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2010年8月の11件の記事

2010年8月29日 (日)

白山にまつわる伝説と説話、わらじ伝説(富士山と背比べ)、日本最高峰(50年間、新高山、玉山とも、台湾)、泰澄(白山開山)弟子、臥行者の飛鉢の法力(信貴山縁起と類似)、富士山世界文化遺産、とは(2010.8.29)

   日本の山で、古くから、三名山とか、三霊山と呼ばれるのは、伝統的に山岳信仰の対象となってきた、富士山(ふじさん、3776m、静岡)、立山(たてやま、3015m、富山)、白山(はくさん、2702m、石川、福井、岐阜、富山)です。

○ 白山(加賀、石川)のわらじ伝説、日本最高峰の富士山(駿河、静岡)と背比べ

 昔、駿河(するが、静岡)の男と加賀(かが、石川)の男がお国自慢をし合いました。「日本一は冨士のお山だ」「いやいや、白山こそが日本一」。そこで、白山と富士山の頂上に、竹を接いで作った長い樋(とい)が架け渡され、水が流されました。すると、水はゆっくり白山の方へ流れはじめるではないか。このとき、加賀の男は、履いていたわらじをぬいで、白山側の樋の下にあてがうと、水の流れはぴたりと止まった。以来、白山へ登る人は、わらじを片方、山頂に置いてくるようになったという。実際、昭和の初めまで、白山の山頂にはわらじの山ができていたという。 白山のわらじ(伝説  その四、白山比咩神社、白山市、石川県):    http://www.shirayama.or.jp/legend/l04/index.html

○ 終戦(1945年)まで50年、日本最高峰は新高山(3952m、玉山とも、台湾)

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玉山(ぎょくさん、3952m、 新高山とも、台湾山脈、台湾のほぼ中央部、台湾、google画像)

(解説) 古来、日本最高峰は、富士山ですが、中国の台湾が日本に割譲(かつじょう)され、日本が統治していた半世紀の間(1895~1945)、台湾玉山(ぎょくさん、3952m)が、明治天皇(第122代)により、新高山(にいたかやま)と名付けられ、日本の最高峰として知られていました。

 太平洋戦争の開戦となった、ハワイ真珠湾攻撃の暗号電報「ニイタカヤマノボレ1208」は、この山の名を引用したのではないかと言われていますが、海軍の通信符号表には「ニイタカヤマ」は登載されておらず、確証はないそうです。

○ 泰澄(白山の開山、越前、福井)の弟子、臥行者(能登、石川)による飛鉢(ひはつ)の法力の説話

 神道(しんとう)は、日本列島に住み着いたと思われる縄文人たちが、ごく自然に、自然の運行(季節変化など)に恐怖と畏敬(いけい)の念を抱き、大自然との共生を、信仰と共に保つ姿を生んだものと思われます。

 霊峰白山は、神体山として、年中、峰々に白雪をいただくことから「白き神々の座」とも呼ばれ、農耕に不可欠な水を供給する水神の山、日本海を航行する指標となる航海の神として信仰されました。

 一方、白山は、仏教(ぶっきょう)の影響により、人が足を踏み入れることを許さない禁足の霊山から、修験(しゅげん)の聖地(せいち)へと変わり、奈良時代、717年(養老元年)、はじめて登拝(とはい)したのが、「越の大徳(こしのだいとく)」と称された泰澄(たいちょう、682~767)と伝えられています。

 平安時代から江戸時代まで、泰澄伝説を受け入れ、天台宗系の神仏習合が行われ、白山寺と白山宮が併存し、僧侶と神主が共存して、明治時代の神仏分離まで、宗勢を広めました。

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泰澄大師像室町時代、1493年(明応2年)、朝日町、福井、大谷寺蔵、google画像)

(解説) 10世紀ころの「泰澄和尚伝記」によれば、泰澄(たいちょう)は、682年(天武天皇11年)麻生津村(越前、福井)で生まれました。幼い頃から神童の誉れ高く、14才のとき、白山の女神(十一面観音の化身)の夢告をうけて、越知山(おちさん)の坂本の岩屋にこもり修行に明け暮れました。いつしかその名は奈良の都にも聞こえ、702年(大宝2年)、都から大伴安麻呂(おおとものやすまろ、?~714)が勅使(ちょくし)として使わされ、鎮護国家の法師(ほうし)となりました。

 泰澄には、この年、能登島(能登、石川)から泰澄を訪ねてきて弟子になった臥行者(ふせりのぎょうじゃ)、また、臥行者による泰澄の飛鉢(ひはつの法力を目(ま)の当たりにして、泰澄の弟子になった船頭の神部淨定(かんべのきよさだ)という二人の弟子がいます。のち泰澄と共に、白山の登拝(とはい)の起点として、加賀(かが、石川)、越前(えちぜん、福井)、美濃(みの、岐阜)に設けられた三馬場(さんばんば)を開いたという。

 臥行者は、いつも寝転がって思索に耽(ふけ)っていて、唯一の仕事は、師の泰澄の食事の世話をすることでした。毎日、臥行者は泰澄から預かった飛鉢を空に飛ばしました。戻ってきた鉢の中には、いつも炊いた飯などが入っていました。

 あるとき、大量の米俵を運ぶ船が越前沖を進んでいました。臥行者は飛鉢を飛ばして供米(くまい)を乞(こ)うたが、船頭の神部淨定は、政府に納める米だからと断り、鉢を海に投げ捨てました。すると、飛鉢は越知山に飛んで帰り、船に積み上げられた米俵や櫓櫂(ろかい)も、鉢のあとを追ってつぎつぎに越知山へと飛び去ったという。

 この飛鉢の法力については、平安時代中期、信貴山で修行し、当山の中興の祖とされる命蓮(みょうれん、生没未詳)に関する説話を描いた信貴山縁起絵巻(作者不詳)にも同じような話が出ています。山崎長者の巻、延喜加持の巻、尼公の巻の3巻からなる絵巻で、山崎長者の巻(飛倉の巻)に、以下のような説話があります。

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信貴山縁起絵巻 鉢が米倉を持ち上げ、川を越えて飛んでゆく、長者が馬に乗り追いかけるが、倉は山の方へと持っていかれる、  鉢を先頭に飛んで帰ってきた米俵に驚く長者宅の女たち、 山崎長者の巻(飛倉の巻)、国宝、長護孫子寺所蔵、原本は奈良国立博物館に預託、奈良、google画像)

(解説) 僧、命蓮(みょうれん)が神通力(法力)を使い、山崎の長者のもとに托鉢に使用する鉢を飛ばし、その鉢に校倉造りの倉を乗せて飛ばし、信貴山にいる命蓮の所まで持って来ました。長者が中に収められていた米俵だけでも返してくれと訴えたので、今度は、鉢に乗せた米俵を先頭にし、米俵を数珠繋ぎにして飛ばし、長者のもとまで飛ばしました。  

 越の白山(こしのしらやま)と呼ばれて称(たた)えられた白山は、手取川(てどりがわ、石川)、九頭竜川(くずりゅうがわ、福井)、長良川(ながらがわ、岐阜)、庄川(しょうがわ、富山)の4水系の分水嶺(ぶんすいれい)にそびえ、豊富な水資源は、その流域の農耕に豊かな実りをもたらし、また、殖産興業(水力発電、企業の工場設置など)を起こし、人々の生活を豊かにしました。白山の信仰は、明治時代末期には、白山比咩神社(鶴来、のち白山市、石川)を総本社とする全国2700社に及ぶ白山神社が確認されており、現在も全国的な活動が続けられています。

(参考文献) 山本尚幸編: 週刊神社紀行 45、白山比神社、白き嶺に舞い降りた女神、学習研究社(2003); 世界の「ふしぎ雑学」研究会: 図解、日本の「三大」なんでも事典、三笠書房(2008); 石川県の歴史散歩編集委員会編(編集代表、木越隆三): 石川県の歴史散歩、山川出版社(2010).

(参考資料)  白山(石川、福井、岐阜、富山、google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E7%99%BD%E5%B1%B1&um=1&ie=UTF-8&source=univ&ei=AwB5TM6iF8XQcf-KiYkG&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=4&ved=0CDMQsAQwAw

 富士山(静岡、google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B1%B1&um=1&ie=UTF-8&source=univ&ei=0P54TMreKozvcOit1e4F&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=5&ved=0CDgQsAQwBA

 立山(富山、google画像):  http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E7%AB%8B%E5%B1%B1&um=1&ie=UTF-8&source=univ&ei=I5x5TMLCH8yqcfKb-OYF&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=4&ved=0CDgQsAQwAw

 玉山(新高山とも、台湾、google画像):http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E7%8E%89%E5%B1%B1%EF%BC%88%E5%8F%B0%E6%B9%BE%EF%BC%89&lr=&um=1&ie=UTF-8&source=univ&ei=LKp4TPjiJMKrcdbk3fkF&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=4&ved=0CCYQsAQwAw

 信貴山縁起絵巻(朝護孫子寺所蔵、奈良、google画像):http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E4%BF%A1%E8%B2%B4%E5%B1%B1%E7%B8%81%E8%B5%B7%E7%B5%B5%E5%B7%BB&um=1&ie=UTF-8&source=univ&ei=zgB5TMe7BsaPcNq9zN8F&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=1&ved=0CBgQsAQwAA

(追加説明) 信貴山縁起(しぎさんえんぎ)は、奈良県朝護孫子寺に伝わる平安末期の絵巻(3巻)です。作者は鳥羽僧正と伝えられるが明らかではありません。醍醐天皇のころ大和の信貴山に住んだ僧、命蓮(みょうれん)の法力譚(ほうりきたん)や、姉との再会譚を描いたもので、上巻「飛倉(とびくら)の巻」、中巻「延喜加持(えんぎかじ)の巻」、下巻「尼公(あまぎみ)の巻」などがあります。

 飛倉の巻では、長者に懇願されて、倉の米を返す命蓮(第9紙~第10紙)、延喜加持の巻では、空を駆ける剣の護法童子(第17紙~第19紙)、尼公の巻では、尼公が東大寺を訪れ、大仏の前で尼公が祈り、まどろみ、目覚めて旅立つまでが連続して描かれています(第14紙~第15紙)。

 柔軟な描線を駆使し、多くの人物の変化に富んだ姿態や表情を躍動的に描く一方、色彩を細心に効果的に使う手腕は大和絵技法を代表するものです。

 作者は、仏教的環境ともつながりが深いが、むしろ宮廷文化のうちにあるらしく、この絵巻も寺縁起としてより、むしろ説話的な興味のうちに作られたと思われます。庶民生活の鋭い観察とユーモラスな描写態度には、文化的な過渡期である当時の空気が反映しています。(下中邦彦編:小百科事典、平凡社(1973); 週刊朝日百科: 国宝の美 31、絵画9 説話・縁起絵巻、朝護孫子寺 信貴山縁起絵巻、朝日新聞出版(2010)、より)

 富士山世界文化遺産(2013年(平成25年)6月22日登録、山梨県事務局、静岡県事務局): http://www.fujisan-3776.jp/

2010年8月26日 (木)

五山の送り火(京都)にまつわる歴史伝承、大文字(右大文字)、妙法、船形、左大文字、鳥居形、とは(2010.8.16)

   京都の五山の送り火とは、8月16日、午後8時、京都市東山(左京区)の銀閣寺の裏山近く、如意ヶ嶽(通称、大文字山)の点火で始まる盆の行事で、別名、大文字焼とも言われています。山の中腹部に、「大」の字の形に火床を75ヶ所設け、この火床は松の割木を組んであります。空海弘法大師、774~835)が始められたと言われ、現在も山上の弘法大師堂で読経をあげてから、午後8時頃、いっせいに点火されます。

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大文字の送り火如意ヶ岳(通称大文字山)、2008年8月16日(土)、共同通信社、東山、京都、 google画像)

(解説) 銀閣寺の裏山近く、如意ヶ岳(通称大文字山)の「大」の字の横の一画は80m、左の一画が、160m、右の一画が120mという壮大なもので、多くの見物人が賀茂(鴨)の河原に集まり見物します。

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五山送り火の方角と位置右大文字、妙法、船形、左大文字、鳥居形京都、google画像)

(解説) 京都の市中を取り囲み、東方(銀閣寺近く、如意ヶ嶽の大、右大文字、午後8時、最初の点火)から北方(松ヶ崎西山・万灯籠山の妙、松ヶ崎東山・大黒天山の法、西賀茂妙見山の船形)、西方(金閣寺近く、大北山の大、左大文字、曼荼羅山・上嵯峨水尾山の鳥居形)へと順次点火され、市内を見下ろす5つの山に赤々と浮かぶ送り火は、盆の精霊を彼岸(冥府)に送るために火を焚(た)くことから、五山の送り火とも呼ばれています。(京都五山送り火連合会: http://www.gozan-okuribi.com/#mokuji.) 

