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2010年8月12日 (木)

日本の台湾(清、中国)出兵と日朝修好条規調印、日清戦争と日露戦争、日韓併合と満州国建国、とは(2010.8.12)

  (しん、1636~1912)は、中国史上、最後の統一王朝です。満州の女真族が建国し、3世紀にわたって中国を支配しました。姓は愛新覚羅(アイシンギョロ)、始祖ヌルハチは女真族を統一し、1616年に即位して後金国と称しました。その子の太宗は1636年に清と改称し、順治帝の1644年、明朝の滅亡に乗じて中国に入り、北京(ペキン)に遷都しました。その後、領土は、中国全土から、蒙古、チベット、台湾、新疆(しんきょう)に及び、歴代王朝の中で最大となりました。1911年、辛亥(しんがい)革命の結果、中華民国成立し、1912年宣統帝(清朝第12代、1909~1911)が退位して清朝滅亡しました。

● 明治初期(1871~1876)、日本と台湾(清、中国)及び朝鮮との軍事衝突と講和条約は、以下のような日本による不平等な条約で、その後の中国と朝鮮への侵略の第一歩となりました。

○ 台湾出兵(1871~1874)

 1871年(明治4年)、宮古島(みやこじま)から首里(しゅり)へ向かう琉球(沖縄、日本)の船が難破し、66名が台湾東南岸に漂着し、うち54名が殺害されました(琉球漂流民殺害事件)。清(しん)が先住民を、化外(けがい)の民(王化の及ばないところの住民)として、責任を取らなかったとの理由で、台湾出兵(征台の役)となりました。

 1874年(明治7年)5月、西郷従道(1843~1902)は、政府部内の反対を無視し、独断台湾、中国)に出兵しましたが、の理由は、1871年(明治4年)、琉球の船が台湾に漂着し、乗組員が殺害された事と、1873年(明治6年)には岡山県の船員が、同地で略奪暴行を受けた事によるのですが、そのには、琉球帰属問題、不平士族の不満を外征に向けるといった複雑な問題がからんでいました。

 最初、外務卿副島種臣が征台を計画しましたが、征韓論に敗れ下野したため、大久保利通(1830~1878)が代わって計画を進めました。5月22日、台湾に上陸して占領し、10月に清朝と和議(日清互換条款)を結び、銀50万両を保証金として受け取りました。そして、12月に台湾を撤退しました。このとき、三菱の創設者、岩崎弥太郎(1835~1885)が政府と結び、兵員物資の輸送で巨利を得たこと、また軍人の独断専行は、その後の日本にとって大きな意味を持つ行動でした。

○ 日朝修好条規調印(1875~1876)

 1875年(明治8年)、運艦雲揚が江華島付近の朝鮮領海内で演習、測量中に砲撃を受けるや、これを利用して猛反撃を加えました。いわゆる江華島事件です。この事件を契機に、明治政府は念願であった、朝鮮開国の実現をめざし、全権大使黒田清隆(1840~1900)、井上馨(1836~1915)を派遣しました。

 翌、1876年(明治9年)、日本は朝鮮と日朝修好条規江華条約とも、日本による不平等条約)を調印しました。条約は朝鮮を独立国と認めながら、その実、日本の優位を規定した不平等なもので、朝鮮侵攻の第一歩となりました。

● 日清戦争(1894~1895)は、以下のような交渉決裂による開戦と講和条約(下関条約)による終戦となりました。

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日清戦争と世界情勢(清国と欧米列強の租借地、日本政府はロシアの圧力が直接及ばないように、朝鮮を日本の支配下に置こうとしました、東アジア、google画像) (日清戦争の背景と結末: http://homepage3.nifty.com/asia-kenbunroku/NisshinSenso.htm.)

