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2010年6月27日 (日)

徒然草(吉田兼好、鎌倉末期)、つれづれなるままに、ある人が法然上人に、仁和寺にいたある法師、高徳の僧侶たちの言い置いたこと、八つになった年私は父に、とは(2010.6.27)

   徒然草(つれづれぐさ)と言えば、高等学校の国語(古文)の時間に、はじめて習った古典文学です。今から700年前、吉田兼好が書きつけた、序段と連想の243段からなる思索と見聞の随筆です。改めて目を通すと、そのような考え方、教え、生き方もあるものか、と感じ入りました。

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兼好法師画像吉田兼好、狩野探幽筆、google画像)

(解説) 吉田兼好(よしだけんこう、兼好法師とも)、1283年(弘安6年)?~1352年(文和元年)以降?は、鎌倉末期(南北朝期)の歌人、随筆家です。俗名は卜部兼好(うらべかねよし)、先祖京都吉田神社神主の家で、後世、吉田兼好とも言う。初め堀川家の家司、のち後二条天皇に仕えて左兵衛佐に至ります。天皇崩御後、1313年(昭和2年)9月以前、30才頃に出家、遁世しています。鎌倉末期の社会を活写した、徒然草のほか、自撰の兼好法師集があります。

 徒然草(つれづれぐさ)は、鎌倉末期の文学作品(随筆)で、朝廷に蔵人として仕えやがて遁世した吉田兼好(著者)が、48、9歳の頃、過去の時代の説話、見聞した同時代の話や書物から知り、聞いた故実や有職などを綴ったもので、鎌倉末期の社会の動きを知る歴史史料としても一級品です。

 その内容は、無常、求道、自然観、住環境、趣味、人間観察、人生訓、有職故実、考証、逸話、滑稽談など多岐にわたっています。宮廷社会の動きや都市化していった京都とその周辺の暮らし、風俗を知る上で貴重な情報を伝えています。上下2巻、244話(序段のほか、243段)構成、原本はないのでが、最古の正徹筆写本、伝東常縁書写本などがあり、流布本は烏丸本です。清少納言の枕草子と共に随筆文学の代表とされています。

 以下、序段、第39段、第52段、第98段、第143段は、寸言、求道、人生訓、滑稽談などに関するもので、面白く、印象に残りました。

○ (序段) つれづれなるままに、一日中机に向かい、心に移り行く思いをあれこれと書きつけると、妙(みょう)にあやしいきもちになる。

(解説) つれづれ(徒然)とは、これといってすることもなく、退屈(たいくつ)でひまなこと。ひとり物思いに沈み、しんみりすること。時間が長く、周りに人のいない孤独感も語感に含まれています。書名の中のは、書きつけた、くさ(種、話のたね、話題のもと、材料)の意味だと思います。兼好は、つれづれを活用して文章を書き、自分の世界を開きました。

○ (第39段) 或(あ)る人が 法然上人(ほうねんしょうにん)に、「念仏(ねんぶつ)を唱(とな)えるときに眠気(ねむけ)に襲われ行(ぎょう)を怠ることがあるのですが、どんなふうにしてその障碍(しょうがい)を乗り越えたらいいでしょう」と言ったところ、「目のさめているあいだは念仏を唱えていなさい」と答えられたそうだが、まことに尊(とうと)いことばだ。また「極楽浄土(ごくらくじょうど)に往生(おうじょう)する事は必ず出来るのだと思えば出来るし、出来そうもないと思えば不確(ふたし)かなことになる」と言われた。これも尊いことばだ。また「疑いながらも念仏を唱えれば往生できる」とも言われた。これもまた尊いことばだ。

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法然上人絵伝生涯の行状、国宝、京都知恩院蔵、google画像)

(解説) 法然上人、1133年(長承2年)~1212年(建暦2年)、鎌倉初期の僧、浄土宗の開祖、1147年(久安3年)15才、比叡山延暦寺で源光(生没年未詳)の門に入り、天台宗を学んだが、1150年(久安6年)18才、教学などに対する疑問を生じ、比叡山西塔、黒谷叡空(くろたにえいくう)のもとで20年間修学、唐(中国)の善導(ぜんどう)、613年(大業9年)~681年(永隆2年)、の観経疎(かんぎょうしょ、観無量寿経の注釈書)を読み、修念専仏(せんじゅねんぶつ、称名念仏、しょうみょうねんぶつ)、ひたすら南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)を口で唱える浄土宗を開きました。

 疑いながらも念仏を唱えれば往生できる、とは、浄土宗系の他力本願のことで、阿弥陀仏の発した願い、慈悲そのものが衆生を救う力で、それにすがるために念仏をひたすら唱える意、と言う。