 「妙法」の字については、「妙」は鎌倉時代初期日像(にちぞう、1269~1342)上人が妙の字を書き、点火したのが始まりとされ、また、「法」は江戸時代初期に始まったとされています。「妙」は最長約100m、「法」は最長約70mです。「船形」の字については、円仁慈覚大師、794~864)が唐から、暴風雨をついて無事帰国できたことに因み、その船をかたどって送り火を始めたと言う。その幅は200m、縦は130mです。左大文字の「大」については、京都御所より見て左にあるため、この名があります。「大」の字の筆順通りに、点火されます。その一画は48m、二画は68m、三画は59mです。「鳥居形」の字については、弘法大師が石仏1000体を刻み、その開眼供養の時の点火が起源と言う。他の送り火のように、あらかじめ薪を井桁に組まず、会員が松明(たいまつ)をかついで走るため、「火が走る」ように見える勇壮な送り火です、その幅は72m、縦76mです。 

 その起源については、まだはっきり分かっていません。平安初期、大文字山麓(だいもんじさんろく)の寺の大火で阿弥陀仏(あみだぶつ)が飛翔(ひしょう)した空に光明を放ったことから、弘法大師(空海)がそれを模倣し火を用いる儀式として行ったという弘法大師説があります。

 また、室町時代、京都やその近郷で、盆の行事として万灯会(まんとうえ)が行われていましたが、この行事が戦国期の頃から徐々に大型化し、時には2間もの灯籠が作られるようになってきて、これを大規模化したのが五山の送り火だと言われています。文献的には、江戸時代、1603年(慶長8年)、すでに山々に点火される送り火の行事が、当時の公家の日記に見られることから、16世紀の後半には、京都の年中行事として始まっていたことが分かります。

 送り火の「大」の字について、江戸時代、寛永の三筆の一人、近衛信尹の筆になるとする説が、江戸時代からありますが、これについても現在のところ、確証が得られていません。大は人間をあらわし、人間にひそむ75法という煩悩を焼きつくすと言う。 

 五山の送り火は、現在では、去りゆく京都の夏の夜を幽玄(ゆうげん)に彩(いろど)る風物詩となっており、葵祭(あおいまつり、公家の祭り、5月15日)、祇園祭(ぎおんまつり、町衆の祭り、7月17日、24日)、時代祭(じだいまつり、市民の祭り、10月22日)と共に、京都の代表的な観光行事として宣伝されています。

 私は、1968年(昭和43年)8月16日、京都大学理学部化学教室(吉田、左京区)の屋上で、親友(下出敏幸、村上勇一郎 両君)と3人で眺めたことがあります。銀閣寺裏の暗い夜空に大きく燃え上がった大文字山の迫力ある「大」の字の送り火が、今も強く印象に残っています。 

(参考文献) 山本四郎: 京都府の歴史散歩(上)、山川出版社(1990); 樋口清之(監修): 生活歳時記、三宝出版(1994); 歴史探訪研究会編: 歴史地図本、知って訪ねる、京都、大和書房(2008).

(参考資料) 五山の送り火(京都市観光協会、京都): http://www.kyokanko.or.jp/3dai/daimonji.html; 五山の送り火(2010年の送り火、京都新聞社、京都): http://www.kyoto-np.co.jp/kp/koto/gozan/

2010年8月23日 (月)

自然と人間との共生、にほんの里100選、町野町金蔵(能登、石川)、糺の森(鎮守の森、京都)、自然界での植物群落遷移、石川の自然環境、里山の再生、自然農法、世界農業遺産国際会議、とは(2010.8.23)

   日本人が育んできた里山の価値を見直す機運が、高まってきています。 2010年(平成22年)10月、名古屋市で開かれる、生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)で、議長国となる日本政府は、「自然共生社会のモデル」として、里山の伝統と知恵を国内外にアピールしていく方針です。同条約の目的の1つは、「生物多様性の持続可能な利用」で、自然を破壊し尽くすことなく、その恵みをいかに末永く利用していくか、という。

○ 里山

 里山は、人間の手の入っていない森林を徐々に人が利用しやすい形に変えていった自然で、人里に接した山です。一般に、里山は、奥山(原生林地域、極相林地域)と人里(二次林地域、人間の居住地域)の中間にあり、農業、林業など集落の営みと、周辺の自然が一帯となっている地域のことです。

 里山は、薪(まき)などの燃料として樹木が伐採され、森に光が差し込み、草原は牧草地や茅場(かやば)として利用されることで、その姿を維持してきました。そして、稲作と畑作、果樹、薪と炭焼き(燃料)、シイタケ栽培、タケノコ狩り、草原(牧草と牧畜、茅場)など、自然の中での人の営みが行われ、また、その自然環境に適応できる多くの昆虫や動植物も共存していました。 

 日本の国土の約4割、石川県の約6割、能登のほぼ全域が里山に位置していますが、現在では、過疎化、高齢化による限界集落も多くなっています。 そして、里山の担い手が少なくなり、放置されると、自然は人の住めない奥山(極相)に向かって変化し、そこにいた生物は生きていけなくなり、変わりゆく自然環境に適応できる生物へと変化していきます。

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にほんの里100選マップ(懐かしい風景、誇るべき暮らしの文化など残している地域、google画像)  にほんの里100選(朝日新聞社、森林文化協会、東京): http://www.sato100.com/?page_id=414

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町野町金蔵(日本の里100選(33番)、能登の山村の隠れ里、ゆるやかに棚田が広がる約160人の集落に五つの寺がある。寺での喫茶店、ブランド米や酒づくりなど住民の地域おこしも盛ん。輪島、能登、石川、google画像)

(解説) 現在、里山の再生をめざす取り組みが各地で動き出しています。地域住民に加え、市民団体や企業が連係し、荒れた森や耕作放棄地の整備などに乗り出しているところもあります。「日本の里100選」に選ばれた里には、その先進地も少なくないようです。(日本の里100選(朝日新聞朝刊130周年、森林文化協会創立30周年記念): http://www.sato100.com/news/100/index4.html.)

 ところで、環境が破壊された地域では、例えば、「人間が住まない」と、その地域(原発事故のチェルノブイリ、水爆実験のビキニ環礁、足尾銅山の鉱毒を埋めた渡良瀬遊水池など)は、信じがたいほど多種多様な生物の住処(すみか)となり、本物の自然の状態となり、以前よりはるかに生物の多様性が見られ、豊かになっている、という。(高橋敬一(1956~ ): 「自然との共生」というウソ、祥伝社新書(2009)、より)

○ 鎮守の森

 鎮守の森は、自然と人間の共生の場でもあります。博物学者の南方熊樟(1867~1741、生物学、民俗学)が強調しているように、鎮守の森は、住民共同体の自治の場で、神の水を共に味わって心を同じくする「一味同心」の集合の場でした。また、貴重な動植物が生きている景勝の地であり、歴史と伝統が息づく聖域でした。

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糺の森(ただすのもり、下鴨神社、左京区、京都、google画像) (関西一円の観光地案内より)

(解説) 上述のような思想を受け継ぎ、鎮守の森の保全と活用は21世紀の重要な課題ということで、2002年(平成14年)5月26日(日)に、学際の「社叢学会(しゃそうがっかい)」が京都の賀茂御祖(下鴨)神社の糺すの森(ただすのもり)研修道場で上田正昭氏(1927~ 、京都大学名誉教授、歴史学、小幡神社宮司)が初代理事長となって設立されました。社叢は神々の森、すなわち鎮守の森のことで、神社には必ず社叢があり、少なくともその名残の樹林が見られます。(社叢学会(NPO法人、ホームページ): http://shasou.org/糺の森(関西一円の観光案内): http://www.my-experience.net/2007/03/post_16.php.)

 この糺の森の下鴨神社には、これまでに数回訪れたことがあります。鎌倉時代、その摂社、河合神社の神官の子に生まれ、禰宜(ねぎ)を務めた父の死後、不遇のうちに出家したのが、方丈記で有名な鴨長明(1155?~1216)です。南の端の境内には、鴨長明が隠遁生活を送ったと言われる小屋、方丈(1丈4方、約5畳半)が復元、展示されています。(鴨長明と河合神社: http://www.hi-ho.ne.jp/kyoto/kawai.html.)

 昔から日本の人々は新しい集落には必ず「土地本来のふるさとの木による、ふるさとの森」をつくってきた、という。おろか者に破壊させないために、神社や寺をつくり、この森を切ったら罰があたる、というふうに守ってきた。それらの森は、地震、台風、火事などの災害の時には逃げ場所になった。ふるさとの木は自然が管理するが、そうでない木は管理に大きな労力と経費を要する、という。(1993年、4月30日、朝日新聞、天声人語、国際生態学センター研究所長、宮脇昭氏(1928~ )、都市の植生のゆくえ、より) 

○ 自然界での植物遷移(サクセション、ブナ林、極相)

 FE.クレメンツ(1874~1945、アメリカ)は、野外調査を重視し、農耕地、草原や森林が常に同じ状態ではなく、長い年月の間に、植生自身の内部的要因によって次第に変化し、最後には、その土地の気候に最も適合したタイプの植生になって安定化するという植物遷移説(Succession theory、サクセション説)を提唱しました。

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自然界での植物遷移(サクセション、植物群落の遷移図、浜島書店、より)

(解説) 一般的な植物群落の遷移においては、まず栄養の乏しい土地には、先駆植物として地衣類(チズゴケ、ハナゴケなど)やコケ植物(スナゴケなど)が一面に繁茂し、枯死により土地が肥えると、シダ植物などの時代に移ります。さらに土地が肥えると、光を好む一年生の草(イタドリ、ススキ、ヨモギ、クズなど)や多年生の草(ササなど)のソデ群落に移ります。

 さらに土地が肥えると、低木類の陽樹(リョウブ、ウツギ、アカマツなど)のマント群落に移ります。その日陰に高木の陰樹(アラカシ、モミ、ブナなど)が生え、陰樹が生長して陽樹を追いやり、それぞれの段階で数十年から数百年を経て遷移が進み、最後に植物相が安定した極相林(きょくそうりん、クライマックス)となります。

ブナ林白山釈迦岳中腹、2008年6月21日、kimura氏撮影、google画像) (白山自然態系ー白山の写真と話題: http://hakusan.2702.jp/archives/2008/06/post_217.html. )

(解説) ブナは、天を仰ぐように枝を広げ、すべての葉と枝で雨水を受け止め、幹に伝えて根元に集め、地表の堆積物と土壌に広く深く浸透させて貯留し、その結果、ブナ林は天然のダムとなります。そして、命の水を湧き出させ、豊穣な森の恵みを与えてくれますし、また、鉄砲水や地滑りも防いでくれます。

 ブナの森の床を歩くと、フカフカしたスポンジのようです。そのスポンジは、雪や雨の水をたっぷりと抱え込む「緑のダム」です。ブナの森の土壌は、分厚いろ過装置となって、透明無垢(とうめいむく)な水を生み出します。ブナの寿命は約300年と言われています。

○ 石川県の植生(石川の自然環境)

 石川県の降水のもとになる積雪は、白山山系の豪雪地域から日本海の能登地域に向かって減少しています。この雪はやがて清らかな水に変わり、郷土の豊かな自然を生み出す源(みなもと)になります。また、その気候が、石川県の植生と分布を大きく特徴づけ、白山山系を中心とした大規模なブナ林を発達させています(極相林)。

 県民の大部分が生活している地域は、ふるさとの木(タブノキ、スダジイ、ウラジロガシ、ヤブツバキなど)のように、葉の表面にクチクラが発達し、光沢のある葉を持つ常緑広葉樹の照葉樹林帯です。が、人間活動の影響を受けて変化し、また変化させられて、二次林のコナラ、スギ、アカマツなどの植林地域、田畑の耕作地域、市街地域からなる人里となっています。

(参考文献) 浜島書店編集部: 増補最新図表生物、浜島書店(1995); 自然人編(代表、矢島孝昭): 自然人、橋本確文堂、No.4、Autumn(1998年、10月1日); 高橋敬一: 「自然との共生」というウソ、祥伝社新書(2009).

(追加説明) ○ 里山の再生

 典型的な里山には、集落の周りに農地(田畑、棚田)やため池、二次林(コナラ、クヌギ)、草原(牧草、カヤ、ススキ、ササ)などが混在しています。弥生時代、農耕の始まりと共に、3千年もの間、人間が手を加えながら維持してきました。こうした里山は、国土の4割を占めますが、多くは荒廃し復元は難しいとされています。

 里山は、農林業の舞台のほか、祭りや文化を育んできました。動植物の宝庫でもあります。が、戦後の燃料革命(石炭、石油、ガスなど)で、雑木林を伐採して得た山の資源(薪、木炭)が使われなくなり、大きくなった木々で林は暗くなり、ササは伸び放題となり、また、高齢化や減反により、荒れた休耕田(耕作放棄)が増えました。

 これには、1970年代の土地改良、農薬、化学肥料の普及、木材、食料、石油の輸入など、農林業、生活スタイルの変化が大きな要因となっています。

 ということで、里山でしか生きられないコウノトリやトキ、ツシマヤマネコの希少種を里山再生のシンボルにする地域が多いです。例えば、農薬、化学肥料を使わず、冬も水を張っておき、フナやドジョウが息づき、コウノトリなど野鳥がエサを求めて羽根を休める田んぼを少しずつ増やす、「コウノトリを呼び戻す農法」は、豊岡市(コウノトリの郷公園、兵庫)、越前市(白山、坂口地区の丘陵地、福井)で見られます。里山再生は、環境教育にも活用され、また特産品作り(有機米)や町おこし(コウノトリの郷)にもつながっています。

 が、都市民を呼ぶシンボルもなく、過疎地が深刻な中山間地域では、里山再生は困難です。今年の3月に策定した生物多様性国家戦略では「すべて維持は現実的でない」とし、残すべき地域を選び、あとは地域特有の自然にゆだねた林に戻す(自然界の植物遷移にまかす!)方策の検討を指摘しました。

 環境省の里地里山保全・活用検討会議委員の進士五十八(しんじいそや、1944~ )東京農業大名誉教授は「里山の問題は、国土のデザインの問題。日本の農林業をどうしたいのか、国を挙げて取り組む姿勢が必要だ」と話しています。(2010年(平成22年)8月23日(月)、朝日新聞朝刊、いきもの地球号、里山の再生、より

