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2010年5月 2日 (日)

金毘羅さん(讃岐、香川)にまつわる歴史伝承、金毘羅信仰(金毘羅大権現)、塩飽衆(北前型弁才船)、とは(2010.5.2)

  讃岐(さぬき、香川)と言えば、琴平(ことひら)の金毘羅(こんぴら)さん、屋島(やしま)の古戦場(源平合戦、瓦なげ)、高松(たかまつ)の栗林公園(りつりんこうえん)が目に浮かびます。これらの名所、旧跡は、私が小学6年生(松島、徳島)の修学旅行(1泊2日)ではじめて訪れたところです。なかでも、金毘羅宮(こんぴらぐう、金刀比羅宮とも)の社殿(標高251m)まで、785段の石段があり、お参りの人々も多く、修学旅行の生徒は、ほとんど旅館の近くの写真館の中で、大きな金毘羅さんの絵を背景に記念写真を撮りました。

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金毘羅宮本殿金刀比羅宮本殿とも、琴平、ことひら、香川、google画像)

(解説) 江戸時代、東国はじめ大阪など畿内から、讃州金比羅船と染め出してある船に乗った参詣者は、3~5泊後に丸亀(まるがめ)港に上陸し、丸亀街道(約12km)を通って金刀比羅宮(ことひらぐう、琴平町)にお参りしました。また、讃岐の中心港は多度津(たどつ)であったので、九州など西国から金毘羅船に乗った人々は、多度津に上陸し、多度津街道をたどり、金比羅さんにお参りしました。

 四国の人々は、高松(香川)、阿波(徳島)、伊予(愛媛)、土佐(高知)の各藩の街道を通って、金比羅参りをしました。また、参拝者の便をはかって、各々の街道には、一里塚や道標、丁石、燈籠などが設置されました。現在、琴電の琴平駅の横に建っている金比羅高燈籠は、幕末に建てられ、瀬戸内海の船の燈台の役目も果たしました。

 金毘羅船々 追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ 回れば四国は 讃州那珂(なか)の郡(ごおり) 象頭山(ぞうずさん)金毘羅大権現 も一度回って  金毘羅船々 追風に帆かけて シュラシュシュシュ  

 これは、江戸時代の中期から現在まで歌い続けられている有名な民謡(お座敷唄)です。大阪の民衆の中から自然に歌い出されと言われていますが、大阪から金毘羅船に乗って、金毘羅さんへお参りする人々の願いでした。特に、各地に金毘羅参詣の代参請が生まれ、小祠が勧進され、全国的な信仰を集めるようになりました。金刀比羅宮の境内には、江戸の請中などの奉納による燈籠が林立しています。

 讃岐の象頭山は、古くから神山として崇敬され、瀬戸内海を航行する舟人たちの目標になっていました。この山に金毘羅が垂迹(すいじゃく、神仏として現れる)して金毘羅大権現として祭られるようになったと伝えられています。

 元来、この地には、松尾寺(本尊、釈迦、真言宗)という寺院があり、その守護神として薬師十二神将(じゅうにしんしょう)中の金比羅神将(こんぴらしんしょう)が勧進(かんじん)されましたが、本尊をしのいで信仰の対象となり、さらに神仏習合(しんぶつしゅうごう)の思想の発展によって、大物主神(おおものぬしのかみ)になった(神道説)と言われています。

 金毘羅は、ガンジス河(インド)に住む鰐(ワニ)を神格化した水神、サンスクリット語のクンビーラを音訳したのが語源です。金比羅は水神であるため、農業や航海の守護神として信仰されてきましたが、江戸時代の中頃より、さらに広く生業の神として、また病気や災難よけの神として信仰されるようになりました。

 琴平町(ことひらちょう)は、丸亀平野南端の象頭山麓に位置しますが、金毘羅信仰が広まった江戸中期以降、山麓一帯には土産物店や旅籠(はたご)、色街(いろまち)、富籤(とみくじ)興行、歌舞伎芝居小屋など2000余の家が軒を連ね、金毘羅宮の門前町として発達しました。

 讃岐の歴代高松藩主(12万石、生駒家、17万石、松平家)は、金比羅を崇敬し寺領を寄進しました。また、1648年(慶安元年)には、徳川幕府は朱印状を下して天領(てんりょう、幕府の直轄領)とし、1656年(明暦2年)には、讃州路象頭山縁起を奉納しました。このような治外法権的な保護のもとに、金比羅門前町は、信仰の聖地と遊楽の両面が結びつき発展しました。

 明治時代になると、丸亀、多度津、琴平の間に鉄道が開通し、参詣者のための電車網の整備が進み、讃岐の電車は琴平に通ずる、とまで言われました。近年は、毎年春になると、参道近くの重要文化財、旧金毘羅大芝居を舞台に、江戸情緒をたたえた、四国こんぴら歌舞伎大芝居が上演され、観光客の人気を集めています。

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金毘羅信仰を全国に広めた塩飽衆 塩飽衆の本拠地、丸亀沖の本島、塩飽諸島 北前型弁才船、北前船、菱垣廻船、樽廻船とも、1357石積、八幡丸、google画像)

