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2010年8月 3日 (火)

金沢城(石川)と太平洋戦争、軍事施設(師団、旅団、連隊)から学問の施設(新制金沢大学)へ、さらに大学移転による金沢城公園へ、真珠湾奇襲攻撃からポッタム宣言受諾、とは(2010.8.3)

   1945年(昭和20年)8月、太平洋戦争の敗戦によって旧陸軍が解体され、同時に金沢城址に置かれた第9師団、第6旅団、歩兵第7連隊などの軍用施設は、占領軍の支配下に置かれました。

 金沢城跡地の利用は、金沢に派遣された石川軍政体(米軍)が権限を持っていたので、県知事や県会は、文化国家建設の象徴として学術機関の設置を求めました。最終的には、四高、石川師範、金沢医科大学などの高等教育を統合した北陸総合大学構想が採用され、県知事から石川軍政隊に金沢城跡地の返還を要求しました、

 1947年(昭和22年)、石川軍政隊は、男女共学の民主的な総合大学を5年以内に設置することを条件に、石川県への移管を約束しました。しかし、日本政府の新制国立大学設置構想が、これに連動して進展した結果、金沢城跡地の石川県移転は流産し、1952年(昭和24年)5月、文部省は新制金沢大学を発足させ、金沢城跡地は、そのキャンパスとなりました。

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金沢大学(城内(丸の内)キャンパス、空中写真、1975年(昭和50年)、金沢、国土交通省、google画像)

(解説) 金沢大学は、開学以来「お城の中の大学」として親しまれてきました。当初、法文、教育、理学、医学、薬学、工学の6学部で発足しましたが、城内キャンパスに置かれたのは、法文、教育、理学の3学部と教養教育担当の教養部、大学本部でした。その後の改組で学部は8つに増え、大学院なども整備されましたが、城内キャンパスは手狭となり、1989年(平成元年)秋から1996年(平成8年)までに全て、金沢市郊外の角間地区(かくまちく)に移転しました。(金沢大学ホームページ(角間、金沢、石川): http://www.kanazawa-u.ac.jp/.)

 金沢大学の移転後、金沢城跡地は石川県に移管され、金沢城公園として整備され、県民が自由に利用を選択できるようになりました。その後、金沢城跡地を県民共有の財産として後世に残すという方針が立てられ、段階的に城址公園として整備公開され、明治維新以来の県民の悲願が、達成されることになりました。(金沢城と兼六園のホームページ(丸の内、金沢、石川): http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/japanese/top.html.)

○ 太平洋戦争(1941年12月8日~1945年9月2日、第2次世界大戦のうち、アジア、太平洋地域での日本と連合軍(米、英、仏、中国、のちソ連)との戦争、アジア太平洋戦争とも)は、以下のような経過をたどり、ハワイ真珠湾攻撃により開戦となりました。

 1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件(ろこうきょうじけん、北平(北京)郊外の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第29軍との衝突事件、七七事変)により始まった日中戦争の中国全土への戦線拡大は、欧米諸国の権益を脅(おびや)かし、日本と米英との関係は悪化しました。一方、ヨーロッパでは、1939年(昭和14年)9月1日、に第2次世界大戦が勃発し、翌年にはドイツが周辺諸国を次々と占領し、ほぼヨーロッパ全土を影響下に置きました。

 日中戦争が長期化して、米英と対立し、その打開策を探っていた日本は、1940年(昭和15年)9月、この機に乗じて仏領インドシナ北部(北部仏印)に進駐し(米英による中国支援の断絶、資源確保のため)、日独伊三国同盟を締結(アジア、ヨーロッパにおける支配を相互に承認、アメリカの参戦を抑止するための同盟!)。これは、アメリカとの関係が悪化する中で、東南アジアの豊富な資源が是が非でも必要と判断されたためです。

