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2010年5月の9件の記事

2010年5月29日 (土)

五百羅漢さん(阿波、德島)にまつわる歴史伝承、五百羅漢さん(小乗仏教)、羅漢槙(生垣)、とは(2010.5.29)

   五百羅漢(ごひゃくらかん)さんと言えば、四国八十八ヶ所霊場、地蔵寺(じぞうじ、5番札所、真言宗、羅漢寺とも)の奥の院羅漢堂の仏さんのことです。私が小学生の頃に遠足に行ったところで、どこかで見たような顔の仏さんがたくさん立ち並んでいたのを覚えています。

 黒谷(板野、德島)にある大日寺(だいにちじ、4番札所、真言宗)の南の地蔵寺のあるところの地名は、羅漢といいます。本堂の裏のもと寺があったところを、江戸時代の中頃に地ならしをして五百羅漢を安置して奥の院としました。

 羅漢堂では、正面に釈迦如来、右手にはお大師さん、左手に弥勒さんが祭られています。弥勒さんはお釈迦さんが亡くなって56億7000万年たってからこの世に救済に現れる仏さんであり、今は中間の時期なので、その間は羅漢さんに救ってもらおうという意味です。

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第5番地蔵寺 奥の院 五百羅漢堂内部(羅漢、板野、google画像)

(解説) 羅漢は阿羅漢(あらかん)の略で、煩悩をすべて断滅して最高の境地に達した人です。狭義には小乗仏教の理想の仏です。お釈迦さんの五百人のお弟子さんは、お釈迦さんから、お前は覚(さと)った、ということで、授記(じゅき)という覚りの許可状のようなものをもらって羅漢になりました。 ということで、釈迦崇拝が五百羅漢の崇拝になっています。

 ところが、一般民衆は五百の菩薩の格好をした顔がおもしろいので、亡くなった人の面影を羅漢さんの中に探すという信仰の方に変わって行きました。地蔵寺奥の院の五百羅漢さんでも、亡くなった人の供養にお参りするようです。

 ところで、生垣(いけがき)に使う槙(マキ)には、羅漢さんとどこか似た、ラカンマキ(羅漢槙)と呼ばれるマキ科の常緑小高木があります。

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ラカンマキ(羅漢槙、上 羅漢槙の実、 下 羅漢槙の葉、google画像)

(解説) ラカンマキ(羅漢槙)は中国原産と言われています。イヌマキの変種で、イヌマキより枝が多く、葉は密生して短く、幅狭く、高さは5m内外です。

 雌雄異株で、実の形が僧侶になる前の羅漢さんに似ているところから、羅漢槙の名が付きました。また、その葉の形が、衣を着た羅漢さんとよく似ていることにも由来しています。種子は楕円形、青緑色で、赤くなったところは、甘く、おいしいです。私は生家(引野、板野)の槙の実を食べたことがあります。槙は、建材、器具材、桶(おけ)などにも使われています。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 五来重: 四国遍路の寺、下、p.49、地蔵寺、五百羅漢は釈迦信仰から、角川ソフィア文庫(2009).

(参考資料) 地蔵寺 五百羅漢(板野、德島):  http://www41.tok2.com/home/kanihei5/tokusima-jizoji.html

四国霊場、奥の院物語(四十八ヶ所を紹、川東和夫): http://www.fmkagawa.co.jp/staff/ohenro/okunoin0.htm

ラカンマキ(槙の実、植物図鑑、google画像): http://eco.goo.ne.jp/nature/plant/data/data264.html

ラカンマキ(羅漢槙、槙の実、生垣、google画像)http://had0.big.ous.ac.jp/plantsdic/gymnospermae/podocarpaceae/rakanmaki/rakanmaki.htm

(追加説明) ○ 大乗仏教は、紀元前後頃からインドに起こった改革派の仏教です。従来の部派仏教が出家者中心、自利中心であったのを小乗仏教として批判し、それに対し、自分たちを菩薩と呼んで、在家者を重視し、利他中心の立場をとりました。中国、日本、チベットなどの北方仏教は、大乗仏教の流れを受けています。

○ 大乗仏教の創始者、龍樹(りゅうじゅ)は、釈迦仏教の伝統を引き、山林に引きこもって悟りを開こうとする釈迦の弟子たちを声聞(しょうもん)、縁覚(えんかく)とよび、その教えを小さな乗り物の仏教、小乗仏教といい、苦しめる大衆の中に飛び込んで大衆を救う人間、すなわち菩薩(ぼさつ)の教えを大きな乗り物の仏教、大乗仏教とよんだ。

 は、人生を全面的に肯定する有の立場でも、それを全面的に否定する無の立場でもなく、有も無も超えた空の立場に立てと説く。それは、死の影の濃い釈迦仏教に生の歓びを与える教えであったと私は思う。人生を肯定する大乗仏教から武力肯定の思想が生まれたのは当然であろう。日蓮は、立正安国論で、涅槃経の中の言葉を肯定的に引用し、不殺生戒を否定している。(梅原猛思うままに武力肯定した大乗仏教、戦争は人間の業か 7,2010年(平成22年)6月7日(月)、北陸中日新聞、夕刊、より)

 

2010年5月26日 (水)

新緑の季節、わが家(桜田、金沢)から眺める新しい石川県庁舎(鞍月、金沢)、犀川の新緑の風景(2010.5.26)

  石川県は、北陸地方の中央に位置し、東は富山県、岐阜県に、南は福井県に接し、北は能登半島となっています。地形は、南西から北東に向かって細長くなっています。

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石川県庁舎中央の一番高い建物は行政庁舎(19階)、左側は、議会庁舎(4階)、右側は、警察本部庁舎(7階)、手前に見える高架橋は、北陸自動車道、桜田、金沢、2010年5月26日撮影

(解説) 石川県庁舎は、2003年(平成15年)1月に、金沢城下の中心地(金沢市広坂2丁目1番1号)から現在の場所(金沢市鞍月1丁目1番地)に移転しました。人にも環境にもやさしく、災害にも強い、議会庁舎(4階)、行政庁舎(19階)、警察本部庁舎(7階)です。(石川県のホームページhttp://www.pref.ishikawa.jp/.)

  石川県県名については、同名の郡名にもとづくものです。1872年(明治5年)2月、県庁が金沢から美川(石川郡)に移った時、金沢県が石川県と改名されました。翌年1月、県庁が再び金沢に復帰しましたが、県名はそのまま継承され、現在に至っています。

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わが家からの眺め 左側の一番高い建物はホテル日航金沢(金沢駅前)、その背後は兼六園の展望台の向かいの卯辰山、下 日本海に向かって蛇行して流れる犀川、中央の一番高い白い建物は、北国新聞本社、桜田、金沢、2010年5月26日撮影)

 ホテル日航金沢(金沢駅前)の右側、中央、卯辰山を背後に、高い白い建物がスカイホテル(武蔵町)で、南町、香林坊、片町へと続く金沢の中心街となっています。(金沢市のホームページ: http://www4.city.kanazawa.lg.jp/.)

 犀川の源流は、石川、富山の3市(金沢、白山、南砺)の境、標高1644mの奈良岳(ならだけ)にあり、全長34km、中州も随所に見られ、日本海に向かって、東から西へと蛇行しながら流れています。

 石川県庁の移転の頃、私も金沢市平和町3丁目18番15号の公務員宿舎(4階建ての3階)から現在の犀川沿いのマンション(11階建ての10階)に転居しました。新しい県庁舎と私の住まい、サーパスマンションは、共に同じ頃に新築されましたので、鉄骨組み立てから完成までの様子が今でもはっきりと目に浮かびます。

 わが家の玄関のベランダから、西北に、石川県庁舎、東北に金沢駅、兼六園向かいの卯辰山、また、反対の犀川沿いのベランダから、眼下に日本海に向かって、東西に蛇行して流れる犀川の風景を眺めることができます。

(参考文献) 若林喜三郎(監修): 石川県の歴史、北国出版社(1970); 吉崎正松: 都道府県名と国名の起源、古今書院(1972); 石川県の歴史散歩研究会: 石川県の歴史散歩、山川出版(1993). 

