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2010年7月の12件の記事

2010年7月30日 (金)

金沢(軍都)と日露戦争、北陸の軍事基地、第9師団司令部(金沢城)、北陸本線の金沢駅までの開通、とは(2010.7.30)

   徳川幕府を打倒した、薩摩(鹿児島)、長州(山口)、土佐(高知)の3藩の兵力が、日本の近代軍隊の始まりです明治政府が掲げた「富国強兵」の国是(こくぜ)のもと、徴兵制がしかれ、軍制度は急速に整備されました。日清戦争(朝鮮支配をめぐる日清間の戦争)、日露戦争(朝鮮、満州の支配をめぐる日露間の戦争)の戦勝は、欧米諸国に日本の国力を知らしめ、内政では、その後、軍隊は天皇直属(統帥権の独立!)とし、行政府の権限外に置かれ、軍部(陸運、海軍)は、政治的な圧力を高めました(軍部独裁!)。 

○ 明治時代(1868~1912)、金沢の都市としてのインフラ(基盤)整備は、まず第一に軍事的な要請によってもたらされました

 金沢城は、廃藩置県をへて、1871年(明治4年)8月には、兵部省の所轄(しょかつ)となりました。次いで、1872年(明治5年)2月、兵部省が陸軍省に変わり、不要な建造物は順次破壊されていきました。こうした中、1881年(明治明治14年)1月10日、城内二ノ丸より失火、二ノ丸の建物は、ほとんど焼失してしまいました。石川門と本丸の三十間長屋は幸い火災を免れ、現在も国指定の重要文化財として保存されています。

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旧第9師団司令部庁舎(現石川県庁舎石引分室、1968年(昭和43年)に現在地に移築され、両翼が約半分に切りつめられた以外は、ほとんど原形を保っています、出羽町、金沢、google画像)

(解説) 明治時代、1898年(明治31年)11月8日、北陸の軍事的拠点、第9師団司令部(木造総二階建)が、金沢城の二ノ丸跡に建築、開庁され、大島久直(おおしまひさなお、秋田藩士)中将、1848年(嘉永元年)~1928年(昭和3年)が初代師団長となりました。金沢城内には、第9師団司令部のほか、歩兵第6旅団司令部、歩兵第7連隊が設置されました。旅団は、師団と連隊をむすぶ中間の組織です。

 金沢市の郊外の野田村(平和町、十一屋町の近辺)には、騎兵第9連隊、山砲第9連隊、工兵第9連隊、輜重兵(しちょうへい)第9連隊などの諸連隊が駐屯(ちゅうとん)しました。 この他、衛戍(えいじゅ)病院、陸軍墓地、招魂社(しょうこんしゃ)などをつくり、金沢は、城下町から北陸最大の軍都として再編されていきました。

 また、幹線道路、犀川大橋、浅野川大橋などの橋梁(きょうりょう)の建設に関しても同様で、一説には、両橋の鉄筋造やコンクリート造化は、世界第一次大戦(1914~1918)時の戦車の走行に備えたものとも言われています。

 こうした都市の性格は、地域の経済や社会に大きな影響を与え、陸軍部隊が駐留した金沢城や野田村周辺には、飲食店、洋服、靴、書籍、雑貨店、土産物店、宿屋、さらに料亭などで賑わいました。

 なお、金沢城の百間堀(巽櫓下から石川門土橋下まで)は、水堀でしたが、1911年(明治44年)に埋め立てられ、開削と幹線道路化工事により、石川橋の下は道路(お堀通り)、石川門の下は外濠公園(沈床園)になっています。

 1898年(明治31年)4月1日、北陸本線(官設鉄道)が、 金沢駅まで開通しました。これは、政府の日露戦争を想定した軍事拡張に関連していると言われています。

 北陸本線の金沢駅の駅舎そのもが、軍隊の集合地を確保するよう設計され、金沢停車場の正面に設けられた50間四方の空地は、金沢市が設置する空地と接続して、動員時の集合場所を確保したものと言われています。駅頭では、出征や凱旋(がいせん)の大規模な歓送迎の風景を生み、軍都を印象づけました。

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日露戦争戦没記念石碑(金沢城、本丸、植物園内、金沢、google画像)

(解説) 1904年(明治37年)2月10日、日露戦争が起こりました。同年、5月には、金沢の第9師団にも動員令が下り、月末には歩兵第7連隊が征途にのぼりました。第7連隊は、第3軍団に属し、旅順攻略をはじめ奉天戦に参加して奮戦しましたが、第9師団の犠牲は旅順攻略のみで死者4550人、負傷者11410人に達しました。銃後では、村上知事の唱導によって愛国議会が組織され、出征家族の扶助、軍資の供給にあたりました。

 日本軍は、1905年(明治38年)3月1日~10日、奉天会戦(ほうてんかいせん、日本軍25万、ロシア陸軍32万、大山巌元帥、乃木希典大将、秋山好古大将)、日本海海戦(にほんかいかいせん、ロシアバルチック艦隊、東郷平八郎元帥、秋山真之中将、天気晴朗なれど波高し!)に勝利したものの、これ以上戦争を続ける余力はありませんでした。そこで、アメリカの斡旋(あっせん)のもと、ロシアと日露講和条約(ポースマス条約)を調印しました。

 この条約では、韓国や遼東(りょうとう)半島での権益を獲得しましたが、ロシアから賠償金(ばいしょうきん)を取ることが出来ず、1905年(明治38年)9月5日、講和反対の国民大会が東京の日比谷公園で開かれ、内相官邸や交番を襲う暴動(日比谷焼き討ち事件)に発展しました。

(参考文献) 若林喜三郎(監修): 石川県の歴史、北国出版社(1970); 野島博之(監修): 昭和史の地図、成美堂出版(2005); 野島博之(監修): 図解日本史、成美堂出版(2006); 金沢城研究調査室(石川県教育委員会事務局文化財課)編: 450年の歴史を歩む、よみがえる金沢城 1、P.148~149、本康宏史、軍都金沢と師団司令部、石川県教育委員会(2006).

(追加説明) 私の郷里(引野、松島、のち上板、德島)の本浄家の過去帳によれば、本浄源藏(5代目)の倅(せがれ)、浪太郎は、1904年(明治37年)9月3日(旧7月24日)、日露戦争で亡くなっています(渤海湾近く?)。享年22才。自宅の床の間には、勲章をつけ羽織袴の肖像画がかけられていました。また、本浄家の墓地では、浪太郎さんのお墓は、本浄家の先祖のお墓の中でも特別大きなお墓であったので、子供の頃から強く印象に残っています。

2010年7月27日 (火)

日本の発電のエネルギー、火力、原子力、再生可能な自然力の利用と地球温暖化対策、とは(2010.7.27)

  日本発電には、化石燃料による火力(石炭、石油、天然ガスなど)、核燃料による原子力(ウラニウム、プルトニウムなど)、再生可能な自然力(水力、地熱、風力、太陽光、バイオマスなど)などのエネルギー利用されています。これらの資源の約96%は外国からの輸入によるものです。

 現在、日本の電源別の発電割合は、天然ガス26.6%、石炭22.2%、石油10.2%、原子力31.2%、水力9.0%、地熱0.4%、新エネルギー0.4%であり、その大部分火力(天然ガス、石炭、石油)によるものです。(経済産業省、資源エネルギー庁、電源開発の概要等(2007年度)、より)

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日本の一次エネルギー国内供給(我が国のエネルギーバランス・フロー概要、2004年度、google画像)

(解説) 日本一次エネルギー(自然界から直接得られるエネルギー)の国内供給は、2004年(平成16年)については、上図のようになっています。今では、日本の一次エネルギー約4割発電用に用いられています。 

 その発電方式別の発電量をみると、水力がほぼ一定で、火力、次いで原子力発電が伸びてきています。火力発電の中でも、石油から石炭、天然ガスへの代替が進んでいます。2007年度の発電電力量割合水力7%、火力70%、原子力22%となっています。(EDMC/エネルギー・経済統計要覧(2009年度)、より)

 地球温暖化対策として、ここ数十年内に、火力を下げ、現在の再生可能な自然力(自然エネルギー)を、数%から20%まで引き上げようと、各国で検討されています。

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風力発電装置((阿那賀丸山、南あわじ市、兵庫、大鳴橋記念館展望台より、google画像)

(解説) 日本発電は、環境にとって問題のある化石燃料(石油、石炭、天然ガスなど一次エネルギー)原子力によるものがほとんどを占めています。国内の原発は54基で、約30%をまかなっています。大規模な水力や地熱を除いた、太陽光や中小水力、風力、バイオマスなどの再生可能な自然エネルギーが占める割合は1%前後にすぎません。

 地球温暖化の政策として、2020年には、現在の再生可能な自然力自然エネルギー)を、数%から20%まで引き上げようと、世界各国で政策が立案されています。

 各自然エネルギーのポテンシャル(潜在量)などから、日本において実現可能と考えられる電力分野における「2020年・20%」の内訳を試算したものは、バイオマス発電0.6%、風力発電5.1%、太陽光発電2.0%、地熱発電1.0%、中小水力発電4.2%、大規模水力発電6.3%、黒液廃材発電0.8%、合計20.0%(総発電電力量は10259億kWh)となっています。

 また、再生可能な自然エネルギーを取り入れる各国政策目標は、2010年では、日本約1%、EU252.1%、ドイツ12.5%、フランス2.0%、スペイン2.9%、USA5.30%、中国1.0%(設備)となっています。

(参考資料) 経済産業省、資源エネルギー庁(ホームページ、東京):http://www.enecho.meti.go.jp/index.htm

淡路島(大鳴門橋記念館展望台、So-netブログ): http://hasio-wataruto.blog.so-net.ne.jp/2010-01-30

2010年7月25日 (日)

夏の甲子園の大会歌、栄冠は君に輝く(雲はわき 光あふれて)の作詞者(加賀大介、根上町、石川)にまつわる歴史秘話(2010.7.25)、大会行進曲、とは

  今年もまた、若者に夢と希望を与える、全国高等学校野球の大会歌、「栄冠は君に輝く」の曲が流れる、球児たちの熱い夏の甲子園が巡(めぐ)ってきました。この歌には、作詞者、加賀大介さんの当時の境遇を知ると、青春の高校球児に対し、悔いのないようベストをつくしてプレーして欲しい、という熱い思いが込められている感じがしました。

 甲子園の名の由来は、球場が完成した1924年(大正13年)が、中国で使われる暦の十干(じゅっかん)、十二支(じゅうにし)のそれぞれの最初にあたる「甲(きのえ)」と「子(ね)」が60年ぶりに組み合わさる年にあたり、縁起がよいとされたからです。