  帰化植物の害  郊外電車の線路脇、空地、荒地などにわがもの顔に生い茂っている雑草のうち、9割程度は外来種の植物だと言われています。北米原産のブタクサ、セイタカアワダチソウ、オオブタクサなどの花粉は、やっかいな花粉病を起こします。また、田畑をおびやかす帰化植物もあります。オオイヌノフグリ、ハルジョオン、ムラサキカタバミなどで、田畑に進入して雑草となり、除草が難しくなります。家畜が食べると中毒を起す雑草もあります。ドクニンジン、ドクゼリモドキなどです。その他、田のあぜなどに見かける植物、タンポポのほとんどは外来種で、日本種はごくまれにしか見られないという。(樋口清之(監修): 生活歳時記、p.519、帰化植物の害、三宝出版(1994)より)

  棚田(たなだ)ネットワーク(ホームページ、棚田オーナー制度含む、NPO法人): http://www.tanada.or.jp/. 農林水産省の2009年(平成21年)度の資料によると、全国の棚田は計約16万ヘクタールで、全国の水田の6%ほど、国が棚田農家を助成する制度で耕作放棄はある程度食い止められているが、後継者不足は深刻という。(朝日新聞、いきものとくらし、治水・命の宝庫・安らぎ、棚田の包容力守り続けたい、2010年(平成22年)10月27日(水)、朝刊、より)

 季節の味覚として、魚類野菜には、いわゆる(しゅん)という、食べ頃の時期があるという。野菜では、温室栽培、水耕栽培などが盛んになり、キューリ、トマト、ナス、ピーマン、カボチャ、イチゴなど、また、魚類では、養殖業が盛んとなり、カキ、ホタテガイ、ブリ、マダイ、フグ、ワカメ、ノリ(海水)、アユ、エビ、ウナギ(淡水)などが季節に関係なく食べられるとなると、そのものの本来の味が失われるという。

○ 自然農法

 里山の再生、保全を目的とした自然農法(化学肥料、農薬、除草剤などを使わず、 マメ科植物、ミミズ、天敵などを使って栽培する)に関しては、里山自然農法協会(一般社団法人、大坂):http://satoyama-shizen.or.jp/ 、トキのふるさと里山自然農法(輪島、石川): http://www.mannmaru.jp/index.html.のほか、日本各地で多くの就農者がおられるようです。

 自然農法家、福岡正信氏(1913~2008)には、 世界各国の言語(英語、韓国語、タイ語など)で翻訳された「自然農法・わら一本の革命」の著書があります。伊予市(愛媛)の故郷で、20代より、田畑とミカン山(5反、50アール、50×100ヘイホーメートル)で、自然の力にゆだねる、土を耕さず、無肥料、無農薬、無除草で米や野菜、果樹などを作る、「自然農法」を提唱し、実践しました。

 その手法として、田植えをせず、種籾(たねもみ)をじかに地面にまいて米を作り、刈り取る前に麦をまく「不耕起直撒(ちょくはん)」の米麦連続栽培を考案しました。また、下草刈りの手間を省くために、緑肥となるクローバーをまきました。ミカン山では、木の根元に下草を生やして栽培しました。

 また、地球規模の環境破壊に危機感を抱き、樹木や果樹などの約100種の植物の種子を粘土で固めた特製の「粘土団子」を使って、アジアやアフリカの砂漠緑化にもかかわり、それらの成果が評価され、1988年(昭和63年)に「アジアのノーベル賞」と言われるフィリピンのマグサイサイ賞を受賞しました。

 2008年8月16日、老衰で亡くなられました。享年95歳。「一生、自然を追い求めて、死を意識しながら死んでいった。自分の人生を貫いたような気がする」。長男の雅人さん(65)は語った。(2008年(平成20年)10月19日(土)、朝日新聞朝刊、自然農法家、福岡正信さん、自然の力 生涯追い求め、より)

 福岡正信の自然農法と茅茫庵(西山敬三氏、体験談): http://www.netwave.or.jp/~n-keizo/fukuoka1.htm.

 私は、福岡正信氏の自然農法に関する著書を数冊読み、実状が知りたくて、1987年(昭和62年)8月14日、1999年(平成11年)8月16日、弟(最初は悟、光男と3人で、のち悟と2人で)とマイカーで福岡氏の田畑と山の果樹園(伊予、愛媛)を見学に訪れたことがあります。福岡氏はご不在のようで、農地と果樹園は推測ですが、放耕地でよく見られるセイタカアワダチソウ(耕作地を水浸しにすれば発芽しないという?)のような背丈の大きな草はなく、いろんな小さな草が繁茂していたのを覚えています。私の郷里のセイタカアワダチソウが繁茂している自宅の畑(引野、上板、德島)は、水浸しにもできず、抜き取るしかないように思いました。

○ かかし案山子)は、竹や藁(わら)などで人の形を造り、田畑にたてて、鳥獣がよるのをおどしふせぐもの。とりおどし。(広辞苑より)

○ 世界農業遺産国際会議(開催結果、2013年(平成25年)5月29日~6月1日、石川県七尾市):  http://www.pref.ishikawa.jp/satoyama/noto-giahs/forum.html

 

2010年8月18日 (水)

古代から中世の朝鮮半島情勢(日本と朝鮮、中国との戦い、亡命)、白村江の戦い、蒙古襲来、秀吉の朝鮮征伐(名護屋城趾、佐賀)、渡来人文化、とは(2010.8.18)

   日本と朝鮮半島とのつながりは、原始弥生(やよい)時代にまでさかのぼります。中国の歴史書に、日本に関する記述が初めて登場するのは「漢書(かんじょ)」地理誌ですが、そこには紀元前100年頃の日本が(わ)と呼ばれ、百余国ほどの小国に分裂、これらの小国邪馬台国(やまたいこく)が、朝鮮半島におけるの拠点、楽浪郡(らくろうぐん)や帯方郡(たいほうぐん)を通じて、中国の王朝朝貢していたことが記述されています。

○ 古代、白村江の戦い(663年、古墳・飛鳥時代)

 古代古墳(こふん)時代、3世紀後半、大和地方(やまとちほう、奈良)には、特に巨大な古墳が築かれていることから、ヤマト政権(広域に支配力を及ぼす統一政権)が成立していたと考えられています。その後、5世紀後半から6世紀にかけ、朝鮮半島では、高句麗(こうくり)の勢力を逃れ百済(くだら)や伽耶諸国(かやしょこく)から多くの人倭国(日本)に渡来(亡命!)しました。彼らは、養蚕(ようさん)、機織り(はたおり)、製陶(せいとう)、建築、中国文化など、最新の技術と知識をもたらしました。専門職業団「品部(しなべ)」として、ヤマト政権の発展を支えました。

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白村江の戦い(はくそんこうのたたかい、663年、百済での唐(中国)・新羅連合軍と倭(日本)・百済連合軍の戦いの進路、google画像) 

(解説) 古墳から飛鳥(あすか)時代中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、第38代天智天皇、626~672)が、国政改革を進めていた頃、朝鮮半島では、5世紀末以来続いた高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)、百済(くだら)の三国時代が終わりを迎えていました。660年、中国の新羅と連合して百済を攻め滅ぼしました。 その後、百済復興軍が唐・新羅連合軍と戦っていました。そして、百済の遺臣から援軍を求められた中大兄皇子は、このままでは唐の圧力が国内にまで及ぶと判断し、百済復興への助力を決意し、大軍派遣を決定しました。

 日本の倭軍2万7000人は、663年、3回に分けて九州から朝鮮半島に出兵、3軍編成をとり4度攻撃しました。そして、百済復興軍は、日本の援軍により、百済南部に進入した新羅軍を一度は駆逐(くちく)しました。しかし、中国の唐が水軍7000人を新羅に増援し、唐(中国)・新羅(朝鮮)連合軍が水陸併進したため、倭(日本)・百済(朝鮮)連合軍は、火計、干潮の時間差などより大敗しました。これを白村江の戦い(はくそんこうのたたかい、はくすきのえのたたかいとも)と言う。

 中国の歴史書は、「わが軍は倭と4回戦って、いずれも勝った。そして、倭の船400艘(そう)を焼いた。煙は天を覆い、海水は赤く血で染まった」と激戦の様子を伝えています。

 その後、中大兄皇子は、唐・新羅の報復と侵攻に備え、亡命・帰化した百済人の技術を用いて、北九州の太宰府(だざいふ)に水城(みずき)と呼ばれる防御施設や、西日本各地に大野城(おおのじょう)をはじめとする朝鮮式山城を築きました。筑紫(つくし)、壱岐(いき)、対馬(つしま)には、主に東国の農民を徴収して、約3000人の防人(さきもり)を配備しました。一方、唐・新羅連合軍は、668年、高句麗も滅ぼしましたが、その後は唐と新羅が対立関係となり、676年、新羅が朝鮮半島を統一しました。

 飛鳥(あすか)とは、鳥が飛ぶこと(朝鮮半島の百済人が日本に渡来(亡命!)して来たこと)、渡来人よる文化が日本に伝わったことを意味しています。

 奈良時代末、光仁天皇(こうにんてんのう、第49代、709~782)と渡来系高野新傘(たかのにいがさ、720?~790)の間の子として生まれた桓武天皇(かんむてんのう、第50代、737~806)により、平城京(奈良)から、784年、長岡京(山背国長岡村)を経て、794年、平安京(京都)への遷都につながっています。

 そして、都の造営に、山背国(やましろのくに、のち山城国、京都府中部・南部)を拠点に活躍したのが、新羅系の(はた)氏です。秦氏は、5世紀後半に日本に渡来(ヤマト王権の拡大期に朝鮮半島から大規模な渡来があったと言う)、鋳工(ちゅうこう)や木工などの技術者を擁(よう)し、鉱山の開発や潅漑、土木などで活躍し、また、平安京の造営にも大きな力を発揮したと言う。右京区にある太秦(ウズマサ)の地名はその名残です。ウズマサは、朝鮮半島の地名で、秦(ハダ)氏の本家筋(ウズマサ氏)の出身地らしいとのことです。

 京都の四条大宮から京福電鉄嵐山線で嵐山へ行く途中、太秦(うずまさ、右京区)の近くには、京都で最古の秦氏氏寺、広隆寺があります。ここの国宝第1号、弥勒菩薩像は、渡来仏と言われています。また、私は、1986年(昭和61年)6月14日、この近くの東映太秦映画村を訪れたことがあります。また、この近くの電車駅の名が、秦氏とつながりのあると思われる、蚕の社(かいこのやしろ)、帷子ノ辻(かたびらのつじ)、車折(くりまざき)など、何ともゆかしい名前であったのが印象に残っています。

 また、平安時代、天台宗の祖師、伝教大師最澄(さいちょう、766?~822)は、近江国滋賀郡古市郷(大津、滋賀)で渡来系の三津首百枝(みつのおびとももえ)の子として生まれ、一方、真言宗の祖師、弘法大師空海(くうかい、774~835)は、讃岐国多度郡屏風ヶ浦(善通寺、香川)で豪族、佐伯直田公(さえきあたいたぎみ、生没未詳)と渡来系、阿刀(あと)氏族の母(阿古屋)との間で生まれ(3男)、二人とも渡来人の血を受け継いでいます。

○ 中世、蒙古襲来(1274~1281年、元寇、文永の役・弘安の役、鎌倉時代)

 中世、鎌倉(かまくら)時代、北条氏が鎌倉幕府の実権を掌握しつつある頃、ユーラシア大陸では、誕生して間もないモンゴル帝国が、周辺の国への侵攻を開始していました。モンゴル帝国の始祖、チンギスハン(1162?~1227)は、1206年にモンゴル高原を統一し、1219年には西方への大遠征を行って、獲得した領土を子や弟らに分け与えました。第5代フビライ(1215~1294)の時に、国号を「」としました。

 フビライは、朝鮮半島の高麗(こうらい)を武力で服従させたほか、1276年には南宋(なんそう)を滅ぼして中国全土を征服し、世界最大の帝国を築き上げました。しかし、日本への遠征は激しい抵抗にあい、大きな成果を上げられませんでした。その後、高麗は、の日本遠征の前線基地となりました。

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文永の役(ぶんえいのえき、1274年、元軍の進路、元・高麗軍約3万人が博多湾から上陸、博多、福岡、google画像)

(解説) 執権北条時宗(ほうじょうときむね、第8代、1251~1284)は、による服従の要求の勧告を強硬に断りました。そこで、1274年、高麗軍を含む元軍約3万人が、対馬、続いて壱岐に上陸、守備兵を全滅させ、九州北部に襲来、元軍の集団戦法や火器(「てっぽう」)に、一騎打ち戦法をとる日本軍は苦しめられました。しかし、元軍は暴風雨(神風!)により退却を余儀なくされました。これを文永の役(ぶんえいのえき)と言う。以後、幕府は異国警固番役(いこくけいごばんやく)の強化防塁(石垣)の構築などにより、2度目の襲撃に備えました。

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弘安の役(こうあんのえき、1281年、元軍の進路、東路軍約4万2000人が志賀島に上陸、博多、福岡、google画像)

(解説) 1281年、元軍は総勢14万で日本に再び襲来、約4万2000人の東路軍が志賀島に上陸しますが、水際で奮戦する日本軍により、海上に追い返されました。そして、鷹島で東路軍と約10万人の江南軍は合流し、立て直しを図りますが、またもや台風(神風!)に直面し、壊滅的な打撃を受けました。これを弘安の役(こうあんのえき)と言う。

 福岡市博多区東公園には、1904年(明治37年)に建てられた日蓮上人(1222~1282)の銅像があります。日蓮上人は、1260年(文応元年)に「立正安国論」を書き、いち早くの襲来を予言して、当時の執権、北条時頼に警告しました。日蓮上人の銅像は、高さ11.55m、重さ75トン、8角形の台座には、「立正安国論」の文字と聖人の一代記が描かれています。近くに元寇資料館もあり、私は、1994年(平成6年)10月12日、ここを訪れたことがあり、この大きな銅造と元の襲来に備えた史跡に強い印象を受けたことを覚えています。

