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2010年8月18日 (水)

古代から中世の朝鮮半島情勢(日本と朝鮮、中国との戦い、亡命)、白村江の戦い、蒙古襲来、秀吉の朝鮮征伐(名護屋城趾、佐賀)、渡来人文化、とは(2010.8.18)

   日本と朝鮮半島とのつながりは、原始弥生(やよい)時代にまでさかのぼります。中国の歴史書に、日本に関する記述が初めて登場するのは「漢書(かんじょ)」地理誌ですが、そこには紀元前100年頃の日本が(わ)と呼ばれ、百余国ほどの小国に分裂、これらの小国邪馬台国(やまたいこく)が、朝鮮半島におけるの拠点、楽浪郡(らくろうぐん)や帯方郡(たいほうぐん)を通じて、中国の王朝朝貢していたことが記述されています。

○ 古代、白村江の戦い(663年、古墳・飛鳥時代)

 古代古墳(こふん)時代、3世紀後半、大和地方(やまとちほう、奈良)には、特に巨大な古墳が築かれていることから、ヤマト政権(広域に支配力を及ぼす統一政権)が成立していたと考えられています。その後、5世紀後半から6世紀にかけ、朝鮮半島では、高句麗(こうくり)の勢力を逃れ百済(くだら)や伽耶諸国(かやしょこく)から多くの人倭国(日本)に渡来(亡命!)しました。彼らは、養蚕(ようさん)、機織り(はたおり)、製陶(せいとう)、建築、中国文化など、最新の技術と知識をもたらしました。専門職業団「品部(しなべ)」として、ヤマト政権の発展を支えました。

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白村江の戦い(はくそんこうのたたかい、663年、百済での唐(中国)・新羅連合軍と倭(日本)・百済連合軍の戦いの進路、google画像) 

(解説) 古墳から飛鳥(あすか)時代中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、第38代天智天皇、626~672)が、国政改革を進めていた頃、朝鮮半島では、5世紀末以来続いた高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)、百済(くだら)の三国時代が終わりを迎えていました。660年、中国の新羅と連合して百済を攻め滅ぼしました。 その後、百済復興軍が唐・新羅連合軍と戦っていました。そして、百済の遺臣から援軍を求められた中大兄皇子は、このままでは唐の圧力が国内にまで及ぶと判断し、百済復興への助力を決意し、大軍派遣を決定しました。

 日本の倭軍2万7000人は、663年、3回に分けて九州から朝鮮半島に出兵、3軍編成をとり4度攻撃しました。そして、百済復興軍は、日本の援軍により、百済南部に進入した新羅軍を一度は駆逐(くちく)しました。しかし、中国の唐が水軍7000人を新羅に増援し、唐(中国)・新羅(朝鮮)連合軍が水陸併進したため、倭(日本)・百済(朝鮮)連合軍は、火計、干潮の時間差などより大敗しました。これを白村江の戦い(はくそんこうのたたかい、はくすきのえのたたかいとも)と言う。

 中国の歴史書は、「わが軍は倭と4回戦って、いずれも勝った。そして、倭の船400艘(そう)を焼いた。煙は天を覆い、海水は赤く血で染まった」と激戦の様子を伝えています。

 その後、中大兄皇子は、唐・新羅の報復と侵攻に備え、亡命・帰化した百済人の技術を用いて、北九州の太宰府(だざいふ)に水城(みずき)と呼ばれる防御施設や、西日本各地に大野城(おおのじょう)をはじめとする朝鮮式山城を築きました。筑紫(つくし)、壱岐(いき)、対馬(つしま)には、主に東国の農民を徴収して、約3000人の防人(さきもり)を配備しました。一方、唐・新羅連合軍は、668年、高句麗も滅ぼしましたが、その後は唐と新羅が対立関係となり、676年、新羅が朝鮮半島を統一しました。

 飛鳥(あすか)とは、鳥が飛ぶこと(朝鮮半島の百済人が日本に渡来(亡命!)して来たこと)、渡来人よる文化が日本に伝わったことを意味しています。

 奈良時代末、光仁天皇(こうにんてんのう、第49代、709~782)と渡来系高野新傘(たかのにいがさ、720?~790)の間の子として生まれた桓武天皇(かんむてんのう、第50代、737~806)により、平城京(奈良)から、784年、長岡京(山背国長岡村)を経て、794年、平安京(京都)への遷都につながっています。

 そして、都の造営に、山背国(やましろのくに、のち山城国、京都府中部・南部)を拠点に活躍したのが、新羅系の(はた)氏です。秦氏は、5世紀後半に日本に渡来(ヤマト王権の拡大期に朝鮮半島から大規模な渡来があったと言う)、鋳工(ちゅうこう)や木工などの技術者を擁(よう)し、鉱山の開発や潅漑、土木などで活躍し、また、平安京の造営にも大きな力を発揮したと言う。右京区にある太秦(ウズマサ)の地名はその名残です。ウズマサは、朝鮮半島の地名で、秦(ハダ)氏の本家筋(ウズマサ氏)の出身地らしいとのことです。