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阪神甲子園球場(2010年(平成22年)3月、改築完成、西宮市、兵庫。google画像)

(解説) 1948年(昭和23年)、夏の甲子園の主催者(朝日新聞社、日本高野連)が大会歌歌詞を全国公募し、5252通の中から加賀大介さん(かがだいすけ、根上町、のち能美市、石川)、1914年(大正3年)~1973年(昭和48年)の作品「栄冠は君に輝く」が選ばれました。

 大会歌作曲古関裕而さん(こせきゆうじ、大町、福島市、福島)、1909年(明治42年)~1989年(平成元年)に依頼したのは「夏の甲子園」を主宰する朝日新聞社でした。学制改革に伴って、1948年(昭和23年)に中等野球から高校野球に衣替えしたのを機会に、大会歌を作ることにしたという。古関さんが作曲した大会歌は、翌年1949年(昭和24年)から採用されました。 

 古関裕而さんは、自叙伝、「古関裕而 鐘を鳴り響け」の中で、「無人のグランドのマウンドに立って周囲を見回しながら、ここにくり広げられる熱戦を想像しているうちに、私の脳裏に、大会の歌のメロデイーが湧(わ)き、自然に形付けられてきた」、また、「幾千幾万の健児がこの歌によって戦い、悲喜交々(こもごも)の青春時代を味わっておられるのであろうか。(中略)私もまた今でも胸がときめく」、とその作曲の思い出を語っています。 

                「栄冠は君に輝く

一、雲はわき 光あふれて 天たかく  純白のたま きょうぞ飛ぶ 若人よ いざ まなじりは  歓呼にこたえ  いさぎよし ほほえむ希望 ああ栄冠は 君に輝く

二、風をうち 大地をけりて  悔ゆるなき  白熱の  力ぞ技ぞ  若人よ  いざ 一球に 一打にかけて 青春の 賛歌をつづれ あゝ 栄冠は 君に輝く

三、空をきる たまのいのちに かようもの 美しく におえる健康 若人よ いざ みどり濃き しゅろの葉かざす 感激を まぶたにえがけ あゝ 栄冠は 君に輝く

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加賀大介さんの妻、道子さん(夫の写真を手に、8月2日に開幕する、全国高校野球選手権大会、第90回記念大会(甲子園)を心待ちにする道子さん、右は古関裕而さんから贈られた色紙、能美市、石川、2008年(平成20年)8月1日(金)、北陸中日新聞夕刊より)

(解説) 加賀大介(かがだいすけ)、本名中村義雄は、1914年(大正3年)10月1日~1973年(昭和48年)6月21日、根上町(のち能美市、石川県)生まれ、小松製作所(現コマツ)に就職し、仕事の旁ら野球を続けましたが、はだしでプレーしたことが原因で骨髄炎になり、16才の時に足を切断しました。以来、松葉づえの生活でした。会社を辞め、加賀大介のペンネームで文芸活動を始めました。

 「栄冠は君に輝く」は、1948年(昭和23年)、当時婚約者だった、金沢地方貯金局職員、高橋道子さん(結婚後は中村道子)の名で応募し、加賀さん本人のものと公表したのは、20年後の1968年(昭和43年)、50回の記念大会の時でした。

 歌のタイトルのフレーズ、「栄冠は君に輝く」は、事故で右足のひざ下を切断した加賀さんが「いつかスポーツの歌に使いたい」と、心に決めていたという。1973年(昭和48年)、がんのため58才で亡くなりました。

 その翌年、同じ根上町(のち能美市、石川県)内で産声を上げたのが、大リーガーの松井秀喜選手でした。加賀さんは野球への思いが強く、自宅前の松井選手が学んだ浜小学校で子供たちが野球をする様子をよく見ていたという。松井選手は、春夏4回の甲子園を経験しています。松井選手が巨人に入団する直前、自宅を道子さんが訪ねました。大会歌のテープを手渡すと、あどけなさが残る18才の少年は、はにかみながら、「僕、この曲好きです」、と言ったという。

 加賀さんは生涯ただ一度も甲子園に行かなかったが、妻の道子さんは加賀さんの没後、1977年(昭和52年)8月8日、第59回大会において、作曲者の古関裕而さんから「いい歌詞ですね」と言われ、「ああえいかんはきみにかがやく」の楽譜付き色紙を贈(おく)られました。

 は、1967年(昭和42年)、はじめて甲子園に49回の高校野球を見に行きました。球場近くでは麦わら帽子を100円で売っていて、帰りに半値で引き取るということで、帰りに手渡した覚えがあります。暑い最中、外野席でかち割り氷を食べながら、勝っても涙、負けても涙の高校野球に感動しました。この年は、全国の参加校数2460校、代表校は30校で、決勝戦は習志野高校(千葉)が広陵高校(広島)を7:1で破り優勝しました。

 地方予選では、その頃は、京都の下別当町(村井良治様方、北白川、左京区)で下宿していましたが、京都大会は西京極球場で行われ、京都の代表は、優勝した平安高校で衣笠祥雄選手(のち広島カープ、愛称鉄人、63才)もその一員でした。滋賀の代表は守山高校で、甲子園をかけ、滋賀県の皇子山球場(おうじやまきゅうじょう)で、両校が対戦したのですが、守山高校が1:0で勝ち、平安高校の選手は思いがけない敗戦のショックで涙を流していたのを覚えています。

(参考文献) 北陸中日新聞夕刊: 大会歌作詞、故加賀大介さんとともに、能美の妻、道子さん10年ぶり、甲子園 夫の思い届け、2008年(平成20年)8月1日(金); 朝日新聞朝刊: be on Saturday、 うたの旅人、あの熱闘がよみがえる「栄冠は君に輝く」、2008年(平成20年)8月2日(土). 

(参考資料) 高等学校野球、選手権大会小史(甲子園、日本高等学校野球連盟): http://www.jhbf.or.jp/sensyuken/history/

○ 栄冠は君に輝くYouTube): http://www.youtube.com/watch?v=A3pd2U_6Fxk

古関裕二記念館(ホームページ、福島市): http://www.kosekiyuji-kinenkan.jp/

阪神甲子園球場(西宮市、兵庫県、google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E9%98%AA%E7%A5%9E%E7%94%B2%E5%AD%90%E5%9C%92%E7%90%83%E5%A0%B4&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi

(追加説明) ○ 甲子園行進曲歌詞(大会行進曲)  富田砕花(さいか)作詞 山田耕筰作曲

1.百錬 競(きお)へる この壮美 羽搏(はばた)け 若鷹 雲裂きて 溢(あふ)るゝ感激 迸(ほとばし)る意気 今日ぞ 晴れの日 起(た)て男児 掲ぐるほこりに 旭日映えて 球史燦(さん)たり 大会旗 

2.烈々 火燃ゆる この闘志 繚乱 華咲け 技冴えて 溢るゝ感激 迸る意気 今日ぞ 晴れの日 往け男児 掲ぐるほこりに 旭日映えて 球史燦たり 大会旗

3.優勝 確たる この飛躍 裂かれ 若獅子(わかじし) 陽を浴びて 溢るゝ感激 迸る意気 今日ぞ 晴れの日 捷(か)て男児 掲ぐるほこりに 旭日映えて 球史燦たり 大会旗

1935年(昭和10年)、前身の全国中等学校優勝野球大会が21回目を迎えた際、朝日新聞社山田耕筰作曲を、兵庫県芦屋市に在住した詩人富田砕花作詞依頼しました。砕花は高校野球が大好きで、若者の活躍を応援する人だったという。

大会では、どういう理由か、軽快なメロディーだけが流され、歌詞が用いられることはなかったようです。が、79年目で「初登板」 、2013年7月13日開幕予定の鳥取大会で独唱されるという。

○ 全国高等学校野球選手権大会 大会行進曲YouTube): http://www.youtube.com/watch?v=9TKQV6Is6dM

夏の甲子園、入場曲は幻の歌詞、鳥取大会で高校生独唱へhttp://www.asahi.com/sports/update/0708/OSK201307080127.html

朝日新聞:79年目で「初登板」 13日開幕予定の鳥取大会で独唱、2013年(平成25年)7月9日(火)朝刊)

 

2010年7月24日 (土)

日本三大銅山、別子銅山(愛媛)の歓喜抗と歓東抗(坑道)、シダ(ヘビノネゴザ)の銅蓄積、リョウブの樹林、マイントピア別子の東平と端出場ゾーン(産業文化遺産)、とは(2010.7.24)

  別子銅山(べっしどうざん、愛媛)は、足尾銅山(あしおどうざん、栃木)、日立銅山(ひたちどうざん、茨城)と共に、日本三大銅山の一つに数えられていました。

 別子銅山は、1691年(元禄4年)に採鉱を開始、豊富な産銅量で住友系諸事業の発展を支えてきましたが、コスト高で採算が合わなくなり、1973年(昭和48年)、約280年の歴史を閉じました。その間、約70万トンの銅を産出し、日本の近代化に貢献しました。

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歓喜抗(かんきこう、抗口の上と下の左右にシダ植物、ヘビノネゴザの群生と散生が見られます、別子山村、2009年5月27日(水)、愛媛、google画像)

(解説) 歓喜抗(かんきこう)、となりの歓東抗(かんとうこう)は、別子銅山発祥の記念すべき最初の坑道で、四国随一の工業都市、新居浜市の発展の基となった所です。1690年(元禄3年)、鉱夫長兵衛(俗称切上り長兵衛)により、嶺南(海抜約1200m)に有望な露頭のあることを知った、備中国(岡山)吉岡銅山(住友家経営)に出向中の重役田向重右衛門らは、苦心して山中を調査し、この付近で見事な鉱脈を探し当て、翌1691年(元禄4年)、幕府の許可を得て、同年9月22日に、採掘を開始しました。この坑の名は、当時の人々の歓びを端的に伝えています。江戸時代を通じて鉱夫はここから入坑し、鉱石も殆どすべてここから運び出しました。また、歓喜抗前には、鋪方役所(採掘事務所)がありました。

別子銅山は、はじめから民間の住友の経営で採鉱された鉱山としても特異な鉱山でした。住友が大阪に設けた銅吹き所では、銅から金銀分を吹き分ける南蛮吹き法などの新技術が導入され、長崎輸出銅のかなりを担当しました。

 南蛮吹き南蛮絞り、なんばんしぼりとも)は、西洋から渡来した銀精錬法で、これは鉛と銅の融点の違いと、灰吹き法を組み合わせたものです。銅鉱石を焼いて得られた粗銅(あらどう)にも銀が含まれています。この粗銅に鉛を混ぜて加熱して融解したあと冷却していくと、融点の高い銅がまず固化します。このとき銀を溶かし込んでいる鉛を絞りとり、フイゴを用い、それを加熱して灰(酸化鉛)にすると、灰の中から銀が得られます(灰吹き法)。

