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2010年6月の13件の記事

2010年6月29日 (火)

空海(弘法大師)と最澄(伝教大師)が遣唐使に随行して学んだ中国の青龍寺(西安)と天台山国清寺(杭州)、とは(2010.6.29)

  平安時代のはじめ、遣唐使(けんとうし)に随行して、空海は入唐し、西安(もと長安)の青龍寺の恵果に密教を学び、帰朝して真言宗を開き、一方、最澄も、同じく入唐し、杭州天台山国清寺の行満、道邃らに天台教学を学び、帰朝して天台宗を開きました。そこで、中国の青龍寺と天台山国清寺をインターネットで検索し、現在の状況を調べて見ました。

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青龍寺(西安)と天台山国清寺(杭州)の位置(中国、google画像)

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青龍寺空海記念石碑(もと中国の密教の中心的寺院、西安市、google画像)

(解説) 青龍寺(せいりゅうじ、しょうりゅうじとも)は、中国の長安(のち西安)の東南隅(鉄炉廟村)にあった寺で、582年隋の文帝が霊感寺を創建、711年改称、766年より名僧不空の弟子、恵果が入山し、804年に入唐した空海が密教の法を受けるなど、唐代の密教の中心的な寺院でした。

 そして、空海のほか、円仁、円行、円珍、彗遠、円載、恵運、宗睿など、日本の僧がこの寺で密教を修行しました。 円行、円載、恵運などは真言宗の僧であり、東密(東寺の密教、真言宗の密教)に対して、円仁、円珍、円載などは天台宗の僧であり、天台学と密教の融合であり、台密(たいみつ、天台宗の密教)と言う。彗遠、宗睿は浄土宗の僧です。

 845年全国的に廃仏事件が起こり、青龍寺も廃棄され、皇家の内苑となり、その翌年5月に再び護国寺として復活しましたが、次第に荒廃して行きました。後年、青龍寺遺跡は中華人民共和国成立後に重要文化遺跡に指定され、1982年、西安人民政府により発掘調査が行われました。

 空海に因縁のある日本の四国四県と真言宗の門徒は、中国仏教協会及び西安市政府の協力の下に、1982年2月、青龍寺遺跡に、空海記念碑が建立されました。記念碑のそばの四つの大きな円形の石塔は、日本の四国四県を象徴しています。

 また、1984年には、西安市(中国)の提唱により、空海崇拝者(日本)の協賛を得て、青龍寺の東塔院遺跡に恵果・空海記念堂が建てられ、堂の中には空海と恵果の説法像が並べられています。また寺院には人々が楽しむ庭園も造られています。

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空海(弘法大師、京都・東寺 所蔵): http://urano.org/kankou/topics/kuukai/

 空海(774~835、宝亀5~承和2)は、讃岐(香川)生まれ、平安初期、真言宗の開祖、諡号(しごう)は弘法大師です。初め大学で学び、のち仏門に入り四国で修行、804年(延暦23年)入唐して青竜寺の恵果に学び、806年(大同元年)秋に帰朝、すぐに京にのぼらず、九州太宰府の観世音寺などに滞在、政庁には「御請来目録(ごしょうらいもくろく)」を提出しています。

 809年(大同4年)春に九州を出た空海は、和泉国、槙尾山寺に向かい、ここで密教の理論的教義をまとめ、809年(大同4年)7月、満を持して京都に入り、最澄ともゆかりの深い京都西北の髙雄山寺(神護寺)に住むことになりました。ここで812年(弘仁3年)最澄灌頂を行っています。その後、810年(弘仁元年)には奈良の東大寺の別当になっています。

 また、823年(弘仁14年)京都の東寺を与えられ、密教道場として造営、また、816年(弘仁7年)開山が認められられた高野山金剛峯寺の経営に務めたほか、宮中真言院や後七日御修法の設営によって真言密教を国家仏教として定着させました。

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天台山国清寺、中国の天台宗の発祥地、杭州市、google画像)

(解説) 天台山(てんだいさん、天梯山、台岳とも)は、浙江省の北方、杭州市にある天台宗の淵叢たる仏教の名山です。峨眉山、五台山と共に中国仏教三大霊場の一つです。天台山国清寺は、575年智顗(ちぎ)が天台宗を開いた旧跡で、天台宗教学の根本道場です。最澄、また通訳を兼ねて伴い入唐した義真(弟子)もここで学んでいます。

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最澄(伝教大師、兵庫・一乗寺 所蔵): http://www5a.biglobe.ne.jp/~outfocus/eurail/pilgrim/nenpyou-kuukai.htm

 最澄(767~822年)は、近江(滋賀)生まれ、平安初期、天台宗の開祖、諡号(しごう)は伝教大師(叡山大師、根本大師、山家大師とも)です。近江国分寺で得度、785年(延暦4年)受戒後、比叡山で修行、華厳教学を通じて天台教学に出会いました。804年(延暦23年)入唐天台山国清寺で行満、道邃から天台教学と菩薩戒、翛然から牛頭禅、帰路の越州(竜興寺)で順暁(密教の高僧ですが、正当な継承者ではなく、空海の師匠の惠果の友人)から金剛界密教を学んで、805年(延暦24年)帰朝、天台宗を開創しました。

 最澄は、天台教学のほか、密教(正式なものではなかったので、のち空海から灌頂を受ける!)、禅、戒律をも合わせて伝えたので、日本の天台宗は総合的な学風を特徴としています。日本の仏教の主流、特に鎌倉時代の新仏教(浄土宗、日蓮宗、禅宗など)の指導者達は、すべてこの門から出ました。

(参考文献) 下中邦彦編:小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 日本史事典、岩波書店(1999); 梅原猛: 日本仏教をゆく、朝日新聞出版(2009).

(参考資料) 青龍寺(Hatenaブログ、西安、中国): http://d.hatena.ne.jp/xiaojun/20081025/1224941970

天台山(中国ネット、国清寺、杭州、中国): http://www.zh5000.com/ZHJD/zgsm/zgsm-0017.htm; 天台山(広済寺ホームページ、国清寺、杭州、中国): http://www.kosaiji.org/pilgrim/china/kokusei.htm

(追加説明) ○ 最澄と空海の生き方について、次のような解説があります。

 最澄と空海は同時代の人である。最澄が神護景雲元年(767)生れ、空海は7年後の宝亀5年(774)の生れである。二人の生きた時代は、平城京から長岡京、さらに平安京へと三度も遷都するような、律令体制の動揺期であった。

 延暦23年(804)、桓武天皇の命を受けて、最澄・空海ともに遣唐使の一行に参加することとなり、空海は第一船で、最澄は第二船でそれぞれ入唐した。最澄は明州に着き、天台山に入った。最澄の天台山入りの目的は、入唐前からいだいていた天台の信仰を天台山で確かめることにあった。空海は長安京に入って西明寺に留まり、のち青竜寺において真言密教の権威・恵果の指導を受けた。空海の持ち帰った経論は、216部451巻という。

 最澄は翌年帰国し、天台宗を開き、勅願を得て、叡山の草堂を延暦寺とし、経王護国寺を与えられ真言道場とした。空海は2年後に帰朝し、弘仁2年(816)、高野山に金剛峰寺を建てた。この年、弟子の去就をめぐる争いから最澄と空海は親交を絶った。

 両者は、平安仏教の開創者として、また双璧として、しばしば生き方が比較される。最澄は死ぬまで、仏教の旧勢力である南都仏教と争った。逆に空海は思想的に弾力性に富み、ことをあらだてずに生きた人であった。(樋口清之監修、生活歳時記、三宝出版、p.117、1994、より)

○ 空海は、815年(弘仁6年)3月、42才、勧縁疏を著し、東国の弟子に遣わし、新請来の密教経論の書写流布と如法の修行を依頼し、また、秋には西国(筑紫)にも密教経論の書写を依頼しています。816年(弘仁7年)6月19日、43才、高野山を修禅の道場の地として乞い、7月8日、高野山開創が勅許されました。821年(弘仁12年)5月27日、48才、讃岐国、満濃池の築池別当に補せられました。 高野山真言宗 総本山金剛峯寺(ホームページ): http://www.koyasan.or.jp/index.html

 822年(弘仁13年)、49才、東大寺潅頂道場が創設され、空海に修法が命じられました。この年に最澄(56才)が比叡山寺中道院にて入寂。823年(弘仁14年)1月19日、50才、東寺(京都)が永く空海に給頂され、東寺に真言宗僧50人を住せしめました。

 828年(天長5年)、55才、綜芸種智院(庶民のための私立学校)を創設。830年(天長7年)、57才、十住心論、10巻を撰述。832年(天長9年)8月23日、59才、高野山にて万燈万華の法会を修す。835年(承和年)2月30日、62才、金剛峯寺定額寺となし、同年、3月21日、高野山にて入定しました。

○ 四国霊場八十八ヶ所の奥の院(もと洞窟、のち、小屋、お堂、お寺へ)にお参りすると、本当の四国遍路の意味が分かると言われています。四国霊場、奥の院物語(四十八ヶ所を紹介): http://www.fmkagawa.co.jp/staff/ohenro/okunoin0.htm

 四国遍路の始まりは、四国の辺路修行で、空海(弘法大師)もその道を辿り、後に空海の跡を慕った修行者が辺路修行を行い、さらに一般の人もお参りするようになり、辺路(地の果て、海と陸との境)が遍路になったと言われています。(参考文献) 五来重: 四国遍路の寺、上、下、角川学芸出版(2009). 