(追加説明) ○ 石川県県名については、以下のような歴史的な経過があります。1867年(慶応3年)大政奉還、王政復古、1869年(明治2年)版籍奉還、明治維新により加賀藩は金沢藩となり、1871年(明治4年)7月の廃藩置県で金沢藩は金沢県となりました。同年11月、大聖寺県を合併しました。明治政府は、中央集権の体制を確立するため、全国3府302県の統廃合を10年以上繰り返し進めました。

 1872年(明治5年)5月2日、金沢は北に片寄りすぎということで、県庁を金沢から手取川口の美川(石川郡)に移し、県名も石川県と改めました。その原因は、薩摩(鹿児島)藩士で、金沢県大参事、新制参事(のち初代の石川権令、県令、県知事)となった内田政風、1815年(文化12年)~1893年(明治26年)による金沢士族の中の不平不満を持つ人々への政治的圧力であったとも言われています。

 同年9月、能登の七尾県を合併、同11月、白山麓18ヵ村を編入、さらに、翌年、1873年(明治6年)1月、金沢に県庁を復帰させましたが、県名はそのまま継承され、現在に至っています。

2010年5月25日 (火)

德島城(渭山城)にまつわる歴史伝承、德島の名の由来、藩主(蜂須賀氏)の家紋(丸に卍)、正室(氏姫の生家)の家紋(三階菱)、諏訪神社、とは(2010.5.25)

 徳島(とくしま)というは、もと、猪山(いのやま、のち好字の渭山に改める)の東方、吉野川の三角州の一つの島の名でしたが、嘉名ということで、城と城下町の名になったと言われています。吉野川の河口付近の中州(三角州)上に位置する徳島市内には、島の名が付く町名が多いようです。

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蜂須賀家正(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E5%AE%B6%E6%94%BF

 徳島藩は、1585年(天正13年)、蜂須賀家政(1558~1639)が、吉野川の三角州上の孤立丘陵にある渭山城(いのやまじょう)に入城してから、城下町として発展しました。渭山は、その形が猪(いのしし)が伏している姿に似ているので、猪ノ山(いのやま)と言っていたのを、渭山(いのやま)の字が好いということで、猪山を渭山に改めたと言われています。

 また、城山には、先住民の遺跡があり、私も以前に訪れたことがあります。東南隅の岩窟(第三号貝塚)は、岸壁の海蝕による自然の洞穴であり、貝層(ハマグリ・カキ・バイガイ)が出土、また、縄文後期~晩期の土器、弥生時代の土器片などが発見されています。

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德島城址上 助任川(北)からの城山(渭山)、 城山(東南隅の岩窟)の貝塚、 下 徳島城(南東)からの表口の見付門、鷲の門、1989年(平成元年)9月27日、徳島市制100周年を記念して、吉田ツルエ氏により復元寄贈、google画像)

(解説) 徳島城は、風光の美しさが、中国の渭水(黄河最大の支流)に似ていることから、渭山城とか渭津城と呼ばれていました。室町時代、室町幕府の管領、細川頼之、1329年(元徳元年)~1392年(元中9年、明徳3年)が、小城を築いたのが徳島城の始まりです。その頃の阿波は、細川、三好氏の支配下にあり、勝瑞の城下町が中心地でした

 安土、桃山時代、1585年(天正13年)6月、豊臣秀吉、1537年(天文6年)~1598年(慶長3年)が、1582年(天正10年)、四国統一を目指し、渭津城を攻略していた長宗我部元親、1539年(天文6年)~1599年(慶長4年)を征伐した時、勲功のあった蜂須賀正勝(小六)、1526年(大永6年)~1586年(天正14年)の嫡子、蜂須賀家政、1558年(永禄元年)~1639年(寛永15年)が、秀吉より阿波一国(18万6000石)を賜りました。はじめは、徳島市西部の一宮城に入城しました。

 しかし、早々に、吉野川の三角州上の孤立丘陵にある標高62mの渭山(のち德島)の地に大規模な平山城の築城を始め、1587年(天正15年)に完成させました。この時、家政は、地の利を頼むよりも、人の和を得ることこそが、これからの大名には必要である。要は徳にあって嶮ではない、と説いたと言う。そして、旧領の尾張や播州竜野、領国の勝瑞の城下町の商人などを德島城の周辺に移住させ、城下町(内町の町屋)を築きました。

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徳島城(梯郭式の平山城、惣構(そうがまえ)、google画像)

(解説) 徳島城は、外堀が吉野川の分流、新町川、福島川、助任川、寺島川、内堀が寺島川、堀川として利用する、外敵から城を防御する造りで、惣構(そうがまえ)と呼ばれています。城の周囲には、四国山脈の緑泥片岩(阿波特産、青石)を使った石垣が築造され、松が植えられていました。この城は、二城式(梯郭式、かくていしき)の平山城で、山の上にあった渭山城と麓の寺島城を合わせて築いた城です。

 天守は、城山の中腹、東二の丸に三重天守が構えられていましたが、江戸中期に焼失し、以降は再建されなかったようです。平山城は、軍事的な役割の色が強い山城と異なり、領国支配における経済の中心的役割を果たし、また藩の政庁として利用されました。現在は、曲輪や石垣、掘、表御殿庭園(名勝)などが残っており、また、1989年(平成元年)に鷲の門が復元されています。

○ 蜂須賀家

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 蜂須賀家の祖は、尾張国蜂須賀郷の土豪、豊臣秀吉(木下籐吉郎)に仕えた、阿波一国(18万石)の大名、蜂須賀正勝(小六)(1526~1586ですが、その嫡子(長男)の家政(関ヶ原の戦いでは、領地を豊臣家に返納、剃髪、高野山光明院へ)、一方、関ヶ原の戦いで、家康の東軍に属して出陣した家政の嫡子、至鎮(15才)は、大坂夏の陣の後、淡路一国(7万石)を加増されました。

○ 蜂須賀至鎮

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蜂須賀至鎮(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E8%87%B3%E9%8E%AE

 江戸時代には、蜂須賀至鎮、1586年(天正14年)~1620年(元和6年)が、阿波国(徳島)と淡路国(淡路島、兵庫)を領有する徳島藩(25万石)の初代藩主となり、その後、14代忠英、光隆、綱通、綱矩、宗員、宗英、宗鎮、至央、重喜、治昭、斉昌、斉裕、茂韶、と明治維新まで続き、德島城は、明治維新を迎えるまで、德島の政治、経済、文化の中心地として発展しました。

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家紋瓦 卍(まんじ) 蜂須賀家(德島藩主)、 三階菱(さんかいびし) 小笠原家(德島藩主正室、氏姫の生家)、 google画像)

 蜂須賀至鎮は、阿波国徳島藩の初代藩主ですが、正室は徳川家康の養女、氏姫(信濃、8万石、松本初代藩主、小笠原秀政の娘)です。家紋は、蜂須賀家は丸に左卍(まんじ)、徳川家は葵(あおい)、小笠原家は三階菱(さんがいびし)です。 

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諏訪神社(入り口、三番町、南佐古、德島、google画像)

 鎌倉時代、小笠原長清、1162年(応保2年)~1242年(仁治3年)は、信濃守護家小笠原氏の祖で、阿波国守護となっており、氏姫と家系のつながりがあります。

 ということで、諏訪神社(佐古のお諏訪さん、眉山北麓の諏訪山、德島)は、氏姫の生家、小笠原家、故郷の諏訪(信濃、長野)との、えも言われぬ縁(えにし)を感じる次第です。

(参考文献) 吉崎正松: 都道府県名と国名の起源、古今書院(1972); 湯浅良幸(徳島史学会)編: 徳島県の歴史散歩、山川出版社(1995); とくしま地域政策研究所編: 四国のいのち、吉野川事典、自然/歴史/文化、農文協(1999); 三好昭一郎: 喜壽記念日本史論集(第一部、近世地方都市形成史の研究、第二部、德島城下町民間藝能史論、第三部、阿波郷土史研究の半世紀、山川製本所(2006); 石躍胤央、北條芳隆、大石雅章、高橋啓、生駒佳也、徳島県の歴史、山川出版社(2007). 

(参考資料) 徳島城、貝塚(城山、德島、google画像):http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%BE%B3%E5%B3%B6%E5%9F%8E%E3%80%80%E8%B2%9D%E5%A1%9A&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi

諏訪神社(三番町、南佐古、德島): http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/tokusima/tokushimasi/suwa/suwa.html

諏訪大社(信濃国一之宮、ホームページ、長野): http://suwataisya.com/

(追加説明) ○ (まんじ)は、蜂須賀家、多田家の家紋です。卍は、もとは古代バビロニア、アッシリアなど、世界各地で太陽の象徴、神聖な印として用いられました。それが仏教と共に渡来し、吉祥の相として寺院の紋章に用いられ、家紋となりました。

また、三階菱については、武田氏から分かれた小笠原氏は、宗家をはばかり、菱紋を3つ重ねた三階菱に意匠を変更したと考えられています。菱紋は、甲斐源氏、武田氏の代表家紋です。

阿波の山(眉山)にまつわる歴史伝承、眉山の名の由来(万葉歌)、眉山の眺め(山頂、吉野川北岸)、とは(2010.5.25)

 眉山(びざん、まゆやま)は、徳島市のシンボルで、標高279m、東西約6.5km、南北約3kmの山域を持ち、大滝山滝の山)を中心に、西の三島山諏訪山、佐古山、東は勢見山などからなっています。徳島の市街は、吉野川三角州上に展開しています。

 眉山名前は、遙かなる阿波国の方角に見える山影を望み、眉(まゆ)のごと 雲居に見ゆる 阿波の山 かけて漕(こ)ぐ舟 泊しらずも、との詠歌(万葉集、巻6、998)に由来すると言われています。その意味は、眉のように遠い空の彼方に見える阿波の山、その方にかけて漕いでいる舟の泊まるところは、どこだろう、というものです。

 この歌は、聖武天皇(第45代)、701年(大宝元年)~756年(天平勝宝8年)が、734年(天平6年)3月に、難波の宮行幸された時の歌六首のうちの一首で、隋l行した船王(ふなのおおきみ、生没年未詳、淳仁天皇(第47代)の兄)が詠んだものです。

  眉山呼び名については、諸説あり、1724年(京保9年)4月、徳島藩(第6代世嗣、早世、歌人)、蜂須賀吉武(はちすかよしたけ)、1691年(元禄4年)~1725年(享保10年)が、西の丸の造営が終わったので、京都から歌人、有賀長伯(あるがちょうはく)、1661年(寛文元年)~1737年(元文2年)を徳島城内に招いて歌会を催しました。この時、長伯が、眉山の霞と題して、立春の みどりをこめて 佐保姫の 粧ひふかく 霧む山まゆ、と詠んだのが最初と言う。