(解説) 金毘羅信仰を全国に広めたのは、金比羅を信仰した塩飽(しわく)の船乗りと言われています。江戸時代、丸亀沖の本島(ほんじま)、塩飽諸島に住む塩飽衆(海賊の子孫?)は、金毘羅の旗を押し立てた廻船により、全国の海へ乗り出しました。ここでは、徳川家康、1542年(天文11年)~1616年(元和2年)から島を領知させる朱印状が与えられ、人名(にんみょう、御用船方)による自治が行われました。その昔、織田信長、1534年(天文3年)~1582年(天正10年)の本願寺攻めに加勢し、また、豊臣秀吉、1537年(天文6年)~1598年(慶長3年)の小田原攻め、朝鮮出兵にも功を重ね、秀吉は彼らに朱印状を与え、人名(御用船方、650人)として、塩飽諸島を統治させたという。

 西廻りの航路の開拓者、河村瑞賢(かわむらずいけん)、1618年(元和4年)~1699年(元禄12年)が、最も強く推奨したのが塩飽廻船で、日本各地の御城米(ごじょうまい)ばかりでなく、津軽藩の材木輸送、松前(まつまえ、北海道)に行く下りが米、讃岐三白(塩、砂糖、綿)などを運び、大阪に行く登りには海産物(昆布、魚肥のほしか(干鰯)、しめ鰊)など廻送していました。北海道産の昆布は、真昆布、利尻昆布、三石昆布などが上質とされました。

 塩飽の船は、逆風でも帆走できる弁才船で、もともと瀬戸内独特の舟型ですが、日本海の航路では、頑丈な構造に改良され、北前型弁才船(北前船、菱垣廻船、樽廻船)と呼ばれていました。全盛期の元禄(1688~1704年)の頃、塩飽廻船は200艘(せき)もあり、船員は3000人以上で、本島(丸亀)の北東部にある笠島集落(重要伝統的建造物群保存地区)には、漆喰塗りの白壁や、格子窓の建物が並んでいます。

 しかし、1721年(京保5年)に、御城米輸送が廻船問屋の入札請負に変わって以降、塩飽廻船は衰退し始めました。大名の年貢(御蔵、おくら)米輸送に従事した各地の廻船が、実力をつけてきたためです。塩飽衆の活躍として、江戸末期、1860年(万延元年)、勝海舟(かつかいしゅう)、1823年(文政6年)~1899年(明治32年)が、日米修好通商条約の条約批准書を交換するため、随行艦の咸臨丸(かんりんまる)に乗り太平洋を横断してアメリカへ渡航した時、水夫50人中の35人が塩飽衆であったと言われています。

 また、多度津藩(1万石、京極家)は、1694年(元禄7年)、丸亀藩(17万石、生駒家、5万石、山崎家、5万石、京極家)から分家した支藩ですが、巨費を投じて港を整備し、北前船も碇泊する港町として発展しました。高松藩、丸亀藩の産物も多度津で大船に積み替えられました。

 多度津町(香川)は、瀬戸内海の行政区として、塩飽諸島の高見島、佐柳島を領有しています。また、1889年(明治22年)5月、多度津を基点に、四国ではじめて丸亀、多度津、善通寺、琴平間の15.5kmに鉄道が開通、陸蒸気(おかじょうき)が走り、四国鉄道(国鉄、JR)の発祥の地として知られています。

 丸亀藩は、1871年(明治4年)の廃藩置県により丸亀県、その後、倉敷県(岡山)、名東県(徳島)、香川県へとめまぐるしい編入を経て、1899年(明治32年)4月1日、丸亀市(香川)となり、2005年(平成17年)3月22日、丸亀市、綾歌町、飯山町が合併、新しい丸亀市(香川)として発展しています。

(参考文献) 山本大、田中歳雄: 四国の風土と歴史、山川出版社(1977年); 香川県の歴史散歩編集委員会編: 香川県の歴史散歩、山川出版社(1996); 加藤貞仁(文)、鐙啓記(写真): 北前船、寄港と交易の物語、無明舎出版(2002).

(参考資料) 琴平町(観光スポット、琴平、香川): http://shikoku-net.co.jp/kagawa/kankou/nakatadogun/kotohirakankou.htm

金刀比羅宮(google画像、琴平、香川): http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/kagawa/nakatadogun/kotohiragu/kotohiragu.html

金比羅歌舞伎の町(伊藤一男、google画像): http://homepage3.nifty.com/kazuophtogallery/konpila.html

丸亀市(観光情報、塩飽諸島、本島、丸亀、香川): http://www.city.marugame.kagawa.jp/sightseeing/spot/09/01.html

北前型弁才船(google画像、塩飽、多度津、香川): http://images.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%8C%97%E5%89%8D%E5%9E%8B%E5%BC%81%E6%89%8D%E8%88%B9&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi

屋島の古戦場(源平屋島合戦、史跡ガイド、高松市観光振興協会): http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kankou/genpei/index.html

栗林公園(ウェブサイト、香川県): http://www.pref.kagawa.jp/ritsurin/. 

 

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