 平安時代、真言宗の開祖、空海(くうかい、弘法大師)、774年(宝亀5年)~835年(承和2年)には、十大弟子がいますが、その五人が四国の出身です。四国に詳しいお弟子さん達が空海のアドバイスを受けながら、四国の路を踏まれました。これがお大師さまと同行二人の四国遍路の最初であると考えられ、空海42才、四国霊場の開創説がそれを今に伝えています。

 しかし、空海が42才の頃は、京都で密教の布教に務めており、42才の厄年の時に四国八十八ヶ所が開創されたという説は俗説とも言われています。この頃は、京都で勧縁疎の著述、密教経論の書写依頼、真言宗がまだ一般に知られず確立されていない状態のため、お弟子さんによる地方への普及などに力を入れていました。

 空海は43才の時、高野山を修禅の地として乞い、嵯峨天皇(さがてんのう)、786年(延暦5年)~842年(承和9年)から開創が勅許され、45才の時、高野山に登り、禅院を経営しています。

○ 世界遺産 高野山空海の聖地 紀伊山地の霊場と参詣道、2007年(平成19年)9月20日(木)、NHK放送によれば、

 弘法大師、空海は、24才の時、出家の宣言書(三教指帰)を書き、その後、修行の場を紀伊の山に開きました。

 町石道(ちょういしみち)には、町石と呼ばれる道標(みちしるべ)が1丁ごとに立っています。高野山に詣でる人々が迷わないためです。巡礼者は町石を仏と見なし、参拝しながら歩きます。町石道を歩いて20km、標高800mの山頂に空海の開いた真言密教の霊場が現れます。平安時代の初めに建てられた大伽藍(だいがらん)、鮮やかな朱色(しゅいろ)の塔は、真言密教の根本大塔で、空海の開いた真言密教の教義を表した空間です。大日如来(だいにちにょらい)は宇宙の根本原理を示す最も重要な仏です。

 奥の院の空海廟、空海はここに眠っています。この世が続き、人々が救いを求める限り、私は仏の教えを伝え続ける。そう誓(ちか)った空海は、坐禅を組んだまま息を引き取りました。835年のことです。

 空海の死後、高野山は200年以上にわたって荒廃します。平安中期に立ち上がったのは、空海の徳を慕った他宗派の僧たちでした。国宝、仏涅槃像(ぶつねはんぞう)、復興にあたった僧たちが絵師に描かせたのは、真言密教の大日如来ではなく、全ての仏教徒に受け入れられる釈迦如来(しゃかにょらい)でした。

 釈迦の臨終に接して慟哭(どうこく)、嗚咽(おえつ)する弟子たち、復興にあたって僧たちは、この仏画を中心に法会を開き、資金を集めたと言われています。

 幅広い信仰を集めるようになった高野山には、さまざまな宝物(ほうぶつ)が納められました。八大童子立像(はちだいどうじりゅうぞう)、鎌倉時代に活躍した仏師(ぶっし)、運慶(うんけい)とその弟子たちの作とされています。豊かな肉体表現と凛々(りり)しい表情、生き生きとした目には水晶が入っています。

 国宝、阿弥陀衆生来迎図(あみだしゅじょうらいこうず)、人が死ぬ時には阿弥陀如来が迎えに来てくれるという、浄土信仰(じょうどしんこう)に基づいて描かれた傑作です。もとは比叡山の秘宝でしたが、織田信長の焼き討ちの時に持ち出され、それを入手した豊臣秀吉が高野山に奉納したと言われています。

 空海の眠る奥の院への参道には、無数の墓石が立ち並び、中には公家や大名の墓もあります。無縁仏となった墓碑や地蔵が積まれた巨大な塚、聖地高野山の空海の膝元(ひざもと)で永遠の眠りにつきたい、そう願った無数の人々の思いの結晶です。

○ 密教(みっきょう)は、容易に知り得ない秘密の教え(教主は大日如来、宇宙の真理を仏とする教え、灌頂(かんじょう)や口伝などにより継承の意。仏教の流派の一。インドの大乗仏教の発展の極に現れ、中国、日本のほか、ネパール、チベットなどにも広まった。わが国では、真言宗系東蜜天台宗系台密とがある。秘密教。秘密仏教。一方、顕教(けんぎょう)は、言語文字で明らかに説き示された釈尊(釈迦)の教え。密教にと対比して、密教以外のすべての仏教を含む。顕宗。(広辞苑より)

○ 天台宗(てんだいしゅう)は、最澄比叡山で開祖、日本で興った最初の宗派で、日本仏教の母体となり、比叡山からは多くの名僧を生みました。「法華経」を根本教典とし「すべての衆生は仏になれる」と説く。

 真言宗(しんごんしゅう)は、空海高野山で開祖、永遠の宇宙仏である大日如来を真実の仏とし、「大日教」や「金剛頂教」などを教典に、大日如来と一体化して修行を行えば「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」(この身このまま仏になる)できると説く。(日本の仏教、2004年(平成16年)10月31日(日)、北陸中日新聞、朝刊より)

〇 天台宗の総本山、比叡山延暦寺。150の堂塔が点在する厳かな山内で、とりわけ清浄な雰囲気に包まれているのが宗祖の伝教大師・最澄廟所がある浄土院。鎮護国家の道場として最澄が開創して以来、1200年以上の歴史をもつ比叡山では、様々な厳しい修業が連綿と続けられてきた。

 中でも、「千日回峰行」と並ぶ難行とあれるのが、浄土院での「十二年籠山行」である。文字どおり12年間、山にこもる。外界との接触を断ち、一日も欠かすことなく、最澄の真影(絵像)に膳を供え、お勤めを行う。最澄の魂が今も生きているとして真影に仕えることから、修行僧は「侍真(じしん)」と呼ばれる。最下鈍の者も12年を経れば必ず一験を得る、と最澄は著書「顕戒論」に記している。

 山中を巡る回峰行が「」ならば、浄土院の十二年籠山行は「」の修行。勤行、大師への献膳、修法、掃除、---。定められた日課を毎日同じように繰り返す。静寂の中で一心に大師に仕え、学び、己を見つめる日々

 「一隅を照らす。これ則ち国宝なり」。修行により自らを高め、社会を明るく輝かせる人材を育てようと最澄は比叡山を開いた。今も一日も欠かさず祈りが捧げられている。武覚超・延暦寺長臈(69)は語る。「国の安泰と人々の平安を祈る。これこそが1200年の昔も今も変わらない叡山の大切な使命、役割なのです」

(朝日新聞(久保智祥): 時紀行 12年 静寂の山 比叡山 一心に修行、2017年(平成29年)6月10日(土)より)

〇 天台宗「千日回峰行」 地球1周分 住職が踏破  

 比叡山延暦寺(大津市)の一山善住院住職、釜堀浩元さん(43)が2017年9月18日、比叡山中などを巡礼し、地球一周分に当たる約4万キロを踏破する天台宗の荒行「千日回峰行」を終えた。記録が残る比叡山焼き討ち(1571年)以降51人目で、戦後14人目。

 釜堀さんはこの日、未明に山内にある玉照院を出発、約300ヵ所を巡拝しながら約30キロ歩き、午前9時ごろ回峰行の拠点、明王堂に帰還した。早朝から集まった約200人の信徒たちが出迎えた。釜堀さんは「これからは支えてくれた方々のために祈り、少しでもみなさんのためになるお坊さんになれるよう精進していきたい」と語った。

 釜堀さんは福岡県出身で、2011年3月に回峰行を始めた。今後は「北峰大行満大阿闍梨」の称号で呼ばれる。千日回峰行は、比叡山や京都市内などを約千日間かけて巡礼する修行で、断食、不眠で明王堂内に9日間こもる「堂入り」の難行も含まれる。今年は、千日回峰行の創始者とされる相応和尚の1100回忌に当たる。(北陸中日新聞、2017.9.19、朝刊)

 

 

2010年6月27日 (日)

徒然草(吉田兼好、鎌倉末期)、つれづれなるままに、ある人が法然上人に、仁和寺にいたある法師、高徳の僧侶たちの言い置いたこと、八つになった年私は父に、とは(2010.6.27)

   徒然草(つれづれぐさ)と言えば、高等学校の国語(古文)の時間に、はじめて習った古典文学です。今から700年前、吉田兼好が書きつけた、序段と連想の243段からなる思索と見聞の随筆です。改めて目を通すと、そのような考え方、教え、生き方もあるものか、と感じ入りました。

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兼好法師画像吉田兼好、狩野探幽筆、google画像)

(解説) 吉田兼好(よしだけんこう、兼好法師とも)、1283年(弘安6年)?~1352年(文和元年)以降?は、鎌倉末期(南北朝期)の歌人、随筆家です。俗名は卜部兼好(うらべかねよし)、先祖京都吉田神社神主の家で、後世、吉田兼好とも言う。初め堀川家の家司、のち後二条天皇に仕えて左兵衛佐に至ります。天皇崩御後、1313年(昭和2年)9月以前、30才頃に出家、遁世しています。鎌倉末期の社会を活写した、徒然草のほか、自撰の兼好法師集があります。

 徒然草(つれづれぐさ)は、鎌倉末期の文学作品(随筆)で、朝廷に蔵人として仕えやがて遁世した吉田兼好(著者)が、48、9歳の頃、過去の時代の説話、見聞した同時代の話や書物から知り、聞いた故実や有職などを綴ったもので、鎌倉末期の社会の動きを知る歴史史料としても一級品です。

 その内容は、無常、求道、自然観、住環境、趣味、人間観察、人生訓、有職故実、考証、逸話、滑稽談など多岐にわたっています。宮廷社会の動きや都市化していった京都とその周辺の暮らし、風俗を知る上で貴重な情報を伝えています。上下2巻、244話(序段のほか、243段)構成、原本はないのでが、最古の正徹筆写本、伝東常縁書写本などがあり、流布本は烏丸本です。清少納言の枕草子と共に随筆文学の代表とされています。

 以下、序段、第39段、第52段、第98段、第143段は、寸言、求道、人生訓、滑稽談などに関するもので、面白く、印象に残りました。

○ (序段) つれづれなるままに、一日中机に向かい、心に移り行く思いをあれこれと書きつけると、妙(みょう)にあやしいきもちになる。

(解説) つれづれ(徒然)とは、これといってすることもなく、退屈(たいくつ)でひまなこと。ひとり物思いに沈み、しんみりすること。時間が長く、周りに人のいない孤独感も語感に含まれています。書名の中のは、書きつけた、くさ(種、話のたね、話題のもと、材料)の意味だと思います。兼好は、つれづれを活用して文章を書き、自分の世界を開きました。

○ (第39段) 或(あ)る人が 法然上人(ほうねんしょうにん)に、「念仏(ねんぶつ)を唱(とな)えるときに眠気(ねむけ)に襲われ行(ぎょう)を怠ることがあるのですが、どんなふうにしてその障碍(しょうがい)を乗り越えたらいいでしょう」と言ったところ、「目のさめているあいだは念仏を唱えていなさい」と答えられたそうだが、まことに尊(とうと)いことばだ。また「極楽浄土(ごくらくじょうど)に往生(おうじょう)する事は必ず出来るのだと思えば出来るし、出来そうもないと思えば不確(ふたし)かなことになる」と言われた。これも尊いことばだ。また「疑いながらも念仏を唱えれば往生できる」とも言われた。これもまた尊いことばだ。

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法然上人絵伝生涯の行状、国宝、京都知恩院蔵、google画像)

(解説) 法然上人、1133年(長承2年)~1212年(建暦2年)、鎌倉初期の僧、浄土宗の開祖、1147年(久安3年)15才、比叡山延暦寺で源光(生没年未詳)の門に入り、天台宗を学んだが、1150年(久安6年)18才、教学などに対する疑問を生じ、比叡山西塔、黒谷叡空(くろたにえいくう)のもとで20年間修学、唐(中国)の善導(ぜんどう)、613年(大業9年)~681年(永隆2年)、の観経疎(かんぎょうしょ、観無量寿経の注釈書)を読み、修念専仏(せんじゅねんぶつ、称名念仏、しょうみょうねんぶつ)、ひたすら南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)を口で唱える浄土宗を開きました。

 疑いながらも念仏を唱えれば往生できる、とは、浄土宗系の他力本願のことで、阿弥陀仏の発した願い、慈悲そのものが衆生を救う力で、それにすがるために念仏をひたすら唱える意、と言う。