 藩医、漢詩人の七條寿庵が、1728年(享保13年)、阿波十ヶ所参りをして、みちの記を書いて、船王の歌から眉山と命名した、と地元では伝えられています。寿庵は、眉のごと雲間に見ゆる、とは遠山を汎称し、一山をさすにあらざるなり、と述べています。

 が、1815年(文化12年)、徳島藩が、阿波志を編集した時には、まだその山は富田山となっていました。江戸時代、庶民には眉山はなじみうすく、富田佐古と呼んでいました。

  ということで、一般に眉山と呼ばれるようになったのは、文政年間(1818~1830年)以降と考えられています。

 明治中頃、1895年(明治28年)には、小学校教科書地誌に、眉山の地名が表れ一般化しました。(徳島市編纂室編纂委員、吉益譲氏より)

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眉山の山頂から徳島市街地と吉野川の河口域を遠望中央の緑の小高い山は城山、徳島城址、北方のその向こうには吉野川、小さく吉野川橋、徳島市、google画像)

 眉山山頂へは、ロープウエーで6分、ほかに約4kmのパークウェーもあります。山頂からの眺望がすばらしく、眼下に徳島市街が広がり、晴れた日に淡路島や和歌山の山が見渡せます。

 山頂一帯茂助ヶ原と呼ぶ)、周辺には、放送局のテレビ塔や戦没者慰霊の塔パコダ、徳島人として生きたポルトガルの外交官、文豪、モラエス、 1854年(安政元年)~1929年(昭和4年)の記念館、宗教家、社会運動家、平和運動家の先駆者、賀川豊彦、1888年(明治21年)~1960年(昭和35年)の碑、展望休憩所、保養施設などがあります。

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吉野川の河口左岸から眺める眉(まゆ)のような山容の眉山の橋は吉野川橋、1071m、吉野本町(北岸)から応神町(南岸)、県道39号、徳島鳴門線、徳島市、google画像)

 眉山を遠望するには、吉野川(四国三郎とも)の河口左岸(北岸)からに限る、と言われています。ここからは、南方の徳島市街地の向こうに、やさしい山容の眉山が眉のように横たわっています。

 私の郷里の家(引野、上板)は、阿讃山脈の南麓の斜面の平坦地の高台にあります。そこからは、西から東に流れる吉野川を眼下に、さらに南の四国山脈の東南端に、眉山を遠望することができます。

 私が小学生の頃、小学校の教師をしていた母親が徳島県教育会館(徳島城址東隣)に用事があった時、鍛治屋原から徳島まで、各駅停車の列車(国鉄)で1時間ほどでしたが、連れて行ってもらい、眉山を散策しました。

 また、1972年(昭和47年)4月頃、ご縁があって家内(小寺尊子、佐古)とはじめて訪れたのも眉山で、満開の桜と山頂からの眺めが印象に残っています。

(参考文献) 万葉の舞台(新聞記事): 阿波の山、ただ一首の歌から命名、朝日新聞、朝刊、1987年(昭和62年)7月24日(金); (財)とくしま地域政策研究所編: 四国のいのち、吉野川事典、自然/歴史/文化、農文協(1999).

(参考資料) 眉山頂上(眉山ロープウェー、徳島): http://www.awaodori-kaikan.jp/bizan-ropeway/1facilities/

(追加説明) ○ 船王(ふなのおおきみ)は、舎人親王(とねりしんのう、676年(天武4年) ~735年(天平7年)の子、淳仁天皇(第47代)の兄、727年(神亀4年)正月に無位から従四位下に、743年(天平15年)正月、従四位上に、やがて759年(天平宝字3年)親王となり、6年に二品に進んだが、同8年10月、藤原仲磨の乱に連座して隠岐に流されました。

○ 眉山山頂には眉山公園があり、また、山麓には史跡(大滝山持明院建治寺、湧き水の錦竜水を管理する町水番所、滝水御番跡など)があります。

 眉山公園の開発は、1892年(明治25年)に始まると言われ、大正時代(1912~1925年)に有志で眉山公園保勝会ができたりして、次第に整備拡充されました。

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犬養孝(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E9%A4%8A%E5%AD%9D

 1983年(昭和58年)には、山頂に万葉学者、犬養孝氏、1907年(明治40年)~1998年(平成10年)の筆になる船王の歌の原文の歌碑が建てられ、当時の市長が副碑を建立しました。 

○ 国鉄鍛治屋原線は鍛治屋原、神宅、羅漢、犬伏、板西まで、ここから高徳線に乗り換え、板西、板東、池の谷、勝瑞、吉成、佐古、徳島と各駅に停車しました。また、撫養、鳴門に行く時には、池の谷で徳島発の鳴門行きに乗り換えました。

 鍛治屋原線は、1972年(昭和47年)1月15日、赤字路線ということで廃線となり、列車が走っていた軌道は、自動車道に生まれ変わっています。

○ 1959年(昭和34年)頃、徳島県教育会館(徳島城址東隣)で、小柄でしたが、声は大きく、はっきりした口調の、金沢治(かなざわおさめ、教師、歌人、方言、民俗学研究、郷土史家)先生の国文学の講義を受けたことがあります。1981年(昭和56年)「これ以上老醜をさらしたくない」との遺書を残し、謎の自殺を遂げた。享年82才とのこと、ご冥福をお祈りする次第です。(財)とくしま地域政策研究所編: 四国のいのち、吉野川事典、自然/歴史/文化、p.66~67、金沢治の歌碑、農文協(1999)より.

2010年5月19日 (水)

日本茶にまつわる歴史伝承、夏も近づく八十八夜、緑茶(玉露、煎茶、番茶)、お茶の効能、お茶の歴史、とは(2010.5.19)

  新茶の季節は5月です。茶の若葉は、4月下旬から5月にかけて摘み取ったのが一番茶、いわゆる八十八夜の新茶です。走り茶ともいい、香気があり、新鮮な風味が珍重され、八十八夜を過ぎて初夏の頃、市場に売り出されます。新茶が出まわると、前年の茶は古茶となります。6月下旬から7月のものは二番茶として全体の4割を占めます。夏から秋にかけては三番、四番茶となります。

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八十八夜、新茶摘み(お~いお茶 有明、鹿児島、伊藤園、google画像)

(解説) 日本的な緑茶、玉露(ぎょくろ、一番茶)、煎茶(せんちゃ、二番茶)、番茶(ばんちゃ、三、四番茶)の製法は、若葉を摘み取り、蒸して葉の中に含まれている酵素(ポリフェノールオキシダーゼ)の働き(酸化反応)を止め、緑色の色素(クロロフィル)を美しく残させ、ヨリをかけて乾燥させ仕上げます。 

 摘み取る1~2週間前、茶園をヨシズやワラで覆い、日光を遮(さえぎ)り、茶の葉を軟らかく美しく仕上げたのが玉露で、一方、日光に当てたまま摘み取ったのが煎茶、番茶です。

 煎茶は、玉露より旨味(うまみ)のアミノ酸のテアニン(グルタミン酸のエチルアミド)、カフェインが少なく、渋味(しぶみ)のタンニン(ポリフェノールの総称、特にカテキン類)とビタミンCが多い。日光が葉に当たるにつれ、旨味のテアニンは渋味のタンニンに変っていきます。

 玉露と同じように、茶園に覆いをかけて育てた若葉(一番茶)を摘み取り、ヨリをかけず葉のまま乾燥したのが碾茶(てんちゃ)で、これから粉末状の抹茶(まっちゃ)が作られます。抹茶には、旨味のテアニン、ビタミンC、ビタミンA、鉄分、カルシウムなど多く含まれています。

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玉露(ぎょくろ、八十八夜、一番茶、宇治、京都 、google画像) 玉露(源ちゃんブログ):http://n-h-k.jp/genchan/log/eid1649.html

(解説) お茶の美味しい入れ方としては、煎茶は、緑茶の旨味成分(テアニン)が80℃前後でとけてくるので、沸騰した湯をさまし、糸のように細く注いで2~3分おきます。玉露はその成分が濃いので、さらに低く60~70℃位にします。番茶は香りで飲むので100℃の沸騰した湯を使います。沸騰した湯を冷たくし、茶の葉を加えて一晩冷蔵庫で寝かせると、まろやかな冷茶ができます。温めた茶碗に平均に回し入れて急須(きゅうす)に湯を残さないようにしないと、50℃以下で渋いタンニンがしみ出して黄色くなります。 また、番茶(三、四番茶)は、硬くて苦味が強くなるので、焙(ほう)じて香りを出して飲みます。

 昔、宵越しのお茶はお腹をこわす、と言われたのは、タンニンが嫌われたものでしたが、最近これが過酸化脂質ができるのを防ぐことが分かり、注目されてきました。つまり、緑茶は、しみ、腹痛、動脈硬化、糖尿病、肝臓病、さらにはガンを作る元凶を予防するので、日本人にとって大事な飲み物となりました。適度のカフェインは、軽い興奮を誘って、頭が冴え、疲れが取れ、爽やかな気分になれます。また、眠気覚まし、利尿の効果もあるようです。

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八十八夜、新茶摘み(宇治新茶、宇治、京都、京都新聞、google画像)

