« 碁の名手(本因坊算砂)と本行寺(金沢、加賀)にまつわる歴史伝承、加賀藩3代藩主、前田利常の碁の指南役、とは(2010.7.20) | トップページ | 日本三大銅山、別子銅山(愛媛)の歓喜抗と歓東抗(坑道)、シダ(ヘビノネゴザ)の銅蓄積、リョウブの樹林、マイントピア別子の東平と端出場ゾーン(産業文化遺産)、とは(2010.7.24) »

2010年7月22日 (木)

金沢城の石垣と戸室石(戸室山、金沢)、石曳き(運搬の再現、金沢城三の丸)、野面積み(本丸北面石垣)、打込接ぎ(本丸南面石垣)、切込接ぎの石垣(石川門枅形東面石垣)、とは(2010.7.22)

   戸室山(とむろやま)は、標高548m、金沢城から東へ約12kmほどに位置する小さな三角形の山です。奥医王山(おくいおうぜん)、白兀山(しらはげやま)などの山々からなる医王山(いおうぜん)手前の左が戸室山、右がキゴ山で、共に約40万年ほど前に噴火によって生まれた休火山です。戸室山溶岩の青灰色のものを青戸室、噴火の際の酸化作用で赤色となったものを赤戸室といい、これらの石は、金沢城の石垣、兼六園の庭石、辰巳用水の石管などに利用されています。近年では、医王石と同じく、浴用剤、水質浄化、薬石、盆栽の肥料などの利用を耳にしたことがあります。

Images_23

Images7

Tomuroisi400pict013111

戸室石(とむろいし、戸室山で産出する赤色と青色の安山岩、金沢市街から東へ約12kmほどに位置する小さな三角形の山が戸室山です、金沢、石川、google画像)

(解説) 戸室山の埋もれた土砂から掘り出される安山岩は、戸室石(医王石とも)と呼ばれ、約400年前、はじめて金沢城石垣に用いられました。その化学組成は、安山岩とデイサイト(安山岩と流紋岩の中間組成のケイ長質の火山岩)にまたがり、俗に「赤戸室石」、「青戸室石」と区別されていますが、化学組成上の違いはなく、どちらも同じ岩石です。

 赤戸室石の化学組成は、無水ケイ素(SiO2)51.23%、アルミナ(Al2O3)20.62%、酸化カリウム(K2O)12.30%、酸化ナトリウム(Na2O)4.27%、酸化第二鉄(Fe2O3)5.90%、酸化カルシウム(CaO)3.35%、酸化マグネシウム(MgO)0.80%、酸化チタン(TiO2)0.65%と報告されています。青戸室石は、溶岩が空気酸化により鉄サビのような酸化第二鉄になる前の、淡緑色の硫酸第一鉄(FeSO4)などの成分を含むと考えられます。

 戸室石の岩石の色調が異なるのは、単に溶岩が冷える際の条件の違いによるもので、高温で長時間空気にさらされると赤っぽくなり、逆に短ければ青っぽくなったと言われています。これは岩石の中の鉄成分の原子価が、Ⅱ価からⅢ価に変わり、青色から赤色に変色したと考えられます。

Images2_19

石曳き(いしびき、戸室石の運搬の再現金沢城の三の丸、金沢、石川、google画像)

 金沢城の石川門の真向かいに兼六園があります。その裏手は小立野台地で、近くに石引という地名が残っており、江戸時代には、金沢城石垣に使う戸室石戸室山から切り出され、石引の道を通って約12km離れた金沢城に運ばれたと言われています。近年、金沢城の三の丸広場では、その歴史を再現して、戸室石を丸太にのせて引くという「石曳き」が披露されました。(金沢発ときめき浪漫(金沢城河北門工事、遺跡調査、石曳き含む、金沢):http://tokimekiro.exblog.jp/6623616/。)