蒙古襲来(元寇、旅する長崎学): http://tabinaga.jp/area/m_takashima_next.php

○ 近世、豊臣秀吉の朝鮮征伐(1592~1598年、文禄の役・慶長の役(壬辰・丁酉の倭乱)、安土・桃山時代)

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文禄の役(ぶんろくのえき、1597年、赤線は日本軍の進路、朝鮮半島、google画像)

(解説) 近世、安土・桃山(あづちももやま)時代、日本を統一した豊臣秀吉(とよとみひでよし、1537~1598)は、かねて計画していた中国の明(みん)征服をもくろみ、対馬(つしま)の(そう)氏を通じて、朝鮮に服従を命じました。しかし、朝鮮がこれを拒絶すると、1592年3月、肥前(佐賀県)の名護屋城(なごやじょう)に本陣を置き、朝鮮へ15万の大軍を送り込み、4月、釜山に上陸した日本軍は、朝鮮軍の防備の手薄な釜山城を1日で陥落させました。これを文禄の役(ぶんろくのえき)と言う。

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名護屋城趾(なごやじょうし、朝鮮出兵の日本軍の本陣、唐津市、肥前、佐賀県、google画像)

(解説) 加賀藩前田利家(初代、1537~1599)と子の利長(第2代、1562~1614)は、1592年2月早々、約1万人の軍勢を率いて金沢を出発し、秀吉の先鋒として3月に京都をたち、4月下旬には名護屋(肥前、佐賀)に到着しています。この時の陣立ては、一番利家、二番家康、三番伊達、四番佐竹でした。秀吉は、利家・家康らを率いて自ら渡海しようと考えていましたが、利家が家康と共に必死に諫めたので、秀吉の渡海は延期されました。

 その後、利家と家康は、名護屋城で秀吉に近侍しました。1592年7月、母大政所の死去で、大坂に帰った秀吉の留守中、利家は家康と共に、名護屋城を守り、9月には秀吉の名代として渡海を命じられていますが、日明講和が始まり、出陣は延期となっています。この名護屋滞在中に利家に仕えたチヨ(寿福院、1570~1631)との間で生まれた男子が、後の加賀藩主(第3代、1594~1658)、前田利常です。

 日本軍は、戦備の整っていない朝鮮軍を相手に連戦連勝し、1952年5月、首都漢城(かんじょう)を占領、朝鮮国王は漢城を脱出して平壌(へいじょう)に逃れました。この知らせ聞いた秀吉は、後陽成天皇(ごようぜいてんのう、第107代、1571~1617)を北京(ペキン)に移し、養子の秀次(ひでつぐ)を明の関白(かんぱく)にして、自分は寧波(ニンポー)で中華皇帝になるという妄想をいだいていました。

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慶長の役(けいちょうのえき、1597~1598年、赤線は日本軍の進路、朝鮮半島、google画像)

(解説) 日本軍は、1592年6月、小西行長(こにしゆきなが、1555?~1600)、黒田長政(くろだながまさ、1568~1623)らが平壌を陥落させ、7月、加藤清正(かとうきよまさ、1562~1611)らは会寧(かいねい)に進み、朝鮮皇子2人を捕らえ、さらに領にまで侵攻しました。

 しかし、日本軍の快進撃はここまでで、明の援軍に加え、各地で抗日義兵が蜂起(ほうき)し、朝鮮の将軍、李舜臣(りしゅんしん、1545~1598)の率いる水軍が制海権を握ったため、日本軍は糧道(りょうどう)を断たれて、次第に押されていきました。戦線の膠着(こうちゃく)に小西行長らは、明を通じて講和交渉に入りました。 しかし、条件が折り合わず、1597年2月、秀吉再び14万の大軍を朝鮮に派遣しました。これを慶長の役(けいちょうのえき)と言う。

 1597年7月、元均(げんきん)率いる朝鮮水軍は全滅し、日本軍が制海権を握りましたが、12月、蔚山城に明・朝鮮連合軍が押し寄せ、籠城する加藤清正は、苦戦しました。1598年10月、撤退する日本軍に明の大軍が攻め寄せましたが、島津義弘(しまづ」よしひろ、1535~1619)が寡兵(かへい)で撃退しました。

 この2度目の出兵は、朝鮮半島の南部にとどまり、慶尚道(けいしょうどう)と全羅道(ぜんらどう)の沿岸に城を築いての持久戦となりました。この間、加藤清正(かとうきよまさ)ら武将と石田三成(いしだみつなり、1560~1600)らの官僚との確執が発生し、これが後の豊臣政権の崩壊の一因となりました。1598年8月、秀吉病死すると、日本軍は撤兵しました。文禄・慶長は、韓国では、壬辰(じんしん)・丁酉(ていゆう)の倭乱と呼ばれています。

(参考文献) 図説前田利家編集委員会編: 図説前田利家、北国新聞社(2002); 野島博之(監修): 図解日本史、成美堂出版(2006); 上田正昭(監修)、井上満郎(著): 平安京の風景、文英堂(2006); 歴史探訪研究会編: 歴史地図本、知って訪ねる京都、大和書房(2008).

 

2010年8月14日 (土)

靖国神社(もと東京招魂社)にまつわる歴史伝承、護国神社(もと招魂社)、戦没者(英霊、神兵、軍神!)、A級戦犯の合祀、靖国神社参拝、とは(2010.8.14)

   靖国神社(やすくにじんじゃ、千代田、東京)は、1869年(明治2年)6月、陸軍創立者の大村益次郎(1824~1869年12月)らが戦没者の霊を祀(まつ)るために造った東京招魂社(とうきょうしょうこんしゃ)が前身で、最初の招魂祭は、6月29日に挙行されました。

 1879年(明治12年)に靖国神社に改名し、全国の招魂社(のち護国神社)の中心として、別格官弊社(べっかくかんへいしゃ)に位置づけられました。 戦没者として祀り、霊を慰(なぐさ)めると共に、讃(たた)え、軍国主義の普及に大きな役割を果たしたのではないかと言われています。

 靖国神社には墓地はなく、従って戦死者の遺骨は全く納められていません。戦争で天皇側についた戦死者合祀(ごうし)されることに決まると、その人の名前が「霊じ簿」という帳面に筆書きされます。そして、神社の秋の例大祭の時に「魂を招く」という宗教的な行事を行います。その後、その「霊じ簿」が「奉安殿(ほうあんでん)」という建物に納められると、その人が「靖国神社に神として祀られ合祀された」ということになります。靖国神社例祭は、春4月22日、秋10月18日、ほかに、みたま際(7月13~16日)が行われます。

 太平洋戦争の敗戦直後の1946年(昭和21年)、GHQ(米占領軍)の指令にそって、靖国神社は、国営の別格官弊社から、単立一宗教法人となりましたが、戦没者に対する慰霊、追悼、顕彰中心施設という位置づけは、変わっていないようです。その境内には、戦没者の遺品や兵器などを展示した遊就館もあります。

 私は、1999年(平成11年)8月28日に靖国神社を参拝し、この遊就館も訪れましたが、何とも言えない異様な感じがしたことを覚えています。

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靖国神社(やすくにじんじゃ、九段坂上、千代田、東京、google画像) 靖国神社(明治2年6月、東京招魂社から靖国神社に改称): http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/2009/06/post_83.html

(解説) 靖国神社(やすくにじんじゃ)は、東京都千代田区九段坂上に鎮座、天皇の忠臣を祀(まつ)る旧別格官弊社です。幕末、明治維新の戊辰戦争(明治元年~2年5月)における官軍側の戦没者3588柱及びそれ以降の西南戦争などの内乱や日清戦争から太平洋戦争に至る対外戦争など国事にに殉じた、戦死者約250余万柱を祀っています。明治時代、1869年(明治2年)6月、東京招魂社として創建しました。

 招魂社(しょうこんしゃ)は、元来、幕末から明治維新の戦乱で死者を多く出した各藩が設けた招魂場に由来しています。1875年(明治8年)、政府は招魂社の祭儀を官祭とし、1876年(明治9年)、各地の招魂社に祀られている霊と未祀霊を東京招魂社(のち靖国神社)に合祀(ごうし)することにしました。1939年(昭和14年)、各地の招魂社は護国神社と改称、各府県に1社が設けられました。東京招魂社は、1879年(明治12年)6月、靖国神社に改称されました。

 第2次世界大戦後、靖国神社は、神道指令で国家と分離され、単立宗教法人となりました。しかし、日本遺族会や自民党の一部は、その国家護持をめざし、靖国神社国営化法案は、1969年(昭和44年)から連続5回(佐藤、田中内閣の頃)国会に上程されましたが、1974年(昭和49年)廃案となりました。

 1979年(昭和54年)4月19日(大平内閣の頃)、A級戦犯の靖国神社への合祀が、各新聞により報じられましたが、それは神社側の独断で、ひそかに合祀されてから半年後のことでした。それをスクープしたのは共同通信社の三ヶ野大典記者(編集委員)で、地方新聞など加盟紙は朝刊で報じ、毎日、読売など全国紙は夕刊掲載となりました。

 このスクープは、厚生省詰の経験がある三ヶ野記者が、BC級の合祀(約1000人)が1959年から始まり、1967年までに終わる頃には、A級の合祀が次の課題になると聞き込み、注意を払っていたが、1979年(昭和54年)春、有力情報をつかみ、裏をとろうと4月17日、日本遺族会板垣正事務局長に当たり、また、翌日、靖国神社を訪れ、藤田権宮司に会ってA級戦犯者の合祀のことを聞いたところ、実は昨年10月17日に行ったという答えが返ってきたので、新聞各紙の合祀報道となりました。

 松平宮司は、機会あるごとにA級の合祀に踏み切った理由は、東京裁判を否定することにあったと強調しています。しかし、サンフランシスコ講和条約によって、東京裁判の「判決」を受け入れ、西側陣営の一員として国際社会への復興を許された日本政府にとって、東京裁判を否定することは出来ません。戦犯のA級は戦争指導者、B級は戦争犯罪に対する命令者、C級は虐待(ぎゃくたい)などの実行者で、各地の軍事法廷で裁判が行われました。そして、5700余人が有罪とされ、984人が死刑となりました。

 天皇、首相、閣僚など公職者の靖国神社への参拝は、1951年(昭和26年)10月に吉田首相が、1952年(昭和27年)10月に昭和天皇が参拝したのを最初に恒例化しますが、公私の別などをめぐって絶えず野党やメデイアの批判を受け、参拝は不規則になって行き、昭和天皇(第124代、1901~1989)の参拝は1975年(昭和50年)以降中断しています。

 昭和天皇が亡くなられた直後の1989年(平成元年)1月16日付の朝日新聞に、次のような記事が掲載されています。 亡き陛下は、A級戦犯が合祀された後の靖国神社へは行かれなかった。当時の侍従次長だった徳川義寛参与によると、1978年(昭和53年)秋にひそかに合祀される前、神社側から宮内庁に打診があり、「そんなことをしたら陛下は行かれなくなる」と伝えたと言う。このことから、A級戦犯の合祀は、反対の「御内意」を伝えたにもかかわらず、神社は合祀を強行し、一ヶ月後に合祀名簿を届けてきて、陛下のお手元に上げたことになります。

 A級戦犯

 A級戦犯(えーきゅうせんぱん)とは、第2次世界大戦の敗戦国日本を裁いた極東国際軍事裁判において「平和に対する罪」について有罪判決を受けた戦争犯罪人を指します。起訴された容疑者を含む場合もあります。

 極東国際軍事裁判所条例の第五条の(イ)の以下の定義、「平和ニ対スル罪則チ、宣戦ヲ布告セル又ハ布告セザル侵略戦争、若ハ国際法、条約、協定又ハ誓約ニ違反セル戦争ノ計画、準備、開始、又ハ遂行、若ハ右諸行為ノ何レカヲ達成スル為メノ共通ノ計画、又ハ共同謀議ヘノ参加。」を犯したとして、極東国際軍事裁判によって有罪判決を受け、戦争犯罪人とされた人々を指す。

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殉国七士廟(じゅんこくななしびょう、三ヶ根山の山頂、幡豆、愛知、google画像) 殉国七士廟(ぶらり重兵衞の歴史探訪: http://www.geocities.jp/bane2161/jyunkoku7si.html

(解説) 1946年(昭和21年)4月29日、極東国際軍事裁判A級戦犯として起訴された被告は28名です。その後、1948年(昭和23年)11月12日、被告として判決を受けた者は25名で、そのうち絞首刑(死刑)は、板垣征四郎(陸軍大将)、東條英機(総理大臣)、武藤章(陸軍中将)、木村兵太郎(陸軍大将)、広田弘毅(総理大臣)、土肥原賢二(陸軍大将)、松井石根(陸軍大将)の7名で、1948年(昭和23年)12月23日に刑が執行されました。その後、1956年(昭和31年)、国際的には、サンフランシスコ講和条約第11条の手続きに基づき、関係11ヶ国の同意を得て、A級戦犯者は釈放されました。

 処刑された7人の遺体は、横浜の久保山火葬場で火葬され、遺骨は米軍によって東京湾に捨てられました。しかし、12月25日に、小磯国昭(陸軍大将、総理大臣、終身刑、獄中死)の弁護人だった三文字正平が共同骨捨て場から、7人の混ざった遺灰を秘かに回収し、近くの興禅寺に預けました。そして、1949年(昭和24年)5月、伊豆山中の興亜観音にひそかに葬られました。その後、1960年(昭和35年)8月16日、愛知県幡豆郡幡豆町三ヶ根山の山頂付近に移されました。三ヶ根には殉国七士廟が設けられ、その中の殉国七士遺骨分骨されて安置され現在に至っています。

 1978年(昭和53年)、靖国神社は、絞首刑(死刑)の7名のA級戦犯者に、終身刑の7名のA級戦犯者、梅津美治郎(陸軍大将)、東郷茂徳(大臣)、松岡洋右(大臣、公判中病死)、小磯国昭(総理大臣)、永野修身(海軍大将、獄中死)、白鳥敏夫(大使)、平沼騏一郎(総理大臣)を加えた14名を殉難者として合祀しました。

 日中戦争及び太平洋戦争において大きな犠牲を強いられた国々(主に中国、韓国)の政府と民衆には、靖国神社へのA級戦犯合祀、総理大臣や閣僚の参拝に対する反発が強く、そのような国々と日本の関係を良好に保つためにも、8月15日の終戦記念日での参拝には、相互の国益を含む政治的配慮が必要と思われます。

 また、終戦の日記念して、1963年(昭和38年)から政府主催による「全国戦没者追悼式」が日本武道館で行われています。1937年(昭和12年)の蘆溝橋(ろこうきょう)事件から8年間にわたる大戦によって失われた尊い命は310万柱にも及びます。平和な今日でも、これら犠牲者の遺族には忘れることが出来ない悲しい日です。心から英霊の冥福を祈り、平和の貴重さをいま一度かみしめたいものです。

(参考文献) 樋口清之(監修): 生活歳時記、三宝出版(1994); 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 永原慶二(監修): 日本史事典、岩波書店(1999); 北陸中日新聞朝刊; 中日サンデー版、平和の語り部、戦争遺産、靖国神社、2004年(平成18年)8月15日(日); 秦郁彦: 靖国神社の祭神たち、新潮社(2010).