 私が小学生の頃、茶摘み歌、夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が茂る あれに見えるは茶摘みぢやないか あかねだすきに菅(すげ)の笠 、を歌ったことを思い出します。八十八夜は立春(節分の翌日で、2月4日頃)から数えて88日目、現行暦では5月2日か3日頃です。この頃は、昔から、農作業の重要な節目と考えられ、茶摘み、苗代(なわしろ)のモミまきなどの目安とされてきました。

(解説) 日本の茶摘作業を歌った、茶摘の歌は、1912年(明治45)年に、尋常小学校唱歌 第3学年用、として発表された文部省唱歌です。田原村(宇治、京都)の茶摘歌をもとに作られたとされ、歌詞の2番にある日本はもと田原であったと言う。

1. 夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が茂る あれに見えるは茶摘みぢやないか
あかねだすきに菅(すげ)の笠  2. 日和(ひより)つづきの今日このごろを 心のどかに摘みつつ歌ふ 摘めよ摘め摘め摘まねばならぬ 摘まにゃ日本(にほん)の茶にならぬ

 日本茶には、静岡茶(さやわかな味、静岡)、宇治茶(香り高く気品のある味、京都)、狭山茶(甘味あり濃厚、埼玉)、八女茶(甘味のある初々しい味、福岡)、鹿児島茶(コクがあり濃厚、強い香り、鹿児島)など、特徴ある味のお茶が知られています。また、石川県には、茶の茎を焙(ほう)じた香ばしい香りの加賀棒茶があり、加賀には昔から棒茶を飲む習慣がありました。(茶の主な産地http://www.geocities.jp/mamehiko6636/nihonchanosanchi.html.)

阿波番茶(若葉の乳酸発酵、後発酵茶、上勝、徳島、google画像)

 特色のある」お茶として、私の郷里(徳島)の阿波番茶(あわばんちゃ)が有名です。阿波番茶は、古代茶、茶の化石の別称があり、相生町(那賀郡)や隣の上勝町(勝浦郡)に数百年来伝わる農家自家用の番茶で、大陸伝来(タイ、ミャンマー北部、旧ビルマの農村)の発酵茶だと言う。(上勝阿波番茶(徳島): http://www1.quolia.ne.jp/~awabancha/.)

(解説) 阿波の番茶と呼ぶが、新芽は摘まず、若葉が緑濃く分厚くなる夏を待って、年に一回だけ摘む一番茶で、遅い時期に摘むので、番茶と言ったようです。徳島県のほかは高松市(香川)や淡路島などで飲まれている地方茶で、独特の香りで、ほんのり酸っぱく、夏は冷やしてさっぱりした味わいで人気があります。

 製法から言えば、紅茶やウーロン茶と同じ発酵茶ですが、加熱処理する前に茶に含まれている酸化酵素によって発酵させる紅茶に対し、阿波番茶は、加熱処理した後、有用な微生物、バクテリア(乳酸菌など)で発酵させることから後発酵茶と言われています。

 私の生家(引野、上板、徳島)では、自宅の近く、畑の畦(あぜ)の周りには、茶(1m以下)が植えてありました。父が若葉を摘み取り、四角の木枠に和紙を敷き、若葉を入れて温め、手もみをして乾燥し、自家製のお茶を作っていたのを覚えています。また、お茶屋さん(はせやさん、板野)が来た時、緑茶を購入し、特に玉露を飲む時には、湯冷ましをして、小さな湯呑みにお茶を出し、お客さんと談笑していた姿が目に浮かびます。

 1964年(昭和39年)4月、京都の露口さん(油小路、中京区)より、父と一緒に祇園の都をどりに招待され、太夫お点前の抹茶と和菓子をいただいたことがあります。和菓子を食べてから抹茶をいただきました。これは、ご飯を食べてからお茶を飲むのと同じとのことでした。露口さんは母親の女学校の同級生で、露口和裁学院を開いておられ、教え子の小川さんを通じて、銀閣寺近くの下宿(村井良治様、下別当町、北白川、左京区)をお世話いただき、京都大学(大学院)に歩いて通いました。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 樋口清之(監修): 生活歳時記、三宝出版(1994); 阿波番茶(新聞記事): 朝日新聞、朝刊、6月19日(1990)、北陸中日新聞、朝刊、7月13日(2008); 石川化学教育研究会編: 科学風土記、加賀・能登のサイエンス、p.87、李浩喜、加賀棒茶、裳華房(1997).

(参考資料) お茶百科(お茶の産地): http://ocha.tv/producers/; お茶の産地(図録): http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/0465.html; お茶の産地と特色: http://www.ujien.co.jp/tl/santi.html..

(追加説明) ○ 茶は、ツバキ科の常緑低木で、雲南(中国)とその周辺の温、熱帯地方が原産だと言われています。インドの野生種は高さ8~15mに達するが、日本や中国では1m前後の低木となります。木質は硬く樹皮はなめらかです。葉は濃緑色、長楕円形で厚く、表面は平たく光沢があります。10月頃、葉腋(ようえき)に白花を開き、観賞用の紅花種など多くの変種があります。果実は扁円形(へんえんけい)で、開花の翌秋に成熟し、通常3個の種子があります。一般に温暖多雨の気候を好み、品種はインド種と中国種に大別されます。栽培は、種子あるいはさし木、取り木、根ざしによります。

○ 中国茶種類は3000種と多く、大きく分けると、不発酵茶(緑茶、日本のものと異なり、香りが高くビタミンCが豊富)、発酵茶(完全に発酵した紅茶)、半発酵茶(途中で発酵を止めたもので、烏龍(ウーロン)茶)などがあります。葉の中の酵素(ポリフェノールオキシダーゼ)は、渋味成分のタンニン、カテキン類を酸化し、紅茶やウーロン茶の色や味の成分を作り出します。

○ 茶の歴史は古く、漢代(紀元前202~220年)、中国ではすでに飲用されていました。日本には、奈良時代(710~793年)、中国より伝来し、煉瓦(れんが)のように固めた磚茶(だんちゃ、チュワンチャとも)を削り、煮立てて飲んでいました。

 1191年(建久2年)、栄西禅師が、茶経陸羽著、中国)を引用して喫茶養生記を書き、鎌倉幕府(3代)将軍、源実朝、1192年(建久3年)~1219年(建保7年)に献上しました。そして、実朝の2日酔いを抹茶でいやし、その効用を説き、禅寺でも愛用される飲物となりました。

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栄西(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%84%E8%A5%BF

 鎌倉時代(1192~1338年)になり、明庵栄西(みょうあんえいさい、臨済宗開祖)、1141年(永治元年)~1215年(建保3年)が禅宗と共に抹茶(まっちゃ)を宋(中国)から持ち帰りました。当時の宋では、抹茶を飲むことが禅宗の儀式の一つになっていました。そして、修行を妨げる眠気をさますのに、抹茶は重要な役割を果たしました。 

 帰国した栄西禅師は、背振山(せぶりやま、佐賀)に茶の種をまきました。地名の岩上(いわがみ)に因んで、岩上茶と呼ばれ、のちにこの種が明恵上人(みょうえしょうにん、華厳宗)、1173年(承安3年)~1232年(貞永元年)に贈られました。明恵上人は、京都の仁和寺ほか、奈良、三重、静岡などにも茶を移植し、全国的に茶の栽培が盛んになりました。

 室町時代(1339~1573年)、室町幕府(3代)将軍、足利義満、1358年(正平13年、延文3年)~1408年(応永15年)も茶の湯に熱心で、宇治の茶は、この足利義満のお声がかりで名声を高めました。また、村田珠光(むらたしゅこう、侘茶(わびちゃ)の祖)、1423年(応永30年)~1502年(文亀2年)は、室町幕府(3代)将軍、足利義政、1436年(永享8年)~1490年(延徳2年)の保護のもとに茶道を創設しました。そして、茶室、唐紙、畳、玄関、床の間と現在の日本建築様式を完成させました。その後、武野紹鷗(たけのじょうおう)、1502年(文亀2年)~1555年(弘治元年)は、村田珠光の侘茶(わびちゃ)の流れを受け継承し、今日の茶の湯の基本的なスタイルを確立しました。

 安土、桃山時代(1574~1802年)、千利休(せんのりきゅう)、1522年(大永2年)~1591年(天正19年)は、武野紹鷗に学んだ詫茶(わびちゃ)をさらに発展させ、楽茶碗や竹花人など利休好みといわれる数々の茶道具の名品を創作、茶室様式を完成するなど、茶の湯を大成しました。

 茶道の流派については、千利休以前からの流派もいくつかあり、千利休と同時期の創始による流派、千利休の息子や孫の流れを汲む流派など、様々なものがあります。(茶道の道しるべ、茶道の流派http://www.sadounomichi.com/start/ryuha.html.)また、一期一会(いちごいちえ)という言葉は、茶道から出た心構えと言われています。

 武士の間で喫茶の風習が広まると、やがて町人や農民にまで及んでいきました。農民の茶会は、雲脚茶会と呼ばれ、寄会いの席でも茶をたてて飲んだり、御神酒(おみき)に混ぜて、飲みまわしました。

 江戸時代(1603~1868年)、日常生活の規範は茶を中心に組み立てられ、規則から外れた生活は、茶のない生活と同じと見なされて、無茶(ムチャ)、滅茶苦茶(メチャクチャ)ばどという言葉も生まれました。その後、余りの堅苦しさから、からかいの言葉に転じ、茶んとせよ、茶化す、チャチ、チャンチャラオカシイなどと悪い意味に使われるようになりました。