 浄土宗の総本山、知恩院(ちおんいん)は、東山三十六峰の一つ、華頂山山麓に位置しています。境内には開祖法然上人の遺骨を奉じる廟堂もあり、民衆と強く結びついています。

○ (第52段) 仁和寺(にんなじ)に居た或(あ)る法師(ほうし)が、年をとるまで石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)に参詣(さんけい)したことがなかったので情(なさけ)ないことに思い、或る日思い立ってただひとり歩いてお参(まい)りした。麓(ふもと)の極楽寺(ごくらくじ)や高良社(こうらしゃ)などの末社(まっしゃ)を拝(おが)み、これだけのものと思いきめ、山上(さんじょう)の本社(ほんしゃ)には行かずに帰ってしまった。さて、仲間に会って、「長いあいだ思いつづけてきたことがやっと果たせて、やれやれだ。聞きしにまさる尊(とうと)いものであった。でも参詣の人がみんな山の方に登って行ったのは何があったのだろう。自分も行ってみたかったけれど、神詣(かみもうで)でこそ本筋(ほんすじ)と思い、山の上までは行かなかったよ」と言ったという。些細(ささい)なことにも、先達(せんだち)はほしいものだ。

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石清水八幡宮曼荼羅、山城、京都、根津美術館蔵、google画像)

(解説) 石清水八幡宮は男山山頂の本殿などの上院と、麓の下院に分かれ、下院に高良社があります。極楽寺は神社に付属する神護寺(神宮寺)で、現存していません。人々が山上に登るのは、八幡宮が男山の上にあるためです。

 ちょっとしたことでも、案内者(指導者)のいたほうが、大失敗を避(さ)けることができるものだ、との人生訓ですが、その法師を登場させて、当時の宗教界の不健全さを皮肉ったとも言われています。

 石清水八幡宮は、伊勢神宮に並ぶ神宮寺で、朝廷、武家の尊崇も厚く、天皇、上皇のおでましも多かったようです。因みに、仁和寺から石清水まで、一般には船で川を下って行くことが多いのですが、徒歩の場合は、八幡宮のある男山の麓、極楽寺、高良神社を通ることになるようです。

 仁和寺は、真言宗御室派の総本山で、888年に創建、年号の仁和によって名付けられました。皇室との関係が深く、法皇が住し、御室御所とも呼ばれていました。

 仁和寺の南に最高峰で100mほどの丘陵、双ヶ岡があり、その東麓に兼好は隠棲していたと言われています。そのため、仁和寺の僧とも何らかの交わりがあり、これはその時に耳にした話ではないかと思います。

 これ以外にも仁和寺の僧に関する逸話(第53段、第54段など)があります。 第53段の鼎(かなえ)をかぶって首が抜けなくなった僧の話は、小学校の学芸会の時に演じた想い出があります。

○ (第98段) 高徳(こうとく)の僧侶(そうりょ)たちの言い置いたことを書きつけ、「一言芳談(いちごんほうだん)」とか名づけた本を読み、心にかなって感銘(かんめい)したことの条々(じょうじょう)。 一、することにしようか、しないでおこうかと思い迷(まよ)ったことは、大方しない方がよい。一、死後の安楽(あんらく)を願う者は、ぬかみそ甕(かめ)一つも持ってはいけない。常住(じょうじゅう)所持するお経から守り本尊(ほんぞん)に至るまで、立派な品を持つのはつまらんことだ。一、出家遁世(しゅっけとんせい)した人は、物が無(な)いことに不自由を思わぬ方法を心がけて暮らすのが、一番よいやり方だ。一、上位の僧は下位の僧の心になり、智者(ちしゃ)は愚者(ぐしゃ)になり、物持ちは貧しき者の立場になり、芸能(げいのう)ある者は無能(むのう)に立ち返らなくてはいけない。一、仏道(ぶつどう)を願うというのはほかのことではない。閑(ひま)のある身上になって、世間(せけん)の事を心にかけぬことを第一とすることだ。このほかにもあったが忘れた。

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一言芳談和書、元禄2年刊、国文学研究資料館、google画像)

(解説) 一言芳談は、編者未詳(明遍の系譜の聖による編纂?)、浄土宗関係の高僧達による仮名法語の収録書です。兼好が考証した僧の望ましい生き方が述べられていると思います。

 ぬかみそは、原語は、糂汰(じんた)で、麹(こうじ)と糠(ぬか)と塩を混ぜて発酵させたもので、野菜や魚をつけた漬け物の床としてだけでなく、そのまま食べることもありました。

○ (第143段) 八つになった年、私は父に、「仏(ほとけ)とはどんなものですか」と問うた。父は、「仏とは人間が成(な)ったものだ」と言った。私はまた問うて「では人はどのようにして仏に成るのですか」ときくと、父はまた、「仏の教えによって成るのだ」と答えた。私はまた。「人に教えた仏には、何者(なにもの)が教えたのですか」ときいた。父は更(さら)に答えて。「その前の仏の教えによってそう成るのだ」。私はなお、「ではその教えはじめた第一番目の仏は、どんな仏ですか」ときくと。父は「はてさて、それは天(てん)から降ったか地から湧(わ)いたか」と言って笑っていた。そして。「子どもに問いつめられて、答えられなくなってしまった」と人々に語ってはおもしろがっていた。

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幼時の体験仏をめぐる父との問答、アニメ古典文学: http://www.sun-edu.co.jp/anime_koten/tsurezure/anime_4_tsurezure.htm、google画像)

(解説) 八歳の兼好が父に突きつけた問は、論理的な思考に貫(つらぬ)かれた難問で、父は即答できず、笑ってごまかしましたが、内心ではわが子の明晰(めいせき)な頭脳に舌を巻いたことと思います。兼好にとって、父との遠い想い出ですが、自分の思想の旅路を締めくくる意味もあり、また、老いると子どもに帰るとも言われ、このお話を最終段に持ってきたとも考えられています。一方、これは老いた今の自分も解けない難問と述べているようにも感じられます。

 吉田兼好の父は、卜部兼顕(うらべかねあき)で治部少輔、京都の吉田神社社務職の出とも言われています。治部省は僧尼、山陵、宮廷、雅楽などを司る役所で、少輔は従五位下に当たります。 

 吉田神社の歴史は古く、9世紀後半、藤原山蔭(やまかげ)が一族の繁栄を祈るために春日(かすが、奈良)四神を勧進(かんじん)したのを始まりとし、藤原道長(みちなが)の氏神社として信仰を集め、卜部(うらべ)氏が、代々神職を努めました。

 室町時代になって神職の卜部兼俱(うらべかねとも、のち吉田姓)が唯一神道(ゆいつしんとう、儒、仏、道の三教に対する神道の純粋性を主張)を唱え、大元宮(だいげんぐう、日本中の神社のご利益を一度に授かれるという)を創祠(そうし)、吉田流神道総家として大いに興隆しました。今でも中近世の絶大な権威のよすがを残しています。

 徒然草の中心思想は、無常観(むじょうかん)であると言われています。兼好は、平常心で無常と対座し、人の命も人の世も、はかないからこそ生きる価値があり、一瞬一瞬を大切にして生きるべきだと説きました。

(参考文献) 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 日本史事典、岩波書店(1999); 稲田利得編: 校注、徒然草、和泉書院(2004); 世界文化社CULTURE編集部(編)、島尾敏雄、堀田善衛(解説): 徒然草、方丈記、世界文化社(2006); 角川書店編(吉田兼好、武田友宏): 徒然草、角川学芸出版(2008).

(参考資料) 比叡山延暦寺、天台宗総本山、大津市(滋賀)、京都市(京都):http://www.hieizan.or.jp/

知恩院(浄土宗総本山、法然の廟所、林下町、東山区、京都): http://www.chion-in.or.jp/; 知恩院(浄土宗総本山、東山区、京都、google画像):http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E7%9F%A5%E6%81%A9%E9%99%A2&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi; 

仁和寺(ホームページ、御室、京都): http://www.ninnaji.or.jp/index.html

石清水八幡宮(ホームページ、山城、京都): http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/m_iwasimizu.htm

吉田神社http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/urochoro-yoshida-jinjya.htmhttp://www5.ocn.ne.jp/~yosida/

梁塵秘抄 (平安時代末期、後白河法皇編、今様歌謡集、巻第二 法文歌 雑法文歌、仏も昔は人なりき、-- -):http://www.nextftp.com/y_misa/ryoujin/hisyo_02.html. 仏も昔は人なりき われらも終には仏なり 三身仏性具せる身と 知らざりけるこそあはれなれ(仏も昔は人間だった。われらも最後には仏に成れるべき性質を本来備えている身だと知らずに、仏道をなおざりしているのは悲しいことだ。三身は法身、報身、応身で、いずれも仏の身を表すもので、三身仏性は仏性というのと同じ。衆生が本来備えている仏に成りうる資質をいう。植木朝子編、梁塵秘抄、角川ソフィア文庫、2009)

2010年6月23日 (水)

夏至の翌々日(2010年6月23日)、金沢の幹線道路から眺めたわが家の周辺の風景

   金沢の都市計画道路、観音堂・上辰巳線は、犀川上流の上辰巳から、金沢市の中心街の片町スクランブル交差点を経由し、犀川下流の観音堂町で金沢外環状道路、海側幹線に接続される幹線道路であり、金沢を縦断する大動脈道路となっています。

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桜田町一番館周辺の風景 市道右の高い建物が桜田町一番館、中 桜田町一番館(わが家は右側の中央部、10階)、  背後の高い建物の左が桜田町一番館(11階)、右が桜田町二番館(13階)、2010年6月23日撮影)

 幹線道路の車道は、観音堂・上辰巳線(金沢市道)、片側2車線で、東の金沢市街から西の日本海側へ走り、突き当たりで海側幹線(金沢外環状道路)に結ばれていてます。

 また、直進の途中、示野交差点で、国道8号線(中環状線含む)を左折、途中、西インターから福井へ、また、国道8号線(中環状線含む)を右折、途中、東インターから富山へ、北陸自動車道とも結ばれています。

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北陸自動車道周辺の風景示野交差点、左折は福井方面、2010年6月23日撮影)

 金沢都市計画道路、観音堂・上辰巳線は、片側2車線で、県都、金沢の都心部と海側にある新県庁舎等とのアクセスの便もよくなっています。

 国道8号線(中環状線含む)は、高速自動車道の東、金沢から福井に向かう3車線、その途中、高速道の西インターと結ばれています。また、高速自動車道の西、国道8号線(中環状線含む)は、金沢から富山に向かう3車線、その途中、高速道の東インターと結ばれ、交通体系が整備されています。

 私は、夏至の翌々日、6月23日は、午後2時頃、近くの車道、観音堂・上辰巳線(戸板、桜田、松村域)を散策しながら、わが家(桜田町一番館)の周辺の風景をデジカメで撮影しました。1943年(昭和18年)金沢市に編入された、近くの旧戸板村は、加賀梨の名産地として知られていましたが、次第に宅地化が進み、風景は一変しています。 

2010年6月22日 (火)

