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2010年6月29日 (火)

空海(弘法大師)と最澄(伝教大師)が遣唐使に随行して学んだ中国の青龍寺(西安)と天台山国清寺(杭州)、とは(2010.6.29)

  平安時代のはじめ、遣唐使(けんとうし)に随行して、空海は入唐し、西安(もと長安)の青龍寺の恵果に密教を学び、帰朝して真言宗を開き、一方、最澄も、同じく入唐し、杭州天台山国清寺の行満、道邃らに天台教学を学び、帰朝して天台宗を開きました。そこで、中国の青龍寺と天台山国清寺をインターネットで検索し、現在の状況を調べて見ました。

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青龍寺(西安)と天台山国清寺(杭州)の位置(中国、google画像)

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青龍寺空海記念石碑(もと中国の密教の中心的寺院、西安市、google画像)

(解説) 青龍寺(せいりゅうじ、しょうりゅうじとも)は、中国の長安(のち西安)の東南隅(鉄炉廟村)にあった寺で、582年隋の文帝が霊感寺を創建、711年改称、766年より名僧不空の弟子、恵果が入山し、804年に入唐した空海が密教の法を受けるなど、唐代の密教の中心的な寺院でした。

 そして、空海のほか、円仁、円行、円珍、彗遠、円載、恵運、宗睿など、日本の僧がこの寺で密教を修行しました。 円行、円載、恵運などは真言宗の僧であり、東密(東寺の密教、真言宗の密教)に対して、円仁、円珍、円載などは天台宗の僧であり、天台学と密教の融合であり、台密(たいみつ、天台宗の密教)と言う。彗遠、宗睿は浄土宗の僧です。

 845年全国的に廃仏事件が起こり、青龍寺も廃棄され、皇家の内苑となり、その翌年5月に再び護国寺として復活しましたが、次第に荒廃して行きました。後年、青龍寺遺跡は中華人民共和国成立後に重要文化遺跡に指定され、1982年、西安人民政府により発掘調査が行われました。

 空海に因縁のある日本の四国四県と真言宗の門徒は、中国仏教協会及び西安市政府の協力の下に、1982年2月、青龍寺遺跡に、空海記念碑が建立されました。記念碑のそばの四つの大きな円形の石塔は、日本の四国四県を象徴しています。

 また、1984年には、西安市(中国)の提唱により、空海崇拝者(日本)の協賛を得て、青龍寺の東塔院遺跡に恵果・空海記念堂が建てられ、堂の中には空海と恵果の説法像が並べられています。また寺院には人々が楽しむ庭園も造られています。

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空海(弘法大師、京都・東寺 所蔵): http://urano.org/kankou/topics/kuukai/

 空海(774~835、宝亀5~承和2)は、讃岐(香川)生まれ、平安初期、真言宗の開祖、諡号(しごう)は弘法大師です。初め大学で学び、のち仏門に入り四国で修行、804年(延暦23年)入唐して青竜寺の恵果に学び、806年(大同元年)秋に帰朝、すぐに京にのぼらず、九州太宰府の観世音寺などに滞在、政庁には「御請来目録(ごしょうらいもくろく)」を提出しています。

 809年(大同4年)春に九州を出た空海は、和泉国、槙尾山寺に向かい、ここで密教の理論的教義をまとめ、809年(大同4年)7月、満を持して京都に入り、最澄ともゆかりの深い京都西北の髙雄山寺(神護寺)に住むことになりました。ここで812年(弘仁3年)最澄灌頂を行っています。その後、810年(弘仁元年)には奈良の東大寺の別当になっています。

 また、823年(弘仁14年)京都の東寺を与えられ、密教道場として造営、また、816年(弘仁7年)開山が認められられた高野山金剛峯寺の経営に務めたほか、宮中真言院や後七日御修法の設営によって真言密教を国家仏教として定着させました。

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天台山国清寺、中国の天台宗の発祥地、杭州市、google画像)

(解説) 天台山(てんだいさん、天梯山、台岳とも)は、浙江省の北方、杭州市にある天台宗の淵叢たる仏教の名山です。峨眉山、五台山と共に中国仏教三大霊場の一つです。天台山国清寺は、575年智顗(ちぎ)が天台宗を開いた旧跡で、天台宗教学の根本道場です。最澄、また通訳を兼ねて伴い入唐した義真(弟子)もここで学んでいます。