○ 京都の宇治の茶畑では、近くを流れる宇治川から朝霧が上がってきて、天然の覆いとなり、日光を遮り、よい新茶が取れるということを聞いたことがあります。

 ハーブ茶 古代、エジプト時代から人々は病をいやすため、あるいは悪霊を祓(はら)うために、香りのある草や実、花や茎を乾燥させて用いていました。穏やかに徐々にききめを現す漢方茶のように、その薬草(ハーブ)お茶、ハーブティーとして愛飲されました。やがて、それはギリシャ、ローマに伝わり、キリスト教修道僧により、広くヨーロッパにおけるお茶として定着していきました。一般に、日本の麦茶のように用いています。

 主なハーブ茶には、菩提樹(ぼだいじゅ)の葉、野いばらの実、ハイビスカス、ベルベナ、マルベ、オレンジ、矢車菊、カミツレ、タイムなどが知られています。(生活歳時記より)

 

2010年5月15日 (土)

金沢城の外庭(兼六園)にまつわる歴史伝承、蓮池庭(のち兼六園、松平楽翁、洛陽名園記)、日本三名園(特別名勝)、中国三名園、とは(2010.5.15)

  金沢城の東南の傾斜地に外庭が誕生したのは、1676年(延宝4年)、加賀藩主(5代)前田綱紀(まえだつなのり)、1643年(寛永20年)~1724年(享保9年)が、蓮池亭(れんちてい、別荘)、瓢池(ひさごいけ)などからなる蓮池庭を造った頃からで、正式な名はなく、蓮池のお庭と呼んでいました。

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前田斉広(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E6%96%89%E5%BA%83

 江戸後期、文政(1818~1830年)頃、藩主(12代)前田斉広(なりなが)、1782年(天明2年)~1824年(文政7年)が、豪華な竹沢御殿(隠居所)、辰巳用水を取り入れた曲水を造り、各種の石橋を架け、本格的な造園を行い、松平定信(白河楽翁)、1758年(宝暦8年)~1829年(文政12年)に、庭園の名を兼六園と命名してもらいました。

 その後、藩主(13代)前田斉泰(なりやす)、1811年(文化8年)~1884年(明治17年)が、父の竹沢御殿を、完成して8年を待たず、順次取り崩しながら、霞ヶ池の掘り広げ、護岸、千歳台の築庭など、また、蓮池庭との境を取り除くなど、現在の池泉廻遊式庭園に近い大庭園を完成させました。

兼六園虹橋、にじはし、徽軫燈籠、ことじとうろう、霞ヶ池、兼六町、金沢、google画像)

(解説) 徽軫燈籠は、虹橋を琴に見立て(琴橋)、燈籠の足が、琴の糸を支える琴柱(ことじ)に似ているのでその名が付いたと言われています。燈籠の右足が短い不均整さが、この燈籠の美しさを引き出しています。ところが、幕末に近い文久(1861~1863年)頃に描かれた兼六園絵巻では、燈籠の両方とも同じ長さで、右足も水につかっています。

 ということで、明治になり、何かの理由で倒れて燈籠の片足が折れたのだろうと言われています。その証拠に、燈籠の折れた右足の下半分はすぐそばに置いてあります。その後、徽軫燈籠は7回ほど心ない人に壊され、現在の燈籠は京都の石屋に依頼して造ってもらったものだそうです。 初代の燈籠は、藩主(12代)前田斉広に木谷藤右衛門(8代、生没不明、北前船主、豪商、粟崎、加賀、越前出身?)が献上したものと言われ、今は完全に修復され、兼六園管理事務所の倉庫に保管されています。

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兼六園(扁額、松平定信(白河楽翁)書、石川県伝統産業工芸館、常設展示、google画像)

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松平定信(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E4%BF%A1

(解説) 江戸において、加賀藩主(12代)前田斉広から竹沢御殿(約1万3000㎡の隠居所)にある庭の命名を頼まれた白川楽翁、こと松平定信は、広々としている(宏大)、けれども奥深さ(幽邃)があり、人の手が加わって(人力)いても、古びた趣(蒼古)があり、池や滝(水泉)がたくさんあるのに、遠くまで眺める(眺望)ことができる、と六勝を兼ね備えた洛陽(中国)の名園、湖園(こえん)に因んで、兼六園と命名しました。そして、 1822年(文政5年)9月、松平定信から加賀藩へ、自ら筆をとった兼六園の扁額が届きました。

 出典は、北宋(960~1127年)頃、済南の詩人、李格非(りかくひ)撰による洛陽名園記(らくようめいえんき)です。これは、洛陽にあった19の庭園を解説したのものですが、松平定信が引用したのは、湖園の項の冒頭を飾る以下の文章です

 洛人云 園圃之勝 不能相兼者六 務宏大者少幽邃 人力勝者少蒼古 多水泉者無眺望 兼此六者 惟湖園而巳 (田圃の勝 相兼ねる能わざるは六 宏大を務るは幽邃少なし 人力勝るは蒼古少なし 水泉多きは眺望難し 此の六を兼ねるは 惟湖園のみ)

(解説) 優れた庭園にするために兼ねられないものが6つある。広々(宏大)とした様子を表現しようとすると、静かで奥深い風情(幽邃)が少なくなってしまう。人工的なもの(人力)が勝っていれば、古びた趣き(蒼古)が少なくなる。水の流れや池、滝(水泉)を多くすると遠くを眺めること(眺望)ができない。これを兼ね備えているのは湖園だけである。つまり兼六園という名前には、中国の名園、湖園と同じように、宏大、幽邃、人力、蒼古、水泉、眺望、の6つを兼ね備えた優れた名園との意味が込められています。

 兼六園、偕楽園、後楽園が、日本三公園(名園?)と呼ばれるようになった根拠として、1904年(明治37年)の尋常小学読本7で、地方で名高い公園としてこの3つの公園があげられ、1910年(明治43年)の高等小学校教科書巻1に次のような紹介があります。また、栗林公園(高松、香川)は別格の優れた公園であると紹介されています。

 我ガ国ニテ風致ノ美ヲ以テ世ニ聞エタルハ、水戸ノ偕楽園、金澤ノ兼六園、岡山ノ後楽園ニシシテ、之ヲ日本ノ三公園ト稱ス。然レドモ高松ノ栗林公園ハ木石ノ雅趣却ツテ此ノ三公園ニ優レリ。

 偕楽園は、1842年(天保13年)、水戸藩主、徳川斉昭の命により造園、梅(もと約200種、1万本)の名所、常磐公園とも、園名は士民と偕(とも)に楽しむ意味です。後楽園は、1686年(貞享3年)、岡山藩主、池田綱政の命により造園、もと菜園場、園名は、(士はまさに)天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ(先憂後楽)意味です。

 兼六園(約10万㎡、金沢市、石川)、偕楽園(約13万8000㎡、水戸市、茨城)、後楽園(13万4000㎡、岡山市、岡山)は、いずれもスケールの大きな大名庭園で、日本三名園と呼ばれています。

 1985年(昭和60年)3月20日、文化財保護法により、これら三名園栗林公園は、特別名勝に指定されました。現在、名勝指定庭園は、全国で150ほどありますが、そのうち特別名勝庭園は23(岩手1、東京3、茨城1、京都13、奈良1、石川1、福井1、岡山1、香川1)ほどで、これらの庭園は、名勝庭園の中でも、特に重要なものと評価されています。(国指定日本庭園、特別名勝(外部リンク、いいね金沢、あすわ交通): http://www6.nsk.ne.jp/asuwataxi/tokubetu.meisyou23.htm

(参考文献) 下郷稔: 兼六園歳時記、能登印刷(1993); 株式会社橋本確文堂企画出版室編: 特別名勝兼六園ーその歴史と文化ー、橋本確文堂(1997); 下郷稔: 兼六園の今昔ー加賀百万石の庭-、中日新聞社(1999); .永原慶二監修、石上英一ほか8名編: 岩波日本史事典、岩波書店(1999); 石川県教育委員会事務局文化財課、金沢城研究調査室編; よみがえる金沢城、450年の歴史を歩む、1、北国新聞社(2006); 世界のふしぎ雑学研究会編: 日本の三大なんでも事典、三笠書房(2008).