夏至、犀川の中洲近く、わが家から眺めた鮎釣りの風景(2010.6.22)

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犀川の中洲近く、わが家から眺めた鮎釣りの風景(桜田、金沢、2010.6.22)

2010年6月21日 (月)

夏至(2010年6月21日)、犀川の示野中橋と対岸から眺めたわが家の周辺の風景

  今日、6月21日は、暦の上では夏至で、一年中で日中の時間が一番長い日となっています。地元のNHKの放送によれば、金沢の日中時間は、14時間40分とのことでした。そこで、午後5時頃、近くの犀川を散策しながら、わが家(桜田町一番館)の風景をデジカメで撮影しました。

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犀川沿いのわが家の風景 犀川の示野中橋からの眺め、手前が桜田町二番館、その向こうが桜田町一番館、 犀川の中州に遊ぶ小鳥、ヨシキリ、  犀川対岸からの眺め、右は桜田町一番館(11階)、左は桜田町二番館(13階)、2010年6月21日撮影)

 私は午後5時頃、近くの犀川を散策しながら、わが家(桜田町一番館、金沢)の風景をデジカメで撮影しました。この地域の犀川の堤防には、クズ、イタドリなどの野草のほか、ヨシの群生が見られ、小鳥のさえずりも賑やかで、近くの古老のお話によると、ここはヨシキリには格好の住み家とのことでした。

 また、6月22日午前8時頃、水量が少なくなった犀川の中州近くで、いつもながら鮎釣りする光景が見られました。

2010年6月18日 (金)

囲碁の格言、囲碁十訣(王積新、中国)、貪れば、小を捨て、謹んで(本因坊秀策の座右銘)、王積新一子解二征、とは(2010.6.18)

  囲碁十訣 (いごじゅっけつ)は、王積新((おう せきしん、王積薪とも、生没年不詳、国手、唐代、中国)の作と伝えられています。江戸時代、御城碁19連勝を果たした、碁聖、本因坊秀策は、対局に際し、座右銘としました。この格言は、現在の日常生活の中でも役立つ処世訓と思われます。 

囲碁十訣

不得貪勝(貪れば勝ちを得ず)
入界宜緩(界に入りてはよろしく緩なるべし)
攻彼顧我(彼を攻むるには我を顧みよ)
棄子争先(子を棄て先を争え)
捨小就大(小を捨て大に就け)
逢危須棄(危うきに逢えば須らく棄つべし)
慎勿軽速(慎んで軽速なるなかれ)
動須相應(動かばすべからく相応すべし)
彼強自保(彼強ければ自ら保て)
勢孤取和(勢孤なれば和を取れ)

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囲碁十訣(王積新、  本因坊秀策の書の石碑、  長谷川富三郎(無弟)版画、因島、広島、google画像)                                                                      

(解説) 囲碁十訣は、唐代に活躍した王積新(おうせきしん)の格言と伝えられています。碁聖、本因坊秀策、(1829年(文政12年)~1862年(文久2年)は、対局に際し、この格言を座右銘としました。秀策は、外浦町(因島、広島)の生まれ、幼少より囲碁の才能を見いだされ、その対局では数々の伝説的な活躍が伝えられ、なかでも、江戸時代、御城碁19連勝は、囲碁の世界での不滅の金字塔です。

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王積新、一子解二征(白43、黒からの2つのシチョウを1手で防いでいます。google画像)

(解説) 王積新は、唐の玄宗の時代の名手です。玄宗(第6代)皇帝が、安禄山の反乱のため、蜀(しょく)に亡命した時、王積新も従っていました。玄宗の逃避行に従った王積新の対局譜は残されていないようです。ただ、中国最古の囲碁書、忘憂清楽集の中に、「王積新、一子解二征(いっしかいにしちょう、鎮神頭とも) 」という、黒による上と下の両シチョウを、白431手でシノぐ妙着が載っており、これが王積新の打碁となっています。

(参考文献)日本棋院編: 安永一: 中国の碁、時事通信社(1977); 日本棋院創立80周年記念、囲碁雑学手帳、月刊碁ワールド1月号第2付録、日本棋院(2005).

(参考資料) 囲碁十訣(Tomyのホーム): http://www5.airnet.ne.jp/tomy/personal/igo.htm

本因坊秀策囲碁記念館(因島、広島): http://honinbo.shusaku.in/; 

日本棋院(市ヶ谷本院、千代田、東京): http://www.nihonkiin.or.jp/

中国囲棋故事(王積薪、王積新とも、一子解二征、鎮神頭含む、中国)http://go.yenching.edu.hk/chhis.htm

(追加説明) 囲碁に由来する日常語として、布石、定石、悪手、鬼手、奇手、勝負手、勝負所、ハメ手、妙手、先手、後手、一目置く、一手、次の一手、捨て石、駄目(ダメ)、手抜き、寄せ(ヨセ)、角番、局面、結局、終局、序盤、中盤、終盤、黒白、形勢判断、角番、中押し(なかおし)、八百長、名人、玄人、素人など、よく使われています。

禅(無門関、中国)の言葉、平常心是道(公案、南泉と趙州の禅問答)、とは(2010.6.18)

  平常心(へいじょうしん、びょうじょうしんとも)という言葉をよく耳にします。広辞苑によれば、(特別な事態に臨んでも)普段どおりに平静である心、と言う。これは、無門慧開(むもんえかい、1183~1260年)が編集した48の公案集(こうあんしゅう)、無門関(むもんかん、宋代、中国)、第十九則の中にある、平常心是道(びょうじょうしんこれどう)、という公案(悟りを開くために与えられた課題、禅問答)に由来する言葉です。 

 禅は、サンスクリット(梵語、インド)でデイヤーナ(dhyana)、パーリ語(巴利語、インド)でジャーナ(jhana)の語を音写したものです。しばしば靜慮(じょうりょ)と訳され、坐禅により心を鎮(しず)め、静かに叡智(えいち)を働かせる、と言う。

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南泉普願(なんせんふがん、36世、唐代禅僧、中国、google画像)

 南泉普願(なんせん ふがん、748~835年)と趙州従諗(じょうしゅう じゅうしん、778~898年)との次のような禅問答は、平常心こそが道だ、と説いています。

 南泉趙州が、「とはどんなものですか」とたずねたので、「ふだんの心が道である」と答えた。。(南泉、因趙州問、如何是道。泉云、平常心是道)。趙州は問うた、「それをめざして修行してよろしいでしょうか」。南泉は答えた、「めざそうとすると、すぐにそむく」。趙州、「めざさなかったら、どうしてそれが道だと知れましょう」。南泉、「道は知るとか、知らぬとかいうことに関わらない。知るというのは妄覚(誤った知)だ、知らぬというのは、無記(知の外)だ。もしほんとにめざすことのない道に達したら、ちょうど虚空のようで、からりとして空である。そこをむりにああのこうのということなどできはしない」。

(解説) ふだんの心が道だ、というのは、有名な「平常心是道」の句の訳です。我々の日常そのものが道、と言う。しかし、それはめざしたとたん、そむいてしまう、と言う。対象的に捉(と)えられるものではない。その日常生活のただ中にある、絶対の主体そのものに生きるとき、虚空のように、障礙(しょうがい)が何一つない、さわやかさを覚えるのだ、と言う。 

 禅宗は、伝説的には、5世紀末に、菩提達磨(ぼだいだるま)がインドから中国にやってきて、禅観の法を伝えた、と言う。末期、五代十国の頃には、臨済宗(りんざいしゅう)、潙仰宗(いぎょうしゅう)、曹洞宗(そうどうしゅう)、雲門宗(うんもんしゅう)、法眼宗(ほうげんしゅう)の五家が有名で、この頃は、中国の政治、文化を指導していました。

(参考文献) 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 日本史事典、岩波書店(1999); 竹村牧男: 禅のこころ、その詩と哲学、ちくま学芸文庫(2010).

(参考資料) 曹洞宗(曹洞禅ネット、永平寺、福井): http://www.sotozen-net.or.jp/

(追加説明) ○ 日本鎌倉時代から室町時代にかけ、中国では、が政治、文化を指導し、五山十刹(ござんじっさつ)の制度も確立されました。

 室町幕府、将軍(第3代)、足利義満、1358年(正平13年、延文3年)~1408年(応永15年)の頃、この中国の制度を採用しました。五山は官寺の禅院の最高の寺格で、その下に、十刹、諸山などが位置付けられました。中国の五山(南宋時代、杭州、明州)は、径山万寿寺、霊隠寺、天童寺、淨慈寺、阿育王山広利寺でした。

 官寺として、幕府の保護と管理を受けた日本の五山(鎌倉五山、京都五山、臨済宗、叢林(そうりん)とも呼ぶ)が確立され、その外にある大徳寺(臨済宗、京都)、妙心寺(臨済宗、京都)、永平寺(曹洞宗、福井)、総持寺(曹洞宗、能登から横浜に移転) などを林下(りんか、叢林下の意味)と呼び、南禅寺(臨済宗、京都)を別格としました。五山の順位は、鎌倉五山は、建長寺、円覚寺、寿福寺、淨智寺、浄妙寺、また、京都五山は、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺で、五山の上が南禅寺となっています。

 五山の禅僧は、幕府の外交、文化の顧問として活躍し、五山文学(漢詩文など)をはじめ学芸の興隆に寄与しました。

○ 兵法の道における平常心(ふだんの心)については、 兵法の道におゐて、心の持やうは、常の心に替る事なかれ。(宮本武蔵、五輪書、より)、また、僧、古徳ニ問フ、如何カ是レ道ト、古徳答テ曰ク、平常心(ふだんの心)是レ道ト。この話、諸道に通じたる道理也。道とは何たる事を云ぞととへば、常の心を道と云也、とこたへられたり。実に至極之事也。ーーー。此平常心をもって一切の事をなす人、是を名人と云也。(柳生但馬守宗矩、兵法家伝書、より)   

○ 阿吽(あうん)は、梵語a-humの音写で、阿は口を開いて出す最初の音、吽は口を閉じて出す最期の音です、最初と最期で、密教では、阿を万物の根源(原因、理)、吽を万物の結果(智、一切が帰着する智徳)とする。寺院山門の仁王、獅子、狛犬(こまいぬ)などは阿吽を表し、一は口を開き、他は口を閉じる。また、呼気と吸気、阿吽の呼吸は、共に一つの事をする時などの相互の微妙な調子や気持。(広辞苑より)

○ 和顔愛語(わげんあいご、わがんあいごとも)という言葉は、おだやかな顔でやさしい言葉をかけるという仏教用語です。大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)というお経の中に説かれている言葉です。笑顔と言葉によって人を幸せにすることが出来るという教えです。

 仏教の無財の七施には、和顔施(おだやかな顔)、慈眼施(やさしい眼差し)、愛語施(やさしい言葉)、身施(美しい身のふるまい)、心施(思いやりと感謝の心)、床座施(人に席をゆずる)、房舎施(自宅でのもてなし)などがあります。金品や物でなく、無財で人を幸せな気持ちにさせるお布施です。