 別子銅山を経営した大坂(大阪)の和泉屋(住友家)は、この南蛮吹き(南蛮絞りとも)によって粗銅から銀を取り出し、巨万の富を築いたと伝えられています。

 山吹(やまぶき)は、①バラ科落葉低木、鮮黄色の五弁花、一重、八重。②山吹色の略。③(山吹色であるからいう)金貨。大判や小判。転じて、一般に金銭をいう。④昔の鉱山で採取した鉱石を溶かして、金・銀・銅などに分離すること。(広辞苑より)

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リョウブの樹林(りょうぶのじゅりん、歓喜抗の近くにリョウブの樹林が見られます、別子山村、2009年5月27日(水)、愛媛、google画像)

 私は、1988年(昭和63年)8月18日、弟(光男)と二人で、また、1998年(平成10年)8月12日、弟(悟)と二人で、別子山村の旧別子銅山入り口より登はん道をたどり、歓喜抗歓東抗を訪れたことがあります。

 そこに近づくにつれ、以前に訪れた足尾銅山と同じように、金属鉱山でよく見られる、かなり大きなリョウブの樹林があったこと、また、かっては、山師が金属鉱山の探査の目印としたシダ植物、ヘビノネゴザが群生あるいは散生しているのが目につきました。 

  歓喜抗(かんきこう)近くで群生していたヘビノネゴザを採取し、ケイ光X線法で調べたところ、非常に大きな銅のピークが現れ、このシダが土中のを根から吸収して、根、茎、葉、特に根に多量に蓄積していることを確認しました。なお、ケイ光X線スペクトルには、非常に大きな銅のピ-クのほか、非常に大きな鉄、カルシウム、カリウムなどのピ-ク、また中程度の塩素、リン、硫黄、ケイ素などのピ-ク、小さなチタン、マンガン、アルミニウムなどの元素のピークが検出されました。

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別子銅山遺跡マイントピア別子、上 東平(とうなる)ゾーン、索道基地跡、下 端出場(はてば)ゾーン、本館、新居浜市、愛媛、google画像)

(解説) 別子銅山遺跡(新居浜市、愛媛)は今、ささやかな観光ブームに沸いているという。大正時代から昭和初期まで採鉱本部があった東平(とうなる)ゾーン、標高750m)は緑があふれ、産業文化遺産として、石造り貯鉱庫通洞跡廃墟などが残っています。 

 また、端出場(はてば)ゾーンは、東平から移転してきた端出場の採鉱本部跡地を利用したテーマパークで、江戸時代の採鉱シーンから近未来シミュレーションまでが体験できる観光坑道、砂金採り体験パークなどがあります。

 私は、1987年(昭和62年)8月6日、弟(悟、光男)と三人で、また、1994年(平成6年)8月6日、家内(尊子)と二人で、マイントピア別子端出場ゾーン、本館、と近くの遺跡、別子銅山記念館などを訪れたことがあります。

(参考文献) 別子山村役場(別子山村、宇摩、愛媛): 別子山村(観光と自然)、旧別子案内図(別子銅山旧跡のあらまし、日浦方面(別子山村)より登はん道順、別子銅山記念館発行より抜粋); 別子山村教育委員会編: 銅の里(あかがねのさと)、旧別子銅山遺跡探訪、明星企画(1987); 別子銅山、緑を再生、「地域と共生」日本の先駆け、2010年(平成22年)4月2日(金)、朝日新聞朝刊より. 

(参考資料) 別子銅山記念館(1975年(昭和50年)に建設、住友グループ広報委員会、新居浜、愛媛):http://www.sumitomo.gr.jp/related/index02.html. この記念館には、以前に、二度ほど訪れ、館員の方から資料もいただき、いろいろご教示いただきました。

マイントピア別子(テーマパーク、公式ホームページ、新居浜、愛媛): http://www.besshi.com/. ここには、端出場(はてば)ゾーン東平(とうなる)ゾーンがありますが、端出場ゾーン、本館には、二度ほど訪れ、楽しいひとときを過ごしました。

旧別子銅山の探索歓喜抗、歓東抗、2009年5月27日(水)、愛ある愛媛、関東から四国へ、移住生活、愛媛): http://ameblo.jp/nnccb139/entry-10268587611.html

(追加説明) ○ 私は四国の銅山では、1988年(昭和63年)8月17日 に広石鉱山跡(德島)、また、翌日の18日に白滝鉱山跡(高知)を弟(光男)と訪れたことがあり、いずれの所でも、シダ植物、ヘビノネゴザの群落が見られました。

広石鉱山(神山町の植生、阿波学会研究紀要、郷土研究発表会紀要第22号、広石鉱山跡のヘビノネゴザ群落の記述があります、德島):http://www.library.tokushima-ec.ed.jp/digital/webkiyou/22/2205.html

四国の金属鉱山(日本石炭公団ホーム、別子銅山、佐々連鉱山、白滝鉱山): http://www10.tok2.com/home2/kurodaiya/No.3/contents3.html

(追加説明) ○ 別子銅山の平野部の惣開(そうびらき)地区で洋式製錬所が1888年(明治21年)に操業を始めると、亜硫酸ガスが農作物を枯らす「煙害」が表面化、農民運動が相次ぎました。別子の山中は燃料用に森林が伐採され、煙害で山肌がむき出しになりました。

 そこで、住友2代目理事(経営トップ)伊庭貞剛(いばていごう、1847~1926年)は、新居浜沖約20kmの無人島の四阪島(しさかじま、今治市、愛媛)へ製錬所を移転すれば、煙が拡散して被害は起きないと考え、反対も起きましたが、移転を決断、1905年(明治38年)に四阪島での製錬所の操業が始まりましたが、煙害は収まりませんでした。

 その後、1932年(昭和7年)には、亜硫酸ガスを硫酸にして回収する世界でも最新鋭の工場が四阪島にできました。アンモニア水と中和して回収する工場も1939年(昭和14年)に完成、煙害問題は最終決着しました。別子銅山では、排煙脱硫技術から生産した硫酸を、化学肥料の原料とし、これが住友化学の事業母体となりました。日立銅山(日立市、茨城)では煙害を防ぐ巨大煙突を考え出した技術力が、世界的な総合電機メーカー日立製作所の礎となりました。

四阪島(しさかじま、今治市、愛媛、google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%9B%9B%E9%98%AA%E5%B3%B6&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi

 

2010年7月22日 (木)

金沢城の石垣と戸室石(戸室山、金沢)、石曳き(運搬の再現、金沢城三の丸)、野面積み(本丸北面石垣)、打込接ぎ(本丸南面石垣)、切込接ぎの石垣(石川門枅形東面石垣)、とは(2010.7.22)

   戸室山(とむろやま)は、標高548m、金沢城から東へ約12kmほどに位置する小さな三角形の山です。奥医王山(おくいおうぜん)、白兀山(しらはげやま)などの山々からなる医王山(いおうぜん)手前の左が戸室山、右がキゴ山で、共に約40万年ほど前に噴火によって生まれた休火山です。戸室山溶岩の青灰色のものを青戸室、噴火の際の酸化作用で赤色となったものを赤戸室といい、これらの石は、金沢城の石垣、兼六園の庭石、辰巳用水の石管などに利用されています。近年では、医王石と同じく、浴用剤、水質浄化、薬石、盆栽の肥料などの利用を耳にしたことがあります。

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戸室石(とむろいし、戸室山で産出する赤色と青色の安山岩、金沢市街から東へ約12kmほどに位置する小さな三角形の山が戸室山です、金沢、石川、google画像)

(解説) 戸室山の埋もれた土砂から掘り出される安山岩は、戸室石(医王石とも)と呼ばれ、約400年前、はじめて金沢城石垣に用いられました。その化学組成は、安山岩とデイサイト(安山岩と流紋岩の中間組成のケイ長質の火山岩)にまたがり、俗に「赤戸室石」、「青戸室石」と区別されていますが、化学組成上の違いはなく、どちらも同じ岩石です。

 赤戸室石の化学組成は、無水ケイ素(SiO2)51.23%、アルミナ(Al2O3)20.62%、酸化カリウム(K2O)12.30%、酸化ナトリウム(Na2O)4.27%、酸化第二鉄(Fe2O3)5.90%、酸化カルシウム(CaO)3.35%、酸化マグネシウム(MgO)0.80%、酸化チタン(TiO2)0.65%と報告されています。青戸室石は、溶岩が空気酸化により鉄サビのような酸化第二鉄になる前の、淡緑色の硫酸第一鉄(FeSO4)などの成分を含むと考えられます。

 戸室石の岩石の色調が異なるのは、単に溶岩が冷える際の条件の違いによるもので、高温で長時間空気にさらされると赤っぽくなり、逆に短ければ青っぽくなったと言われています。これは岩石の中の鉄成分の原子価が、Ⅱ価からⅢ価に変わり、青色から赤色に変色したと考えられます。

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石曳き(いしびき、戸室石の運搬の再現金沢城の三の丸、金沢、石川、google画像)

 金沢城の石川門の真向かいに兼六園があります。その裏手は小立野台地で、近くに石引という地名が残っており、江戸時代には、金沢城石垣に使う戸室石戸室山から切り出され、石引の道を通って約12km離れた金沢城に運ばれたと言われています。近年、金沢城の三の丸広場では、その歴史を再現して、戸室石を丸太にのせて引くという「石曳き」が披露されました。(金沢発ときめき浪漫(金沢城河北門工事、遺跡調査、石曳き含む、金沢):http://tokimekiro.exblog.jp/6623616/。)

 金沢城石垣は、加賀初代藩主、前田利家の入城から明治維新まで約300年、戸室山から採取した戸室石を使って、いろいろなタイプの石垣が作られ、石垣の博物館とも言われるほど多様な姿を見せています。その石垣の積み方は、加工の程度により、「野面積み(のづらずみ)」、「打込接ぎ(うちこみはぎ)」、「切込接ぎ(きりこみはぎ)」の3つのタイプがあることが、よく知られています。

○ 野面積み(のづらずみ)は、石切場から採取した自然石のままの石材を積み上げた、自然石積みです。これは、金沢城石垣の最初の頃のもので、現存するのは文禄年間(1592~1596年)に建造されたと推定されるので、「文禄石垣(ぶんろくいしがき)」とも呼ばれています。

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野面積み(のづらずみ、文禄石垣、金沢城の本丸丑寅櫓下東の丸、北面石垣、google画像)