(解説) 1894年(明治27年)2月、朝鮮で甲午農民戦争が起こると、清は朝鮮政府の要請で出兵しました。日本も居留民保護を名目に大軍を派遣し、鎮圧後も居座り続け、朝鮮の内政改革を迫りましたが、朝鮮と清はこれを拒否しました。

 そこで、日本政府は、同年、7月、日英通商黄海条約を結び、イギリスの支持を取りつけ、武力で朝鮮王宮を占拠し、親日政権を樹立させました。そして、清軍駆逐(くちく)の命令を出させ、豊島沖(ほうとうおき)の清軍を急襲し、日清戦争が始まりました。

 1894年(明治27年)9月、日本と清国の両国艦隊主力の決戦が黄海で行われました(黄海海戦)。清の北洋艦隊は精鋭の5艦を一挙に失い、日本の連合艦隊は無傷でした。ここに日本の制海権が確立しました。

 日本軍は、軍備増強に努めてきていたので、清軍を次々と撃破し、翌年、日本勝利のうちに下関条約が結ばれました。これにより、日本は莫大な賠償金を取り、遼東半島(りょうとうはんとう)や台湾、澎湖(ほうこ)諸島を獲得しました。 日本への賠償金などで首の回らない清に、ドイツ、イギリス、フランス、ロシアなど欧米列強は、大金を貸し付け、その代償として、中国の各地を租借(そしゃく)したほか、鉄道鉱山などの利権を獲得しました。

 また、満州をねらうロシアは、ドイツ、フランスと結んで、遼東半島の返還を迫りました(三国干渉)。日本は、国力不足のため、やむなく要求をのみ、遼東半島を清に返還しました。その後、ロシアは旅順、大連港を租借し、満州の占領にも成功するなど、その南下が急速に進展していきました。そして、このことが、日本国民のロシアへの敵意をあおる結果となりました。

● 日露戦争(1904~1905)は、以下のような交渉決裂による開戦と講和条約(ポースマス条約)による終戦となりました。

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日露戦争と世界情勢(列強諸国の連合軍による清の義和団事件(北清事変)の解決後も、ロシアは軍隊を満州に駐留させ、旅順、大連を租借して防備を固め、また、朝鮮に軍事基地を設けるなど、遼東半島、朝鮮半島への南下を進展させ、領土支配を拡大してきました、東アジア、google画像) 

(解説) 1895年(明治28年)の三国干渉以来、日本ではロシアへの反感が強まり、また満州、朝鮮をめぐって両国の緊張が高まっていました。1902年(明治35年)の日英同盟を後ろ盾に、日本はロシアとの協調を図るのですが、交渉は決裂しました。1904年(明治37年)2月8日、日本海軍の連合艦隊が仁川(じんせん)、旅順(りょじゅん)のロシア艦隊を奇襲攻撃、10日に宣戦布告し、日露戦争が始まりました。

 日本陸軍は、朝鮮半島及び遼東半島(りょうとうはんとう)に上陸し、苦戦を重ねながらも北上し、1905年(明治38年)1月、乃木希典(のぎまれすけ、1849~1912)率いる第3軍が、多大な犠牲の上に難攻不落の旅順要塞を陥落させました。3月には、最大の決戦となった奉天会戦(ほうてんかいせん)でロシア軍を後退させ、また5月には、日本海海戦で連合艦隊がロシアのバルチック艦隊に圧勝し、日本の勝利がほぼ確定しました。

 日本軍は、奉天会戦、日本海海戦に勝利したものの、これ以上戦争を続ける余力はありませんでした。そこで、アメリカの斡旋のもと、ロシアと講和しました。日本は、1905年(明治38年)9月、講和条約(ポースマス条約)で、朝鮮や遼東半島での権益を獲得しましたが、賠償金を取ることは出来ませんでした。

 日本国民は、莫大な戦費を支えてきたので、この内容に激怒、1905年(明治38年)9月5日、講和反対の国民大会が日比谷公園で開かれ、内相官邸や交番などを襲う暴動に発展しました(日比谷焼打(やきう)ち事件)。

● 日露戦争後から太平洋戦争まで(1905~1945)の日本と朝鮮(のち韓国)及び中国との関係で、以下のような国の命運を左右する大きな事件が起こりました

○ 日韓併合条約に調印(日本による朝鮮の植民地支配)

