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2010年5月25日 (火)

阿波の山(眉山)にまつわる歴史伝承、眉山の名の由来(万葉歌)、眉山の眺め(山頂、吉野川北岸)、とは(2010.5.25)

 眉山(びざん、まゆやま)は、徳島市のシンボルで、標高279m、東西約6.5km、南北約3kmの山域を持ち、大滝山滝の山)を中心に、西の三島山諏訪山、佐古山、東は勢見山などからなっています。徳島の市街は、吉野川三角州上に展開しています。

 眉山名前は、遙かなる阿波国の方角に見える山影を望み、眉(まゆ)のごと 雲居に見ゆる 阿波の山 かけて漕(こ)ぐ舟 泊しらずも、との詠歌(万葉集、巻6、998)に由来すると言われています。その意味は、眉のように遠い空の彼方に見える阿波の山、その方にかけて漕いでいる舟の泊まるところは、どこだろう、というものです。

 この歌は、聖武天皇(第45代)、701年(大宝元年)~756年(天平勝宝8年)が、734年(天平6年)3月に、難波の宮行幸された時の歌六首のうちの一首で、隋l行した船王(ふなのおおきみ、生没年未詳、淳仁天皇(第47代)の兄)が詠んだものです。

  眉山呼び名については、諸説あり、1724年(京保9年)4月、徳島藩(第6代世嗣、早世、歌人)、蜂須賀吉武(はちすかよしたけ)、1691年(元禄4年)~1725年(享保10年)が、西の丸の造営が終わったので、京都から歌人、有賀長伯(あるがちょうはく)、1661年(寛文元年)~1737年(元文2年)を徳島城内に招いて歌会を催しました。この時、長伯が、眉山の霞と題して、立春の みどりをこめて 佐保姫の 粧ひふかく 霧む山まゆ、と詠んだのが最初と言う。

 藩医、漢詩人の七條寿庵が、1728年(享保13年)、阿波十ヶ所参りをして、みちの記を書いて、船王の歌から眉山と命名した、と地元では伝えられています。寿庵は、眉のごと雲間に見ゆる、とは遠山を汎称し、一山をさすにあらざるなり、と述べています。

 が、1815年(文化12年)、徳島藩が、阿波志を編集した時には、まだその山は富田山となっていました。江戸時代、庶民には眉山はなじみうすく、富田佐古と呼んでいました。

  ということで、一般に眉山と呼ばれるようになったのは、文政年間(1818~1830年)以降と考えられています。

 明治中頃、1895年(明治28年)には、小学校教科書地誌に、眉山の地名が表れ一般化しました。(徳島市編纂室編纂委員、吉益譲氏より)

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眉山の山頂から徳島市街地と吉野川の河口域を遠望中央の緑の小高い山は城山、徳島城址、北方のその向こうには吉野川、小さく吉野川橋、徳島市、google画像)

 眉山山頂へは、ロープウエーで6分、ほかに約4kmのパークウェーもあります。山頂からの眺望がすばらしく、眼下に徳島市街が広がり、晴れた日に淡路島や和歌山の山が見渡せます。

 山頂一帯茂助ヶ原と呼ぶ)、周辺には、放送局のテレビ塔や戦没者慰霊の塔パコダ、徳島人として生きたポルトガルの外交官、文豪、モラエス、 1854年(安政元年)~1929年(昭和4年)の記念館、宗教家、社会運動家、平和運動家の先駆者、賀川豊彦、1888年(明治21年)~1960年(昭和35年)の碑、展望休憩所、保養施設などがあります。

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吉野川の河口左岸から眺める眉(まゆ)のような山容の眉山の橋は吉野川橋、1071m、吉野本町(北岸)から応神町(南岸)、県道39号、徳島鳴門線、徳島市、google画像)

 眉山を遠望するには、吉野川(四国三郎とも)の河口左岸(北岸)からに限る、と言われています。ここからは、南方の徳島市街地の向こうに、やさしい山容の眉山が眉のように横たわっています。

 私の郷里の家(引野、上板)は、阿讃山脈の南麓の斜面の平坦地の高台にあります。そこからは、西から東に流れる吉野川を眼下に、さらに南の四国山脈の東南端に、眉山を遠望することができます。

 私が小学生の頃、小学校の教師をしていた母親が徳島県教育会館(徳島城址東隣)に用事があった時、鍛治屋原から徳島まで、各駅停車の列車(国鉄)で1時間ほどでしたが、連れて行ってもらい、眉山を散策しました。

 また、1972年(昭和47年)4月頃、ご縁があって家内(小寺尊子、佐古)とはじめて訪れたのも眉山で、満開の桜と山頂からの眺めが印象に残っています。

(参考文献) 万葉の舞台(新聞記事): 阿波の山、ただ一首の歌から命名、朝日新聞、朝刊、1987年(昭和62年)7月24日(金); (財)とくしま地域政策研究所編: 四国のいのち、吉野川事典、自然/歴史/文化、農文協(1999).

(参考資料) 眉山頂上(眉山ロープウェー、徳島): http://www.awaodori-kaikan.jp/bizan-ropeway/1facilities/

(追加説明) ○ 船王(ふなのおおきみ)は、舎人親王(とねりしんのう、676年(天武4年) ~735年(天平7年)の子、淳仁天皇(第47代)の兄、727年(神亀4年)正月に無位から従四位下に、743年(天平15年)正月、従四位上に、やがて759年(天平宝字3年)親王となり、6年に二品に進んだが、同8年10月、藤原仲磨の乱に連座して隠岐に流されました。

○ 眉山山頂には眉山公園があり、また、山麓には史跡(大滝山持明院建治寺、湧き水の錦竜水を管理する町水番所、滝水御番跡など)があります。

 眉山公園の開発は、1892年(明治25年)に始まると言われ、大正時代(1912~1925年)に有志で眉山公園保勝会ができたりして、次第に整備拡充されました。

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犬養孝(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E9%A4%8A%E5%AD%9D

 1983年(昭和58年)には、山頂に万葉学者、犬養孝氏、1907年(明治40年)~1998年(平成10年)の筆になる船王の歌の原文の歌碑が建てられ、当時の市長が副碑を建立しました。 

○ 国鉄鍛治屋原線は鍛治屋原、神宅、羅漢、犬伏、板西まで、ここから高徳線に乗り換え、板西、板東、池の谷、勝瑞、吉成、佐古、徳島と各駅に停車しました。また、撫養、鳴門に行く時には、池の谷で徳島発の鳴門行きに乗り換えました。

 鍛治屋原線は、1972年(昭和47年)1月15日、赤字路線ということで廃線となり、列車が走っていた軌道は、自動車道に生まれ変わっています。

○ 1959年(昭和34年)頃、徳島県教育会館(徳島城址東隣)で、小柄でしたが、声は大きく、はっきりした口調の、金沢治(かなざわおさめ、教師、歌人、方言、民俗学研究、郷土史家)先生の国文学の講義を受けたことがあります。1981年(昭和56年)「これ以上老醜をさらしたくない」との遺書を残し、謎の自殺を遂げた。享年82才とのこと、ご冥福をお祈りする次第です。(財)とくしま地域政策研究所編: 四国のいのち、吉野川事典、自然/歴史/文化、p.66~67、金沢治の歌碑、農文協(1999)より.

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