(解説) 文禄石垣の現存する城内石垣は、本丸東面の百間堀に面した長さ106mの高石垣(高さ約20m)や、本丸丑寅櫓(うしとらやぐら)下の北面石垣などです。築石(つきいし、石垣の角以外の部分、平石)は隙間(すきま)だらけで、石と石の間に間詰石(まづめいし)が入っていますが、排水がよく、構造的にも意外と安定していて、400年経った現在もその雄姿を保っています。加賀初代藩主、前田利家の時代の石垣であり、篠原出羽守らが活躍し建造したと言われています。

○ 打込接ぎは、割石積み(わりいしづみ)や粗加工石積み(そかこういしづみ)のことで、慶長年間(1596~1615年)から元和年間(1615~1624年)に建造されたと推定され、「慶長石垣(けいちょういしがき)」、「元和石垣(げんないしがき)」と呼ばれています。加賀2代藩主、前田利長が1598年(慶長3年)に藩主となり、1605年(慶長10年)、富山城に隠居し、1614年(慶長19年)、高岡城で亡くなるまでの約20年間に作られた割石積みの石垣が「慶長石垣」です。また、加賀3代藩主、前田利常は、1605年(慶長10年)より金沢城主となっていたので、「慶長石垣」の古いものは利長時代、新しいものは利常時代初期と考えられ、その後は、粗加工石積みの「元和石垣」となっています。

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打込接ぎ(うちこみはぎ、慶長石垣、金沢城の本丸南面石垣、google画像)

(解説) 慶長石垣の現存する城内石垣は、北向きの大手門である尾坂門(おさかもん)、三ノ丸の正門である河北門、そして、本丸南面石垣などです。築石(つきいし、石垣の角以外の部分、平石)部分が、割石(わりいし)中心となっていて、自然石を矢で割っただけの石で、自然石の持つ野性味も残した石材です。

 尾坂門の「慶長石垣」は、畳3~5畳もある巨大な鏡石を用いたもので、金沢城の正面玄関ににふさわしい威容を備えています。河北坂の両側に見える割石中心の石垣は、自然の野趣に富む姿を保っています。その後、元和の終わり頃まで、粗加工石積み(あらかこういしづみ)の石垣が現れています。

 切込接ぎ(きりこみはぎ)は、 切石積み(きりいしづみ)のことで、1631年(寛永8年)の金沢城の大火後に新たに登場しています。これは方形に整形した石材を密着させ、積み上げる方法です。大火後の再建にあたり、二ノ丸が拡張され、三ノ丸との間に現在見られるような堀が築かれ、本丸や二ノ丸、三ノ丸の縄張りは大きく変化しました。寛永初期は利常時代末期と考えられ、その後は、寛永年間(1624~1644年)、加賀4代藩主、前田光高の頃に建造されたと推定され、「寛永石垣(かんえいいしがき)」と呼ばれています。

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切込接ぎ(きりこみはぎ、寛永石垣、金沢城の石川門枅形内、正面東面石垣赤戸室石と青戸室石が入り混じっています)、google画像)

(解説) 寛永大火後の城内石垣の築造は、1639年(寛永16年)頃まで相次いで行われましたが、これらを「寛永石垣」と呼ばれ、本丸北面、本丸付段北面、東面石垣、石川門枅形内東面石垣など城内各所に数多くの遺構が残っています。 その後、1661年(寛文元年)以来、金沢城の石垣は、数多くの修築を繰り返し、主に切込接ぎ(きりこみはぎ)による切石積石垣の形で様々なデザインの石垣に姿をかえ、現在に至っています。

 
(参考文献) 石川県の歴史散歩研究会: 石川県の歴史散歩、山川出版(1993); 石川化学教育研究会編: 科学風土記、加賀・能登のサイエンス、p.117~118、日吉南賀子、医王山と戸室山、裳華房(1997);  石川県教育委員会事務局文化財課、金沢城研究調査室編; よみがえる金沢城、450年の歴史を歩む、1、北国新聞社(2006)、同、今に残る魅力をさぐる、2、(2009); 金沢ふるさと愛山会(会長、林正一)編: 石川/ふるさと 100山、椋鳥書房(2009).

(参考資料) 戸室石(医王石とも)の技術資料(産出、組成、吸着作用など、石川県工業試験場、工試証1350号ー1、石川): http://w-21.net/dron/water/iou/seki2.htm

金沢城公園の石垣(石川県): http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/kanazawa_castle/ishigaki.html

戸室石切丁場: http://www.kanazawa-hakusan.com/kanazawa/asset.cgi?mode=pickup&cord=a21; 

(追加説明) ○ 白山の開祖、泰澄大師が、医王山で修行していた時、弟子の臥行者(ふぜりぎょうじゃ)が、沖合を航行する舟に托鉢を請うたが拒まれ、腹を立てて舟の櫓(ろ)を飛ばしたと言う。落ちた場所が「飛櫓(とぶろ)」で、この伝説が「戸室(とむろ)」の名の由来とされています。臥行者(伝説、飛鉢(ひはつ)の呪法、能登出身の仙人):http://www.geocities.co.jp/une_genzaburo/Fusenogyouja.htm

○ 加賀藩初代藩主、前田利家の頃から、加賀藩お抱えの穴生(あのう、石垣専門職人)として、穴太家、後藤家、戸波、正木などがありました。

 また、加賀藩が出役した天下普請(てんかぶしん)として、加賀藩の穴生達は、江戸城、駿府城、名古屋城、高田城、大阪城などの石垣築造に動員された時、大いに活躍したと言われています。

○ 江戸時代、石垣を作る専門職人を穴太(あのう、穴生とも)と呼んだが、その発祥地は近江坂本(大津市、滋賀)の穴太の里です。ここに中世以来、比叡山で土木事業に従事していた石工集団が住んでおり、豊臣政権から石垣職人として認められ、大坂築城などで手腕を発揮しました。江戸幕府ができると、公儀穴太頭となり、各地の城の石垣作りに活躍したので、城郭石垣の職人呼称としてその名が広まりました。

 

2010年7月20日 (火)

碁の名手(本因坊算砂)と本行寺(金沢、加賀)にまつわる歴史伝承、加賀藩3代藩主、前田利常の碁の指南役、とは(2010.7.20)

   本因坊算砂(ほんいんぼうさんさ、僧名は日海、法華宗、寂光寺、京都)は、1559年(永禄2年)京都生まれ、囲碁と将棋の現体系を確立した高僧であり、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、京都から駿府(静岡)、江戸(東京)、加賀(金沢)へと活躍の舞台を移しています。しかし、算砂には、確実な史料が少ないため、多くの伝説があります。

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初代本因坊 算砂像(さんさぞう、寂光寺蔵、京都、google画像)

 1607年(慶長12年)、江戸桜田の伊達正宗邸で、家康の臨席のもと算砂らの碁会が催された時、これを奉行したのが老中の本多正信だったことが注目されています。

 というのは、1614年(慶長19年)10月、大阪冬の陣、1615年(元和元年)4月、大阪夏の陣による豊臣家滅亡の後、算砂は加賀藩、前田家の求めに応じて加賀金沢に出向き、1615年(元和元年)から2年間過ごしていますが、それを受け入れたのが正信の次男政重(忠純の弟)だったからです。

 政重は前田家の筆頭家老として幕府派遣の目付(めつけ)的な存在であり、算砂は本多父子の縁で金沢に下ったのだろう、と考えられています。ということで、算砂を前田家に対する隠し目付とする説は、取るに足らない俗説としても、前田家は一時期、幕府から謀反の嫌疑を受けています。家康や秀忠とよしみのある算砂を通じて嫌疑を完全に晴らし、前田家の安泰をはかった、とも考えられています。

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本行寺(ほんぎょうじ、日蓮宗、本多町、金沢、加賀、石川)

(解説) 表向きは、算砂は加賀藩3代藩主、前田利常(まえだとしつね)の碁の指南役を務め、1617年(元和3年)、59才、藩の寄進で本行寺(ほんぎょうじ、日蓮宗、本多、金沢、加賀)を建立した後、直ちに住職の座を法弟の本照坊に譲り、京都へ帰っていきました。

 このことは、その前年の1616年(元和2年)、家康、正信が相次いで亡くなり、その間、大久保、本多、酒井へと徳川幕閣の主流が移っていく権力抗争の影響を受けたのではないか、とも考えられています。 算砂は、激動する歴史の中で、1623年(元和9年)5月16日、65才の生涯を閉じました。    

 寂光寺(法華宗、仁王門通、左京区、京都)には、算砂の墓のほか、算砂愛用という板盤や瀬戸物の碁石、算砂の肖像画、算砂の「囲碁狂歌」などの寺宝が残っています。

(参考文献) 林裕: 本因坊算砂・中村道碩、p.234~235、算砂は隠し目付だった?! 日本囲碁体系Ⅰ 総編集、筑摩書房(1930); 堀田五番士: プロ棋士第一号、本因坊算砂物語、棋道12号(1986); 石川化学教育研究会編: 科学風土記、加賀・能登のサイエンス、p.234、本浄高治、本行寺ー本因坊と囲碁、裳華房(1997); 福井正明: 囲碁古名人全集、すべては算砂、道碩から始まった、誠文堂新光社(2007); 朝日新聞朝刊: こころ(神仏に出会う、もっと、おとなの遠足)、寂光寺、本因坊ゆかりの品々残す、2010年(平成22年)7月13日(火).