 金沢城石垣は、加賀初代藩主、前田利家の入城から明治維新まで約300年、戸室山から採取した戸室石を使って、いろいろなタイプの石垣が作られ、石垣の博物館とも言われるほど多様な姿を見せています。その石垣の積み方は、加工の程度により、「野面積み(のづらずみ)」、「打込接ぎ(うちこみはぎ)」、「切込接ぎ(きりこみはぎ)」の3つのタイプがあることが、よく知られています。

○ 野面積み(のづらずみ)は、石切場から採取した自然石のままの石材を積み上げた、自然石積みです。これは、金沢城石垣の最初の頃のもので、現存するのは文禄年間(1592~1596年)に建造されたと推定されるので、「文禄石垣(ぶんろくいしがき)」とも呼ばれています。

Dscf25321

野面積み(のづらずみ、文禄石垣、金沢城の本丸丑寅櫓下東の丸、北面石垣、google画像)

(解説) 文禄石垣の現存する城内石垣は、本丸東面の百間堀に面した長さ106mの高石垣(高さ約20m)や、本丸丑寅櫓(うしとらやぐら)下の北面石垣などです。築石(つきいし、石垣の角以外の部分、平石)は隙間(すきま)だらけで、石と石の間に間詰石(まづめいし)が入っていますが、排水がよく、構造的にも意外と安定していて、400年経った現在もその雄姿を保っています。加賀初代藩主、前田利家の時代の石垣であり、篠原出羽守らが活躍し建造したと言われています。

○ 打込接ぎは、割石積み(わりいしづみ)や粗加工石積み(そかこういしづみ)のことで、慶長年間(1596~1615年)から元和年間(1615~1624年)に建造されたと推定され、「慶長石垣(けいちょういしがき)」、「元和石垣(げんないしがき)」と呼ばれています。加賀2代藩主、前田利長が1598年(慶長3年)に藩主となり、1605年(慶長10年)、富山城に隠居し、1614年(慶長19年)、高岡城で亡くなるまでの約20年間に作られた割石積みの石垣が「慶長石垣」です。また、加賀3代藩主、前田利常は、1605年(慶長10年)より金沢城主となっていたので、「慶長石垣」の古いものは利長時代、新しいものは利常時代初期と考えられ、その後は、粗加工石積みの「元和石垣」となっています。

Dscf23931

打込接ぎ(うちこみはぎ、慶長石垣、金沢城の本丸南面石垣、google画像)

(解説) 慶長石垣の現存する城内石垣は、北向きの大手門である尾坂門(おさかもん)、三ノ丸の正門である河北門、そして、本丸南面石垣などです。築石(つきいし、石垣の角以外の部分、平石)部分が、割石(わりいし)中心となっていて、自然石を矢で割っただけの石で、自然石の持つ野性味も残した石材です。

 尾坂門の「慶長石垣」は、畳3~5畳もある巨大な鏡石を用いたもので、金沢城の正面玄関ににふさわしい威容を備えています。河北坂の両側に見える割石中心の石垣は、自然の野趣に富む姿を保っています。その後、元和の終わり頃まで、粗加工石積み(あらかこういしづみ)の石垣が現れています。

 切込接ぎ(きりこみはぎ)は、 切石積み(きりいしづみ)のことで、1631年(寛永8年)の金沢城の大火後に新たに登場しています。これは方形に整形した石材を密着させ、積み上げる方法です。大火後の再建にあたり、二ノ丸が拡張され、三ノ丸との間に現在見られるような堀が築かれ、本丸や二ノ丸、三ノ丸の縄張りは大きく変化しました。寛永初期は利常時代末期と考えられ、その後は、寛永年間(1624~1644年)、加賀4代藩主、前田光高の頃に建造されたと推定され、「寛永石垣(かんえいいしがき)」と呼ばれています。

Images6_5

切込接ぎ(きりこみはぎ、寛永石垣、金沢城の石川門枅形内、正面東面石垣赤戸室石と青戸室石が入り混じっています)、google画像)

