ねるは 惟湖園のみ)

(解説) 優れた庭園にするために兼ねられないものが6つある。広々(宏大)とした様子を表現しようとすると、静かで奥深い風情(幽邃)が少なくなってしまう。人工的なもの(人力)が勝っていれば、古びた趣き(蒼古)が少なくなる。水の流れや池、滝(水泉)を多くすると遠くを眺めること(眺望)ができない。これを兼ね備えているのは湖園だけである。つまり兼六園という名前には、中国の名園、湖園と同じように、宏大、幽邃、人力、蒼古、水泉、眺望、の6つを兼ね備えた優れた名園との意味が込められています。

 兼六園、偕楽園、後楽園が、日本三公園(名園?)と呼ばれるようになった根拠として、1904年(明治37年)の尋常小学読本7で、地方で名高い公園としてこの3つの公園があげられ、1910年(明治43年)の高等小学校教科書巻1に次のような紹介があります。また、栗林公園(高松、香川)は別格の優れた公園であると紹介されています。

 我ガ国ニテ風致ノ美ヲ以テ世ニ聞エタルハ、水戸ノ偕楽園、金澤ノ兼六園、岡山ノ後楽園ニシシテ、之ヲ日本ノ三公園ト稱ス。然レドモ高松ノ栗林公園ハ木石ノ雅趣却ツテ此ノ三公園ニ優レリ。

 偕楽園は、1842年(天保13年)、水戸藩主、徳川斉昭の命により造園、梅(もと約200種、1万本)の名所、常磐公園とも、園名は士民と偕(とも)に楽しむ意味です。後楽園は、1686年(貞享3年)、岡山藩主、池田綱政の命により造園、もと菜園場、園名は、(士はまさに)天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ(先憂後楽)意味です。

 兼六園(約10万㎡、金沢市、石川)、偕楽園(約13万8000㎡、水戸市、茨城)、後楽園(13万4000㎡、岡山市、岡山)は、いずれもスケールの大きな大名庭園で、日本三名園と呼ばれています。

 1985年(昭和60年)3月20日、文化財保護法により、これら三名園栗林公園は、特別名勝に指定されました。現在、名勝指定庭園は、全国で150ほどありますが、そのうち特別名勝庭園は23(岩手1、東京3、茨城1、京都13、奈良1、石川1、福井1、岡山1、香川1)ほどで、これらの庭園は、名勝庭園の中でも、特に重要なものと評価されています。(国指定日本庭園、特別名勝(外部リンク、いいね金沢、あすわ交通): http://www6.nsk.ne.jp/asuwataxi/tokubetu.meisyou23.htm

(参考文献) 下郷稔: 兼六園歳時記、能登印刷(1993); 株式会社橋本確文堂企画出版室編: 特別名勝兼六園ーその歴史と文化ー、橋本確文堂(1997); 下郷稔: 兼六園の今昔ー加賀百万石の庭-、中日新聞社(1999); .永原慶二監修、石上英一ほか8名編: 岩波日本史事典、岩波書店(1999); 石川県教育委員会事務局文化財課、金沢城研究調査室編; よみがえる金沢城、450年の歴史を歩む、1、北国新聞社(2006); 世界のふしぎ雑学研究会編: 日本の三大なんでも事典、三笠書房(2008).

(参考資料) ○ 日本三名園(兼六園、偕楽園、後楽園)、別格の栗林公園: 兼六園(金沢市、石川、google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%85%BC%E5%85%AD%E5%9C%92&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi; 兼六園(金沢市、石川): http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kenrokuen/; 偕楽園(水戸市、茨城): http://www.koen.pref.ibaraki.jp/park/kairakuen01.html; 後楽園(岡山市、岡山): http://www.okayama-korakuen.jp/; 栗林公園(高松市、香川): http://www.pref.kagawa.jp/ritsurin/