○ 1999年(平成11年)5月1日(土)、本行寺を訪れ、杉田典明(29代)住職より、いろいろご教示をいただきました。お父さん(前住職、28代)は、1943年(昭和18年)福井から来られたこと、またこのお寺は、久遠山本行寺と言い、京都の妙満寺、身延山久遠寺、池上本門寺ともつながりがあるとのことです。幕府の隠密(おんみつ)とも? 算砂は隠し目付だった?! についての資料は、囲碁史研究家の堀越輝登氏(川崎市、神奈川)よりご教示いただきました。

 本因坊算砂は、加賀3代藩主、前田利常に碁を指南し、寺地(三千歩)を賜り、本多安房守、横山山城守の庇護を受けました。本行寺は、3度の火災により焼失し、現在の建物は、1903年(明治36年)に再建されたものです。

 

2010年7月16日 (金)

犀川(石川)の源流、犀川ダム、末浄水場、金沢の水(水道源水)、とは(2010.7.16)

   犀川(さいがわ)の源流は、石川、富山の3市(金沢、白山、南砺)の境、白山国立公園の北端、白山連峰の標高1644mの奈良岳(ならだけ)にあり、全長34km、金沢市街を経由して、日本海に向かって流れています。

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犀川ダム(上 ダム湖、下 堰堤(せきてい)、二又新町、金沢、石川、google画像)

 犀川本流上流には、洪水調節、潅漑用水、上水道、工業用水、水力発電を目的として、1960年(昭和35年)3月に着工し、1966年(昭和41年)4月に竣工した、犀川ダムがあります。1980年(昭和55年)頃、ダム湖の水質調査で、狭い山道をマイカーで走り、数回訪れたことがあります。

犀川ダムの風景: http://dam.at.webry.info/200511/article_2.html; 

犀川ダムと湖の風景: http://moon.otto.to/~suwa_h/Damuko/Saigawa/Saigawa.html

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末浄水場(すえじょうすいじょう、緩速沈澱池(かんそくちんでんいけ)と集合井(しゅうごうせい、貯水)、金沢市企業局、末町、金沢市、google画像)

 末浄水場(すえじょうすいじょう)は、犀川中流部に位置し、金沢市の中心部からは南東に約8キロメートル離れた、犀川上流部から引いた江戸時代からの寺津(てらづ)用水を水源とする、犀川の表流水を水源として1930年(昭和5年)に給水を開始した緩速ろ過(1日半)方式と、その後、犀川ダムの完成によって、犀川ダムから取水し、1965年(昭和40年)から急速ろ過(8時間)方式で浄水処理し、給水しています。 現在は、この2方式を合わせて、105000リットル/日 の給水能力を有する浄水場に発展しています。ここも、犀川の水の浄水処理と水質調査のことで、数回見学させていただいたことがあります。

 末浄水場緩速ろ過池集合井(しゅうごうせい、貯水、鉄筋コンクリート造平屋建)は、当時の姿で現存しているため、1985年(昭和60年)、日本近代水道百選にも選ばれ、また2001年(平成13年)には、国の登録有形文化財に登録されました。

末浄水場(金沢市企業局ホームページ): http://www2.city.kanazawa.ishikawa.jp/web/about/about_water_02.html

末浄水場緩速沈殿池(末町、金沢市、石川):http://www4.city.kanazawa.lg.jp/11104/bunkazaimain/shiteibunkazai/tourokubunka/suejousui.html

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金沢の水水道源水、金沢市企業局、金沢市、google画像)

(解説) 末浄水場で、犀川の水を薬品を使わず、1日半かけてろ過する緩速ろ過方式で浄化した後、塩素を入れる代わりに、食品衛生法により90℃で35分間加熱殺菌し、ペットボトルに詰められた水道源水は、金沢の水と名付けられました。

 水質は、pH7.6、硬度 約23mg/l(軟水)、ナトリウム 3.6ppm、カリウム0.3ppm、カルシウム6.3ppm、マグネシウム1.5ppm、とのことです。ppmは百万分率で100万の中の1の割合にあたる非常に少ない量です。(用語解説、各種イオン含む): http://unit.aist.go.jp/georesenv/gwrg/glossary.html.)

○ 金沢の水(金沢市企業局ホームページ): http://www2.city.kanazawa.ishikawa.jp/web/kanazawawater/index.html

 金沢市は、2009年(平成21年)4月より、ペットボトル入りの金沢の水を350mlで100円、500mlで120円(ともに税込み)とし、ホテルや観光施設のほか、金沢駅のコンビニやキヨスク、デパート、スーパー、金沢市役所の自動販売機など70ヶ所で販売しています。1本あたり2円の売り上げが赤い羽根共同募金に寄付されます。この水は好評で、年間目標の12万本を大きく上回る見込みだそうです。

(追加説明) ○ 1985年(昭和60年)に、厚生省(のち厚生労働省)の「おいしい水研究会」が、NHKの支局のある人口10万人以上の全国の都市から水道水を集め、どこの水がおいしいかを調べました。その結果、水道水のおいしい都市として、金沢をはじめ32の都市が選ばれました。特においしかったのが、熊本、高知、岡山、金沢、島根、福井、静岡、宇都宮、前橋、青森などの都市でした。これらの水道水は、いずれも恵まれた自然に水源地をもつ水道水ばかりです。

 金沢の水道水はおいしいということで、1994年(平成6年)、金沢市企業局が、犀川ダムで取水された水を末浄水場で、薬を入れず1日半かけ緩速ろ過処理を行い、塩素を入れる代わりに、90℃で35分間加熱殺菌し、アルミ製の缶詰(かんずめ)にした、金沢の水を3万個作り、菓子博などのイベントで無料配付し、「水と緑に恵まれた金沢」をアピールしたことがあります。

(参考資料)

 おいしい水とは(おいしい水の32都市、要件と水質含む): http://www.kanhokou.or.jp/yomimono/deliciouswater/deliciouswater.htm

○ 兼六園の中の名水、金城霊沢と金沢神社の手水舎の水、金沢市内の湧水の水質(ヘキサダイヤグラム)、とは(2009.6.7): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-b450.html

2010年7月14日 (水)

金沢の水飴(俵屋)にまつわる歴史伝承、水飴のじろあめ、粟あめ、おこしあめ、とは(2010.7.14)

  水飴(みずあめ)は、奈良時代、米を主な原料として、米や麦のもやし(米芽、麦芽)を加えて発酵(はっこう)させ作っていました。これは、固(かた)まる前の粘液状(ねんえきじょう)の飴のことで、淡黄色透明で、あまり粘りけの強くないのが良品であり、一方、品質の低いものは黒褐色を示すものでした。

あめの俵屋店舗外観

あめの俵屋(たわらや、1830年(天保元年)創業、小橋町、金沢、google画像)

(解説) 金沢の飴(あめ)の老舗(しにせ)、俵屋(たわらや、小橋町、金沢)は、江戸時代、加賀藩第13代前田斉泰(まえだなりやす、1811~1884)の頃、180年ほど前の1830年(天保元年)創業で、米屋であった俵屋太郎平衛(初代)が、昔、母乳がでないために餓死(がし)させた子を抱き、半狂乱になっている母親の姿を見て、母乳のかわりになる物がないかと考えた末、水あめ状の柔らかい水飴の「じろあめ」を作った、と伝えられています。現在でも、石川産の良質のお米と大麦を使い、創業時と同じ製法で作られています。(石川の米、コシヒカリほか、石川県ホームページ): http://www.pref.ishikawa.lg.jp/nousan/kome_jyoho/kome_pr/komepr_rice.html.)

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じろあめうるち米水飴、俵屋、小橋町、金沢、google画像)

(解説) 水飴製法は、まず最初に、約一週間かけて発芽させた大麦(麦芽)を天日で乾燥し、大麦の芽と根を取り除いた実の部分をすりつぶして、大麦の実に含まれる糖化酵素(アミラーゼ)を作用しやすくします。次に、蒸し米にその1/5の重さのすりつぶした大麦の実を混ぜ、65℃の温度で6時間かき混ぜると、米のデンプンは糖化酵素(アミラーゼ)の働きによって、麦芽糖(ばくがとう)に変わり、甘くなります。この生成物から固形物をこし分けた糖液(とうえき)を煮つめると、トロッとして粘りのある液状の水飴ができ上がります。これを10日ほどねかして出荷します。

 水飴成分は、デンプンが麦芽酵素(アミラーゼ)により分解された、甘味のある麦芽糖ブドウ糖、甘味がない粘りのあるデキストリンなどです。

 俵屋の代表的な飴は、うるち米を使った粘度(ねんど)が高い茶色の水飴の「じろあめ」、もち米を使った粘度が低く扱いやすい明るい黄色の「粟あめ(あわあめ)」、固形状の堅(かた)い「おこしあめ」です。

 じろあめは、昔から赤ちゃんの哺育用(ほいくよう)、妊産婦、病人等の体力回復、また最近は健康増進の純粋な自然食として愛用されています。粟あめの使用法は、じろあめと同じです。また、おこしあめは、特に小魚、川魚の甘露煮や、てり焼きの「たれ」、野菜(大根、レンコン、なす、タケノコ、いもなど)の煮付けなど、料理の味付けに利用されています。

 また、夏期には、じろあめをお好みの甘さにお湯でとかし、飲む前に生姜(しょうが)しぼり汁を一、二滴落として冷蔵庫に入れると、冷やしあめとして、美味しく、いただけます。

 1964年(昭和39年)の夏に、京都の銀閣寺電停近くの歩道沿いのお店で、生姜の入った冷やしあめをはじめて飲んだ時、何とも言えないほど美味しかったことを覚えています。その頃は、そこの近く、下別当町(村井良治様方、北白川、左京区、京都)で下宿していました。(京都、銀閣寺キャンデー冷やしあめ(ひやしあめ):http://monthly.kyo2.jp/e1346.html.)

 一般に、は、米、トウモロコシ、アワなどの穀類を蒸した中に、糖化酵素(とうかこうそ、アミラーゼ)を含む麦芽(ばくが)を加え、またジャガイモやサツマイモには、(塩酸や硫酸など)を加え、デンプンを含む原料を分解糖化した甘味(かんみ)食品です。

 は砂糖と異なる風味があり、飴菓子としてのほか、ゴリ(鮴)、クルミ(胡桃)などの甘露煮、飴煮、佃煮など 料理の甘味料として、古くから広く使われています。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典。平凡社(1973); 石川化学教育研究会編: 科学風土記、加賀・能登のサイエンス、p.60~62.中村八平、俵屋の飴、裳華房(1997).

