« 室生犀星(金沢出身の詩人、作家)にまつわる歴史実話、犀川神社(御影大橋の近く)、雨宝院(犀川大橋の近く、幼少期を過ごした真言宗の古刹)、性に目覚める頃(自叙伝風の私小説)、とは(2010.9.23) | トップページ | 昭和の碁聖(呉清源)にまつわる歴史実話、十番碁(打ち込み手合い)では敵なし、囲碁とは調和(易経、陰陽のバランス)、とは(2010.9.28) »

2010年9月27日 (月)

碁の奇骨(野沢竹朝)にまつわる歴史実話、評の評(本因坊秀哉名人の講評を批判)、本因坊家による破門、とは(2010.9.27)

   野沢竹朝(のざわちくちょう、1881~1931)ほど、「碁」に全てを投げ打った人間は少ないという。奇行に富んでいたが、それは全て碁を中心としたものでした。1915年(大正4年)、「奇美談碁」(尚栄堂)の著者、吉田俊男が語る野沢の言行によれば、「オレは新聞や雑誌に、唯の一つもよく書かれたことがない。しかし、そんなことを構って居ちゃ、碁は上らんテ」「俊男君、古来名人とも謂はれた人は、どこか普通の碁客とは違って居ってナ」など、芸への執心と自負とが会話によく出ています。

Nozawachikucho1_2

野沢竹朝(のざわちくちょう、1918年(大正7年)10月10日、38才、囲碁評論、「評の評」において、本因坊(第21世)秀哉や中川亀三郎(方円社長)の評に是々非々を加えました、 google画像) 野沢竹朝http://www.igodb.jp/cgi-bin/namej/data/ko00559.htm

(解説) 野沢竹朝(のざわちくちょう)は、1881年(明治14年)、松江(雲州、島根)生まれ、野沢良一の次男、6才の時、はじめて碁を覚え、10才の頃、近郷では囲碁の神童として名が知られ、ほとんど独学とはいえ、1896年(明治29年)、16才、父と名古屋に移った時は、高崎泰策(1839~1907)六段に三子の力を持っていました。その後、1903年(明治36年)、23才、本因坊(第19世)秀栄(1852~1907)に入門した時、直ちに二段を許されました。同年冬には三段、1908年(明治41年)、28才には四段に推挙されした。

 その間、新報新聞碁において、三段のころ五人抜きを連続二度やり、四段に推挙されてからも、さらに五人抜きを数回行っています。そして、坊門の主なところをなで切りにし、「常勝将軍」と呼ばれました。試みに、十人抜きの相手を挙げると、小林健太郎三段、高部道平四段、雁金準一五段、都谷森逸郎三段、関源吉五段、田村保寿(のち本因坊(第21世)秀哉)七段、本因坊(第16世、20世)秀元四段、高部道平四段、井上孝平三段などで、手合割とはいえ、「常勝将軍」の呼名があったのも故なしとしないものです。1915年(大正4年)、35才には五段に進みました 。(野沢竹朝(ウイキペディア): https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%B2%A2%E7%AB%B9%E6%9C%9D.)

 1918年(大正7年)10月、38才、雑誌「囲碁評論」(高橋善之助編集)を創刊し、誌上に「評の評」と題して当時の諸新聞に掲載された碁戦の中から1、2局を採択して掲げ、師家の本因坊(第21世)秀哉名人(1874~1940)、並に中川亀三郎(1837~1903)方円社長の講評について、批判を下すという企画は、権威主義の風潮に逆らった破天荒の試みでした。大いに人気を呼びましたが、坊門並に方円社より、激烈な非難を浴び、同年12月16日付を以て本因坊家より破門の処分を受けました。

 ところで、「評の評」の表現は手厳しく、2,3抄を抜き出してみると、九段本因坊秀哉評(小岸・小野田戦)には、「去るにても一局裡に於いて二回迄死活の誤評を為したる原評者の失態は斯界の為めに深く之を遺憾とするものなり」、方円社社長中川亀三郎評(雁金・喜多戦)には、「本譜は難局の事とて大いに原評者の精評を期せしに意外の略評に止まり居りし而巴ならず。黒の敗は、九三、九七、九九の三着に在りしなるを、十数着以前の黒八七を敗手なりと断じ去りたる講評振りには、遉の評者も些か喫驚せしめられたり」