 

孔子(論語)の言葉、學びて時に、吾れ十有五にして、故きを温めて、これを知る者は、老子(老子道徳経、老子とも)の言葉、多言なれば、道は自然に、諺 歳月人を待たず、とは(2010.6.18)

   孔子(こうし)、(紀元前552~紀元前479年)は、中国、周(春秋)時代の学者、思想家、儒教の祖です。紀元前500年の頃と言えば、日本は、今から2500年ほど前の原始、縄文時代です。その頃、孔子が、70余年の複雑な人生体験に基づき、弟子(でし、70人?)と交わした問答は、のちに弟子たちによりとしてまとめられました。

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孔子画像(唐、呉道子、中国、google画像)

(解説) 孔子の学問(儒教)は、死後338年たって、漢の武帝(ぶてい)、(紀元前156年~紀元前187年)の時、紀元前136年(建元5年)、国家の正統思想として認められました。

 儒教日本への伝来は、古く、飛鳥時代天智天皇(第38代)、626年(推古34年)~672年(天智天皇10年)、の勧学堂(大津、滋賀)における儒教教育、憲法十七条、令(りょう)、式に、その影響が見られます。

 論語は、512の短文を20編の構成にまとめたものですが、いつの頃からか、強く、私の心に残っている言葉があります。

○ 子曰(しのたま)わく、學(まな)びて時(とき)にこれを習(なら)う、亦(ま)た悦(よろこ)ばしからずや。朋(とも)あり、遠方(えんぽう)より來(き)たる、亦(ま)た楽(たの)しからずや。

 孔子がいわれました。学問の楽しさ、それは先生から学んだことをときどき復習してみる。そしておさらいするたびに、なにか新しい意味を発見するということだ。遠方から友だちがやってきて、学問のことをたがいに論じ合う、それはひとりで復習しているのと比べて、いちだんと楽しいことではないか。

 これは、学問をするのは楽しいから学問するのであって、むりに勉強するのではない、という言葉です。

○ 子曰(しのたま)わく、 吾(わ)れ十有五(じゅうゆうご)にして學(がく)に志(こころざ)す。三十にして立(た)つ。四十にして惑(まど)わず。五十にして天命(てんめい)を知(し)る。六十にして耳從(みみしたが)う。七十にして心(こころ)の欲(ほつ)する所(ところ)に從(したが)って矩(のり)を踰(こ)えず。

 孔子が言われました。わたしは数え年十五歳ではじめて学問の道に志し、三十歳で自分の立場をかため、四十歳ではすっかり迷いがなくなり、五十歳で運命のなんであるかを知り、六十歳では他人の言をすなおに受け取ることができ、七十歳では欲するままに行ってもすこしも行きすぎがないようになった。

 これは数え年七十四歳で死んだ孔子が、晩年に自分の一生の経歴を振り返って述べた自叙伝のようなものです。 

 これらの言葉から、人の年齢の別称として、15歳、志学(しがく)、30歳、而立(じりつ)、40歳、不惑(ふわく)、50歳、知命(ちめい)、60歳、耳順(じじゅん)、70歳、従心(じゅうしん)が生まれました。

○ 子曰(しのたま)わく、故(ふる)きを温(あたた)めて新(あたら)しきを知(し)る、以(もつ)て師(し)と為(な)るべし。

 孔子が言われました。過去の歴史、伝統を、もう一度考え直して、現代に生かす新しい意味を知る、そんなことができる人、それが師というものだ。

 これらの言葉から、温故知新の言葉が生まれました。一般に、故温は、ふるきをたずねて、とも読まれています。

○ 子(し)の曰(のたま)わく、これを知(し)る者(もの)はこれを好(この)む者(もの)に如(し)かず。これを好(この)む者(もの)は、これを樂(たの)しむ者(もの)に如(し)かず。 

 孔子が言われました。学問をして知っているという人間も、本当に知ることが好きだという人間にはかなわない。また、好きというのも、これを本当に楽しんでいる人間には及ばないものだ。 

 これは、学問だけでなく、スポーツ、芸術のほか、幅広い分野にも適用できる言葉だと思います。

(参考文献) 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 貝塚茂樹: 論語、講談社現代新書(2004).

(参考資料) 孔子(儒家の始祖、中国の思想家、中国情報所、中国): http://www.chinfor.com/modules/webdoc1/content0054.html

(追加説明)  老子(道教の始祖、中国の思想家)の言葉(老子道徳経、老子とも

老子(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%81%E5%AD%90

○ 多言なれば数々(しばしば)窮す。

 人は、あまりしゃべりすぎると、いろいろの行きづまりを生じて、困ったことになる。

 道は自然に法(のっと)る。

 すべては自然にのっとっている。草木の生えるのも自然であり、春夏秋冬の移り変わるのも自然である。人間の踏み行なうべき道も、やはりこの自然にのっとるのが最もいい。

(樋口清之(監修:生活歳時記、p.596、多言なれば数々窮す、三宝出版(1994)より)

○ 十代は分、二十代は時、三十代は日、四十代は週、五十代は月といわれる。つまり、四十代の人だったら、じゃあ来週のことにしようと、週を単位にして約束する。ところが、その人が五十代になると、それは来月のことにしようと、月を単位にして予定を立てる。 このように、時間の受け取りかたが、年齢に応じて加速度変化していくことを、この言葉が表現している。

 日長きこと少年に似たり、という文句があるが、少年のころの1日は長い。そのために、人間は一生の生活設計を、とかくまちがうことが多い。われわれは1歳を重ねるごとに1年の回転率がそれに比例して早くなることを、念頭におかなければならない。                                                         (樋口清之(監修: 生活歳時記、三宝出版、より)

○ 歳月人を待たず(Time and tide wait for no man)というもあります。この言葉は、中国の六朝時代の詩人、陶淵明(365~427)の「雑詩」、人生無根蔕  --- 12句目、 歳月不待人、とあります。5言古詩の作品で、人の命は短いのだから、生きているうちに、時をのがさず、無理をしてでも、大いに人生を楽しもう、充実した時間を過ごそう、とうたっています。

 太平記(小島法師?南北朝時代、軍記物語)に、光陰人を待たず、とありますが、光陰(時間の意)の光は日、影は月です。 光陰矢の如し、これは月日の早く過ぎゆくたとえです。

○ 少年老い易く学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず、(朱熹、しゅき、朱子作とも、偶成詩)、これは月日がたつのは早く、自分はまだ若いと思っていてもすぐに老人になってしまう。それに反し学問の研究はなかなか成しとげ難い。だから、寸刻を惜しんで勉強をしなければならない。すこしの時間もむだに費やしてはならない。        (広辞苑より)

 

2010年6月14日 (月)

雪は天から送られた手紙である、という言葉の生みの親、中谷宇吉郎(雪氷科学者、随筆家)、とは(2010.6.14)

  雪は天から送られた手紙である、という言葉は、中谷宇吉郎(なかやうきちろう、加賀市、石川)、1900年(明治33年)~1962年(昭和37年)が、色紙や書簡に好んで書いた文句です。

 最近、この文句を最初に記したのは、1941年(昭和16年)3月、親友で満州鉄道勤務の高野与作(1899~1981)に贈った掛け軸の可能性が高いことが、加賀市の中谷宇吉郎雪の科学館の調べで明らかにされました。(北陸中日新聞: 2012年(平成24年)2月11日(土)朝刊より)

 1932年(昭和7年)頃から雪の研究に没頭、十勝岳の麓で本格的に観測を行い、雪の結晶を撮影、1936年(昭和11年)、北海道大学の低温研究所で、兎(うさぎ)の腹毛を用いて、世界で初めて雪の結晶を人工的に作り出すことに成功しました。そして、雪の結晶の形と気象条件との関係を明らかにしました。

中谷宇吉郎(なかやうきちろう、雪は天から送られた手紙である、google画像)

(解説) 中谷宇吉郎は、雪氷科学者、随筆家、片山津(加賀市、石川)生まれ、東京帝国大学(理学部物理学科)で寺田寅彦、1878年(明治11年)~1935年(昭和10年)の指導を受け、北海道帝国大学に赴任後、雪の研究に没頭、十勝岳(標高2077m)の麓の山小屋(標高1060m、白銀荘、上富良野町)で3000枚に及ぶ雪の結晶をガラス乾板に撮影、複雑で多様な結晶が、どのような気象条件で生まれるのか、研究と実験を重ねました。

 1936年(昭和11年)、零下50℃の実験室で、世界で初めて人工雪の生成に成功しました。そして、雪の結晶の形と結晶が成長している場所の気温、結晶が成長している場所の氷に対する過飽和度の関係を表す、ナカヤ・ダイヤグラム中谷の図表)を作りました。また、アメリカのシカゴ(雪氷、凍土)、アラスカ(氷河)、グリーンランド(氷冠)など海外にも赴き、多くの功績を残しました。

 また、多くの随筆冬の華など)や書画を手がけ、科学映画(霜の花など)の先駆けでもありました。1938年(昭和13年)、出版された著書、(岩波文庫)、第三 北海道における雪の研究の話及び、第四 雪を作る話の最後に、以下(○)のような記述があります。

○ そんな事をしているうちに最初の年の冬は明けてしまったのであるが、その一冬の間毎日のように雪の降る度こうして撮った写真を集めて見るとかなりの蒐集(しゅうしゅう)が自然に出来上がった。それを見ると面白いことには、日本の雪の結晶は非常に種類が多く、今まで世界中で沢山の学者が五十年もかかって撮った結晶の各種類のうち殆ど大多数のものが、僅か一冬のこうした暢気(のんき)な観察で見付かったのであった。これは勿論(もちろん)わが国の気象状態が非常に複雑で変化の多いことからも諒解されるのである。

 それでその年の春には、測候所から冬中の天気図を借りて来て、今まで集めた雪の結晶とその天気図とを較べて、我国における雪の結晶と気象条件との関係、という論文を書いて、第一期の雪の研究はそれでお茶を濁して置くことにした。

○ このように見れば雪の結晶は、天から送られた手紙であるということが出来る。そしてその中の文句は結晶の形及び模様という暗号で書かれているのである。その暗号を読み解く仕事が則ち人工雪の研究であるということも出来るのである。

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ナカヤ・ダイアグラム(中谷の図表、雪の結晶形と気温、氷に対する過飽和度の関係、google画像)

(解説) 1951年(昭和26年)、中谷の研究成果として、ナカヤ・ダイヤグラムが、アメリカ気象学会の刊行物で紹介されました。また、1954年(昭和29年)、Snow Crystals, natural and artificial(雪の結晶―天然雪と人工雪)がハーバード大学出版部から刊行され、中谷の名が世界に知られるようになりました。

 一般に、北海道の雪は、乾いて軽いサラサラの粉雪ですが、北陸の雪は、湿って重たいベタ雪です。この雪質の違いは、気象条件、特に、気流(シベリア寒気団など)、海流(リマン寒流、対馬暖流など)による、大気中の温度と水蒸気量(氷に対する過飽和度)の違いが大きな要因となっています。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 石川化学教育会編: 科学風土記ー加賀・能登サイエンスー、p.189~191、西出隆、中谷宇吉郎、雪の結晶は天からの手紙、裳華房(1997); 朝日新聞編集部(植木裕光): ことばの旅人、北海道、中谷宇吉郎、雪は天から送られた手紙、be on Saturday、 朝日新聞、朝刊、2004年(平成16年); 中谷宇吉郎: 雪、岩波文庫(第8刷、2004).