(参考資料)俵屋のあめ(ホームページ、小橋町、金沢): http://www.ame-tawaraya.co.jp/

2010年7月12日 (月)

加賀地方(石川)の銘酒(地酒、甘、辛)と名水(白山と医王山系の伏流水)、酒米の王様(山田錦)、とは(2010.7.12)

   加賀地方(石川)では、名水の水源として、白山(はくさん)のふもとを流れる手取川(てどりがわ)の白山水系の伏流水(ふくりゅうすい)、また、白山山地の最北端の山、医王山(いおうぜん)のふもとの小立野台地(こだつのだいち)の下を流れる医王山系の伏流水を、深い井戸から汲(く)み上げています。

 それと、酒造好適米(しゅぞうこうてきまい)として、山田錦(やまだにしき、主に兵庫産のほか、福岡、岡山、德島産)、五百万石(ごひゃくまんごく、主に新潟産のほか、福井、富山、石川産)、美山錦(みやまにしき、主に長野と秋田産のほか、山形、福島産)など用いて、清酒の醸造が行われています。

 山田錦(やまだにしき)の酒造好適米としての証(あか)しは、心白(しんぱく、米の中心部にデンプンが粗(あら)く集まって白っぽく見え、食用米に比べて細胞組織に隙間(すきま)があり、麹(こうじ)かびが繁殖しやすいことです。

  日本酒の醸造法は、世界に稀(まれ)に見る独特のものであり、酒造好適米のデンプン(澱粉)の糖化(とうか)とエチルアルコール発酵(はっこう)を、麹かび(こうじかび)と清酒酵母(せいしゅこうぼ)により同時複合発酵により行い、約20%にも達する高濃度のアルコール飲料を生産しています。

 酒造好適米は、麹かびの糖化酵素(アミラーゼ)と酵母のアルコール発酵酵素が効果的に働くように発酵環境を整えています。すなわち、玄米の外側に多いタンパク質や脂肪が取り除かれ、また、米の中心部分の心白(しんぱく)は、デンプンが粗(あら)く集まって白っぽく見え、内部組織に隙間(すきま)があり、柔(やわ)らかくて内側に水分を保持でき、菌糸(きんし)が食い込んで行きやすく、デンプンの糖化発酵の時、麹かびの生育によい環境となっています。タンパク質は酒の旨(うま)味になりますが、多すぎると雑味の元になると言う。

 また、白山医王山の山地に降った雨や雪が地下深く浸(し)み込み、長い年月かけて砂礫層の中を伏流水として流れ下った水には、適度のミネラル(カルシウム、マグネシウムなど)が溶け込んでおり、発酵による清酒の醸造用水として適しています。

石川県の人気の高い地酒天狗舞、菊姫、手取川、白山市、石川)

 (解説) 石川の日本酒の銘柄では、白山の雪解け水の伏流水を使った、天狗舞(白山市)、菊姫(白山市)、手取川(白山市)、常きげん(加賀市)、また医王山の雪解け水の伏流水を使った、加賀鳶(金沢市)などが全国的にも人気が高いようです。これらの地酒は、酒造好適米として、主に山田錦、五百万石などを使っています。なお、一般に、新潟と富山の酒は辛口ですが、石川と福井の酒は、中程度の甘辛口とされています。

 日本酒醸造には、使用する水の水質と関わりが深く、日本酒甘辛(あまから)は、使用する水の硬度(カルシウム、マグネシウムの総量)と密接に関係しています。硬度が高いと、酵母の栄養源となり、発酵が促進され、お米の糖分をよく分解するので、辛口(男酒)になりやすく、硬度の低い軟水だと、酵母が栄養失調気味になり、発酵が緩慢(かんまん)になり、お米の糖分が残留して、甘口(女酒)になりやすいと言われています。(用語解説、各種イオン、硬度含む): http://unit.aist.go.jp/georesenv/gwrg/glossary.html.)

 軟水の場合には、どうしても発酵が穏(おだ)やかになり、他の雑菌が先に繁殖して腐ることが多かったので、昔は硬水の出る地域しか、安定してお酒がつくれませんでした。灘(兵庫)、伏見(京都)、西条(広島)は、硬水や中硬度水が出るので、昔から醸造地域として知られていました。中でも、西宮の宮水は硬度が高かったので男酒、伏見、西条は硬度がやや低かったので女酒、と言われました。

三浦仙三郎(軟水醸造法を開発、安芸津、広島、google画像)

 明治の終わり頃、広島の安芸津に三浦仙三郎(みうらせんざぶろう)、1847年(弘化4年)~1908年(明治41年)、という杜氏(とうじ)が現れ、苦労の末、軟水でも安定してお酒をつくる技術を開発して、秘伝とせず広めたので、日本全国の軟水地帯でも、鉄分が低ければ(0.02mg/l、ppm以下、ppmは百万分率)、安心してお酒がつくれるようになりました。鉄分は、麹(こうじ)の成分と反応して、フェリクリシンという赤ないし黄色の色素を生成するので、酒造には適さない成分です。

 吟醸酒(ぎんじょうしゅ)は、精米歩合60%以下(精白度40%以上)に精米し、低温でゆっくりと長期間をかけ醸造するため、軟水の方がさらりとして香りがよい酒ができると言われています。

(参考文献) 石川化学教育研究会編: 科学風土記、加賀・能登のサイエンス、p.56~57.板垣英治、加賀の銘酒と銘水、裳華房(1997); 木村克己: 日本酒の教科書、新星出版社(2010).

(参考資料) 石川県酒造組合連合会(ホームページ): http://www.ishikawa-sake.jp/

石川の日本酒(日本酒物語): http://www.sakeno.com/all_meigara_todou/19

日本酒甘辛地図(純米酒のある暮らし): http://www.junmai.info/what/amakara.html

日本一の酒米(山田錦、三木市、兵庫): http://www.city.miki.lg.jp/bunka/yamadanishiki.html; 酒造好適米(山田錦含む、各種):http://www5a.biglobe.ne.jp/~bugyosho/sake/kome.htm; 山田錦物語http://www.kikumasamune.co.jp/monogatari/;  

酒造好適米(心白米の発酵): http://www.kikumasamune.co.jp/koutekimai/index.html

三浦仙三郎(酒造家、安芸津、広島): http://www.tsukasyuzou.jp/hpgen/HPB/entries/1.html

(追加説明) ○ (さけ)はエチルアルコールを含む飲料の総称です。酒税法では、エチルアルコール1度(1%)以上を含む飲料を酒類といい、清酒、合成清酒、焼酎(しょうちゅう)味醂(みりん)、ビール、果実酒類、ウイスキー類、スピリッツ類、リキュール類、雑種の10酒類に分類されます。

 酒に含まれるアルコールは、糖類が酵母によって発酵するときに生成されます。果実酒のように初めから糖分を含んでいる果汁はそのまま発酵させるが、穀物を原料とする清酒、ビールなどの場合には、まず穀物の主成分たるデンプンを糖化する必要があり、そのため麹(こうじ)かびや麦芽(ばくが)の糖化酵素が利用されます。

 発酵したものをそのまま飲料する酒を醸造酒と言い、アルコールの度数も低く、原料特有の風味を持つのが特徴で、清酒、ブドウ酒、ビールなどが代表的です。発酵によって得た酒を蒸留、濃縮してアルコールの濃度を20度以上にしたものが蒸留酒で、焼酎、泡盛(あわもり)、ウイスキー、ブランデー、ウオッカなどがこれに属します。醸造酒や蒸留酒あるいはエチルアルコールを原料とし、それを混ぜたり香料などを添加したものを混成酒といい、味醂(みりん)、屠蘇(とそ)、五加皮酒、リキュール、合成清酒などがこれに属します。(下中邦彦編: 小百科事典。平凡社(1973)、より)

○ 甘酒(あまざけ)は、米こうじと米飯を混ぜ60℃ぐらいの温度を保てば10時間から1昼夜程度でできます。アルコール分はほとんど含まないのですが、さらに長時間放置しておくと発酵がさらに進み、エチルアルコール、酢酸(さくさん)などができて、すっぱく、辛くなっていきます。

 私の郷里(松島、のち上板、德島)の村の祭り(10月)で、自宅でつくった甘酒が次第にすっぱく、辛くなり、これを小学校(6年生)の理科の時間に、担任の先生(三宅先生)がリービッヒの冷却器を使った蒸留装置を用いて、甘酒の中からエチルアルコール(沸点78.3℃)を蒸留(じょうりゅう)し、その臭(にお)いをかいだ思い出があります。

2010年7月 9日 (金)

医王山(石川)のふもとに湧き出る湯涌温泉と霊験あらたかな医王山の水、医王石(石英閃緑ひ岩)、とは(2010.7.9)

   医王山(いおうぜん)は、石川と富山の県境に位置し、白山山地の最北端の山で、金沢市の郊外の東方にあり、奈良時代、養老年間(717~724年)、白山の開祖、越の大師、泰澄大師(たいちょうだいし)、682年~767年(神護景雲元年)によって開かれ、かっては台密(たいみつ、天台密教)の霊場として隆盛を極めていた、と伝えられています。医王山は、最高峰を奥医王(標高939m)とする山群で、流紋岩質(りゅうもんがんしつ)緑色の凝灰岩(ぎょうかいがん)類からなり、植物は600種をこえ、そのうち薬草は約120種、薬石(医王石)などの宝庫として有名です。

医王山(いおうぜん、白兀山、しらはげやま、奥医王、おくいおう(標高939m)、キゴ山など含む、手前は卯辰山、うたつやま、その右は金沢城の石垣の採石場となった戸室山、とむろやま(標高548m)、さらに手前は金沢中心街、新石川県庁(鞍月、くらつき、金沢)、19階展望ロビー(地上約80m)より、google画像)

(解説) 医王山(いおうぜん)は、流紋岩質の緑色凝灰岩が主に分布し、一部に流紋岩の溶岩をはさんでおり、中新世前期(約1800~2000万年前)の火山活動によってつくられた火山岩や火山砕せつ岩(かざんさいせつがん)、すなわち、医王山火砕岩層からできています。溶岩の青灰色を青戸室、噴火の際の酸化作用で赤色になったものを赤戸室と言い、金沢城の石垣にも利用されています。これは岩石の中の鉄成分の原子価が、Ⅱ価からⅢ価へ変化したことによると思います。

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湯涌温泉街(ゆわくおんせんがい、湯涌、金沢、google画像) 湯涌温泉(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E6%B6%8C%E6%B8%A9%E6%B3%89

(解説) 医王山のふもとの標高400mの高原に、718年(養老2年)、里人が羽根を痛めた白鷺(しらさぎ)が湧き出る湯で傷をいやしているのを見て発見したと伝えられ、藩政時代には、加賀藩主のかくし湯治湯(とうじゆ)でもあった湯涌温泉(ゆわくおんせん)があり、大正の初め、ドイツで開かれた万国鉱泉博覧会で、世界三大名泉の折り紙がつけられています。

 また、医王山の中腹には、八幡神社(日吉神社)があり、その裏山に古くから万病に効く有名な霊験あらたかな、医王山の水が湧き出しており、かっては神社境内までポンプで水が引かれ、一般市民に飲料水として提供されていました。

 水質(1994年)は、pH7.5、カルシウムイオン8.4ppm、マグネシウムイオン4.3ppm、ナトリウムイオン7.5ppm、カリウムイオン3.9ppm、重炭酸イオン38.9ppm、塩化物イオン9.5ppm、硫酸イオン2.6ppm、硝酸イオン4.7ppmなどの成分を含む名水でした。ppmは百万分率で100万の中の1の割合にあたる非常に少ない量です。

 水質(1994年、ヘキサダイヤグラム解析図)は、浅い地下水に分類されるカルシウムイオンー重炭酸イオン型とよく似ていました。(用語解説、各種イオン、ヘキサダイアグラム解析含む): http://unit.aist.go.jp/georesenv/gwrg/glossary.html.)