 中国三名園(頤和園、拙政園、豫園): 中国の三名園は、頤和園(いわえん、宮廷庭園、北京)、拙政園(せっせいえん、官僚庭園、蘇州)、豫園(よえん、金持庭園、上海 )と言われています。その一つ、頤和園は、西太后(せいたいこう)お気に入りの庭園ですが、兼六園の約29倍の広さを持つというスケールの大きさに驚きました。頤和園(北京、中国、google画像); http://www.joyphoto.com/japanese/abroad/2002beijing/iwaen1.html拙政園(蘇州、中国、google画像): http://www.joyphoto.com/japanese/abroad/2003shanghai/sessei.html; 豫園(上海、中国、google画像): http://sh.explore.ne.jp/travel/yuyuan.php

(追加説明) ○ 松平定信(まつだいらさだのぶ)、1758年(宝暦8年)~1829年(文政12年)は、江戸後期の白河(福島)藩主、幕府老中、雅号楽翁、上総介、越中守、御三卿田安宗武の7男、白河藩主松平(久松)定邦の養嗣となり、1783年(天明3年)就封しました。天明飢饉での藩政が評価されて、1787年(天明7年)老中となり、幕府の寛政改革を断行しました。著述も多く、多岐にわたり、藩政で白河風土記を編纂しました。また、南湖(白河、福島)、浴恩園(築地、江戸)、六園(大塚、江戸)、海荘(深川入船、江戸)など積極的に庭造りをしました。

○ 洛陽(らくよう)は、中国河南省北部の都市で、北に邙山(ぼうさん)を負い、南に黄河の支流落水を控えた形勝の地です。長安と並び古くから国都の置かれた地で、前11世紀、周の成王が都を営み、以後、後漢、曹魏、西晋、北魏、後唐の都となりました。特に北魏の時代には、民戸11万を数え、1367寺が建設され繁栄を極めました。現在も、白馬寺、南門外の天津橋、南方13kmの竜門石窟など名勝古蹟が多いです。 

○ 第5代藩主前田綱紀(まえだつなのり、松雲公、1643~1724)は、3歳のとき父を亡くし、祖父利常の後見のもと藩主になりました。特に書物の収集については、新井白石(あらいはくせき、1657~1841、江戸時代中期の儒学者)に「加州は天下の書府なり」と言わしめたという。

 綱紀は、その著「桑華書志(そうかしょし)」の中で、祖父3代利常(としつね)の蔵書を「小松蔵書」、父4代光高(みつたか)の蔵書を「金沢蔵書」、自分の蔵書を「尊経閣(そんけいかく)蔵書」と称しており、現在の尊経閣文庫(財団法人前田育徳会の別称)の由来となっています。 尊経閣文庫(ウィキペディア):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A%E7%B5%8C%E9%96%A3%E6%96%87%E5%BA%AB尊経閣文庫前田育徳会 : http://www.zenbi.jp/network/maeda.htm

 

« 小立野台地(金沢城址)の遺跡と寺院にまつわる歴史伝承、古代遺跡(発掘)、寺院(金沢御堂)、御城(金沢城)、坪野石(金沢城本丸跡、舟形手水鉢)、とは(2010.5.12) | トップページ | 日本茶にまつわる歴史伝承、夏も近づく八十八夜、緑茶(玉露、煎茶、番茶)、お茶の効能、お茶の歴史、とは(2010.5.19) »

● 造園(庭園の起源、歴史、日本三名園、中国三名園)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1802629/48335250

この記事へのトラックバック一覧です: 金沢城の外庭(兼六園)にまつわる歴史伝承、蓮池庭(のち兼六園、松平楽翁、洛陽名園記)、日本三名園(特別名勝)、中国三名園、とは(2010.5.15):

« 小立野台地(金沢城址)の遺跡と寺院にまつわる歴史伝承、古代遺跡(発掘)、寺院(金沢御堂)、御城(金沢城)、坪野石(金沢城本丸跡、舟形手水鉢)、とは(2010.5.12) | トップページ | 日本茶にまつわる歴史伝承、夏も近づく八十八夜、緑茶(玉露、煎茶、番茶)、お茶の効能、お茶の歴史、とは(2010.5.19) »

2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

カテゴリー

フォト

アクセス解析

無料ブログはココログ