 京都の四条大宮から京福電鉄嵐山線で嵐山へ行く途中、太秦(うずまさ、右京区)の近くには、京都で最古の秦氏氏寺、広隆寺があります。ここの国宝第1号、弥勒菩薩像は、渡来仏と言われています。また、私は、1986年(昭和61年)6月14日、この近くの東映太秦映画村を訪れたことがあります。また、この近くの電車駅の名が、秦氏とつながりのあると思われる、蚕の社(かいこのやしろ)、帷子ノ辻(かたびらのつじ)、車折(くりまざき)など、何ともゆかしい名前であったのが印象に残っています。

 また、平安時代、天台宗の祖師、伝教大師最澄(さいちょう、766?~822)は、近江国滋賀郡古市郷(大津、滋賀)で渡来系の三津首百枝(みつのおびとももえ)の子として生まれ、一方、真言宗の祖師、弘法大師空海(くうかい、774~835)は、讃岐国多度郡屏風ヶ浦(善通寺、香川)で豪族、佐伯直田公(さえきあたいたぎみ、生没未詳)と渡来系、阿刀(あと)氏族の母(阿古屋)との間で生まれ(3男)、二人とも渡来人の血を受け継いでいます。

○ 中世、蒙古襲来(1274~1281年、元寇、文永の役・弘安の役、鎌倉時代)

 中世、鎌倉(かまくら)時代、北条氏が鎌倉幕府の実権を掌握しつつある頃、ユーラシア大陸では、誕生して間もないモンゴル帝国が、周辺の国への侵攻を開始していました。モンゴル帝国の始祖、チンギスハン(1162?~1227)は、1206年にモンゴル高原を統一し、1219年には西方への大遠征を行って、獲得した領土を子や弟らに分け与えました。第5代フビライ(1215~1294)の時に、国号を「」としました。

 フビライは、朝鮮半島の高麗(こうらい)を武力で服従させたほか、1276年には南宋(なんそう)を滅ぼして中国全土を征服し、世界最大の帝国を築き上げました。しかし、日本への遠征は激しい抵抗にあい、大きな成果を上げられませんでした。その後、高麗は、の日本遠征の前線基地となりました。

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文永の役(ぶんえいのえき、1274年、元軍の進路、元・高麗軍約3万人が博多湾から上陸、博多、福岡、google画像)

(解説) 執権北条時宗(ほうじょうときむね、第8代、1251~1284)は、による服従の要求の勧告を強硬に断りました。そこで、1274年、高麗軍を含む元軍約3万人が、対馬、続いて壱岐に上陸、守備兵を全滅させ、九州北部に襲来、元軍の集団戦法や火器(「てっぽう」)に、一騎打ち戦法をとる日本軍は苦しめられました。しかし、元軍は暴風雨(神風!)により退却を余儀なくされました。これを文永の役(ぶんえいのえき)と言う。以後、幕府は異国警固番役(いこくけいごばんやく)の強化防塁(石垣)の構築などにより、2度目の襲撃に備えました。

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弘安の役(こうあんのえき、1281年、元軍の進路、東路軍約4万2000人が志賀島に上陸、博多、福岡、google画像)

(解説) 1281年、元軍は総勢14万で日本に再び襲来、約4万2000人の東路軍が志賀島に上陸しますが、水際で奮戦する日本軍により、海上に追い返されました。そして、鷹島で東路軍と約10万人の江南軍は合流し、立て直しを図りますが、またもや台風(神風!)に直面し、壊滅的な打撃を受けました。これを弘安の役(こうあんのえき)と言う。

 福岡市博多区東公園には、1904年(明治37年)に建てられた日蓮上人(1222~1282)の銅像があります。日蓮上人は、1260年(文応元年)に「立正安国論」を書き、いち早くの襲来を予言して、当時の執権、北条時頼に警告しました。日蓮上人の銅像は、高さ11.55m、重さ75トン、8角形の台座には、「立正安国論」の文字と聖人の一代記が描かれています。近くに元寇資料館もあり、私は、1994年(平成6年)10月12日、ここを訪れたことがあり、この大きな銅造と元の襲来に備えた史跡に強い印象を受けたことを覚えています。

蒙古襲来(元寇、旅する長崎学): http://tabinaga.jp/area/m_takashima_next.php

○ 近世、豊臣秀吉の朝鮮征伐(1592~1598年、文禄の役・慶長の役(壬辰・丁酉の倭乱)、安土・桃山時代)

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文禄の役(ぶんろくのえき、1597年、赤線は日本軍の進路、朝鮮半島、google画像)