(解説) 寛永大火後の城内石垣の築造は、1639年(寛永16年)頃まで相次いで行われましたが、これらを「寛永石垣」と呼ばれ、本丸北面、本丸付段北面、東面石垣、石川門枅形内東面石垣など城内各所に数多くの遺構が残っています。 その後、1661年(寛文元年)以来、金沢城の石垣は、数多くの修築を繰り返し、主に切込接ぎ(きりこみはぎ)による切石積石垣の形で様々なデザインの石垣に姿をかえ、現在に至っています。

 
(参考文献) 石川県の歴史散歩研究会: 石川県の歴史散歩、山川出版(1993); 石川化学教育研究会編: 科学風土記、加賀・能登のサイエンス、p.117~118、日吉南賀子、医王山と戸室山、裳華房(1997);  石川県教育委員会事務局文化財課、金沢城研究調査室編; よみがえる金沢城、450年の歴史を歩む、1、北国新聞社(2006)、同、今に残る魅力をさぐる、2、(2009); 金沢ふるさと愛山会(会長、林正一)編: 石川/ふるさと 100山、椋鳥書房(2009).

(参考資料) 戸室石(医王石とも)の技術資料(産出、組成、吸着作用など、石川県工業試験場、工試証1350号ー1、石川): http://w-21.net/dron/water/iou/seki2.htm

金沢城公園の石垣(石川県): http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/kanazawa_castle/ishigaki.html

戸室石切丁場: http://www.kanazawa-hakusan.com/kanazawa/asset.cgi?mode=pickup&cord=a21; 

(追加説明) ○ 白山の開祖、泰澄大師が、医王山で修行していた時、弟子の臥行者(ふぜりぎょうじゃ)が、沖合を航行する舟に托鉢を請うたが拒まれ、腹を立てて舟の櫓(ろ)を飛ばしたと言う。落ちた場所が「飛櫓(とぶろ)」で、この伝説が「戸室(とむろ)」の名の由来とされています。臥行者(伝説、飛鉢(ひはつ)の呪法、能登出身の仙人):http://www.geocities.co.jp/une_genzaburo/Fusenogyouja.htm

○ 加賀藩初代藩主、前田利家の頃から、加賀藩お抱えの穴生(あのう、石垣専門職人)として、穴太家、後藤家、戸波、正木などがありました。

 また、加賀藩が出役した天下普請(てんかぶしん)として、加賀藩の穴生達は、江戸城、駿府城、名古屋城、高田城、大阪城などの石垣築造に動員された時、大いに活躍したと言われています。

○ 江戸時代、石垣を作る専門職人を穴太(あのう、穴生とも)と呼んだが、その発祥地は近江坂本(大津市、滋賀)の穴太の里です。ここに中世以来、比叡山で土木事業に従事していた石工集団が住んでおり、豊臣政権から石垣職人として認められ、大坂築城などで手腕を発揮しました。江戸幕府ができると、公儀穴太頭となり、各地の城の石垣作りに活躍したので、城郭石垣の職人呼称としてその名が広まりました。

 

« 碁の名手(本因坊算砂)と本行寺(金沢、加賀)にまつわる歴史伝承、加賀藩3代藩主、前田利常の碁の指南役、とは(2010.7.20) | トップページ | 日本三大銅山、別子銅山(愛媛)の歓喜抗と歓東抗(坑道)、シダ(ヘビノネゴザ)の銅蓄積、リョウブの樹林、マイントピア別子の東平と端出場ゾーン(産業文化遺産)、とは(2010.7.24) »

● かなざわ(金沢城、兼六園、野田山、加賀藩主前田家墓所)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

« 碁の名手(本因坊算砂)と本行寺(金沢、加賀)にまつわる歴史伝承、加賀藩3代藩主、前田利常の碁の指南役、とは(2010.7.20) | トップページ | 日本三大銅山、別子銅山(愛媛)の歓喜抗と歓東抗(坑道)、シダ(ヘビノネゴザ)の銅蓄積、リョウブの樹林、マイントピア別子の東平と端出場ゾーン(産業文化遺産)、とは(2010.7.24) »

2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

カテゴリー

フォト

アクセス解析

無料ブログはココログ