(参考資料) ○ 日本三名園(兼六園、偕楽園、後楽園)、別格の栗林公園: 兼六園(金沢市、石川、google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%85%BC%E5%85%AD%E5%9C%92&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi; 兼六園(金沢市、石川): http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kenrokuen/; 偕楽園(水戸市、茨城): http://www.koen.pref.ibaraki.jp/park/kairakuen01.html; 後楽園(岡山市、岡山): http://www.okayama-korakuen.jp/; 栗林公園(高松市、香川): http://www.pref.kagawa.jp/ritsurin/

 中国三名園(頤和園、拙政園、豫園): 中国の三名園は、頤和園(いわえん、宮廷庭園、北京)、拙政園(せっせいえん、官僚庭園、蘇州)、豫園(よえん、金持庭園、上海 )と言われています。その一つ、頤和園は、西太后(せいたいこう)お気に入りの庭園ですが、兼六園の約29倍の広さを持つというスケールの大きさに驚きました。頤和園(北京、中国、google画像); http://www.joyphoto.com/japanese/abroad/2002beijing/iwaen1.html拙政園(蘇州、中国、google画像): http://www.joyphoto.com/japanese/abroad/2003shanghai/sessei.html; 豫園(上海、中国、google画像): http://sh.explore.ne.jp/travel/yuyuan.php

(追加説明) ○ 松平定信(まつだいらさだのぶ)、1758年(宝暦8年)~1829年(文政12年)は、江戸後期の白河(福島)藩主、幕府老中、雅号楽翁、上総介、越中守、御三卿田安宗武の7男、白河藩主松平(久松)定邦の養嗣となり、1783年(天明3年)就封しました。天明飢饉での藩政が評価されて、1787年(天明7年)老中となり、幕府の寛政改革を断行しました。著述も多く、多岐にわたり、藩政で白河風土記を編纂しました。また、南湖(白河、福島)、浴恩園(築地、江戸)、六園(大塚、江戸)、海荘(深川入船、江戸)など積極的に庭造りをしました。

○ 洛陽(らくよう)は、中国河南省北部の都市で、北に邙山(ぼうさん)を負い、南に黄河の支流落水を控えた形勝の地です。長安と並び古くから国都の置かれた地で、前11世紀、周の成王が都を営み、以後、後漢、曹魏、西晋、北魏、後唐の都となりました。特に北魏の時代には、民戸11万を数え、1367寺が建設され繁栄を極めました。現在も、白馬寺、南門外の天津橋、南方13kmの竜門石窟など名勝古蹟が多いです。 

○ 第5代藩主前田綱紀(まえだつなのり、松雲公、1643~1724)は、3歳のとき父を亡くし、祖父利常の後見のもと藩主になりました。特に書物の収集については、新井白石(あらいはくせき、1657~1841、江戸時代中期の儒学者)に「加州は天下の書府なり」と言わしめたという。

 綱紀は、その著「桑華書志(そうかしょし)」の中で、祖父3代利常(としつね)の蔵書を「小松蔵書」、父4代光高(みつたか)の蔵書を「金沢蔵書」、自分の蔵書を「尊経閣(そんけいかく)蔵書」と称しており、現在の尊経閣文庫(財団法人前田育徳会の別称)の由来となっています。 尊経閣文庫(ウィキペディア):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A%E7%B5%8C%E9%96%A3%E6%96%87%E5%BA%AB尊経閣文庫前田育徳会 : http://www.zenbi.jp/network/maeda.htm

 

2010年5月12日 (水)

小立野台地(金沢城址)の遺跡と寺院にまつわる歴史伝承、古代遺跡(発掘)、寺院(金沢御堂)、御城(金沢城)、坪野石(金沢城本丸跡、舟形手水鉢)、とは(2010.5.12)

   金沢城址は、犀川と浅野川に挟まれた金沢平野を一望できる小立野台地(こだつのだいち)の先端部にあります。このような地域は、原始時代(旧石器、縄文時代)、古代人の集落の立地に適していました。また、原始から古代(弥生・古墳時代)になると、農耕が始まり、金属(銅、鉄)器の使用、渡来人(朝鮮)文化も加わり、富と権力を握り集落を治める有力者(豪族)が生まれました。その頃の古墳は、当時の支配者、首長のです。

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小立野台地(こだつのだいち、金沢、石川、google画像) まちあるきの考古学(金沢): http://www.koutaro.name/.

(解説) 金沢城跡とその周辺域の発掘の時、広坂遺跡(金沢21世紀美術館)では、磨製石斧(縄文時代)、勾玉、車輪石(古墳時代)、布目瓦(広坂廃寺、勝興寺、氏寺?、奈良時代)、皇朝十二銭(奈良時代)、大手町遺跡(KKRホテル金沢)では、赤彩土器(弥生時代)などが出土しています。また、金沢城の本丸と御宮では、石塔(仏身陽刻、五輪塔の水輪、宝塔の笠、密教?、平安時代)が出土しています。

 しかしながら、中世(鎌倉・室町時代)以前の遺構や遺物は、予想外に少なく、金沢御堂(みどう)の創建と金沢城の築城の時、大掛かりな地形の造成工事が繰り返され、先人の生活の跡、古墳、氏寺、遺跡などが破壊されたと推定されています。

 金沢御堂の周辺地域は、もと石浦村、山崎村、木新保(きのしんぽ)村、今市村など石浦七ヶ村の地であり、農耕中心の農村地帯でしたが、後町(うしろちょう)、南町(みなみちょう)などの町ができ、酒、味噌、醤油の醸造業者、精米業者、鍛冶、鋳物師(いもじ)、金堀り(かなほり、金屋、かなや)など近住の人々が集まり、参詣者も増え、寺院の周囲に寺内町(じないまち、門前町)ができ、発展していきました。

 加賀一向一揆は、戦国時代、1488年(長享2年)~1580年(天正8年)、本願寺門徒(加賀国)の一揆組織(坊主、土豪、農民)が、守護家の内紛と加賀の内乱が故(もと)で、武力蜂起により高尾城(高尾町、金沢)の守護富樫政親を滅ぼし、100年近く自治を行った一揆です。

 加賀国は本願寺の領国と見なされ、加賀は「百姓の持ちたる国」(加賀一揆国)と呼ばれました。 これに対し、本願寺の蓮如から、御叱(おしか)りの御文(おふみ)が専光寺(せんこうじ、本町、金沢)に下されましたが、一人の門徒も破門された様子はなかったと言われています。

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蓮如(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%AE%E5%A6%82

 この頃の加賀には、蓮如(本願寺8世)の息子が加州3ヶ寺(若松本泉寺、波佐谷松岡寺、山田光教寺)にいて、法主代行として寺院や門徒を統率していました。また、1531年(天文5年)になって、一向一揆体制の内部で指導権をめぐっての争い、享禄の錯乱(大小一揆、一向一揆の内部分裂)が起こっています。

 また、一向一揆が各地(加賀、能登、越前、越中など)で起こったので、大坂本願寺は、証如(本願寺10世)の時、法主の権限強化を図ろうと教団の改革に着手し、加賀では、加州3ヶ寺を追放、代わって教団の中枢指令機関として、1546年(天文15年)、金沢御堂金沢坊舎、尾山御坊とも、金沢城本丸跡)を建て直轄政庁としました。

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本願寺金沢別院(西別院、本堂、笠市町、金沢、google画像)

金沢、加賀、七尾の寺院群(きまっし金沢、金沢観光情報): http://kimassi.net/ekimaejiin/higasibetuin.html

(解説) 金沢御堂は、大坂本願寺の御坊(別院)であったので、完成した坊舎には、大坂本願寺の証如から本尊、仏具が送られてきました。ここは、真宗のみならず加賀の百姓自治の中心(加賀一向一揆の中核組織)でした。これが、本願寺の西別院(西末寺、本願寺金沢別院、笠市町、金沢)と東別院(東末寺、真宗大谷派金沢別院、安江町、金沢)につながっています。

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金沢御堂遺構 極楽橋 船形手水鉢、金沢城本丸跡周辺、金沢) 

(解説) 金沢城の本丸跡周辺には、金沢御堂の遺構として、極楽橋、また、舟形の石の手水鉢などが残されています。当時、御坊に参詣する人々は、この橋から日本海に沈む夕日を拝み、極楽往生を願ったと言われています。

 金沢城跡 船形手水鉢は、金沢市南部産の坪野石製であることが、金沢大学の酒寄淳史教授(50才、地質学)の研究で分かりました。斜方輝石や斜長石、鉄チタン鉱物、黒曜石レンズ、ガラス質の組成を持った溶結凝灰岩であることも判明、KーAr(カリウムーアルゴン)法により、約2000万年前の火砕流によってできた岩で、金沢市坪野町で産出されたことも分かりました。さらに、坪野石の採掘禁止(止め石)は第3代藩主、前田年常(1593~1658)の時代からとの記録があり、この舟形手水鉢年常時代のものと考えられています。

K-Ar法(カリウム-アルゴン}法は、放射性カリウム(原子量40)は半減期(放射能が半分になる時間)12.5億年で崩壊してアルゴン(原子量40)に変わります。そこで、岩石中に残っているアルゴンを集めて年代を測定する方法です。(北陸中日新聞:金沢城跡 手水鉢は坪野石、2010年(平成22年)11月25日(木)朝刊より) 

 その後、1580年(天正8年)、織田信長の家来、柴田勝家の下、佐久間盛政らが金沢御堂を攻め、一向一揆勢の拠点を奪い取り、尾山城と名を改め、掘や土塁を築きました。しかし、本能寺の変、賤ヶ岳の戦いが起こり、金沢城は、豊臣(羽柴)秀吉の支配となり、1583年(天正11年)、秀吉の勧めにより前田利家が入城(金沢城と改名)しました。その後、加賀藩主、前田氏14代、約280余年間の政治、経済、文化の拠点となりました。 

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金沢城石川門搦手門、からめてもん、枡形門とも、金沢城本丸跡からの眺め、金沢)

(解説) 金沢城址は、明治時代、1871年(明治4年)、兵部省、翌年、陸軍省の所管となり、金沢城の建造物を破却して兵営が設置されました。第二次世界大戦後は、進駐軍の管轄を経て、1949年(昭和24年)以来、新制金沢大学のキャンパス(本部、法文学部、理学部、教養部)として利用され、石川門(搦め手門、からめてもん、裏門)は大学の正門となっていました。1994年(平成6年)9月、金沢大学は城内から約4kmの卯辰山の丘陵、角間の地に移転しました。

 その後、2001年(平成13年)9月に、金沢城の二の丸の菱櫓、五十間長屋、橋爪門など、また、2010年(平成22年)に、金沢城の正門と言われた河北門が復元されるなど、都市公園として整備され、金沢城公園として一般市民に開放されています。(金沢城公園(石川県): http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/金沢の歴史(歴史倶楽部): http://www.spacelan.ne.jp/~daiman/index.htm.)

