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2010年6月18日 (金)

禅(無門関、中国)の言葉、平常心是道(公案、南泉と趙州の禅問答)、とは(2010.6.18)

  平常心(へいじょうしん、びょうじょうしんとも)という言葉をよく耳にします。広辞苑によれば、(特別な事態に臨んでも)普段どおりに平静である心、と言う。これは、無門慧開(むもんえかい、1183~1260年)が編集した48の公案集(こうあんしゅう)、無門関(むもんかん、宋代、中国)、第十九則の中にある、平常心是道(びょうじょうしんこれどう)、という公案(悟りを開くために与えられた課題、禅問答)に由来する言葉です。 

 禅は、サンスクリット(梵語、インド)でデイヤーナ(dhyana)、パーリ語(巴利語、インド)でジャーナ(jhana)の語を音写したものです。しばしば靜慮(じょうりょ)と訳され、坐禅により心を鎮(しず)め、静かに叡智(えいち)を働かせる、と言う。

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南泉普願(なんせんふがん、36世、唐代禅僧、中国、google画像)

 南泉普願(なんせん ふがん、748~835年)と趙州従諗(じょうしゅう じゅうしん、778~898年)との次のような禅問答は、平常心こそが道だ、と説いています。

 南泉趙州が、「とはどんなものですか」とたずねたので、「ふだんの心が道である」と答えた。。(南泉、因趙州問、如何是道。泉云、平常心是道)。趙州は問うた、「それをめざして修行してよろしいでしょうか」。南泉は答えた、「めざそうとすると、すぐにそむく」。趙州、「めざさなかったら、どうしてそれが道だと知れましょう」。南泉、「道は知るとか、知らぬとかいうことに関わらない。知るというのは妄覚(誤った知)だ、知らぬというのは、無記(知の外)だ。もしほんとにめざすことのない道に達したら、ちょうど虚空のようで、からりとして空である。そこをむりにああのこうのということなどできはしない」。

(解説) ふだんの心が道だ、というのは、有名な「平常心是道」の句の訳です。我々の日常そのものが道、と言う。しかし、それはめざしたとたん、そむいてしまう、と言う。対象的に捉(と)えられるものではない。その日常生活のただ中にある、絶対の主体そのものに生きるとき、虚空のように、障礙(しょうがい)が何一つない、さわやかさを覚えるのだ、と言う。 

 禅宗は、伝説的には、5世紀末に、菩提達磨(ぼだいだるま)がインドから中国にやってきて、禅観の法を伝えた、と言う。末期、五代十国の頃には、臨済宗(りんざいしゅう)、潙仰宗(いぎょうしゅう)、曹洞宗(そうどうしゅう)、雲門宗(うんもんしゅう)、法眼宗(ほうげんしゅう)の五家が有名で、この頃は、中国の政治、文化を指導していました。

(参考文献) 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 日本史事典、岩波書店(1999); 竹村牧男: 禅のこころ、その詩と哲学、ちくま学芸文庫(2010).

(参考資料) 曹洞宗(曹洞禅ネット、永平寺、福井): http://www.sotozen-net.or.jp/

(追加説明) ○ 日本鎌倉時代から室町時代にかけ、中国では、が政治、文化を指導し、五山十刹(ござんじっさつ)の制度も確立されました。

 室町幕府、将軍(第3代)、足利義満、1358年(正平13年、延文3年)~1408年(応永15年)の頃、この中国の制度を採用しました。五山は官寺の禅院の最高の寺格で、その下に、十刹、諸山などが位置付けられました。中国の五山(南宋時代、杭州、明州)は、径山万寿寺、霊隠寺、天童寺、淨慈寺、阿育王山広利寺でした。

 官寺として、幕府の保護と管理を受けた日本の五山(鎌倉五山、京都五山、臨済宗、叢林(そうりん)とも呼ぶ)が確立され、その外にある大徳寺(臨済宗、京都)、妙心寺(臨済宗、京都)、永平寺(曹洞宗、福井)、総持寺(曹洞宗、能登から横浜に移転) などを林下(りんか、叢林下の意味)と呼び、南禅寺(臨済宗、京都)を別格としました。五山の順位は、鎌倉五山は、建長寺、円覚寺、寿福寺、淨智寺、浄妙寺、また、京都五山は、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺で、五山の上が南禅寺となっています。

 五山の禅僧は、幕府の外交、文化の顧問として活躍し、五山文学(漢詩文など)をはじめ学芸の興隆に寄与しました。

○ 兵法の道における平常心(ふだんの心)については、 兵法の道におゐて、心の持やうは、常の心に替る事なかれ。(宮本武蔵、五輪書、より)、また、僧、古徳ニ問フ、如何カ是レ道ト、古徳答テ曰ク、平常心(ふだんの心)是レ道ト。この話、諸道に通じたる道理也。道とは何たる事を云ぞととへば、常の心を道と云也、とこたへられたり。実に至極之事也。ーーー。此平常心をもって一切の事をなす人、是を名人と云也。(柳生但馬守宗矩、兵法家伝書、より)   

○ 阿吽(あうん)は、梵語a-humの音写で、阿は口を開いて出す最初の音、吽は口を閉じて出す最期の音です、最初と最期で、密教では、阿を万物の根源(原因、理)、吽を万物の結果(智、一切が帰着する智徳)とする。寺院山門の仁王、獅子、狛犬(こまいぬ)などは阿吽を表し、一は口を開き、他は口を閉じる。また、呼気と吸気、阿吽の呼吸は、共に一つの事をする時などの相互の微妙な調子や気持。(広辞苑より)

○ 和顔愛語(わげんあいご、わがんあいごとも)という言葉は、おだやかな顔でやさしい言葉をかけるという仏教用語です。大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)というお経の中に説かれている言葉です。笑顔と言葉によって人を幸せにすることが出来るという教えです。

 仏教の無財の七施には、和顔施(おだやかな顔)、慈眼施(やさしい眼差し)、愛語施(やさしい言葉)、身施(美しい身のふるまい)、心施(思いやりと感謝の心)、床座施(人に席をゆずる)、房舎施(自宅でのもてなし)などがあります。金品や物でなく、無財で人を幸せな気持ちにさせるお布施です。

 

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