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医王石(いおうせき、緑色、医王山、金沢市、石川、google画像)

(解説) 医王山の水が湧き出している所には、一般に医王石と言われる石英閃緑ひ岩(せきえいせんりょくひがん)の岩盤地帯があり、岩はミルク色がかった緑色で、水を吸収しやすい特性を持つので、この山の水は岩盤の間を通る間に、カルシウム、ナトリウムなど岩の成分を溶解しながら不純物が濾過(ろか)され、地表へは蒸留水に似た無菌状態で流れ出ると言われています。このため水は長期保存しても腐敗せず、味もまろやかでした。

○ 1983年(昭和58年)~1986年(昭和61年)、湯涌温泉の温泉水、医王山の霊水と岩石の成分を調べ、それらのつながりを調べました。

 湯涌温泉泉温は、33~34℃、pH7.85~7.96,蒸発残物量(じょうはつざんりゅうぶつりょう、mg/l、ppm)は、2891~2912でした。一方、医王山の湧水は、水温6~13℃、pH6.65~7.62、蒸発残物量(mg/l、ppm)は、35~86でした。

 泉温は、温泉水は30℃を越えていますが、湧水は10℃前後と低い山の水でした。水のpHは、温泉水と湧水では大きな差はなく、中性から弱アルカリ性ですが、蒸発残留物量は湧水の場合、温泉水に比べ著しく少なかったです。これらを光学顕微鏡で観察したところ、温泉水の蒸発残留物では、塩化物と硫酸塩の針状結晶が、湧水の蒸発残留物では無機塩以外に藻類らしきものが少し見られました。

 湯涌温泉(湯及出旅館)の泉質は、含石膏(がんせっこう)弱食塩泉であり、医王石は、日本の代表的な標準岩石(JG-!, Granodiorite、花開閃緑岩)類似、湧き水は溶解成分の少ない淡水でした。特に、温泉水には、ストロンチウム、ルビジウム、臭素(しゅうそ)などの元素が検出されましたが、湧き水には全く検出されませんでした。医王石では、ストロンチウム、ルビジウムは検出されましたが、臭素は検出されませんでした。

 ということで、湯涌温泉と医王山の湧水中の大部分の成分が、医王石の壁岩からの溶出に由来し、その際、泉温が大きな因子になっていることは、温泉と湧水の蒸発残留物量からも明らかだと思います。

 現在、医王山は、石川と富山の両県において、県立自然公園に指定されており、特に、石川県では、医王山県立自然公園(1996年)として、医王山スポーツセンター、医王山ビジターセンター、キャンプ場、スキー場など整備され、一般市民にはよい憩いの場所となっています。

(参考文献) 人文社観光と旅編集部: 郷土資料事典(石川県、観光と旅、県別シリーズ22)、人文社(1967); 北国新聞朝刊: 霊水ブーム、医王山のわき水、1983年、5月21日(土); 石川県温泉開発研究会編: 温泉の開発、No、14、22(1972); 絈野義夫: 北陸の地質をめぐって(日曜の地学6)、築地書館(1979); 本浄高治: 医王山の麓に湧き出る湯涌温泉と湧水の溶存成分について、温泉工学会誌、21巻、p.50~55(1987); 石川化学教育研究会編: 科学風土記、加賀・能登のサイエンス、p.117~118、日吉南賀子、医王山と戸室山、裳華房(1997).

(参考文献) 医王山(いおうぜん、金沢市、石川): http://www.sakane.net/kanazawa/iouzen/iouzen.htm

ゆわく(金沢の奥座敷、湯涌温泉観光協会、湯涌町、金沢): http://www.yuwaku.gr.jp/

 医王石(いおうせき、原石、金沢、google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%8C%BB%E7%8E%8B%E7%9F%B3%E3%80%80%E5%8E%9F%E7%9F%B3&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi

○ 金沢城の石垣と戸室石(戸室山、金沢)、石曳き(運搬の再現、金沢城三の丸)、野面積み(本丸北面石垣)、打込接ぎ(本丸南面石垣)、切込接ぎの石垣(石川門枅形東面石垣)、とは(2010.7.22): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/102.html

 金沢の水(金沢市企業局、石川): http://www2.city.kanazawa.ishikawa.jp/web/kanazawawater/index.html

○ 兼六園の中の名水、金城霊沢と金沢神社の手水舎の水、金沢市内の湧水の水質(ヘキサダイヤグラム)、とは(2009.6.7): http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-b450.html

2010年7月 6日 (火)

白山(石川)のふもとに湧き出る名水、弘法池の水(釜清水)、白山霊水(白山比咩神社)、杉森地蔵水(杉森集落)と湧水の水質(ヘキサダイヤグラム)、とは(2010.7.6)

  石川県は全国的にみて、雨の多い地方ですが、降水の大部分は雪です。冬にシベリア方面から吹いてくる冷たい北風は、暖かい日本海の大量の水蒸気を白山を中心とした加賀山地に運び、山にぶち当て、大雪をもたらします。この雪はやがて清らかな水に変わり、郷土の豊かな自然を生み出す源(みなもと)となります。

 白山(石川)のふもとには、昔から言い伝えのある数多くの湧き水があります。1985年(昭和60年)、環境庁(のち環境省)による「名水百選」において、石川県からは、総持寺(曹洞宗)の裏山にある古和秀水(こわしゅうど、門前、鳳至)、赤蔵山の赤倉神社境内の湧水池である、御手洗池(みたらしいけ、田鶴浜、鹿島)と共に、白山から流れ出る手取川の中流にある、弘法池の水(こうぼういけのみず、鳥越、石川)が選ばれました。、

 そこで、白山のふもと、白山比咩神社(はくさんひめじんじゃ)境内の地下水脈から汲(く)みあげた水、延命長寿の白山霊水、また弘法池から山ひとつ越えた、阿手(あて)に行く途中の杉森(すぎのもり)集落の道路沿いに、裏山から湧き出している、地蔵さまの清水(杉森地蔵水とも)について、以下に紹介しました。これらの湧き水(白山の雪解け水!)は、おいしいと言うことで、多くの人々がポリ容器、ペットボトルなど持って訪れていますが、私も水汲みファンの一人です。

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弘法池(釜清水、鳥越、石川郡、石川県、2004年)

(解説) 弘法池の水は、白山の麓の手取川左岸黄門橋の西北にあり、深さ約2m、直径約30cmの岩穴の底から、1日に約30トンの清水が湧き出しています。あふれた湧き水は、すぐそばの用水に流れ込み、近くの手取川に流れ落ちています。

 その昔、空海(弘法大師)が鳥越村を訪れ、水を求めたところ、老婆が険しい谷道を下り、手取川の水をくんできて大師にさし出したところ、その姿にいたく感動した大師が、錫杖(しゃくじょう)を岩に突き刺したところ水が湧き出した、との言い伝えがあり、その名の由来となっています。全国的にも珍しい甌穴湧水(おうけつゆうすい)で、その形が釜に似ていることから、釜清水(かましみず)とも呼ばれています。 

 弘法池の地域は、手取川の河床(かっては、新第三紀の流紋岩質溶岩と岩脈とからなる河床)が隆起して出来たと言われています。弘法大師の像のすぐうしろに小さな池があり、この釜清水をポンプで汲み上げると、池の水面が下がることから、水脈はつながっていると思います。湧き水は、シャクまたはポンプで汲み上げ、飲料水として使われ、釜清水地区の住民が管理しています。

 水質(1996年)は、水温11.7℃、pH6.4、カルシウムイオン11.0ppm、マグネシウムイオン2.3ppm、ナトリウムイオン6.2ppm、カリウムイオン1.0ppm、重炭酸イオン33.1ppm、塩化物イオン7.7ppm、硫酸イオン10.4ppm、硝酸イオン6.7ppmなどの成分を含む名水でした。ppmは百万分率で100万の中の1の割合にあたる非常に少ない量です。(日本地下水学会編: 続名水を科学する、島野安雄、木村繁、石川県の名水水質、技報堂出版(1999).より)

 水の味がよいと言うことで、ポリ容器にいれて持ち帰る人を多く見かけました。長期間保存の場合は、ポリタンクの表面に黒いカビ状のもの(藍藻?)が生えてくるので、加熱して利用するとよいと思います。この黒い物質は、ブラシでこすっても取れないので、塩素系の漂白剤(ハイター、プリーチなど)で除去したことがあります。

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白山の麓の雪解け水、名水の湧き水、地下水、河川水の水質のヘキサダイヤグラム

(解説) 弘法池水質(2004年、ヘキサダイヤグラム解析図)は、近くの手取川や上流の手取ダムの流出河川水の水質(浅い地下水、河川水の水質に分類されるカルシウムイオンー重炭酸イオン型)とよく似ていて、つながりが深いと思いました。

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白山霊水(白山比咩神社境内、北門大鳥居入るすぐ左前で取水、三宮、白山市、石川県、  2004年、 2013年)

(解説) 白山比咩神社(はくさんひめじんじゃ)の大神、菊理媛尊(くくりひめのみこと)は水の神様であり、また結びの神様です。本来は、金沢平野一帯の里人たちの農耕の神様です。生命の源は水であり、結びは和合の力であり、このご神徳に大きな期待を抱くと言う。

 白山比咩神社の境内では、地下水(白山の雪解け水!)をポンプで汲み上げた水を、延命長寿の白山霊水として一般市民に提供しています。長期間保存の場合は、生水ですから加熱してご利用下さい、との注意書きが吊(つる)してあります。

 水質(2004年、ヘキサダイヤグラム解析図)は、弘法池の水(浅い地下水、河川水の水質に分類されるカルシウムイオンー重炭酸イオン型)とよく似ていました。

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地蔵さまの清水杉森地蔵水とも、杉森集落の道路沿い、鳥越、白山市、石川県、2004年)

(解説) 地蔵さまの清水は、白山のふもと、杉森(すぎのもり)集落の裏山から道路沿いに湧き出している水(白山の雪解け水!)で、その名は地蔵(不動)が祀(まつ)られていることに由来しています。水源は弘法池の裏山(岳峰、標高505.48m)の反対側にあり、岳峰のふもとから湧き出した水と思われます。湧き水は、絶えることなく、すぐ前の用水に流れ込んでいます。