(参考資料) 靖国神社(ホームページ、千代田、東京): http://www.yasukuni.or.jp/index.html; 遊就館(ホームページ、靖国神社内、東京):  http://www.yasukuni.jp/~yusyukan/.

(追加説明) ○ 千鳥ヶ淵戦没者墓苑(三番町、千代田区、東京)には、大東亜戦争(太平洋戦争!)中、海外戦場で亡くなった戦没軍人及び一般邦人のご遺骨(約35万柱)を埋葬した「無名戦没者の墓」があります。

 この墓苑は、1959年(昭和34年)3月28日に創建されました。2010年(平成22年)5月現在、358,269柱が、六角堂内に安置されています。毎年5月に厚生労働省主催の慰霊行事として拝礼式が、また、年間を通じて各種団体主催の慰霊行事が随時行われています。

千鳥ヶ淵戦没者墓苑(千鳥ヶ淵戦没者墓苑奉仕会、千代田、東京): http://www.boen.or.jp/; 千鳥ヶ淵戦没者墓苑(環境省、千代田、東京): http://www.env.go.jp/garden/chidorigafuchi/

○ 靖国神社では、戦死者たちは神(軍神・神兵)として祀(まつ)られています。靖国の英霊は、神々の軍隊で、日本を護(まも)るため今なお戦うことを強いられているのであって、安らかに眠っているのではありません! 戦没者を慰霊する国の施設があることと、彼らを神として祀(まつ)ることとは、話しが全く違います。(平雅行 大阪大大学院教授: 時代を生きる 法然・親鸞と今、眠り許されぬ戦死者、2011年(平成23年)3月1日(火)、朝日新聞、朝刊より)

○ 靖国神社参拝

 1975年(昭和50年)8月15日 三木武夫首相、「終戦記念日」に現職の首相として戦後初の靖国神社参拝私人の資格)(三木内閣)

 1978年(昭和53年)10月17日 靖国神社が東条英樹、広田弘毅らA級戦犯14人を合祀。(福田内閣)

 1985年(昭和60年)8月15日 中曽根首相、戦後の首相として初の靖国神社公式参拝。18閣僚も同行(中曽根内閣)

 1992年(平成4年) 宮沢首相が参拝

 1996年(平成8年) 橋本首相が参拝

 2001年(平成13年)8月13日 小泉首相が参拝。以後、2006年(平成18年)まで毎年参拝

 2013年(平成25年)12月26日 安倍首相が参拝

戦後史年表 1926ー2006、朝日新聞社(2007)、より)

2010年8月12日 (木)

日本の台湾(清、中国)出兵と日朝修好条規調印、日清戦争と日露戦争、日韓併合と満州国建国、とは(2010.8.12)

  (しん、1636~1912)は、中国史上、最後の統一王朝です。満州の女真族が建国し、3世紀にわたって中国を支配しました。姓は愛新覚羅(アイシンギョロ)、始祖ヌルハチは女真族を統一し、1616年に即位して後金国と称しました。その子の太宗は1636年に清と改称し、順治帝の1644年、明朝の滅亡に乗じて中国に入り、北京(ペキン)に遷都しました。その後、領土は、中国全土から、蒙古、チベット、台湾、新疆(しんきょう)に及び、歴代王朝の中で最大となりました。1911年、辛亥(しんがい)革命の結果、中華民国成立し、1912年宣統帝(清朝第12代、1909~1911)が退位して清朝滅亡しました。

● 明治初期(1871~1876)、日本と台湾(清、中国)及び朝鮮との軍事衝突と講和条約は、以下のような日本による不平等な条約で、その後の中国と朝鮮への侵略の第一歩となりました。

○ 台湾出兵(1871~1874)

 1871年(明治4年)、宮古島(みやこじま)から首里(しゅり)へ向かう琉球(沖縄、日本)の船が難破し、66名が台湾東南岸に漂着し、うち54名が殺害されました(琉球漂流民殺害事件)。清(しん)が先住民を、化外(けがい)の民(王化の及ばないところの住民)として、責任を取らなかったとの理由で、台湾出兵(征台の役)となりました。

 1874年(明治7年)5月、西郷従道(1843~1902)は、政府部内の反対を無視し、独断台湾、中国)に出兵しましたが、の理由は、1871年(明治4年)、琉球の船が台湾に漂着し、乗組員が殺害された事と、1873年(明治6年)には岡山県の船員が、同地で略奪暴行を受けた事によるのですが、そのには、琉球帰属問題、不平士族の不満を外征に向けるといった複雑な問題がからんでいました。

 最初、外務卿副島種臣が征台を計画しましたが、征韓論に敗れ下野したため、大久保利通(1830~1878)が代わって計画を進めました。5月22日、台湾に上陸して占領し、10月に清朝と和議(日清互換条款)を結び、銀50万両を保証金として受け取りました。そして、12月に台湾を撤退しました。このとき、三菱の創設者、岩崎弥太郎(1835~1885)が政府と結び、兵員物資の輸送で巨利を得たこと、また軍人の独断専行は、その後の日本にとって大きな意味を持つ行動でした。

○ 日朝修好条規調印(1875~1876)

 1875年(明治8年)、運艦雲揚が江華島付近の朝鮮領海内で演習、測量中に砲撃を受けるや、これを利用して猛反撃を加えました。いわゆる江華島事件です。この事件を契機に、明治政府は念願であった、朝鮮開国の実現をめざし、全権大使黒田清隆(1840~1900)、井上馨(1836~1915)を派遣しました。

 翌、1876年(明治9年)、日本は朝鮮と日朝修好条規江華条約とも、日本による不平等条約)を調印しました。条約は朝鮮を独立国と認めながら、その実、日本の優位を規定した不平等なもので、朝鮮侵攻の第一歩となりました。

● 日清戦争(1894~1895)は、以下のような交渉決裂による開戦と講和条約(下関条約)による終戦となりました。

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日清戦争と世界情勢(清国と欧米列強の租借地、日本政府はロシアの圧力が直接及ばないように、朝鮮を日本の支配下に置こうとしました、東アジア、google画像) (日清戦争の背景と結末: http://homepage3.nifty.com/asia-kenbunroku/NisshinSenso.htm.)

(解説) 1894年(明治27年)2月、朝鮮で甲午農民戦争が起こると、清は朝鮮政府の要請で出兵しました。日本も居留民保護を名目に大軍を派遣し、鎮圧後も居座り続け、朝鮮の内政改革を迫りましたが、朝鮮と清はこれを拒否しました。

 そこで、日本政府は、同年、7月、日英通商黄海条約を結び、イギリスの支持を取りつけ、武力で朝鮮王宮を占拠し、親日政権を樹立させました。そして、清軍駆逐(くちく)の命令を出させ、豊島沖(ほうとうおき)の清軍を急襲し、日清戦争が始まりました。

 1894年(明治27年)9月、日本と清国の両国艦隊主力の決戦が黄海で行われました(黄海海戦)。清の北洋艦隊は精鋭の5艦を一挙に失い、日本の連合艦隊は無傷でした。ここに日本の制海権が確立しました。

 日本軍は、軍備増強に努めてきていたので、清軍を次々と撃破し、翌年、日本勝利のうちに下関条約が結ばれました。これにより、日本は莫大な賠償金を取り、遼東半島(りょうとうはんとう)や台湾、澎湖(ほうこ)諸島を獲得しました。 日本への賠償金などで首の回らない清に、ドイツ、イギリス、フランス、ロシアなど欧米列強は、大金を貸し付け、その代償として、中国の各地を租借(そしゃく)したほか、鉄道鉱山などの利権を獲得しました。

 また、満州をねらうロシアは、ドイツ、フランスと結んで、遼東半島の返還を迫りました(三国干渉)。日本は、国力不足のため、やむなく要求をのみ、遼東半島を清に返還しました。その後、ロシアは旅順、大連港を租借し、満州の占領にも成功するなど、その南下が急速に進展していきました。そして、このことが、日本国民のロシアへの敵意をあおる結果となりました。

● 日露戦争(1904~1905)は、以下のような交渉決裂による開戦と講和条約(ポースマス条約)による終戦となりました。

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日露戦争と世界情勢(列強諸国の連合軍による清の義和団事件(北清事変)の解決後も、ロシアは軍隊を満州に駐留させ、旅順、大連を租借して防備を固め、また、朝鮮に軍事基地を設けるなど、遼東半島、朝鮮半島への南下を進展させ、領土支配を拡大してきました、東アジア、google画像) 

(解説) 1895年(明治28年)の三国干渉以来、日本ではロシアへの反感が強まり、また満州、朝鮮をめぐって両国の緊張が高まっていました。1902年(明治35年)の日英同盟を後ろ盾に、日本はロシアとの協調を図るのですが、交渉は決裂しました。1904年(明治37年)2月8日、日本海軍の連合艦隊が仁川(じんせん)、旅順(りょじゅん)のロシア艦隊を奇襲攻撃、10日に宣戦布告し、日露戦争が始まりました。

 日本陸軍は、朝鮮半島及び遼東半島(りょうとうはんとう)に上陸し、苦戦を重ねながらも北上し、1905年(明治38年)1月、乃木希典(のぎまれすけ、1849~1912)率いる第3軍が、多大な犠牲の上に難攻不落の旅順要塞を陥落させました。3月には、最大の決戦となった奉天会戦(ほうてんかいせん)でロシア軍を後退させ、また5月には、日本海海戦で連合艦隊がロシアのバルチック艦隊に圧勝し、日本の勝利がほぼ確定しました。

 日本軍は、奉天会戦、日本海海戦に勝利したものの、これ以上戦争を続ける余力はありませんでした。そこで、アメリカの斡旋のもと、ロシアと講和しました。日本は、1905年(明治38年)9月、講和条約(ポースマス条約)で、朝鮮や遼東半島での権益を獲得しましたが、賠償金を取ることは出来ませんでした。

 日本国民は、莫大な戦費を支えてきたので、この内容に激怒、1905年(明治38年)9月5日、講和反対の国民大会が日比谷公園で開かれ、内相官邸や交番などを襲う暴動に発展しました(日比谷焼打(やきう)ち事件)。

● 日露戦争後から太平洋戦争まで(1905~1945)の日本と朝鮮(のち韓国)及び中国との関係で、以下のような国の命運を左右する大きな事件が起こりました

○ 日韓併合条約に調印(日本による朝鮮の植民地支配)

 日露戦争の頃、朝鮮(李朝)は、国号大韓帝国とし、日本に対抗する姿勢を示しました。その後、1910年(明治43年)8月、明治政府は、韓国を日本の領土とするため、韓国皇帝の高宗(こうそう、1852~1919)に、その統治権を日本国の明治天皇(第122代、1852~1912)に譲渡させるという韓国併合条約調印させました。また、韓国は朝鮮と改称させられ、朝鮮総督府による軍政のもと、35年にわたって直接的支配を受けました。

 なお、1905年(明治38年)、日本の初代内閣総理大臣であり、初代韓国統監となった伊藤博文(1841~1909)は、1909年(明治42年)10月26日、ハルビン駅頭で、朝鮮民族主義者、安重根(1879~1910)の弾丸に倒れ(暗殺)、日韓併合を進める一因となりました。

 2010年(平成22年)8月10日(火)、日韓併合百年を機に、日本政府は、日韓併合という過去の植民地支配への「痛切な反省と心からのおわび」を表明、また、韓国が返還を要求していた朝鮮半島由来の文化財を「引き渡す」と明言、閣議決定を経て、管直人(1946~ )首相の談話として発表されることになりました。

○ 満州事変と満州国建国宣言(日本の国際的な孤立と破滅への道)

 1931年(昭和6年)、この日の夜、奉天郊外柳条溝で、満州鉄道の小爆破事件を起こした関東軍は、これは張学良軍のしわざであるとして、直ちに一斉行動を開始し、満州全土に戦火を広げていきました(満州事変)。若槻内閣は、事変の不拡大方針を決定したが、関東軍はこれを無視し、着々と既成事実を作り上げ(軍人の独断専行!)、満州国建設に向かっていきました。

 1932年(昭和12年)、上海日中両軍交戦し、全面戦争に発展していきました。当初、中国軍が優位でしたが、次第に逆転し、1932年(昭和12年)12月10日、南京総攻撃が開始され、13日には完全に占領しました。入城した日本軍は、翌年2月まで、略奪暴行を行ない、4万2千人余人の中国人を虐殺しました。これは南京大虐殺と言われています。

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満州国建国(上 満州事変と満州国建国、朝鮮と台湾は日本領土です、  日本領土として、満州国、朝鮮及び台湾ほか、横線は日中戦争における日本最大の占領地域です、東アジア、google画像) (南京大虐殺: http://beauty.geocities.jp/nankingharuhi/index.html.)

