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2010年7月30日 (金)

金沢(軍都)と日露戦争、北陸の軍事基地、第9師団司令部(金沢城)、北陸本線の金沢駅までの開通、とは(2010.7.30)

   徳川幕府を打倒した、薩摩(鹿児島)、長州(山口)、土佐(高知)の3藩の兵力が、日本の近代軍隊の始まりです明治政府が掲げた「富国強兵」の国是(こくぜ)のもと、徴兵制がしかれ、軍制度は急速に整備されました。日清戦争(朝鮮支配をめぐる日清間の戦争)、日露戦争(朝鮮、満州の支配をめぐる日露間の戦争)の戦勝は、欧米諸国に日本の国力を知らしめ、内政では、その後、軍隊は天皇直属(統帥権の独立!)とし、行政府の権限外に置かれ、軍部(陸運、海軍)は、政治的な圧力を高めました(軍部独裁!)。 

○ 明治時代(1868~1912)、金沢の都市としてのインフラ(基盤)整備は、まず第一に軍事的な要請によってもたらされました

 金沢城は、廃藩置県をへて、1871年(明治4年)8月には、兵部省の所轄(しょかつ)となりました。次いで、1872年(明治5年)2月、兵部省が陸軍省に変わり、不要な建造物は順次破壊されていきました。こうした中、1881年(明治明治14年)1月10日、城内二ノ丸より失火、二ノ丸の建物は、ほとんど焼失してしまいました。石川門と本丸の三十間長屋は幸い火災を免れ、現在も国指定の重要文化財として保存されています。

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旧第9師団司令部庁舎(現石川県庁舎石引分室、1968年(昭和43年)に現在地に移築され、両翼が約半分に切りつめられた以外は、ほとんど原形を保っています、出羽町、金沢、google画像)

(解説) 明治時代、1898年(明治31年)11月8日、北陸の軍事的拠点、第9師団司令部(木造総二階建)が、金沢城の二ノ丸跡に建築、開庁され、大島久直(おおしまひさなお、秋田藩士)中将、1848年(嘉永元年)~1928年(昭和3年)が初代師団長となりました。金沢城内には、第9師団司令部のほか、歩兵第6旅団司令部、歩兵第7連隊が設置されました。旅団は、師団と連隊をむすぶ中間の組織です。

 金沢市の郊外の野田村(平和町、十一屋町の近辺)には、騎兵第9連隊、山砲第9連隊、工兵第9連隊、輜重兵(しちょうへい)第9連隊などの諸連隊が駐屯(ちゅうとん)しました。 この他、衛戍(えいじゅ)病院、陸軍墓地、招魂社(しょうこんしゃ)などをつくり、金沢は、城下町から北陸最大の軍都として再編されていきました。

 また、幹線道路、犀川大橋、浅野川大橋などの橋梁(きょうりょう)の建設に関しても同様で、一説には、両橋の鉄筋造やコンクリート造化は、世界第一次大戦(1914~1918)時の戦車の走行に備えたものとも言われています。

 こうした都市の性格は、地域の経済や社会に大きな影響を与え、陸軍部隊が駐留した金沢城や野田村周辺には、飲食店、洋服、靴、書籍、雑貨店、土産物店、宿屋、さらに料亭などで賑わいました。

 なお、金沢城の百間堀(巽櫓下から石川門土橋下まで)は、水堀でしたが、1911年(明治44年)に埋め立てられ、開削と幹線道路化工事により、石川橋の下は道路(お堀通り)、石川門の下は外濠公園(沈床園)になっています。

 1898年(明治31年)4月1日、北陸本線(官設鉄道)が、 金沢駅まで開通しました。これは、政府の日露戦争を想定した軍事拡張に関連していると言われています。

 北陸本線の金沢駅の駅舎そのもが、軍隊の集合地を確保するよう設計され、金沢停車場の正面に設けられた50間四方の空地は、金沢市が設置する空地と接続して、動員時の集合場所を確保したものと言われています。駅頭では、出征や凱旋(がいせん)の大規模な歓送迎の風景を生み、軍都を印象づけました。

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日露戦争戦没記念石碑(金沢城、本丸、植物園内、金沢、google画像)

(解説) 1904年(明治37年)2月10日、日露戦争が起こりました。同年、5月には、金沢の第9師団にも動員令が下り、月末には歩兵第7連隊が征途にのぼりました。第7連隊は、第3軍団に属し、旅順攻略をはじめ奉天戦に参加して奮戦しましたが、第9師団の犠牲は旅順攻略のみで死者4550人、負傷者11410人に達しました。銃後では、村上知事の唱導によって愛国議会が組織され、出征家族の扶助、軍資の供給にあたりました。

 日本軍は、1905年(明治38年)3月1日~10日、奉天会戦(ほうてんかいせん、日本軍25万、ロシア陸軍32万、大山巌元帥、乃木希典大将、秋山好古大将)、日本海海戦(にほんかいかいせん、ロシアバルチック艦隊、東郷平八郎元帥、秋山真之中将、天気晴朗なれど波高し!)に勝利したものの、これ以上戦争を続ける余力はありませんでした。そこで、アメリカの斡旋(あっせん)のもと、ロシアと日露講和条約(ポースマス条約)を調印しました。

 この条約では、韓国や遼東(りょうとう)半島での権益を獲得しましたが、ロシアから賠償金(ばいしょうきん)を取ることが出来ず、1905年(明治38年)9月5日、講和反対の国民大会が東京の日比谷公園で開かれ、内相官邸や交番を襲う暴動(日比谷焼き討ち事件)に発展しました。

(参考文献) 若林喜三郎(監修): 石川県の歴史、北国出版社(1970); 野島博之(監修): 昭和史の地図、成美堂出版(2005); 野島博之(監修): 図解日本史、成美堂出版(2006); 金沢城研究調査室(石川県教育委員会事務局文化財課)編: 450年の歴史を歩む、よみがえる金沢城 1、P.148~149、本康宏史、軍都金沢と師団司令部、石川県教育委員会(2006).

(追加説明) 私の郷里(引野、松島、のち上板、德島)の本浄家の過去帳によれば、本浄源藏(5代目)の倅(せがれ)、浪太郎は、1904年(明治37年)9月3日(旧7月24日)、日露戦争で亡くなっています(渤海湾近く?)。享年22才。自宅の床の間には、勲章をつけ羽織袴の肖像画がかけられていました。また、本浄家の墓地では、浪太郎さんのお墓は、本浄家の先祖のお墓の中でも特別大きなお墓であったので、子供の頃から強く印象に残っています。

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