« 山下 清(放浪の画家)にまつわる歴史実話、阿波(德島)の土柱の絵、土柱の散文(兵隊の位にして、鳴門は「左官」で、土柱は「尉官」というところだろうな)、とは(2010.9.16) | トップページ | 秋(2010年9月20日)、犀川の遊歩道沿いを散策したときに見られたヒガンバナ(彼岸花)とキクイモ(菊芋)の花咲く風景 »

2010年9月18日 (土)

トイレ(便所)にまつわる歴史実話、古代人のトイレ(便所)は水洗式であった、川に流す(厠、川屋)は南方系文化、便器を置く(座り式、しゃがみ式)は北方系文化、私の郷里の家のトイレ、とは(2010.9.18)

   トイレ(toilet、便所)のことを(かわや)と言いますが、その呼び名には、手水(ちょうず)、手水場(ちょうずば)、便所(べんじょ)、雪隠(せっちん)などがあり、川の流れに落とす川屋(かわや)からカワヤの名が出たとの説も広く知られています。この他にも、昔から、はばかり、ご不浄(ごふじょう)、遠方(えんぽう)、東司(とうす)、後架(こうか)、高野山(こうやさん)、閑所(かんじょ)、装者所(よそものどころ)など、多くのトイレ(便所、仏教からきた言葉で、便利な所という意味です)の呼び名があります。

Images_4

 縄文時代、弥生時代のトイレ(便所)(水洗式、川岸に張り出した所に杭を打ち込み、丸い棒をくくりつけ、その上に丸い棒を並べ、適度の空間ができるようにくくりつけて固定し、そこに股がり、川に直接落として排便していました。その付近の川底から糞石(化石)が見つかることがあるそうです、google画像) トイレの歴史(TOTOトイレ博物館): http://www.woodssite.net/remodel/HAKUBUTUKAN.html

(解説) 古代人の便所は水洗式だった、と読み取れる歌が、奈良時代、「万葉集」巻十六に出ています。 香塗(こうぬ)れる 塔になよりそ川くまの くそふな喰(は)める 痛き女(め)やっこ (あの人は糞尿を食っているフナを食べている汚ならしい女だ、というような、相手の女をののしった歌です。) これは、川の上に便所を作っていた証拠と言えます。現在でも、便所のことを(かわや)、すなわち、川屋(かわや、川家とも)と呼んでいますが、それはこの名残と思われます。 

 世界の便所は、流すか、捨てるか、埋(う)めるの三通りですが、川に流すのは南方系文化、便器を置くのは北方系文化と言われています。それにしても、溜桶(ためおけ)をいけて、便を貯(た)めておくのは、農業用の肥料に使うところからきた、日本独自の知恵らしいという。

 また、世界の便器を大別すると、座り式(いす式)便器としゃがみ式便器に分かれます。この境界は、トルコのイスタンブールで、ここより西は座り式、東はしゃがみ式です。現在でもこの境界は変わっていません。日本では、古代、平安時代から、しゃがみ式便器が使われていましたが、これに「きんかくし(きぬかけとも)」がついているのは、現在まで日本の便器だけです。

Images2_3

農家の外便所(瓦屋根 の外便所、人糞を肥料に使うのに便利なように外便所としたものです、google画像)  農家の外便所(おさごえ民家園、福井): http://www.morisen.co.jp/toilet_ko/no4.html

(解説) 農家の外便所は、屋外や土間で働く時間が大半だったからで、用足しのつど履物(はきもの)を脱いで家へ上って入れなかったからです。肥料として使う点でも屋外の方が便利でした。その位置は、母屋(おもや)の巽(たつみ、東南)の方角に多いのですが、母屋と一緒になったものは、明治の後半になってからです。なお、母屋には、内便所のある家もありました。

Images2_6

金沢と堤の便所神(郷土玩具文化研究会、大阪、google画像)  郷土玩具便所神含む): http://www.h2.dion.ne.jp/~hushimi/09rekai/09reikai.htm

(解説) 便所神は、カンジョガミ、シモヤノカミ、セッチンサマなどと呼ばれ、便壺(べんつぼ)の下に人形を埋めたり、隅の柱に祀(まつ)ったりしました。妊婦が便所掃除に精出せば、強い子が生まれるとの言い伝えもあります。用便にいくことを「高野(こうや)にまいる」というのも信仰とのつながりを示唆(しさ)しています。落とし紙以前は、竹片、木片、葛(くず)の葉、わら、キビわらなどを用いました。

○ 日本のトイレ(便所)の歴史

 原始、縄文時代、トイレ(便所)は、川岸に張り出した所にあり、川に直接排便していました。現在、遺跡では杭(くい)の先だけが川底に残っている所もあり、その付近の川底から糞石(ふんせき、化石)が見つかることがあります。弥生時代、縄文時代と同じように、川に直接排便していました。これが厠(川屋、かわや)の原型です。「かわや」は、南方系の様式で、現在のボルネオやタイの水上トイレに見られるように、簡単な屋根ぐらいは設けられていたと考えられます。