 水質(1996年)は、水温14.7℃、pH6.8、カルシウムイオン3.1ppm、マグネシウムイオン1.3ppm、ナトリウムイオン5.0ppm、カリウムイオン0.4ppm、重炭酸イオン19.2ppm、塩化物イオン6.9ppm、硫酸イオン3.6ppm、硝酸イオン0.8ppmなどの成分を含み、弘法池の水よりもミネラル、重炭酸イオン、硝酸イオン、硫酸イオンなど少ない名水でした。これは、地下水としての滞留(たいりゅう)時間が短いためと思います。(日本地下水学会編: 続名水を科学する、島野安雄、木村繁、石川県の名水水質、技報堂出版(1999).より)

 水質(2004年、ヘキサダイヤグラム解析図)は、淡水性の被圧地下水の水質に分類されるナトリウムイオンー重炭酸イオン型に似ていて、弘法池の水とは全く異なるものでした。 また、この水は、ペットボトル、ポリタンクなどに長期間保存しても、何の変化も見られませんでした。

○ 2008年(平成20年)6月環境省は、水環境保全の一層の推進を図ることを目的に、23年前の「名水百選」に加え、新たな名水として、「平成の名水百選」を選びました。

 石川県からは、白山美川伏流水群(白山市)、遣水観音霊水(やりみずかんのんれいすい、能美市)、桜生水(さくらしょうず、小松市)、藤瀬の水(七尾市)の4ヶ所が選ばれました。この選定は、7月の北海道洞爺湖(ほっかいどうとうやこ)サミットで環境問題が主要課題となるため、環境省が水の大切さを再認識してもらおうと、新たに選んだものです。環境省選定基準は、前回と同じ内容の評価で、水質にこだわらずに、清澄で、景観や保全活動がよければ、名水と判定したようです。

 水質については、厚生省(のち厚生労働省)の定めた、おいしい水の要件があります。それによりますと、水をおいしくする成分は、水に溶けているミネラル(カルシウムイオンとマグネシウムイオンの含有量など、硬度10~100ppm、ppmは百万分率で100万の中の1の割合)や重炭酸イオン(水に溶け込んでいる二酸化炭素、3~30ppm)など、一方、水の味を悪くする成分は、鉄分(0.002ppm以下がよい)、水の消毒に使った残留塩素(0.4ppm以下がよい)などです。また、pHは6.0~7.5、水温は、10~15℃’(体温より20~25℃低い温度)が適温でした。(用語解説、各種イオン、硬度含む: http://unit.aist.go.jp/georesenv/gwrg/glossary.html.)

 白山のふもとの湧き水は、白山の残雪が、夏にも冷たい水を送り出し、おいしさを引き立てていると思います。湧き水は、一年中絶えることがなく、温度は15℃前後、水量は降水に多少の影響を受け、大雨の後は勢いよく出ていました。

(参考文献) 絈野義夫編著: 北陸の地質をめぐって(日曜の地学6)、菊地書館(1979); 本浄高治: 名水をたずねて、自然人(1992); 石川化学教育研究会編: 科学風土記ー加賀・能登のサイエンス-、弘法池の水、裳華房(1997); 本浄高治: 科学風土記ー加賀・能登のサイエンス-、弘法池の水、金沢大学大学教育開放サンター紀要、p.73(1998); 日本地下水学会編: 続名水を科学する、石川県の名水水質、技報堂出版(1999); 蒲生優子: 名水に選ばれたおいしい水の水質と水源に関する研究(年末報告)、金沢大学理学部化学科分析化学研究室(2004).

(参考資料) 名水百選(昭和60年度、環境省、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E6%B0%B4%E7%99%BE%E9%81%B8

平成の名水百選(平成20年、環境省、ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%88%90%E3%81%AE%E5%90%8D%E6%B0%B4%E7%99%BE%E9%81%B8

(追加説明) ○ 水質(1993年11月)は、弘法の池の水については、水温11.9℃、pH6.03、カルシウムイオン13.9ppm、マグネシウムイオン2.9ppm、ナトリウムイオン6.8ppm、カリウムイオン2.0ppm、重炭酸イオン?ppm、塩化物イオン7.8ppm、硫酸イオン11.2ppm、硝酸イオン2.8ppm、古和秀水については、水温11.9℃、pH6.26、カルシウムイオン5.5ppm、マグネシウムイオン3.3ppm、ナトリウムイオン13.3ppm、カリウムイオン2.0ppm、重炭酸イオン?ppm、塩化物イオン20.3ppm、硫酸イオン5.1ppm、硝酸イオン0.6ppm、御手洗池については、水温13.4℃、pH7.07、カルシウムイオン9.0ppm、マグネシウムイオン4.5ppm、ナトリウムイオン16.3ppm、カリウムイオン2.4ppm、重炭酸イオン?ppm、塩化物イオン10.7ppm、硫酸イオン0.1ppm、硝酸イオン~0ppmの成分を含む名水でした。(越川司郎、山下 尚: 石川県内における主な湧水の分布と水質、石川県教育センター紀要、第45号、石川の自然、第18集、化学編(3)、p.1~36(1994).より)

○ 空海(弘法大師)ゆかりの満濃池(溜池、満濃、香川)、弘法の水、とは(2009.6.11) http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-b794.html

2010年7月 3日 (土)

白山(石川、福井、岐阜)、白山比咩神社(石川)にまつわる歴史伝承、白山夏山開き、とは(2010.7.3)

   白山(はくさん、しらやまとも)は、加賀(石川)、越前(福井)、美濃(岐阜)の3ヶ国境に聳(そび)える休火山で、主峰の御前峰(ごぜんがみね)は標高2702mです。この山を神体(しんたい)と仰(あお)ぐ山岳信仰(さんがくしんこう)が、白山信仰(はくさんしんこう)です。 

 泰澄和尚(たいちょうわじょう)伝記(10世紀に成立)によれば、奈良時代、717年(養老元年)、越前の僧、泰澄(たいちょう)、682年~767年(神護景雲元年)が白山の頂上で妙理大権現(みょうりだいごんげん、本地仏である十一面観音)を感得(かんとく)し、そこを行場として開いたとの伝説があります。

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白山概要(標高 2702m、御前峰(ごぜんがみね)、大汝峰(おおなんじみね)、剣ヶ峰(けんがみね)の三峰からなる休火山、白山砂防、金沢河川国道事務所、流域対策課、google画像)

(解説) 御前峰の白山奥宮(はくさんおくのみや)への信仰は、手取川(てどりがわ、石川)、九頭竜川(くずりゅうがわ、福井)、長良川(ながらがわ、岐阜)の水源であるところから、加賀、越前、美濃の3ヶ国の平野をうるおす水神の山、農耕の神として信仰が始まり、やがて京都の都から最も近く、万年雪をいただく白き神々のすみかとして信仰の幅を広げて行きました。

 そして、神仏習合(しんぶつしゅうごう)の信仰として、平安時代以降大いに栄えました。平安末期に京都の延暦寺の支配下に組み込まれ、社僧優位の下に、惣長吏(そうちょうり)が統轄(とうかつ)しました。

 白山の登山口の三つの馬場(ばんば)に、白山寺(神宮寺とも、神社に付属した寺、加賀馬場)、平泉寺(越前馬場)、長滝寺(美濃馬場)があり、中宮(ちゅうぐう)、本宮(ほんぐう)が設置され、別当寺(べっとうじ)がこれを管轄(かんかつ)しましたが、明治神仏分離令(しんぶつぶんりれい)により仏教色は排除されました。

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白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ、上 北参道の大鳥居(おおとりい)、 中 手水舎(てみずや、ちょうずやとも)、右の立て札の芭蕉の句には、白山を越(こし)の白峰(しらね)と詠(よ)んでいます。 下 神社の本殿(ほんでん)、左右は阿吽(あうん)の獅子(しし、狛犬、こまいぬ)、鶴来、白山市、石川)

(解説) 白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)は、かって、神社であるのに鳥居(とりい)がないと言われた時期がありましたが、神仏分離令が出された明治以降、仏教色が失われた代わりに、今は、大鳥居が表参道、北参道などの入り口に建てられています。江戸中期に建立された本殿以外は、昭和大造営によって大々的に増改築された社殿です。

 現在では、白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)は、白山神社(はくさんじんじゃ)とも呼ばれ、鶴来(つるぎ、白山市、石川)に鎮座(ちんざ)し、全国に約2000社の白山神社総本社となっています。

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白山御前峰山頂の御来光(7月1日、午前4時44分、白山市、石川、北陸中日新聞(夕刊)、川上智世氏撮影、google画像)

(解説) 7月1日(木)、白山夏山開きを迎えました。 北陸中日新聞(夕刊)によれば、御前峰の山頂(2702m)は2年ぶりに晴天となり、一面の雲海の上に輝く御来光が見え、登山客らを感動させました。

 私は、1970年(昭和47年)7月と1984年(昭和59年)7月の2回、白山登山をしたことがあります。頂上の手前のお花畑、ウグイスの声、御来光を神社神職の音頭で万歳三唱など今もなつかしく想い出されます。また、万年雪の雪渓、一方、風化(ふうか)した溶岩も見られ、白山がかっては活火山であったことを実感しました。江戸時代、1659年(万治 2年) に起こった白山噴火が、記録に残る最後の噴火となっています。

 昔の登山は、信仰行事であったため、特に、富士山(静岡)、木曽御岳(長野)、出羽月山(山形)などの霊峰にあっては、夏期一定の期間を限って登拝(とうはい)をゆるしていました。これを山開き(やまびらき)といい、秋の初めに閉山祭、山納祭を行う例が多い。現在の山開きは、スポーツとしての登山の開始期を意味するようになりました。(樋口清之(監修)、生活歳時記、三宝出版、より)

(参考文献) 下中邦彦編:小百科事典、平凡社(1973); 新村出編: 広辞苑(第四版)、岩波書店(1991); 石川県の歴史散歩研究会(代表、奥村哲)編: 石川県の歴史散歩、山川出版社(1993); 日本史事典、岩波書店(1999); 山本尚幸編: 週刊 神社紀行、45、白山比咩神社、白き嶺に舞い降りた女神、学研(2003).

(参考資料) 白山自然保護センター(ホームページ、石川県): http://www.pref.ishikawa.lg.jp/hakusan/

白山の概要(白山砂防、金沢河川国道事務所、流域対策課):http://www.hrr.mlit.go.jp/kanazawa/mb5_kouhou/activity/sabo_fe/fe2/hakusannsabou-2.html

白山のお花畑(白山、google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E7%99%BD%E5%B1%B1%E3%81%AE%E3%81%8A%E8%8A%B1%E7%95%91&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi

白山比咩神社(ホームページ、白山市、石川): http://www.shirayama.or.jp/

白山(車で行く百名山登山、長谷川淳): http://www11.ocn.ne.jp/~fuji101/; http://www11.ocn.ne.jp/~fuji101/hokurikukinki/hakusan.html

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