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最澄(伝教大師、兵庫・一乗寺 所蔵): http://www5a.biglobe.ne.jp/~outfocus/eurail/pilgrim/nenpyou-kuukai.htm

 最澄(767~822年)は、近江(滋賀)生まれ、平安初期、天台宗の開祖、諡号(しごう)は伝教大師(叡山大師、根本大師、山家大師とも)です。近江国分寺で得度、785年(延暦4年)受戒後、比叡山で修行、華厳教学を通じて天台教学に出会いました。804年(延暦23年)入唐天台山国清寺で行満、道邃から天台教学と菩薩戒、翛然から牛頭禅、帰路の越州(竜興寺)で順暁(密教の高僧ですが、正当な継承者ではなく、空海の師匠の惠果の友人)から金剛界密教を学んで、805年(延暦24年)帰朝、天台宗を開創しました。

 最澄は、天台教学のほか、密教(正式なものではなかったので、のち空海から灌頂を受ける!)、禅、戒律をも合わせて伝えたので、日本の天台宗は総合的な学風を特徴としています。日本の仏教の主流、特に鎌倉時代の新仏教(浄土宗、日蓮宗、禅宗など)の指導者達は、すべてこの門から出ました。

(参考文献) 下中邦彦編:小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 日本史事典、岩波書店(1999); 梅原猛: 日本仏教をゆく、朝日新聞出版(2009).

(参考資料) 青龍寺(Hatenaブログ、西安、中国): http://d.hatena.ne.jp/xiaojun/20081025/1224941970

天台山(中国ネット、国清寺、杭州、中国): http://www.zh5000.com/ZHJD/zgsm/zgsm-0017.htm; 天台山(広済寺ホームページ、国清寺、杭州、中国): http://www.kosaiji.org/pilgrim/china/kokusei.htm

(追加説明) ○ 最澄と空海の生き方について、次のような解説があります。

 最澄と空海は同時代の人である。最澄が神護景雲元年(767)生れ、空海は7年後の宝亀5年(774)の生れである。二人の生きた時代は、平城京から長岡京、さらに平安京へと三度も遷都するような、律令体制の動揺期であった。

 延暦23年(804)、桓武天皇の命を受けて、最澄・空海ともに遣唐使の一行に参加することとなり、空海は第一船で、最澄は第二船でそれぞれ入唐した。最澄は明州に着き、天台山に入った。最澄の天台山入りの目的は、入唐前からいだいていた天台の信仰を天台山で確かめることにあった。空海は長安京に入って西明寺に留まり、のち青竜寺において真言密教の権威・恵果の指導を受けた。空海の持ち帰った経論は、216部451巻という。

 最澄は翌年帰国し、天台宗を開き、勅願を得て、叡山の草堂を延暦寺とし、経王護国寺を与えられ真言道場とした。空海は2年後に帰朝し、弘仁2年(816)、高野山に金剛峰寺を建てた。この年、弟子の去就をめぐる争いから最澄と空海は親交を絶った。

 両者は、平安仏教の開創者として、また双璧として、しばしば生き方が比較される。最澄は死ぬまで、仏教の旧勢力である南都仏教と争った。逆に空海は思想的に弾力性に富み、ことをあらだてずに生きた人であった。(樋口清之監修、生活歳時記、三宝出版、p.117、1994、より)

○ 空海は、815年(弘仁6年)3月、42才、勧縁疏を著し、東国の弟子に遣わし、新請来の密教経論の書写流布と如法の修行を依頼し、また、秋には西国(筑紫)にも密教経論の書写を依頼しています。816年(弘仁7年)6月19日、43才、高野山を修禅の道場の地として乞い、7月8日、高野山開創が勅許されました。821年(弘仁12年)5月27日、48才、讃岐国、満濃池の築池別当に補せられました。 高野山真言宗 総本山金剛峯寺(ホームページ): http://www.koyasan.or.jp/index.html

 822年(弘仁13年)、49才、東大寺潅頂道場が創設され、空海に修法が命じられました。この年に最澄(56才)が比叡山寺中道院にて入寂。823年(弘仁14年)1月19日、50才、東寺(京都)が永く空海に給頂され、東寺に真言宗僧50人を住せしめました。

 828年(天長5年)、55才、綜芸種智院(庶民のための私立学校)を創設。830年(天長7年)、57才、十住心論、10巻を撰述。832年(天長9年)8月23日、59才、高野山にて万燈万華の法会を修す。835年(承和年)2月30日、62才、金剛峯寺定額寺となし、同年、3月21日、高野山にて入定しました。