(参考文献) 石川県の歴史散歩研究会: 石川県の歴史散歩、山川出版(1993); 永原慶二監修、石上英一ほか8名編: 岩波日本史事典、岩波書店(1999); 石川県教育委員会事務局文化財課、金沢城研究調査室編; よみがえる金沢城、450年の歴史を歩む、1、北国新聞社(2006)、同、今に残る魅力をさぐる、2、(2009)

(追加説明) 金沢城本丸跡 手水鉢は、金沢市南部産の坪野石製であることが金沢大学の酒寄教授の研究で明らかにされましたが、その使用例は、1657年(明暦3年)創建の小松天満宮にある十五重の塔(http://www.bairin.net/JapaneseHP/Yuisho/yuisho1.htm、金沢城趾の玉泉丸庭園に水を落とすV字形の石樋と周りの石組み、同城跡本丸の庭園の一部(池)と考えられる遺構から出た突起部のある石造物など、ごく限られています。これらは、 第3代藩主、前田年常(1593~1658)の意向でつくられたものという。(北陸中日新聞:金沢城跡 手水鉢は坪野石、2010年(平成22年)11月25日(木)朝刊より) 

 

2010年5月 6日 (木)

碁の棋譜(最古)にまつわる歴史伝承、忘憂清楽(中国)、対局(黒上手、白下手、事前置石法)、爛柯堂棋話(日本)、とは(2010.5.6)

  1952年(昭和27年)、中国河北省望郡県の武将の墓(漢代、182年埋葬)の中から石製の大きな17×17路の碁盤が出土しました。これは、邯鄲淳(かんたんじゅん、儒学者、書家、132~220年)が、芸経という本の中で、棊局(ききょく)縦横各17道、合わせて289道、と記していた事を裏付けました。また、この最古の碁盤では、星(ほし、中国では花点)は9つではなく、5つの花点でした。

 漢代(かんだい、紀元前202~220年)の碁盤は、17路5星盤でしたが、次の随代(ずいだい、581~618年)以降になると、19路5星盤に変化しますが、今から100年ほど前まで、5星(花点)のままでした。その碁法、様式は、互先事前置石法という、対局前に4隅の相対する星(4の四)に白黒各2子を交互に置き合い、第一手は白石から打ち始めるものです。呉清源(ごせいげん、九段、中国)、1914年(大正3年)~氏の話によれば、事前置碁制で打ったことがあり、棋譜も残っているとのこと、また、来日した1928年(昭和3年)頃の中国では、まだ事前置碁制の対局が行われていたそうです。

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忘憂清楽集(ぼうゆうせいらくしゅう、 世界最古の囲碁対局、 白先 孫策 対 呂範、1~43手 打ち掛け、google画像)

(解説) 古代、中国では、貴人、上手が黒を持ち、白から先に打ちました。そこで、孫策が黒、呂範が白を持って打っています。呉清原氏の解説によれば、白21と三々に入ったのは軽妙で注目される。ただ白39は甘く、黒40とえぐられてはつらい。したがって、白39では40と抑えて、黒38の一子は抵抗できない。総体的に見ると白の打ち方が良い。白の方が強く、呂範は当時一級の打ち手であったかも知れない、とのことです。

 最古の棋書(中国)は、李逸民(りいつみん、棋待詔、きたいしょう、国手)編、忘憂清楽集(ぼうゆうせいらくしゅう、中国国家図書館秘蔵)で、北宋の徽宗(きそう、8代皇帝、在位、1100~1125年)、1082年(元豊5年)~1135年(紹興5年)時代の著書と言われています。書名は、皇帝の次の詩句によって命名されました。

 忘憂の清楽は枰棊(へいき)に在り 仙子攻(せんしこう)を精にして歳まだ笄(けい)ならず(忘憂の精楽は碁を打つにある。後宮の若い女性の碁打ちは、碁に精通している。仙子は碁打ち、攻は研究、笄は成人女子の髪具のことです。)

 この棋書には、仙人と王質(おうしつ、伝説上の樵、きこり)の爛柯図(らんかず)、後漢(ごかん、23~220年)の武将、孫策(そんさく、175~200年)と呂範(りょ はん、?~228年)の対局などが収録されています。しかし、対局の年代が確定できないことから、後世の作り物ではないかとの説もあります。

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爛柯山図(らんかさんず、 張以寧、人說仙家日月遲 仙家日月轉堪悲 誰將百歲人間事 只換山中一局棋、中華基督教會燕京書院圍棋學會、中国、google画像)

(解説) 爛柯堂伝説(らんかどうでんせつ)とは、爛は腐る、ただれるという意味で、また、柯は斧(おの)の柄の呼び名で、斧の柄が腐り果てる、という祖沖之(そちゅうし、429~500年)、または任昉(じんぼう、460~508年)撰書(?)、述異記(じゅついき)にある晋代(しんだい、265~420年)の神話伝説です。すなわち、ある時、王質という樵が山中で4人の童子が碁を囲んでいるのを眺めているうちに時の経つのも忘れ、気が付くと持っていた斧の柄が腐り果てていた。驚いて家に帰ると、人々は皆死んでいなくなっていた、という故事です。 

 古代、中国では、黒(玄)を天の色、または奥深い色と考えられており、幽玄という言葉のル―ツです。黒衣(黒い着物)は貴人が着用するものであり、一方、白衣は無位無冠の平民の服で、白人や白丁(はくちょう、はくていとも)とは、普通人を指しています。と言うことで、中国では、下手(したて)が白を持ち、上手(うわて)が黒を持つしきたりが長い間続いていました。100年ほど前から、日本式に白と黒が逆転したと言われています。日本でも400年ほど前、本因坊算砂(ほんいんぼうさんさ、第1世)、1559年(永禄2年)~1623年(元和9年)の碁に、第一手白の棋譜が20数局残されています。

 ところで、林元美(はやしげんび)、1778年(安永2年)~1861年(文久元年)著、爛柯堂棋話(らんかどうきわ)によれば、日本最古の棋譜は、鎌倉時代(1185~1333年)、日蓮(にちれん)上人、1222年(貞応元年)~1282年(弘安5年)と吉祥丸(のち、日朗、にちろう)、1245年(寛元3年)~1320年( 元応2年)が中国式事前置石法で対局した碁譜と伝えられています。

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日本最古の囲碁対局黒先 吉祥丸(のち日朗) 対 日蓮上人、1~120手、google画像)

(解説) 1253年(慶長5年)癸丑正月、於鎌倉松葉谷草庵での対局で、4隅の相対する星(4の四)に白黒各2子を交互に置き合い、さらに天元に黒石を置き、第一手黒(吉祥丸)から打ち始め、181手で持碁(引き分け)で終わっています。日蓮上人が法華宗を開いて鎌倉に入り、激烈な辻説法に立った年で、ときに日蓮31才、吉祥丸は11才であったと言う。

 この碁譜の出典は、三神松太郎(井上因硯の弟子、二段)編の古棋(1819年(文政2年)出版)ですが、その版本の碁譜(3局)を裏付ける確かな資料もなく、作り話ではないかと言われています。

(参考文献) 渡部義通: 古代囲碁の世界、三一書房(1977); 国立国会図書館編: 囲碁・将棋文化史展、その伝来から近代まで、展示会目録(囲碁の部)、国立国会図書館(1988); 白川正芳: 囲碁の源流を訪ねて、日本棋院(1999); 水口藤雄: 囲碁の文化誌、起源伝説からヒカルの碁まで、日本棋院(2002); 呉清原(著者代表): 忘憂精楽集、講談社(2004); 日本棋院編: 日本棋院創立80周年記念、囲碁雑記手帳、月刊碁ワールド1月号第2付録、財団法人日本棋院(2005).