 しかし、こうした日本の動きに対して、アメリカは対日経済制裁措置を断行(航空用燃料、くず鉄、鉄鋼の対日輸出禁止)。一方、日本はソ連と日ソ中立条約を締結、1941年(昭和16年)7月、日本軍は南部仏印に進駐(アメリカの輸出制限で不足した石油、ゴム、アルミなど資源を求めて侵攻!)しました。これに対し、1941年(昭和16年)8月1日、アメリカは対日石油輸出の禁止(石油の約8割をアメリカに頼る日本は大打撃!)、在米日本人の資産凍結などの措置に出ました。イギリスも日英通商航海条約の破棄を通告してきました。

 1941年(昭和16年)11月26日、アメリカは日本に対する最後の通牒(つうちょう、アメリカ国務長官ハル(1871~1955)からの駐米大使野村吉三郎(1877~1964)への提案、ハルノートを提出)として、中国、仏印からの撤退、日独伊三国同盟の破棄、中国を満州事変以前に戻すことなど、日本としては到底飲めるものではない要求をしてきました。日本海軍の機動部隊は、空母6隻を基幹とし、日米交渉が妥結しない場合には、直ちに米太平洋艦隊の本拠地、真珠湾を急襲すべく、エトロフ島(南千島)単冠湾を発進してハワイに向かいました。

 そして、同年、12月1日、御前会議で、東条英機(1884~1948)の主導のもと、対米英開戦を決定し、12月2日夕刻、連合艦隊司令長官山本五十六(1884~1943)元帥より、ハワイ北方に接近中の連合艦隊に「ニヒタカヤマノボレ1208」の暗号電報が発せられました。これは、日米交渉が決裂し、12月8日を期してハワイを攻撃せよ、との暗号電文でした。

 12月8日、日本海軍は、この電文に従って、雷撃機、艦上攻撃機によりハワイ真珠湾を急襲し、また、日本陸軍はイギリス領マレー半島に上陸し、太平洋戦争も開戦となりました。

 この真珠湾の奇襲は、碇泊中の米艦隊や待機中の飛行機に大打撃を与えましたが、米空母は出航中であったため、これをたたけず、戦局の招来に禍根を残しました。またこの攻撃は、わが国の最後通牒より早かったため、国際法違反として非難され、米人の敵愾心(てきがいしん)に火をつける結果ともなりました。 

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アリゾナ記念館(パールハーバー、真珠湾、ハワイ、USA,google画像) アリゾナ記念館(ハワイツアー): http://www.traveldonkey.jp/oah/2121.cfm.私も30年ほど前、1979年4月、ACS/CSJ、日米国際化学会議(ハワイ)に出席、ハワイツアーで訪れたことがあります。

(解説) 戦艦アリゾナ号は、1177人以上の乗員と共に日本軍の攻撃によって沈没しました。アリゾナ号は、「真珠湾を忘れぬな!」との思いで、そのまま国定慰霊碑の記念館として保存されています。

○ 太平洋戦争(1941年12月8日~1945年9月2日)は、以下のような経過をたどり日本の敗戦となり、連合国へ無条件降伏する結果となり、形式的にはGHQの占領政策(実質的にはアメリカ主導の占領政策)のもと、民主主義国家として新しいスタートを切りました

 日本は、「大東亜共栄圏」の名のもと、わずか半年後の1942年半ばには、南太平洋一帯を手中に収めましたが、米軍の猛反撃が始まり、1942年(昭和17年)6月5日~7日、ミッドウエー海戦で日本の海軍がアメリカ軍に大敗し、開戦から1年足らずで、守勢に転じた日本は、米軍の猛攻になす術(すべ)もありませんでした。

 1944年(昭和19年)6月15日~7月9日、サイパン島が米軍の手に落ちると、日本は制海権、制空権ともに失い、米軍の本土空襲が本格化しました。1945年(昭和20年)3月の東京大空襲以降、大都市の人口密集地への無差別爆撃へと戦略を転換し、焼夷弾(しょういだん)による「絨毯爆撃(じゅうたんばくげき)」が何度も繰り返されました。さらに6月になると、中小都市まで広がり、最新爆撃機B29の前になす術はなく、全国のほとんどの主要都市が焦土化(しょうどか)しました。