 本居宣長(もとおりのりなが、1730~1801)の古事記伝によれば、「古厠は溝流の上に造て、まりたる屎(しかばね)は、その水に流失る如く構たる故に河屋とは言なり」とあります。

 古代、古墳時代、古代人は住居を構え、その周りには敵や野獣から身を守るため、堀が掘られ、その堀がトイレになったようです。ここからは、糞石、糞虫(ふんころがし)、寄生虫の卵などの化石が発見されました。 飛鳥時代、近年の発掘調査によれば、藤原京(ふじわらきょう、694~710、16年間)では、トイレ(便所)は、汲取式(くみとりしき)らしく、堀込んだ穴に板をわたし、そこにまたガって排便したようです。一定程度たまると捨てるわけですが、まだ肥料として使用するという習慣はないので、飛鳥川か溝に捨てたのだろうという。トイレ(便所)のことを厠(かわや)というように、飛鳥川の水に流す水洗式もありました。結局は、事態はそう変わるわけではなく、やはり水に流してしまうのであり、最後は処理なしで捨てられることになりました。

 奈良時代平城京(へいじょうきょう、710~784,74年間)では、秋篠川が平壌宮から下へ、北から南へ流れていたので、上流階級の貴族たちは、川から水を引き込んだ、都大路の道路側溝を屋敷内に引き込み、その引き込んだ水路の上に屋根をつけた厠(かわや)で、その水路をまたいで排便したようです。なお、都の庶民は、外の道路側溝に排便したようです。

 その後、長岡京(ながおかきょう、784~794,10年間)から京都の平安京(794~1185,391年)へと遷都、平安時代平安京では鴨川が平安宮から南端の朱雀門の方へと流れていましたので、トイレ(便所)の厠(かわや)の利用もあったと考えられますが、残念ながら、トイレ(便所)の遺構はまだ発見されていないようです。しかし、藤原京、平城京あるいは絵巻物などに見えた数少ない例などから、おおよそは想像することが出来ます。

 古代、平安時代の便器、「きんかくし(きぬかけとも)」がついているしゃがみ式便器(おまる)ですが、この「きんかくし」は、板とその上についた丸い棒でした。当時の高貴な人たちは、この「きんかくし」を後にして、用を足しました。 トイレ(便所)で出された糞尿は、砂の入った箱(御小用箱)に落ち、家来がその箱の糞尿を捨てました。また、男性は、杉の葉を敷き詰めた箱の中に、小便しました。杉の葉により、尿の臭いと音が消されたようです。

Images4_3

街角で排便する庶民(国宝、餓鬼(がき)草紙、作者未詳、平安時代末期から鎌倉時代初期に描かれた絵巻物、東京国立博物館蔵、google画像) 餓鬼草紙(文化遺産オンライン、東京国立博物館蔵); http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=13814

Images2_20

慕帰絵詞(ぼきえことば)に描かれたトイレ(便所)(本願寺三世の覚如の伝記を描いた絵巻、藤原隆章、隆昌作、室町時代、1351年(観応2年)、穴を掘った上に足場の板を渡した造りのトイレ(便所)、西本願寺蔵、google画像) 

(解説) 中世、鎌倉時代、絵巻「餓鬼草紙」の中に食糞餓鬼が群がって脱糞したりして、周囲に紙や糞べらが散らばっている、いわゆる野糞の様子の絵があります。これは、現在の街角の公衆トイレ(便所)に当たるものです。ここでは、尻(しり)の始末に紙を使っていますが、日本人がトイレ(便所)でを使うようになったのは、平安時代で、それも貴族だけでした。戦国時代には、大名も尻を紙で拭くようになったようです。一般の庶民たちは、葛(くず)の葉、わら、キビわら、竹片、木片などを使っていました。

 近世、江戸時代から明治時代は、汲取式トイレ(便所)となり、糞は便器の下に設けられた便槽に溜められ、農作物の肥料に利用されました。また、近代、明治時代、木製の便器は腐食しやすく、耐久性を高めるために、陶器製の便器が登場しました。そして、便器の形状も歪みの出にくい小判形に変わり、その形状が、現在の和風便器の形状として引き継がれています。 

 私の郷里(引野、松島、のち上板、德島)の家は、典型的な農村の草葺屋根(麦ワラ屋根、築100年?、7人家族)で、戦後、小学生の頃は、母屋の南向きの玄関のすぐ左に立ち小便のトイレがありました。また、母屋の正面玄関のすぐ南側に、外風呂(鉄釜、ゲス板、排水はトイレへ、燃料は主に麦わら)と外便所(しゃがみ式、下は溜め槽、汲み取り肥料へ)からなる瓦屋根の小さな家(小屋!)が建っていました。さらに、母屋の西隣りに牛小屋、そのすぐ南にニワトリ小屋、ウサギ小屋もあり、イヌ(シロ)、ネコ(トラ、タマ)もいて、また、母屋の瓦屋根の軒下のスキマにはスズメが巣をつくり、また、母屋の家の中にはツバメが巣をつくり、子育てしていて、全てが家族のようなものでした。