(解説) 近世、安土・桃山(あづちももやま)時代、日本を統一した豊臣秀吉(とよとみひでよし、1537~1598)は、かねて計画していた中国の明(みん)征服をもくろみ、対馬(つしま)の(そう)氏を通じて、朝鮮に服従を命じました。しかし、朝鮮がこれを拒絶すると、1592年3月、肥前(佐賀県)の名護屋城(なごやじょう)に本陣を置き、朝鮮へ15万の大軍を送り込み、4月、釜山に上陸した日本軍は、朝鮮軍の防備の手薄な釜山城を1日で陥落させました。これを文禄の役(ぶんろくのえき)と言う。

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名護屋城趾(なごやじょうし、朝鮮出兵の日本軍の本陣、唐津市、肥前、佐賀県、google画像)

(解説) 加賀藩前田利家(初代、1537~1599)と子の利長(第2代、1562~1614)は、1592年2月早々、約1万人の軍勢を率いて金沢を出発し、秀吉の先鋒として3月に京都をたち、4月下旬には名護屋(肥前、佐賀)に到着しています。この時の陣立ては、一番利家、二番家康、三番伊達、四番佐竹でした。秀吉は、利家・家康らを率いて自ら渡海しようと考えていましたが、利家が家康と共に必死に諫めたので、秀吉の渡海は延期されました。

 その後、利家と家康は、名護屋城で秀吉に近侍しました。1592年7月、母大政所の死去で、大坂に帰った秀吉の留守中、利家は家康と共に、名護屋城を守り、9月には秀吉の名代として渡海を命じられていますが、日明講和が始まり、出陣は延期となっています。この名護屋滞在中に利家に仕えたチヨ(寿福院、1570~1631)との間で生まれた男子が、後の加賀藩主(第3代、1594~1658)、前田利常です。

 日本軍は、戦備の整っていない朝鮮軍を相手に連戦連勝し、1952年5月、首都漢城(かんじょう)を占領、朝鮮国王は漢城を脱出して平壌(へいじょう)に逃れました。この知らせ聞いた秀吉は、後陽成天皇(ごようぜいてんのう、第107代、1571~1617)を北京(ペキン)に移し、養子の秀次(ひでつぐ)を明の関白(かんぱく)にして、自分は寧波(ニンポー)で中華皇帝になるという妄想をいだいていました。

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慶長の役(けいちょうのえき、1597~1598年、赤線は日本軍の進路、朝鮮半島、google画像)

(解説) 日本軍は、1592年6月、小西行長(こにしゆきなが、1555?~1600)、黒田長政(くろだながまさ、1568~1623)らが平壌を陥落させ、7月、加藤清正(かとうきよまさ、1562~1611)らは会寧(かいねい)に進み、朝鮮皇子2人を捕らえ、さらに領にまで侵攻しました。

 しかし、日本軍の快進撃はここまでで、明の援軍に加え、各地で抗日義兵が蜂起(ほうき)し、朝鮮の将軍、李舜臣(りしゅんしん、1545~1598)の率いる水軍が制海権を握ったため、日本軍は糧道(りょうどう)を断たれて、次第に押されていきました。戦線の膠着(こうちゃく)に小西行長らは、明を通じて講和交渉に入りました。 しかし、条件が折り合わず、1597年2月、秀吉再び14万の大軍を朝鮮に派遣しました。これを慶長の役(けいちょうのえき)と言う。

 1597年7月、元均(げんきん)率いる朝鮮水軍は全滅し、日本軍が制海権を握りましたが、12月、蔚山城に明・朝鮮連合軍が押し寄せ、籠城する加藤清正は、苦戦しました。1598年10月、撤退する日本軍に明の大軍が攻め寄せましたが、島津義弘(しまづ」よしひろ、1535~1619)が寡兵(かへい)で撃退しました。

 この2度目の出兵は、朝鮮半島の南部にとどまり、慶尚道(けいしょうどう)と全羅道(ぜんらどう)の沿岸に城を築いての持久戦となりました。この間、加藤清正(かとうきよまさ)ら武将と石田三成(いしだみつなり、1560~1600)らの官僚との確執が発生し、これが後の豊臣政権の崩壊の一因となりました。1598年8月、秀吉病死すると、日本軍は撤兵しました。文禄・慶長は、韓国では、壬辰(じんしん)・丁酉(ていゆう)の倭乱と呼ばれています。

(参考文献) 図説前田利家編集委員会編: 図説前田利家、北国新聞社(2002); 野島博之(監修): 図解日本史、成美堂出版(2006); 上田正昭(監修)、井上満郎(著): 平安京の風景、文英堂(2006); 歴史探訪研究会編: 歴史地図本、知って訪ねる京都、大和書房(2008).

 

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