 日露戦争の頃、朝鮮(李朝)は、国号大韓帝国とし、日本に対抗する姿勢を示しました。その後、1910年(明治43年)8月、明治政府は、韓国を日本の領土とするため、韓国皇帝の高宗(こうそう、1852~1919)に、その統治権を日本国の明治天皇(第122代、1852~1912)に譲渡させるという韓国併合条約調印させました。また、韓国は朝鮮と改称させられ、朝鮮総督府による軍政のもと、35年にわたって直接的支配を受けました。

 なお、1905年(明治38年)、日本の初代内閣総理大臣であり、初代韓国統監となった伊藤博文(1841~1909)は、1909年(明治42年)10月26日、ハルビン駅頭で、朝鮮民族主義者、安重根(1879~1910)の弾丸に倒れ(暗殺)、日韓併合を進める一因となりました。

 2010年(平成22年)8月10日(火)、日韓併合百年を機に、日本政府は、日韓併合という過去の植民地支配への「痛切な反省と心からのおわび」を表明、また、韓国が返還を要求していた朝鮮半島由来の文化財を「引き渡す」と明言、閣議決定を経て、管直人(1946~ )首相の談話として発表されることになりました。

○ 満州事変と満州国建国宣言(日本の国際的な孤立と破滅への道)

 1931年(昭和6年)、この日の夜、奉天郊外柳条溝で、満州鉄道の小爆破事件を起こした関東軍は、これは張学良軍のしわざであるとして、直ちに一斉行動を開始し、満州全土に戦火を広げていきました(満州事変)。若槻内閣は、事変の不拡大方針を決定したが、関東軍はこれを無視し、着々と既成事実を作り上げ(軍人の独断専行!)、満州国建設に向かっていきました。

 1932年(昭和12年)、上海日中両軍交戦し、全面戦争に発展していきました。当初、中国軍が優位でしたが、次第に逆転し、1932年(昭和12年)12月10日、南京総攻撃が開始され、13日には完全に占領しました。入城した日本軍は、翌年2月まで、略奪暴行を行ない、4万2千人余人の中国人を虐殺しました。これは南京大虐殺と言われています。

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満州国建国(上 満州事変と満州国建国、朝鮮と台湾は日本領土です、  日本領土として、満州国、朝鮮及び台湾ほか、横線は日中戦争における日本最大の占領地域です、東アジア、google画像) (南京大虐殺: http://beauty.geocities.jp/nankingharuhi/index.html.)

(解説) 日本政府と軍部は、中国から満州を切り離して、独立国にしようと、満州自治指導部の設立を動かし、ついに、1932年(昭和7年)3月1日、清朝の最後の宣統帝溥儀(ふぎ、1906~1967)を執政として(皇帝即位は1934年、昭和9年)、満州国建国宣言書発布させました。

 首都は、長春(新京と改称)に置き、また、5族(満州人、中国人、蒙古人、日本人、朝鮮人)の協和をうたいましたが、事実上は関東軍が軍事、行政を支配し、主要な管領には、日本人が就任しました。

 中国政府は、直ちに国際連盟に提訴し、1932年(昭和7年)4月、リットン調査団が派遣されました。翌33年2月には、リットン報告案が国際連盟総会で採択されました。それは、満州での日本の権益は認めるが、日本に撤兵を求めるものでした。

 1933年(昭和8年)3月、日本国際連盟脱退を通告(1935年発効)、そして、日本は着々と既成事実を造りあげ、1934年(昭和9年)には帝政を実施しました。 1936年(昭和11年)には、ロンドン海軍軍縮条約、ワシントン海軍軍縮条約も失効し、日本は国際的な孤立の道を歩んで行きました。その後、15年ほどの日中戦争(1937~1945)の拡大第2次世界大戦(1939年~1945)、4年ほどの太平洋戦争(1941~1945)の敗戦を経て、1945年(昭和20年)8月18日、満州国は、皇帝が退位し滅亡しました。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 樋口清之(監修): 生活歳時記、三宝出版(1994); 野島博之(監修): 昭和史の地図、成美堂出版(2005); 野島博之(監修): 図解日本史、成美堂出版(2006); 詳説日本史図録編集委員会編: 日本史図録、山川出版社(2009).

 

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