(解説) 日本政府と軍部は、中国から満州を切り離して、独立国にしようと、満州自治指導部の設立を動かし、ついに、1932年(昭和7年)3月1日、清朝の最後の宣統帝溥儀(ふぎ、1906~1967)を執政として(皇帝即位は1934年、昭和9年)、満州国建国宣言書発布させました。

 首都は、長春(新京と改称)に置き、また、5族(満州人、中国人、蒙古人、日本人、朝鮮人)の協和をうたいましたが、事実上は関東軍が軍事、行政を支配し、主要な管領には、日本人が就任しました。

 中国政府は、直ちに国際連盟に提訴し、1932年(昭和7年)4月、リットン調査団が派遣されました。翌33年2月には、リットン報告案が国際連盟総会で採択されました。それは、満州での日本の権益は認めるが、日本に撤兵を求めるものでした。

 1933年(昭和8年)3月、日本国際連盟脱退を通告(1935年発効)、そして、日本は着々と既成事実を造りあげ、1934年(昭和9年)には帝政を実施しました。 1936年(昭和11年)には、ロンドン海軍軍縮条約、ワシントン海軍軍縮条約も失効し、日本は国際的な孤立の道を歩んで行きました。その後、15年ほどの日中戦争(1937~1945)の拡大第2次世界大戦(1939年~1945)、4年ほどの太平洋戦争(1941~1945)の敗戦を経て、1945年(昭和20年)8月18日、満州国は、皇帝が退位し滅亡しました。

(参考文献) 下中邦彦編: 小百科事典、平凡社(1973); 樋口清之(監修): 生活歳時記、三宝出版(1994); 野島博之(監修): 昭和史の地図、成美堂出版(2005); 野島博之(監修): 図解日本史、成美堂出版(2006); 詳説日本史図録編集委員会編: 日本史図録、山川出版社(2009).

 

2010年8月 9日 (月)

菱刈金山(鹿児島)の金鉱床と金集積植物、金鉱脈の浅熱水鉱床、金を取り込むヤブムラサキ、ホソバカナワラビ、とは(2010.8.9)

    常温ではは水に溶けないのですが、地下のマグマの熱と強い圧力のもと、300℃以上に熱せられた地中深くの熱水により、鉱物から溶かし出されます。熱水は地表に向けて上昇しながら、圧力や温度の低下により沸騰し、また、化学反応を起こし、200~250℃でを石英と共に吐き出します。これが地層の割れ目にたまったり、鉱物にしみ込んだりして、海底に噴き出します。このようにしてできた岩石のの含有量は普通の岩石の数千倍以上になっています。また、金鉱石が浸食されて砂金になったり、堆積した地層も見られます。

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菱刈金山の金鉱脈(黒っぽい岩盤に上下に走る白い帯が金鉱脈です、住友金属鉱山菱刈鉱山、菱刈、伊佐市、鹿児島、google画像)

(解説) 菱刈金山(鹿児島)の金鉱脈は、500万年前より後の火山活動でできたものです。それは、地下のマグマが基盤岩を押し上げた際にできた割れ目に沿って、金を含んだ高温の熱水が地表近くまで上昇し、石英と共に金が沈着して形成された、浅熱水鉱床と言われています。この熱水は地表にまで達していて、このため金鉱のすぐ上の安山岩が、熱水で粘土質に変質したり、鉄分が変化しています。

 菱刈の金鉱脈の先端は、標高80~120mにあって、金の平均含量が80ppm(普通は6ppm以下)、予想採鉱可能な金含量が120トンという高品位の金鉱脈で、佐渡金山(新潟)の金鉱床の総生産量77トンを上回るということで、大きな話題となりました。ppmは100万分率(1ppmは100万分の1)です。 

 その後、1997年(平成9年)5月31日に、1985年(昭和60年)の操業開始からの金の生産量が83.1トンに達し、1601年(慶長6年)~1989年(平成元年)まで操業した、佐渡金山の83トンを抜いて、金の産出量が日本一となり、2003年(平成15年)3月末には、128.8トンに達しました。

 また、菱刈金山は、鉱石1トン中の金含量は約40グラムで,現在操業中の金鉱山では,世界一の金品位で、埋蔵推定量は260トンと言われています。

 ところで、金属鉱床の探査に植物を利用する例として、古くから金属鉱脈を探査するとき、山師の間では金山草(かなやまそう)と呼ばれ、その目印としたシダ植物、ヘビノネゴザは、よく知られた指標植物です。

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金を取り込む植物 ヤブムラサキ(クマツヅラ科)、  クロモジ(クスノキ科)、 google画像)

(解説) 1987年(昭和62年)頃、西村和雄氏(京都大学農学部農芸化学教室、1945~ )は、金属鉱業事業団の依頼を受け、菱刈金山の鉱脈を中心に、東西3km、南北4kmの調査区域を設け、そこに生育している植物の葉に含まれる金を含む約30元素を中性子放射化分析し、金鉱脈の存在を特定できるか検討しました。

 採集の対象とした植物は、ススキ、カンザブロウ、ヤブツバキなど6種類、シダ、単子葉植物各1種類、双子葉の木本植物4種類でした。その結果、2種類の植物(ヤブムラサキ、ホソバカナワラビ)の金含量(10~36ppb)が他の植物より非常に高く、金鉱脈の位置とほぼ一致していることを明らかにしました。ppbは10億分率(1ppbは10億分の1)です。

 植物による金の取り込みについては、プラム(スモモ?)の類は根から青酸化合物を分泌するので、これが金と錯体を形成し、金が可溶化するという報告もあるそうですが、菱刈金山のヤブムラサキとホソバカナワラビがそれと同じように青酸を分泌しているかは不明とのことです。なお、外国には、金を取り込む植物として、チェコスロバキアのイヌスギナ(Equisetum palustre)、ブラジルのガマ(Typha latifolia)などが知られており、組織中にシアン配糖体を含み、シアン化物(青酸化合物)として取り込んでることが確かめられています。

(参考文献) 高橋英一: 比較植物栄養学、養賢堂(1974); 小山睦夫、高田実弥、白川正広、片山幸士: 中性子放射化分析法による植物葉中の微量元素の分布と特異集積の研究ー特にコバルト、マンガン、亜鉛、カドミウム、希土類元素、ラジウム等についてー、放射性コバルトの放射生態学的諸問題に関する短期研究会報告、p.1~20(1982); 金属鉱業事業団、住友金属鉱山(株)菱刈鉱山の発見と開発、鉱山地質、37、p.227~236(1987); 西村和雄 :  研究紹介、植物を用いる金鉱床の探査、京大RIニュース、No.30、p.2~7(1989); 本浄高治: 話題、指標植物中の重金属のキャラクタリゼーションー重金属の集積に耐性のある植物についてー、ぶんせき、3、p.213~215(1990); 朝日新聞朝刊: 金鉱探査、葉の中を見ればピタリ当たる!?、金鉱探査に使われる植物、ヤブムラサキ、クロモジ、金属鉱業事業団、植物センサー開発中、鉱物の吸収、蓄積現象に着目、1992年4月29日(水); (財)日本自然保護協会編(監修): 指標植物、自然をみるものさし、p.97、大野正男、シダと探鉱、ヘビノネゴザ、平凡社(1994); 山本真男: 金山、菱刈が、佐渡を超えて日本一に、SCIaS、8.1.p.16~17(1997).

(参考資料) 菱刈金山(日本一の金山、ホームページ、鹿児島県): http://www.pref.kagoshima.jp/aa02/pr/gaiyou/itiban/shizen/hishikari.html

植物による鉱脈探し(12.植物の世界、朝日新聞社): http://www2u.biglobe.ne.jp/%257egln/13/1312a.htm

ヤブムラサキ(金集積植物、石福金属鉱業):http://www.ishifuku.co.jp/market/price/soba/2007/20070501_54.html; 

ヤブムラサキ(クマツヅラ科、岡山理科大、植物生態研究室): http://had0.big.ous.ac.jp/plantsdic/angiospermae/dicotyledoneae/sympetalae/verbenaceae/yabumurasaki/yabumurasaki.htm

クロモジ(クスノキ科、岡山理科大、植物生態研究室): http://had0.big.ous.ac.jp/plantsdic/angiospermae/dicotyledoneae/choripetalae/lauraceae/kuromoji/kuromoji.htm

(追加説明) の使用は極めて古く、古代エジプトでは、紀元前3000年頃すでに水簸法(すいひほう、ワンカケ法?)で金が採取され、日本では749年(天平感宝、天平勝宝)、初めて陸奥国(奥州)から金を産出しました。

 は金属中最も展延性が大きく厚さ0.1ミクロンの箔(はく)にできます。は化学的に安定ですが、シアン化カリウム(青酸塩)、王水(濃塩酸:濃硝酸が3:1の混合溶液)、水銀には可溶です。

 の大部分は、自然金、すなわち山金(やまきん)の状態で、また、砂金としても産出します。(下中邦彦編:小百科事典、平凡社(1973)より)

2010年8月 7日 (土)

花火にまつわる歴史伝承、花火の元祖、打上花火(割物花火、吊物花火)、花火大会(両国の川開)、とは(2010.8.7)

  夏の夜空に打ち上げられる花火は、別名、煙火、流星火、平安火などともいい、中国では隋代(581 ~ 618)の頃から、ヨーロッパでは13世紀末のフィレンチェで行われたのに始まると言われています。日本に伝わったのは、1543年(天文12年)8月25日、種子島への鉄砲伝来の頃で、江戸時代(1603~1868)に盛んとなりました。

 日本には、約400年前、櫟木民部大輔という人がインドネシアから輸入したものとも言われています。また、一説には、1613年(慶長18年)、伊毛達須という中国人が日本にわたり、はじめて花火を伝えたとも言われています。

 花火は、火薬に可燃剤、酸化剤、炎色剤、発光剤、発煙剤、火花剤、発音剤などを調合し、筒や玉に詰めたもので、鉄砲伝来の頃より製造が始まり、はじめは主として、戦場の狼煙(のろし)、または火炮(かほう)など兵器としてに用いられました。

 その後、世の中が泰平になるにつれ、娯楽用として用いられるようになり、児童の遊びには、まず線香花火が作られ、続いてねずみ花火などが生まれました。花火が最も発達したのは、江戸時代の中期の頃で、観賞用の花火が普及し、夏祭りなどで打ち上げられました。

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両国橋川開(りょうこくばしかわびらき)大花火之図(両国花火資料館提供、江戸、東京、google画像)

(解説) 1732年(京保17年)、旧5月28日、両国(江戸、東京)の花火大会と川開(かわびらき)は有名で、盛大なものでした。もと旧5月28日~8月28日が隅田川の夕涼みで、その初日の川開には、屋形船などがこぎ出され、玉屋(たまや)、鍵屋(かぎや)が大花火や仕掛花火を打ち上げました。鍵屋の初代は弥兵衛で、御兵御殿の狼煙方(のろしかた)の打ち上げをヒントに、おもちゃの花火を造りました。玉屋の方は、6代目鍵屋の番頭、清吉が別家して花火造りとなりました。

 夏の夜の納涼に打ち上げられる色とりどりの豪華な花火は、江戸庶民の人気を呼びました。近年は、7月の第3土曜日に行われていましたが、1962年(昭和37年)に交通事情の悪化により廃止となっています。 その後、1978年(昭和53年)7月20日、隅田川花火大会と呼び名をかえて復活し、現在に至っています。(隅田川花火大会(歴史): http://www.sumida-gg.or.jp/arekore/SUMIDA005/S005-07.htm.)

10号玉、割物(芯入り)の部入賞作品風にゆれる紫の花、第83回全国花火競技大会、2009年8月24日(月)、大曲、秋田、google画像)

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5号玉、割物(芯入り)、丸い花の中にもう一つの花が芯ととなって開く割物花入り)花火の断面図、google画像)

(解説) 花火の構成成分は、酸化剤(塩素酸カリウム、過塩素酸カリウム、過塩素酸アンモニウムなど)、可然剤(木炭、イオウなど)、炎色剤、発光剤(マグネシウム粉、アルミニウム粉)、火花剤(鉄粉)、発煙剤、発音剤(鶏冠石(硫化ヒ素)、三硫化アンチモンなど)です。炎色剤としては、ストロンチウム塩(赤)、ナトリウム塩(黄)、バリウム塩(緑)、銅塩(青)などを使用します。また、発煙剤は、白煙(亜鉛末)、青煙(フタロシアニンブルー)、黄煙(鶏冠石),赤煙(ローダミンBコンク)などです。

 花火の構造や用途により、打上花火、仕掛花火、玩具(がんぐ)花火(吹出し、線香花火、ねずみ花火、かんしゃく玉など)に大別されます。かんしゃく玉は、火薬を金剛砂に混ぜ、紙に包んだ小さな玉にした玩具で、投げつけると音を立てて爆発します。

 打上花火は、打上筒により発射され上空で点火するもので、菊花などの円形の模様を表わす単発の割物(わりもの)と、ふたつに割れて発光剤、発煙剤などをパラシュートでつり下げたりするポカ玉の吊物(つりもの)に分けられます。(いろいろな花火(割物、吊物ほか): http://www.sumida-gg.or.jp/arekore/SUMIDA005/S005-08.htm. 花火カタログ(割物ほか): http://japan-fireworks.com/catalog/catalog.html.)