 浄土宗の総本山、知恩院(ちおんいん)は、東山三十六峰の一つ、華頂山山麓に位置しています。境内には開祖法然上人の遺骨を奉じる廟堂もあり、民衆と強く結びついています。

○ (第52段) 仁和寺(にんなじ)に居た或(あ)る法師(ほうし)が、年をとるまで石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)に参詣(さんけい)したことがなかったので情(なさけ)ないことに思い、或る日思い立ってただひとり歩いてお参(まい)りした。麓(ふもと)の極楽寺(ごくらくじ)や高良社(こうらしゃ)などの末社(まっしゃ)を拝(おが)み、これだけのものと思いきめ、山上(さんじょう)の本社(ほんしゃ)には行かずに帰ってしまった。さて、仲間に会って、「長いあいだ思いつづけてきたことがやっと果たせて、やれやれだ。聞きしにまさる尊(とうと)いものであった。でも参詣の人がみんな山の方に登って行ったのは何があったのだろう。自分も行ってみたかったけれど、神詣(かみもうで)でこそ本筋(ほんすじ)と思い、山の上までは行かなかったよ」と言ったという。些細(ささい)なことにも、先達(せんだち)はほしいものだ。

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石清水八幡宮曼荼羅、山城、京都、根津美術館蔵、google画像)

(解説) 石清水八幡宮は男山山頂の本殿などの上院と、麓の下院に分かれ、下院に高良社があります。極楽寺は神社に付属する神護寺(神宮寺)で、現存していません。人々が山上に登るのは、八幡宮が男山の上にあるためです。

 ちょっとしたことでも、案内者(指導者)のいたほうが、大失敗を避(さ)けることができるものだ、との人生訓ですが、その法師を登場させて、当時の宗教界の不健全さを皮肉ったとも言われています。

 石清水八幡宮は、伊勢神宮に並ぶ神宮寺で、朝廷、武家の尊崇も厚く、天皇、上皇のおでましも多かったようです。因みに、仁和寺から石清水まで、一般には船で川を下って行くことが多いのですが、徒歩の場合は、八幡宮のある男山の麓、極楽寺、高良神社を通ることになるようです。

 仁和寺は、真言宗御室派の総本山で、888年に創建、年号の仁和によって名付けられました。皇室との関係が深く、法皇が住し、御室御所とも呼ばれていました。

 仁和寺の南に最高峰で100mほどの丘陵、双ヶ岡があり、その東麓に兼好は隠棲していたと言われています。そのため、仁和寺の僧とも何らかの交わりがあり、これはその時に耳にした話ではないかと思います。

 これ以外にも仁和寺の僧に関する逸話(第53段、第54段など)があります。 第53段の鼎(かなえ)をかぶって首が抜けなくなった僧の話は、小学校の学芸会の時に演じた想い出があります。

○ (第98段) 高徳(こうとく)の僧侶(そうりょ)たちの言い置いたことを書きつけ、「一言芳談(いちごんほうだん)」とか名づけた本を読み、心にかなって感銘(かんめい)したことの条々(じょうじょう)。 一、することにしようか、しないでおこうかと思い迷(まよ)ったことは、大方しない方がよい。一、死後の安楽(あんらく)を願う者は、ぬかみそ甕(かめ)一つも持ってはいけない。常住(じょうじゅう)所持するお経から守り本尊(ほんぞん)に至るまで、立派な品を持つのはつまらんことだ。一、出家遁世(しゅっけとんせい)した人は、物が無(な)いことに不自由を思わぬ方法を心がけて暮らすのが、一番よいやり方だ。一、上位の僧は下位の僧の心になり、智者(ちしゃ)は愚者(ぐしゃ)になり、物持ちは貧しき者の立場になり、芸能(げいのう)ある者は無能(むのう)に立ち返らなくてはいけない。一、仏道(ぶつどう)を願うというのはほかのことではない。閑(ひま)のある身上になって、世間(せけん)の事を心にかけぬことを第一とすることだ。このほかにもあったが忘れた。

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一言芳談和書、元禄2年刊、国文学研究資料館、google画像)

(解説) 一言芳談は、編者未詳(明遍の系譜の聖による編纂?)、浄土宗関係の高僧達による仮名法語の収録書です。兼好が考証した僧の望ましい生き方が述べられていると思います。

 ぬかみそは、原語は、糂汰(じんた)で、麹(こうじ)と糠(ぬか)と塩を混ぜて発酵させたもので、野菜や魚をつけた漬け物の床としてだけでなく、そのまま食べることもありました。