○ 四国霊場八十八ヶ所の奥の院(もと洞窟、のち、小屋、お堂、お寺へ)にお参りすると、本当の四国遍路の意味が分かると言われています。四国霊場、奥の院物語(四十八ヶ所を紹介): http://www.fmkagawa.co.jp/staff/ohenro/okunoin0.htm

 四国遍路の始まりは、四国の辺路修行で、空海(弘法大師)もその道を辿り、後に空海の跡を慕った修行者が辺路修行を行い、さらに一般の人もお参りするようになり、辺路(地の果て、海と陸との境)が遍路になったと言われています。(参考文献) 五来重: 四国遍路の寺、上、下、角川学芸出版(2009). 

 平安時代、真言宗の開祖、空海(くうかい、弘法大師)、774年(宝亀5年)~835年(承和2年)には、十大弟子がいますが、その五人が四国の出身です。四国に詳しいお弟子さん達が空海のアドバイスを受けながら、四国の路を踏まれました。これがお大師さまと同行二人の四国遍路の最初であると考えられ、空海42才、四国霊場の開創説がそれを今に伝えています。

 しかし、空海が42才の頃は、京都で密教の布教に務めており、42才の厄年の時に四国八十八ヶ所が開創されたという説は俗説とも言われています。この頃は、京都で勧縁疎の著述、密教経論の書写依頼、真言宗がまだ一般に知られず確立されていない状態のため、お弟子さんによる地方への普及などに力を入れていました。

 空海は43才の時、高野山を修禅の地として乞い、嵯峨天皇(さがてんのう)、786年(延暦5年)~842年(承和9年)から開創が勅許され、45才の時、高野山に登り、禅院を経営しています。

○ 世界遺産 高野山空海の聖地 紀伊山地の霊場と参詣道、2007年(平成19年)9月20日(木)、NHK放送によれば、

 弘法大師、空海は、24才の時、出家の宣言書(三教指帰)を書き、その後、修行の場を紀伊の山に開きました。

 町石道(ちょういしみち)には、町石と呼ばれる道標(みちしるべ)が1丁ごとに立っています。高野山に詣でる人々が迷わないためです。巡礼者は町石を仏と見なし、参拝しながら歩きます。町石道を歩いて20km、標高800mの山頂に空海の開いた真言密教の霊場が現れます。平安時代の初めに建てられた大伽藍(だいがらん)、鮮やかな朱色(しゅいろ)の塔は、真言密教の根本大塔で、空海の開いた真言密教の教義を表した空間です。大日如来(だいにちにょらい)は宇宙の根本原理を示す最も重要な仏です。

 奥の院の空海廟、空海はここに眠っています。この世が続き、人々が救いを求める限り、私は仏の教えを伝え続ける。そう誓(ちか)った空海は、坐禅を組んだまま息を引き取りました。835年のことです。

 空海の死後、高野山は200年以上にわたって荒廃します。平安中期に立ち上がったのは、空海の徳を慕った他宗派の僧たちでした。国宝、仏涅槃像(ぶつねはんぞう)、復興にあたった僧たちが絵師に描かせたのは、真言密教の大日如来ではなく、全ての仏教徒に受け入れられる釈迦如来(しゃかにょらい)でした。

 釈迦の臨終に接して慟哭(どうこく)、嗚咽(おえつ)する弟子たち、復興にあたって僧たちは、この仏画を中心に法会を開き、資金を集めたと言われています。

 幅広い信仰を集めるようになった高野山には、さまざまな宝物(ほうぶつ)が納められました。八大童子立像(はちだいどうじりゅうぞう)、鎌倉時代に活躍した仏師(ぶっし)、運慶(うんけい)とその弟子たちの作とされています。豊かな肉体表現と凛々(りり)しい表情、生き生きとした目には水晶が入っています。

 国宝、阿弥陀衆生来迎図(あみだしゅじょうらいこうず)、人が死ぬ時には阿弥陀如来が迎えに来てくれるという、浄土信仰(じょうどしんこう)に基づいて描かれた傑作です。もとは比叡山の秘宝でしたが、織田信長の焼き討ちの時に持ち出され、それを入手した豊臣秀吉が高野山に奉納したと言われています。