 日本では、ふつう球形の紙製の殻で包みます。仕掛花火には、炎色剤を紙管に詰めたものを並べておき、一瞬のうちに点火して、図形や文字を表わす枠(わく)仕掛、火の粉を高所から降らせる滝仕掛、次々に星を打ち出す乱玉など各種のものがあります。

(参考文献) 下中邦彦編:小百科事典、平凡社(1973); 樋口清之(監修): 生活歳時記、p.451,花火の元祖、三宝出版(1994).

2010年8月 6日 (金)

碁の名手(本因坊算砂)ゆかりの寂光寺(京都)、寺宝の唐桑の碁盤、碁石、碁笥、算砂の囲碁狂歌、とは(2010.8.6)

 寂光寺誌によれば、安土桃山時代(1573~1603)、織田信長(1534~1582)の頃、寂光寺(京都)は、最初、1578年(天正6年)、日蓮宗の僧、日淵(にちえん、1529~1609)が、京都御所西側の京都出水通り、室町近衛町(上京区)に創建しました。その後、豊臣秀吉(1537~1598)の寺町建設に伴い、1590年(天正18年)、秀吉の援助により、2代目住職、日海(算砂、1559~1623)により寺町竹屋町(中京区)に寂光寺を移しました。

 それから120年後、江戸時代(1603~1868)、1708年(宝永5年)、京の大火で類焼した寂光寺は、東山(左京区)仁王門通北門前町に三度目の再建が行われ、現在に至っています。寂光寺は、顕本法華宗(けんぽんほっけしゅう)の本山ですが、算砂は本堂ではなく、その寺の本因坊と言う名の小さな御堂、塔頭(たっしゅう)に住み、囲碁の技量に優れていたので、徳川家康(1543~1616)に仕え、本因坊算砂と呼ばれ、囲碁の家元となりました。

○ 寂光寺には、近衛家(関白)より算砂に贈られた唐桑の碁盤、朝鮮通信史の一員、李礿史からの贈呈品とされる磁器製の碁石、碁笥(ごけ)及び「乾坤窟(けんこんくつ)」と書かれた扁額(へんがく)、算砂の肖像画(作者不明)、算砂自身が書いたとされる「囲碁狂歌」などの寺宝が伝わっています。

 朝鮮通信史は、おそらく、1615年以降(元和年間)に李礿史なる人物が来日した際、算砂と三子で対局して敗れ、帰国してから算砂に、碁石、碁笥、乾坤窟(天地のすべてがこの盤上にあるという意味か?)の扁額を贈ったと言われています。

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唐桑碁盤(近衛家より算砂に贈られた唐桑の板盤)、朝鮮通信史からの贈呈品とされる碁笥と碁石(陶磁碁笥、玉石) 、寂光寺蔵、京都、google画像)

 伝説ではなく、算砂自身が書いたとされる「碁之狂歌」というのは、狂歌というよりは訓戒の歌と考えても差し支えない以下の11首です。

1 石立(いしだて)は相手により打(うち)かへよ さて劫(こう)つもりの時の見合(みあわせ)

2 作り物ありとをり入り案ずれば 心にそまぬ手をや打つらん 

3 上手(じょうず)とてあまりの気過(けすぎ)恐るなよ 又おそれぬも悪しきなりけり 

4 囲碁はただ下手(へた)と打つとも大事なり 少事と思う道のあしさよ 

5 わが芸を見かえることは打忘れ 人のくもりをいふぞをかしき 

6 身の上のまけになるをばしらずして むかふばかりを見るぞ下手(へた)なり 

7 番数を勝(かつ)ほど後をしめてうて すこしも心ゆるしはしすな 

8 かりそめも諸道の非難無益なり 手前の義理を詮さくはよし 

9 嗜(たしなみ)はかげにて絶(たえ)ずつとむれば 面白き手を見分けうつなり 

10 智案先早きは悪ししこまやかに 始末目算手うちだてすな 

11 他度法度(はっと)かたくまもらば其外(そのほか)も 堪忍するは道の道なり

初代本因坊算砂辞世は、碁なりせば劫(こう)など打ちて生くべきに 死ぬるばかりは手もなかりけり 

 寂光寺の大川定信住職(67)は、算砂は囲碁の名手として有名ですが、それだけではありません。囲碁を通じて秀吉や家康らに、仏教の神髄や天下人としてのあり方を教えたのだと思います、と語っています。

 算砂は囲碁の名手として知られ、織田信長に名人と称されたと伝えられています。豊臣秀吉、徳川家康にも仕え、近世囲碁の開祖と言われています。算砂は、1623年(元和9年)5月16日示寂、享年65歳、法名は日海上人です。

 私がはじめて寂光寺を訪れたのは1966年(昭和41年)10月頃でしたが、最初は、寂光院(大原、左京区)と間違えて道に迷った覚えがあります。なお、2009年(平成21年)、寺町竹屋町の近くに、囲碁「本因坊」発祥の地の駒札と石の碁盤が設置されました。

(参考文献) 福井正明: 囲碁古名人全集、誠文堂新光社(2007); 朝日新聞朝刊: こころ、寂光寺、本因坊ゆかりの品々残す、2010年(平成22年)7月13日(火).

(参考資料) 寂光寺(囲碁名所、囲碁史研究): http://www1.ocn.ne.jp/~igoshi/meisyo002.html

2010年8月 3日 (火)

金沢城(石川)と太平洋戦争、軍事施設(師団、旅団、連隊)から学問の施設(新制金沢大学)へ、さらに大学移転による金沢城公園へ、真珠湾奇襲攻撃からポッタム宣言受諾、とは(2010.8.3)

   1945年(昭和20年)8月、太平洋戦争の敗戦によって旧陸軍が解体され、同時に金沢城址に置かれた第9師団、第6旅団、歩兵第7連隊などの軍用施設は、占領軍の支配下に置かれました。

 金沢城跡地の利用は、金沢に派遣された石川軍政体(米軍)が権限を持っていたので、県知事や県会は、文化国家建設の象徴として学術機関の設置を求めました。最終的には、四高、石川師範、金沢医科大学などの高等教育を統合した北陸総合大学構想が採用され、県知事から石川軍政隊に金沢城跡地の返還を要求しました、

 1947年(昭和22年)、石川軍政隊は、男女共学の民主的な総合大学を5年以内に設置することを条件に、石川県への移管を約束しました。しかし、日本政府の新制国立大学設置構想が、これに連動して進展した結果、金沢城跡地の石川県移転は流産し、1952年(昭和24年)5月、文部省は新制金沢大学を発足させ、金沢城跡地は、そのキャンパスとなりました。

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金沢大学(城内(丸の内)キャンパス、空中写真、1975年(昭和50年)、金沢、国土交通省、google画像)

(解説) 金沢大学は、開学以来「お城の中の大学」として親しまれてきました。当初、法文、教育、理学、医学、薬学、工学の6学部で発足しましたが、城内キャンパスに置かれたのは、法文、教育、理学の3学部と教養教育担当の教養部、大学本部でした。その後の改組で学部は8つに増え、大学院なども整備されましたが、城内キャンパスは手狭となり、1989年(平成元年)秋から1996年(平成8年)までに全て、金沢市郊外の角間地区(かくまちく)に移転しました。(金沢大学ホームページ(角間、金沢、石川): http://www.kanazawa-u.ac.jp/.)

 金沢大学の移転後、金沢城跡地は石川県に移管され、金沢城公園として整備され、県民が自由に利用を選択できるようになりました。その後、金沢城跡地を県民共有の財産として後世に残すという方針が立てられ、段階的に城址公園として整備公開され、明治維新以来の県民の悲願が、達成されることになりました。(金沢城と兼六園のホームページ(丸の内、金沢、石川): http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/japanese/top.html.)

○ 太平洋戦争(1941年12月8日~1945年9月2日、第2次世界大戦のうち、アジア、太平洋地域での日本と連合軍(米、英、仏、中国、のちソ連)との戦争、アジア太平洋戦争とも)は、以下のような経過をたどり、ハワイ真珠湾攻撃により開戦となりました。

 1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件(ろこうきょうじけん、北平(北京)郊外の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第29軍との衝突事件、七七事変)により始まった日中戦争の中国全土への戦線拡大は、欧米諸国の権益を脅(おびや)かし、日本と米英との関係は悪化しました。一方、ヨーロッパでは、1939年(昭和14年)9月1日、に第2次世界大戦が勃発し、翌年にはドイツが周辺諸国を次々と占領し、ほぼヨーロッパ全土を影響下に置きました。

 日中戦争が長期化して、米英と対立し、その打開策を探っていた日本は、1940年(昭和15年)9月、この機に乗じて仏領インドシナ北部(北部仏印)に進駐し(米英による中国支援の断絶、資源確保のため)、日独伊三国同盟を締結(アジア、ヨーロッパにおける支配を相互に承認、アメリカの参戦を抑止するための同盟!)。これは、アメリカとの関係が悪化する中で、東南アジアの豊富な資源が是が非でも必要と判断されたためです。

 しかし、こうした日本の動きに対して、アメリカは対日経済制裁措置を断行(航空用燃料、くず鉄、鉄鋼の対日輸出禁止)。一方、日本はソ連と日ソ中立条約を締結、1941年(昭和16年)7月、日本軍は南部仏印に進駐(アメリカの輸出制限で不足した石油、ゴム、アルミなど資源を求めて侵攻!)しました。これに対し、1941年(昭和16年)8月1日、アメリカは対日石油輸出の禁止(石油の約8割をアメリカに頼る日本は大打撃!)、在米日本人の資産凍結などの措置に出ました。イギリスも日英通商航海条約の破棄を通告してきました。

 1941年(昭和16年)11月26日、アメリカは日本に対する最後の通牒(つうちょう、アメリカ国務長官ハル(1871~1955)からの駐米大使野村吉三郎(1877~1964)への提案、ハルノートを提出)として、中国、仏印からの撤退、日独伊三国同盟の破棄、中国を満州事変以前に戻すことなど、日本としては到底飲めるものではない要求をしてきました。日本海軍の機動部隊は、空母6隻を基幹とし、日米交渉が妥結しない場合には、直ちに米太平洋艦隊の本拠地、真珠湾を急襲すべく、エトロフ島(南千島)単冠湾を発進してハワイに向かいました。

 そして、同年、12月1日、御前会議で、東条英機(1884~1948)の主導のもと、対米英開戦を決定し、12月2日夕刻、連合艦隊司令長官山本五十六(1884~1943)元帥より、ハワイ北方に接近中の連合艦隊に「ニヒタカヤマノボレ1208」の暗号電報が発せられました。これは、日米交渉が決裂し、12月8日を期してハワイを攻撃せよ、との暗号電文でした。

 12月8日、日本海軍は、この電文に従って、雷撃機、艦上攻撃機によりハワイ真珠湾を急襲し、また、日本陸軍はイギリス領マレー半島に上陸し、太平洋戦争も開戦となりました。

 この真珠湾の奇襲は、碇泊中の米艦隊や待機中の飛行機に大打撃を与えましたが、米空母は出航中であったため、これをたたけず、戦局の招来に禍根を残しました。またこの攻撃は、わが国の最後通牒より早かったため、国際法違反として非難され、米人の敵愾心(てきがいしん)に火をつける結果ともなりました。 

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アリゾナ記念館(パールハーバー、真珠湾、ハワイ、USA,google画像) アリゾナ記念館(ハワイツアー): http://www.traveldonkey.jp/oah/2121.cfm.私も30年ほど前、1979年4月、ACS/CSJ、日米国際化学会議(ハワイ)に出席、ハワイツアーで訪れたことがあります。

(解説) 戦艦アリゾナ号は、1177人以上の乗員と共に日本軍の攻撃によって沈没しました。アリゾナ号は、「真珠湾を忘れぬな!」との思いで、そのまま国定慰霊碑の記念館として保存されています。

○ 太平洋戦争(1941年12月8日~1945年9月2日)は、以下のような経過をたどり日本の敗戦となり、連合国へ無条件降伏する結果となり、形式的にはGHQの占領政策(実質的にはアメリカ主導の占領政策)のもと、民主主義国家として新しいスタートを切りました

 日本は、「大東亜共栄圏」の名のもと、わずか半年後の1942年半ばには、南太平洋一帯を手中に収めましたが、米軍の猛反撃が始まり、1942年(昭和17年)6月5日~7日、ミッドウエー海戦で日本の海軍がアメリカ軍に大敗し、開戦から1年足らずで、守勢に転じた日本は、米軍の猛攻になす術(すべ)もありませんでした。

 1944年(昭和19年)6月15日~7月9日、サイパン島が米軍の手に落ちると、日本は制海権、制空権ともに失い、米軍の本土空襲が本格化しました。1945年(昭和20年)3月の東京大空襲以降、大都市の人口密集地への無差別爆撃へと戦略を転換し、焼夷弾(しょういだん)による「絨毯爆撃(じゅうたんばくげき)」が何度も繰り返されました。さらに6月になると、中小都市まで広がり、最新爆撃機B29の前になす術はなく、全国のほとんどの主要都市が焦土化(しょうどか)しました。