 野沢は孤立の立場となった後も、盛んに独自の見解を誌上に展開しました。その後、1923年(大正12年)1月、43才、古島一雄(1865~1952)代議士、喜多文子(1875~1950)五段の斡旋で、中央棋院設立を機に本因坊秀哉と和解しました。そして、同年9月、関東大震災に逢い、「囲碁評論」は休止となりました。また、肺患が進み、健康を損ねたこともあって、神戸に移り住みました。1924年(大正13年)4月の碁界合同会議には出席しましたが、日本棋院の創立には参加せず、数年後、棋正社に迎えられました。棋正社は、直ちに六段を贈り、さらに七段に進めました。

 1927年(昭和2年)、47才、日本棋院と棋正社の対抗戦に棋正社側の棋士として参加し、鈴木為次郎(1883~1960)七段と十番後を争うことになりました。(野沢竹朝棋譜(たけのこ囲碁協会): http://www.kihuu.net/index.php?type=2&key=%E9%87%8E%E6%B2%A2%E7%AB%B9%E6%9C%9D.)

 第一局の観戦記を受け持った村松梢風の筆によれば、野沢と鈴木の性格は正反対であったという。野沢については、「此の人の態度には何となく人を馬鹿にしてゐる処がある。が、傲慢と云ふには大変愛嬌があり過ぎる。時々洒落た冗談を云ふが、とにかく相手を頭から呑んで掛かっている」とあり、一方の鈴木は、「丁度其の正反対、何処迄も質実、寡黙、謹厳、真面目一方だ。沈思黙考久しうして容易に石を下さない」とのことです。

 鈴木は、四段の時に先二にまで打ち込まれていました。この頃、野沢の肺患はいよいよ進み、それを嫌って別室対局(部屋を別々にしてそれぞれ碁盤に対し、間のふすまを三尺ほど開けて遠く向かい合い、着手を記録係が伝達するという、古今未曾有の対局)が行われました。途中、野沢の病状進行もあり、再三の延長によって、第九局まで三年以上の年月を要しています。結果は、野沢に昔日の冴えなく、1930年(昭和5年)、50才の第九局には、カド番となり、肺病に倒れ、翌1931年(昭和6年)1月に亡くなりました。享年51才。

(参考文献) 林 裕: 囲碁百科事典、綜合囲碁講座 別巻、金圓社(1965); 藤沢朋斉: 古今名局の鑑賞、綜合囲碁講座 第十巻、p.260、奇骨竹朝、金園社(1968); 瀬越憲作: 囲碁百年1 先番必勝を求めて、p.196~197,反骨竹朝、平凡社(1968); 木谷実: 囲碁百年2 新布石興る、p.40~42、鈴木・野沢十番後、平凡社(1968)安藤如意著(渡邊英夫改補): 坐隠談叢、新樹社(1983).

« 室生犀星(金沢出身の詩人、作家)にまつわる歴史実話、犀川神社(御影大橋の近く)、雨宝院(犀川大橋の近く、幼少期を過ごした真言宗の古刹)、性に目覚める頃(自叙伝風の私小説)、とは(2010.9.23) | トップページ | 昭和の碁聖(呉清源)にまつわる歴史実話、十番碁(打ち込み手合い)では敵なし、囲碁とは調和(易経、陰陽のバランス)、とは(2010.9.28) »

● 囲碁(起源、棋話、歴史対局、儀式、遊び、近代碁、世界棋戦)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 室生犀星(金沢出身の詩人、作家)にまつわる歴史実話、犀川神社(御影大橋の近く)、雨宝院(犀川大橋の近く、幼少期を過ごした真言宗の古刹)、性に目覚める頃(自叙伝風の私小説)、とは(2010.9.23) | トップページ | 昭和の碁聖(呉清源)にまつわる歴史実話、十番碁(打ち込み手合い)では敵なし、囲碁とは調和(易経、陰陽のバランス)、とは(2010.9.28) »

フォト

アクセス解析

2019年12月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

カテゴリー

無料ブログはココログ