(参考資料) 中谷宇吉郎雪の科学館(ホームページ、加賀市、石川): http://www.kagashi-ss.co.jp/yuki-mus/

中谷宇吉郎への旅(雪のパラダイス、北海道人): http://www.hokkaido-jin.jp/issue/sp/200202/special_01.html;

中谷ダイヤグラム(雪の結晶、google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E4%B8%AD%E8%B0%B7%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi

雪国を分ける(北海道と北陸の雪の違い、富山市科学博物館):http://www.tsm.toyama.toyama.jp/public/nature/HTML/1997/97aki02.htm

大雪の記録(1927~2006年); http://www.alles.or.jp/~kazahana/weather/sub2data/ohyuki.html

(追加説明) ○ 北海道の雪について、中谷宇吉郎は、著書、雪(岩波文庫)、第二、雪の結晶雑話の中で次のように述べています。粉雪と一般に呼ばれているのは牡丹雪に対してサラサラした雪のことを指している場合が多いので、北海道では冬の初めと終わりにには牡丹雪も降るが 、真冬の間は、粉雪ばかりだなどという場合に使われる粉雪はこの意味である。この場合の粉雪とは牡丹雪に対する言葉であって、それは雪片の状態の名称と見るべきであろう。

○ 北陸の雪については、雪おこしがあり、冬になるとシベリア大陸から吹いてくる冷たい季節風(シベリア寒気団)と南方からの日本海沿岸を流れる温かい海流(対馬暖流)との温度差による激しい上昇気流により低空で(100mから数100m)豊富な水蒸気を含む雷雲が発生し、突然の稲光と落雷の後に平野部から山間部にかけての広い範囲に、水分の多い雪(ベタ雪)を降らせます。金沢で住むようになってから、冬場の雷は夏場と違って何の前触れもなく突然稲光と雷鳴をともなう激しいことに驚きました。

 気象の専門家は、これを一発雷と呼んでいます。冬季に雷が発生する地域では、大しけの日本海から静かな富山湾に逃げ込む小魚を追って鰤(ぶり)が回遊し、沿岸に張った定置網に鰤が獲れることから、北陸特有のこの冬の雷は、また鰤おこしとも呼ばれています。

 兼六園の冬の風物詩の雪吊りは、水分が多くて重たいベタ雪により、横に伸びた松の枝が折れるのを防ぐためのものです。

2010年6月12日 (土)

天災は忘れた頃にやって来る、という天災予防の警句(寺田寅彦、物理学者、随筆家)、とは(2010.6.12)

  天災とは、暴風、地震、落雷、洪水など、自然界の変化によって起る災害です。天災は忘れた頃にやって来る、という有名な言葉があります。これは、寺田寅彦(てらだとらひこ、高知)、1878年(明治11年)~1935年(昭和10年)が、地震や台風、風水害などの天災予防の重要性を随筆で訴え、中谷宇吉郎(なかやうきちろう、石川)、1900年(明治33年)~1962年(昭和37年)が恩師の考えを要約した警句です。

寺田寅彦(てらだとらひこ、1934年(昭和9年)、57才、東京、google画像) 寺田寅彦記念館(友の会公式HP、小津町、高知):http://toratomo.yu-nagi.com/index.html.

(解説) 寺田寅彦(物理学者、随筆家、筆名 吉村冬彦)は、東京生れ、父の郷里(高知)育ち、第五高等学校(熊本)で夏目漱石(なつめそうせき)、1867年(慶応3年)~1916年(大正5年)に学び、物理学(東大)を研究する一方、地震や風水害の予防の重要性を随筆で訴えました。天災は忘れた頃にやって来る、という言葉は、中谷宇吉郎(物理学者、随筆家、加賀市、石川)が、関東大震災後に定めた防災の日(9月1日)に因み、恩師の名言として紹介したものです。寅彦には、科学と文学を巧みに調和させた随筆で、筆名の冬彦集、藪柑子(やぶこうじ)集などがあります。

 天災期とは、梅雨(5~7月)、土用(夏の土用、7月20日)、二百十日(9月1日)、二百二十日(9月11日)、白露(はくろ、9月8日頃)、八朔(はっさく、旧暦8月1日、新暦8月30日)など、稲作に大きな影響を及ぼす可能性が高い5~11月初め頃を言います。

 寺田寅彦随筆天災と国防が、1934年(昭和9年)11月、経済往来に掲載され、その中に、天災への警鐘の言葉として、以下(○)のような記述があります。、

○ ことしになってからいろいろの天変地異が踵(くびす)を次いでわが国土を襲い、そしておびただしい人命と財産を奪ったように見える。あの恐ろしい函館(はこだて)の大火や近くには北陸地方の水害がまだなまなましいうちに、さらに9月21日の近畿地方大風水害が突発して、その損害は容易に評価のできないほど甚大(じんだい)なものであるように見える。

室戸台風(1934年(昭和9年)9月21日、中心気圧911.6ヘクトパスカル、最大瞬間風速60m/s、高知、四国、google画像)

(解説) 大風水害は、1934年(昭和9年)9月21日、室戸台風(むろとたいふう)のことで、四国の室戸崎(高知)付近に上陸し、京阪神地方を直撃し、若狭湾に抜けた超大型台風です。中心気圧は911.6ヘクトパスカル、観測史上最も低い気圧でした。大阪湾の高潮による浸水被害は大きく、死者2702人、不明者334人、負傷者1万5000人余、全半壊住家9万2700余戸、浸水40万余戸に上りました。また、大阪、四天王寺の五重塔と仁王門が倒壊しました

○ 文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実を充分に自覚して、そして平生からそれに対する防御策を講じなければならないはずであるのに、それがいっこうにできていないのはどういうわけであるか。そのおもなる原因は、畢竟(ひっきょう)そういう天災がきわめてまれにしか起こらないで、ちょうど人間が前車の顛覆(てんぷく)を忘れたころにそろそろ後車を引き出すようになる(前の車が覆(くつがえ)るのを見たら、あとの車は同じわだちの跡を行かないようにせよ、という諺(漢書、賈誼(かぎ)伝)を、とかく忘れがちになること!)からであろう。(中国故事物語: http://homepage1.nifty.com/kjf/China-koji/P-179.htm.)

 しかし昔の人間は過去の経験を大切に保存し蓄積してその教えにたよることがはなはだ忠実であった。過去の地震や風害に堪えたような場所にのみ集落を保存し、時の試練に堪えたような建築様式のみ墨守してきた。

 今度の関西の風害でも、古い神社仏閣などは存外あまりいたまないのに、時の試練を経ない新様式の学校や工場が無残に倒壊してしまったという話を聞いていっそうその感を深くしている次第である。やはり文明の力を買いかぶって自然を侮り過ぎた結果からそういうことになったのではないかと想像される。

 昔の人間の経験に従って造られたものは関東震災でも多くは助かっているのである。

関東地震(震度分布、1923 関東大震災報告書第1編 、2006年、google画像)

(解説) 関東大震災(かんとうだいしんさい)は、1923年(大正12年)9月1日、午前11時58分、関東地方の南部、相模湾(神奈川)北西沖80kmを震源として発生したマグニチュード7.9、海溝型の大震災とそれに伴う大火災です。死者9万人、負傷者10万人、行方不明者4万人、また、全壊家屋12万戸、半壊12万戸、焼失家屋は44万戸、羅災者は東京、神奈川、千葉、埼玉、茨城、静岡、山梨の府県340万人に及びました。

○ 戦争はぜひとも避けようと思えば人間の力で避けられなくはないが、天災ばかりは科学の力でもその襲来を中止させるわけには行かない。最後通牒(さいごつうちょう)も何もなしに突然襲来するのである。それだから国家を脅かす敵としてこれほど恐ろしい敵はないはずである。思うに日本のような特殊な天然の敵を四面に控えた国では、陸軍海軍のほかにもう一つの科学的国防の常備軍を設け、日常の研究と訓練によって非常時に備えるのが当然ではないかと思われる。

 寺田寅彦の随筆の中の天災についての考えの要約、天災は忘れた頃にやって来る、という言葉は、改めて、1995年(平成7年)1月17日、阪神・淡路大震災後にその先見性が注目されました。 

(参考文献) 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 日本史事典、岩波書店(1999); 小宮豊隆編: 寺田寅彦随筆集 第5巻、p.56~66、天災と国防、岩波文庫(2007).

(参考資料) 気まぐれ歳時記(菊地馨、天災は忘れたころにやってくる、1999年): http://kazamidori.net/kaoru/saijiki/04.htm

日本の台風災害(国立情報学研究所):http://agora.ex.nii.ac.jp/digital-typhoon/disaster/help/past.html.ja; 

日本の地震被害(気象庁): http://www.seisvol.kishou.go.jp/eq/higai/index.html

日本の台風災害(気象庁): http://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/typhoon/6-1.html

(追加説明) ○ 弥生、古墳時代、古代人は天災を受けやすい谷口扇状地(たにぐちせんじょうち)には絶対住みませんでした。この危険な土地にどうしても集落を作らねばならなかった時には、私たちの祖先は、まず集落の周りに掘(濠、ほり)を掘りました。もし、鉄砲水が出ても山崩れが起きても、その掘にエネルギーを吸収させ、周りに分散させてしまおうと考えました。

 つまり、谷口扇状地に住まなければならない要請が、集落の周りに池をめぐらせた、環濠集落(かんごうしゅうらく)を生みました。これが防衛手段となることが分かり、日本独自の周囲に掘をめぐらす城郭築城法へと発展していったと考えられます。(樋口清之、梅干と日本刀、日本人の知恵と独創の歴史、祥伝社黄金文庫(2005)より)

○ 昔から日本の人々は新しい集落に必ず「土地本来のふるさとの木によるふるさとの森」、鎮守の森をつくってきた、という。おろか者に破壊させないために、神社や寺をつくり、この森を切ったら罰があたる、というふうに守ってきた。それらの森は、地震、台風、火事などの災害の時には逃げ場所になった。ふるさとの木は自然が管理するが、そうでない木は管理に大きな労力と経費を要する。(宮脇昭、都市の植生のゆくえ、より)

○ 1955年(昭和30年)5月11日、宇高連絡船の紫雲丸の5度目の事故(濃霧による第三宇高丸との衝突沈没)は、1988年(昭和63年)4月10日、瀬戸大橋の夢の架橋につながりました。また、1954年(昭和29年)9月26日に、日本国有鉄道(国鉄)の青函航路で起こった海難事故、洞爺丸台風事故は、1988年(昭和63年)3月13日、青函トンネルの夢の開通につながりました