 空襲被害の少なかった府県(1000人未満)は、秋田、岩手、山形、長野、石川、滋賀、奈良、京都、鳥取、島根、佐賀のほか、北海道でした。

 沖縄戦は、唯一の本土決戦ですが、1945年(昭和20年)3月~7月、アメリカ軍(約18万人)に陥落しましたが、沖縄守備軍(約12万人)の目的は、県民を守ることではなく、米軍の本土上陸を遅らせることでした。沖縄戦では、約19万人の日本人が命を落としました。その半数以上は沖縄の一般住民でした。

 もはや、日本にアメリカ軍を迎え撃つ力はなく、日本の敗北は明らかでした。ところが、国体護持(こくたいごじ、天皇制の維持)にこだわる政府は、陸軍強硬派を抑えることが出来ませんでした。

 そして、1945年(昭和20年)8月6日、午前8時15分、広島市の中心部上空で炸裂した原子爆弾は、瞬時に20余万人もの生命を奪い、悲惨な死の町となりました。広島原爆病院には、今も原爆症に苦しむ患者が入院しています。太田川河畔の平和公園には原爆ドームが、あの日の姿のまま永久保存されています。毎年この日には、平和を願う式典が催されています。

 1945年(昭和20年)8月8日、日本政府は、太平洋戦争を終結に導くために、佐藤尚武(1882~1971)大使が、ソ連に特使を派遣、し仲介を頼む交渉をしていたのですが、ソ連政府のモロトフ(1890~1986)外相の回答は、意外なものでした。それは、日本が、7月26日、連合国が発表したポッダム宣言(米英中の3ヶ国の名で、日本の無条件降伏と戦後方針を示したもの)を拒否したので、宣戦布告するというもので、日ソ中立条約を破棄して参戦し、満州や樺太、千島に侵攻してきました。

 1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分、長崎にも原子爆弾が投下されました。長崎は一瞬にして壊滅し、約15万余の貴重な命が奪われました。その爆心地帯には、国際文化会館や平和記念像などが建てられています。この日、長崎では、原爆被災者の追悼式が行われ、世界平和への呼びかけがなされます。

 1945年(昭和20年)8月15日、正午、昭和天皇(第124代、1901~1989)はラジオで全国民に敗戦を告げ(玉音放送、ぎょくおんほうそう)、そして、真珠湾(しんじゅわん)攻撃から約4年にわたる長い戦争が終わりました。また、ソ連の参戦もあり、ついに御前会議でポッタム宣言の無条件受諾を決定し、連合国に無条件降伏しました。

ポッダム宣言受諾(1945年9月2日、東京湾の米艦ミズリー号の甲板上で無条件降伏文書に調印する重光葵(しげみつまもる、1887~1957)外相、google画像) ポッダム宣言(無条件降伏文書)受諾; http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/707.html

(解説) 1945年(昭和20年)8月28日、連合国軍(米、英、仏、ソ、中をはじめとする11ヶ国、のち13ヶ国)が次々に進駐を開始し、8月30日、アメリカのマッカーサー(1880~1964)が厚着に到着、9月2日、米艦ミズリー上で降伏文書に調印、日本は正式に連合国軍の占領下に置かれました。

 1946年(昭和21年)4月、政府はGHQ(連合国軍最高司令官相司令部)案に基づく憲法改正創案を発表、議会の審議を経て、11月3日、「日本国憲法」として公布され、翌1947年(昭和22年)5月3日に施行されました。こうして日本は、民主主義国家として新たなスタートを切りました。

 以後、アメリカのマッカーサーを最高司令官とするGHQにより、アメリカ主導の占領政策が進められました。形式的には、連合国による共同統治でしたが、実質的にはアメリカの単独占領で、進駐した兵士も、そのほとんどがアメリカ軍兵士でした。その後、1952年(昭和27年)、日本はサンフランシスコ平和条約の発効で独立を回復しますが、沖縄は、1972年(昭和47年)までアメリカの統治下に置かれました。

(参考文献) 樋口清之(監修): 生活歳時記、三宝出版(1994); 野島博之(監修): 昭和史の地図、成美堂出版(2005); 野島博之(監修): 図解日本史、成美堂出版(2006); 金沢城研究調査室編: よみがえる金沢城 1、450年の歴史を歩む、石川県教育委員会(2006).

 

2010年8月 1日 (日)

板東俘虜収容所(德島)と第1次世界大戦、青島(中国)のドイツ兵俘虜、地域住民との友愛の交流、第九演奏と歓喜の歌、近くにドイツ館、大麻彦古神社、霊山寺、賀川豊彦記念館、とは(2010.8.1)

  1914年(大正3年)6月28日、オーストリアの皇太子夫妻がサラエボ(ボスニア・ヘルツェゴビナの首都)で暗殺されました。犯人は19才の学生、プリンチプで、セルビア共和国の秘密結社の分派「黒い手」に属する民族主義者でした。オーストリアはセルビア共和国に強硬に抗議し、7月28日に宣戦布告第1次世界大戦(1914年7月28日~1918年11月11日)が起こりました。オーストリアの背後にはドイツ、イタリア(三国同盟)が、また、セルビアの背後には、ロシア、イギリス、フランス(三国協商)がひかえていました。

 日本は、イギリスと日英同盟を結んでいたため、協商国側に立って参戦、ドイツに宣戦布告し、中国でのドイツの租借地(そしゃくち)、山東半島にある青島(チンタオ)及びドイツ領南洋群島を占領しましたが、真の目的は中国に対する発言権の強化にあり、21ヶ条問題、山東省支配権の獲得で東アジア進出の足場を確保しました

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板東俘虜収容所(ばんどうふりょしゅうようじょ、1917~1920年)正門とドイツ橋、板東町(のち大麻町)、板野郡(のち鳴門市)、德島、google画像)

(解説) 第1次世界大戦の際、青島(チンタオ、中国)で降伏したドイツ兵約5000人が日本各地の収容所(東京、静岡、名古屋、姫路、大阪、大分、久留米、福岡、熊本、松山、丸亀、德島など12ヶ所)に送られました。このうち四国の德島、丸亀(香川)、松山(愛媛)にいた約1000人が今の鳴門市(德島)にあった、德島歩兵第62連隊付、板東俘虜収容所(ばんどうふりょしゅうようじょ)に集められ、1917年(大正6年)から1920年(大正9年)までの2年半余りを過ごしました。

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松江豊寿(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B1%9F%E8%B1%8A%E5%AF%BF

 俘虜(ふりょ、捕虜とも)たちは、収容所長の松江豊寿(まつえとよひさ、佐幕派、会津藩士、福島)中佐(のち大佐)、1872年(明治5年) ~1956年(昭和31年)の人道的な扱い(一切の暴力を認めず、武士道をもって俘虜を遇し、彼らの自由を保障)のため、演劇、スポーツ、講演、学習など活発な活動を行っています。また、俘虜たちは散歩などで所外に出ることが許され、地域の人々も、俘虜たちをドイツさんと呼び、牧畜、製菓(パン作りなど)、西洋野菜栽培、建築、音楽、スポーツなどの指導を受けました。収容所跡に近い大麻比古神社裏には、俘虜が造った3mの石積みの「ドイツ橋」が残っています。

 俘虜たちが力を入れたのがオーケストラ活動でした。記念すべき日本初のベートーベン交響曲第9番、「第九(だいく)」の全曲演奏ハンゼン指揮で行われたのは1918年(大正7年)6月1日で、夕方の6時半に開演し、フィナーレの第1楽章「歓喜の歌」は男性80人の力強い合唱でした。ただし、会場は所内で、住民を招いたという記録はありません。

○ ベートーベン交響曲9番、「(第九」(YouTube): http://www.youtube.com/watch?v=T6vEf80UXpc

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ドイツ兵の墓と慰霊碑(はかといれいひ、桧(ひのき)、大麻町、鳴門市、德島、google画像)

(解説) 太平洋戦争(1941年12月8日~1945年9月2日)後、1948年(昭和23年)、朝鮮の梁山からの引揚者、高橋敏治、春枝夫妻が、収容所跡地の引揚者用住宅「新生寮」に入居し、ある日春枝さんが裏山に分け入り不思議な石碑を発見しました。夫に聞くと、昔、ここにいたと聞くドイツ兵士の墓ではないか、という。以後、春枝さんは、みずから墓守になってその墓石(病没俘虜11人の名が刻まれています)を清め、定期的に下草を刈って線香を、13年供え続けました。

 このことが次第に話題となり、1960年(昭和35年)10月、德島新聞でも報道され、翌11月、ハース駐日西ドイツ大使夫妻とベーグナー神戸総領事夫妻が墓参に訪れました。翌年帰任したハースは、マスコミにバンドーのドイツ兵士の墓のことを繰り返し語り、それを聞いた元俘虜のメンバーや遺族たちが動き始め、日独友好の数々のイベントが催され、数々のモニュメトが作られました。

 1972年(昭和47年)に旧ドイツ館が建設され、1974年(昭和49年)には鳴門市とドイツのリューネブルグ市(俘虜のほとんどがこの市の出身者だったという)との間で姉妹都市同盟が締結され、国際交流を活発に展開するようになりました。鳴門市では、ドイツ村公園始め、ドイツと共同でドイツ兵士合同慰霊碑、ばんどうの鐘などを建立し、1993年(平成5年)には新しいドイツ館が完成しました。そこには、ドイツ兵の遺品が展示されており、その中には「第九」初演のプログラムもあります。

 大麻彦古神社ドイツ館、ドイツ橋、すぐ南の四国88ヶ所1番札所、霊山寺は、私の郷里(引野、松島、のち上板、板野、德島)に近く、何度かそこを訪れたことがあります。

 2006年(平成18年)、映画バルトの楽園(がくえん)」(出目昌信監督)は、ここを舞台に、俘虜と、彼らの人間としての尊厳を守った所長、暖かく迎え入れた住民との交流を描いています。

(参考文献) 永原慶二(監修): 日本史事典、岩波書店(1999): 桂冨士郎: 阿波文学散歩、中村彰彦、二つの山河(1)~(3)、德島新聞社(1999); 朝日新聞朝刊: be on Saturday、 うたの旅人、だれもが兄弟となる、ベートーベン「第九交響曲・歓喜の歌」、2008年(平成20年)12月20日(土); 鳴門市ドイツ館、不思議の国のBANDO、大麻町、鳴門市)パンフレット.

(参考資料) 板東俘虜収容所(板野、のち鳴門、德島、google画像): http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&q=%E6%9D%BF%E6%9D%B1%E4%BF%98%E8%99%9C%E5%8F%8E%E5%AE%B9%E6%89%80%EF%BC%88&um=1&ie=UTF-8&source=og&sa=N&tab=wi

鳴門市ドイツ館(なるとしどいつかん、桧、大麻町、鳴門市):http://www.city.naruto.tokushima.jp/contents/germanhouse/.

大麻彦古神社(おおあさひこじんじゃ、板東、大麻町、鳴門市): http://www.ooasahikojinja.jp/.

霊山寺(りょうぜんじ、真言宗、四国八十八ヶ所霊場1番札所、板東、大麻町、鳴門市): http://www.88shikokuhenro.jp/tokushima/01ryozenji/index.html.

 江戸時代、四国遍路(八十八ヶ所)の1番の霊山寺から始まる札所の番号付けの根拠として、1687年(貞享4年)、真念(しんねん、生没不明、頭陀聖、ずだひじり、遍路門付)が四国遍路道指南(しこくへんろみちしるべ)を執筆し、はじめて札所に番号を打ち、、四国遍路の霊験や功徳にまつわる伝承をまとめて出版、また遍路の便を図るために、遍礼屋、善根宿の開設と普及、標石の設置などを行いました。

 八十八ヶ寺の中には、真言宗系以外のお寺が八ヶ寺(11、15、33、43、76、78、82、87番など)ほどあり、そこにも大師堂があり、不思議な感じがしますが、お寺の改宗もあったと伝えられています。1番霊山寺の開祖は行基(ぎょうき、法相宗)、668年(天智天皇7年)~749年(天平21年)ですが、本尊は釈迦如来、宗派は高野山真言宗となっています。

 この霊山寺は大麻山(おおあさやま、海抜536m)から下りてきたと推定されています。というのは、その山の中腹に大麻比古神社(阿波一宮)があって、ここを奥の院とすることは、江戸時代の初期は神仏習合が残っており、もと霊山寺が大麻比古神社の境内にあった寺であり、そこから1km下って現在地に移ったのだろうということです。また、ここが第1番となったのは、信仰上の問題より、本土より四国に渡るには、鳴門市の撫養(むや)が最も便利だったからです。また、御詠歌は、霊山の釈迦の御前に巡り来て、万の罪も消え失せにけりと、四国遍路は、罪を消すため、減罪のための遍路であることを、歌っています。(五来重、四国遍路の寺、下、角川ソフィア文庫(2009)より)

20071004_21

賀川豊彦(ウィキペディア): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E5%B7%9D%E8%B1%8A%E5%BD%A6

 鳴門市ドイツ館のすぐ南側には、大正から昭和にかけ、キリスト教社会運動に尽くした賀川豊彦(かがわとよひこ、1880~1960)の業績を顕彰するため、鳴門市民・德島県民はもとより全国から寄付が集められ、2002年(平成14年)3月に開館した鳴門市賀川豊彦記念館があります。 (德島県の歴史散歩編集委員会編、高橋啓監修: 德島県の歴史散歩、p.71、鳴門市賀川豊彦記念館、山川出版社(2009)より) 

鳴門市賀川豊彦記念館(なるとしかがわとよひこきねんかん、桧、大麻町、鳴門市): https://www.kagawakan.com/

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