○ (第143段) 八つになった年、私は父に、「仏(ほとけ)とはどんなものですか」と問うた。父は、「仏とは人間が成(な)ったものだ」と言った。私はまた問うて「では人はどのようにして仏に成るのですか」ときくと、父はまた、「仏の教えによって成るのだ」と答えた。私はまた。「人に教えた仏には、何者(なにもの)が教えたのですか」ときいた。父は更(さら)に答えて。「その前の仏の教えによってそう成るのだ」。私はなお、「ではその教えはじめた第一番目の仏は、どんな仏ですか」ときくと。父は「はてさて、それは天(てん)から降ったか地から湧(わ)いたか」と言って笑っていた。そして。「子どもに問いつめられて、答えられなくなってしまった」と人々に語ってはおもしろがっていた。

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幼時の体験仏をめぐる父との問答、アニメ古典文学: http://www.sun-edu.co.jp/anime_koten/tsurezure/anime_4_tsurezure.htm、google画像)

(解説) 八歳の兼好が父に突きつけた問は、論理的な思考に貫(つらぬ)かれた難問で、父は即答できず、笑ってごまかしましたが、内心ではわが子の明晰(めいせき)な頭脳に舌を巻いたことと思います。兼好にとって、父との遠い想い出ですが、自分の思想の旅路を締めくくる意味もあり、また、老いると子どもに帰るとも言われ、このお話を最終段に持ってきたとも考えられています。一方、これは老いた今の自分も解けない難問と述べているようにも感じられます。

 吉田兼好の父は、卜部兼顕(うらべかねあき)で治部少輔、京都の吉田神社社務職の出とも言われています。治部省は僧尼、山陵、宮廷、雅楽などを司る役所で、少輔は従五位下に当たります。 

 吉田神社の歴史は古く、9世紀後半、藤原山蔭(やまかげ)が一族の繁栄を祈るために春日(かすが、奈良)四神を勧進(かんじん)したのを始まりとし、藤原道長(みちなが)の氏神社として信仰を集め、卜部(うらべ)氏が、代々神職を努めました。

 室町時代になって神職の卜部兼俱(うらべかねとも、のち吉田姓)が唯一神道(ゆいつしんとう、儒、仏、道の三教に対する神道の純粋性を主張)を唱え、大元宮(だいげんぐう、日本中の神社のご利益を一度に授かれるという)を創祠(そうし)、吉田流神道総家として大いに興隆しました。今でも中近世の絶大な権威のよすがを残しています。

 徒然草の中心思想は、無常観(むじょうかん)であると言われています。兼好は、平常心で無常と対座し、人の命も人の世も、はかないからこそ生きる価値があり、一瞬一瞬を大切にして生きるべきだと説きました。

(参考文献) 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 日本史事典、岩波書店(1999); 稲田利得編: 校注、徒然草、和泉書院(2004); 世界文化社CULTURE編集部(編)、島尾敏雄、堀田善衛(解説): 徒然草、方丈記、世界文化社(2006); 角川書店編(吉田兼好、武田友宏): 徒然草、角川学芸出版(2008).

(参考資料) 比叡山延暦寺、天台宗総本山、大津市(滋賀)、京都市(京都):http://www.hieizan.or.jp/

知恩院(浄土宗総本山、法然の廟所、林下町、東山区、京都): http://www.chion-in.or.jp/; 知恩院(浄土宗総本山、東山区、京都、google画像):http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E7%9F%A5%E6%81%A9%E9%99%A2&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi; 

仁和寺(ホームページ、御室、京都): http://www.ninnaji.or.jp/index.html

石清水八幡宮(ホームページ、山城、京都): http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/m_iwasimizu.htm

吉田神社http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/urochoro-yoshida-jinjya.htmhttp://www5.ocn.ne.jp/~yosida/

梁塵秘抄 (平安時代末期、後白河法皇編、今様歌謡集、巻第二 法文歌 雑法文歌、仏も昔は人なりき、-- -):http://www.nextftp.com/y_misa/ryoujin/hisyo_02.html. 仏も昔は人なりき われらも終には仏なり 三身仏性具せる身と 知らざりけるこそあはれなれ(仏も昔は人間だった。われらも最後には仏に成れるべき性質を本来備えている身だと知らずに、仏道をなおざりしているのは悲しいことだ。三身は法身、報身、応身で、いずれも仏の身を表すもので、三身仏性は仏性というのと同じ。衆生が本来備えている仏に成りうる資質をいう。植木朝子編、梁塵秘抄、角川ソフィア文庫、2009)

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