 室戸、枕崎、伊勢湾の昭和の3大台風は、いずれも9月下旬で、洞爺丸、狩野川、伊勢湾などの台風が9月26日だったことから、この日を「魔の9月26日」とも言っています。 「台風」という言葉は、中国の福建省あたりで生まれました。台湾の方から来る風という意味です。また、ヨーロッパ人は18世紀頃から「タイフーン」という言葉を使っていました。(樋口清之監修、生活歳時記、p.551、台風・颱風・タイフーン、三宝出版(1994)より)

○ 1972年(昭和47年)11月6日、午前1時9分頃、列車火災事故が、北陸本線、敦賀駅―南今庄駅(敦賀市、福井)の北陸トンネル(総延長13870m)で発生しました。この時、火災対策に問題があり、一酸化炭素中毒により、乗客乗員に多数の死傷者(死者20人、負傷者714人)を出す大惨事となりました。 

 北陸トンネル(13870m)は、複線型鉄道トンネルで、1962年(昭和37年)に開通され、1972年(昭和47年)、山陽新幹線の六甲トンネル(16250m)が開通されるまで、日本最長でした。

 

2010年6月 8日 (火)

能楽の聖典、風姿花伝(世阿弥著)の中の言葉、花は心、種は態(わざ)、初心を忘るべからず、とは(2010.6.8)

  室町時代、世阿弥(ぜあみ、観世流)のの芸術表現論の中に、花は心、種は態(わざ)、また、初心を忘るべからず、という言葉があります。能役者の体験にもとづく実践的な演劇論が、観客の感動にたとえまた、役者の心構え初心の言葉を使って展開されています。

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能芸論書世阿弥、左 花鏡、右 風姿花伝、M-Net、Menu、google画像)

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世阿弥木造(入江美法作 平凡社 別冊太陽『世阿弥』)

(解説) 世阿弥(ぜあみ)、1363年(貞治2年)~1443年(嘉吉3年)?は、室町初期の能楽師で、著書に亡父観阿弥の(かんあみ、南北朝期、観世流の祖)、1333年(正慶2、元弘3年)~1384年(至徳元年、元中元年)、遺訓にもとづく、花伝書と呼ばれている風姿花伝があります。これは、能芸論書で、1400年(応永7年)、38才の時、最初の3巻を書き上げ、その後20年ほどかけて現在の7巻の形に整備しました。

 また、1424年(応永31年)に完成した能楽書、花鏡(かきょう)は、先聞後見(せんもんごけん)、序破急、幽玄(ゆうげん)、劫(こう)、妙所、見聞心、その他の問題を論じていますが、その中に、当流に、万能一徳の一句あり。初心を忘るべからず、という言葉があります。(学び始めた当時の気持ちを忘れてはならない。常に志した時の意気込みと謙虚さをもって事に当たらねばならないの意。広辞苑より)

○ 風姿花伝の中の花傳第三 問答條々の中に、以下の文章があります。

 。 能に花を知る事、この條々を見るに、無上の第一なり。肝要(かんえう)なり。または不審なり。これ、いかにとして心得べきや。

 。 この道の奥義(あうぎ)を極(きは)むる所なるべし。一大事とも、秘事とも、ただ、この一道なり。先(ま)づ、大方、稽古、物學(ものまね)の條々に委しく見えたり。時分の花、聲の花、幽玄の花、かやうの條々は人の目にも見えたれども、その態(わざ)より出(い)で来(く)る花なれば、咲く花の如(ごと)くなれば、また、やがて散る時分あり。されば、久しからねば、天下に名望(めいばう)少し。ただ、誠(まこと)の花は、咲く道理も、散る道理も、心のままなるばし。されば、久しかるべし。

 この理(ことわり)を知らん事、いかがすべき。もし、別紙(べっし)の口傳(くでん)にあるべきか。ただ、煩(わずら)はしくは心得(こころう)まじきなり。先づ、七歳より以来(このかた)、年来稽古の條々、物まねの品々(しなじな)を、よくよく心中に當(あ)てて分(わか)ち覺えて、能を盡(つく)し、工夫を極(きは)めて後、この花の失(う)せぬ所をば知るべし。この物數(ものかず)を極むる心、即ち、花の種なるべし。されば、花を知らんと思はば、先づ、種を知るべし。花は心、種は態(わざ)なるべし。 

○ 風姿花伝の中の花傳第七 別紙口傳(べっしくでん)中に、以下の文章があります。

 されば、初心(しょしん)よりの以来(このかた)の、藝能(げいのう)の品々(しなじな)を忘れずして、その時々(ときどき)、用々(ようよう)に従(したが)ひて取(と)り出(い)だすべし。若くては年寄(としより)の風體、年寄りては盛りの風體を殘す事、珍(めずら)しきにあらずや。しかれば、藝能の位に上(あが)れば、過ぎし風體をし捨(す)てし捨て忘るる事、ひたすら、花の種を失(うしな)ふなるべし。その時々にありし花のままにて、種なければ、手折(たを)れる(枝の花)の如し。種あらば、年々(としどし)時々の比(ころ)に、などか逢(あ)はざらん。ただ、返す返す、初心を忘るべからず

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神の能初番目物高砂天下泰平、国土安穏、祝言、国立能楽堂提供、google画像)

(解説) 世阿弥は、老松、高砂、頼政、清経、敦盛、実盛、井筒、檜垣、班女、砧(きぬた)、融(とおる)など多くの仮面を用いる仮面歌舞中心幽玄能を作り、詩劇を創造しました。また、風姿花伝、花鏡など20を越える能楽論書があります。

 世阿弥は、45才まで、将軍(第3代)足利義満の絶大な保護を受け、その後65才まで、(第4代)足利義持によって次第に疎外されて行き、1434年(永享6年)、71才の時、将軍(第6代)足利義教によって弾圧され、佐渡に流されました。世阿弥が佐渡に73才までいたことは、小謡7篇を収めている金島集によって明かですが、その後の晩年不明です。

(参考文献) 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 永原慶二(監修): 日本史事典、岩波書店(1999);  世阿弥著(野上豊一郎、西尾実校訂): 風姿花伝、岩波文庫(2007).

(参考資料) 能楽事典(能楽協会):http://www.nohgaku.or.jp/encyclopedia/program.html 

(追加説明) ○ (のう)には、観世(かんぜ)、宝生(ほうしょう)、金春(こんぱる)、金剛(こんごう)、喜多(きた)などの座(ざ)、流(りゅう)があります。

○ 織田信長、1534年(天文3年)~1582年(天正10年)が好んだとされる「人間(じんかん)五十年、下天(げてん)の内(うち)をくらぶれば、夢幻の如くなり---」は、幸若舞(こうわかまい)「敦盛」(世阿弥作)の一節です。無常観から直実は、その後出家したとされますが、領地争いでの敗北が理由だったとする説が有力です。美貌の若武者、敦盛をめぐる謎は多い。(2009年(平成21年)11月28日、朝日新聞、朝刊、平敦盛、薄命の武者 無常の響き、平家物語より)

○ 加賀(石川)の能楽は、藩祖前田利家以来、金春流が興業され、宝生流が前田家に出入りするのは藩主(3代)前田利常の頃からで、次第に金春流にとってかわりました。藩主(5代)前田綱紀は、加賀藩の能を宝生流にまとめ、以来、加賀宝生と呼ばれるようになりました。石川県立能楽堂(金沢、石川): http://www.pref.ishikawa.lg.jp/nougakudo/1sisetsu1nope-ji/shisetsua.html. ;金沢能楽美術館(ホームページ、金沢市):http://www.kanazawa-noh-museum.gr.jp/sisetsu_guide/index1.html

〇 金沢能楽会 定例能

翁(おきな) 能にして脳にあらずーといわれる翁。「天下太平、国土安穏、今日のご祈祷なり」と謡う神事的な能。

祇王(ぎおう) 「平家物語」巻第一にある「祇王の事」が原典。白拍子・祇王は清盛の寵愛を受けて3年。栄華を極める。ある日、加賀の国から出てきた若き白拍子・仏御前が清盛邸に押しかけ対面する。無礼だと憤る清盛を祇王がなだめ、仏御前は清盛の前で歌い、舞うことができた。

 仏御前は16歳。美貌と舞にメロメロになった清盛は祇王に暇を出したかと思うと、「仏御前が退屈しているので歌や舞で慰めよ」と呼びだす始末。世の無常を悟った祇王は母や妹と出家し、嵯峨の奥に庵を結ぶ。時に21歳。そこへ髪を下ろした仏御前が訪ねてきた。「私もいずれ清盛に捨てられる。娑婆の栄華は夢の夢」と述懐し、ともに仏道に励んだという。 平家の隆盛を描いた節の直後に置かれた物語。若き女たちは絶頂の清盛から離脱した。その心理劇を1時間ほどの能で簡潔に描いている。

その他、能の演目には、西王母、野守、羽衣、殺生石、女郎花、高野物狂、黒塚などが披露される。殺生石では、玄翁道人と恐ろしいキツネのやりとりを謡や鼓、笛の音色とともに演じる。

また、狂言の演目には、三番叟(さんばそう)、樋(ひ)の酒宇治の晒(さらし)福の神、仁王、伯母ヶ酒、文荷、などがあり、能の幽玄の世界と合わせて披露される。

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能「高野物狂」。空海ゆかりの松(左の作り物)の下で舞う高師(シテ藪俊彦さん)2005年5月1日、石川県立能楽堂で(金沢能楽堂提供)

2010年6月 4日 (金)

碁盤、木画紫壇棊局(最古、国宝)にまつわる歴史伝承、聖武天皇(第45代)の遺愛棋具(正倉院、奈良)、囲碁の時代認識、とは(2010.6.4)

  奈良時代、東大寺大仏殿の北西にある校倉(あぜくら)造りの正倉院(しょうそういん)宝庫には、聖武天皇(第45代)、701年(大宝元年)~756年(天平勝宝8年)、の遺愛品、東大寺の寺宝、文書など、7~8世紀の東洋文化遺産、9千余点が納められました。

 その中に、碁盤(3面)、碁盤容器(1具)、碁石(4種)、碁笥(ごけ、2種)、囲碁図が描かれた楽器(1具)など、11点の棋具国宝)が現存しています。碁盤の中でも、木画紫壇棊局(もくがしたんのききょく、棊局は碁盤の意味)と名付けられた華麗な碁盤が、人気度でベスト5に入るそうです。

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聖武天皇(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87

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碁盤木画紫檀棊局、もくがしたんのききょく、亀(スッポン)を象(かたど)った二つの引出しは、アゲハマ入れと考えられています、正倉院蔵、奈良、google画像)