 空襲被害の少なかった府県(1000人未満)は、秋田、岩手、山形、長野、石川、滋賀、奈良、京都、鳥取、島根、佐賀のほか、北海道でした。

 沖縄戦は、唯一の本土決戦ですが、1945年(昭和20年)3月~7月、アメリカ軍(約18万人)に陥落しましたが、沖縄守備軍(約12万人)の目的は、県民を守ることではなく、米軍の本土上陸を遅らせることでした。沖縄戦では、約19万人の日本人が命を落としました。その半数以上は沖縄の一般住民でした。

 もはや、日本にアメリカ軍を迎え撃つ力はなく、日本の敗北は明らかでした。ところが、国体護持(こくたいごじ、天皇制の維持)にこだわる政府は、陸軍強硬派を抑えることが出来ませんでした。

 そして、1945年(昭和20年)8月6日、午前8時15分、広島市の中心部上空で炸裂した原子爆弾は、瞬時に20余万人もの生命を奪い、悲惨な死の町となりました。広島原爆病院には、今も原爆症に苦しむ患者が入院しています。太田川河畔の平和公園には原爆ドームが、あの日の姿のまま永久保存されています。毎年この日には、平和を願う式典が催されています。

 1945年(昭和20年)8月8日、日本政府は、太平洋戦争を終結に導くために、佐藤尚武(1882~1971)大使が、ソ連に特使を派遣、し仲介を頼む交渉をしていたのですが、ソ連政府のモロトフ(1890~1986)外相の回答は、意外なものでした。それは、日本が、7月26日、連合国が発表したポッダム宣言(米英中の3ヶ国の名で、日本の無条件降伏と戦後方針を示したもの)を拒否したので、宣戦布告するというもので、日ソ中立条約を破棄して参戦し、満州や樺太、千島に侵攻してきました。

 1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分、長崎にも原子爆弾が投下されました。長崎は一瞬にして壊滅し、約15万余の貴重な命が奪われました。その爆心地帯には、国際文化会館や平和記念像などが建てられています。この日、長崎では、原爆被災者の追悼式が行われ、世界平和への呼びかけがなされます。

 1945年(昭和20年)8月15日、正午、昭和天皇(第124代、1901~1989)はラジオで全国民に敗戦を告げ(玉音放送、ぎょくおんほうそう)、そして、真珠湾(しんじゅわん)攻撃から約4年にわたる長い戦争が終わりました。また、ソ連の参戦もあり、ついに御前会議でポッタム宣言の無条件受諾を決定し、連合国に無条件降伏しました。

ポッダム宣言受諾(1945年9月2日、東京湾の米艦ミズリー号の甲板上で無条件降伏文書に調印する重光葵(しげみつまもる、1887~1957)外相、google画像) ポッダム宣言(無条件降伏文書)受諾; http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/707.html

(解説) 1945年(昭和20年)8月28日、連合国軍(米、英、仏、ソ、中をはじめとする11ヶ国、のち13ヶ国)が次々に進駐を開始し、8月30日、アメリカのマッカーサー(1880~1964)が厚着に到着、9月2日、米艦ミズリー上で降伏文書に調印、日本は正式に連合国軍の占領下に置かれました。

 1946年(昭和21年)4月、政府はGHQ(連合国軍最高司令官相司令部)案に基づく憲法改正創案を発表、議会の審議を経て、11月3日、「日本国憲法」として公布され、翌1947年(昭和22年)5月3日に施行されました。こうして日本は、民主主義国家として新たなスタートを切りました。

 以後、アメリカのマッカーサーを最高司令官とするGHQにより、アメリカ主導の占領政策が進められました。形式的には、連合国による共同統治でしたが、実質的にはアメリカの単独占領で、進駐した兵士も、そのほとんどがアメリカ軍兵士でした。その後、1952年(昭和27年)、日本はサンフランシスコ平和条約の発効で独立を回復しますが、沖縄は、1972年(昭和47年)までアメリカの統治下に置かれました。

(参考文献) 樋口清之(監修): 生活歳時記、三宝出版(1994); 野島博之(監修): 昭和史の地図、成美堂出版(2005); 野島博之(監修): 図解日本史、成美堂出版(2006); 金沢城研究調査室編: よみがえる金沢城 1、450年の歴史を歩む、石川県教育委員会(2006).

 

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