 また、母屋は、時代の流れで、1955年(昭和30年)頃には、草葺き屋根はトタンで覆ったトタン屋根となり、改築、増築により、内風呂(燃料は重油、ボイラー)、内便所(便所が満杯になると、村の役場に連絡し、バキュームカーにより取りに来てもらい、処理場へ、海に捨てる?と聞いたことがあります)となりました。

 また、井戸からツルベでカメに汲み置く水も吉野川からの簡易水道へ、燃料も薪からプロパンガスに変わり、燃料となるシバ刈りもなくなり、里山は草木の生い茂る状態(自然の植生遷移!)になっていきました。

 そのため、たくさん生えていたマッタケも次第に姿を消していったようです。その後、吉野川からの取水による農業用水(北岸用水)の完成により、溜池や野井戸も使われなくなり、周囲に草木が生い茂り、特に野井戸は落ちて危険ということで、現在は、飲み水の井戸も含め、全てセメントの板を上に置き、フタをされています。

 その後、母屋とその他の屋敷の建物の傷みも激しく、目立つようになり、家庭の事情もあり、2002年(平成14年)8月には、これらの全ての建物を取り壊し、2003年(平成15年)1月には、二階建ての現代風の建物に生まれ変わり、トイレ(便所)も水洗式となり、水洗トイレと台所の排水を処理する合併浄化槽が備え付けられています。

(参考文献) 大島暁雄、佐藤良博、松崎憲三、宮内正勝、宮田登編(著): 図説 民族探訪事典、p.73~74、便所(厠、かわや)、山川出版社(2005); 樋口清之: 梅干と日本刀、日本人の知恵と独創の歴史、p.92~94、古代人の便所は水洗式であった、祥伝社黄金文庫(2005); 上田正昭、井上満郎: 平安京の風景、文英堂(2006).

(参考資料) 世界のトイレの歴史(google画像): http://www.google.co.jp/images?um=1&hl=ja&rlz=1T4GGIH_jaJP278JP279&tbs=isch%3A1&sa=1&q=%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E3%83%88%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&aq=f&aqi=&aql=&oq=&gs_rfai=.

(追加説明) ○ 私の故郷の屋敷の周辺は、樹木、竹薮、果樹などで囲まれていました。草葺屋根(麦ワラ屋根)の母屋の北側(裏)は竹薮(真竹)、大きなエノキ(榎木)、ムクノキ(椋の木)、ツバキ(椿)、ウメ(梅)、小ビワ、ユスランベ、東側は大きなカシノキ(樫の木)、ムクノキ(椋の木)、サクラ(桜、ソメイヨシノ)、生垣のラカンマキ(羅漢槙)、東南に大きなヤマモモ(山桃の木、老木となり台風で倒壊)、東南には、大きな渋柿の木(上部が台風で折れる)、一方、母屋の南側(表)は大きな夏ミカン、大きなタナカビワ(老木となり台風で倒壊)、スダチ、キンカン、インドヤシ、南西側に大きなクスノキ(楠木)、ウメバガシ(外トイレの背後)、西側にはモモ(桃)と柿(甘ガキ、フユウ)畑、その下はクサイチゴ、小ビワ、サクランボ(桜桃)、生垣のラカンマキ(羅漢槙)、西北に大きなクリ(栗)の木があり、自然豊かな姿でした。 

 これらの樹木も、母屋を新築した時、ほとんど伐採したので、現在、昔の面影が少し残っている程度で、家の周辺は見違えるほど明るく、見通しも良くなっています。また、屋敷の周辺の畑の畦(あぜ)には、茶の木が植えてありましたが、現在もその名残の姿を見ることができます。

 家は草葺屋根(麦ワラ屋根、のち赤色トタンを被せる)で、家の周囲を囲む屋敷林は、おもに夏の台風(東南風)、冬の風(北西風)から家を守る防風林と思われます。

« 山下 清(放浪の画家)にまつわる歴史実話、阿波(德島)の土柱の絵、土柱の散文(兵隊の位にして、鳴門は「左官」で、土柱は「尉官」というところだろうな)、とは(2010.9.16) | トップページ | 秋(2010年9月20日)、犀川の遊歩道沿いを散策したときに見られたヒガンバナ(彼岸花)とキクイモ(菊芋)の花咲く風景 »

● 民俗(衣食住、信仰、語源、遺跡、芸能)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 山下 清(放浪の画家)にまつわる歴史実話、阿波(德島)の土柱の絵、土柱の散文(兵隊の位にして、鳴門は「左官」で、土柱は「尉官」というところだろうな)、とは(2010.9.16) | トップページ | 秋(2010年9月20日)、犀川の遊歩道沿いを散策したときに見られたヒガンバナ(彼岸花)とキクイモ(菊芋)の花咲く風景 »

2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  

カテゴリー

フォト

アクセス解析

無料ブログはココログ