 空海の眠る奥の院への参道には、無数の墓石が立ち並び、中には公家や大名の墓もあります。無縁仏となった墓碑や地蔵が積まれた巨大な塚、聖地高野山の空海の膝元(ひざもと)で永遠の眠りにつきたい、そう願った無数の人々の思いの結晶です。

○ 密教(みっきょう)は、容易に知り得ない秘密の教え(教主は大日如来、宇宙の真理を仏とする教え、灌頂(かんじょう)や口伝などにより継承の意。仏教の流派の一。インドの大乗仏教の発展の極に現れ、中国、日本のほか、ネパール、チベットなどにも広まった。わが国では、真言宗系東蜜天台宗系台密とがある。秘密教。秘密仏教。一方、顕教(けんぎょう)は、言語文字で明らかに説き示された釈尊(釈迦)の教え。密教にと対比して、密教以外のすべての仏教を含む。顕宗。(広辞苑より)

○ 天台宗(てんだいしゅう)は、最澄比叡山で開祖、日本で興った最初の宗派で、日本仏教の母体となり、比叡山からは多くの名僧を生みました。「法華経」を根本教典とし「すべての衆生は仏になれる」と説く。

 真言宗(しんごんしゅう)は、空海高野山で開祖、永遠の宇宙仏である大日如来を真実の仏とし、「大日教」や「金剛頂教」などを教典に、大日如来と一体化して修行を行えば「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」(この身このまま仏になる)できると説く。(日本の仏教、2004年(平成16年)10月31日(日)、北陸中日新聞、朝刊より)

〇 天台宗の総本山、比叡山延暦寺。150の堂塔が点在する厳かな山内で、とりわけ清浄な雰囲気に包まれているのが宗祖の伝教大師・最澄廟所がある浄土院。鎮護国家の道場として最澄が開創して以来、1200年以上の歴史をもつ比叡山では、様々な厳しい修業が連綿と続けられてきた。

 中でも、「千日回峰行」と並ぶ難行とあれるのが、浄土院での「十二年籠山行」である。文字どおり12年間、山にこもる。外界との接触を断ち、一日も欠かすことなく、最澄の真影(絵像)に膳を供え、お勤めを行う。最澄の魂が今も生きているとして真影に仕えることから、修行僧は「侍真(じしん)」と呼ばれる。最下鈍の者も12年を経れば必ず一験を得る、と最澄は著書「顕戒論」に記している。

 山中を巡る回峰行が「」ならば、浄土院の十二年籠山行は「」の修行。勤行、大師への献膳、修法、掃除、---。定められた日課を毎日同じように繰り返す。静寂の中で一心に大師に仕え、学び、己を見つめる日々

 「一隅を照らす。これ則ち国宝なり」。修行により自らを高め、社会を明るく輝かせる人材を育てようと最澄は比叡山を開いた。今も一日も欠かさず祈りが捧げられている。武覚超・延暦寺長臈(69)は語る。「国の安泰と人々の平安を祈る。これこそが1200年の昔も今も変わらない叡山の大切な使命、役割なのです」

(朝日新聞(久保智祥): 時紀行 12年 静寂の山 比叡山 一心に修行、2017年(平成29年)6月10日(土)より)

〇 天台宗「千日回峰行」 地球1周分 住職が踏破  

 比叡山延暦寺(大津市)の一山善住院住職、釜堀浩元さん(43)が2017年9月18日、比叡山中などを巡礼し、地球一周分に当たる約4万キロを踏破する天台宗の荒行「千日回峰行」を終えた。記録が残る比叡山焼き討ち(1571年)以降51人目で、戦後14人目。

 釜堀さんはこの日、未明に山内にある玉照院を出発、約300ヵ所を巡拝しながら約30キロ歩き、午前9時ごろ回峰行の拠点、明王堂に帰還した。早朝から集まった約200人の信徒たちが出迎えた。釜堀さんは「これからは支えてくれた方々のために祈り、少しでもみなさんのためになるお坊さんになれるよう精進していきたい」と語った。

 釜堀さんは福岡県出身で、2011年3月に回峰行を始めた。今後は「北峰大行満大阿闍梨」の称号で呼ばれる。千日回峰行は、比叡山や京都市内などを約千日間かけて巡礼する修行で、断食、不眠で明王堂内に9日間こもる「堂入り」の難行も含まれる。今年は、千日回峰行の創始者とされる相応和尚の1100回忌に当たる。(北陸中日新聞、2017.9.19、朝刊)

 

 

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