 756年(天平勝宝8年)の東大寺献納目録(国家珍宝帳)には、百済(くだら、朝鮮)の義慈王(ぎじおう、第31代、599~660年)から藤原鎌足(ふじわらのかまたり)、614年(推古天皇22年)~669年(天智天皇8年)に碁石(撥鏤棊子、ばちるのきし)と碁石入れ(銀平脱合子、ぎんへいだつのごうす)が贈られていたことが記録されています。それらは、木画紫壇棊局(もくがしたんのききょく)1面と共に、3セットとして、同時に送られてきたものと考えられています。この碁盤は、専用の碁盤入れ、金銀亀甲龕(きんぎんきっこうのがん)に納められていました。

碁石 紺牙撥鏤棊子(こんげばちるのきし)、 紅牙撥鏤棊子(こうげばちるのきし)、象牙を紺と紅に染め、表面に花食い鳥が彫り込まれています、正倉院蔵、奈良、google画像)

 木画紫壇棊局(もくがしたんのききょく)は、縦横49.0cm、総高12.6cm、碁盤の容器の龕(がん)は、縦53.3cm、横53.7cm、総高15.6cmで、現在の碁盤よりもやや大きく、高さの低いものです。なかでも、その碁盤の側面に象眼(ぞうがん)された駱駝(らくだ)などの動物や人物、文様が中央アジアの風俗を伝えています。というわけで、これは東西交流の道、シルクロードを通って伝来された品物と思われます。また、亀形の碁石入れを内蔵する引出しは、一方を引くと向こう側も出る入念な細工となっています。

 木画紫壇棊局(もくがしたんのききょく)は、縁になる線を含めると、盤面上の条(骨を埋め込んだ細工)は、縦横それぞれ19です。19条19路の盤面の目(交点)の数は総計361箇です。また、5弁の花を象(かたど)った美しい装飾の花点(星、最初の置き石の位置)が17箇あります。これは、最初に花点に石を置いて打ち始める百済(朝鮮)の事前置碁法(じぜんおきいしほう)の碁盤であることを示しています。 

(参考文献) 増川宏一: ものと人間の文化史 59 碁、法政大学出版局(1987); 白川正芳: 囲碁の源流を訪ねて、日本棋院(1999); 水口藤雄: 囲碁の文化誌、起源伝説からヒカルの碁まで、日本棋院(2001); 日本棋院編: 日本棋院創立80周年記念、囲碁雑学手帳、月刊碁ワールド1月号第2付録、日本棋院(2005)

(参考資料) 正倉院(ホームページ、宮内庁): http://shosoin.kunaicho.go.jp/

(追加説明) ○ 囲碁の時代認識

 奈良時代、唐の律令を真似たと思われる僧尼令の中に、音楽及び薄戯(雙六、囲碁など)をする者は百日の苦役に処す。ただし、碁琴は制限しない、とあります(大宝律令、養老律令)。

 平安時代、僧の寛蓮(かんれん、碁聖、俗名橘良利)が醍醐天皇(第60代)の命により勅撰碁経、碁式を撰進、また天皇との賭碁で金の枕をもらい、仁和寺の旁らに弥勒寺を建立したと言う(今昔物語)。

 清少納言の枕草子(寸評)と紫式部の源氏物語(空蝉など)には、囲碁に関する描写が随所にあり、述語や用語の記述から二人ともかなりの碁の打ち手であったと言う。

 空海(弘法大師)の遺告として、835年(承和2年)3月、帝王編年記の条には、碁琴制限にあらず、と記されています。中国に留学した空海は、碁琴について、唐の評価を知り、その影響を受けていたと考えられています。

 鎌倉時代には、玄尊(囲碁式、碁盤の規格、長1尺4寸5分、広1尺4寸を定める)、室町時代には、同朋衆(どうぼうしゅう)の重阿弥(宣胤卿記)がいましたが、二人とも碁の強い打ち手(名手)であったと言う。

 江戸時代には、本因坊家、井上家、安井家、林家など、囲碁の4家元があり、徳川幕府の禄を受け、御城碁で仕えました。

2010年6月 2日 (水)

ダルマさん(少林寺、中国)にまつわる歴史伝承、達磨大師(坐禅)、達磨寺(日本各地)、起上り小法師(七転八起)、とは(2010.6.2)

  ダルマさんと言えば、商売繁盛、開運出世の縁起物(えんぎもの)、また選挙の時には必勝祈願の呪物(じゅぶつ)の姿が目に浮かびます。ダルマさんの本当の姿は、達磨大師、中国の少林寺で面壁(めんぺき)9年の坐禅の功を積み、禅宗の開祖となったインドの高僧です。人生は、起上り小法師、七転八起、人々の生きる心の支えとなっています。

 禅宗の始祖とされる達磨(だるま、生没年未詳)は、正しくは、梵語(ぼんご、サンスクリット語)、Bodhidharmaの音訳、菩提達磨(ぼだいだるま)と言い、諡号(しごう)は円覚大師、達磨大師と呼ばれています。南インドのバラモンの生まれ、香至国の第3王子と言われています。出家後は、般若多羅(はんにゃたら)に学び、大乗禅を究め、527年(大通元年)、大乗仏教の僧として、中国における禅の教化という師の遺志を受け継ぎ、海路中国に渡り、南京の梁(りょう)の武帝(ぶてい、464~549年) の尊崇を受けました。

 その時にやった武帝との問答は有名です。武帝が、「聖諦(しょうたい、仏教の精神の意)第一義は何か」と問うたのに対し、達磨は、「廓然無聖(かくねんむしょう、とても広くて、仏教精神の第一義などない、という意)」と答えました。そこで重ねて武帝が、「朕(ちん)に対する者は誰そ」と問うたところ、達磨は、「知らない」と答えました(伝法正宗記)。

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達磨大師(達磨図、月岡芳年、木版画、1887年(明治20年)、google画像)

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嵩山少林寺(すうざんしょうりんじ、曹洞宗、河南省、中国、google画像)

(解説) 達磨は、武帝の質問に満足せず、北魏の河南省、嵩山少林寺(すうざんしょうりんじ)に行き、「終日面壁而坐9年」、面壁9年(壁に向かって9年間座し、悟りを開いたという故事)の修行をしました。縁日などでなじみ深い張子のダルマは、この達磨大師の坐禅した像を模したものです。その後、達磨は、慧可(えか)に禅の奥義を授けたと伝えられています。しかし、その伝記とか著書には伝説的な要素が多いようです。

 禅宗は、仏心宗、達磨宗とも呼ばれ、その奥義は、不立文字(ふりゅうもんじ)、以心伝心、直示人心、見性成仏(けんしょうじょうぶつ)に要約されると言われています。それは、文字に頼ることなく、心の修行によって、自得される無住空寂な心(悟り)により、仏の心を直接に感得すると言う。達磨の提唱する大乗禅は、仏教でありながら、哲学的で、中国の思想家にも大きな影響を与えたと言われています。 

 また、日本各地の達磨大師ゆかりの仏教寺院として、達磨寺(曹洞宗、北広島、北海道)、達磨寺(黄檗宗、高崎、群馬)、法輪寺(臨済宗、上京、京都)、達磨寺(臨済宗、北葛城、奈良)、達磨寺(臨済宗、伊豆、静岡)、勝尾寺(達磨寺とも、真言宗、箕面、大坂)、西来院(臨済宗、那覇、沖縄)などがあります。

 達磨大師が日本に渡来した確証はなく、大師に対する日本人の篤い(あつ)い帰依(きえ)が、達磨大師と聖徳太子の邂逅(かいこう)伝説となり、また、日本各地の達磨寺の存続につながっていると考えられています。 

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法輪寺(ほうりんじ、臨済宗、だるま寺とも、上京、京都、google画像 )

(解説) 縁日などの張子のダルマは、達磨大師の坐禅に因み、手足のない赤い衣をまとった僧の姿の人形です。 起上り小法師(おきあがりこぼし、異称は不倒翁)の一つで、普通、顔面以外の部分を赤く塗り、達磨の形の人形の底に重りをつけ、倒してもすぐに起き直るように作られています。法輪寺(だるま寺とも、京都人ブログ2、京都):http://kata2.wablog.com/128.html.) 

 ダルマは、商売繁盛、開運出世の縁語物としても喜ばれ、目のない達磨に願いごとがかなった時に目玉を描き入れる風習があります。郷土玩具として、張子製のものが各地で作られ、達磨市の立つ地方が多いようです。松川達磨(仙台、宮城)、目無し達磨(豊岡、群馬)、子持達磨(甲府、山梨)、姫達磨(松山、愛媛)などが著名です。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 樋口清之(監修): 生活歳時記、p.171、ダルマと禅宗、三宝出版社(1994); 吉野裕子: ダルマの民俗学、陰陽五行から解く、岩波新書(1995).

(文献資料) 嵩山少林寺(河南、中国、google画像):http://www.google.co.jp/search?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%B5%A9%E5%B1%B1%E5%B0%91%E6%9E%97%E5%AF%BA&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1020&bih=587

(追加説明) ○ 少林寺は、中国、河南省、登封県の崇山(すうざん)の西方、少室山の北麓にある名刹です。北魏の孝文帝が、496年に創建、北周の廃仏に会って伽藍が破壊されましたが、隋唐代に復活、山門、天主殿、大雄宝殿など多くの建築物があります。達磨大師の面壁9年、少林拳発祥の地として有名です。

 ところで、この少林寺は、「少林寺拳法」の発祥地としてお馴染みです。この拳法は、いつ、誰によって始められたのか、分からないのですが、いつのまにか普及して、近年、映画にもなり、大きな反響を生みました。皮肉にも、少林寺には達磨の言行は全く伝わっていないのですが、拳法はずっと伝えられ、ついに拳法の大本山になった次第です。(樋口清之(監修)、生活歳時記より)

○ 達磨宗祖とする中国の禅宗は、孝徳天皇の653年(白雉4年)、入唐した道昭(どうしょう)が玄奘三藏法師に遭って禅定を習い、帰国後、元興寺に禅院を建てたのがその招来のはじめと言われています。桓武天皇の802年(延暦21年)、最澄が入唐して、天台の教法と禅宗を招来しました。また、後鳥羽天皇の1187年(文治3年)、栄西が入宋し、臨済宗を招来、ついで道元も入宋し、帰朝して曹洞宗を伝えました。後光明天皇の1654年(承応3年)、中国僧、隠元隆琦(いんげん りゅうき)が来朝して、臨済禅の一派、黄檗宗を宇治を本拠として、日本に定着させました。

○ 七転八起とは、七たび転んで八たび起きる意です。人生の浮き沈みが甚だしく、度重なる失敗をしても屈することなく奮起する、とのたとえです。私が中学生の時の恩師、熱田治先生の賀状には、毎年ダルマが毛筆で描かれていて、その風貌が強く印象に残っています。

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○ 達磨大師のもう一つの像(すがた)、容(かたち)を象徴するものは、インド哲学、仏教の4大(地大、水大、火大、風大)の火天、中国哲学の五行(木火土金水)のである、と考えられています。そして、起上り小法師は、火の造形であり、火の本性は炎上であり、たとえ風などにより炎が横倒しになっても、すぐに真っ直ぐ炎上する姿を表していると言う。

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