(文献資料) 中國圍棋故事go.yenching.edu.hk、中華基督教會燕京書院圍棋學會、中国、google画像): http://go.yenching.edu.hk/chhis.htm

日本圍棋史話:(go.yenching.edu.hk、中華基督教會燕京書院圍棋學會、中国、google画像):  http://go.yenching.edu.hk/jphis.htm.;

呉清原(ごせいげん、九段、日本棋院、福建省、中国): http://www.nihonkiin.or.jp/player/htm/ki001001.htm

2010年5月 2日 (日)

金毘羅さん(讃岐、香川)にまつわる歴史伝承、金毘羅信仰(金毘羅大権現)、塩飽衆(北前型弁才船)、とは(2010.5.2)

  讃岐(さぬき、香川)と言えば、琴平(ことひら)の金毘羅(こんぴら)さん、屋島(やしま)の古戦場(源平合戦、瓦なげ)、高松(たかまつ)の栗林公園(りつりんこうえん)が目に浮かびます。これらの名所、旧跡は、私が小学6年生(松島、徳島)の修学旅行(1泊2日)ではじめて訪れたところです。なかでも、金毘羅宮(こんぴらぐう、金刀比羅宮とも)の社殿(標高251m)まで、785段の石段があり、お参りの人々も多く、修学旅行の生徒は、ほとんど旅館の近くの写真館の中で、大きな金毘羅さんの絵を背景に記念写真を撮りました。

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金毘羅宮本殿金刀比羅宮本殿とも、琴平、ことひら、香川、google画像)

(解説) 江戸時代、東国はじめ大阪など畿内から、讃州金比羅船と染め出してある船に乗った参詣者は、3~5泊後に丸亀(まるがめ)港に上陸し、丸亀街道(約12km)を通って金刀比羅宮(ことひらぐう、琴平町)にお参りしました。また、讃岐の中心港は多度津(たどつ)であったので、九州など西国から金毘羅船に乗った人々は、多度津に上陸し、多度津街道をたどり、金比羅さんにお参りしました。

 四国の人々は、高松(香川)、阿波(徳島)、伊予(愛媛)、土佐(高知)の各藩の街道を通って、金比羅参りをしました。また、参拝者の便をはかって、各々の街道には、一里塚や道標、丁石、燈籠などが設置されました。現在、琴電の琴平駅の横に建っている金比羅高燈籠は、幕末に建てられ、瀬戸内海の船の燈台の役目も果たしました。

 金毘羅船々 追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ 回れば四国は 讃州那珂(なか)の郡(ごおり) 象頭山(ぞうずさん)金毘羅大権現 も一度回って  金毘羅船々 追風に帆かけて シュラシュシュシュ  

 これは、江戸時代の中期から現在まで歌い続けられている有名な民謡(お座敷唄)です。大阪の民衆の中から自然に歌い出されと言われていますが、大阪から金毘羅船に乗って、金毘羅さんへお参りする人々の願いでした。特に、各地に金毘羅参詣の代参請が生まれ、小祠が勧進され、全国的な信仰を集めるようになりました。金刀比羅宮の境内には、江戸の請中などの奉納による燈籠が林立しています。

 讃岐の象頭山は、古くから神山として崇敬され、瀬戸内海を航行する舟人たちの目標になっていました。この山に金毘羅が垂迹(すいじゃく、神仏として現れる)して金毘羅大権現として祭られるようになったと伝えられています。

 元来、この地には、松尾寺(本尊、釈迦、真言宗)という寺院があり、その守護神として薬師十二神将(じゅうにしんしょう)中の金比羅神将(こんぴらしんしょう)が勧進(かんじん)されましたが、本尊をしのいで信仰の対象となり、さらに神仏習合(しんぶつしゅうごう)の思想の発展によって、大物主神(おおものぬしのかみ)になった(神道説)と言われています。

 金毘羅は、ガンジス河(インド)に住む鰐(ワニ)を神格化した水神、サンスクリット語のクンビーラを音訳したのが語源です。金比羅は水神であるため、農業や航海の守護神として信仰されてきましたが、江戸時代の中頃より、さらに広く生業の神として、また病気や災難よけの神として信仰されるようになりました。

 琴平町(ことひらちょう)は、丸亀平野南端の象頭山麓に位置しますが、金毘羅信仰が広まった江戸中期以降、山麓一帯には土産物店や旅籠(はたご)、色街(いろまち)、富籤(とみくじ)興行、歌舞伎芝居小屋など2000余の家が軒を連ね、金毘羅宮の門前町として発達しました。

 讃岐の歴代高松藩主(12万石、生駒家、17万石、松平家)は、金比羅を崇敬し寺領を寄進しました。また、1648年(慶安元年)には、徳川幕府は朱印状を下して天領(てんりょう、幕府の直轄領)とし、1656年(明暦2年)には、讃州路象頭山縁起を奉納しました。このような治外法権的な保護のもとに、金比羅門前町は、信仰の聖地と遊楽の両面が結びつき発展しました。

 明治時代になると、丸亀、多度津、琴平の間に鉄道が開通し、参詣者のための電車網の整備が進み、讃岐の電車は琴平に通ずる、とまで言われました。近年は、毎年春になると、参道近くの重要文化財、旧金毘羅大芝居を舞台に、江戸情緒をたたえた、四国こんぴら歌舞伎大芝居が上演され、観光客の人気を集めています。

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金毘羅信仰を全国に広めた塩飽衆 塩飽衆の本拠地、丸亀沖の本島、塩飽諸島 北前型弁才船、北前船、菱垣廻船、樽廻船とも、1357石積、八幡丸、google画像)

(解説) 金毘羅信仰を全国に広めたのは、金比羅を信仰した塩飽(しわく)の船乗りと言われています。江戸時代、丸亀沖の本島(ほんじま)、塩飽諸島に住む塩飽衆(海賊の子孫?)は、金毘羅の旗を押し立てた廻船により、全国の海へ乗り出しました。ここでは、徳川家康、1542年(天文11年)~1616年(元和2年)から島を領知させる朱印状が与えられ、人名(にんみょう、御用船方)による自治が行われました。その昔、織田信長、1534年(天文3年)~1582年(天正10年)の本願寺攻めに加勢し、また、豊臣秀吉、1537年(天文6年)~1598年(慶長3年)の小田原攻め、朝鮮出兵にも功を重ね、秀吉は彼らに朱印状を与え、人名(御用船方、650人)として、塩飽諸島を統治させたという。

 西廻りの航路の開拓者、河村瑞賢(かわむらずいけん)、1618年(元和4年)~1699年(元禄12年)が、最も強く推奨したのが塩飽廻船で、日本各地の御城米(ごじょうまい)ばかりでなく、津軽藩の材木輸送、松前(まつまえ、北海道)に行く下りが米、讃岐三白(塩、砂糖、綿)などを運び、大阪に行く登りには海産物(昆布、魚肥のほしか(干鰯)、しめ鰊)など廻送していました。北海道産の昆布は、真昆布、利尻昆布、三石昆布などが上質とされました。

 塩飽の船は、逆風でも帆走できる弁才船で、もともと瀬戸内独特の舟型ですが、日本海の航路では、頑丈な構造に改良され、北前型弁才船(北前船、菱垣廻船、樽廻船)と呼ばれていました。全盛期の元禄(1688~1704年)の頃、塩飽廻船は200艘(せき)もあり、船員は3000人以上で、本島(丸亀)の北東部にある笠島集落(重要伝統的建造物群保存地区)には、漆喰塗りの白壁や、格子窓の建物が並んでいます。

 しかし、1721年(京保5年)に、御城米輸送が廻船問屋の入札請負に変わって以降、塩飽廻船は衰退し始めました。大名の年貢(御蔵、おくら)米輸送に従事した各地の廻船が、実力をつけてきたためです。塩飽衆の活躍として、江戸末期、1860年(万延元年)、勝海舟(かつかいしゅう)、1823年(文政6年)~1899年(明治32年)が、日米修好通商条約の条約批准書を交換するため、随行艦の咸臨丸(かんりんまる)に乗り太平洋を横断してアメリカへ渡航した時、水夫50人中の35人が塩飽衆であったと言われています。

 また、多度津藩(1万石、京極家)は、1694年(元禄7年)、丸亀藩(17万石、生駒家、5万石、山崎家、5万石、京極家)から分家した支藩ですが、巨費を投じて港を整備し、北前船も碇泊する港町として発展しました。高松藩、丸亀藩の産物も多度津で大船に積み替えられました。

 多度津町(香川)は、瀬戸内海の行政区として、塩飽諸島の高見島、佐柳島を領有しています。また、1889年(明治22年)5月、多度津を基点に、四国ではじめて丸亀、多度津、善通寺、琴平間の15.5kmに鉄道が開通、陸蒸気(おかじょうき)が走り、四国鉄道(国鉄、JR)の発祥の地として知られています。

 丸亀藩は、1871年(明治4年)の廃藩置県により丸亀県、その後、倉敷県(岡山)、名東県(徳島)、香川県へとめまぐるしい編入を経て、1899年(明治32年)4月1日、丸亀市(香川)となり、2005年(平成17年)3月22日、丸亀市、綾歌町、飯山町が合併、新しい丸亀市(香川)として発展しています。

(参考文献) 山本大、田中歳雄: 四国の風土と歴史、山川出版社(1977年); 香川県の歴史散歩編集委員会編: 香川県の歴史散歩、山川出版社(1996); 加藤貞仁(文)、鐙啓記(写真): 北前船、寄港と交易の物語、無明舎出版(2002).

(参考資料) 琴平町(観光スポット、琴平、香川): http://shikoku-net.co.jp/kagawa/kankou/nakatadogun/kotohirakankou.htm

金刀比羅宮(google画像、琴平、香川): http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/kagawa/nakatadogun/kotohiragu/kotohiragu.html

金比羅歌舞伎の町(伊藤一男、google画像): http://homepage3.nifty.com/kazuophtogallery/konpila.html

丸亀市(観光情報、塩飽諸島、本島、丸亀、香川): http://www.city.marugame.kagawa.jp/sightseeing/spot/09/01.html

北前型弁才船(google画像、塩飽、多度津、香川): http://images.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%8C%97%E5%89%8D%E5%9E%8B%E5%BC%81%E6%89%8D%E8%88%B9&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi

屋島の古戦場(源平屋島合戦、史跡ガイド、高松市観光振興協会): http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kankou/genpei/index.html

栗林公園(ウェブサイト、香川県): http://www.pref.kagawa.jp/ritsurin/. 

 

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